二月初一。快晴。正午、松莚子に電話にて昼餉を倶にすべしと言越されしが、腹痛甚しく下痢を催し徃くこと能はず。終日湯湯婆を抱いて臥す。夜に至り稍快方に向い稀粥一二椀をすゝる。初更お冨来りて看病す。

二月初二。快晴。木曜会塔之沢宴会の寄せがき端書来る。湖山渚山の二氏は赴かざりし由なり。小波先生の句に、酔ざめの猪牙に重ねるどてら哉。

二月初三。

二月初四。快晴。日暮風暖にして手袋なきも指冷かならず。虎の門晩翠軒にて陶印二三を購ふ。

二月初五。立春。朝十時頃松莚子を訪ふ。昨日竹田屋より紀の定丸が筆録を獲られし由聞きたれば、之を見むとて赴きしなり。浅利鶴男?来合せたり。頭髪を永くし女用の簪さしにて額の気をとめ居れり。是築地小劇場あたりへ出入する青年の流行なりと云ふ。人をして抱腹絶倒せしむ。

二月初六。今日も雨ふらず。庭の土乾燥して瓦の如くになれり。終日紀定丸が筆録を写す。夜お冨と銀座を散歩す。

二月初七。春陽堂より下谷叢話の校正摺を贈り来れり。

二月初八。午後暖なれば銀座の理髪店に徃く。

二月初九。お冨と銀座に飰す。

二月十日春雨瀟瀟たり。昨月微雨ありしのみにて晴天殆三旬の余におよぶ。今日の春雨は宛ら甘露のふりし思ひをなさしめたり。午後三一氏来訪。井伊河合一座?のため村上浪六が人間味とやらいへる新聞小説を脚本に仕組まれし由なり。名古屋の人安藤次郎氏、也有暁台士朗追善紀念絵葉書を郵送さる。

二月十一日。風寒し。木曜会なれど徃かず。燈下下谷叢話の校正を畢る。

二月十二日。七草会歌舞伎?座観劇に招待せらる。観覧席にて偶然櫓下の美妓おすみに逢ふ。此日宗十郎連中見物の由なり。日暮清潭子を誘ひ築地金龍亭に飲む。妓稲代、鈴乃、豊子、山勇等を招く。稲代は田口桜村の愛妓なりしが去頃より大島伯鶴ともわけある由なり。豊子は浮世絵板刻師高見沢某の妻なりしが、去年の暮より新橋の妓となりしなり。初更三一子亦来りて飲む。夜半自働車を倶にして帰る。春寒料峭。

二月十三日。銀座通り恵須喜茂といふ洋風飲食店にてお冨と夕餉を食す。震災前新橋堂書店?の在りし処なり。書店の主人野村氏は三階に居住し、階下の店を飲食店に賃貸をなせるなり。雑誌新刊書類を並べ置くよりも遥に収益ありと云ふ。

二月十四日。晩間春雨霏々たり。鳥居阪警察署の刑事中村某色紙を持来たりて揮毫を請ふ。

二月十五日。午後より風烈しく吹出でしが寒さきびしからず。関君予が全集校正のことに付き来談。夜紀ノ定丸が自筆稾本を写し畢る。

二月十六日。楽天居楼上にて、主人所蔵の奇玩中不用のものを競売に附する由聞きしが、風寒ければ徃かず。

二月十七日。曇りて風寒し。

二月十八日。夜微雨。須臾にして歇む。高橋君令閨虎屋の羊羹を贈らる。

二月十九日。午後巌谷三一君電話にて黒田湖山病死の由を報ず。去十五日より急性腎臓炎にて枕に伏し、十八日夕刻七時五十分身まかりしと云ふ。享年四十九歳なり。木曜会の旧友も春浪春汀南岳啞々と追々に世を去り行くは心細きかぎりなり。

二月二十日。曇りて風寒し。午前下谷叢話?印刷校正摺を撿閲す。昼餉を食して後自働車を倩ひ、代々木村山谷二百九十五番地なる黒田君の家に徃く。車より降りむとする時金子紫草の来るに会ひ導かれて行く。幸にして迷はざることを得たり。予亾友啞々子と共に湖山の新居を訪ひたりしは明治四十二三年の頃なるべし。近巷のさまは今は全く異りて旧観を存する処なし。湖山は生田葵山西村渚山の二子と共に巌谷漣山人の三俊才として一時は文壇に知られたる人なり。明治卅三四年のころ予屢湖山春浪啞々等と相携へて吉原洲崎あたりへ出かけたり。湖山は徹夜にて原稾をつくるには青楼に登るがよしとて、必原稿用帋と万年筆とを携帯して遊びに行きたり。その頃万年筆を使用する文士は猶稀なりき。されば湖山子はこの点における先進者なり。子は常人とは一風変りたる人にて何事をなすにも必時間表をつくりて之を実行せり。青楼に遊ぶ日も一箇月に幾回と規定を設けゐたり。結婚して後も家庭耽楽日といふを設けゐたりと云ふ。但し是は予の親しく見しことにはあらず。日々何事をなすにも時計を出し散歩入浴の如きも時計を見て後これをなす。木曜会俳席に坐する折も時計ばかり木にして帰りを急ぐ人なりしが、本月十一日の俳席には風甚寒き夜なりしかど、不思議にも時計を見ず、十一時頃まで苦吟しゐたりしと云ふ。是より後数日にして病を発し再び起つこと能はざりしなり。木曜会の旧友等が語る所によれば、湖山子が珍らしく時計を見ず俳席に夜をふかしたるは、不可思議なる告別なりしと。是或は然らむ。家には嫡子直竹を始め男女数人あり。考莞爾翁明治三十二年頃湖山子が三番町二七不動祠畔の家にて脚気を病み、入浴後卒倒せしなり。母氏は猶健在なり。

二月廿一日。風なく暖なり。湖山君葬式午後二時小石川原町一行院にて執行。予も赴くべき筈なりしが、巌谷三一君電話にて昨夜通夜せしため、今日は眠を催して堪難ければ、葬式には赴かず、後刻訪問すべしとの事に、予も久振り入浴などして待つほどに三一子来れり。来月松莚子新橋演舞場興行の狂言正宗白鳥の作なりと云ふ。日暮江戸見阪下お冨の家に立寄り、数寄屋橋に近き佗蕃(タバン)とよぶ洋食店三一子ひゐきなる由にて、晩餐をなす。料理は附近のライオン又は清新軒などより優りたり。銀座を歩み築地に出で、予が徃年旧居のほとりなる狐という菓子屋の喫茶室に入りて憩ふ。小山内薫田嶋淳の二氏築地小劇場より来りて笑語する事一時間ばかり。車を倩ひお冨と共に家に帰る。

二月廿二日。午頃より雨。鄰家の紅梅満開なり。

二月廿三日。午後森田草平氏来り訪はる。予始めて森田氏と相見たりしは明治四十三四年の頃にて、其後会はざること殆二十年なり。髪も髭も半は白く肥満したる老紳士になられたり。用向は去年国民文庫刊行会依嘱の翻訳小説の事につきてなり。晡時春陽堂店員島氏来りしかば、荷風文稾と名づけたる旧稾の出版を托す。

二月廿四日。近巷の仕立屋をよび銘仙袷二枚〔いづれも寝衣也〕を縫はしむ。

二月廿五日。快晴。春日漸く暖なり。晡下松莚子邸招飲。来るもの鬼太郎大伍清潭の三氏及余なり。

二月廿六日。西村渚山先月来大病にて、某処の病院に入り、この程全癒退院したりとて葉書を以て句を寄せらる。句に曰く、起き上る命に吹くや街の東風。午後巌谷?両君来訪。晡時相携へて采女橋新橋演芸場に赴く。此日岡君新作狂言鼠小僧の稽古あるを以てなり。

二月廿七日。午後演舞場に赴き、お富の家に立寄り夕餉を食して帰る。曇りて夜雨ふる。

二月廿八日。演舞場舞台稽古なり。大伍三一の両子と築地三丁目角に開店したる喫茶店に立寄り款語す。この喫茶店はもと芝居茶屋三州屋主人の営めるものゝ由なり。帰宅の後広告代用の劇評を草す。松莚子この度演舞場の興行、木挽町へ大阪役者雁次郎?一座乗込につき、景気いかゞならむと細君を始め皆々心配の様子なり。予微力なれど雁次郎等大阪役者毛虫よりも大嫌ひなるを以て、(いささか)声援をなさむとて広告用の劇評をつくり、巌谷君に托して新聞に掲載せしむることゝはなせるなり。


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Last-modified: 2015-02-19 (木) 05:37:46 (766d)