大正十五年歳丙寅

荷風年四十八


正月元日。かつて大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつづけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、あたかも小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱かず。帰国の跡半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまま、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今これを合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保邸売却の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるるなり。昼餔の跡、雲南阪下より自働車を買ひ雑司ヶ谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の臘梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりといふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出て、家に帰る。日いまだ没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。軒の燈火の薄暗かりしわれら幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、これにても思知らるるなり。

正月初二。先考忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花缾に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ね来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとして両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。数日前より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、「障子細目に引きあけて」と云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立つて塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ。かくて夜もふけ初めし頃、頻に戸口を敲く者あり。八重次の家は山城河岸中央新聞社の裏に在り、下女一人のみにて抱はなかりしかば、八重次長襦袢にて半纏引掛け下女より先に起出で、どなたと恐る恐る問ふ。森田なりと答る声、平家建の借家なれば、わが枕元まで能く聞えたり。是文士森田草平なり。草平子の細君は八重次と同じく藤間勘翁の門弟なりし故、草平子早くより八重次と相識りしなり。此の夜草平子酔ひて電車に乗りおくれ、電車帰宅すること能はざれば、是非ともとめて貰ひたしと言ひたる由なり。後日に至り当夜の仔細を聞きしに、予の正妻を迎へしころより草平子折々事に托して八重次の家に訪来りしと云ふ。 かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、「昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛(ゆくえ)を問合せ来るにより、内々にて鳥渡お知らせ申す」との事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。 鷲津氏を継ぎたる弟貞二郎は常州水戸の勤先より、此夜大久保の家に来りぬ。末弟威三郎は独逸留学中なりき。こゝに曾て先考の学僕なりし小川新太朗とて、其時は海軍機関少監となりゐたりし人、横須賀軍港より上京し、予が外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激したりし由なり。尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。葬式の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり。今は何処に居住せるにや。先考易簀の後予とは全く音信なし。扨先考は昏睡より寤めざること三昼夜、正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。 来春閣に殯すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。尤母上は久しき以前より耶蘇教に帰依し、予が弟鷲津氏は早くより宣教師となり、神学に造詣あり。先考の墓誌は永阪石埭翁撰したまへり。葬儀万端は郵舩会社の重役春田源之亟氏斡旋せられき。郵舩会社より葬式料金参千円。遺族に壱万円を贈り来りしも皆春田氏の尽力によれるなり。尾州家よりは金五千円下されしやに記憶すれど確ならず。当時の事思返せば、猶記すべきもの多けれど、徒に紙を費すのみなればやむ。 此日朝より風ありしが晴れて暖なり。午後生田葵山巌谷三一両君来訪。談笑中文士細田氏来りて面談を求められしが、未知の操觚者には成るべく面談を避くるが故病と称して会はず。晡下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。

正月初三。快晴。終日吹きつづきし西北の風日没に至りて息み、寒気厳しくなりぬ。されど本年寅歳の正月三箇日は旧臘よりつづきたる好天気にて、まづは穏なる好き新春なりしといふべし。燈火伊藤仁斎の『古学先生詩集』を(ひら)く。四鄰今宵は寂然として蓄音機ラヂオ等の響も聞えず、崖の竹林には風の音絶えて、初更の静けさ蚤くも深夜の如くなるに、忽然門外に怪しき声す。聞馴れぬ人は山羊の鳴く声かと思ふべし。是向側なる某氏の家の小児にして、齢十歳ばかり、白痴にて唖者なるが、寒さをも知らぬとおぼしく、毎夜門巷を徘徊するなり。昼の中は近鄰の児童この唖児を嘲り、石など投るもあり。二三年前までは母親ともおぼしき老女、附添ひて、稀に門外に出るのみなりしが、この頃は看護るものもなく、昼夜晴雨を分たず彷徨するなり。今宵の如き寒夜または霖雨しとしととわびしく降る夜など、唖児の何を叫ぶとも知れぬ声一際気味わろく物哀に聞ゆ。親なる人の心いかゞと思遣れば又更に哀なり。

正月四日。国民文庫刊行会より金五百円を贈来る。是は同会予約募集出版書籍の中、椿姫タイス二書の翻訳につき予の名義を貸したる報酬なり。予去年の正月頃刊行会より右二書の翻訳を依頼されし時、不敬なればとて固辞*せしに、実は右の翻訳は弊店にて下請負の文士某に命じ、既に草稾も出来上り居れば、一応御校閲の上尊名を借用致度次第なりと云ふ。羊頭を懸けて狗肉を売るは当世の出版商人の為す所なれば、開き直つて兎や角云ふも野暮の至なりと思ひ、良心には咎めながら其依頼に応じたりなりし。数日の後刊行会より下請負の草稾を贈り来りしを以つて、是を一読するに、東北辺の田舎言葉にて書きたる訳文にて、対話の如きは男女の区別もなく、殆手のつけやうなき悪文なり。然れどもつらつら*思ふに、当今の翻訳小説を講読するものは田舎出の青年男女なれば、田舎言葉にて翻訳せしもの卻て雅訓の文章よりもわかりよく、従つて売行も亦よかるべし。亦西洋の小説を邦文にて読むが如き人は、到底大成の望なき者なり。猶又良書は後世に伝はるものなれど悪著は一時にて自ら湮滅するものなれば、刊行会の翻訳の如き、さして心にかくるにも及ばざるべきなど、さまざま*に強いて自ら辯解して金子を受納したり。此日快晴。

正月初五。正午の頃、春陽堂主人和田子店員同伴にて来訪す。拙著全集の紙型震災にて焼亡せしにつき、重印したき趣なり。依て旧版巻之四及巻之三の二冊を渡す。巻之五は去年既に再刻しをはりしなり。予が著書今日なほ人のこれを講読するが如く思はるるは、誠に意想外の幸福なり。春陽堂大正六、七年の頃始めて予が全集刊行のことを問合せ来りし時にも、予は心窃に予が一時の戯著、長く世人に読まるるの価値あるや否やを疑ひたり。その折獲たりし印税金額明に記憶せざれど、合算せば参、四千円を下らざるべし。今また重印を終る時は更に同額の金を得るわけなり。遊戯の文字より生ずる収益かくの如く僅少ならざるは、けだし世を挙げて浮華淫卑に走りし証拠なり。誠に今の世は芝居、活動写真、小説等、全盛を極る時代なり。これ兦国の兆に非ざるして何ぞや。この日快晴。夜風ありしが寒気甚しからず。

正月六日。終日来客なかりしかば心静に旧稾を添削し得たるのみならず、新しき草稾にも少しく筆をつくることを得たり。晡時仮睡の後、虎の門の女を訪ふ。この日好く晴れて風なし。

正月七日。朝夕は歓喜凛冽なれど、昼の中は思ひの外に暖なり。午後銀座を歩み、土橋南際に震災後開店せし朝鮮物産販売店にて、虎斑苔紙の巻紙を購ふ。或人和製唐紙に比して遥に書きよき由語りしを以てなり。

正月八日。正午谷病院を訪ひ、飯倉電車通骨董店を見歩き帰宅す。不在中玩古堂宝永享保の武鑑参部を持参せり。晡時新橋の妓鈴乃電話にて予が家の近鄰まで用事あればお尋してもよろしきやと言ふ。予鈴乃とは先年南鍋町の茶屋弥生の世話にて、すこしわけも有りし間柄なれば、予が家にて相見ることは避くるに若かじと思ひ、風なりとて辞*しぬ。此妓年は三十一二なるべし。されど至つて小づくりにて、羽織の折々肩よりすべり落ちるほどの撫肩なれば、今だに二十四五に見ゆるもをかし。大正十一年の正月も猶松の内なるべし。弥生の表座敷にて、唖々子と浅酌せし時、初めて鈴乃に逢ひしなり。その夜藤間静枝、画伯結城素明に招がれ、同じく弥生に来合せ、唖々子と盃を交すは十年ぶりなりとてわが座敷に来りしが、酔を催すにつれて何か気にさはりしことの有りと見えて、唖々子には挨拶もせず、知らぬ間に帰り去りぬ。静枝の重病に陥りしはそれより一箇月程過ぎし頃なり。静枝とはその頃世間の人目を忍びて折々逢ひ居たりしが、病後鎌倉に典拠してより再び相見る折なく今日に至れるなり。翌年癸亥の正月亡*友唖々子と弥生に登りて飲みし時、再び鈴乃を招ぎしが、其夜弥生の内儀もともとも自働車にて唖々子を本郷の家に送り、引返して新橋に戻りし時は夜も深更におよび、寒さ堪えがたりしかば、日頃はあまり用いざる米国のウイスキイを飲過し、鈴乃に介抱せられて弥生の裏二階に一宿したり。鈴乃それより予をたよりになし、素人になりたき趣逢ふごとに相談しかくる故、予も一時はいかヾはせむかと思案せしかど、閑花は野にて見るべく、手折るべからずとの戒もあればそれとなく遠ざかるに若かじと、その年三月の末京都に出遊したりき。旅行を好まざる予の重て京洛に遊び、偶然祇園の垂糸桜の満開したるを見たりしは、かゝる訳ありしが故なり。その後は銀座通りの散歩の折、又は芝居にて偶然邂逅するのみにて、茶屋に招ぐことは殆どなし。其年震災の際、鈴乃は中野村に非難せしと聞きしが、わが方よりは見舞の手紙だに送りしこともなかりき。然るを彼方よりは今以て折々電話にて予が病を問ひ来るなり。予心動かざるにあらねど、茶屋酒の価今は旧の如く廉ならず。予が嚢中も亦売文の銭漸く乏しき折から、新橋の妓を後堂?に蓄へむとするが如きは我分に非ざるを以て、成るべく避けて逢はざるなり。是戯言にあらず。新橋の酒亭に登れば、一夕の酒価近時は少くとも三四円を下らざるなり。新橋の知は元来世に時めく者の豪遊する処なれば、十年前思ひのまゝに売文の銭を獲たり時と雖、こゝに遊ぶは、世の好まざりし所。況や近時は文士山本菊池里見の徒の豪興を恣にするを聞くに於てをや。紅袖娯夜非我分。青燈長伴苦吟身。とは大沼枕山が語にして、また蓄妓後堂非我分。付侘隣女譜春声。とは毅堂先生の語なり。一昨夜拙稾下谷叢話?を点刪したれば之を記憶せるなり。情事も五十に近くになりては、歌にも詩にも入り難し。人知れずなすことなれば、唯一口吻に頬を焼かぬ用心をなして、価の廉なるを取るが、まづまづ*老後の計なるべし。

正月九日。昨夜いつの程にか降りたる雪、屋根の上に凍りたり。空は晴れたれど、強風終日窗外の竹林を騒がし、寒気甚し。近日春陽堂に渡すべき旧稾の編成にまた一日を費したり。

正月十日。午前玩古堂主人来訪。松莚頃者平秩東作蝦夷紀行を獲たる由。此日風ありしが寒気甚しからず、晩餐の後物買ひにと銀座に赴きし帰途虎の門を過ぐるに、金比羅社新春初めての賽日にあたり賑なり。春著をきたる藝者繭玉を購ひ赴くさまさすがに正月らしき心地なり。

大正十五年正月十二日。 曇りて風なく薄き日影折々窗に映ず。やがて雪にやならむかと思はるゝ空模様なり。晡時桜川町の女訪ひ来りし故、喜び迎へて笑語する中、食時になりしかば、倶に山形ホテルに赴き晩餐をなし、再び書斎に伴来りて打語らふほどに、長き冬の夜は早くにも二更を過ぎたり。明日はわが方より訪ひ行きて夕餉を倶にすべしと約して別れぬ。この女の事はいかに放蕩無頼なるわが身にもさすがに省みて心耻かしきわけ多ければ、今までは筆にすることを躊躇ひしなり。されど相逢ふこと殆毎夜に及び、情緒纏綿として俄に離れがたき形勢となりたれば、包まず事の次第を記して、後日の一噱に資す。 女の名はお富といふ。父は年既に七十を越えたり。一時下ノ関に工場を所有し、頗豪奢を極めたりし由。今や零落し芝桜川町の路地に僦居し、老妻に賄をさせて二階貸をなせるなり。娘お富は未の年にて今年三十二なれど二十七、八に見ゆ。十八の時或人に嫁し、子まで設けしが不縁となり、其後次第に身を持崩し、果ては自ら好んで私娼となり、築地辺の待合などへ出入する中、大地震の際憲政会の壮士福田某に欺かれ、一年ばかり同棲しゐたりしが、去年の二月頃辛じて其家を逃れ出で、父の許に帰りてゐたりしかど、衣服化籹の費に乏しきまゝ、一時身をおとせし濁江(にごりえ)の淵瀬はよく知るものから、再び私娼の周旋宿あちこちと渡り歩く中、行くりなく予と相知るに至りしなり。この女父が豪奢を極めし頃不自由なく生立ちし故、様子気質ともどもに浅間しき濁江の女とは見えざるも、あながちわが慾目にはあらざるべし。痩立の背はすらりとして柳の如く、目はぱつちりとして鈴張りしやうなり。鼻筋見事に通りし色白の細面、何となく凄艷なるさま、予が若かりし頃巴里の巷にて折々見たりし女に似たり。 先年新富町にて見たりし妓お澄に似て一段品好くしたる面立なり。予の今日まで狎れ(した)しみし女の中にては、お澄とこのお冨の面ざしほど気に入りたるはなきぞかし。八重次は美人なりとの噂もありしかど、越後の女なれば江戸風の意気なるところに乏しく、白鳩銀子は今様の豊艶なる美人なりしかど、肩いかりて姿は肥大に過ぎたるを憾となせり。一昨年震災後、家に召使ひしお栄といふも人々美形なりといひしが、表情に乏しく人形を見るが如き心地したり。然るにお冨は年既に三十を越え、久しく淪落の淵に沈みて、其容色将に衰へむとす風情、不健全なる頽唐の詩趣をよろこぶ予が目には、ダーム・オー・カメリヤもかくやと思はるゝなり。 去年十二月のはじめに初めて逢ひしその日より情交忽膠の如く、こなたより訪はぬ日は必かなたより訪ひ来りて、これと語り合ふべき話もなきに、唯長き冬の夜のふけやすきを恨むさま、(さなが)ら二十前後の恋仲にも似たりと思へば、さすがに心耻しく顔のあからむ心地するなり。人間いくつになりても色慾は断ちがたきものなりと、つくづくわれながら呆れ果てたり。*

正月十三日。晴れて暖なり。晡時お富の家に赴き夕餉すませて後倶に銀座を歩む。此夜商舗多くは休業の札を下げて店を閉し、散歩の人影亦稀なり。

正月十四日。午後巌谷君来り訪はる。薄暮お富夕餉の肴にとて銀座食堂の折詰を携へて来る。寒気甚しければお富予が書斎に一宿せり。

正月十五日。過日春陽堂に以来し置きたる写字生訪ひ来りしを以て、印刷所の贈るべき下谷叢話草稾の副本一部をつくらしむ。写字生の手間代、一時間弐拾五銭、一日八時間分にて金弐円との事なり。是を大工植木屋など職人の手間代一日金参円五拾銭なるに比較すれば、何となく気の毒なる心地せらる。此日曇りしかど風なくて暖なり。お富と昼餉を食して後その家に至り、夜に入りて帰宅す。大阪より絵絹短冊など贈り来りしものありしかど、今宵は睡を催すこと(しき)りなればな何事も打捨て(はや)臥牀(がしょう)に横はりぬ。

正月十六日。終日旧稾葷斎漫筆を校訂す。晡時微雨ふり来りし故、来れなば雪となるべしと思ひしに、雨は歇み風なき夜は思ひの外に暖なり。お富の家桜川町より江戸見阪?下明船町に移転せし由。初更の頃行きて訪ふ。

正月十七日。

正月十八日。

正月十九日。昨夜よりお富来り宿す。今日は午後に至らば帰るべしとて、昼餉もそこそこ*に帰りの支度する程に、曇りし空一際暗くなりて、風吹き出で雨降り出しければ、天鵞絨のコート再びぬぎて、其のまゝ此夜も亦わが家に宿しぬ。予女に向ひ生涯心配なきやうにすべければ、此のまゝ永くわが家にとヾまる心はなきやと試に問ひてみたりしに、世話女房になりて水仕事するは女のつとめなれば更に厭ふところにはあらねど、一ツ家き起伏すればいかほど睦しき仲にても、一ト月とはたゝぬ中男の鼻につきて末は邪見にせらるゝものなれば、矢張今の如く別の家にすまひ、互に顔を見る時甘きこと言ふて下さるが何よりも嬉しきかぎりなりといふ。予先日つらつら*この女の性質を窺ふに、衣食住の贅沢を欲する心更になく、芝居はむかしの狂言は見てもわからぬ故、さそはれても行きたくなしと言ひ、又新聞や雑誌などが画を見るばかりにて読みしことなき由。婦人公論と云ふ雑誌の名も知らず、演藝画報と云ふものゝ世にあるや否やも知らざるなり。是虚栄心と知識慾とに駆らるゝ当世の婦人とは全く別種の女なり。されど好きな男に絶えず愛せらむことを(こひねが)ひ、折々はわざと心にもなき我儘なる事など言ひかけて、痴話口説に夜を明すことを無上のたのしみとなす所。まさに仏蘭西恋愛劇のポルト、リツシユが戯曲中の女とも言ふべく、江戸時代の女には見る可からざる性情なるべし。そは兎に角、世はお富が当世流行の出版物を手にせず、又興行物に対して其善悪に係らず全く無頓着なる所、何よりも嬉しき次第なれば、其請ふがまゝに月々世話することにしたり。

正月二十日。風歇み晴れて暖なり。午後お冨を送りて其家に至り、門口にて別れ、氷川神社のあたりより三河台の辺を歩みて帰る。今井谷の人家の庭に梅花既に満開したるを見たり。花屋の門口を過ぎ薔薇二三を購ふ。一朶の価三十銭なり。

正月二十一日。終日執筆。薄暮お冨の家にいたり夕餉を食し、八時頃倶に家に帰り来り(はや)く臥床に入る。寒月昼の如し。

大正十五年正月廿二日。正午お冨の帰るを送り、虎の門より三菱銀行に赴き、二時頃独り家に帰る。書斎睡房を掃除して後沐浴すれば、日は忽暮れかゝりぬ。老媼の運来る夕餉を食し、燈下また旧稿を刪訂す。この日寒気凛冽。水道午頃まで凍りたり。四鄰寂として声なく、夜は沈々(しんしん)として年の如し。炉上湯のたぎる音雨の来るが如く、燈火熒然(けいぜん)平日よりも光明らかなるが如し。一昨日購来りし缾裏薔薇、花既に開き尽して、薫香書斎に満ちたり。筆を擱きて静に咖啡を()る。たまたま室の片隅に置きたる書篋の蓋を見るに、曾て戲に揮毫せし王次回が独居の七律あり。その中の語に、花影一缾香一榻(いつとう)。不妨清絶是孤眠。といへるを見て、予が今夜孤坐の情懐、亦全く斯くの如くなるを覚えたり。予数年前築地移居の頃には、折々鰥居の寂しさに堪えざることありしが、震災の頃よりは年も漸く老来りし故にや、卻て孤眠の清絶なるを喜ぶやうになりぬ。その頃家に蓄へし小星お栄に暇やりしも、孤眠の清絶を喜びしが故に外ならず。家に妻妾を蓄る時は、家内に強烈なる化粧品の臭気ただよひわたりて、缾中の花香も更に馥郁たらず。階砌には糸屑髪の毛など落ち散りて、草廬の清趣全く破却せらる。是忍ぶべからざる所なり。然りと雖も淫慾もまた全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればなり。独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみも亦容易に廃すべからず。勉学もおもしろく、放蕩も亦愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身ならずや。蜀山人が『擁書漫筆』の叙に、清人石龐天の語を引き、人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として(すべ)て是無き処。といひしもことわりなり。*

正月廿三日。今年に入りて殆雨なし。今日も空すみわたりて昼中は日の光暖なれど、旦暮寒気の凛冽、例年の比にあらず。朝八時眠より()めて庭を看れば、冬青樹八手郁子などの葉皆萎れて垂れ下りたり。窗の硝子には室内の水蒸気凝結して水晶の如し。夜初更のころお冨来りて門を敲く。出でゝ門扇を開くに、皎々たる寒月の中に立ちたる阿嬌の風姿、凄絶さながらに嫦娥の下界に来りしが如し。予恍惚殆ど自失せんとす。

正月二十四日。天気澄霽。午後巌谷生田の二子電話にて歌舞伎座観劇を促されしかど、お富来りし故辞したり。晡時銀𫝶に徃きお冨の家にて夕餉を食して帰る。不在中大伍氏来訪せしと云ふ。春陽堂より全集巻之三校正摺を郵送し来れり。

正月二十五日。お冨を携え夕餉の後銀𫝶を歩む。

正月二十六日。毎日晴天。風なく暖なり。日暮松莚子の約に赴く。川尻清潭子病荏苒として未癒えざる由。岡池田君健啖常の如し。

正月二十八日。春陽堂に詫して下谷叢話を印刷せしむ。燈火岡千刃?*の蔵名房雑著?を読む。

正月二十九日。やゝ長くなりぬ。晩照の明媚なること春既に近きを知らしむ。お富の家にて夕餉をなさむとて、黄昏門を出で江戸見阪を下る。名月地を離るゝこと二三尺。暮靄を帯びたる都市の全景眼底に輻湊す。覚えず杖をとゞめて観望す。夜暖なること春の如し。

正月三十日。曇りたれど寒気甚しからず。葷斎漫筆の叙を草す。晡時木挽町に赴き舞台稽古を見る。中幕は松莚子の出し物にて谷崎氏の旧作信西なり。聞く所によれば座元は始め山本有三の戯曲{予其の名を知らず}を松莚子に演ぜしむることを希望しゐたりしが、見るに足らざる愚作なりとて岡君をはじめ松莚子も亦其上場を欲せず、遂に谷崎君の信西を択ぶに至りしなりと云ふ。また信西の舞台指揮者は小山内薫氏に委嘱すべき筈なりしに、目下小山内君と松居翁との間円滑ならず、若しこの際小山内氏を推挙する時は松居翁益感情を害し、楽屋の者迷惑すること多かるべしとて、遂に松居翁に花を持たせたるなりと云ふ。

正月卅一日。拙著全集重印校正のことを関秀一君に依頼す。関君は巌谷三一君の学友にて、其家は信州松本の素封なりと云ふ。眉目秀麗にして清癯衣に勝えざるが如し。今の世の青年にして、言語穏雅、挙止静粛なること関君の如きは稀なり。予常に衣食足らざれば礼節を知ること能はず、礼節を知らざれば学問藝術も大成の期なしとす。関君の如きは前途嘱望の青年といふべし。晡時お富を伴ひ歌舞伎座初日を看る。二番目狂言は梅幸の斬られお富なり。拙劣見るに堪えず。梅幸は江戸松木に流行せし世話狂言の性質を理解すること能ざるものゝ如し。此日同雲黯澹。雪を虞れしが午後に至り小雨も霽れ、劇場を出でし時には月も出でたり、風寒からず、銀𫝶を歩みて帰る。


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Last-modified: 2015-01-18 (日) 01:20:11 (861d)