十二月五日 曇りて風暖なり。庭を掃きゐたりし時紙屑買入来りし故、押入の中に投込み置きし寄贈雑誌の類を売払ひぬ。予平生雑誌を手にすることを好まざれば、毎月郵送し来る『中央公論』『解放』『女性』『新小説』『文藝春秋』等、幾多の寄贈雑誌は受取るや否や、押入の中に投込むなり。予時人の為す所を見るに、新聞雑誌の閲覧には時間を空費して悔る所なきものゝ如し。されど雑誌より得る所の知識果して何ぞや。予は雑誌閲覧の時間を以て、古今を問はず学者のまとまりたる著書を熟読することゝなせり。『中央公論』の増大号の如きものを通読する時間を以てせば、『史記』『通鑑』の如き浩瀚なる史籍をよむことも亦容易なるべし。昼餉して後雨はらはらと降り来たりしが、須臾にして歇みたれば、西大久保村に母上を訪ふ。夏の頃をより消息なければ、如何と案じゐたりしが此日取次の女中御隠居様は御不在とのことに、其の恙なきを知り、安堵して再び新大久保の停車場に歩みを運びぬ。この一筋道の両側には徃年植木屋多くあり。名高き躑躅園もありしなり。今は見るかげもなき新開町となり蓄音機の音騒然たるのみ。*

大正十四年十二月六日。 快晴の空風もなく暖なりしかど、今日は日曜日なるを以て終日門を出でず。▼日曜日には電車街衢(がいく)倶に雑遝するいこと平日より甚しきのみならず、洋装の女の厚化粧したる姿など、目に見て快からぬもの多ければなり。夜ひそかに氷川町なるかのお浪といへる怪しき女を訪ふ。いつもの如くさまざまなる話の中に今宵もめづらしきことを聞きたり。さる処の後家、年は四十ばかりなるが、男の子の教育費に差閊へしより、二十ばかりになれる其長女と相談の上、一夜の春を鬻がしめむとて、日頃お浪が親しく徃来する結婚媒介所に連れ行きしに、其折来合せたる客、若き娘よりは後家と聞き手はその方が面白かるべし、諺にも四十女の泣きづめとやら行きづめとやらいふ事もあれば、是非にも今宵は母親の方を買つて見たしと無理な注文に、媒介所の婆もせむ方なく、物は相談なりとて母親を別室に招ぎ、同じく金のためにすることなれば、母親みづから客の望むがまゝになりたまへ、行末ある娘御を堕落させんよりはましなるべしと、馴れたる家業の言葉たくみに説きすゝめて、遂に納得させしかば、其夜はさり気なく娘を先に立返らせ、後家一人居残りて情を売りしに、後家はそれより男ほしさのあまり三日に上げず媒介所に来りて世話をたのむやうになりしと云ふ。仏蘭西自然派の社会劇『ママン・コンブリ?』など想起さるゝはなしなり。*

十二月十七日。快晴。午後三一氏また来訪。歌舞伎座作者部屋をあづかり居れる木村錦花氏、この程より屢三一氏を説き、ゆくゆくは必同座の立作者に推挙すべければ、当分の中作者部屋に日勤し、拍子木の打方を始めとして狂言方のなすべき事、万端一応、仕来の通り練習したまはずやと言ひたる由につき、いかゞせむと予の意見を問はれたり。予それは定めしいろいろ*の事情も伏在すべければ賛同しがたき由を陳べたり。斜陽早くも窗前の樹頭に映ずるころとなりしかば、相携へて一まづ歌舞伎座に赴く。場内殆空席なきほどの好況なり。清潭氏と風月堂に登りて晩餐をなす。街上衣香り燈影燦爛として花のごとし。別れてひとり新橋の方に歩み行きし時、偶然千疋屋の屋上より下り来れる某女に逢ふ。依然或珈琲店の女給仕人にて目下は芝桜川町に住み、人の妾となり、又折々男を引入れて春を鬻ぐ女なり。帰りの道筋同じきまゝ、誘はれて其家に立寄りしに、二階六畳ばかりの一間に西洋ベツドを置き、枕頭に紅色の電燈をつけ、石油ストーブを据えたるさま、宛然巴里の魔窟を想起せしむ。(そもそ)もかくの如き装置は何人の教へたるものにや。今は新聞牛乳等の配達夫も口笛にカルメンの進行曲など吹鳴し行くことを思へば、何事も西洋模倣の東京に、かくの如き私娼の生じたるは、蓋し怪しむには足らざることなるべし。いつぞや自働車運転手の語るをきけば、赤阪辺には閨中の戯を窺ひ見せしむる女もありとの事なれば、やがては昔両国の見世物場にありし聞く、やれ突けそれつけの戯も再興せらるゝに至るべき歟。江戸のむかしと西洋今日両処の悪風、偶然一処に集り来りしもの。是大正現今の世相といふべし。


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Last-modified: 2015-01-23 (金) 06:36:23 (821d)