二月朔。東京鳩居堂仮店にて細筆二十管ほど購ふ。

二月二日。曶爽雪紛々。薄暮に至つて歇む。

二月三日。午後南葵文庫にて詩仏の詩聖堂集を読む。

二月四日。午後松莚子が新居に招飲せらる。子は去月十五日二度目の強震ありし日山形ホテルを去り、麻布宮村井上侯爵地所内新築の貸家に引移りぬ。近鄰に大谷竹次郎も家を借りて住めり。此日招かるゝもの岡本綺堂岡鬼太郎池田大伍川尻清潭、及余の五人なり。麻布芋阪大和田のを馳走せらる。余鰻を食せざること十余年なり。この夜味殊に美味なるを覚ゆ。夜十時諸氏と共に辞して帰る。此夜節分に当る。松莚子は六日京都を過ぎ讃州高松に赴く由なり。

二月五日。天然痘流行の由。巡査屢来りて種痘を強ゆ。此夜近鄰の町医者を招ぎ種痘をなす。

二月六日。在阪の小山内君手紙にて太陽堂との関係従前通り継続すべき趣言越されたり。承知の趣返書す。午後母上来られ晡時帰らる。

二月七日。風なく暖なり。神田の書店を見歩き九段阪を登り市ヶ谷に出づ。外套重く汗出でゝ堪えがたければ八幡の岡に登りて憩ふ。境内の石垣甚しく破壊したり。殊に茶の木稲荷社殿のあたり石垣多く崩れ、鳥居も倒れしまゝなり。有名なる茶の木の生垣も今は見えず。但しこれは震災前取り去られしものなるべし。裏門より左内阪に出て電車に乗りて帰る。深夜強風吹起り家屋動揺す。

二月八日。暖気昨日にまさる。華氏七十度なり。強風終日吹き歇まず。夜新月を見る。

二月九日。暖気依然たり。薄暮軽震あり。俄に風雨となる。燈下香亭遺文を読み覚えず深更に至る。風ますます*烈し。

二月十日。終日風雨歇まず。神田村口書店兼て注文し置きたる武鑑数部を郵送し来る。

二月十一日。南葵文庫に赴きしが祭日にて戸を閉しゐたれば、電車にて牛込横寺町二十三番地長源寺に至り、館柳湾の墓を展す。寺の媼の談に柳湾一家の墓、及森東郭、岡部平仲の墓は先年東京市役所より保存の命令ありしと。今は皆無縁なり。此日歩めば汗出る程の暖気なり。雨後道路の泥濘震災後殊に甚し。

二月十二日。曇。

二月十三日。晴。

二月十五日。市河三陽先生わが拙稾『下谷のはなし』を雑誌にて読みたりとて書柬を寄せられたり。直に返書を送る。

二月十六日。浅草伝法院の住職栄海僧正といふは徃年大沼枕山に詩を学びたる由聞きたれば、午後同寺に赴き面会を請ひしに、他出中との事に、境内を一巡し、墨堤白髯神社に至り、毅堂先生の碑を読み、それより長命寺に赴き、宮沢雲山の碑文を写し、更に弘福寺に徃き、鷗外先生の墓を拝す。墓石三基とも別条なし。先生の墓前には新しき白薔薇の花供へられたり。堤上に佇立みて浅草の方を望むに、花川戸の人家地震の後皆仮小屋なれば、観音堂二王門及び五重の塔よく見ゆ。五重塔は上より三層目の欄干まで見ゆるなり。観音堂の大屋根こなたの堤より眺望すれば雄大宏壮言ふばかりなし。かつて巴里セーヌ河上にノートルダムの寺院を仰ぎ見たりし時のことなど思出しぬ。上流の空には筑波山を望み得たり。吾妻橋より上野を過ぎて家に帰る。日全く暮る。夜太陽堂原稾を取まとめ使にて市ヶ谷田町根本氏方へ送り届けたり。

二月十七日。去年よりも暖かきが如し。草の芽萌出でて青し。

二月十八日。春暖前日の如し。重て浅草伝法院に赴きしが住職震災後殊に多忙の様子にて会ふことを得ず。田原町より下谷を歩みて帰る。

二月十九日。午後南葵文庫に赴く。毎夜月明なり。

二月二十日。小山内君書を寄す。此夜十一時半頃月蝕す。旧暦正月十五夜なり。

二月廿一日。晴。

二月廿二日。晴。

二月廿三日。晩来強風吹起り寒気俄に甚し。

二月二十四日。午下高木井阪の二氏来り、兼子伴雨保初七日の法事赤阪円通寺にて営まるゝ由を語らる。倶に同寺に赴き、法会終りし後一木町なる某家に赴き、蔵書画を一覧す。伴雨子は去年十二月半中風にて卒倒し、本月に入りて病いよいよ*(あらた)み、去十八日世を謝したり。円通寺に葬り()して梨花庵好雨日閒居士といふ。

二月廿五日。故兼子伴雨の蔵書若干を購ふ。

二月廿六日。晴天。

二月廿七日。晴天。

二月廿八日。午後理髪の帰途西ノ久保天徳寺の墓地を逍遥す。昨秋火災の後、同寺の境内より墓地は人の通行するにまかせたり。雲州高須福岡諸侯の塋域も墓石は倒れ登楼石墻も砕けたるまゝ打捨てあり。松平不昧公の墓は愛宕山裏手の中腹にありて石級幸に崩れず。登りて見る。

二月廿九日。午後南葵文庫に赴く。夜旧稾を添削す。


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Last-modified: 2015-02-16 (月) 01:34:11 (801d)