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五月一日。痔を患ひ午前谷泉氏の病院に徃く。

五月二日。朝台所にて牛乳をあたゝめ居たりしに、頻に表の呼鈴を鳴して案内を請ふものあり。戸を開くに洋服を着たる見知らぬ男、浅草田島町の金貸小室梅次郎といふ者より依頼されたる用件ありとて名刺を出し面談を請ふ。書斎に導くに其男直に折革包より一片の証書を示し、返済の期限は既に過ぎたり、いつ頃返済の見込なるやと言ふ。証書を見るに債務者の姓名は余と同じなれど、筆跡は全く別人なり。書面の原籍を見て考るに余と同姓同名にて海軍造船所技師を勤むる人なるが如し。余何故に之を知るやといへば、先年逗子の別荘売却の折、横須賀の登記所にて海軍技師をつとむる人にて余と同姓同名のものあるを知り、不思議の思をなしたる事あればなり。余審にこの事を語り人ちがひなる由を告げむとは思ひしかど、相手の態度甚無礼なれば翻弄するも一興なりと思ひ、此の証書に付きては少しく仔細あれば返金の如何は即答しがたしとて、押問答の末日を定めて再会する事となしたり。余と同名の人は旧幕府瓦解の当時若年寄をつとめし永井玄番頭の家を継ぎし人なり。かつて上野桜木町に邸宅ありしが今はいかゞなりしや。

大正十二年五月三日。 雨終日小止もなく降りつゞきたり。庭中の新緑仔細に看れば樹木によりて各趣を異にす。百日紅の若葉は金鶏鳥の羽毛の如く、柿の若葉は楓と同じく浅き緑の色いふばかりなく軟なり。石榴の若芽は百日紅と相似たり。どうだんの若葉は楓に同じく、其の花の純白なるは梅花梔子(くちなし)花の如し。かなめの若葉は磨きたる銅の如くに輝きたり。椎樫の若芽は葦の穂に似たり。午後『一葉全集』?の中『たけくらべ』『濁江』の二篇を読む。

五月五日。帝国劇場に提琴の名手クライスラの演奏を聴く。生田葵山と電車を同くして帰る。

大正十二年五月六日。立夏。曇りて夕暮れより雨ふる。毎日筆を把れども感興来らず。ミユツセ『世紀の児の告白』?を読む。深更地震。

五月七日。雨もよひの空なり。風呂場の窓にまつはりし郁子の蔓を解きて軒の棚に結ぶ。大正九年の五月この家に引き移りし時、植木屋福次郎郁子一株を持来りてこゝに植えしが、三年を過ぎたる今日、棚既に狭きばかりに生い繁りぬ。小なる花あまた咲きたれば今年は実をも結ぶべし。

五月八日。終日雨歇まず。

五月九日。浜町阿部病院?に徃きラヂウム治療の後、毎夕新聞社に啞々子を訪ふ。その後健康次第に頽廃せしものゝ如く顔色憔悴し、歩行も難儀らしく、散歩に誘ひしが辞して其家に帰れり。

五月十日。午後三菱銀行に徃き、帝国劇場に立寄る。昼夜とも女優劇の興行なり。日出子?小春の二女優と日比谷公園を歩み薄暮家に帰る。

五月十一日。内幸町国民図書会社へ車夫を差出し鷗外先生全集?第四巻四月及五月刊行の分二冊を受取り来らしむ。図書会社は毎月製本出来次第配達する由なれど、我が家女中も留守番もなきため、配達の店員空しく立帰ること屢なりといふ。午後散歩。夜鷗外全集第七巻収載『能久親王事跡』?を読む。深夜雨声あり。風呂をたきて浴す。

五月十二日。夜鷗外全集第七巻所載の『西周伝』?を読む。山形ホテル食堂にて夕餉をなし今井谷を歩む。谷町通西側の人家取払ひとなり道路広くなれり。電車やがて通ずるやうになる由なり。

大正十二年五月十三日。麦藁帽子を購ふ。

五月十四日。築地酔仙亭?にて七草会あり。出席者、綺堂大伍松莚錦花清潭、及余の六人なり。風湿気を含みて冷なること梅雨中の如し。夕刻腹痛を覚ゆ。

五月十五日。昨日の如く曇りて風冷なり。浜町阿部病院?に徃きラヂウム治療の後、深川辺を散歩せむと新大橋を渡りしが、風甚冷湿なれば永代橋より電車に乗り、銀座にて夕餉をなして家に帰る。此日午前邦枝完二来訪。夜ヱストニヱーの小説L'Appel de la Route?を読む。

五月十六日。午後金沢市今村次七君来り訪はる。米国留学の旧事を語り合ひて日の暮るゝを忘る。山形ホテル食堂?にて晩餐を倶にす。雨ふり出して寒冷冬の如し。

五月十七日。曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜先生の『渋江抽斎伝』を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細密、気魄雄勁なるのみに非らず、文致高達蒼古にして一字一句含蓄の妙あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頑(けつかう)することを得べし。

五月十八日。快晴。気候順調となる。玄関の軒裏より羽蟻おびたゞしく湧き出づ。

五月十九日。晴れて風爽なり。午後某雑誌記者の来訪に接したれば、家に在るや再びいかなる者の訪ひ来るやも知れずと思ひ、行くべき当もなく門を出でたり。日比谷より本所猿江町行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿ふて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に帰る。大正二三年のころ、五ツ目より中川逆井の辺まで歩みし時の光景に比すれば、葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、蒹葭(=アシ)の間に葭雀の鳴くを聞かず。たまたま路人の大声に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ。

大正十二年五月二十日。昨日の散策に興を催せしのみならず、鷗外先生の『抽斎伝』をよみ本所旧津軽藩邸付近の町を歩みたくなりしかば、此日風ありしかど午後より家を出づ。津軽藩邸の跡は今寿座といふ小芝居の在るあたりなり。総武鉄道高架線の下になりて汚き小家の立つゞくのみなり。緑町四丁目羅漢寺の小さき石門を過ぎたれば、一時この寺に移されたる旧五ツ目羅漢寺の事を問はむとせしが、寺僧不在にて得るところなし。江戸名所の五百羅漢は五ツ目より明治二十年頃にこの緑町に移されしが、後にまた目黒に移されたり。是予の知るところ也。

大正十二年五月廿一日。風歇み蒸暑くなりて雨ふり出しぬ。深更に至りていよいよ降りまさりぬ。

五月廿二日。日本橋通[[高島屋呉服店[[三階にて松方幸次郎?所蔵浮世絵展覧会あり。欧洲大乱の際松方氏巴里にて有名なる版画蒐集家Vever?氏より譲受しものなりしと云。会場にて野口米次郎市川三升小村欣一?に会ふ。細雨歇まず街路沼の如し。

五月廿三日。雨ふりつゞきて心地爽かならず。机に凭れしが筆進ま頭痛岑々(じんじん)然たり。哺時中洲の平沢氏を訪ふ。

五月廿四日。両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り読書創作意の如くならず。夜々眠り得ず。大石国手の許に使を遣し薬を求む。午後雨の晴間を窺ひ庭のどうだん黄楊(つげ)の木などの刈込をなす。夜四谷の妓家にお房を訪ひ帰途四谷見付より赤阪離宮の外墻に沿へる小路を歩みて青山に出で電車に乗る。曇りし空に半輪の月を見たり。

五月廿五日。昨夜大石君調剤の催眠薬を服用して枕に就きしが更に効験なし。松本泰端?書を寄す。堀口大学シヤールルイフィリツプ?の翻訳小説集を贈来る。昼餉の後神田神保町古書陳列売立の会に徃く。

五月廿六日。午後小包郵便にて昨日購ひし書冊到着したれば直に開きて見る。其中に講談速記雑誌『百花園』?二百五六十冊あり。初号は明治二十二年の発行なり。下谷の祖母晩年病床にてこの雑誌を読み居られしことを思浮べ、なつかしきあまりに購ひたるなり。清親芳年等の挿絵の中には見覚あるものも尠からず。燈下『耳無草』?を草す。僅二三枚にて歇む。

五月廿七日。松莚子夫婦と風月堂にて昼餉をなし、再び高島屋呉服店?に至り、陳列の浮世絵を観る。中村歌右衛門に逢ふ。松莚子は本郷座小雀会?を見に行かれしが、予は中途にて別れ、上野に出で、新開の駒込神明町を見歩き、大塚にて鉄道院電車に乗りかへ、品川停車場より歩みて家に帰る。日既に暮る。夜海保漁村『漁村文話』を読む。

五月廿八日。黄昏驟雨。

五月廿九日。終日家に在り。風呂場を掃除す。

大正十二年五月三十日。神田錦町南明倶楽部に浮世絵売立会あり。品物には割合に良きもの多かりしが来会者至つて少し。此日曇りて風涼しく歩むによければ、神田橋より二重橋外に出で、愛宕山に登りて憩ひ、日暮家に帰る。初更雨烈しく降り出しぬ。

五月三十一日。陰晴定りなく時々雨あり。三菱銀行より日本橋に出で大石君を訪ふ。夜また雨。


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Last-modified: 2015-01-15 (木) 11:28:14 (832d)