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十月朔。災禍ありてより早くも一個月は過ぎたり。予が家に宿泊せる平沢夫婦朝より外出せしかば、家の内静かになりて笑語の声なく、始めて草廬に在るが如き心地するを得たり。そもそも平沢夫婦の者とはさして親しき交あるに非らず。数年前木曜会席上にて初めて相識りしなり。其後折々訪来りて頻に予が文才を称揚し、短冊の揮毫を請ひなどせしが、遂に此方よりは頼みもせぬに良き夫人をお世話したしなど言出だせしこともありき。大地震の後一週間ばかり過ぎたりし時、夫婦の者交る交る来り是非にも予が家の厄介になりたしといふ。(すげ)なくも断りかね承諾せしに、即日車に家財道具を積み載せ、下女に曳かせ、飼犬までもつれ来れり。夫平沢は二十八歳の由、三井物産会社に通勤し居れど、志は印度美術の研究に在りと豪語せり。女は今年三十三とやら。本所にて名ある呉服店の女の由。中洲河岸に家を借り挿花の師匠をなし居たるなり。現代の雑誌文学にかぶれたる新しき女にて、知名の文士画家または華族実業家の門に出入することを此上もなき栄誉となせり。色黒くでぶでぶしたる醜婦にて、年下の夫を奴僕の如く使役するさま▼醜猥殆ど見るに堪えず▲。曽我の家の茶番狂言などには適切なるモデルなり。凡そ女房の尻に敷かるゝ男の例は世上に多けれど、此の平沢の如きは稀なるべく、珍中の珍愚中の愚と謂ふべし。近年若き学生など年上の醜婦に取入り其の歓心を得ることを喜ぶもの多くなりし由は予も屢耳にせし所なり。されど其の最醜劣なる実例を目睹するに至つては、流石の予も唯驚歎するのみにて言ふべき言葉もなし。

大正十二年十月二日。午後赤坂麹町の焼跡を巡見し、市ヶ谷より神楽坂に至る。馴染の一酒亭に登り妓を招ぎて一酌す。勘定は前払ひにて、妓は不断着のまゝにて髪も撫付けず、三味線も遠慮してひかず、枕席に侍する事を専とす。山の手の芸者の本領災後に至つていよいよ時に適したり。日暮驟雨。

大正十二年十月三日。快晴始めて百舌の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中徃来留(とめ)となれり。数寄屋橋に出で濠に沿ふて鍛冶橋を渡る。到る処糞尿の臭気甚しく支那街の如し。帰途銀座に出で烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立つて来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりと謂ふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑(こくど)亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさゞる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ。

十月四日。快晴。平沢生と丸の内東洋軒にて昼餉を食す。初更強震あり。

十月五日。曇天。深夜微雨。

十月六日。秋霖霏ゝ。腹痛を虞れ懐炉を抱く。

十月七日。雨歇まず風声粛条たり。燈下『拙堂文話』を読む。

十月八日。雨纔に歇む。午後下六番町?氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自を訪ひ、災前借来りし大沼家過去帳写を返璧す。刀自は枕山先生の女、芳樹と号し詩を善くす。年六十三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底当今新婦人の及ぶべき所にあらず。日暮雨。夜に入つて風声淅々(=微か)たり。

大正十二年十月九日。曇りて風なし。午後日ケ窪より麻布古川橋に出で網代町の芸者町を過ぐ。此辺一帯にもとは塵芥捨場にて、埋立地なれば、酒楼妓家或は傾き或は崩れたるもの尠からず。大工左官頻に修復をいそげる中に、妓は粉飾して三々五々相携へて弘めをなせり。偶然曾て富士見町にて見知りたる女二三人に逢ふ。いづれも火災に羅り此地に移りて稼ぐといふ。毎日十四五人づゝおひろめ有りとの事なり。

十月十日。くもりて時々小雨あり。

大正十二年十月十一日。午後お栄を伴ひ丸の内の三菱銀行に赴き、帰途新富町なるお栄が家の焼跡を見歩き、築地より電車にて帰る。

十月十二日。風雨終夜窗を撲つ。屋漏甚しく船中に坐するの思あり。

十月十三日。再びお栄を伴ひ三菱銀行に赴く。馬場先門外より八重洲町大通、露店櫛比し、野菜牛肉を売る。帰途東洋軒にて偶然松本錦升子に逢ふ。子の老父藤間勘翁は安政の大地震に逢ひたる経験あれば、此の度は未(いまだ)火の起らざる中早くも人力車に夜具と米味噌とを積み、浜町の家を出で二重橋外に来りしに、僅に一組の家族の避難せるのみにて、勘翁は第二着の避難者なりしと。錦升子の談なり。錦升子此日米国兵卒の着用するが如き黄色の洋服を着たり。大阪にて購ひしもの、上下一着其価九円なりしと云ふ。

十月十四日。夜微雨。『拙堂文話』を読む。

十月十五日。積雨午後に至つて霽る。丹波谷の地獄宿中村?を訪ふ。

十月十六日。災後市中の光景を見むとて日比谷より乗合自働車に乗り、銀座日本橋の大通を過ぎ、上野広小路に至る。浅草観音堂の屋根広小路より見ゆ。銀座京橋辺より鉄砲洲泊舩の帆柱もよく見えたり。池ノ端にて神代君に逢ふ。精養軒に一茶す。神代君は曾て慶應義塾図書館々員たり。集書家として知られたる人なり。此の度の災禍にて安田?氏が松の家文庫?また小林氏が駒形文庫?等の書画烏有となりし事を語りて悵然たり。弥生岡に日影の稍傾きそめし頃広小路に出でゝ別れ、自働車にて帰宅す。燈下堀口大学『青春の焰』の序を草す。深夜雨を聞く。

十月十七日。鷲津家の祖幽林?翁の事を問はむが為、尾張国丹羽郡なる鷲津順光?翁のもとに書簡を送る。午後青山より四谷に出で赤阪を横ぎりて帰宅す。此日天気快晴。高樹町の辺楓樹少しく霜に染むを見たり。本年の寒去年に比して早きを知るべし。

十月十八日。快晴。午後中野村に徃き松莚子の僑居を訪ふ。家に在らず。留守居の門弟市川莚八及び莚若?の実父某と談話し、日の没せざる中急ぎて中野駅に至る。汽車幸に雑沓せず。

大正十二年十月十九日。災前堀口?氏より依頼せられし序文を浄書して郵送す。

十月二十日。午後河原崎長十郎来り訪ふ。松莚子今朝上野を出発、北陸道を巡り京都に赴くといふ。夜に入り半輪の月明なるに、時々驟雨来る。

十月廿一日。晴れて蒸暑し。午後書斎を掃ひ、硝子戸を拭ふ。燈下『拙堂文話』を読む。

十月廿二日。小春の好天打つゞきたり。黄花馥郁。

十月廿三日。日暮六本木市三阪商家より失火。四五軒焼けたり。

十月廿四日。鄰家の柿葉霜に染み山茶花開く。晩風蕭条。

十月廿五日。曇りて風寒し。この日平沢夫婦吾家を去りて下總 市川に移る。

十月廿六日。平沢去りて家の内静になりたれば、書斎の塵を掃ひ、 書架を整理す。

大正十二年十月廿七日。今村お栄祖母と共に吾家を去り、目白下落合村に移居す

十月廿八日。久米秀治帝国劇場用務を帯び近日洋行の由。送別の宴を神楽阪上の川鉄に設く。世話人久保田万。来会するもの水上小島?宇野?、及余なり。。

十月廿九日。瓦師来り屋根の修復す。見積書を見るに参百弐拾円なり。午後お栄を訪ふ。

十月三十日。南風吹きて暖なり。午後お栄来る。

十月三十一日。暴暖昨日よりも更に甚し。歩めば汗流るゝばかりなり。初更霞町に火事あり。人々火事といへば狼狽すること少女の如し。近巷弥次馬にて雑沓す。


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Last-modified: 2015-01-13 (火) 16:44:37 (832d)