七月一日。早朝家に帰りて眠る。晩間帝国劇塲の食堂にて松莚子と会飲す。帰途小山内土方?生田の諸氏と銀𫝶清新軒に小憩す、

七月二日。雨来らむとして来らず。烈風砂塵を巻く。夜帝国劇塲に徃く。

七月三日。東伏見宮葬儀の当日なりとて遏密の令あり。清元秀梅を伴うて冨士見町の某亭に飲む。烈風歇まず。夜半雨滝の如し。

七月四日。豪雨歇まず。晩間帝国劇塲にて図らず水上瀧氏に会う。幕間に女優小林延東洋軒に徃き、晩餐を与にす。

七月五日。女優延子と再び晩餐を与にす。

[七月六日記事なし]

七月七日。夜半与謝野君電話にて森夫子急病危篤の由を告ぐ。

七月八日。早朝団子坂森先生の邸に至る。表玄関には既に受付の設あり。見舞の客陸続たり。余は曾て厩のありし裏門より入るに与謝野沢木?小島?の諸氏裏 庭に面する座敷にあり。病室には家人の外出入せず。見舞の客には先生が竹馬の友賀古翁?応接せらる。翁窃に余を招ぎ病室に入ることを許されたり。恐る恐る襖 を開きて入るに、先生は仰臥して腰より下の方に夜具をかけ昏々として眠りたまへり。鼾声(かんせい)唯雷の如し。薄暮雨の晴間を窺ひ家に帰る。 *

七月九日。早朝より団子阪の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊を属せらる。悲しい哉。*

七月十日。玄文社合評会。帝国劇場観劇。女優延子と日本橋白木屋の絵行燈を見る。

七月十一日。玄文社合評会終りて後、小山内兄弟と自働車にて観潮楼に至り、鷗外先生の霊前に通夜す。此夜来るもの凡数十名。その中文壇操觚の士は僅に一四,五人のみ。*

七月十二日。朝五時頃、電車の運転するを待ち家に帰る。一睡の後谷中斎場に赴く。此日快晴涼風秋の如し。午後二時半葬儀終る。三河島にて荼毘に付し濹上の禅刹弘福寺に葬ると云。*

[十三日記事なし]

七月十四日。仏蘭西書院本年正月注文の書巻を送来る。

[十五日記事なし]

七月十六日。森先生遺族の招待にて上野精養軒?に徃く。露台の上より始めて博覧会場の雑沓を眺め得たり。帰途電車満員にて乗るを得ず。歩みて万代橋に至る。*

七月十七日。夜驟雨雷鳴。

七月十八日。黒田湖山満州日々新聞社に招聘せられ、其主筆となり、此夕五時半東京駅停車塲を発し大連に赴く。余木曜会の諸氏と其行を送る。帰途唖々、秋生、葵山の三子と有楽町東洋軒に晩餐を喫す。

七月十九日。帝国劇場にて偶然上田敏先生未亡人令嬢に逢ふ。上田先生の急病にて世を去られしは七月九日の暁にて、森先生の逝去と其日を同じくする由。葬儀も亦同じく十二日なり。森先生の忌辰は上田先生七回忌の日に当たりし由。未亡人の語る所なり。余両先生の恩顧を受くること一方ならず、今より七年の後七月の初にこの余を去ることを得んか、余も其時始て真の文豪たるべしとて笑い興じたり。

七月二十日。風ありて涼し。

七月二十一日。帝国劇場より懸賞脚本の審査を依嘱せられる。夜市村亀蔵?の部屋にて女優等と西洋将棋を弄ぶ。

七月廿二日。百日紅満開なり。

七月廿三日。炎暑甚し。

七月廿四日。清元会にて阪井清君に逢ふ。

七月廿五日。炎暑甚し。帝国劇場の帰途吉井小山内の両子と清新軒に一茶す。

七月廿六日。雨ふる。清元お秀に逢ふ。

七月廿七日。小説集雨瀟瀟。春陽堂より発行。

七月廿八日。清元お秀と芝浦に飲む。

七月廿九日。炎暑甚し。

七月三十日。午後雷雨。夜に入りて月よし。風月堂にて市川三升に逢ふ。

[七月三十一日記事なし]


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Last-modified: 2015-01-26 (月) 18:38:50 (790d)