ヘアの功利主義と外的選好

京都大学

江口聡

本論の目的は、R. M. ヘアの功利主義の基礎づけの議論を概観し、さらに R. ドォーキンによって指摘されている外的選好の問題をヘアの立場から見て みることで、選好功利主義の有効性を吟味してみることである。

古典的功利主義

ヘアの議論を見る前に、まず簡単に古典的功利主義に目を配っておくことにす る。ベンサムにはじまる古典的功利主義は、基本的に快楽説を基礎に置き、快 楽の増加と苦痛の減少を唯一の善とし、さらに、各個人の快と苦を他のどの人 の快や苦とも同じ価値をもつと見なす。

このような功利主義は、事実と論理にもとづき、経験的に検証できる事実に即 した比較的に強い議論を行なうことを目指しており、魅力的であるが、しかし また多くの反論にもさらされることになった。一般に提出される議論の要点は、 おおまかには次のようになるだろう。

(1) 快・苦といった心理的現象と、われわれが価値があると見なす事柄との間 には大きな差があると思われること。またこれに関連して、

(2) 一口に快といっても多様な快があり、異質の快楽を比べて測定することが 可能であるのか、またそもそも比べることに意味があるのか、快の総量を増や すということに意味があるのか、という比較計量と総和に関する問題点、そし てもっとも重要な論点として、

(3)なぜわれわれは善(あるいは快)の最大化を目指さねばならないのか、とい う功利主義の基礎づけの問題。これに答えるためには、快苦と人間の行動決定 との間の事実的問題の解明と、快苦と規範との間の関係づけの双方が必要とな る。さらに、

(4)功利主義は、われわれが通常重要と見なしている正義や権利といった道徳 的概念と相入れないことがありえると考えられ、したがって功利主義が提示す る規範とわれわれの通常の道徳意識との間にはギャップがあるように思われる という問題

などがあげられるであろう。

ベンサム以降、ミルやシジウィック等に代表される功利主義者たちは、上のよ うな問題点を、それぞれの方法で探求した。その流れの中でもヘアは、(3)の 基礎づけの問題点をメタ倫理学という規範の内容に関して中立的な立場から行 なっている点と、(4)の問題を道徳的思考のレベルの峻別によって解決しよう としていること、そして(1)と(2)の問題を、快楽ではなく選好を基礎概念とし て功利主義を構成することで解消しようとしている点で注目に値する。

メタ倫理から功利主義へ

ヘアの議論は一見明確でありかつシンプルである。その基本的な議論の筋道は 次のようになる。

われわれは道徳的な思考や議論を行なうにあたって、「よい」「わるい」「べ し」などの道徳の言語を用いる。したがって、この道徳の言葉の論理的性質を 理解することなしには、道徳的問題に答える方法を見いだすことはできないは ずである、ということがヘアの出発点であった。

道徳語、特に「べし」の論理的性質の研究によって明らかになったことは、道 徳的判断は一般に、その中心的な用法では指令的(prescriptive)であり、また 普遍化可能(universalizable)であるということであった。

道徳判断が指令的であるとは、形式的には、道徳判断は一つ以上の指令を含意 するという性質であるとされる。平たく言えば、「べし」で表わされるような 典型的な道徳判断は、一種の指令(prescription)である(MT 1.6)ということで ある。たとえば、「君はここでタバコを吸うべきではない」は、それが本気で (sincerely)言われている場合には、「ここでタバコを吸うな」という命令 を含意している。このことは、ある人が「太郎はここではタバコを吸うべきで はない」と言いながらも、「太郎、君はここでタバコを吸うな」には同意しな いという場合を想像してみればすぐに理解されるはずである。この場合、われ われはその人の言っていることが理解不能になってしまう。

道徳判断が普遍化可能であるとは、道徳判断は、普遍的性質が同一の状況に対 して同一の判断を含意するという性質である(MT1.6)。つまり「この状況ではA がなされるべきである」と発言することは、「この状況とまったく同じすべて の状況では、Aがなされるべきである」という言明を含意している。先の例で は「この状況とまったく同じすべての状況(たとえば妊婦がいる、あるいはタ バコの煙が嫌いな人がいるなど、それが発言された状況と同じ状況)では、タ バコを吸うべきではない」という言明を含意している。

ただし「普遍的(universal)」あるいは「普遍化可能」を「一般的(general)」 と混同してはならないことに注意しておかねばならない。ここで言う普遍化可 能とは、簡単に言えば固有名を含まない形に直すことができるという意味であ る。固有名を含む判断――たとえば「花子さんのいるところではタバコを吸う べきではない」――はそのままでは道徳判断の条件を満たしていないが、固有 名を含まない、あるいは固有名を一般名詞に置き換えられるような判断―― 「妊娠3ヵ月で、自分はタバコを吸わず、エコロジーに関心があり、イチゴが 好きで、現在つわりでひどく苦しんで1週間仕事を休んでいるような女性すべ て(この中に花子さんが含まれることになる)の前ではタバコを吸うべきでは ない」――は一応のところ道徳判断の形式的な条件を満たしている。もっとも この例は、条件が奇妙なほど明細的(specific)であるが、ヘアは道徳判断は形 式的にはどれほど明細的であってもかまわないしており、現にわれわれが抱い ている「嘘をつくべきではない」といった道徳的原則も、実際には記述するこ とさえできないほど明細的な条件が伴っていると考えている。

『道徳の言語』や『自由と理性』から『道徳的に考えること』までの間に、ヘ アは、前に述べた言語の指令性と、判断主体の欲求(desire)あるいは選好 (preference)との間の関係を、より明確に前面に出すようになった。道徳判断 は命令を含意するために、その命令に同意することなく本気で発言することは できない。単なる命令についていえば、太郎に対して「タバコを吸うな」と命 令する人は、太郎がタバコを吸わないという事態がなりたつことを欲求してい る。つまり太郎がタバコを吸わないという事態がなりたつことを、それがなり たたないことより望んで(prefer)いる。これは道徳判断についても同様である。 先にあげた「妊婦の前ではタバコを吸うべきではない」という(普遍的)道徳判 断を下すには、それを発言する人は、同じようなすべての状況について、選好 をもっているはずである。

これらの指令性と普遍化可能性という二つの性質を道徳判断の特徴と見なすこ とから、ヘアのメタ倫理学上の立場は普遍的指令主義(universal prescriptivism)と呼ばれる。ここまでのヘアの議論は、われわれの日常的な 道徳語の用法に関するメタ倫理学の理論であって、これだけではなんら規範的 な主張を行なっているわけではないことに注意しておきたい。道徳語の使用に 関する規範を含んでいるということは言えるが、これは道徳的規範そのものと は区別されるべきである。

このヘアのメタ倫理学的な立場から、功利主義的規範理論との結びつきについ てヘアは次のように述べている。重複するが重要な箇所であるので引用してお く。「批判的思考」についてはのちに述べるが、ここでは理想的な道徳思考と 読み直して欲しい。

「・・・普遍化可能性の命題によれば、この状況に関してわれわれがある道徳 判断を行なうなら、これと正確に類似した他の状況に関しても同じ判断を下す 用意がなければならない。他の状況というとき、それらが現実の状況である必 要はないことに注意されたい。それらは、正確に類似した、論理的に可能な仮 想的状況であってもよいのである。・・・批判的思考の課題は、判断を行なう 主体が、この状況だけでなく、それと類似するすべての状況にも適用できるよ うな道徳判断を下すことである。これらの状況のうちには、現実の状況で他の 当事者が置かれているそれぞれの立場を当の判断主体が占めることになる状況 もそれぞれ含まれる。したがって、結局、全体的に見てすべての当事者にとっ て最善であるような判断でなければ、当の判断主体にとっても受け入れられな いのである。このように、普遍的指令説が提供する論理的道具立てにより、わ れわれは、もし自分の下す道徳判断の意味を理解しているならば、批判的思考 を行なうことで・・・注意深い行為―功利主義者が下すであろう判断と同じ判 断に行き着くのである。(MT 2.6)」という。

これを具体的な例で見ておく(MT5, 6)。ここでも、タバコが好きな太郎と、嫌 いな花子に登場してもらう。花子と太郎が同じ部屋にいて、太郎はタバコを吸 いたいと思っているが、花子はタバコの煙を吸わされることを嫌がっている。 もし太郎が道徳判断を下そうとするならば、彼はその判断をすべての同じ状況 に下す用意がなければならない。この「同じ状況」の中には、自分が煙を吸い たくないにもかかわらず吸わされることになる花子と同じ立場に置かれている 状況も含まれることになる。太郎は現にタバコが好きなのだから、このような 状況は現実にはないかもしれないのでこれは単なる仮想的な状況に過ぎないこ とになるが、この仮想的な状況に対してもその道徳判断を下す用意がなければ ならない。また同じ「立場」には、どの程度タバコを吸いたいのか、あるいは 吸いたくないのかという、それぞれがもつ選好の強度まで含まめて同じでなけ れば意味がない。つまり太郎は、もし彼が花子が今もっている選好(煙を吸わ されたくない)をもちながら花子の立場に置かれても、「太郎はタバコを吸う べきである」や「太郎はタバコをすうべきでないことはない」に同意する用意 があるのか、を考えねばならないのである。

ここで、太郎が形式的条件を満たした道徳判断を下すためには、彼は太郎自身 の立場であれ、花子の立場であれ、どちらでも同意できるような判断をつくり あげねばならない。ここで太郎が、花子の置かれている状況を、それがどれほ どいやなことなのかという選好まで含めて充分に知ることが可能であり、現に 知ったと仮定する。すると太郎は、自分の立場でタバコを吸いたいという選好 と、もし彼が花子の立場におかれたらタバコの煙を吸わされたくないという選 好の両方をもつことになる。そこで問題は最終的には、この背反する二つの選 好のどちらを充足させることを望むか、という太郎個人の内部での選好の比較 の問題になる。

われわれは個人の内部でしばしば背反する選好を抱いており、その場合には結 局より強い選好を充足させるという判断を行なっている。これと同じことがこ の太郎の事例でもなりたつ。太郎自身のもともとの選好と、もし彼が花子の立 場におかれたとしたらどうか、ということに関してもつことになる選好を比較 して、より強度の強い方を充足するような判断を下すことになる。事実問題と して花子の選好の方が太郎の選好より強いとすれば、結局太郎は「太郎はタバ コを吸うべきではない」という道徳的判断を下すことになるであろう。この思 考過程は花子の立場から始めても、また他の立場の人から始めても、充分な知 識と明晰な論理を前提すれば、結論は同じものになるはずである。

このようにして、理想的な場合、道徳的思考者はそれ自体は道徳的規範を含ま ない「事実と論理」から思考を始め、最終的に同じ道徳判断を下すことになる。 そしてさらにその結論は、選好をその質によらず強度によって比較し、より強 いものを充足させるというものになる。選好の充足を効用と解釈すれば、この 結論は功利主義的なものと言える。ここまでの議論は関係する人が二人であっ たが、三人以上が関わる場合でも同様の手続きで、関係者すべての選好を個人 内に再現し、それを比較することになる。

事実についての充分な知識と論理的明晰さを仮定すれば、どの立場の道徳思考 者も常に同一の判断に達し、そしてそれが功利主義者の結論と同じものになる とすれば、ここまでのヘアの議論は、メタ倫理学の立場から選好功利主義と呼 ばれる功利主義の一形態を擁護するものになる。つまり、近道として功利主義 的な規範的判断を行なってもよいということになる。

ヘアの功利主義の議論のもう一つの重要なポイントは、道徳的思考のレベルの 峻別にある。上で述べたような理想的な道徳的思考は、完全な論理的な明晰さ と、事実に関する充分な知識を要求するものである。したがって、生身の人間 が簡単に行なえるようなものではない。自分の目先の利益を優先してしまうわ れわれの傾向性や、実際の場面での思考の時間不足などを考慮するならば、そ のつどそのつど上のような道徳的思考を行なうことは不可能である。むしろ、 一般の生活でしばしば起こるような事例のほとんどでよい結果につながるよう な、おおまかな原則をあらかじめ選択し、通常はそれにしたがうようにした方 が、全体としてよい結果になるはずである。われわれが現に信奉しているよう な道徳原則はこのようなレベルのものである。ヘアは前者の理想的な道徳思考 のレベルを批判レベルと呼び、後者の通常の道徳思考を直観レベルと呼ぶ。批 判レベルの道徳思考は、日常生活でもちいるための一般的な原則を選択し、ま た、それらの一般的原則が葛藤するような特殊な場合にのみ行なわれることに なる。このレベルの峻別も、これ自体は道徳的な規範を含んでいないことにも 注意しておきたい。ただしこのレベルの区別を単純な事実的命題と見なすわけ にはいかないが、この問題については今回は触れることができない。

選好功利主義

このような形での功利主義の基礎づけは、多くの点で注目に値する。何度もく りかえしたように、ヘアの言う「道徳語の論理」も、関係者の選好を含む事実 に関する知識も、それ自体としては道徳的な規範は含んでいない。にもかかわ らず、「論理と事実」を充分理解したすべての道徳思考者が一致した結論に至 ることになるとすれば、道徳判断の正しさの規準を提出しうることになるはず である。これが冒頭の(3)の功利主義の基礎づけに対するヘアの解答というこ とになる。なぜ効用の最大化を目指すのか、目指すべきなのか、という問いに 対し、合理的な思考者が一致してそれを目指すような判断を行なうはずである から、という解答を与えるわけである。

もう一つ重要な点は、ヘアのメタ倫理学によって基礎づけられる功利主義は、 快苦ではなく選好を基本的概念とするものとなったということである。冒頭の (1)で述べたように、快や苦といった感覚と、われわれの価値意識との間には 大きな差がある。われわれは実際に快をもたらさない事態に価値を見いだし、 それを望むことがある。これを快という心理状態に還元するためには、「快」 を非常に広い概念として用いねばならない。むしろ、快を感じるためにはそれ に先行する欲求や選好を前提としなければならない。選好を基本的概念とすれ ば、快苦といった心理的観念という回り道をせずに、直接にわれわれの価値意 識そのものを扱うことができるようになるのである。したがって原則的に(1) のタイプの問題は消える。また、(2)のなぜ快の総和の最大化を目指すかとい う問題は、なぜ選好の最大充足を目指すのかという問題に置き換えられること になる。そしてこれに対しては、個人の内部での価値判断あるいは合理的選択 が選好の最大の充足であるから、という解答を与えられる。また快楽説につき ものの、多様な快を同一の規準で計ることができるのか、という問題は、快を 選好に置き換えれば、それをどれほど望むかという選好の強度に還元して一元 化して取り扱うことができるようになる。ここから、実際の道徳問題で必要と なる多様な価値意識の対立を取り扱うことができるようになるわけである。

さらにまた、道徳思考にレベルの区別を認めることによって、冒頭の(4)であ げた選好の最大充足という直接に功利主義的な道徳性と、正義や権利といった 他の道徳性との関係を明らかにする方策を見つけることができる。つまり正義 や権利を、現実の状況で最善の結果をうむための二次的な原則ではあるが直観 レベルでは厳守されるべき原則として扱う。そして批判レベルでの効用計算と の間の見かけ上の背反にもとづく反論はレベルの混同によるものとして解消す るのである。これによって、これまでにしばしば行なわれてきた直観にもとづ く功利主義批判の問題点を明らかにすることができる。

このようにかなり有望に思えるヘアの理論であるが、細部を見るとかなり複雑 で、難点も少なくない。本論では難点の一つとして、外的選好の問題を考えて みる。

外的選好

選好を中心に功利主義の理論を構成し、道徳的思考のレベルを峻別すしたヘア は、『自由と理性』で問題になった利害と理想の対立という問題を、選好を内 容によらず強度によって比較し最大に充足するという手続きをもちいることに よって解消することができた。これはMTでの大きなステップであると言うこと ができる。

しかし選好版の功利主義を採用すれば、快楽説をとった場合には問題にならな かった、固有の困難な問題を引き受けることにもなる。R. ドォーキンが功利 主義批判に用いた「外的選好」の問題を取り上げてみる。この議論を簡単に 紹介しておくと、次のようになる。

功利主義は、一人の効用を一人分と数え、質によらず平等とみなすことによっ て、形式的には平等主義的である。そしてヘアのように、快楽説をとらず、選 好によって功利主義を定式化することには大きな魅力があるということをドォー キンは認める。ところが、ひとが抱く選好は多種多様である。われわれは自分 が実際には経験しないことに対しても選好を抱く。たとえば、自分の親族が、 自分の死後に幸福であることを望むことは、ふつう一般に認められるであろう。 またわれわれは自分とまったく関係のない他人の不幸を望むことさえもある。

ここで自分が実際に経験する事態に関わる選好を個人的選好(personal preference )と呼び、他人が経験し、自分自身は経験しない事態に関わる選好 を外的選好 (external preference )と呼ぶことにする。ドォーキンの批判の ポイントは、選好功利主義者が社会全体の効用(選好の充足)を計算する際に、 外的選好を計算に入れるならば、特定のひとの個人的選好が他のひとに比べ軽 視されたり、あるいは特に重く計算しなければならない可能性があることを指 摘し、これが功利主義の見かけ上のリベラルな平等主義と背反することを指摘 することにある。これを理解しやすくするため、ドォーキンが挙げている例を 紹介しよう。

ある都市の市民の多くが肌の色に関して人種差別的な意見をもっているとする。 この都市で、二人のひと――白人と黒人――が同じ病気にかかり、その病気を 治療するためには、希少な薬を必要とする。黒人の方が白人より病が重く、よ り薬を必要としており、それゆえ薬を投与されることをより強く選好している としよう。都市の多くのひとは、より多く必要としている黒人に与えるよりは、 白人に与えられることを選好しているとする。この場合、この白人と黒人の個 人的選好のみを考慮の対象とするならば、おそらくより必要としている黒人の 選好のより強い選好を優先することになり、この場合功利主義は平等主義的な 結論を下すことになる。だが、この都市の住人の外的選好まで比較考慮の対象 にするとすれば、白人の病人の選好の方を重視することになり、功利主義は反 平等主義的な結論を下すということになる。

上に挙げた例は人種差別的な選好に関するものであるために、異様な印象を与 えるが、同じことは利他主義的・あるいは道徳的な選好に関しても生じる。こ れもドォーキンの例を挙げておく。ある都市が劇場かプールのどちらかを建設 する予算がある。スポーツをすることをよいことであると考えている人々は、 自分自身は水泳する習慣がなくとも、劇場よりはプールを建設するべきである と考えるであろう。このような場合、水泳を楽しむ人々は、「一人以上」に数 えられていることになる、という。

このような事例は、ドォーキンがあげている例以外にも、次々と案出すること ができるであろう。また実践的な問題でもある。たとえば同性愛、あるいは売 春などに関して、ある人々は、それを自分で経験しない――それが行なわれて いるかどうかさえわからない――場合にも、強い道徳的嫌悪を抱くかもしれな い。その結果、たとえば同性愛の人々は、それが他の誰にもなんの被害も与え ないのにも関わらず、道徳判断を行なえば自分の欲求を満たすことをあきらめ ねばならない、ということになることもあるだろう。外的選好を考慮に入れな ければ、おそらくこのような結論は出ない。そこで外的選好を計算に入れるか どうかという問題は、結論を左右するような重大なポイントであるように見え る。

さて、外的選好を考慮に入れることは、われわれの直観に反する点がある。し かし議論から簡単に排除するわけにはいかない。というのも、われわれがもつ 選好は多くの場合個人的選好から切り離すことができないからである。たとえ ば、人は自分の近親者が自分の死後に幸福に暮らすことを望むことがあるだろ う。このような選好は、その人自身がその選好の実現を経験しないにしても、 事実と論理を理解しているかぎり、除外する理由はないように見える。ヘアの 理論においても、選好はその内容を問わず強度によって比較するということが 原則である。またこのような選好まで考慮に含めることができることが、選好 功利主義の快楽功利主義に対する優位点でもあったわけである。

したがって、選好を中心に功利主義を構成しようとするならば、この外的選好 の問題は、答えておかねばならない問題であると言える。

ヘアの解答

それではヘアの理論ではこの問題はどう扱われるのかを考えてみることにしよ う。ヘア自身はMTの時点でも充分この外的選好の問題を意識してはいたが、直 接にはほとんど論じていない。MTでは議論を単純にするため、暫定的に外的選 好を排除して議論を進めると宣言しており(MT 5.6)、はっきりした判断は下さ ない。ただし、狂信者の問題を論じている箇所で、もう一度この問題に触れて いる(MT 10.6)。

ヘアがもちいている狂信者な医者の例を挙げておく。ある患者が、重い病にか かっており、これ以上延命措置を行なうことは患者の苦痛を増やすばかりであ り、患者は延命措置をやめて欲しいという極めて強い選好を抱いている。それ に対して、医者は、患者の選好はどうあれ、最大限の努力を下して患者が少し でも長く生きられるようにするべきであるという道徳的信念を抱いているとす る。しかし、もしこの医者が、上で見た批判的道徳思考を行ない、患者の選好 と状況を充分に知り、もし自分が患者の立場におかれたらという仮想的な状況 に対して対応する選好を獲得すれば、彼は「患者の選好はどうあれ延命措置を するべし」という指令に同意することができないであろう。したがって、この ような事例で狂信者な理想をもちつづけることはできないはずである。

だがここで外的選好を考慮の対象に入れるとすれば、医者は、彼の同僚や看護 婦たち、あるいはもっと多くのひとが彼と共有している「医者は可能なかぎり 患者を生かすべきである」という理想にも配慮することになる。この理想には、 自分が経験するわけではないが、患者がひどく苦しむ結果になっても、延命を 続けることがより望ましいとする外的選好を含む。したがって、これらの人々 の外的選好を計算に入れれば、結果的に医者のもつ理想が患者の選好より重視 されることになるかもしれないと思われる。

これに対してヘアは、この事例では外的選好を功利主義的な考慮の対象とする 場合としない場合で結論はかわらないはずだと考えている。事実問題として、 患者が苦しむことを望まない人々も多く存在するであろうから、医者やその同 僚の外的選好は、反対の意見をもつこれまた多くの他の人びとの外的選好によっ て相殺されるはずである、というのである。

ドォーキンの問題に関してこの論法を使えば、問題の都市は人種差別的である が、より範囲を広げて見れば、黒人の方に有利にするべきだと考えている人々 もいるだろうから、これらの外的選好は相殺されることになるだろう、という ものになる。だがこの解答では不十分であろう。社会の成員のもつ選好や理想 は、ある程度偏りがあるとみなすことを認めないわけにはいかない。たとえば 前世紀には、現在よりも人種差別的見解をもつひとの割合は多かったのではな いだろうか。端的に言って、「反対の意見をもつひとの外的選好によって相殺 される」かどうかは事実的問題であって、常に人々の外的選好どうしが相殺す るということは言えない。したがってこれは直接にはドォーキンに対する解答 にはなっていない。

もっともこれはヘアの立場では当然でもある。道徳的な判断は論理だけではな く事実にもとづかねばならず、社会の成員の選好に関する事実によらずに、一 定の結論を下すことができるわけではない。むしろ事実に関係なくいつでも同 じ結論を下すとすればそちらの方がおかしいとヘアならば言うであろう。

そこで、次のような解答が考えられる。この現実の世界では、自分に直接関わ らない事柄に関する一般に外的選好は、個人的選好に比べればはるかに弱いと 思われる。したがって、実際の場面では結論を左右するほどの問題にはならな いであろう、というものである。実際われわれは自分が経験しない事柄に関し てはいい加減な判断を下しがちであり、またそれに関する選好も弱いことが多 い。もちろんこれも、何度もくりかえすように、人々の選好がどうなっている か、という事実にもとづく解答であるが、これはおそらくドォーキンの問いに 対する一つの答えになりうる。この世界での現実の実践的な問題に対する解答 としては、これで充分かもしれない。

しかしドォーキンが行なっているのは、実践的な議論であると同時に、理論的 な議論でもある。選好功利主義が整合的な理論であるのかが問題なのである。 単に実践的には問題ではないと示すだけでは充分ではない。

おそらくヘアの本当の解答は、次のような道徳思考のレベルの峻別ににもとづ くものであろう。実際に社会の成員の多くが(たとえば)差別や格差を望むよう な社会であり、またその人々が事実を充分に知った上で論理的に混乱すること なくそれを望んでいるのであれば、その人びとの選好を最大限に充足すること が理論的にも正しいことなのである。したがって、ある特別な社会では、われ われが信奉している平等や正義に抵触するような道徳判断が正しいとされるこ とも論理的にはありうる。それに疑問を感じるのはわれわれの道徳的直観が今 の現実の世界で用いるために植えつけられているからである。この道徳的直観 自体も現代のわれわれの社会においては功利主義的に擁護されるのであろうが、 この直観と特別な社会に対する功利主義的な結論が食い違ったからといって、 それだけではヘアの議論や選好功利主義に欠陥があることを示すことにはなら ない。それはわれわれの直観の限界を知らせるものでしかないのである。批判 的レベルでの議論を行なうのならば、われわれの道徳的直観を持ち込むことは できないのである。そもそもヘアの理論では正義や平等は、選好功利主義によっ て擁護される直観レベルでの原則であり、それ自体が無根拠に優先されるもの ではない。選好充足の最大化は、理論的に平等に先行する原則なのである。

この解答は、直観的に平等の原則を主張するドォーキンに対してはたしかに有 効な反論である。ドォーキン自身は、それではなぜ平等が重要なのか、という ことについて、われわれの直観に訴える以上の基礎づけを行なうことはできな いであろう。実際、今回取り上げている論文でもドォーキンは積極的になぜ平 等なのか、という問題に答えているわけではない。したがって、ドォーキンが 作り出した事例は、ヘアの功利主義に対してなんら脅威とならない。

さらにヘアは次のように答えることもできる。自分が直接経験しないことに対 する選好は、多くの場合には変えることができるものであり、また変える必要 があるものかもしれない。病気に苦しむ人の選好は切実なものであり、おそら く簡単に変えることはできないであろう。しかし、他の人々が抱いている外的 選好は、多くの場合、教育や環境などによる後天的なものであって、病人の個 人的選好に比べ容易に変更することができるであろう。もし他の人々の選好を 変えることによって、のちのちよりよい結果を望むことができるのであれば、 そうするべきかもしれない。これは先の狂信的な医師に関する議論の中でヘア 自身が使っている論法である。

このように、ドォーキンが提示した外的選好の問題は、そのままではヘアの議 論に対する批判とはならない。しかしではなぜ、ヘアはMTで外的選好に関して はっきりした態度をとらなかった、あるいはとれなかったのであろうか。

外的選好と個人内の合理的選択

ここでまず、外的選好を計算に入れることにはドォーキンの主張とは違った意 味で直観に反する側面があることを指摘しておきたい。ドォーキンの批判のポ イントは、選好功利主義は平等の原則や権利、正義などに関わる道徳的直観に 反するように見えるということにあった。この点は上で見たようにレベルを峻 別することによって回避できる。

しかし、ある事態が生じるかあるいは生じないかを知りえないひとが、その事 態に関してもつ選好を考慮に入れる必要はあるのであろうか。先に例としてあ げたが、売春が秘密のうちにお互いの同意の元に行なわれ、それがまったく他 の人々に影響を与えないという場合に、なぜ売春に関して嫌悪感を抱く人々の 選好を考慮に入れねばならないのであろうか。この場合直接関わりのない人び との選好や意見は端的には「お節介」あるいは「余計なお世話」であり、そも そも考慮の対象にしなくてもよいものではないだろうか。この疑問はたしかに 直観的なものである。しかしこれははたして道徳的な直観にもとづく疑問であ ろうか。

これを、われわれがリベラルな教育を受けてきたために、個人の自由を最大限 に認めようという道徳的直観をもつように至ったからであると説明することは 可能だろうか、と問えば、答えはおそらく否定的である。というのは、この疑 問は、売春に賛成の人であろうと反対の人であろうと、またリベラルであろう がなかろうが感じられると考えられるからである。むしろこれは道徳的思考の 方法や思考過程に関わる疑問であって、この疑問はドォーキンの反論とは異な り、道徳的な直観にもとづくものではないだろう。批判レベル、あるいは道徳 的思考とは違ったレベルの問題ではないだろうか。それでは問題はどこから来 るのか。この疑問を抱いてヘアの議論を見直してみる。

理想的な道徳思考は、人々のさまざまな選好を、個人の内部での複数の選好と して再現し、それらの強弱を比較して最大に充足するコースを選ぶ、というも のであった。他の人の外的選好もこの方法で個人のうちに再現できるとすれば、 道徳的思考者は、(仮想的に)自分が経験することになる事態に関する選好と、 自分が経験しない事態に関する選好との比較を行なうことになる。ここで問題 は、この両者の選好もやはり等しく扱い、強度のみによって比較されるべきな のか、ということになる。つまり、上でわれわれが感じる疑問は、個人内での 選好の比較と、その合理的選択に関わる疑問なのである。

ここで経験することがらに関する選好と、経験しない事柄に関する選好の間の 選択をどう行なうか、ということに関して、またそれより上位の選好を想定し なければ問題は解決しないように思われる。今回は触れることができなかった が、実は同じタイプの問題は、個人での思慮分別の問題としても現れる。

このような個人内の選好充足や選好の比較といったメカニスムが、一種のブラッ クボックスになってしまっていることが、ヘアの理論のもっとも大きな問題点 の一つであると思われる。ヘアの理論が充分納得のいくものとなるには、選好 のより精密なクラス分けと分析、そして個人の合理的な選択に関する理論のバッ クアップが必要なのである。

文献

R. M. Hare, The Language of Morals, Clarendon Press, Oxford, 1952.

Freedom and Reason, Clarendon Press, Oxford, 1963.

Moral Thinking, Clarendon Press, Oxford, 1981.

邦訳

内井惣七・山内友三郎他訳『道徳的に考えること』(仮題) 近刊.

D. Seanor & N. Fotion (ed.)

Hare and Critics, Oxford, 1988.

特にGibbardとBrandtの論文とそれに対するヘアの返答が参考になった。

R. Dworkin, Taking Rights Seriously, Harvard University Press, Cambridge, 1977.

J. Griffin, Well-Being, Clarendon Press, Oxford, 1986.

内井惣七, 『自由の法則 利害の論理』, ミネルヴァ書房、, 1988.

山内友三郎, 『相手の立場に立つ』, 勁草書房、 1992.

神野慧一郎、 「功利主義の射程」, 岩波講座,転換期における人間8 『倫理とは』, 1989.