安藤本 (1)

統治と功利
統治と功利

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安藤 馨
勁草書房
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格闘中。てごわすぎ。

ベンタムが残した厖大な著述を見ればわかるように、彼にとって功利主義は何よりもまず統治の原理であった。それはあるべき統治、あるべき法を指し示す理論として構想されていた。
(p. 3)

good。しかし、

しかし、ミルを経てヘンリー・シジウィックに到ると、功利主義の理論的課題は第一義的には、統治の原理ではなく個々人が従うべき道徳の原理とされたのである。
(p.3)

こっちはどうかな。ミルの『自由論』『女性の隷属』、や、シジウィックの『政治学原理』Elements of PoliticsPrinciples of Political Economyを過小評価してる?いや、そんなことはあるまい。

他メモ。

  • 私とはなんというか概念の理解の解像度のようなものが段違いだね。こういう人に世界はどう見えてんのかなあ。思考のスピードもぜんぜん違う。こういうタイプの人ってはじめて見るよなあ。
  • 統治功利主義の「名宛人」は公務員とか。
  • ベンサム以来の功利主義の魅力の一つは、個人道徳から世界制服までぜんぶ一貫した原理で行けるぞってのだから、話を統治に限定しちゃうのは「ずるーい」と言いたくなるのだが、まあ戦略としてはいいよなあ。うらやましい。
  • 「統治」だけ分離するってのについてはGoodinはどう考えてるのか見てみる必要がある。この人の重要性は安藤先生から教えてもらうまで知らなかった。以前から某君とか時々言及してくれてたんだけどね。
  • まあ安藤先生の関心からして当面それで十分ということだから、文句つける筋合いはない。
  • 統治に限定することについては、Y君からもらった覚え書き参照。ミルのベンサム批判。濱先生の思想論文「リベラリズムの再定義」のやつ。
    サンキュ。
  • でも安藤先生の「方法」はどんなものなのかな。天下り式に功利主義を採用している、あるいは、統治の究極的原理の候補の一つとしての功利主義を所与とみなし、それを洗練させようとしていると見ていいんだろうか。そして洗練された功利主義が、競合する他の理論と少なくとも同じ程度にはよさげ、と言えればよい、のか。まあ、どっかに書いてるだろう。あ、本人に聞けばいいか。正月あけに聞こう。
  • シジウイックの『政治学原理』のやり方との違いは重要そうだ。
  • 2章と3章は私には読めんな。あきらめ。「間接功利主義」をちゃんと理解するのは重要なのはわかってるんだけど。
  • 功利の指標説。厚生(幸福)以外の価値が厚生に還元されるとまで言う必要がない。価値の対立を調整する際の指標としての厚生。
  • 内在的価値を例示するときにハイドンの「絃」楽四重奏をひきあいにだすp.95。しびれるなあ。しぶすぎ。
  • 4.1.1.2 内在的価値は個人的(personal)か。personal/impersonalを個人的/非個人的と訳すか人格的/非人格的と訳すかは微妙だな。あとで人格personをパーフィット風にばらしていく話をするわけだが。ここではとりあえず「ひとに依存するか」なんだろう。
  • 不偏性impartialityと非個人性impersonalityを混同してはいけません。そうですよね。p.99
  • 仁愛それ自体は功利主義によっては論証されない。

    理論的レベルでは、仁愛の採用は一種の決断である。もちろん、統治の場面で統治者がエゴイズムを採用することを推奨すればろくなことにならないのは明らかなので、統治理論を求める立場からは実践的にはエゴイズムが排除できるかもしれないが、それは功利主義の外部にある問題であるというしかない。(p.99)

    これでいいのかなあ。もちろん「論証」はされないだろうが、こういう片付けかたでよいのかどうか。よくあるベンサムに対する批判だと、事実として心理学的利己主義が正しいなら、なんで統治者が功利主義を功利主義を採用するべきだとされるのはなぜか?そもそも統治者は(事実として)自己利益を最大化しようとするのではないか?おそらく安藤先生のやり方は、だからこそ統治される人民が、法と各種サンクションによって統治者に不偏性を強制するのが重要なのじゃってことになるんだろう。「統治功利主義」の問題意識からすればこれで問題をパスできるのか。 うーん。でも人民が何組かに分かれて、力に差があったらどうなるかな。これもうしろで議論されてるはずだからそのとき考えよう。

  • 道徳判断と動機付けについては外在主義を採用。はい了解。
  • 「演奏会に行ってモーツァルトのオペラを実際に聞いてみたら、・・・ハイドンの室内楽に比較してそれがあまりにも凡庸なので・・・落胆を覚えるとしよう」p.101。うははしびれる。こういう例を書けるだけで凡人ではないのがわかる。ハイドン聞かないといかんですかー。
  • 「問題は、理想的自己がなにゆえ蒙昧なる私のことを思い煩うのか、が明らかではない点にある。」p.104。ここわからん。逆じゃないのかな。なぜ蒙昧なる私が理想的自己のことなんか考える必要があるか。あれ、私ここのわかっとらんな。その前の「事実的情報と合理性に於いて理想化された主体が現実の我々に持たせたいと思うだろう欲求の充足と内在的価値を同定する」p.102を読みそこねてたからだ。でもそれでも問題がよくわからんな。むずかしいです。ここらへん、もうちょっと頭悪い読者に親切に書けるような気がするな。
  • おそらくこの4.1.2.2の議論は、問題設定自体が安藤先生のオリジナルでその分読者にわかりにくくなってるんじゃないかな。なんか重要なところを見ているようだが、 私にはまだわからん。注意しつつスルーしなければならんなあ。しくしく。
  • 4.1.2.4。「快楽は常に正確なのである。自分が快楽を感じているか否かを間違うなどということは殆ど考えられない。」p.112。こういうのをさらっと書けるのがこのひとが問題をよくわかっているのを知らせてくれる。でもこれ、ほんとうかな。「苦しみ」ならそうだと思うんだけど、快楽/喜びもそうかな。苦痛だとどうか。sufferingのようなそれに対応する欲求が必ずともなっているものと、快楽や苦痛のような感覚についてもそういうことがいえるかな。言えるるか。ある意味では言えそうだな。快を感じていればそれはまちがいなく快だ。でも快を感じているときにはつねにそれを意識しているかな。あれ、そういう意味ではないのか。んじゃ「殆ど~ない」と限定する意味はなにか。「絶対に~ない」じゃないのか。安藤先生はなにを考えてるんだろうか。めずらしく腰ひけた表現だから気になってくるな。快楽と苦痛の非対称性にも注意。私は正義とかそういうのにはあんまり興味ないんだけど、こういうのはおもしろいねえ。私にとって功利主義が魅力あるのは、むしろこういう価値の理論を含まざるをえないからだ。
  • 4.1.2.5の議論が成功してるかどうか。「善の功利説は、個人的な非道徳的価値と厚生が概念的に等価であるといっているのではない。・・・善の功利説が主張するのは、個人的な非道徳的価値と厚生とが特質に於いて等しい、ということである。」p.113。「特質において等しい」かあ。例は熱と分子の運動エネルギー。この両者の「特質」とはなんだろうな。あったかいと感じることの原因になっていることかな?
  • 4.2.1でやってる卓越主義批判「卓越主義を含む客観的リスト説一般はある主の個人に対して自己論駁的であるか、或いはその個人を異常者扱いして自らの大将とすることを拒むかの二つの道しか採ることができない」(p.116)は、まあ実践的な含意は、よくわかるけどちょっとポイントが違うような。わからん。
  • 安藤先生の卓越主義に対する厳しい態度ってのは、あれだよな。生身の本人としてもさっぱりなんにも魅力感じないのかなあ。ここらへんが人間として著作家としてすごい。平凡な中年男としては、いやそれはそれで魅力があってね、とか言いたいとこだが、説得どころか耳をかしてもらえるように説明するのさえ無理だろう。
  • 安藤先生の方法(2)。4.2.1のところで「我々はそういった陥穽を避けるためにこそリベラリズムを採用したいのである。」やっぱりこういうのが前提にあって、その理論的基盤として功利主義を採用するっていう順番なのかな。常識的な道徳の分析から功利主義に辿りつくミルやシジウィックとはずいぶん違うように見えるな。できればシジウィック流のハードラインをとってほしいんだけどな。まあここはおそらく書きすぎなのかもしれない。まあそういうのがぽろっと出てくるのはいい感じだよね。
  • この前別の研究会でもJames Griffin話題になったし、卓越主義についてどういう議論をしているかちょっと目を通したいけど見つからん。コピーしかもってなかったような。
  • それにしてもこういう本を読むと、どういう問題についてもぼんやりとしか理解してないのが自覚されてつらい。人生短かすぎるよ。
  • 正直私もコンテナ扱いされるのはいやだし「人間はそんなに情けないものではないはずだ」とか思っちゃう。この「情けない」という形容詞の選択がいいよなあ。まあコンテナでもしょうがないねえ。ははは。せめてもっと大きいコンテナだったらよかったなあ。はは。
  • 時点主義もなあ。言いがかりだと言われるのは承知の上で、理論的困難によってではなく、なんか心理的障壁のために、ふつうの人間にはそういう理論は採用できんのですよ、とか言ってみたい。勘弁してくださいと泣き付くか、採用しにくさをなにも感じないのか手前は!と殴りかかるかどっちか、そういう感じ。でもまあシジウィックもすでにアレですけどね。ヒュームも?
  • あ、そうか、安藤先生の本では、パーフィットがやってるタイプの常識道徳に対する攻めがちょっと足らんかもしれんのだな。
  • やっぱりおそらく「密教的道徳」のところ3.2.1はいろいろ考える必要がある。統治の理論だから、と逃げることは本当にできるのかな。統治の理論だからこそ、となっちゃわないのかな。わからん。
  • おっと、時点主義と現在主義を混同しちゃだめなんだな。ちゃんと理解しよう。
  • アリストテレス~ヌスバウムの機能主義批判。まあたしかに機能主義はおかしいところがあるが、ちゃかしすぎかなあ。思考実験は笑える。それにしてもこの本誰に向けて書いてるんだろうな。それが知りたいような気がしてきた。
  • あ、児玉先生の博論や戒能先生の世界の支配者ベンサムも読まなきゃならんのかな?いやそりゃ無理だな。
  • 快楽。自分が快楽を味わっていると意識している時は必ず快楽をあじわっている。うむ。OKだ。しかし一方で、快楽を味わっているとはっきりとは意識していないけど快楽を味わっているってこともありそうだな。これが安藤先生の「ほとんど~ない」の意味なのかな。苦痛だとどうなんだろうか。安藤先生の用語法では、快楽と苦痛がいりまじっている状態というのはあるのかな。それは(用語法として)ありえないんだろうか。おそらく快楽を広い意味で使いたいだろうから、苦痛といりまじった快楽なんてのはないという意味で使うってるんだろうな。やっぱり快楽はふつうに「望ましい意識状態」や「望ましい心理的状態」だろうなあ。でもこのときの「望ましい」ってのはどういうことなんだろうな。それは「(合理的な?)欲求の対象になっている」なのか、他になんかあるのか。あれ、おかしいか。ここはいろいろトリックかけられちゃうところなんだよなあ。慎重にチェック。
  • それは5章で扱われるのです。
  • まず記述的快楽説と規範的快楽説を分けます。問題は規範的~の方。さらにまず感覚的快楽説と分けましょう。さらに残りを内在的快楽説と外在的快楽説に分ける、と。
  • こういう分類好きがベンサム主義者たちの真骨頂だよな。ついていくのがたいへん。なんか認知のあり方が違うんだと思う。あとベンサム的な人々の造語癖みたいなんとかも苦手。安藤先生にもその一面がかいま見えるなあ。informed disireに「知悉的」をあてたり、sufferingに「艱苦」あてたりね。「艱苦」の方は辞書に載ってますけど。どっちも好きな人は好きみたいね。まあ言葉に敏感じゃないとこの手のはできないもんなあ。
  • hedonic tone。ふむ。これがさっきの「特質」に対応するんだな。いや、ちがうか。
  • へえ、外在的快楽説とかってもの(「様々な心的経験それ自体ではなく外在的な要素が関して初めてそれらの諸経験が快楽となる」)を採用するのか。これは斬新そうだ。安藤先生の議論のミソなんだんだろう。
  • fall-back。後退戦線。ここらへんが安藤先生の著述方針の斬新なとこだ。あえてつっぱらない(ように見せかけて実はつっぱる。あるいは誘いこんで戦う)。へんなやつだ。
  • あら、外在的な要因とは、「我々がそれ(感覚経験)に肯定的態度を取れば「快楽」であり、否定的態度を取れば「苦痛」である」p.145とかってことなのか。なんか肩すかしくらった。
  • 「外在的快楽説を採る場合、そういった態度の対象は狭義の感覚経験だけに限定されるわではない。」p.145そうですか。
  • 「その対象は欲求の対象の場合と同様に、命題或いは命題相当物である。それゆえ、外在的快楽説は命題的態度の一種として「快苦」を考えることになる。」p.145。なんか怪しげな雰囲気がたちこめているように思う。わからん。
  • 「このような快楽説に於いて「欲求」が快楽の定義に出てこないことに注意しよう。」。ってことでブラント先生の欲求概念をもちいた「幸福」の定義を批判する。勇気ありすぎ。すげー。
  • 「「肯定的態度・否定的態度」は欲求とは異なった原始的概念である」p.146か。ふむう。欲求を離れて態度が言えるってわけか。理解しにくいな。
  • 態度的快楽。猛烈にあやしい。わからん。やっぱり昼間から気になっている問題がここに集約されるんだわな。Fred Feldmanとか読んだことないですよっと。国内で何人ぐらい目を通してるんだろう。ここのあたりは最後までひっかることになりそうだなあ。でもとにかく野心的な奴だ。

高橋昌一郎先生の功利主義理解

なかなかおもしろそうな本。肉食、代理母、死刑、終身刑、メーガン法、売買春、安楽死、自殺とおもしろそうなネタがてんこもり。ゆっくり読んでみよう。なるほどこういう論述はおもしろいかもしれない。

とりあえず、

ハリー (略)どちらかというと、私は自分自身を快楽主義者に分類したいと思います。私は、人生における自分の喜びが最大になるように計算しながら行動しているのです。ただ、だからといって、ジョージほど利己的でもありません。私は、自分自身に対してほどではありませんが、他人の幸福にも何らかの価値を認めています。そして、長期的に見れば、私がいつも正直であれば、私は最も幸福でいられるだろうという理性的な根拠が十分あるのです。

(略)
教授 ハリーの主張していることが、「最大多数の最大幸福」と呼ばれる功利主義のスローガンですね。ベンサムは、社会全体の「幸福」は、個人の「快楽」の総計だと考えました。一人より二人、二人より三人と、より多くの個人が、より多くの快楽を得ることのできる社会を目指すべきであり、それが新しい道徳だと考えたわけです。(p. 56、強調原文)

うーん、なんか困るなあ。ハリーさんは功利主義者ではなく単なる(善意benevolanceも持ちあわせた)合理的利己主義者なのではないか。功利主義者であるためには、「誰もを一人と数え、誰も一人以上には数えない」、つまり、誰の幸福(ベンサムの場合快楽と苦痛の欠如)をも同じに扱う必要がある。自分を特別扱いに するハリーさんは(一応)功利主義者ではない。もちろん、功利主義者は、皆がハリーさんのように自分の幸福をまず考え、他人にも一定の配慮をするように考えることが、長い目で見れば社会の幸福を促進すると考えるかもしれない。でも自分を特別あつかいにするのは功利主義じゃないのははっきりしている。

また、ベンサムは社会の「幸福」と個人の「快楽」とかってのも(とりあえず)使い分けてない。「より多く」はいいんだけど、数はあんまり関係ない。うーん。

まあハリーさんが規則功利主義者や間接的功利主義者である可能性は十分ありそうだけど、上のハリーさんの言い分そのものは功利主義的ではないと思う。こういう例文の出典らしいスマリヤンがおかしいのかな。

これまだ見つけられません → 教えてもらいました

に書いた「社会の幸福を有意義かつ正当に増大」の出典調査中。英文ざらっと見ても見つけられない。誰か助けて。

特に重い先天的障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって、「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」(トゥーリー[1988:39])

出典がまちがっている。トゥーリー1988は文献表によれば加藤尚武・飯田亘之(編)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会1988だが、39ページはトゥーリーの論文ではなくプチェッティの論文。あれ、この一文は前にも見たことがあるが、出典があやしいぞ。あら、これ翻訳(抄訳)に出てこないんじゃないかな(原典にはあるかもしれんけど)。またエライこと発見してしまったかもしれん。まああとで調査。ぐびぐび。

だれかのロンブンでも同じ引用文を読んだことがあるんだ。だれだったかなあ。

For in the vast majority of cases in which infanticide is desirable, its desirability will be apparent within a short time after birth. Since it is virtually certain that an infant at such a stage of its development does not possess the concept of a continuing self, and thus does not possess a serious right to life, there is excellent reason to believe that infanticide is morally permissible in most cases where it is otherwise desirable.

っていう文章はあるんだけどね。(最後から二つ目のパラグラフ)。和訳では

嬰児殺しが希望される大多数のケースでは、出産後の短い時間内に嬰児殺しの希望がはっきりする。生長のその段階の嬰児が持続的自己の概念を所有せず、したがって、生存する重大な権利を所有していないのは、事実上確実である。それゆえ、何かの理由で嬰児殺しが望まれるほとんどのケースで、嬰児殺しは道徳的に許されうる、ということを信じてよい十全な理由が存在することになる。 (p.109)

まあたいていの人にとって恐るべき結論だ。ただし訳文の「希望」はちょっと訳しすぎかも。(なんらの理由からもうちょっと客観的に)「望ましい」だろう。嬰児殺しって書いちゃうとどうしたって「面倒だから殺しちゃう」とかそういうのを考えてしまうけど、このころに問題になってたののは新生児を殺すってよりは、治療をひかえて死なせること。これもかなり多くの人が非常に強い抵抗を感じると思う。私も感じる。

でもまあ考えてみなきゃならないのは、たとえば超未熟児(超低体重児)に対する対応なんだよな。

超低出生体重児-新しい管理指針

超低出生体重児-新しい管理指針

この本で東京女子医大の仁志田先生たちは、24週500g未満の新生児を助けることさえ可能になってるんだけど*1、どうにも予後が悪いので、「生育限界」という考え方を入れなきゃならんのではないかと提唱している。

日本全体のコンセンサスとして、このくらいの児は治療を受けるべきであるとするレベル、すなわち一般的な同意としての生育限界は28週、1,000g前後であろう。この生育限界以上の児は、どこで生まれようともすべての日本人同様に現在の医療のレベルを受ける権利があると考えるべきである。 (p. 27)

ということらしい。逆に言うと、28週未満の子はそういう権利がないかもしれない(治療せず死なせることも許されるかもしれない)ということを含意していることに注意。もしどんな新生児も生きる「権利」や治療を受ける「権利」をもっているのならば、仁志田先生たちの立場は道徳的に許容できない。したがってなにがなんでも治療するべきだってことになってしまうかもしれない。「権利」っていうのはそういう厳しい意味で理解されるべきで、たんなる「道徳的配慮の対象となる」ってのとは区別されるべきだ。

これほんとに難しい問題で、私はこういうのを考えようとすると頭がマヒしてしまうのを感じる。産科のお医者が減ってるとかってのもこういうのと関係しているのかなあと想像している。

おしえてもらいました。

Kさんに教えていただきました。ありがとうございます。第1節の最後の方にある。もっと後の方にあると思いこんで目に入っていませんでした。ほんとに私は目のなかに丸太はいってても気づかないだろう。

Most people would prefer to raise children who do not suffer from gross deformities or from severe physical, emotional, or intellectual handicaps. If it could be shown that there is no moral objection to infanticide the happiness of society could be significantly and justifiably increased.

翻訳にもちゃんとある。

たいがいの人は子どもを育てるからには、重大な欠陥や重い肉体的・感情的・知的なハンディキャップを背負っていない子どもの方がいいと思う。もし嬰児殺しに対して道徳的反論が存在しないことを示すことができたなら、社会の幸福 happiness of societyを有意義かつ正当に増加させることが可能となるのである。 (邦訳p.96)

「重大な欠陥」は「著しい形成異常」かなあ。”suffer from”ももうちょっと子ども本人の主観的な苦しみだってのを訳出したいような*2。If ~ couldの仮定法の感じも本当はもうちょっと出したい(「もし仮に~できるならば、~できるだろう」)し、significantlyはコメントにあるように「有意義」はちょっと違うけど、これくらいだと思う。まあなんにしてもちゃんと出典あります。

ついでにその次のパラグラフの文章も紹介。

The typical reaction to infanticide is like the reaction to incest or cannibalism, or the reaction of previous generations to masturbation or oral sex. The response, rather than appealing to carefully formulated moral principles, is primarily visceral. When philosophers themselves respond in this way, offering no arguments, and dismissing infanticide out of hand, it is reasonable to suspect that one is dealing with a taboo rather than with a rational prohibition. I shall attempt to show that his is in fact the case.

嬰児殺しは、それが引き起こす強い感情[的反発]という点においてもまた興味深い。嬰児殺しに対する典型的な反応は、近親相姦や食人に対する反応、あるいはマスターベーションやオーラル・セックスに対する古い世代の反応に似ている。その反応は、注意深く形成された道徳原理に訴えるものというよりも、むしろ主として本能的な[反発]であると言った方がよい。哲学者自身が、何の議論も提出せずに嬰児殺しの問題を却下し、さきに述べたような反応を見せるとき、その哲学者は嬰児殺しを理性的に禁じたのではなく、むしろタブーとして扱ったのではないか、と疑ってみる必要がある。事実そのとおりであることを私は示してみようと思う。(p.96)

primarily visceral は、「主として本能的な反発」でもいいけど、「まずなによりはらわたからの反発なのだ」ぐらい?哲学者はタブーを破って合理的な議論をしろとトゥーリー先生は言いたいのだろうが、まあ実際この問題を考えると頭はマヒし、考えただけで「胸が悪くなる」「吐きそうだ」と思う人は多いだろう。

おそらく国内で最も急進的な功利主義者である安藤馨先生は、『統治と功利』で

肉食の肯定について一貫的な立場を採るなら、親や周囲の愛情や配慮という外在的な要因が総て取り除かれるならば新生児を食用のために殺すことも原理的には否定されないだろう。(p.244)

とか書いちゃうわけだが、私はこういう書き方はできないなあ。こういうあざといはっきりした書き方をしちゃうから功利主義者はアレだと言われてしまうわけだが*3、まじめに考えれば安藤先生の主張はかなり説得力がある。それにこれも前提に注意。

オーラルセックスやマスターベーションやホモセクシュアルや人種間結婚に対する態度はずいぶん変ったけど、近親相姦や食人のタブーはもっと深く普遍的でなかなか変わらん。新生児治療停止に対する反発はどっちに近いか。

あともうちょっと「権利」について補足しておくと、「治療の予後が悪いことが予測される超低出生体重新生児は治療を受ける権利がない」という考え方は、「新生児はみんなそういう権利がない」という考え方よりもおそらくさらに受けいれにくい前提を必要とする。「権利」は難しい。

*1:人工子宮なんてのは、受精卵や胚の方からではなく、こっちがわから試行錯誤で攻めていけばいずれは実現されるのかもなあ。でもおそらくそれまでの過程がどこか非人道的になるのかもしれない。こういう発想は自分で考えてもショッキング。

*2:もちろんここから「社会の幸福を増大」させるってことにつなげるには問題の「非同一性問題」を解かないとならない。

*3:あと、「それを知る人々に与える不快感」とかも外在的な要因にはっきり数えあげた方がいいかも

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

(NHKブックス)

  • 2章でロングフルライフの議論からパーフィットと全面対決しているのはすばらしい。 議論が成功しているとは思えないけど*1、非同一性問題のところは難しくてふつうの人はなかなか手が出せないところなので、
    がっぷり戦おうという気概がすばらしい。論述も手探りで哲学している感じでよい。
  • 若い人々がこれ読んで、自分でパーフィット読んでみていろいろ発展させてくれるといいな。パーフィットはなんというか怖がられてるんだよね。ちなみに次の本になるはずのClimbing the Mountainの草稿もネットで公開されているので若い人はぜひ読もう! パーフィットの議論に穴を空けられれば世界的名声が。世界中の哲学若者がギラギラと狙っているはず。
  • 「われわれの議論では」「われわれの結論は」は勘弁してほしい。それはたいていの場合加藤先生の直観的判断にたよってるので。
  • 全体に「プラグマティックな解決」とかってときの意味がよくわからない。「理論的にはあんまりすっきりしてないけど、とりあえず多くの人が納得しそうな」なのかなあ。「私の直観によくあう」という意味ではないだろう。強硬なプロライフの人は加藤先生の議論に納得しないと思うけどね。そういや、同じようなことを言うAnthony WestonのToward Better Problemsの翻訳がどっかから出るという噂があるらしい。
  • 第3章は一番言いたいことなのかな。いろいろ本気な感じがする。加藤先生の直感はいつもながらすばらしく切れるが、どこまで正当化できるか。
  • 永井豪の「真夜中の戦士」を参照していて感動した。そう、あれジャンプに載ったときは衝撃的だったんよね。あのころのジャンプはすごかった。
  • 第4章はフーコー、アガンベン、アーレントとぞろぞろおなじみの華々しい名前が出てくるけど、どうなんだろう。3章に比べると議論の「本気さ」が足りないような気がする。
  • やっぱり「権利をもつ」ことと「道徳的配慮の対象になる」ことの区別がついてないのが気になる。「シンガーの動物の権利論」(p. 212)とか。シンガー先生は「動物は道徳的配慮の対象になる」とは言うけど、動物がなんかきっちりした「権利」もってるとまでは主張しないはず。まあこれはしょうがないか。
  • でもなんで国内ではこんなに「権利」が軽視されているのか([道徳的配慮の対象となる」程度のと混同されているのか)ってのはほんとうにまじめに考える必要がある。もちろん、ハートやドゥオーキンが言うような「誰もが平等な道徳的配慮の対象になる権利をもっている」程度の非常に弱い意味の権利は誰でも持ってるんだけど。ほんとうに「権利」は難しい。ここらへんよい参考書はないのかな。調査すべし。
  • 「関係性」が重要だとかってのはたいていの功利主義者は認めるわけだし・・・
  • もちろん、シンガーの文脈では火星人もロボットもある条件(「利益をもつことができる=なんらかの欲求をもつことができる」)を満せば道徳的配慮の対象になる。アトムとか「真夜中の戦士」の登場人物とか完全に道徳的配慮の対象。
  • 全体と通してオリジナル。オリジナリティのあるひとってのはほんとうに重要だ。でもパーフィットその他の文献の調査として読むのはやめてほしい。オリジナリティと文献調査の正確さってのは相性が悪いのかもしれない。

あざとい読者サービス

せっかく稲葉先生がトラックバック送ってくれたので、あざとく数少ない読者サービスしてみたり。

もしも本気であらゆる生命を讃えるならば、胎児を殺すことはいけないとか、障害者差別は許されないとかいったハンパな主張に安穏と留まることなどできるはずがないのである。なぜなら、胎児の組織の一片、障害者に寄生する細菌どももまた、生命であるという一点においては人間とえらぶところがないのだから。人間を生かすために病原菌を殺すことを肯定するのならば、それはもはや文字通りの「生命」の肯定ではない。そこにはすでに、殺してはならない存在者と殺してもよい存在者という区別すなわち存在者の序列化が密かにもちこまれている。(p.210)

この加藤先生の主張はまったく正しい。これがわかっていてなぜ昨日書いた第1章のような議論になるのはよくわかない。これに対して x0000000000 (0が多すぎると思う)さんはこう書く。

そうだろう。だが、僕は台所にいるゴキブリを殺したりするのである。それは、「生の無条件の肯定」を主張する僕と齟齬をきたすのか。そうではない。僕は、ゴキブリを殺すとき、「正当だから」殺しているのではない。つまり、ゴキブリを殺すことは悪である、という前提に立って、「悪をしでかす僕」としてゴキブリを殺している。僕は、そんな僕を正当化しない。
)

『美味しんぼ』第53巻(?)の「犬を食べる」での京極・山岡が菜食主義者の外国人をやりこめた議論と近い。かぼちゃかなにかの発芽の様子の映画を見せて、すべての生物が生きてるから牛豚犬とか食うのは道徳的に問題があるという人々をやりこめる。「それを仏教では業というな」「俺たちは罪深い存在なんだ」とかそんな感じ。

このタイプの議論にはずいぶん長いこと悩んでいるのだが、人々に理解されにくいのは、道徳的な主張には過去の行為の(狭い意味での)正当化の文脈と、これからの行動のガイドの文脈があるってことなんじゃないかと最近理解しはじめた。

X0さん(ごめん0省略)がゴキブリを殺すのを「正当化」しないのは立派なことだが、次もX0さんは台所でゴキブリを殺すだろう。でもネズミを殺すのもっと抵抗があるかもしれず、かなり自分が困ってもギリギリまで人間を殺そうとはしないと思う。そういうこれからの行動のガイドになっているのはいったいなんなの?ってのが広い意味での正当化の問題なんだよな。すべての生命がほんとうに同じ価値があると信じているのなら、これまでの行為を正当化しなくても、次の行為についてはそれがガイドになるはずだ。私はカボチャは平気で食べる(好き)だけど、豚を食べるときはあんまり平気じゃないし、できればなるべくよい環境で育った豚を食いたいと思っているし、これはとりあえず私にとって一定のガイドになっている。(私はあんまり道徳的でないのでなかなかガイドにしたがうことができない)

京極さんや山岡は「なんでも生きてるからなんでも同じ、だからうまいものを食う」と正当化するわけだが (実際にはよい環境の鳥や牛を食う努力をしているらしいが*2)、これはこれまでの行為の正当化と、これからの行為のガイドを混同しちゃってる。というか過去の行為の正当化の文脈ではやっぱり結局どうにも正当化できないから、これからもなんでもやる、という非常に怪しい議論に近くなってる。これじゃだめだ。これまで悪をなしきたことは消すことはできないが、これからその悪を減らすことはできるし、そうするべきだ。これまでゴキブリを殺して悪をなしたと本気で思っているのであれば、次はゴキブリを殺すことをなるべく避けるべきだ。これからもゴキブリを殺しつづけるのであれば、そしてゴキブリは殺すけどネズミや胎児は殺さないのであれば、なぜそうするのかを(できれば)説明してほしい。私は少なくも自分自身にはそれを説明したい。もちろん、自分が選択の余地なく「ゴキブリを殺さざるをえない」と本気で感じるのであれば、そこに選択する余地はないのだから、そういう意味で正当化する必要はない。

でもそれを認めれば、「私はレイプせざるをえない」と感じているひとがそうするのを道徳的に非難する理由もなくなってしまうかもしれない。まあここらへんはよくわかんないけど、こういうのはできるだけ避けたい。

おそらく、京極・山岡・X0の議論は、実は「私はそれに相応の罪悪感を感じているから正当化される」ってな感じになってしまっているんじゃないかと思う。おそらくX0さんはこの読みは不満だろうと思う。その不満は理解できる。でも私はやっぱりまずはガイドについて話をしたいと思う。なんらかのガイドを発見し、それに従うことができなかったときにそれに相応の罪悪感を感じるべきだ。X0さんが次にゴキブリを殺し、ネズミは殺さず逃がすとしたら、その違いはどこにあるんだろう? 次に他人の傷口を消毒して、そのひとの体の一部を細菌のエサにしないとしたら、その判断の違いはどこにあるんだろう? 私は消毒するときにはなにも罪悪感を感じる必要はないと思う。すべての生命は価値があると主張したシュバイツァーの病院が、実は医学的には非常に不潔な環境でけっこう多くの人を無駄に苦しめたったらしいって話はあんまり有名じゃないのかな。(ソースもってないから都市伝説?)

もちろん、なんの罪悪感を感じずに豚食べるひとはおそらく人間的に問題がある。「命を食べさせてくれてありがとう」っていう心性はとてもよいものだ。でも罪悪感を感じればなにをしてもよいわけではない。

こういうのはずっと前に書いた森岡先生の『生命学~』についての議論と関係があるんだな。道徳的な主張を感じるべき罪悪感の文脈で考える人と、ガイドの文脈で考える人がいて、それが難しい問題を生んでいるようだ。罪悪感は非常に重要だ。でもそれが正当化のすべてじゃない。関係する重要な文献はいくつかあるような気がするけど、本当によく書けている国内文献はまだ見てない。

*1:どう成功してないのか書こうとするとあんまり生産性のないロンブソになってしまう

*2:おそらくその方がおいしいからという理由かもしれないけど

他の文献も読んでみる

手に入りやすいものだけ適当に見てみましょう。

  • 斎藤真緒「「ケア」をめぐるアポリア」、『立命館人間科学研究』第5号、2003。国内の基本文献調査。見通しがよくて役に立つ。「感情労働」についても論じている。なにが「アポリア」かよくわからない。
    どうも中村直美先生が「アポリア」として指摘したってことらしい。

  • 中村先生調べないと。
  • 宮内寿子先生がけっこうよい。 「ケア倫理の可能性」『筑波学院大紀要』第3集、2008。ノディングスとクーゼの批判を紹介。他に「ケアリングと男女共同参画」とか「自由と幸福」とか、着実で好感。
  • 生命倫理学を学ぶ人のために』の竹山重光先生のやつ。メイヤロフは重要だよ。あとギリガンとノディングスの紹介。字数少ないからこんなものだろう。もっと分量増やした方がよかったんじゃないだろうか。そういやこの本はもう10年前だから、アップデートした方がよいのではないかという気もする。
  • 岡野八代先生はこの分野ではすでに大物だ。『シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書』とかこのひとのも脱構築しちゃって難しいから腰落ちつけて読まないとなあ。あ、『現代思想』2005年9月号の「繕いのフェミニズムへ」の方が重要だわ。でもどうもこの方も功利主義でいいんじゃないかという気がする。
    功利主義も「自他の区別」とか(それだけでは)あんまり気にしませんよ。っていうか
    まさにその点がロールズ先生あたりから攻撃されてたわけで。やっぱり
    藁人形攻撃しているっていうか、80年代の「正義論」がだめすぎたように見えるなあ。

  • 牟田和恵先生もなんか書いてそうな気がしたけど、見つからん。
  • 上野千鶴子先生とかも調べる必要あるんだろうか。あ、上の『現代思想』になんかインタビューが。
  • それにしてもクーゼはまともだ。
  • 図書館に『時代転換期の法と政策 (熊本大学法学会叢書)』があった。中村直美「正義の思考とケアの思考」。
    よい。「ケアの倫理」とかじゃなくて「ケアの思考」にしてるのがとてもよい。
    内容も正統派。クーゼ派。お、ストッカーの「分裂症」論文や、それに答えるヘアの二層理論にも
    触れてるぞ。よい。

    雑感

  • どうも地位や権力もってる主流派の方に説得力を感じるのはやっぱり
    すでに権力とかもっちゃってるからなのか、男性的思考に染まりきってるからなのか、
    ケア能力が足りないからか邪悪だからか。精神分析されたり脱構築されちゃうとやだな。

  • 自明な結論は、「ケアも正義も大事です、特に最近はケアとか忘れられてたかもしれないので注意しましょう」。品川先生もこの結論でいいんじゃないだろうか。
  • でもたしかにケアとか、仁愛とかに代表される人間的な徳とか、そういうのって
    ここ最近の「倫理学」の議論で無視されがちだったように見えるかもしれんよな(実はそうじゃないんだけど)。

  • 加藤尚武先生あたりが
    「倫理学ってのは対立を調停する手段を考える学問だ」とか「合意形成こそ重要」とか
    そういう主張してた(正確じゃないけど)のが裏目に出てるのかもしれないなあ。倫理学ってのは
    そんな貧弱なもんではないぞと言いたいひとがいるのはとてもよく理解できる。

  • 「愚行権」とかって言葉が流通しちゃって*1、リベラリズムってのが「とにかく他人をほうっておくことなのだ」とか理解されちゃってるのもなんだか有害だ。
  • ミルの『自由論』の立場は、「他人はほっとけ」なんてもんじゃないぞ!誰かが他人には危害加えないけど道徳的にやばいことしてたら
    世論の非難とかしてぜんぜんかまわん。全力で説得しようと試みてぜんぜんかまわん。

  • それに、誰かが困ってたら助け、破滅しそうだったら防げってのが
    ミルの意見だ。誰も壊れた橋を渡ろうとなんかしないのだから。特にミルの時代に比べて、
    われわれはミルが考えてたよりずっと弱いってことがわかってんだから。ギャンブルとかアル中とかドラッグとか。ミルは楽天的すぎたわね。でもミル先生がいま生きてたらそういう人類の経験からいろいろ考えて、立場をちょっと変更するだろう。
    まあミル先生は当時の悲惨な状況を主として教育の問題だと思ってたかもしれない。「このひとたちもちゃんと教育されればもっと
    うまく生きられるはずだ」とか思ってたんだろう。ミルが考えてたほど人間は可塑的ではないかもしれない。また合理的でも理性的でもない。

  • 国内ではどうも法と道徳の関係がよく理解されてない感じがする。
    あるいは社会制度と個人の徳との関係っていうか。これがやばい香りがする。

  • 特に国内の伝統としては各種の「徳」や「調和」「順応」「忍耐」「気配り」とかが重視される
    傾向があって、ケアとかの重要性をとなえるひとは各種の政治的含意にも
    気をつけてほしいような気はする。共同体主義についてもそう感じる。
    徳倫理学とかちゃんと紹介されたらとんでもなく
    流行するだろう。

  • 特に道徳教育の人たちはそういうのが好きだし、ケアとかばっかりに見える。ちょっと危険かもしれない。
  • だからまあケアを代表に、もっといろいろ人間生活で重要な価値について
    われわれは語りあうべきだわね。正義だけじゃだめ。美とかもあるし。

  • 哲学研究者はもっと “The importance of what we care about” を語りあうべきなんだよな。
    でもそれやるのに、脱構築やらなんやらのなんかヘンなものもってくる必要はない。古典の分厚い伝統をもってるってのが
    伝統的な哲学を専門とする研究者が関連諸分野の研究者に対してもってるアドバンテージなんじゃないかと思ってる。
    アリストテレスやヒュームやカントやミルやシジウィックからくみだせるものはまだまだたくさんありそうだ。哲学の伝統のうすっぺらい理解にまどわされる必要はないっしょ。

  • 米国の哲学教育がおかしくなってんじゃないかという印象はなんか強くなってる。
    アラン・ブルームやロバート・ベラーとかが危惧してた状況で育った学生たちがいま中核になってるんじゃないのかなあ。

  • だから品川先生の本はそこらへん考えさせてくれてとてもよいと思う。「善人の、善人による、善人のための倫理学」とか
    って言葉が最初読んだときから頭にあるんだけど、それだけじゃないはずだ。

*1:この言葉はミスリーディングで凶悪なほど有害だ。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (3)

と の続き

ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ)

第2章「性売買としてのポルノグラフィ」

それほど問題なさそう。現在のAVポルノ制作は売買春を含んでいる。まあ前貼りつかってたころの日活ロマンポルノも広い意味では売買春含んでたのかもしれないけど基本的には「うそんこ」の演技だったわけだが、現在では実際のオーラルセックスや本番なしのAVなんて考えらんないしね。

バクシーシやバッキーに代表される暴力ポルノAVが問題なのは、演技じゃなくてほんとに人間を殴ってそれを撮影してたわけで、そういうのが犯罪を構成しないっては私には信じられん。

そりゃどんな映像も「リアル」なのはおもしろいわけだが、リアルさを追及するためにリアルなことをしちゃうってのがね。現代の広い意味のポルノ(エロチカも含む)の特殊性がここにある。

銃撃戦はおもしろいが実際に銃撃戦することはできない。映画で「誰かが青痣つくほど殴られる」ってのを表現したいときに殴って青痣つけるなんてのはありえない。

本番ポルノ女優としては愛染恭子が有名だけど、ポルノ映画界主流派にとってはやっぱりキワものだったろう。そういやかわぐちかいじの漫画『アクター』でも本番やるってのがあったが、そういう形での「リアルさ」の追求はフィクション作家としては志が低いのはほとんどのフィクションファンは認めるんではないかと思う。ドキュメンタリー作家なら別かもしれんが、ドキュメンタリー作家が人殺しを取るためにおかしな奴に実際に人殺しさせたらやっぱり犯罪だろうよ。(なので私はバクシーシもバッキー栗山もやっぱり犯罪者だと思うし、そういうのをもてはやしていた馬鹿たちはほんとうに馬鹿だと思う。バクシーシもてはやしていたAERAとかそろそろ一回自己批判してみたらどうか。)

どの論者にも、このポイント(「AVはリアル」」)はあんまり指摘されてないんだよな。中里見先生は書いてくれるんじゃないかと思ったけど、ちょっと足りないみたい。自分でもロンブン書くか。

第3章 「性売買批判の論拠」

性売買がだめな理由。

  1. 性売買の強制(経済的なインセンティブも中里見先生にとっては強制)
  2. 現場で被る暴力
  3. 買春する男が女を対象物化するようになり、他の女性に被害を加える
  4. 女性差別の再生産、女性の地位低下

まあよく主張されるポイント。議論しつくされている感じがある。

気になったのは「3 「性=労働」論をめぐって」と題されている第3節。

うーん、このイコールは曖昧なので勘弁してほしいんだけ どな*1。イコールで結んでいるのが内包なのか外延なのかはっきりしない、その意味内容や範囲が同じなのかどうかあいまいなまま進んでいっちゃうのは困る。「セックスの一部は労働としてみることができる」「セックスはぜんぶ労働」「労働としてのセックスもOK」「セックスとしての労働もOK」とかいろんな読み方ができるような気がすんだけどね。あきらかにセックスと労働は違う概念なので、そのセックスの一部と労働の一部がかさなりあうことがある(そしてそれもOK)ってぐらいの意味なんだろう。

セックスワーク

中里見先生の主張は

性売買は性の支配をつうじて人格(尊厳)を侵害するという主張は、性(セクシュアリティ)と人格の結びつきに対する積極的な評価を前提にしている。人にとって性が人格と深いところで結びついているという事実を直視し、人の尊厳を尊重し保護するには、性を労働と同等に扱うのではなく、労働以上に篤く保護する必要があると考える立場である。(p. 52)

まえにもやったけど、この「人格」の概念というか意味はかなり曖昧で取り扱いに苦しむ。 と のうしろの方。これ本気でちゃんと分析するとけっこうオリジナルなロンブンになってしまうなあ。

中里見さんのような人がこういう主張をするばあいの「人格」はかなり多義的で、私の目には少なくとも

  1. 「「そのひとがどういうひとであるか」という意味の「人格」のなかで性欲やセックスや性的アイデンティティはかなり重要な部分を占めている」」
  2. セルフアイデンティティと呼ばれるもののなかでセックス関係は重要。
  3. 他人からある人を見た場合に、その人のセックス関係はその人を評価する上でけっこう重要。
  4. 人間関係を円滑に営む上でセックスはとても重要。
  5. 誰にたいしても性的な自由は尊重されるべきであり、この尊重を要求する権利は、人間が人間である以上普遍的に保持している(べき)ものだ。
  6. 人間の成長発達するなかで性的経験はたいへん重要。
  7. もっとある

とかってのの集合なんだよな。あ、1と2をうまく書き分ききれてない。あとで考える。

さて、セックスワーク論に対する中里見先生の批判は、一部非常に重要な点をついている(っていうか触れつつある)。これは高く評価されるべきだと思う。

このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。(p.53)

私はこれは非常に有効なポイントだと思う。労働ってのはふつうは技術なり労働力なりを売るものなわけだが、売買春や本番AVで女優や男優が売っているのは技術なのかどうか。加藤鷹は技術を売っているかもしれんが、相手の女優は技術ではなく生理的な反応を売っているんではないかという感じがある。中里見先生偉い。このタイプのものを売る商売ってのはなかなか 近いものが見当たらない。マッサージ師も身体を使って仕事をするわけだが、彼らははっきりとした技術を売っていると思う*2*3

ただまあ、売買春において「身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供される」ってのはほんとうかな。児童買春とかはそうかもしれんが、ふつうの街中にあるような風俗とかでもそうなんだろうか?マッサージ師が技術者であるなら、風俗嬢も技術者として評価される可能性は十分にありそうにも見える。そういう技術者として自分を認識している風俗嬢は、技術を磨くこともできれば、その技術と仕事に誇りをもつことも可能かもしれん。まあわからん。キャバクラとかで、自分ただ若い女であることを武器に、しょうもない話術と胸チラとかで商売しているひともいれば、日経新聞とプレジデントとかを毎日読んで努力して自分を磨いている高級クラブのホステスもいるだろう。前者のなかにも、そして後者の多くは自分の仕事にかなりのプライドを持っているような気がするし、それが風俗嬢に不可能かどうか。わからん。

中里見先生のよくない点は、「完全に受動的に」性的使用されるというようなケースのセックスワークがある(かもしれない)ってことから、

「そういった状態に置かれ、性的使用に供されることがサービスや演技の内容なのだ」ということはできる。だがそれはいいかえると、虐待を受け入れることを 「サービス」や「演技」と称して、金の力で強要することを正統*4化することにほかならない。(pp. 53-4)

と進んでしまうことだわなあ。たしかに児童買春は虐待だろう。でもそれをふつうに誇りをもって働いている(かもしれない)セックスワーカーの人たちにまで拡大するのはダメだし失礼でさえあるかもしれない。

性売買の現実をみれば、そこで常に売買されているのは「労働」でも性的「サービス」「演技」でもなく、それらに名を借りた、一定の範囲における、女性の身体の性的使用権である。・・・(売買春・ポルノの場では)売買される女性の身体の性的使用権は、女性の身体の性的濫用=虐待権と実体的に区別がつかない。(p. 54)

「性的使用権」。うーん、そんなもんがあるんかいな。まあ言いたいことはわかるんだけど、なんか根本的にまちがっているような気もする。わからん。

第4章 「ポルノ被害とはなにか」

いろんなポルノ被害を列挙。とくに鬼畜バッキーヴィジュアルプランニングの例が使えているので迫力がある。ここ、読むとウツになるし、トラウマあるひとはフラッシュバックおこしたりする人もいるかもしれないのでその傾向あるひとは注意。

ポルノグラフィと性犯罪の因果関係

たいていの場合ポルノは読んだり鑑賞したりするものではなく使うものであることを正しく指摘。オナニーで使うわけだがそれによって、

ポルノグラフィの内容は、性的快感と生理的反応をつうじて全体で肯定されることによって、その男性に文字どおり身体化され、血肉化される。(p. 75)

こういう大袈裟な書き方が私にはちょっとアレだが、 ここらの問題はちょっと古いけどアイゼンク*5の『性・暴力・メディア』新曜社1982あたりでも詳しく議論されているので興味のあるひとは読むべきだと思う。また、ここらへんは国内におけるポルノ利用の権威 id:kanjinai 先生にも評論してほしいところ。私にはよくわからん。

その次のパラグラフはおかしいと思う。

この事実を踏まえたうえで、なお一部の論者のいうように、「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」としたら、その論者はこういわねばならない。ドメスティック・バイオレンスを減らしたければ、妻を殴り、虐待し、拷問することを娯楽に仕立てる本やビデオを社会に大量に流通させ、世の夫全員が妻の虐待映像を自らの身体的・心理的快楽として消費するようにすればよい、と。また子どもの虐待を減らしたければ、子ども虐待を娯楽にする商品を社会に溢れさせて親がそれを好んで使うようにし、外国人差別をなくしたければ、当該外国人を拷問するビデオを人々の楽しみにすればよい、と。「ポルノグラフィが性犯罪を減らす」という議論が、いかに逆立ちした議論かわかるはずである。(p. 75)

これがどうおかしいかを指摘するのは難しい。けっこうよく考えてみないとわからん。とりあえずここでの「ポルノグラフィ」の定義をもういっかいたしかめておく必要がある。中里見先生の定義ははっきりしている。

性的に露骨で、かつ女性を従属的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物 (p.18)

おろ、「現に女性に被害を与えている」っていう一節が目新しい。それは本人も認めている。マッキノンたちはこの表現は使ってなかったと思うから、中里見先生のオリジナルだな。うーん。この新奇な定義の正当化はどこでやってるんだろう。それ見つかるまで保留。

で、もとにもどって、DVへらすならDVビデオ見せろ、ってのはたしかにおかしいよな。でもなんかおかしい。中里見さんが何を見失しなっているのかというと、それは性欲が人間の欲望のなかでもかなり特殊な欲望だってところなんじゃないだろうか。性欲のやむにやまれぬさ、「自然」さってのはほとんどの人に強く感じられるものなんだろうけど、それに対応するようなDV欲とか虐待欲とかってのがあるのかどうか。「だれでもいいから女を殴りたい」「誰でもいいから若い女のパンツを盗撮したい」とかってのはわからんでもないが(あんまりわかりたくはないが)、「誰でもいいから妻を殴りたい」「誰でもいいから子どもを虐待したい」「外国人ならだれでもいいから拷問したい」とかって形の欲望をもつってのはなかなか想像しにくい。私の根拠のない思弁では、そういう人びとの心のなかは(私の想像では)「言うこと聞かない妻をやむなく殴る」「しつけだから」「~人は~だから我が国から追い出さなきゃならん」とかそういう状態になっているんじゃないかと思われる。つまり、DVや児童虐待や外人拷問は、直接に殴ったり虐待したり拷問したりすることを目指す欲求はもってないんじゃないだろうか。いろんな認知の歪みと自己コントロールの喪失が、DVや虐待や外人嫌いの原因であるように見える。これに対してポルノ好きはどうなんかな。性欲は日々生産されつづける生のエネルギーだ、とかってのは、フロイトやユングの理論が滅びた(滅びろ!)いまでさえ、けっこうよさげな仮説なんじゃないかな。わからん。まあとにかくそこらへんかなり大きな違いがありそうだ。中里見先生のはレトリックとしては強力だが、あんまり論理的には見えない。

原子論的「因果関係」論の問題性

でも批評した論文に関係する部分。同じ論旨になっちゃうけど、こっちももういっかいやるか。勝手におつきあいしちゃう。粘着粘着。

ポルノ消費と性暴力の関係性を否定する立場の想定する「ポルノグラフィと性暴力の間の因果関係」なるものは、いかなるものであろうか。それは(1)あるポルノグラフィ消費者すべてが性暴力を実行に移すこと、(2)そのポルノグラフィを消費したことが、その性暴力の唯一の原因となっていること、という二点を暗黙に想定しているようである。 その二点が同時に、あるいは少なくとも一方が証明されなければ、ポルノ消費とその後に続く性暴力との間に「因果関係」はない、そして「因果関係」が存在しない以上、ポルノグラフィは存続しなければならない、というように。(p.77-8)

以前の論文とはちょっと書き方がかわっているが、実際にこんな奇妙な想定を置く論者がどっかにいるのかな。もう1回書くけど、(1)「唯一の」原因なんてものはどういうものについても存在しないし、(2)通常言われる因果関係は統計的であってまったく問題がない。これら誰でも認めるはずだ。この直後のパラグラフもおかしい。

しかし、この原因-結果関係論はあまりにも厳密すぎる。上記のような因果関係が立証されれば、そのような商品・製造物を社会に流通させることは危険すぎるため直ちに禁止されるであろうが、現在の公害責任や製造物責任はそのように厳密な原因と結果(損害)の関係性の立証を要求してない。ポルノグラフィという「製品」は「表現」にかかわることだからという一点だけでは、そのような厳格な因果関係の要求を正当化できないであろう。 (p. 78)

「禁止されるだろうが、」の「が」があいまい。逆接「だろう。しかし」か?

公害責任や製造物責任が原告側に原因と結果の間の詳しい因果関係のメカニズムの証明を求めていないのはその通り(そしてそれはよいこと)だが、それとポルノグラフィと性暴力の関係は同じものだろうか?無過失責任を企業に課すのはさまざまな(たとえば功利主義的)正当化が可能なわけだが、それはやっぱり製造物と被害のあいだに(正確にはどういうメカニズムかはわからんにしても)一定の因果関係があることがわかっているときに限られるのはとうぜんのことだ。私の人生が今失敗していることが、子どものころに『宇宙戦艦ヤマト』を見たからだ、なんて主張されたら困るでしょ?だから、メカニズムの分析はともかく、なんらかの因果関係の推定はどうしても必要なのよ。法律学者が法律についてなんか書いたらわれわれは(特別な事情がないかぎり)それを信頼するのだから、ここらへんはわかりやすくちゃんと書いてほしい。この手の本を読むひとが法律に精通しているってことはないだろうから、せめて因果関係は刑法でも民法でもけっこう難しい哲学的大問題として議論されているぐらいのただし書きつけておいてほしい。

民法だったらふつうは相当因果関係説か。製造物責任について 自由国民社『図解による法律用語辞典』*6では次のような解説している。

化学物質・薬品あるいは一定機械器具を永年使用したことと身体障害との間の因果関係の問題は、高度の専門的知識を必要とし、また現在の科学の水準をもってしては証明できないこともしばしばである。これについても、裁判官の革新を必要としたのでは、証明の不可能または至難となる。そこで、一応の因果関係があるとの蓋然性の証明がなされたときは、製造者の側で因果関係がないという反対の証明をしなければならないものと解される。(『辞典』p. 347)

まあ蓋然性の証明は必要なんよね。ポルノと暴力の関係が現段階の研究でそういう蓋然性さえ示せているかどうかどうか。また、それを規制した場合に、表現の自由やポルノ愛好者の快楽を抑圧するに見合うだけの社会的な利益や効用をもたらすのかどうか。わたしはいまのところ、うたがわしいと思っている。

刑法だと(1)条件説「その行為がなかったらその結果は生じなかったろう」、(2)原因説「条件のなかからなんらかの標準だけを選択し「原因」とする。たとえば一番有力な条件となったものが「原因」)、(3)相当因果関係説(だいたいその行為からその結果が生じるのが経験上通常)の三つぐらいの立場があって、相当因果関係説が主流、と。どれも中里見先生が洞察するような主張は含んでいないように見える。せめてポルノと性暴力のあいだに相当因果関係があることぐらいは示したい。そこらへん法律学やっているひとはどう考えるのかな。っていうか法律学者や哲学者には、知識に加えてここらへんの分析の腕を求めたいところ。(もちろんいろんな分析や立証の方法があると思う。)

アメリカでは、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。 (p. 79)

だからそれ以前からいろいろあるっちゅーに。まあ狭い「(暴力的)ポルノ」の影響という形ではじめたのは70年代後半だからそれでいいのか。でもなんかあれだぞ。厖大ってほど厖大にはない。60年代からメディア暴力と現実の暴力の研究があるわけだし。ここらへんの経緯について私が見たなかで一番詳しいのは上であげたアイゼンクの本。必読。

ミーズ委員会の問題についてはやっぱり触れてくれないのね・・・ここらへん一方的なのは、本気で運動しようとしているのなら逆効果になるのになあ。

第5章 「二つの凶悪事件」「インターネット時代のポルノ」

バッキービジュアルプランニングと「関西援交」。それに各種特異な嗜癖の人の掲示板の書き込みなど。ここらへんいろいろ詳しくしらべてあってご苦労さま。そういうのが好きじゃないのに見たり読んだりするのはたいへんだったろう。ここらへんが「喜びよりも苦悩をもたらした」の一部かなあ。私にはできん。へんな掲示板まよいこむとトラウマになるよ。偉い。

今日はこれくらいかな。ちなみに、Hustler誌 1978年6月号の有名「女体ミンチ」表紙がp. 132にあげられている。この号は入手してない(超高価で入手できない)けど、この表紙は、フェミニストたちがHastler誌が「女を肉のピースのようにして吊りさげている」として攻撃したのに対する編集者ラリー・フリント流の皮肉な反撃のはず。だから「We will no longer hang women up like pieces of meat. — Larry Frynt”」となるわけだ。フェミニストに対する宣戦布告。もちろんフリントは「俺らは女性の美とセックスの快楽を賛美してるんだ!」「言論の自由を守る!」とか言うわけだ。ハスラー読者がこういうのを好んで見ていたわけではない(と思う)。まあたしかにひどくdisgustingではあるが、そういう前後の文脈を説明せずに写真だけ載せちゃうのはあんまりフェアじゃない。まあ米国のフェミニズム関係の本でも同じ扱いをされているカバー写真なのだが。(「ポルノ好きはこんなのでまで萌えてるんですわよ!」「まあ!」)

70年代後半のHustlerがどんな感じだったかは あたりからわかる。そのころPlayboyは(今から見ると)ちょっと上品な保守的なブロンド美人ピンナップと上質の読み物、Penthouseはもろセックスもありのエロ中心、Hustlerはお下劣おもしろいならなんでもあり、っていう方向だったんじゃないだろうか。(そういうのお嫌いな方は見てはいけません)フリントは奇矯で魅力的な人物なので、興味あるひとは映画『ラリー・フリント』見てみるとよいと思う。(ポルノではない。脇役のコートニー・ラブがよかった)wikipedia (en)から調べてみるといろいろおもしろいと思う。

*1:まえに赤川学先生に発すると思われる「性=人格説」とかって表現についても攻撃したけど

*2:まあでも手の温度とかそういう生理的なものも重要かもしれん。

*3:教員とかカウンセラーとかってのはかなり特殊な商売で、技術というよりは「人格」そのものを商売道具にしているような感じがするのだが、まあ生理的な反応を売っているわけではない(はず)。

*4:ママ。おそらく「正当化」の誤植。

*5:心理学者。条件づけとか学習とかの権威。行動療法を発展させた人。

*6:この本はいろんな法律用語が素人にもよくわかるように書いてあるので、いろいろ法律問題も考えてみたい素人はとりあえず必携。

小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』

小谷野敦先生は私が敬愛する人の一人。おもしろいことを色々書いていらっしゃる。共感するところも多い。一回は御著書についてなんか書いてみてかった。死刑の問題については最近興味があるので読んでみよう。

それは対偶ではないですよ。

・・・これを、当為命題の形で言うなら「何の罪もない人を殺してはいけない」になるだろう。しかし、それと同値である対偶命題は、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」になる。(p.9)

対偶関係ってのは、「P⊃Q」に対して「¬Q⊃¬P」。当為がはいっているやつは面倒なときがあるのかもしれないが、面倒なのでとりあえず単純に「Xには何も罪がない」をP、「Xを殺してはいけない」をQとすると、対偶の¬Qは「Xを殺してはいけないわけではない」、¬Pは「Xには何の罪がないわけではない」。だから、対偶は「Xを殺してはいけないわけではないのならば、Xには何の罪もないわけではない。」もうちょっと日常語に近くすると、「Xを殺してよいならばXにはなんか罪がある」ぐらいか。(正確じゃないけど)

「罪のある人は、殺してもいい場合がある」はPとQで書きなおすと、・・・ええと・・・頭悪いからわからん。これ否定がはいってるからなおさら面倒なんだな。

もっと正確にするために「Xには罪がある」をR、「Xを殺してよい」をSとすると、もとの「何の罪もない人を殺してはいけない」は¬R⊃¬S。対偶は¬¬S⊃¬¬R。「Xを殺してよいわけではないわけではない」ならば「Xには罪があるわけではないわけではない。二重否定はふつう肯定にしてよいので、S⊃R。「Xを殺してよい」ならば「Xには罪がある。」。

ふむ、やっぱり小谷野先生のは対偶命題じゃない。「何の罪もない人は殺してはいけない」と主張する人が、「罪のある人も殺してはいけない」と主張してもなにも矛盾はないし。

小谷野先生は鋭い視点が売りなんだけど、論理的な推論が苦手のようで時々
気になるんだよな。これは本論いきなり2ページ目だったからとてつもなく
目についてしまう。三浦先生とは知り合いのようだから『論理トレーニング』ぐらいは読んだのかな。

まあ小谷野先生の名誉のために言っておけば、この文章のつづき

・・人々は、「何の罪もない人々を殺傷し」とテロリストや殺人者を非難する時、暗に、というよりはっきりと、「罪のある者は、場合によっては殺してもいい」ということを認めているのだ。

ってのはほぼ正しいだろう。(しかしこれは論理的な含意ではない)ここらへんの論理関係はたしかに素人には直観に反するので理解しにくいのだ。でも「対偶」とかって言葉を使うひとはちゃんと勉強しとかなきゃならん。

死刑制度の変遷

p.9-24あたりの歴史的叙述はおもしろいなあ。いろいろ知らなかったことが
書かれている。小谷野先生はこういうのがすばらしい。

ただし、

・・・死刑を廃止したヨーロッパ諸国は、キリスト教国である。キリスト教ならば、「ロマ人への手紙」にある「復讐するは我にあり」、つまり、人が人に復讐するべきではなく、紙の手に委ねるべきだという思想があり、死後、人々は紙の国へ行き、最後の侵犯によって悪人は裁かれる、という「信仰」がある。(p.20)

はどうか。ヨーロッパでも死刑はどうかと思われはじめたのはせいぜい18世紀だろう。ベッカーリアもベンサムも無神論的傾向が強かったはずで、キリスト教と死刑廃止が理論的にどの程度関係があるのはかちゃんと立証してもらいたいところ。

ちなみに当該個所は「ローマ人への手紙」12章19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」あたり。このパウロが引用している言葉がどこから来てるかは未調査。

あとまあ、団藤先生が死刑廃止運動のトップにまつりあげられたのはたしかに廃止派にとってあんまりよくなかったよな。ここらへんの指摘は小谷野先生鋭い。

改心しない悪人

「「嘘つきや卑怯者、乱暴者は、たいてい、悔い改めないまま一生を終わる。最近の社会生物学によれば、こうした性質はほぼ先天的なものだという。」(p.28)かなり大胆な主張だが、小谷野先生にしてめずらしく出典がついていない。私はそういう趣旨のは読んだことないなあ。

復讐、および社会からの排除が、刑罰の意義の中心をなすと私は考える。復讐とは、人類にとって普遍的な心情であり行為なのである。(p.29)

この本の中心的な主張なのだろうが、これがまさに死刑や刑罰に関する論争の中心的論争点だということを小谷野先生はどの程度自覚しているだろうか。

教科書的に言って、復讐心が「人類の普遍的な心情」であることは、死刑肯定派否定派にかかわらず、ほとんどの論者が認めると思う。また、「社会からの排除」は強すぎるが、「犯罪の抑止」が刑罰の主要な目的であることもほとんどの論者が認める。ふつう、「抑止」は、犯人の再発を防ぐ「特殊予防」と、一般の人々の同様の犯罪を防ぐ「一般予防」の二つに分けられ、「特殊予防」は教育、匡正、威嚇、隔離など、一般予防はいわゆる見せしめってことになる。ここらへんまではどういう人でも力点の差はあってもほとんどの人が認めると思う。

しかし、「復讐」が(国家による)刑罰の意義(「目的」?)がどうかは議論が分かれる。国家には市民の安全を保証する責務があるのだから犯罪を抑止する必要はあるわけだが、「復讐」を国家が市民にかわって行なう理由があるのかどうか。もちろんあるという主張をする人々は多いし、そのひとびとの多くは国家は被害者から復讐する権利を奪っているのだから、その肩代わりをしなければならないと主張するわけだ。でもその議論は簡単にはいかんので、十分な論証が欲しいところ。

小谷野先生は上の文章に続いて、「人はそれを野蛮だと言うのだろうか。」と書くのだが、野蛮かどうかではなく国家の機能がどうかという話をしてほしかったところ。

「遺族」は被害者の代理たりうるか

団藤も、多くの論者は、死刑廃止への反対論は、被害者遺族の感情を基礎としている、と言う。けれど、では被害者当人の報復感情はどうなるのか。誰も、死んでしまった者にそれを尋ねることはできない。しかし、彼に殺された当人の気持ちを尋ねれば、もしかすると天国にいてすべてを許す気になっているかもしれないが、遺族より遥かに強烈な復讐心を抱いているかもしれない。(pp.30-31)

小谷野先生は基本的に経験的に立証できることを重視して、こういう実証も反証もできないようなことは言わない人だという印象があったのだが。
筆がすべった?

まあどうでもよいことだが、私自身が近親縁者を殺されたら自分で殺しに行くですけどね。でもそれが国家がやるべきことなのかどうかはわからん。そしてそれは被害者本人の感情とはなんの関係もないかもしれんなあ。

この文脈で出てくるのが、小谷野先生のかなりオリジナルな主張だ。

「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。(p.33)

これをどう解釈するかはかなり難しい。ひとつの解釈は、復讐行為を行なう人々の心理的事実として、彼らは「自分の感情の満足のためではなく、被害者のためにやっているのだ」と感じている、というもの。これはおそらく事実として正しい。上で私は「被害者本人の感情とはなんの関係もないかも」と書いたのは、客観的に見ればかなり異常で、ふつうは「彼の(彼女の)恨みをはらす」という形になるだろう。

しかし小谷野先生はこれを「行なわれるべき」だと書く。この「べき」はどこから来ているのか。なぜ被害者(の感情)を代理すしなければならないのか。また、死者の感情ってのをどう考えるべきだと小谷野先生は考えているのか。そういうものが存在するのかどうか。そして復讐が成功したとしても、それによって
(あると主張されている)死者の感情になんらかの変化が生じるのかどうか。復讐が成功したかどうかは(おそらく)死者は知りえないだろうし。もちろん死者が天国からこの世界を見ていれば別だが、そういう形而上学的な主張にコミットしないと小谷野先生の主張は出てこないように見えるが、それでもOKなのかどうか。

ここから小谷野先生はさらにオリジナルな主張に進む。正直おもしろい。

私が「仇討ち制度」復活に賛同しかねるのは、実現の困難以上に、この理由による。呉は、仇討ちの権利を個人から国家が奪ったというが、逆に言うならば、仇を討ってくれるような家族がいない者(殺された者)にも、国家が代わって復讐する権利を与えたとも言えるのである。(p.33)

なんかよくわからんがすばらしい。そういう孤立した人間に思いを馳せることができるのが小谷野先生のすばらしいところ、私はそういうところが好きなんだなと確認。

残りの部分

残りの部分は国内のだめな廃止論者の論評とかフィクションの論評とかそういうの。それなりにおもしろいけど特に感じるところなし。

全体として、小谷野先生が「復讐」に注目しているのはよいのだが、それと国家の関係がよくわからんので死刑についての議論としてはあんまりおもしろくなかった。でもまあこんなものかな。団藤先生流の方針じゃない廃止論を誰かが紹介してくれればいいんだけどなあ。

復讐感情については、「死者の感情」とか解釈に苦しむものを導入しなくても、J.S.ミルの議論(ex. 『功利主義論』の第4章とか)にある「共感」とか参考にすれば、もうちょっとまともなことが言えそうな気がするんだが。「われわれは動物と共通に危害を加えられたらそれに報復する感情をもっていて、さらに人間は動物より拡大された共感の能力によって、共同体の仲間に加えられた危害についても同じような報復の感情を抱く」とかそういう感じ。まあ小谷野先生はそこらへんはあんまり興味ないかもしれない。

あと、まああれだ。小谷野先生が悪人はある程度先天的に決まってるとか更生させるのは難しいとかってほのめかしているのはどうなんかな。別にいいんだけど、私だってヤノマモ族のような環境に生まれてたら人の一人や二人は殺したろうし、場合によっては強姦とかもするだろうし。まあ反社会的な人々がいるってのはもちろん認めるけど。わからん。