セックスの概念分析 (1)

「セックスの概念分析」とかっていうとなんかいろいろ難しいことを考えしまいそうになるわけですが、基本的には「セックス」という言葉で何を指しているか、とか、どういうものをセックスと呼んでいるのか、とか、「セックス」と他の言葉とはどういう関係にあるか、とかそういう話ですわね。でもこれはけっこうおもしろい。

まあたとえば、「浮気」ってのを考えみましょう。モテる人は「お前、浮気したな!」とか言われることがあるでしょうが、どういうのが浮気なんでしょうか。辞書をひくと、そういう意味での浮気ってのだいたい「他の異性に心を移すこと」みたいな説明がされてることがある。でもこの定義でいいのかどうか。「心を移さずにあれしたら浮気じゃないのかとか、異性じゃなくて同性とあれしたら浮気じゃないのかとかそういう話になる。あれ、「浮気」ってなんだろう?それって「あれ」をすることなんだろうけど、もしその「あれ」がなにかってのを考えたりするのが「浮気」という「概念」を分析するってことです。

おそらく広い意味では「浮気」は「他の人を性的な対象と思うこと」ぐらい。パートナーがいる人が、そのパートナー以外の「あの人とあれしたいな」、とかそういうこと考えただけで浮気になっちゃう。でもこれはおそらく広すぎるから、「特定のパートナー以外のとセックスしたら浮気」とかにしたい(と多くの人は思うはず)。

でもんじゃどっからセックスなのか。セックスってのはなにか。

「そりゃチンコとマンコをハメることだ」みたいな下品なことを言う人がいるかもしれませんが、それだったらオーラルセックスだけの場合は浮気じゃないのか(クリントン元米国大統領が部下にフェラチオしてもらったのに「セックスはしてません」と言いはったのは有名)、同性とのオーラルセックスは浮気じゃないのか、みたいな話になる。もちろんそういう「定義」を採用してもいいんだけど、まあ我々の多くはそういうふうには「セックス」を使ってないんじゃないかと思います。

んじゃ、セックスという行為はどっからはじまっているのか。チンコやマンコに直接に接触したときからなのか、それともキスとか乳もみとかそういうのからはじまっているのか。セックスはどこではじまって、どこで終るのか。

極端な場合には、「「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ 5:27)とかっていうイエス先生の教えを本気でとらなきゃならない。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」だそうですよ。たいへんです。性欲にもとづいて異性(なり同性)なりを見た人は、みんなセックスしてしまっているので。セクハラしたいと思っただけでセクハラしたのと同じです。目をえぐってしまいなさいす、手を切り落してしまいなさい、なんちゃって。

セクハラとかも同じ問題があるのがわかりますよね。セクシャルハラスメントってんだからセクシャルじゃないとならん。ただのハラスメントはセクハラではない。ではセクハラとはどういうものか。性的ないやがらせがセクハラなわけだけど、では卒論書けなかった罰に男子学生の尻を鞭打ちするのはセクハラなのかたんなる拷問や暴力なのか。尻だったらセクハラだけど肩を鞭打ちしたらセクハラではなくてただの暴行か。んじゃ暴行とセクハラを分ける意味とかあるんかいな、とか。ぜんぶ暴行や強要ではだめなのか。

セクシャルな部分に接触するのがセクハラなら、単なる言葉によるいやがらせはセクシャルじゃなくなっちゃうからセクシャルってのは接触に限る必要はない。さて、セクハラっていったいなんでしょう。これを考えるためにセクシャル/性的ってことばがなにを意味するのかわかってないとならん。

セックスの哲学と私 (1)

んでいきなり自分語りをはじめるか。ははは。

セックスの哲学という分野に興味をもったのは10年ぐらい前かしら。

まず15年ぐらい前に、諸般の事情で「情報倫理」とかってのをケンキューしなきゃならない状況になって、なんかおもしろいネタはないかみたいなサーヴェーしてたわけだ。当時はネットのポルノとその規制(米国のCDA、Communication Decency Act, 通信品位法案)とか)が問題になってたので、そこらへん表現の自由とか言論の自由とかとからめて勉強しようかと思ったのだが、まああんまりうまくいかなかった。どの程度私がポルノ画像とか集めていたかは秘密。netnewsに流れているのをあれするスクリプト書いたりして。ははは。

そこから幸運にも今の勤め先に移らせてもらった。女子大だし、そういう学部なのでまあフェミニストの牙城みたいなところで、研究会とか出せてもらったりして。ジェンダー法とかそういう話だわね。やっぱりポルノに関心があるなあ、とか。でも性の商品化とか売買春とかそういうところに話は広がっていくわね。ポルノは性の商品化そのものだし、ポルノ撮影現場では売買春も行なわれていると考えることができるわけだし。性暴力とかそういうのとも関係がある。

私の世代(1965年生まれ、前後3年〜5年ぐらい)の本読む階層は、おそらく小倉千加子先生や上野千鶴子先生のフェミニズムの影響をもろにかぶった世代で、まあ一定の理解はしているつもりだし、問題意識はわりと共有しているつもり。なのでまあ性の商品化とかを中心とした倫理的・社会的な問題にはずっと関心をもっていたわけで。2000年からちょっと経ったころは、ジュディス・バトラー様とか紹介されたり、国内では杉田聡先生みたいな強硬なポルノ反対派みたいな人がいたり、APP研とかの団体が活動したりしていろいろ気になる。でもまあそれなり勉強していると、なんかそういうのはおかしいんじゃないか、みたいに思いはじめた。哲学っぽいんだけどなんかちゃんとした哲学や倫理学の議論じゃない気がしたんよね。

ジェフリー・ウィークス

このジェフリー・ウィークス(『セクシュアリティ』)というひとの議論は、その筋(社会学者?)のひとびとにどのように読まれてるんだろうか。ふつうの読書経験からすると、あまりにも生物学まわりの情報が古すぎて使いものにならないんじゃないだろうか。

考えをまとめるために、第3章から抜き書きしてコメントしてみる。

私たちはいまだに、ジェンダーを考慮に入れずにセクシュアリティを考えることはできないでいる。 p.73

それはどうかな。セクシュアリティの核みたいな部分だけを考えるならジェンダーとかってものとは関係なくやれるような気がするけど、まあよかろう。

生物学的男性と生物学的女性の間に存在する生殖と出産に関わる差異は、男女の間で異なった性的欲求と性的欲望が存在していることに対して、必要かつ十分な説明として理解されてきた。p.73

とりあえず「欲求」と「欲望」の区別がわからん。desireとappetiteかな?あとで調べてみるが、こんな訳するんだったら原語を提示するべきだと思う。

とにかく「必要かつ十分な」の意味が私にはわからん。どういう説明が「必要かつ十分」と言えるんだろうか?

たしかに生物学や進化心理学は繁殖成功率という観点から人間(あるいは生物一般)の欲望なり欲求なりを説明することにトライしているんだと思うが、生物学者も進化心理学者も、それが十分な説明となっているとは思っていないだろう。(もしすでに説明したと思ている生物学者がいたらそれはキチガイである。)人間の意識内容まで生物学のレベルに還元するのは困難だし、それ以前に性淘汰や(もしかしたらあるかもしれない)群淘汰の話もあるし、まだまだわからんところだらけだってのが普通の理解だろう。誰もマウスが感じているような世界を人間が感じているなどと主張しようとしているわけではない。なんらかの連続性があるだろうと言っているだけのはずだ。

[われわれは]つねに、自分自身のセクシュアリティが、最も基本的で自然なものであり、男女関係は鮮明な指紋のように、生来の本能の命令によって永遠に決定されたものであるという幻想に耽りたがる。 (p.74)

「本能」なんて久しぶりに見た用語だな。本能ってなんだろう。ローレンツの時代じゃあるまいし、いまどき「本能」なんてものにコミットしている生物学者はどれだけいるんだろうか。このウィークスの本は1986年、今から20年も前だからしょうがないのか。こういう言葉を見ると、この人は70年代後半からの社会生物学ブームを無視したままでこの本を書いたのがわかる。(いや、「本能」という言葉も使われてたのかもしれないけど。自信ないな。)

たとえ社会生物学がいくつかの事象を説明できるとしても(ひと目惣れは、自分とはまったく異なる組織適合抗原の組み合わせを持つ個体の匂いに対する身体の強力な反応にすぎないのかもしれない、とか、同性愛は血縁の兄弟姉妹の子孫に対する愛他的な情を促進するのに必要と言えるかそれいない)、このような説明は他の事象(例えば、なぜ異文化にはそれほどの多様性が存在するのか、あるいはなぜ歴史は急激な社会変動をたびたびくぐり抜けることになったのか)を普遍的に、あるいは説得力を持って説明することができない。p.81

ここらへんでぜんぜん社会生物学とかを理解していないことがわかってしまう。われわれが世界各地で大きな違いを見せるような「文化」を持つようになったのはおそらくたかだか1万年、へたをすると数千年、世代にするたかだか4、500世代でしかない。こういうスケールで社会生物学が「文化の多様性」について言えることってのはほとんどない。また、ジェフリーは文化の多様性を主張したいようだが、われわれのもっている文化の基本的な側面(たとえば婚姻制度)にどの程度の多様性があると考えてるだろうか。わたしの理解では、現在確認されている文化のほとんどは一夫多妻か実質的な一夫多妻制度で、ほどんと多様性なるものは見られない。思春期のああいうやつ(自粛)とか、ほとんどの文化で見られる現象のはずだ。むしろ、表面的には非常に多様な文化での重要な部分での一律性の方がずっと驚くべきことだと思われる。(そういうのが「構造主義(文化人類学)」とかの一番大きな成果だったと理解しているのだが、まちがっているかもしれない。)

また社会生物学的アプローチは、究極的に、その含意において根強い保守性がある。というのは、私たちが社会的かつ性的に行なうことがすべて遺伝子の偶然の衝突から説明されるのならば、人間が物事を変更する余地はほとんどないからである。pp.81-82

これ以前にも以降にも「生物学的決定論」という言葉を何度も使っているところを見ると、社会生物学が「決定論」だという思いこみがあるらしい(でもどんな意味で?)。まあ80年代にはこういう粗雑な議論が行なわれていたという歴史的な資料としては価値があるのかもしれない。

「われわれが男性と女性を比較観察したときに見うけられる、大きく異なった性的態度をもたらす強い根本的な生物学的源泉」が存在するならば、フェミニストの要求も、あるいは自由主義的改革も絵空事にすぎないものとなる。p.82

われわれは社会生物学的に見ればおそらく人殺しの素質をもっていることになるんだろうが、だからといって人殺しが悪いことであるのはもちろんのことだと思う。いつまでこういう「事実と価値は違います」といった「倫理学の基礎」のような話をしつづけなければならないのだろうか。

かつてキンゼイは次のように述べた。

ホルモンが生殖腺で生産されているという事実は、ホルモンが性反応の基になっている神経系の許容反応を制御する第一次的な機関であると信ずるに十分な根拠にはならない。

ホルモンは遺伝子に劣らず、社会的・心理的な性差を形成する際に決定的とは言えない。p.90

そらその通りだが、キンゼイの文章の使い方がミスリーディングだ。というかほとんど意図的。キンゼイのこの文章をふつうに読めば、「仮に男性の場合テストステロンのほとんどが男にしかない睾丸で生産されているからといって、無根拠にそれがセックスに関係していると思ってはだめだ」ということで、まったく正しい。だからといって、男性ホルモンその他がわれわれの感覚や欲求に重大な影響を与えていないと考える必要はない。男性ホルモンの量が攻撃性その他に影響を与えることは証明されていると思うが、まちがっているだろうか。

抜き書きして読むのがいやになってきた。この人の論拠となるのはおなじみのジョン・マネーやマーガレット・ミードや精神分析で、生物学の知見はほとんどとりいれておらず、この手の話をする資格がない。読むだけ時間の無駄。性差についてちゃんと考えたいなら、まずこんな本は葬り去るなり、国内でこの本を持ちあげてた人びとは「あのころはこう考えてるひともいたんだよね」ぐらいに一定の精算をしておく責任があると思う。

『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。