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Antioch大学の性暴力防止規程

レイプとかセクハラっていうのは「同意があったかどうか」みたいなのが面倒なので、きっちり口頭や文書で同意がないかぎり性暴力とみなそう、みたいな動きがあります。実際に学則に組み込んだ大学もある。

1990年、キャンパス内で2件のデートレイプが発生したことをきっかけに、大学でのレイプ防止のとりくみが開始され、1991年Sexual Offense Policyが制定されたようです。次第にアップデートされ、現在では2005年版が有効になっている。 これをめぐって90年代アメリカではけっこう激しいデートレイプ論争が起きました。日本ではあまり紹介されてないのでとりあえず学則だけ抄訳。

(あら、いま確認したら上のページはsuspended。 とりあえずこちら。
http://www.mit.edu/activities/safe/data/other/antioch-code)

訳や番号は正確じゃないです。そのうち正確にしたいけど、元資料がないとなあ。

「同意」のないセックスはぜんぶ学則違反とした上で、同意を次のように規定するわけです。

===================== ここから ====================

  • 同意とは、特定の性的行動に参加することを自発的に口頭によって合意することである。以下に要点をあげる。
  1. 性的活動を行なう前に、その時々常に同意が得られなければならない。
  2. 参加者はみな性的活動を明確かつ正確に理解していなければならない。
  3. 性的活動を開始しようとする者は、同意を求める責任を負う。
  4. 性的活動を要求されたものは、口頭での返答をなす責任を負う。
  5. 性的活動の新しいレベルごとに同意が必要である。
  6. ジェスチャーやセーフワードについての同意された利用は受けいれられるが、性的活動をはじめる前に参加者全員によって論議され口頭で合意されなければならない。
  7. 同意は参加者たちの人間関係や、それ以前の性的経歴、現在の活動にかかわりなく必要である。(たとえば、ダンスフロアでグラインドすることはそれ以上の性的活動に対する同意ではない)
  8. いかなる場合も、同意が撤回された場合、あるいは口頭によって合意されない場合、その性的活動はすぐさま停止されねばならない。
  9. 沈黙は同意ではない。
  10. 身体的動作やあえぎ声(moans)などの反応は同意ではない。
  11. 寝ている間は同意することができない。
  12. すべての参加者の判断力が損なわれていてはならない。(アルコール、ドラッグ、心理的健康状態、身体的健康状態などが判断力を損なう例であるが、これに限られるものではない)
  13. すべての参加者はセーファーセックスを実施しなければならない。
  14. すべての参加者は、個人敵なリスクファクターや性感染症を開示しなければならない。それぞれの個人が自分の性的健康についての意識を保つことに責任を負う。

===================== ここまで ====================
私だったら「ボーイフレンドと別れたばかりのときは同意できない」「犬が死んだときは同意できない」「クリスマスの日は同意できない」とかもっとつけたしたいですね。

こういう学則をちゃんとしておけば、まあセックスでもめることは少なくなるでしょうなあ。でも馬鹿げている、っていうひともいるわけですよね。むしろこっちが多数派。でも馬鹿げているのはなぜだろう?

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杉田聡先生の考えるあるべきセックスの姿

国内で売買春やポルノグラフィを猛烈に批判している人の一人に、杉田聡先生がいます。

杉田先生によれば、本来セックスは双方が「自発的な意思」によって「自主的に興奮」し、双方が「性的快楽」を味わうことができなければならない。売買春は一方だけが性的興奮や性的快楽を得るものなので不道徳だ、それはもはやセックスではなく性暴力と等しい、と言いたいようです。セックスに金銭をはさむな、そんなのはセックスではないと。
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活動の「目的」とかそんなにいっしょうけんめい考える必要はないかもしれない

前のエントリで「セックスの目的」みたいな話に触れてみたけど、こういうのってなんかやっぱりあやしいところがあるわよねえ。

ちょっと前にツイッタとかで「学会の目的ってなんだろう?」みたいな書き込みを見かけた。まあ人間関係とか組織的活動とかうまくいかないと「〜はなんのためにあるんだろう?」なんてこと考えちゃいますよね。「人生ってなんだろう、なんのために生きてるんだろう?」とか。ははは。「セックスの目的」みたいなのについて考えるのもだいたいそれがうまくいってないときとかそれができないときとか、まあとにかくうまくいってないときだわよね。まあ一般に反省したり哲学したりするのはなにかがうまくいかないときだ。セックスの哲学している人々はだいたい哲学はたのしくやってるだろうけどセックスを楽しくしているかどうかはわからない、ははは。

まあとにかくたとえば「学会の目的」みたいなのを考えたときに、「学会の本来の目的は学術的な意見を交換し、もって知識の拡大を図るのだ」みたいなご立派な目的が提示されるわけですが、実際の我々の活動をみるとそれだけが目的ではない。

知識を求めてくる人もいれば、酒を飲みに来る人もいる。研究仲間や子分を探しに来る人もいれば、自分が偉いことを示したい人もいるし、嫌いな教員の弟子をいじめに来る人もいるし、まあほんとにいろいろ。っていうかなにか組織や活動が一つの「目的」のためにあるのだと考える必要はない。上のすべての目的を同時に果たしている人もいるだろう。

セックスという活動もそういうことがありえる。子どもを作りながら快楽を味わいつつお金も稼ぐセックスもあるかもしれんし。まあそんな話。

ソーブル先生なんかはセックスってのは多義的 polysemic だ、みたいな話をするのがいつもの手段。まあわれわれはいろいろしているのです。

あと書きそびれたけど、なにかを定義しようとするときに、その活動の目的——何を目指しているのか——を問うのはソクラテスやアリストテレス以来の伝統だってのも書くべきだったかもしれないけどまあいいや。

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セックスの本来的(?)目的

「倒錯」っていう概念とからんでおもしろいのが、セックスには(本来的な)目的があるのかどうかとか、我々はなにを目指してセックスするのか、とかって話。「本来的な目的」みたいなのがあれば、それ以外は倒錯だとか言いやすくなるからね。

「セックスって結局なにを目指しているものなのか?」ってのに「射精」とか答える人がいるかもしれないけど、んじゃ女性はセックスできないことになっちゃうのかしら。女性の場合は「射精されること」なのだろうか。んじゃ早漏に悩んだり不満を感じたりする必要はないだろうし、なるべくさっさとすませるのがいいんじゃないかって話になってしまうかもしれん。

「生殖こそがセックスの本来の目的なのじゃ」みたいなのに魅力を感じる人は多い。このタイプの考え方をする人は生殖につながらないセックスは倒錯的だとか、神の意志に反しているとか自然に反しているとか言っちゃう。そこから生殖以外の目的によるセックスは道徳的にも不正だとか非難に値するとかって考える人もいる。まあとてつもなく多くの人が神の意志や自然に反してるんでしょうなあ。私は知らんですが。

「セックス(性的活動)ってのは性的快楽を求めるものだ」みたいなのがAlan Goldman先生が有名な論文”Plain Sex”で主張したことなんよね。で、ゴールドマン先生によると、性的快楽以外のものを求めるセックスはどっか不純なところがある。典型的には売春はお金のために自分の性的能力を売っているわけだけど、これはセックスをお金をかせぐ道具にしていてセックスがもっている価値を下げてしまっている。セックスは自分と相手の快楽を目的とするべきであり、快楽の代償は快楽じゃないとおかしい、みたいな。驚くべきことに、「愛のためのセックス」とかってのも、愛情の確認とかのためにセックスをつかっているのでセックスの価値を貶めている。あくまでセックスは性的快楽のみをめざしておこなわれるべきなんちゃうか、みたいな議論につながる。

ゴールドマン先生の議論がどの程度うまくいってるのかとか事実判断と価値判断の関係はどうなってるんだとかいろいろ問題はあるところだけど、この筋の議論はけっこうおもしろい。

他にセックスの(本来的)目的としては「親密さ」や「コミュニケーション」がある。親密さを強めるのがセックスです、お互いを深く知るのがセックスなのです、みたいなのとか、「セックスは感情を交換することなのです」みたいなの。これも人気があるわよね。有名なのはJanice Moulton先生の”Sexual Behavior”とか。このタイプの考え方をする人は、「だから売買春やカジュアルセックス(ナンパ即セックスとかワンナイトとか、まあよく知らない人とセックスする)は本当のセックスじゃないのです」みたいなことを言うかもしれない。

一番リベラルな立場(リバタリアン)は、セックスは他の人間の活動となんもかわるところがないし、特定の目的のためにしなきゃならんなんてことはない、みんな好きなようにセックスすればいい、とかって主張したりする。

まあこういう「セックスの目的」の話は、セックスが飯食ったりお茶飲んだり音楽聞いたりする(ふうつの?)活動とどう違うのか、というところにもかかわっている。セックスは人間にとって特別な活動だと思われていていろいろ保護されたり禁止されたりしているけど、本当に特別なんだろうか?特別だとすればどういうふうに特別なんだろうか?その理由をどれくらい挙げることができるだろうか?

「本当のセックスの目的」みたいなのはいろいろあやしいところがあるし、「セックスはこうあるべきだ」「こうじゃないセックスはだめなセックスだから禁止しろ」みたいなのとつながりやすい。ここらへんの議論は道徳的な価値判断とかかわってきて私にはけっこう楽しい。あとでもっと詳しくいろいろ議論してみたい。

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セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。 続きを読む

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セックスの概念分析 (4) からセックスの形而上学へ

まあ「セックス」とか「性的活動」とか「性的欲望」「性的快楽」みたいな言葉の分析は「我々はなにを言おうとしているのか」ってのははっきりさせる時には重要だけど、それだけではあんまりたいしておもしろい話は出てこないかもしれない。

「セックス」がなんであるかとかやっぱりすごく広範囲で、「これがセックスだ!、そしてこれ以外はセックスではないのだ!」みたいなクリアな線は引けないかもしれない。

たとえば前にも書いたように、性的活動が(当事者の)性欲(性的欲求)をともなっている活動だとしても、性欲ってのがどんなものかをはっきりさせるのはかなりむずかしい。「これが性欲だ」みたいに示せればいいけど、対象もわからん。異性の身体(や、その一部)に対して性欲を感じる人もいれば、同性に感じる人もいるだろうし、パンツとかハイヒールとかランドセルとかに感じる人もいるかもしれない。パンツは好きですがそれを履く人には興味がありません、みたいな人もいるかもしれない。そういう人がパンツを片手に性的興奮を感じたり性的欲求を満足させたりしているときに、それが性的活動なのかそうでないのかよくわかんなくなる。あるいは、自分の性的快楽に関心はあるけど他人のそれにはまったく関心はない、とか。

それに、たとえば「食欲と性欲はどう違うの?」って聞かれたら「ぜんぜん違う欲望でしょ、もし食欲と性欲が区別つかなかったら変態さんでしょう。厚切りの肉に対して性的欲望を感じたり、性的な興奮を感じながら肉を食べたりしたらやっぱりおかしいでしょ」って答えていいのかどうか。

ちなみに、食の快楽と性の快楽がわけわからん感じになっている名作小説が谷崎潤一郎先生の「美食倶楽部」。(あれ、まだ青空文庫に入ってないのかな。)歯茎を美人の指でなでまわされて気持ちよくなっているとその指がいつのまにかスープでゆでた白菜の軸になっていて噛み切れる!ははは。読みましょう。

でもこうなってくると、なんか「それってたしかに性的活動かもしれないけど、倒錯 perversion なんちゃうか」みたいな、ことを考えたくなる。

「倒錯」っていう概念は今時はかなり評判が悪いです。一時期は同性愛や性同一性障害とかが倒錯って言われてましたし、オーラルセックスとかも倒錯的って言われてましたしね。マスターベーションでさえ倒錯的って呼ばれたころがあったはずです。まあ「倒錯」っていう概念がなにを含んでいる(あるいは何も含んでないのか)のかもこの文脈ではかなりおもしろい話になります(っていうか、「セックスの概念分析」に含まれる問題のなかでも中心的な問題であります。)。

でもこれって、もう言葉や概念の分析を離れてしまってるかもしれない。つまり、人間の生活のなかでセックスとか性的欲望とか性的快楽はどのような地位をしめていて、どういうのが普通で、どういうのが(統計的に)異常かみたいな話になってくる。

そこでまあ「「セックス」って何なの?」という言葉についての疑問は、「セックスってのは人間にとってどういうものなの?」っていう問いにつながってくるわけです。そのためには存在論とか認識論とか神学とか心理学とか人類学とかを参照しなくてはならくなってくる、かもしれない。ソーブル先生はこういうのを「セックスの形而上学」って呼んでるけど、まあ私は「形而上学」って言葉はあんまりうまくないと思ってる。彼のこういう用語法はよくわからんです。まあとにかくそんな感じで話は進む。

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セックスの哲学と私 (3)

まあフェミニズムまわりをうろうろして悩んでいたときに手にしたのがAlan Soble先生の Pornography, Sex and Feminism 。ポルノ規制派のフェミニストたちを「ポルノ読む人間のことをさっぱりわかっとらん」とディスりまくってて痛快すぎた。まあ書き方がユーモアとアイロニーに満ちててすばらしかったわね。「日本のBukkakeのすばらしさがわからんのか」とか。どうもこのころbukkakeがアメリカで流行ってたらしい。私は嫌いでした。ははは。それにしてもやっぱヘビーユーザーは違うわ。 続きを読む

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セックスの概念分析 (2)

まあそういうわけで「セックス」っていう概念を分析するというか、とりあえずはっきりさせたいわけだけど、「セックス」が基本的な概念なのかどうかについては諸説がある。ふつうに我々が「セックス(すること)」と呼んでいるものはおそらく「性的な活動」なわけです。(「セックス」にはもちろん「性別」って意味もあるけど、ここではとりあえず関係ないように思える。)

手塚治虫『アポロの歌』。
手塚先生は性器がないと愛せないと
考えたのかもしれません。

もうちょっと反省すると、「セックス」と呼ばれる活動(性的活動)に含まれる「性的部位」や「性的快楽」や「性的欲望」に注目するべきかもしれないという話になる。そしてある部位を性的にしているのはなにかとか、ある感覚や快楽を性的快楽にしているものは何かとか、ある欲望を性的欲望にしているものはなにかとか、それらに共通な「性的」という性質があるのかどうかとかって話になるわけです。

「性的活動」を「なんらかの意味で性的部位にかかわる活動」みたいに考えるのは、一見すると魅力がある。人間の身体のなかで特に性的な部位ってのはある気がしますよね。典型的には股間がそうだし、おっぱいとか尻とかも特に性的な感じがする。そこらへん触ったりしはじめるとそれは性的活動なのだ、すでに性的活動をしている、みたいな。うっかりそういう場所を触っちゃうと「痴漢!」「セクハラ」って呼ばれてもしょうがない。

一方、赤ちゃんの手のひらを「やわらかいねー」って触ってもあんまり痴漢な気はしない。私がおじいさんの踵とかを触ったらセクハラではない気がする。でも私が女子大生のどの部分を触ってもなんかセクハラな気がする。うーん。どうも身体のある部分が性的になったり性的でなくなったりすることがあるみたい。けっきょく、「性的な部位」を性的活動から独立に規定するのはけっこう難しそうだってことになる。性的な部位って何だろう?

そこで、「性的な部位」を「性的な快楽に関係する部位」みたいに考えることも可能かもしれない。唇とか股間とか性的な快楽を与えてくれる傾向があるかもしれないし、腕の内側とか背中とか足の裏だって方法によっては性的な快楽を与えてくれるかもしれない。つまり、「性的な活動」や「性的な部位」より、「性的な快楽」の方が基本的な概念なのではないか、みたいな。性的な快楽を与えてくれる場合にそこは性的になるのです、誰かが性的な快楽を味わっている場合にそれは性的な活動になります、そしてそれは文脈に依存します、みたいになる。これはかなり魅力的な解決法になる。

問題は当然「んじゃ性的快楽ってのはどんなものよ」って話になる。まあ快楽は感覚だから、「これが/それが性的快楽だよ」って教えてもらうしかないかもしれない。ちょっと不満な感じもするけど、これくらいで我慢しておくべきなのか。

もっと問題なのは、「んじゃ誰も性的な快楽を味わってない場合にはそれは性的活動ではないのか」みたいなことを言われてしまいそうな気がする。ぜんぜんうまくいかないセックスとか、誰もぜんぜん快楽を感じてなかったらそれはセックスではなくなってしまうのはなんかへんな感じがする。失敗したセックスはセックスではありません、みたいな。ははは。

「性的快楽」を基本にする考え方と同じくらい(かそれ以上)に魅力的なのは、性的欲望を基本概念にする見方。性的欲望の対象となるのが性的部位であり、性的活動とは誰かの性的欲望にもとづいた活動です。私にはこれが一番有望に思えるっすね。性的欲望をかかえた活動はセックスだり、セクハラをセクハラにしているのはそれが性的欲望にもとづいているからだ。挨拶のキスは欲望にもとづいてないので性的じゃないけど、恋人どうしが夜中にするキスはセックスの一部。

私がこの性的欲望中心説みたいなのを気にいっているのは、セクハラとかってのについて被害者が感じる不快の説明にもなっている気がするからです。女子の多くが感じる不快感のバックには、加害者とされる人の性的欲望(性欲)を感じる不快さがあるんじゃないかって勝手に思っている。同じ「肩にタッチする」って行為でも、相手の性欲を感じると「セクハラ」って言いたくなることがあるんじゃないか、とか妄想。ははは。

まあそういう妄想はさておいて、性的欲望中心説みたいなのもやっぱり「んじゃ性的欲望って何よ」っていう問いを提出されることになるわけで、こっちも性的快楽と同じように「これが/それが性的欲望だ」って形で教えてもらたり、「これが性欲か!」って(自然に?)自覚するのを待つしかないかもしれない。

性的快楽にせよ性的欲望にせよ、独特の色彩というか質があるですよね。子供のころはあんまり感じない感覚を、性的に成熟するにつれて思春期ぐらいから強く独特のものとして感じるようになる。もちろん「私は小学1年生のころから快楽を感じてました」「パンツ見たくてしょうがなかった」って人も多いだろうけど、それが次第になんかやばい特別な種類の感覚や欲望であることを自覚するようになっていくんではないかという気がする。性的快楽や性的欲望として分化していくっていうかなんというか。まあここらへんの分析は、概念分析というよりは現象学とかの研究対象かもしれないですね。

あとここらへんいろいろおもしろいネタが多くて、性的欲望という欲望の対象は何か、みたいな話も興味深い。性欲ってのは快楽を目標としていると考えられることが多いけど、これって本当だろうか? 私のカンなんだけど、たとえば性的快楽がまったくないことがわかっているのにセックスを求める人っているかもしれないし、もしかしたら苦痛があることがわかっていてさえ、セックスを求める人がいるんじゃないかという気がしてます。ぶちゃけた話、人は気持ちよくなりたくてセックスするのではないのではないか。快楽より欲求の方が基本的な概念なんちゃうか、とか。おもしろいですね。機会があればここらへんもっとちゃんと議論してみたい。

性的快楽か、性的欲望かのどちらかを中心に考えていく他にも
、性的覚醒や性的興奮みたいなのを中心に考えいくのもありかもしれません。まあここらへんあんまり考えないので難しい。この手の概念についての論文は日本では魚住陽一先生が「性的欲望とは何か」ってのを書いています。日本のセックス哲学のはじまりとして記憶されることになるかもしれないですね。前半は性的欲望についてのいくつかの立場のうまい紹介になっています。 http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/view/23/12もっとも後半は私はあんまり理解してないです。

あとまあこういう言葉遊びみたいなのを椅子に座って延々やるよりは、人々が実際どうセックスという言葉を使っているかを調査してみるっていうのも興味深い研究方法ですわね。噂に聞くエスノメソドロジーとかって手法がすごい威力を発揮するかもしれない。たとえば人々がどこから「浮気」って考えているのかとかそういうこと調べてほしいものです。

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セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。 続きを読む

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セックスの概念分析 (1)

「セックスの概念分析」とかっていうとなんかいろいろ難しいことを考えしまいそうになるわけですが、基本的には「セックス」という言葉で何を指しているか、とか、どういうものをセックスと呼んでいるのか、とか、「セックス」と他の言葉とはどういう関係にあるか、とかそういう話ですわね。でもこれはけっこうおもしろい。

まあたとえば、「浮気」ってのを考えみましょう。モテる人は「お前、浮気したな!」とか言われることがあるでしょうが、どういうのが浮気なんでしょうか。辞書をひくと、そういう意味での浮気ってのだいたい「他の異性に心を移すこと」みたいな説明がされてることがある。でもこの定義でいいのかどうか。「心を移さずにあれしたら浮気じゃないのかとか、異性じゃなくて同性とあれしたら浮気じゃないのかとかそういう話になる。あれ、「浮気」ってなんだろう?それって「あれ」をすることなんだろうけど、もしその「あれ」がなにかってのを考えたりするのが「浮気」という「概念」を分析するってことです。

おそらく広い意味では「浮気」は「他の人を性的な対象と思うこと」ぐらい。パートナーがいる人が、そのパートナー以外の「あの人とあれしたいな」、とかそういうこと考えただけで浮気になっちゃう。でもこれはおそらく広すぎるから、「特定のパートナー以外のとセックスしたら浮気」とかにしたい(と多くの人は思うはず)。

でもんじゃどっからセックスなのか。セックスってのはなにか。

「そりゃチンコとマンコをハメることだ」みたいな下品なことを言う人がいるかもしれませんが、それだったらオーラルセックスだけの場合は浮気じゃないのか(クリントン元米国大統領が部下にフェラチオしてもらったのに「セックスはしてません」と言いはったのは有名)、同性とのオーラルセックスは浮気じゃないのか、みたいな話になる。もちろんそういう「定義」を採用してもいいんだけど、まあ我々の多くはそういうふうには「セックス」を使ってないんじゃないかと思います。

んじゃ、セックスという行為はどっからはじまっているのか。チンコやマンコに直接に接触したときからなのか、それともキスとか乳もみとかそういうのからはじまっているのか。セックスはどこではじまって、どこで終るのか。

極端な場合には、「「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ 5:27)とかっていうイエス先生の教えを本気でとらなきゃならない。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」だそうですよ。たいへんです。性欲にもとづいて異性(なり同性)なりを見た人は、みんなセックスしてしまっているので。セクハラしたいと思っただけでセクハラしたのと同じです。目をえぐってしまいなさいす、手を切り落してしまいなさい、なんちゃって。

セクハラとかも同じ問題があるのがわかりますよね。セクシャルハラスメントってんだからセクシャルじゃないとならん。ただのハラスメントはセクハラではない。ではセクハラとはどういうものか。性的ないやがらせがセクハラなわけだけど、では卒論書けなかった罰に男子学生の尻を鞭打ちするのはセクハラなのかたんなる拷問や暴力なのか。尻だったらセクハラだけど肩を鞭打ちしたらセクハラではなくてただの暴行か。んじゃ暴行とセクハラを分ける意味とかあるんかいな、とか。ぜんぶ暴行や強要ではだめなのか。

セクシャルな部分に接触するのがセクハラなら、単なる言葉によるいやがらせはセクシャルじゃなくなっちゃうからセクシャルってのは接触に限る必要はない。さて、セクハラっていったいなんでしょう。これを考えるためにセクシャル/性的ってことばがなにを意味するのかわかってないとならん。

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ジェフリー・ウィークス

このジェフリー・ウィークス(『セクシュアリティ』)というひとの議論は、その筋(社会学者?)のひとびとにどのように読まれてるんだろうか。ふつうの読書経験からすると、あまりにも生物学まわりの情報が古すぎて使いものにならないんじゃないだろうか。
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『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。

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