いい人、ナンパ師、アリストテレス (1) モテとナンパ

オウィディウス先生からのあれですが、まあナンパとかそいうの縁がなかったし、バーとかは好きだけど、(男女問わず)隣に座った人やよく知らないお店の人と話をしたりするのもすごい苦手であんまり関係ないんですが、ナンパ業界というのはおもしろいなと思ってちょっと本読んでみたことがありました。

きっかけはPhilosophy for EveryoneシリーズのDating: Flirting with Big Ideasっていう本をめくったことかしら。このシリーズはその本のテーマにそった哲学的エッセイ集みたいな感じでおもしろい。私はゴリゴリの哲学本道より、そういうのが好きなんですね。このなかにRichard Paul Hamilton先生っていう人の”Hitting the Bars with Aristotle: Dating in a Time of Uncertainty” 「アリストテレス先生と飲みに行こう!」っていうのが収録されていたのです。

話の筋は、まあよくある男性の視点から見た恋愛に関する哲学風味の分析。

現代社会では恋愛が大事だっていわれていて、女性に相手の選択権があるから、まあ男性はとにかくモテようとする。少なくとも女性に嫌われないようにいろいろ勉強している。女性も男性にいろんなことを要求するし。んでまじめな男性は、ママやお姉さんや女友達や女性ブロガーが言うことをちゃんと聞いて、それを実行しようとする。ちゃんと女性を尊敬しなさい、平等にあつかいなさい、マナーを守りなさい、話をしっかり聞きなさい、真面目におつきあいしなさい、相手のことを考えなさい、家事をしなさい、とにかくきちんとしなさい、そうすればあなたは女性から愛されるでしょう。

でもそういう女性の言いつけを守る人は「いい人・ナイスガイ」にはなるけどモテないんですよね。日本でも「草食系男子」っていうのは話題になりましたが、あんまりもてない感じがする。国内のブログの世界でもそういう話はもうずっとつづけられているみたいですね。

まわりを観察してみれば、実は女性はいい人より、「ジャーク」、自分勝手なダメ男に集まっている。『だめんずウォーカー』とかってエッセイマンガがあったようですが、まあとにかくどう見てもダメな男の方がもてている。

この前どこかの大学のサークルが酒飲みとかで事件になってましたが、そういう不真面目なところにも(あらかじめそれがある程度わかっているのに)女の子はたくさん集まる。わけわかんないイベントサークルとかね。いわゆる「リア充」の世界。そこにいる人びとは、女性を尊敬しようなんて思ってなくて、とにかく酒飲ませて暴れよう、みたいに思ってるのに、実際には女性はそういうのに参加して、それなりに楽しくやっている。少なくとも「いいひと」とお茶飲んだりするよりずっとおもしろいのだろう。

ネットの世界を見ても、女性が推薦する真面目で誠実でおだやかでやさしい人より、とにかく自分勝手なことを書きちらす人の方が注目を浴びてるし、おそらくモテている。私自身、学生様がコンパとかでコイバナとかしているのをこっそり聞いたりしていると、なんでそんなんとつきあうのだろうか、みたいに思ったりすることが多いです。真面目でいい人はとにかくもてない。ここにパートナーを探している若い男性にとっての大きな問題があるし、女性に対する不信の根っこみたいなのがある。

まあ正直なところ、男性から見ても「いい人」っていうのはそんな魅力がないですよね。ブログとか読んでも、ああでもない、こうでもない、僕はどうしたらいいんだろう、みたいなの見てると、自分もそうなのに、「好きにしたらいいだろう」ぐらいで通りすぎたくなってしまう。とにかく他人の顔色うかがっておどおどしているのは魅力がないのは間違いがない。

1990年代後半にアメリカでネットの世界が爆発したときに(net news)、ナンパ師のコミュニティみたいなのができたんですね。彼らは自分たちをPick-up Artist (PUA)と呼ぶ。ナンパ pick-upはアートだ、それは習得できる技術でもある、と。ふつうの「いいやつ」は彼らに言わせれば、AFC、Average Frustrated Chump、よくいる欲求不満のマヌケでしかない。女の子に好かれようと女性自身による馬鹿なアドバイスをまにうけて、毎日けっきょくなにもできずに家でAV見てマスターベーションするくらいのことしかできない。それに比べてピックアップアーティストは覚醒した人びとであって、ネットでナンパのハウツーを交換し、それを実行することで人間関係とセックスを手に入れる。んでうまくいくとそのハウツーを講習会みたいなので売ったりもする。2000年代後半にはそういう関係のテレビ番組みたいなのも制作されたり、アメリカのトレンディドラマにも必ずそういう登場人物が出てくるようになったみたいですね。日本でも同じころからそういうのはやってるみたい。

ここらへんの事情があることを上にあげたハミルトン先生のエッセイで見て、実際それ読んでみた。ネットの情報をまとめた『レイガイド』(確実にオンナをオトす法則)っていうのが最初に有名なった本のようですが、それより、そこらへんの業界の裏事情まで解説したナイル・シュトラウスの『ザ・ゲーム』っていう本の方がすごくおもしろかったですね。インテリで仕事(音楽ライター)でもけっこうな成功を収めてるのに、チビでハゲでモテない平均的な欲求不満のマヌケである主人公が、ナンパ師のコミュニティに関心をもって取材しているうちにナンパの世界にはまっていく、という筋。ある手の青春小説であり、ピカレスクロマンであるような物語になっている。

→いい人・ナンパ師・アリストテレス (2) なぜ「いい人」は魅力がないのか

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オウィディウス先生にナンパを学ぼう

詩人はモテそう

アウグスティヌスとかが生きてたローマ時代っていうのは、その後のヨーロッパが禁欲的なキリスト教に席巻されてしまった以降に比べると性的に自由だったとか、放埒だったとか言われることが多いようです。特に帝国になった最初の方(初代皇帝のアウグストゥスからティベリウス、カリグラ、クラディウス、ネロあたり)は浮気だの不倫だの殺人だのいろいろやばいことをしていて性的に乱脈だったみたいな感じで紹介されることが多いっすね。物語や映画も多い。

まあ金と地位を手に入れたひとがいろいろひどいことをするのは人類の歴史ではよく見かけますね。一般の人がどうだったのかはよくわからないけど、まあそこそこ楽しんでたんだろう、みたいなに思われている。

そういう印象がどっから来るかというと、古典文学とかにエロ話が見かけられるからですわね。特に有名なのが、初代皇帝のアウグストゥスと同時代人のオウィディウスという大詩人が書いた『恋の技法』 (Ars Amatoria、『恋愛指南』)の影響だと言われます。この本は現代人が読んでも楽しめるのでぜひ読むべきです。

当時のギリシアやローマでは、「教訓詩」ってのがあったみたいですね。「人間ちゃんと働かなくちゃだめだ」「燕が来たら種をまけ」みたいなそういうためになることを韻文の形にしたもので、まあ真面目。オウィディウス先生はそういうのも書けたんでしょうが、それを男女のいちゃつきの作法みたいなのでパロったわけです。「恋の技法」とかっていうから甘い恋愛の話かというとそうではなく、完全にナンパとセックスの教則本、いまでいうナンパ本みたいな感じですわ。女性と仲良くなりたい男性はどうしたらいいか、男性の気をひきたい女性はどうしたらいいか、あとベッドでどうするか、とかそういうのをお説教するわけです。こういうの書いたからオウィディウス先生は皇帝アウグストゥスからローマを追放されちゃったりします。文学者というのはたいへんですね。

古代ギリシアではなんか恋愛といってもプラトン先生だと男性同士のパイデラステアの話とかになっちゃうのですが、古代ローマでこらへんの男女の「恋愛」やその技術が注目された裏には理由がある。古代ギリシアに比べ古代ローマは女性にも財産権とかあって相対的に地位が上がった。それに古代ギリシアでは結婚とかは女性の父親と旦那(候補)の間の契約だったので女性の意思は反映されなかったけど、古代ローマではいちおう女性が男性を選ぶこともできた、みたいなのがまあ女性が性的に発展したり、女性の歓心を買う技術に価値が出てきた理由だ、みたいな感じで説明されます。女性が選択することができるから男性がいろいろ努力する必要が出てくるわけですね。最近の国内の「モテ本」みたいなのもそういうことだと思う。

実際にローマの人びとがそんな自由に楽しんでたのか、というと最近出た佐藤彰一先生の『禁欲のヨーロッパ』とか読むとそんな簡単なもんじゃないですけどね。

そういうものは読んでられないからモテる方法を早く教えろ、という忙しい人のために書いておくと、中身はそこらへんのナンパ本とほとんどかわりません。

男性用だと

  • まず身なりをととのえろ。清潔さが大事だ。靴にも気をつかえ。
  • とにかく人の多いところに顔を出せ。劇場、競馬場、格闘技場、飲み会。
  • 適当にきっかけをつくって話かけて、女性の言うことに異議をとなえずそうだそうだとうなづけ。
  • 小間使いと仲良くなれ。
  • 旦那と喧嘩したりして感情が不安定なときに攻めろ。
  • 贈り物をしろ。
  • まめに手紙を書け。
  • 飲み会では歌ったり踊ったりして芸を見せろ。

とかそういう感じ。まあ人のやることは文化も時代も変わっても同じようなものですな。「無理矢理でもいいからチューしてしまえ」みたいなあぶないのもあり。

私が読むかぎり、一番大事なのはこれだ。

まずは、君のその心に確信を抱くことだ。あらゆる女はつかまえうるものだ、と。網を張ってさえいればつかまえることができるのだ。女が若者の甘いことばに誘惑されて撥ねつけるようなことがあれば、春には鳥たちが、夏には蝉がうたうことをわすれて沈黙し、猟犬が兎に背を向けて逃げ出すくらいのものだ。嫌がっているのだと君が信じているかもしれない女も、その実それを望んでいるのだ。こっそりと楽しむ愛が男にとって心をそそるものであるように、女にとってもそうなのだ。男は愛欲を隠すのが下手だが、女はもっと秘め隠した形で愛欲を抱くものだ。

まあとにかく自信が大事なようです。

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ヒエロニムス先生とかも性欲に悩んでいた

アウグスティヌス先生は人生は紀元354-430ぐらい。ほぼ同世代にヒエロニムス先生(340-420)がいます。どっちも「聖・セイント」がつく偉い聖人です。ヒエロニムス先生は聖書のラテン語作ったりして偉い。

なんか知らんけど、この3〜5世紀ごろはキリスト教の修行するひとは砂漠にいってわざわざ苦行するんですね。砂漠の聖者、砂漠の師父ねえ。砂漠ったってゴビ砂漠とか鳥取砂丘みたいなんじゃなくて、町からはなれた荒地ってことだろう。ご飯ちゃんと食べなかったり、草ばっかり食べたり、ベッドに布とか藁とか使わないで岩の上に寝たり、あるいは寝るときも横にならなかったり。数年間風呂に入らなかったぞ!とか自慢する人もいる。不潔で馬鹿ではないかと思うのですが真面目です。まあイエスさんが布教活動はじめる前に砂漠で悪魔と対決したとかって話があるからそれにならってるんでしょうが、ふつうの人がやったら悪魔にとりつかれますわね。あんまり不潔だったり無理な苦行とかするからあとでイスラムの人から馬鹿にされたりすることになる。

隠遁されておられます

ヒエロニムス先生の手紙はこんなん。

砂漠のあの寂しい荒野で、隠遁者に荒々しい住まいを備える灼熱の太陽に身を焼かれながら、わたしはどれほどしばしば、ローマのもろもろの快楽に取り囲まれている幻想を見たことか!わたしは独りで座っていたものだ。苦々しい思いに満たされていたからだ。わたしの汚れた四肢は形もない袋のような衣服に包まれていた。わたしの皮膚は、長いこと手を入れていなかったので、エチオピア人のように荒く黒くなっていた。涙と呻きが日ごとの業であった。そして眠りに抗しきれず、瞼が閉じられると、わたしの疲れた骨は裸の大地で傷ついた。食べ物や飲み物については語るまい。隠遁者には、病んでいるときでも、水しかない。料理されたものを食するなど罪深い贅沢である。だが、地獄を恐れるがゆえに、この独房なる家に自ら居を定めたにせよ——ここでの仲間といえば、蠍と野獣だけなのだ——わたしはしばしば踊る少女の群に取り囲まれているのを見た。わたしの顔は断食のゆえに蒼白であり、四肢は氷のように冷たかったが、わたしの心は欲情に燃え、肉体は死んだも同然であったのに、欲望の炎は燃えたぎり続けていた。(『書簡』22)

しかし寝てると踊る少女の夢を見るんですなあ。どきどき。少女が踊っている、っていうのもいいですね。やはり女性はダンスできてほしいと私も思います。はたして「いい夢見て得したなあ」って思ったかどうか。

若くて健康な乙女であるお前、たおやかで、ふっくらとした、バラ色の乙女であるお前、贅沢のなかで燃え盛っているお前、ブドウ酒や風呂につかり、既婚の女性や若い男たちと並んで座っているお前は、いったい何をしようというのか。彼らがお前に求めるものを、お前が与えるのを拒むとしても、求められること自体が、お前の美しさの証拠だとお前は思うかもしれぬ。まさにお前の衣服すらが・・・見苦しいものを隠し美しいものを見させるようなものであるならば、お前の隠れた欲望を顕にさせるのだ。お前が音を立てる黒い靴を履いて歩き回れば、若い男を誘うのだ。・・・お前は、公衆の間では、淑やかさを裝って顔を隠すのだが、売春婦のような巧みさで、男が見たならば、より大きな快楽を感じるような特徴だけを見せるのだ。(『書簡』117)

苦しんでる苦しんでる。ははは。 女性が裸でいるのも許せんが、きれいな服着てるのも許せん、おっぱいふくらんでるのが許せん、なぜワシを惑わすのじゃ、許せん許せん、という感じですね。ヒエロニムス先生がどうやってその苦境に耐えたのかはしりません。女性の方からすれば、ただ服着て歩いてるだけでヒエロニムス先生みたいな真面目な人を誘惑してることになっちゃうので迷惑ですよね。やばい。

上の訳は自分で英語から作ったんだったか、他からひっぱってきたんだったか忘れてしまいました。ごめんなさい。

まあ禁欲いいですよね。セックスするにはモテないとならないけど、禁欲はモテなくてもお金なくてもできるし。基本的に意志以外にはなにも必要ない。「なんで彼氏/彼女つくらないの?」とか言われたら「出会いがない」とか言わずに、「ずっと禁欲の苦行しててねー、苦しいけど真理のためにはしょうがない」とか答えればいい。

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キリスト教のそういう禁欲的なあれについては、19世紀後半の歴史学者のレッキー先生のがおもしろいです。

キリスト教とセックス (3) ベンサム先生はイエス先生は同性愛もいけた、と推測している

イエスさん自身は、飲み食いしたりセックスしたりすることを非難したことはない、ってのはベンサム先生が言ってるようです。まあ実際飲んだり食ったり好きな人ですしね。売春とかしている人にも「やめろ」とか言った形跡もない。さらにベンサム先生によれば、イエスさんは同性愛もぜんぜん非難してない。それどころか、イエス先生自身同性愛に積極的だったのではないか、とベンサム先生は考えてます。

「マルコによる福音書」でのイエスさん逮捕のシーンはこんな感じ。

イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 14:44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。 14:45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46人々はイエスに手をかけてつかまえた。 14:47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。 14:48イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。 14:49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。 14:50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

「耳切りおとす」ってのはすごいですね。武器とか用意しているし。イエスさんのまわりはおそらく反権力暴力集団でした。でも当局によって壊滅的打撃を受ける。このあと。

14:51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、 14:52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。

なんか滑稽なシーンで、モンティパイソンとか思い出しますけどね。でも悲劇的。この若者は他の偉い弟子がイエスを見捨てて逃げたのに最後までついていった一人。亜麻布ってのは当時は高級品で、この若者は男娼だったのではないかという解釈が昔からあるらしい。ベンサム先生によれば、人びと(訳によっては「若者たち」になってる)がその若者をとらえようとしたわけだけど、これつかまえてなにをするつもりだったのか。ベンサム先生がほのめかしているのは、男色レイプをしようとしたんではないか、とかってことらしい。

あとはまあヨハネによる福音書の最後の晩餐でも、弟子の一人がイエスの「胸によりかかっていた」とか。時代や文化が違うけど、まあそういうのってふつうあれですよね、というわけです。男同士ってふつうそんな身体的に親密にはならんですからね。

ここらへんの話はスコフィールド先生の『ベンサム』で読みました。おもしろいので読んでください。

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ベンサム先生自身のセックス観、同性愛観みたいなのはわりと注目されています。「同性愛について」とかいろいろ文書残してます。まだ十分に解明されてないけど、おそらく性の巨人。最近も哲学関係のブログでベンサムの私生活はどうだったか、みたいなのが研究されてるって話読んだけどURLわからなくなってしまった。

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キリスト教とセックス (2) んじゃイエスさん本人はどうだったのか

んじゃイエスさん本人はセックスどうだったのか。

イエスには妻や子がいたんではないかとか、側近だったマグダラのマリアは売春婦だったみたいだから性的サービスも受けてたのではないか、とかいろいろ言われてますね。でも福音書にはほとんどそういう恋愛・セックスに関するネタがないっぽい。

私が好きなのはここです。ヨハネによる福音書12:2-8。

イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。弟子(でし)のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人(ぬすびと)であり、財布(さいふ)を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。

画像はイメージです

よくわかんないですね。このマリアさんは「マグダラのマリア」さんとは別人みたい。よくある名前なんすね。でも高級アロマオイルを買ってきて(どうやってその金を手に入れたのか)、足(どの足?どこまで?)にだばだば塗って自分の(おそらく黒くて長い)髪でマッサージする、というのはこれはエロすぎます。300デナリってどれくらいかしらんけどとらいえず30万ぐらいでしょうか。ユダさんが「そんな無駄づかいするんなら貧乏人に寄付しようぜ、おれたちだって腹へってんだし」みたいなこと言うのもわかる。泥棒あつかいするのは気の毒な感じ。イエスさんはマッサージされるのを選ぶ。この箇所っていうのはすごく印象的だし、イエスさんの言葉には異常な魅力があるのもわかりますね。ユダさんの考え方はたしかに効率性とかそういうの重視してるけど、もっと大事なものがあるんだよ、みたいな感じでもあります。ユダさんが泥棒だったかどうかはわからんけど、なんか「浅薄な」功利主義者みたいな感じではあります。でも会計とかまされて四苦八苦しているのに、こんな使いかたされたら怒りたくなりますよね。余ったアロマで自分にもしてほしかったろうし。なんで俺はこんな苦労しているのにこのロクデナシばかり女にもてるのだ。殺す、殺してやる、ってな感じになっても不思議がない。太宰治先生の「駆け込み訴え」も読みましょう。へへへ。私はユダ、イスカリオテのユダ。

もう一つ好きな説教はこれです。

「あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げこまれない方がましである。」(マタイ5:27)

画像はイメージです

ここで言う「姦淫」ってのは、結婚している女性とセックスすることです。結婚してないのとはしていかんということにはなってないみたい。それに結婚している男性が他の女性とするのも姦淫じゃないみたいではある。でも結婚してないのにセックスする女性は売春婦やヤリマン扱いされてたと思う。

まあ厳しいですねえ。この厳しさ、外面的な行為ではなく、その動機みたいなのを責めたてるのがイエスさんお教えの基本ですね。こうされちゃうともうほとんど誰でも罪人である。

あなたがたも聞いているとおり、「セクハラするな」と命じられている。しかし、私は言っておく。セクハラな思いで女子学生を見る大学教員はだれでも、すでに心のなかでセクハラしているのである。もし頭があなたをつまづかせるなら、首をもいでしまいなさい。

キリスト教とセックス (1) おそらくぜんぶパウロさんが悪い

キリスト教についてもあんまりよく知らんのですが、ちょっとだけ。

ask.fmでコメントもらいましたが、カント先生の性的禁欲主義や結婚観はまったくキリスト教です。まあ宗教はどれも性的なことがらについての教えや禁止を含んでいるとはいえ、キリスト教はほんとうにセックスにこだわる宗教ですね。

あんまりモテない雰囲気

あのカント先生のセックスと結婚に対する考え方は、イエスさん自身というよりはキリスト教の教義の確立に貢献したパウロさんのものだと思います。っていうかキリスト教ってのはイエスさんが作ったわけじゃないです。「俺は神だ」とか言ってない。むしろ当時のユダヤ教の伝統のなかの改革者というか過激派というかそういう人だったはず。イエスさんは実は神さまで、自分はなにも悪いことしてないけど我々のいろんな罪を賠償するために十字架にかかったのであーる、みたいな中心的教義を開発したのがおそらくパウロさんです。新約聖書にはイエスさんの伝記みたいなの(福音書)の他に、弟子たちの手紙みたいなのも収録されてるんですが、それがイエスさんとその教えをどう解釈するかってのの手引きになってる。

パウロさんはイエスさんと直接会ったことがない。おそらくヤバい人だったイエスさんを理想化した姿やそのお説教を伝え聞くだけだったので、いろいろ過激な主張ができるようになる。

パウロさんは偉かったので、あっちこっちの集会所から「〜についてはキリスト教徒としてはどうしたらいいですか」とか問いあわせが来るんですね。んでそのなかには実は悩み相談も多い。「セックスのことを考えて夜も寝られないんですがどうしましょう」とかそういうのもあったと思います。そういうこまごましたことに答えてる手紙の一節。

男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。(コリントの信徒への手紙7章1〜9節)

基本的にセックスはしない方がいい。でも我慢できないんだったら結婚して一対一でやりなさい。でも本当は禁欲した方がいいです。

まあこれがセックス自体が悪いものであるからかどうかというのは微妙なところで、別のところではこんなことを言ってます。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。

独身の男が神様のこととか考えるかどうか怪しい気がしますねえ。独身の哲学研究者は哲学に身も心も捧げるかどうか。でもまあ「独身の本気で神様を信じている男は」ってことでしょうね。

しかしこの「(世俗的なことに)思い患うな」というのはキリスト教の中心メッセージです。まあパウロさんのころには、イエスさんの予言した世界の終りはすぐ近くに迫っていると本気で考えてたみたいなので、それまでエッチなことなんかしているヒマなんかないだろう、救われるために神様のことだけ考えなさい、ぐらいの意味かもしれません。やっぱり目の前の女体とどこにいるかわからない神様を比べたら、女体を優先するでしょうからね。

キリスト教のセックス・結婚観についてはここらへんからはじめるとよいと思うです。

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デートレイプ魔としてのジャンジャック・ルソー

ルソー先生。イケメンだけどあやしい。

ルソーには「先生」つけたくない、みたいなこと書いてしまいましたが、いけませんね。ルソー先生の言うこともちゃんと聞かねば。しかしこの人やばい。やばすぎる。まあ実生活でもかなり危険な人でしたが、書くものもやばい。私はこの先生の書くもの、なにを読んでもあたまグラグラしますね。理屈通ってないわりにはなんか情動に訴えかけるところがあって、健康に悪い。肖像画とか見てもなんか自信満々の怪しいイケメンで、なんか恐いものを感じる。

ルソーはセックスと恋愛について大量に書いてます。『新エロイーズ』とか、元祖恋愛小説ベストセラー作家でもある。『エミール』とか教育論の元祖・名作ってことになってていろいろ誉められてるけど、そんないいもんでもない気がする。その内容を見てみるとこんな感じ。

性のまじわりにおいてはどちらの性も同じように共同の目的に協力しているのだが、同じ流儀によってではない。そのちがった流儀から両性の道徳的な関係における最初のはっきりした相違が生じてくる。一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。必然的に、一方は欲し、力をもたなければならない。他方はそんなに頑強に抵抗しなければそれでいい。

男は強く暴力的に荒々しく迫り、女はちょっと抵抗していいなりになるのが自然だ。

この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。男性のねうちはその力にある。男性は強いというだけで気に入られる。……

男は力がすべて。肉体の力も金も権力も。そういうのある男性がモテるってのは、まあそうでしょうね。

女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心が結びついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。そういうことから攻撃と防御、男性の大胆さと女性の憶病、そして、強い者を征服するように自然が弱い者に与えている武器、慎しみと恥じらいが生じてくる。

征服だー。「男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ」。迫られてもすぐにチューさせたりしないで抵抗しろ。その方が燃えて無理矢理迫りたくなるからね。

自然は差別なしに両性のどちらにも同じように相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望をいだいた者が最初にはっきりした意思表示をすることになる、などとだれに考えられよう。それはなんという奇妙な、堕落した考えかただろう。そういうもくろみは男女にとってひじょうにちがった結果をもたらすのに、男女がいずれも同じような大胆さでそれに身をゆだねるのが当然のことだろうか。……

女から迫ってはいかん、ということです。不自然だから。迫られるのを待ってろ。

そういうわけで、女性は、男性と同じ欲望を感じていてもいなくても、また男性の欲望を満足させてやりたいと思っていてもいなくても、かならず男性をつきのけ、拒絶するのだが、いつも同じ程度の力でそうするのではなく、したがって、いつも同じ結果に終わるわけでもない。攻める方が勝利を得るためには、攻められるほうがそれを許すか命令するかしなければならない。攻撃する者が力をもちいずにいられなくするために、攻撃される者はどれほど多くのたくみな方法をもちいることだろう。

最後のところが注目ですね。女は男が暴力を使うようにしむけているのだ、ということです。

あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。自然と道理はそういうことに反対している。

でもそのときに使う暴力は、ケガするような本気の暴力ではないですよ、と。

自然は弱い者にも、その気になれば、抵抗するのに十分な力をあたえているのだし、道理からいえば、ほんとうの暴力は、あらゆる行為のなかでもっとも乱暴な行為であるばかりでなく、その目的にまったく反したことなのだ。

女は本気になれば本気で強く抵抗できるのだが、たいていそうしない、なぜならそれは嘘んこの抵抗だからだ。

というのは、そんなことをすれば、男性は自分の伴侶である者にむかって戦いをはじめることになり、相手は攻撃してくる者の生命を犠牲にしても自分の体と自由を守る権利をもつことになるし、また女性だけが自分のおかれている状態の判定者なのであって、あらゆる男が父親の権利をうばいとることができるとしたら、子どもには父親というものはいなくなるからだ。……

まあけっきょく、女性は力いっぱい抵抗することもできるのだが、セックスの場面ではそんな強く抵抗することはない。最初にちょっと抵抗するとあとはぜんぜん抵抗しなくなる。これは無理矢理セックスされるのを実は望んでいるからだ。

とか危険なのがいっぱい。まあ早い話、女は迫られるのを待っていて、迫ると抵抗するけどそれは本気じゃないからそのままやってもかまわん、それが自然だ、ということですわね。

こんなものが戦後教育の推薦図書とか信じられんですね。「なに?ジャンジャック、やめて、やめてジャンジャック、本気なの? おうおう」「(やっぱり女は最初抵抗してみせるだけだな)」とかってことになった人がたくさんいるのではないか。まあルソーほど有名人でイケメンだったら好きでそういうふうになった人もいるかもしれんけど、そうじゃない人も多かったろう。いやほんとにシャレならんすよ。そういうの読んで女はそういうものだ、みたいにまにうけた戦後知識人もたくさんいたと思う。こういうのは、単なる時代的な限界とかそういうのではないのではないかな。

まあでもルソーの近代社会に対する影響は巨大なので、どの本も読むに値する。読まないでいると、いま一般に言われている政治的・社会的な議論とかがどこに出自があるのかわからなくなってしまう。「あ、日本の〜という人がいっていたあれはルソーの引用なのか」とか気づくことがたくさんあります。あとウルストンクラフト先生という元祖フェミニストみたいな先生がいるんですが、この方はルソーが嫌いでその批判で1冊本書いてます。かならず読みましょう。でもさすがにセックスの話はできなかったみたい。

まああえて好意的に読めば、こういうのも人びとのセックスや性欲に関するある種の真理や理想を描いている、みたいになるんすかね。攻めと受け、っていうBLとかで一般的な構図ですしね。実は人びとはやっぱりそういうのが好きだってのはあるんかもしれない。

まあどう評価するにしても、ルソーとかカント先生とかの著作が一般には非常に抽象的なものとして読まれていて、我々の実際の生活や関心事とかけはなれたことを論じているように紹介されるのは私は不満です。どの哲学者もセックスとかには関心をもっていて、かなりの分量の思索を残してます。そういうがまったくといっていいほど議論されることがないのは、やっぱりおかしいのではないか、みたいな問題意識からもセックスの哲学はおもしろい。でもまあやっぱり堅い(ことが求められている)大学教員としては書きにくいことも多いのはわかんですけどね。

2018年の日本にも同じようなことを考えている人がいます

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女性の権利の擁護―政治および道徳問題の批判をこめて
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ルソーの一般向け紹介本みたいなのはでは仲正先生のがまともで読みやすくてよかったです。「なんとか2.0」みたいなのはまにうけてはいけません。

今こそルソーを読み直す (生活人新書 333)
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右翼・保守の人はルソー嫌いが多くて、もう人身攻撃みたいなのしてます。話のネタには読んでおいてもいいかも。

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カント先生とセックス (6) 結婚が唯一の道徳的なセックスの条件です

セフレもカジュアルセックスも売買春もオナニーもだめ。ではどうしたらいいですか? 結婚だけが唯一の道です。

全人格を意のままにするという権利、それゆえ性的傾向性を満足させるために性器をも使用する権利を私はもつのだが、いかにして私は人格全体に対するここのような権利を獲得するのだろうか。──それは私が他の人格に私の全人格に対するまさにそのような権利を与えることによって、すなわちただ結婚においてのみ生じる。結婚は二人格の契約を意味する。この契約において、双方が相互に同等の権利を回復する。つまり各人が自分の全人格を他方に完全に委託するという条件に同意することで、各人は他人の全人格に対する完全な権利を手に入れる。もはや、いかにして性的交渉が人間性を低劣にしたり道徳性を毀損したりすることなしに可能であるかを、理性によって洞察できる。つまり、結婚がその人の性的傾向性を使用するための唯一の条件なのである。

自分のすべてを相手にあたえ、相手のすべてを自分が得る、という形での関係のなかでだったらセックス許されます。しかしここでカント先生がどういうことを考えているのかっていうのはなかなか難しい。ふつうのセックスは相手を性欲の対象のモノにすることだからだめだ、でも結婚セックスは相手をモノにして自分のものにするけど、自分も相手の所有するモノにするからいいのだ、みたいな感じですかね。でも、これと結婚してない恋愛関係・愛人関係とかの違いがよくわからない。

どうもカント先生が注目しているのは、恋愛や愛人関係では必ずしもお互いがお互いの「所有物」になるわけではないし、時には不平等なときがある。二股とか三股とか。一方だけがぜんぶを捧げて、片方は「いや私は私のもので、あんたのものじゃない、一発やったからって彼氏ヅラするな」とか言うこともありえる。それに対して、結婚してしまえば、「私が自分の全人格を他の人格に渡し、それによって他方の人格をそのかわりにえる」ってことになって、「それによって双方の人格は意志の統一を形成する」ってことらしい。これも難しいんですが、結婚してしまえば幸福も不幸も、満足も不満も二人一緒に味わうことになるのだ、とにかく夫婦は一体なのだ、みたいなことらしいですね。すげーロマンチックな結婚観ですね。これはおそらく結婚しなかった人にしか考えられない。永遠の中二病という感じですねえ。

まあ「相手を所有する」ってのはやっぱり相手をモノ、所有物として考えてるわけで、これがなぜ人間性の定式に反しないのか謎。

カント先生が結婚という条件をどう考えていたのかっていうのはいろいろ解釈の歴史があってちょっといまは追いきれない。一つ目立つのは、カント先生がルソー(なぜかルソーには「先生」つけたくない)から受け継いだ社会契約っぽい考え方をつかってるんだろう、って感じですね。ルソーの問題というのは、国家の成立や正当化を考える場合に、平和に協力して暮すために人びとは政府に従って、自分の自由を放棄しなきゃならないように見えるけど、それじゃ自由が失なわれてしまう。自分の自由を保持しながら、みんなとうまくやっていくにはどうしたらいいか?っという問題ですわね。「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従しない」ことはどうすれば可能か、みたいな感じで問われる。ルソーの答は、民主主義。勝手にふるまう自由をみんなが同じように放棄しながら、みんなが政治に参加し法と定め政治をおこなうことで、人民として一つの意志をつくりあげるとき、人びとは自分たちの意志にしたがっているという意味で自由である。選挙に行くと人間は自由になるのです。まあ法律とかも自分たちで決めていると思えば従う気になれるものですよね。選挙はぜひ行きましょう。

カント先生はこの発想を結婚にもちこんでいるんですかね。おたがいに他の人とセックスする自由を放棄し、二人で一体として合議制で(?)性生活を営むことによって、相手の自由を奪ったり人間性を貶めたりせずに楽しいセックスをすることができる、それはお互いに自由なセックスである、みたいな。「イエス/ノー枕」を両者が使用し毎夜投票をおこなうことによって、人間は自由になるのです。

まあよくわからないけどこのラインの解釈するのが主流っぽい。こういう解釈が可能なら、お互いの性的魅力以外の人間性に対する尊敬と、一対一での排他的な関係、あたりが重要だってことになるでしょうか。

まあ本当によくわからないんですが、こういうカント先生のセックス観は、男女の間の平等ってのもを重視している点ではなかなり近代的なんですわ。カント先生が愛人関係とか内縁関係を攻撃するのは、そこになんか不平等が入りこむ余地があるからみたいなんですよね。まあたしかに「私はあなたとかセックスしません」みたいな約束みたいなのが存在しなければ、モテる女性はたくさんの人とセックスできるだろうし、モテない男性はそれにバッグとか貢ぐだけ、みたいな不平等な関係になっちゃいますからね。もちろんその逆もある。

ふつうの若者が「つきあう」って言う場合には、「(場合によって)セックスする」という意味と「他の人とつきあわない、他の人とはセックスしない約束を結んでいる」「お互いの幸福を真剣に考える約束をしている」ぐらいの意味が含まれている気がしますね。これ、カント先生意味だったらある種の「結婚」をしていることになるのかもしれない。

まあそういうことで戸籍とかに載る意味での「結婚」が大事なんじゃなくて、二人の間の尊敬と排他性とケアみたいなのが大事なんだろう、とかって解釈するくらいでいいんかなとも思います。となれば一対一でちゃんとおたがいをよく知っておつきあいしてセックスするのはカント先生から責められずにすむかもしれませんので、みなさんもそれくらいを目指したらどうでしょうか。

カント先生とセックス (5) オナニーも禁止です

カント先生によれば、売買春やセフレがだめなだけではありません。オナニーもいかんです。いいですか、オナニーもいけません。

性的傾向性(性欲)の濫用が「情欲の罪」です。んで、売買春とか姦通とかは「自然にしたがった」罪で理性に反しているのですが、自涜(オナニー)は自然に反した罪です。

自然に反した情欲の罪には、自然本能や動物性に対立するような性的傾向性の使用が属する。自涜はこれの一つとして数えられる。これはまったく対象を欠いた性的能力の濫用である。すなわち、われわれの性的傾向性の対象はすっかりなくなっているが、それでもわれわれの性的能力の使用がまったくなくなっていずむしろ現存する場合のことである。これは明らかに人間性の目的に反しており、しかもその上動物性にも対立する。これによって人間は自分の人格を投げ捨てて、自分を動物以下に置く。……自然に反した情欲の罪はすべて人間性を動物性以下に低め、人間を人間性に値しないものにする。このとき人間は、人格であるに値しない。だから、それは、人間が自己自身に対する義務に関して行うことのできる最も卑しく最も低劣なことである。自殺も確かに人間が自分に関して冒す可能性のある最も身の毛のよだつことではあるが、あそれでも自然に反した情欲の罪ほどには卑しくも低劣でもない。こちらは人間の犯す可能性のある最も軽蔑すべきことである。まさにそれゆえ、自然に反した情欲の罪は口にできないものでもある。というのは、この罪を口にすることによってでさえ、吐き気が催されるからである。

えらい言われようですね。みなさんは動物以下です。人格であるに値しません。

カント先生のころは「自然の目的」とか生物の「合目的性」とかってのがもてはやされた時代で、まあ人間、広くは生物はみんな生きるとか繁殖するとかって「目的」にあった体の構造をしていると考えられてました。

自然において性欲というのは子どもをつくる「ため」にあるものだろうから、子どもができないような性的活動というのはすべて性欲をまちがった方向につかっているよ、ってことですね。同性愛や獣姦も子どもを生むという「自然の目的」に反しているから同罪。

この自然の目的とか合目的性とかを使って、カント先生はけっこう重要な議論をしてるんですよね。たとえば、先生に言わせれば、人間の生存の目的は、快楽や満足という意味での「幸福」ではない。なぜなら、快を味わったり満足したりすることは人間以下の動物でもできる。むしろ人間は理性があるからいろいろ考えちゃって快楽や満足を味わうことができなかったりするし、セックスとかも動物の方がうまくやってる。理性は幸福の邪魔をしているじゃないか。ってことは、人間が理性をもっているのは快や満足のためではないはずだ。だから人間が生きる目的は快や満足のためではないはずだ。そんな議論を『道徳の形而上学のための基礎づけ』の最初の方でやったりしてます。たしか西田幾多郎先生もパクってたような。

まあこういう生物に「目的」があるはずだ、みたいなのは19世紀なかばのダーウィン先生以降だんだん弱くなってるんですが、こういう「本来の目的」とか「自然」とかってのはいまだに人びとの思考のなかでは意義があるみたいですね。「人間は自然にしたがって生きるのが一番だ」みたいな。人間が「自然」に生きたら、まあ殺人とか強姦とかいろいろやるだろうし、女性は10人ぐらい子ども産んでぼろぼろになるだろうし、あんまりいいことじゃないと思うんですけどね。

人間の指はなにかものをつかむ「ため」にこういう構造になってるんでしょう。もとはサルと同じように木登りとかするためでしょうね。でもこれが指の本来の目的だ、とかっていわれたら、鼻をほじくったりするのが自然に反した使用法なのか。少なくともキーボードを叩くのは自然に反してますよねえ。困ります。数学とか論理学とかやるのでさえ、なんか人間の能力を自然に反した使用しているのではないか、みたいなことさえ言えなくもないかもしれない。

カント先生の議論でもうひとつ気になるのは、オナニーでは性的傾向性の対象は存在しない、みたいなやつなんですが、これどうなんですかね。まったく対象が存在しないで意識が自分だけを向いているオナニーとかありえるのかどうか。私はAVとかポルノとかBLとか見たり、あるいはクラスメートとか思いうかべたりして、なんか意識の対象が自分以外に向かってるのが普通じゃないかと思うのですが、どうでしょうか。ここらへんは現象学者とかに研究してもらいたい。そういう話を以前そういうのに詳しい偉い先生としたときには「いや、オートエロティシズム(自己性愛)というのはもっと複雑なものだ」みたいなことを言われました。ここらへんはおもしろい。

まあオナニーの他、同性愛と獣姦がこの種の「自然に反する」行為に含まれます。獣姦はともかく同性愛の方はそういうこと言われても困りますね。まあ西洋人がこういうカント先生的な偏見から人びとが脱出するまで150年かかります。っていうかまあいまでもあれですね。

オナニーに対する社会の態度まわりはいろいろおもしろい研究がありますね。この前読んでたのはこれ。

快楽の歴史
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コルバン先生はエロ本とか、教会の「告白の受けつけマニュアル」みたいなのとか狩猟してインテリ向けエロ本みたいなのを作ってる人。ぶ厚くて読んでも読んでも終りません。

国内でも明治〜大正〜昭和中期のオナニー禁止教育のことを書いてた本があったと思うんですがどれだったかな。赤川学先生だったか、他の先生だったか。

あと映画だと『キンゼイ』がおもしろかったです。キンゼー先生は初期の性科学者で、それまでやってなかった大規模な聞き取り調査とかして人びとの性行動を明らかにして『キンゼイ・レポート』出版して、人びとは実はオナニーや同性愛、不倫、その他ばんばんいろんなことをしているのだ、ってやって世界を変革した偉人です。どうも子どものころの教育のせいでオナニーに対する罪悪感に苦しんでたみたいで、そこらへんもこの映画で描かれてます。性の巨人。

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書いてはみたものの、「オナニー」じゃなくて「マスターベーション」を使うべきだったかな、とか。

カント先生とセックス (4) 恋人関係でもセックスしてはいけません

前エントリで「利害関心にもとづいて」と訳されているのは主に金銭的利益とかを考えてって、ことです。まあ「売買春はいかんです」というカント先生のご意見に「我が意を得たり」みたいな人は少なくないかもしれませんが、カント先生が偉いのは、売買春だけじゃなくて、お互いに性的に求めあってる関係でさえセックスはいかん、と主張するところですね。前エントリでは「金銭とかの利益のために体をまかせる」のが問題だったように見えるけど、実は「性欲のためにお互いに身をまかせる」のも同じ。カント先生は結婚してないでセックスするのを「内縁関係」と呼ぶのですが、こんな感じ。

では、自分の傾向性を第二の仕方すなわち内縁関係によって満足させることは許されないのだろうか。──この場合、それぞれの人格は相互に自分の傾向性を満足させるのであり、意図として何ら利害関係をもたず、一方の人格が他方の人格の傾向性を満足させるために奉仕しているのだろうか。──この場合はなんら目的に反するものは存しないように見える。しかし、ひとつの条件がこの場合をも許されないものにする。内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねるが、自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく場合である。しかし、自分を他の人格に対してただたんに傾向性の満足のために差し出す人は、やはり依然として自分の人格を物件として使用させている。傾向性はやはり依然としてたんに性へと向かうのであり人間らしさには向かわない。とにもかくにも、人間は、自分の一部分を他人に任せるときに、自分の全体を任せているのだということは明らかである。人間の一部分を意のままに処理することはできない。なぜなら、人間の一部分はその人間全体に属しているから。

ここはおそらくかなり解釈が必要なところなんですね。「内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねる〜」ってのはどういうことか。まあ結婚してない短期的〜中期的な性的なおつきあいっていうのは、まあお互いにセックスしたいからセックスする関係なわけですが、それもやっぱりお互いをお互いの性欲の対象にすることだ、と。「自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく」。「人格」はあんまり深読みする必要はないです。単に自分。つまり、自分の幸せとか将来とかについては自分が決める。どこで就職するかとか、誰とつきあうかとかっていうのは自分で決めますよ、他の人の命令にはしたがいませんよ、っていうのを保持したままで(あたりまえですね)、相手とセックスする状態なわけです。まあふつうですよね。でもこうした態度はカント先生には問題があるらしい。

これは内縁関係と対になる結婚関係をどう考えているかを理解しないとわかりにくいですね。カント先生の考えでは、男女が結婚すると、自分の幸せとか将来について自分だけでは決められないようになるのです。キリスト教的な、結婚によって男女は「一体になる」みたいな考え方。もう身も心も性的能力もぜんぶあなたのものよ、あなたのものはぜんぶ私のもの、だからあなた自身のことでも私の許可がなければ勝手に処分できませんよ、みたいな関係が結婚関係なんですね。セックスはするけど自分のことは自分で決めます、みたいな関係は、自分と相手の性欲を満たすために下半身だけの関係をもつことで、それによって自分をモノにすることだからいかん、それは自分も相手も単なる性欲の満足のための手段とすることだ、と。セフレ禁止。

しかしカント先生、なんだって恋人・内縁・セフレ関係を「性に向かって人間性に向かうものではない」とかって考えちゃうんですかね。モテない雰囲気がただよってます。おたがい納得づくで、自分と相手を性欲を満すためのモノにし獣にする、みたいなのむしろよさそうですけどね。「んじゃ今夜も獣なっちゃう? エブリバディ獣なっちゃう?チェケラ!」「やだーもうエッチなんだから……なる……」みたいな。でもチェケラってはいかんです。