山口裕之「生命科学の非倫理性」

・・・倫理的問題とは、結局のところ価値意識の問題であり、感情の問題である。われわれの倫理的価値意識は、〈特定の〉他者を思いやる善意と、その善意を正しいものだと感じる感情によって支えられている。倫理的問題がえてして水掛け論になり、感情的なののしり合いに発展することの理由はこの辺りにある。そうしたののしり合いのなかで、人は、倫理的な動機ないし感情に従うまさにそのことによって、非常に非倫理的に振る舞うことになる。論争がののしり合いになるのは、自分の正しさ(実は自分の感情にすぎないもの)のもとに相手を屈服させようという感情に突き動かされるからである。そして、相手を思いやることが倫理の根本だとすると、相手を屈服させようとすることは、論争相手のことを思いやっていないがゆえに、非倫理的である。(山口裕之「生命科学の非倫理性」、石田三千雄他『科学技術と倫理』ナカニシヤ出版、2007、 pp. 97-8。強調は原文傍点。)

うーん。わりとナイーブな主観主義・相対主義。どうして他では優秀な人も、道徳判断の話になるとこういうナイーブな立場になってしまうのだろう。もちろん、生身の人間が倫理的な問題を議論するとしばしばののしりあいになり、その背景には倫理的判断に不可欠の感情があることはよい指摘だ。しかし、道徳判断は単なる感情だという主張は、大昔からたいていの哲学者によって反駁されている。感情に加えて少なくともなんか首尾一貫性が必要だとされているはず。また、「〈特定の〉他者を思いやる」善意とそれに付随する感情が倫理的価値意識だとすれば、特定の論争相手を思いやらないことは特に非倫理的であるとは思えない。あと少なくとも「相手を思いやることが倫理の根本だとすると」という条件節に対して筆者が肯定するのか否定するのか単なる仮定なのかぐらいははっきりさせないと、最後の「非倫理的である」がたんなる感情の表明なのか、なんらかの一般的な主張なのかがわからん。ここらへん推敲が不足しているだけかもしれん。

ちなみに、この文章の前では

・・・「自分の考えが正しい、それは相手も従うべき普遍的な正しさなのだ」とやみくもに信じて、相手の「善意」には思いいたさずに、相手が間違っていると一方的に決めつける者がいたとすると、私の言いたいことはやはり同じである。「勝手に決めるなよ!」。(p. 96)

私はこの方の善意にはまったく疑問をいだかないが、「勝手に決めるなよ!」はたんなる感情の記述か表出のどちらかだと考えざるをえない。これがたんなる「感情の表明」と解釈されていいのだろうか。

ドーキンスのタイプの「社会生物学」について(ドーキンス自身は「社会生物学者」を自称しているのかな?まあいいか。)。

例えば私が純粋な親切心からしている行動について、はなから私自身の意図を質問する気もなく、「それは血縁者を多く残すための行動である」などと説明するならば、私の言いたいことはやはり、「勝手に決めるなよ!」である。(同書「科学的認識の倫理性」、p.108)

これは至近因と究極因を混同している。っていうか、その手の学問を完全に誤解していると思う。社会生物学者や進化心理学者はそんなまちがいはしない(もしそういう混同をするようであれば、学界から追いだされるだろう)。まあでも、この二本の論文全体を通して主張されている「地獄への道は善意によって舗装されている」はまったく同意。

遺伝学の基礎を誰か教えてあげてください

http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071002

 遺伝病(=相続病)とされる病気において、孤発例が観察されることがある。例えば、遺伝病の典型と思われている血友病(X染色体連鎖遺伝)では、稀に女児の発病例が報告されるだけでなく、何と三分の一が孤発例とされている。これは、どういうことだろうか。教科書的な説明は二つある。新生突然変異の故にとする説明と、家系の種々の事情(追跡不能、病歴記録欠如、他病による早世など)の故に孤発に見えるだけと示唆する説明である。しかし、それで説明が付くことになるだろうか。そこに嘘はないにしても、何ごとかが解明されずに曖昧にされてはいないだろうか。

孤発例の人間が子孫を残すなら、家系を創出することで、いわゆる創始者効果を発揮することになる。そのまま進行するなら、孤発例は消失して、すべてが通例の遺伝様式に従うことになるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、それでも孤発例は出現するはずである。ところで、孤発例の人間が<優生>によって(殆ど)子孫を残せずに歴史が推移してきたとするなら、どうなるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、やはり孤発例は出現するはずである。以上を勘案しながら、(発病に<都合のよい>)突然変異率や遺伝子分布均衡などについて語るにはどうすればいいのだろうか。ここでも明らかなのは、<優生>には如何なる集団的合理性も無いということだが、それ以上に気にかかるのは、例えば、<三分の一もの孤発例を伴う遺伝病>が起こるようなポピュレーションとは何なのかということである。他の人びとは、<孤発例を必ず伴う遺伝病>なる概念に理論的不安を感じていないのだろうか。その不安をめぐる問いを正しく定式化する力は私には無いので、識者に教示を願いたい。

なんにも曖昧なところはないし、「孤発例を必ず伴う遺伝病」という概念になにもおかしいことはない。これからも運悪く血友病になる変異遺伝子をもつ人が出てくるだろう。宇宙線とか化学物質とかいろんな作用で遺伝子に影響があるのは避けられないのだから。

もしかしたらdesdel先生は、実体として特定のDNA配列の「血友病の遺伝子」ってのがなんか一種類ある、さらには一種類しかないと思ってるかもしれない・・・いやいくらなんでもそんなことはないだろう。あれ、私自身最初は「血友病の遺伝子」って書いちゃってるけど、まあこれは実体としてそういうのがあるってんじゃなくて、ある部分に異常があると血友病になっちゃうってことで。なるほどこういう書き方が誤解をまねくんだな。失敗失敗。

識者に教示してもらうまえにそこらへんの遺伝学や遺伝病の本でも読んだらどうか。木村資生先生の『生物進化を考える (岩波新書)』ぐらいでもいいじゃんね。木村先生がわりと単純な優生主義者だから読むのがいやだというわけでもあるまい。コメント欄あけておけば誰か生物学の基本を知ってる人が教えてくれるんじゃないかと思う。はてな人力検索で質問してもいいじゃん。「孤発例を必ず伴う遺伝病という概念はおかしくないですか?」とかけば、たくさんの人が答えてくれるはずだ。100はてなポイントで十分だろう。

まあブログで出版原稿を書く試み(これはかっこいい)で、「識者に教示を請う」のはただの飾りなのだろう。

追記

まあ好意的に読めば、よくわからない劣性の遺伝病因子とかきっととんでもなくたくさんあるね、とか、変異もっちゃうことってけっこうあるんだな、とか、血友病は伴性遺伝だから目立つんだな、とかそういうことなのかな。哲学者とかは「どんな病気も遺伝病である」とかっていいたくなるのかもしれない。実際、われわれがもっとよい免疫システムもってれば感染症さえかからないかもしれないわけだし。もっと生物として優秀ならガンも糖尿病にもならないかも。人間じゃなければ老化もないかもしれん。でもこういうのって「遺伝病」ってのを医学的な文脈とは違う使い方しちゃってるよね。

そういや上の木村先生の岩波新書のちゃんとした批判て見たことないような気がするな。先生はたしか(手元にないので正確じゃないけど)「現代の福祉社会では変異が淘汰されずに蓄積されて有害だから、ある程度優生考えないと」とな感じの主張してたはず。なんかそこのところは根拠があやふやで議論がおかしかった記憶があるんだけどね。ビッグネームで岩波新書だから一般読者には影響力大きいんじゃないだろうか。だいじょうぶなのかな。もう古いからどうでもいいのかな。お亡くなりになってるらしいから改版もしないだろうし。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

(NHKブックス)

  • 2章でロングフルライフの議論からパーフィットと全面対決しているのはすばらしい。 議論が成功しているとは思えないけど*1、非同一性問題のところは難しくてふつうの人はなかなか手が出せないところなので、
    がっぷり戦おうという気概がすばらしい。論述も手探りで哲学している感じでよい。
  • 若い人々がこれ読んで、自分でパーフィット読んでみていろいろ発展させてくれるといいな。パーフィットはなんというか怖がられてるんだよね。ちなみに次の本になるはずのClimbing the Mountainの草稿もネットで公開されているので若い人はぜひ読もう! パーフィットの議論に穴を空けられれば世界的名声が。世界中の哲学若者がギラギラと狙っているはず。
  • 「われわれの議論では」「われわれの結論は」は勘弁してほしい。それはたいていの場合加藤先生の直観的判断にたよってるので。
  • 全体に「プラグマティックな解決」とかってときの意味がよくわからない。「理論的にはあんまりすっきりしてないけど、とりあえず多くの人が納得しそうな」なのかなあ。「私の直観によくあう」という意味ではないだろう。強硬なプロライフの人は加藤先生の議論に納得しないと思うけどね。そういや、同じようなことを言うAnthony WestonのToward Better Problemsの翻訳がどっかから出るという噂があるらしい。
  • 第3章は一番言いたいことなのかな。いろいろ本気な感じがする。加藤先生の直感はいつもながらすばらしく切れるが、どこまで正当化できるか。
  • 永井豪の「真夜中の戦士」を参照していて感動した。そう、あれジャンプに載ったときは衝撃的だったんよね。あのころのジャンプはすごかった。
  • 第4章はフーコー、アガンベン、アーレントとぞろぞろおなじみの華々しい名前が出てくるけど、どうなんだろう。3章に比べると議論の「本気さ」が足りないような気がする。
  • やっぱり「権利をもつ」ことと「道徳的配慮の対象になる」ことの区別がついてないのが気になる。「シンガーの動物の権利論」(p. 212)とか。シンガー先生は「動物は道徳的配慮の対象になる」とは言うけど、動物がなんかきっちりした「権利」もってるとまでは主張しないはず。まあこれはしょうがないか。
  • でもなんで国内ではこんなに「権利」が軽視されているのか([道徳的配慮の対象となる」程度のと混同されているのか)ってのはほんとうにまじめに考える必要がある。もちろん、ハートやドゥオーキンが言うような「誰もが平等な道徳的配慮の対象になる権利をもっている」程度の非常に弱い意味の権利は誰でも持ってるんだけど。ほんとうに「権利」は難しい。ここらへんよい参考書はないのかな。調査すべし。
  • 「関係性」が重要だとかってのはたいていの功利主義者は認めるわけだし・・・
  • もちろん、シンガーの文脈では火星人もロボットもある条件(「利益をもつことができる=なんらかの欲求をもつことができる」)を満せば道徳的配慮の対象になる。アトムとか「真夜中の戦士」の登場人物とか完全に道徳的配慮の対象。
  • 全体と通してオリジナル。オリジナリティのあるひとってのはほんとうに重要だ。でもパーフィットその他の文献の調査として読むのはやめてほしい。オリジナリティと文献調査の正確さってのは相性が悪いのかもしれない。

あざとい読者サービス

せっかく稲葉先生がトラックバック送ってくれたので、あざとく数少ない読者サービスしてみたり。

もしも本気であらゆる生命を讃えるならば、胎児を殺すことはいけないとか、障害者差別は許されないとかいったハンパな主張に安穏と留まることなどできるはずがないのである。なぜなら、胎児の組織の一片、障害者に寄生する細菌どももまた、生命であるという一点においては人間とえらぶところがないのだから。人間を生かすために病原菌を殺すことを肯定するのならば、それはもはや文字通りの「生命」の肯定ではない。そこにはすでに、殺してはならない存在者と殺してもよい存在者という区別すなわち存在者の序列化が密かにもちこまれている。(p.210)

この加藤先生の主張はまったく正しい。これがわかっていてなぜ昨日書いた第1章のような議論になるのはよくわかない。これに対して x0000000000 (0が多すぎると思う)さんはこう書く。

そうだろう。だが、僕は台所にいるゴキブリを殺したりするのである。それは、「生の無条件の肯定」を主張する僕と齟齬をきたすのか。そうではない。僕は、ゴキブリを殺すとき、「正当だから」殺しているのではない。つまり、ゴキブリを殺すことは悪である、という前提に立って、「悪をしでかす僕」としてゴキブリを殺している。僕は、そんな僕を正当化しない。
)

『美味しんぼ』第53巻(?)の「犬を食べる」での京極・山岡が菜食主義者の外国人をやりこめた議論と近い。かぼちゃかなにかの発芽の様子の映画を見せて、すべての生物が生きてるから牛豚犬とか食うのは道徳的に問題があるという人々をやりこめる。「それを仏教では業というな」「俺たちは罪深い存在なんだ」とかそんな感じ。

このタイプの議論にはずいぶん長いこと悩んでいるのだが、人々に理解されにくいのは、道徳的な主張には過去の行為の(狭い意味での)正当化の文脈と、これからの行動のガイドの文脈があるってことなんじゃないかと最近理解しはじめた。

X0さん(ごめん0省略)がゴキブリを殺すのを「正当化」しないのは立派なことだが、次もX0さんは台所でゴキブリを殺すだろう。でもネズミを殺すのもっと抵抗があるかもしれず、かなり自分が困ってもギリギリまで人間を殺そうとはしないと思う。そういうこれからの行動のガイドになっているのはいったいなんなの?ってのが広い意味での正当化の問題なんだよな。すべての生命がほんとうに同じ価値があると信じているのなら、これまでの行為を正当化しなくても、次の行為についてはそれがガイドになるはずだ。私はカボチャは平気で食べる(好き)だけど、豚を食べるときはあんまり平気じゃないし、できればなるべくよい環境で育った豚を食いたいと思っているし、これはとりあえず私にとって一定のガイドになっている。(私はあんまり道徳的でないのでなかなかガイドにしたがうことができない)

京極さんや山岡は「なんでも生きてるからなんでも同じ、だからうまいものを食う」と正当化するわけだが (実際にはよい環境の鳥や牛を食う努力をしているらしいが*2)、これはこれまでの行為の正当化と、これからの行為のガイドを混同しちゃってる。というか過去の行為の正当化の文脈ではやっぱり結局どうにも正当化できないから、これからもなんでもやる、という非常に怪しい議論に近くなってる。これじゃだめだ。これまで悪をなしきたことは消すことはできないが、これからその悪を減らすことはできるし、そうするべきだ。これまでゴキブリを殺して悪をなしたと本気で思っているのであれば、次はゴキブリを殺すことをなるべく避けるべきだ。これからもゴキブリを殺しつづけるのであれば、そしてゴキブリは殺すけどネズミや胎児は殺さないのであれば、なぜそうするのかを(できれば)説明してほしい。私は少なくも自分自身にはそれを説明したい。もちろん、自分が選択の余地なく「ゴキブリを殺さざるをえない」と本気で感じるのであれば、そこに選択する余地はないのだから、そういう意味で正当化する必要はない。

でもそれを認めれば、「私はレイプせざるをえない」と感じているひとがそうするのを道徳的に非難する理由もなくなってしまうかもしれない。まあここらへんはよくわかんないけど、こういうのはできるだけ避けたい。

おそらく、京極・山岡・X0の議論は、実は「私はそれに相応の罪悪感を感じているから正当化される」ってな感じになってしまっているんじゃないかと思う。おそらくX0さんはこの読みは不満だろうと思う。その不満は理解できる。でも私はやっぱりまずはガイドについて話をしたいと思う。なんらかのガイドを発見し、それに従うことができなかったときにそれに相応の罪悪感を感じるべきだ。X0さんが次にゴキブリを殺し、ネズミは殺さず逃がすとしたら、その違いはどこにあるんだろう? 次に他人の傷口を消毒して、そのひとの体の一部を細菌のエサにしないとしたら、その判断の違いはどこにあるんだろう? 私は消毒するときにはなにも罪悪感を感じる必要はないと思う。すべての生命は価値があると主張したシュバイツァーの病院が、実は医学的には非常に不潔な環境でけっこう多くの人を無駄に苦しめたったらしいって話はあんまり有名じゃないのかな。(ソースもってないから都市伝説?)

もちろん、なんの罪悪感を感じずに豚食べるひとはおそらく人間的に問題がある。「命を食べさせてくれてありがとう」っていう心性はとてもよいものだ。でも罪悪感を感じればなにをしてもよいわけではない。

こういうのはずっと前に書いた森岡先生の『生命学~』についての議論と関係があるんだな。道徳的な主張を感じるべき罪悪感の文脈で考える人と、ガイドの文脈で考える人がいて、それが難しい問題を生んでいるようだ。罪悪感は非常に重要だ。でもそれが正当化のすべてじゃない。関係する重要な文献はいくつかあるような気がするけど、本当によく書けている国内文献はまだ見てない。

*1:どう成功してないのか書こうとするとあんまり生産性のないロンブソになってしまう

*2:おそらくその方がおいしいからという理由かもしれないけど

中里見博先生のポルノグラフィ論 (2)

最近児童ポルノの単純所持の違法化の議論あたりの影響か、「中里見博」で検索してたどりつく人が増えているような。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060313/p1 にひっかかって来訪していただいているらしい。

新しい本を出してらっしゃるのでじっくり読んでみる。(前にも書いたが政治的にはまったく違う立場に立つけど、やっていること自体や立派な学者的態度は応援している。)

ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ)

ソフトからハードまでグラデーションとして存在するポルノグラフィを共通して貫いている原理は、女性を性的に客体物化する(objectify)ことである。(中略)女性の性的客体物化の究極的な形態は、女性の死であるといってよい。つまり、女性の性的客体物化の行き着く果ては、セックス殺人(セックスを目的に女性を殺すこと)である。女性を性的客体物化することを快楽とする男性のセクシュアリティは、究極的にはセックスと死を結びつける — 女性の死こそ男性の最大の性的快楽とする — 権力にほかならない。つまり、女性を性的客体物化する男性のセクシュアリティそのものが、一つの権力なのである。女性の性的客体物化(sexual objectification)、これがジェンダーとしての男性が女性に行使する共通の性的権力である。(pp. 26-7)

うーん、どうなんだろうな。ポルノが女性を客体物化(objectify)しているってのまではわかるのだが、それがセックス殺人と結びつくってのはとっぴもない主張に見える。まあそういうのが好きな人がいるってのはありそうな話だが、ポルノ好きを極めると殺人ポルノに行きつくってことはどれくらいありそうな話なのかな。私はほとんどありそうにないと思うのだが。レイプもの好きなのもそれほど多くないような気がするし。「行き着く果て」ってのは、「一部の人の嗜好が行き着く果て」ということでよいのだろうか。

まあじっくり読んでみよう。衝撃的だったのはあとがき。

七年にわたるAPP研究会での活動をつうじて、多くの同志と出会い、少なくない同志を失った。この活動は幸福よりも不幸を、喜びよりも苦悩を、より多くもたらしたかもしれない。(p. 238)

うーん、いろいろたいへんだったんだな。やっぱり不幸になる研究活動とかって のは凡人には難しい。研究や勉強は、相応の快楽や喜びをもたらさねばならない 1)私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。 。訴訟とかもあったしなあ。あの会の活動のしか
たが、ちょっと無防備というかvulnerableな感じがあって心配していたのだが。(この研究会も、webの使い方がヘタな団体の一例なんだよな。http://www.app-jp.org/

References[ + ]

1. 私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。

『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

On Bullshitその後

『ウンコな議論』 ISBN:4480842705 に品川哲彦先生が
書評を書いている。

うーん、品川先生は山形先生の出典や解説その他の問題についてはぜんぜん触れていないな。いろいろ指摘していただけるのではないかと思っていたのだが。やっぱり私の勘違いなのかな。

あと、

フランクファートはウンコな議論の横行に対抗する術を説いているわけではないが、本書のなかに引用されている、友人のちょっとした不用意な表現についてもひとこと文句をつけずにはいられなかったヴィトゲンシュタインの厳格さは参考になるだろう。評者は本書を読んでこんなことを考えた。たとえば、一時期、日本の政治家が口にした「人の命は地球より重い」というフレーズ。もし、このフレーズを耳にしたら、「その重さは物理的な意味の重さか。もしそうなら、命の重さをどうやって測定するのか。たとえば、死の直前直後の体重の変化を調べるのか」などと反問すべきだろう。真実への配慮のみがウンコな議論にまみれることを逃れる術だからである。

これは品川先生自身どの程度本気で書いているのかわからん。品川先生もブルシットしようとしているのかどうか。

こんな奇妙な文章を読むと、しばらく前にある方が、「あのフランクファートの論文はブルシットも時には意味があると読むべきなのだ」とおっしゃっていたのだが、そっちの方が正しいような気がする。少なくとも私は上の品川先生のような返答をするのはウィトゲンシュタインと同じくタイプのガイキチとみなすべきだと思し、真実への配慮ってのはそういうもんではないような気がする。少なくともそれはふつうの人間の会話ではない。哲学者というのはたいへんな人々だ。
ウィトゲンシュタインの逸話は下。

ウィトゲンシュタインはその哲学的なエネルギーを、もっぱら狡猾で破壊的な「ナンセンス」と考えるものの発見と阻止に費やしていた。私生活でもどうやらそうしていたらしい。これは一九三〇年代にかれとケンブリッジで知り合いだったファニア・パスカルの語る逸話に現れている。

扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。するとかれは露骨にいやな顔をしました。「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう。」(『ウンコな議論』、 p.21)

どうでもいいけど、この「訪ねて参る」は日本語としてどうか。「訪ねていらっしゃった」ではないのかな。筑摩の編集者は日本語直さないのかな。

伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。

加藤秀一他『図解雑学 ジェンダー』

読んでみたが、コンパクトで平明な表現なのに目先が利いていて非常に優れた入門書。これ1冊あれば他の入門系の本はいらんのではないか。

しかし、より深く考えてみると、ジェンダーとセックスという境界線をどこに引くか、何がジェンダーに含まれ、何がセックスに含まれるかという認識そのものも絶対的ではなく、時代や地域、あるいは学問的立場によって変化する。そこで現在では、性別に関する知識や考え方全体を指して「ジェンダー」と呼ぶ用法も広まってきた。この観点からは、生物学的な性差とみなされる要素だけを特別扱いしてセックスという別の語を割り振る必要はないということになる。それもまた、私達の社会がつくりだしたものなのだから。 p.24

「生物学的な性差」まで社会が作りだしているとか言われるとやっぱるうっと来る。

それになぜ「ジェンダー」の方を優先するのか? それならもうセックスでいいじゃん、と言いたくなるよな。まあ日本語で「セックス」使うと性別より性行為を指しちゃうからしょうがないのかな。

・・・けれども、そんな風に勝ち負けにこだわること自体が、偏狭な — 男性中心・プロ中心・米国流中心の — スポーツ観に毒され過ぎているのかもしれない。カラダを動かす爽快感を純粋に楽しみ、他人との競争よりも自分との戦いを重んじること — アマチュア中心の女子スポーツや障がい者スポーツの盛り上がりは、そんなスポーツの原点を再認識させてくれるように思う。 p.54

ほんとうにそういうことを考えているのだろうか? ふつうの競技スポーツの基本はやはり競争にある。競わないスポーツはスポーツではないような気がする。まあ定義の問題なのだろうか。女子スポーツや障がい者スポーツが盛んになるのは、まあすてきなことなんだろうが、なぜ女性だとか障害者だとかでカテゴリ分けして競うんだろう。やっぱりそういうふうにカテゴリ分けた方が力が接近しておもしろいからなんだろうと思うんだが。

被害者の主張が事実に即しているならば、彼女がそれを強制だと感じる限り、加害者がどう自分勝手な意味づけをしようと、それは不当な性暴力なのである。性暴力を定義するのは被害者の視点である。 p.126

しかしなにが「強制」であるかを明確にするのは非常に難しい。

おそらくこういう場合の「強制」には、脅迫や誘惑や懇願や操作や欺瞞や取引がはいってることになるんだろうが、ふつうの人びとのセックスに”一切の”(こういう広い意味での)強制がはいっていないときってのはどれくらいあるんだろうか。まあ「強制」を狭く解釈すりゃいいのかもしれんが、気になる。これはそのうち関連論文紹介したい。