「レイプ神話」での性的動機 (1) レイプ神話って何

重大な性犯罪が起きると、きまってSNSには「レイプが性欲によるものだというのは神話」「レイプ神話はいまだに社会にはびこっている」「レイプは性欲が原因ではない、支配欲が原因」みたいな書き込みがなされて広まるっていう傾向があるように思いますが、これはちょっとどうかという感じです。

この「レイプ神話」については最近ちょっと文章書いたので、その一部を貼っておきます。

1960年代後半からのいわゆる第二派フェミニズムの最大のテーマの一つが、女性に対する暴力、特に性暴力の根絶である。 先進国での1960年代の「セックス革命」以降、青少年が多彩な性的な関係をもつことは珍しいことではなくなったが、それは同時に女性を性暴力に晒すことにもつながった。1975年のマックウェラーの『レイプ:異常社会の研究』は1960年代の犯罪学の成果から、性犯罪の実態を広い読者層に知らせ、またブラウンミラーの『レイプ・踏みにじられた意思』は、性犯罪は、男性優越社会での体系的・制度的な女性に対する性暴力の一部でしかないと論じた(MacWellar 1975; Brownmiller 1975)。彼女たちは、性暴力に対する誤解と偏見を「レイプ神話」として告発した。

「レイプ神話」のリストはさまざまなバージョンがあるが、とりあえずマックウェラーがあげているものを確認しよう。 神話によれば、(M1)男性の欲求不満がレイプの原因であり、(M2)レイプは衝動的におこなわれる、 (M3)女性の(自覚的・非自覚的)性的なアピールが原因である、女性が誘惑している、 (M4)犯行の現場では物理的な強制・暴力が使われ、被害者は重傷を負う、(M5) レイプは「見ず知らずの加害者」によっておこなわれる、 (M6)犯行は比較的短時間のうちに、(M7)屋外でなされる (M8) 女性はレイプされたいという隠された願望をもっており、女性の「ノー」はその願望の表明である。 つまり神話によれば、レイプは物理的な力づくの強制や暴力を使用する犯罪であって、同意のない女性はそれに抵抗するためになんらかのケガを負うのが当然であり、逆に、抵抗やそのためのケガの証拠がなければレイプではない、むしろ女性は強引にセックスされたいという隠された願望をもっており、女性が抵抗しなければそれは同意の「イエス」の十分な印であり、また女性の「ノー」でさえしばしば「イエス」を意味するとされるのである。

しかし実際には、(F1)レイプ犯の多くにはセックスパートナーとの性生活をもっている、(F2)多くの加害者は多かれ少なかれあらかじめ犯行の計画を立てている、(F3)被害者選定にあたっては、被害者の性的アピールはさほど重視されていない、(F4)被害者は恐怖などのためにほとんどなんの抵抗もできず、それゆえ傷を負うことはそれほど多くない、(F5) レイプの加害者は多くの場合被害者の顔見知りであり、配偶者やボーイフレンド、職場の同僚といったよく知っている人々の場合が少なくない、(F6)犯行は実際には被害者・加害者の自宅あるいは宿泊施設等でおこなわれ、(F7)また事前に長時間にわたる会話や説得、押し問答などが行なわれる場合が少なくない、(F8)レイプや強引なセックスに関するエロティックな空想を好む女性は存在するものの、現実にそれがおこなわれることを欲求することはない (MacKellar 1975)。

重要だったのは、こうした性犯罪の実態を見るならば、性犯罪・性暴力は、人々の通念におけるものや、犯罪統計に現れるよりもずっと日常的なものであることが理解されるようになったことである。顔見知りやデートする間柄での性的な攻撃や強制、あるいはセックスの無理強いも、「赤の他人に突然襲撃される」というそれまでの通念での赤の他人による暴力的なレイプと同様にレイプである、と意識されるようになった。こうした性的暴行の実態に関する議論は、小倉千加子『セックス神話解体新書』(小倉 1988)などで紹介され、国内でもよく知られるようになった。

M2〜M8はいいんですが、M1、つまり今回書いてみたい「レイプは性欲によるものだ神話」はいろいろ議論があるところなんですよね。続きます。

ちなみに、この件については、動物的道徳日記の「『ガリレオの中指』、『人はなぜレイプするのか』、学問における事実とイデオロギーの関係」もおすすめ。

レイプ《強姦》―異常社会の研究 (1976年)
ジーン・マックウェラー
現代史出版会
売り上げランキング: 1,187,835
レイプ・踏みにじられた意思
スーザン ブラウンミラー
勁草書房
売り上げランキング: 816,543
セックス神話解体新書 (ちくま文庫)
小倉 千加子
筑摩書房
売り上げランキング: 27,920

シリーズ

ブックガイド:性暴力に関するフェミニスト文献古典

某授業用ブックガイド。作成中。


とりあえず若い女性・男性には以下の2冊読んでおいてほしい。

デートレイプってなに?―知りあいからの性的暴力 (10代のセルフケア)
アンドレア パロット
大月書店
売り上げランキング: 698,085
女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)
吉川 真美子
世織書房
売り上げランキング: 461,735

下は「強姦神話」というアイディアを展開した本で非常に大きな影響力があった。内容は40年もたった今ではさすがに古いと思う。

レイプ《強姦》―異常社会の研究 (1976年)
ジーン・マックウェラー
現代史出版会
売り上げランキング: 1,407,051

下も同じころにさらによく読まれ、フェミニズト的な性暴力理解の基本。いまでも手に入りやすい古典。マスト。1970年代から90年代ぐらいの主流の考え方。

レイプ・踏みにじられた意思
スーザン ブラウンミラー
勁草書房
売り上げランキング: 197,601
性と法律――変わったこと、変えたいこと (岩波新書)
角田 由紀子
岩波書店
売り上げランキング: 104,142

↓非常に重要な文献で、ブラウンミラーらの解釈を批判している。これを読まないと議論できない。マスト。女性のみならず、男性こそ絶対に読むべきだ。

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす
ランディ・ソーンヒル クレイグ・パーマー
青灯社
売り上げランキング: 560,178

男性も女性の不快さを理解していないだろう

前のエントリのピンカー先生の「求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を、想像することができない男性の視野の狭さ」(ピンカー 下巻p.58)っていうのは重要で、私の根拠のない推測によれば、こういう不快さがまわりまわってポルノやセクハラに敏感で批判的な女性の多くのバックにあるんじゃないかと思われます。

ピンカー先生や、その解釈のもとになってるバス先生やソーンヒル&パーマー先生組なんかの進化心理学者の解釈によれば、女性にとっての大きな課題の一つは望ましくない相手とセックスしてしまわわないことで、特に暴力とかそういうの使われてセックスされて妊娠させられてしまうのを避ける心理メカニズムが発達しているはずだ、と。

twitterとか見てるとけっこう頻繁にポルノや萌え系アニメ・ゲームとかの話題になるのですが、そういうときに男性の側はそういうのがわかってないんじゃないかと思うときはありますね。

「酒の席でちょっとぐらい下ネタの話してもかわまんだろう」「風俗行くのぐらい普通だから職場の雑談のなかでそういうのが出てもしょうがない」「エロマンガぐらい自由に見てもいいだろう」「なにカリカリしてんだお前らみたいな女のことはそういう対象にもなっとらんわ」とかっていうタイプの意見もあるかもしれませんが、そういう相手の見境のないimpersonalなセックスを求める男性的な性欲のあり方それ自体に女性は警戒するようになってる可能性がある。実際、職場関係者から強制的に性的にアクセスされたりレイプされることもあるわけだし、そこまでいかなくてもしつこくされたりストーカーその他面倒なことになるとかっていうのは非常によくあることなわけだから、女性にとってそういう性欲のあり方をおおぴらに公言したりする人々ってのは脅威であるだろうと思いますね。抽象的に「男性とはそういうものだ」みたいなことを理解しているつもりでも、実際に目の前の男が性欲まるだしだったらやっぱり警戒せざるをえない。「私は家でこれこれこういうポルノを好んで見ておりまして、あれはよいものですな」とかっていってるオヤジがいたらやっぱり警戒せざるをえない。そういうのって不快でしょうなあ。

まあそういうんで、ツイッタとかで大学関係者が「おっぱい、おっぱい」とかやってるのを見るとちょっと気になりますわね。ああいうの読む女子学生様とか不快になってるんちゃうかな、みたいな。

「女性だって家帰ったら薄い本とか読んでんだから」とか言う人もいるかもしれないけど、そりゃ女性向けにある理想化をされたポルノであって、職場や学校でうろうろしているダメな男たちの性欲について知りたいとも思わんだろう。気を許しているとヤラれてしまうし。女性たちが「なんで年柄年中まわりの男たちの性欲がどういう状態にあるか気にしてなきゃならんのか」と思うのはまあ当然のことだろうなあ、みたいな。腐女子と呼ばれている人々が「自重!」とかってやってんのも、彼女たちの性的なファンタジーと性欲の存在が男性に知られると集団として性的にアクセスしやすいと勘違いされる可能性があって、そこらに対する防衛なのかもしれんな、とか。まあそういう性的欲望(とその逆の性的嫌悪)に関してはいろいろ謎が多いですなあ。

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす
ランディ・ソーンヒル クレイグ・パーマー
青灯社
売り上げランキング: 484,484

女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化
デヴィッド・M. バス
草思社
売り上げランキング: 412,304

一度なら許してしまう女 一度でも許せない男―嫉妬と性行動の進化論
デヴィッド・M. バス
PHP研究所
売り上げランキング: 649,002

女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう

前エントリの続き

スティーブン・ピンカー先生の『暴力の人類史』は非常におもしろいので、あらゆる人が読むに値すると思います。暴力の歴史と心理学が延々書いてあってとても楽しい(暴力が楽しいのではなく、各分野の最新の知見が得られる)。最初の方の拷問の話は読むと冷や汗をかくので苦手な人は飛ばしてもいいと思う。そこ飛ばせばあとはそんなひどいのはない。

当然殺人だけじゃなく人種差別、児童虐待、ゲイバッシング、動物虐待とかって話にまじって、女性に対する暴力である性暴力の問題も扱われてます。

『人間の本性を考える』とかではフェミニズム(特にブラウンミラー先生のタイプのやつ)に対してなんか批判的・揶揄的な態度をとってるところもあったんですが、この本ではかなり高く評価してますね。フェミニストたちの運動のおかげで、20世紀後半に性暴力に対して社会は厳しい態度で臨むようになり、数も減ってる、ってのが基本的な立場。

レイプは決して男性性の正常な一部というわけではないが、男性の欲望が基本的に性的パートナーの選り好みに頓着せず、パートナーの内面にも無関心であるという事実によって可能となっているところはある。もっといえば、男性にとっては「パートナー」という言葉より「対象物」(object)という言葉の方が適切なくらいなのである。(下巻 p.58)

こういう男女の性的欲求のあり方の違いはけっこう重要で、性暴力の被害がちゃんと扱われないのには、「求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を、想像することができない男性の視野の狭さ」があるだろうとか。(objectは対象物でもいいけど「モノ」の方がピンとくるかもしれない。)

もっとも、「レイプはセックスではなく暴力」っていう有名なフェミニスト的主張は認めない。ブラウンミラー先生の「先史時代から現代にいたるまで、レイプにはある決定的な機能が担わされてきたと思う。レイプとは意識的な威嚇プロセスにほかならず、このプロセスによって全男性は全女性につねに恐怖をもたせつづけるのだ」っていう有名なフレーズは今回も強烈に否定されちゃう。

このあとが重要で、

もしここで「アド・フェミナム」な〔女性に対する偏見に訴えた〕提言を許されるなら、その気のない他人と人間的感情のないセックス(impersonal sex)をしたがる欲望というのが奇妙すぎて考えるにも及ばない性別にとっては、レイプはセックスとは何の関係もないという説のほうが、もっともらしく感じられるのかもしれない。(下巻 p.59)

てなことを書いてる。(ad feminamは偏見に訴えたというよりは「女性だから論法」の方がよいと思う。impersonal sexは「人間的感情のないセックス」でもOKだけど、「誰か特定できない、お互いを個別の人格とみてないセックス」の意味)

これはワシも昔からそうだと思ってたのじゃ。ワシもワシも。前のエントリで紹介した牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』で、先生はレイプ犯人の動機が性欲だってされることに非常に抵抗があるみたいで、もっと「加害性を追求」しろということを主張しているわけだけど、レイプ犯の動機を性欲だとすることに対する抵抗の一つは女性にはそんなものが性欲だとは思えないからだろう、みたいな。

牧野先生自身はレイプの動機にあるのは性欲というよりは、「自分には力があることを確認」「自信を回復」「「内なる父」を越える」(牧野 p.190)とかだっていうフェミニスト的解釈やフロイト的解釈に共感しているようだ。

研究対象の犯人はこういってるらしいです。

最近考えているのですが、「強姦」という手段に出たのは、私の中では意味を理解していない絶対悪なので、これをクリアすれば力が手に入る、強者になれる。そして、自分のカラを壊るのに性的興奮のいきおいが必要だったのではないか、そして女性を征服できる喜び、達成感があったのではないかと思っているのです。私が考えているこの三つはかなり私にはしっくりくるものであり、今書いている事自体苦しく、つらく、恐いものです。(牧野 p.190)

これはまあ事後的に「自分はあのときなぜそうしたのかな」っていう問いに対する犯罪者なりの答ですわね。どの程度正直なのかはよくわからない。これを牧野先生はこう解釈する。

Yの強姦行為には、異なる水準の力が関わっている。一つは、被害女性に対する強姦行為に見る力であり、女性を強姦することで、自分には力があることを確認し、職場や家庭で喪失している自信を回復させるものである。もう一つは、「内なる父」を超える力としての強姦である。強姦を行うことで、耐えることを強要する「内なる父」、目標だった父を超えて、強者になったと実感し、父の縛りから解放されるのである。(牧野 p.190)

「レイプはセックスには関係なく、関係するのは力(パワー)だけ」っていうピンカー先生が批判するフェミニスト的解釈にのっかってますね。

Yは、家庭や職場で感じていた自信のなさやままならなさを、「内なる父」の足枷をはずしたり、自分の弱さをさらけ出すなどして、現実の世界で自分を変えるのではなく、自分が自由に振る舞える世界を創り出し、そこで別の自分になることで、自分を解放した。その手段として強姦が選ばれた。Yは、性欲によって行われたということは、最初に発信した手紙で「この犯罪は性的欲求だけでは絶対起こりえない犯罪だと思います」と否定してた。捜査・裁判を通じて、Yの強姦はY生来の強い性欲によって起きたと結論づけられていたが、そのことは終始否定していたのである。(牧野 p.190)

犯人は「性欲だけでは起こりえない」と(おそらく)正しく書いているのに、牧野先生は「否定している」と解釈してしまっている。たしかに犯罪とかっていうのは、強い欲望だけでは実行されずに、他にもいろんな条件が必要で、環境や状況の条件もあれば、弱い自制力、弱い道徳心、低い共感力とかそういう個人の条件も必要だろう。私の好きなJ. S. ミル先生はこういうことを言っている。

人々が誤った行動をとるのは、欲望(desire)が強いからではない。良心が弱いからである。強い衝動と弱い良心とのあいだにはなんの自然的つながりもない。自然的つながりはその逆である。ある人の欲望と感情が他の人のそれらより強く変化に富んでいる、ということは、その人のほうが人間性の素材をより多くもっており、したがってより多くの悪もなしうるかもしれぬが、確実により多くの善をもなすことができる、ということにほかならない。強い衝動とは精力(エネルギー)の別名なのだ。(ミル『自由論』第3章、早坂忠先生の訳を一部変更。)

英雄色を好む、とかそういう感じすかね(ミル先生の性欲がどうだったのかというのは伝記的な謎)。こういうの読むと、たしかに「生来の強い欲望によって起きた」みたいな解釈がどの程度正しいかってのは再考してみる価値はある。けっきょくその人の弱い自制心や道徳心その他の心的能力に較べて性欲がそこそこ強い、道徳や自尊心や合理性より性欲を優先しちゃう奴ってだけで、それは他の人々と同じかそれ以下のものかもしれんしね。「性欲なら、あんな犯罪者よりオレ方がずっと強いぞ」みたいな人は少なくないのではないか。ははは。

まあ「自信の回復」とか「内なる父の超克」とかそういうのも部分的にはあるんかもしれないけど、私は原因として一番強いのはやっぱり性欲だろうな、と思いますね。(もちろんレイプ犯のすべてが同じ動機に同じようにもとづいているわけではない。)ふつうに考えてしまえば、「自分が自由に振る舞える世界」で凶器とかちらつかせて女性を脅していったいなんの自信がつくのかわからんし、どういう内なる父を超えてるのかもわからんし。そもそも犯罪犯して自信がつくってだけの話なら、若い女性を狙う必要もない。どうせ凶器使うなら、偉そうな男性大学教員にでもからんで財布カツアゲしたり土下座させたりした方ががずっと自信がつくのではないか。警察官なんだから体鍛えてるだろうし、大学教員を背負い投げするくらい簡単だろう。一般に「ストレスから」とか「自信をつけるため」とかっていう加害者自身の言い分ってのはどのていど信用していいのかよくわからんです。

→続き「男性も女性の不快さを理解していないだろう」

暴力の人類史 下

暴力の人類史 下

posted with amazlet at 15.02.23
スティーブン・ピンカー
青土社
売り上げランキング: 4,641

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

posted with amazlet at 15.02.23
牧野 雅子
インパクト出版会
売り上げランキング: 114,651

レイプ・踏みにじられた意思
スーザン ブラウンミラー
勁草書房
売り上げランキング: 601,380

牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』

昼間ちょっと某氏と性犯罪対策みたいなのについて話をする機会があり、牧野雅子先生の『刑事司法とジェンダー』読みなおしたり。この本は非常に興味深い本で、元警察官で、警察学校の同期が連続強姦で逮捕されたという経験をもつ方が書いてる。警察内部の取調べマニュアルとか、その連続強姦魔の書簡や聞き取りなんかから構成されていて非常に読みごたえがある。性犯罪とか刑事司法とかそういうのに関心ある人は必読だと思いますね。

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

posted with amazlet at 16.12.31
牧野 雅子
インパクト出版会
売り上げランキング: 361,837

読んだときに書評もどきというかamazonレビューみたいなものを書こうとしたんですが、そのままになってしまってた。ネタは非常におもしろいのに、全体に微妙に理解しにくいところがあるんよね。

性犯罪と性欲

一つ目。牧野先生によれば、性犯罪では操作から立件、裁判に至るまで、加害者の犯罪行為がとにかく「性欲」という動機にもとづいた犯行であったことを立証しようとしていて、その際に「性欲」や「情欲」が「本能」とされていて内実が問われないままになってる、ということらしい。「男の本能だからしょうがない」みたいな感じですかね。まあたしかに「本能」だから「しょうがない」なんて本気で言われちゃったら困っちゃいます。性欲はわれわれが動物と共通にもっている欲望の一つだろうけど、それをコントロールするから人間であってね。

でも「本能」はともかくとして、犯行の動機が性欲であることを立証しようとするのは、刑事司法としてはある程度やむをえないことな気がする。刑法とかぜんぜん知らんのであれなんですが、素人考えからすれば、もしある強姦に該当する行為が、性欲にもとづいたものでなければそれが性犯罪なのかどうかわからないってことにもなるかもしれない。たとえば、加害者はまったく性的な欲求をもっておらず、女性の性器に男性器を挿入することによって来世で蘇えることができるとかそういうことを信じていてそういう行為を行った場合、それって性犯罪なのかどうか。セックスっていうのがなんだか知らないわからないけど男性器を挿入してしまった、みたいなのもどういうタイプの犯罪なのかよくわからない。やっぱり性犯罪が性犯罪であるためには、犯行の主要な動機の一つが性欲である、セックスである、っていうのが必要なんちゃうかな。

まあもちろん、加害者がなにを考えていようが、被害者にとって性的な行為であれば性犯罪である強姦である、っていうのでもOKなのだろうとは思います。でも「なぜその犯罪を犯したのか」っていう問いに対して、いくつかの動機と、その動機にもとづいた犯罪行為を防がなかった理由がないと我々はそれが犯罪だと理解しにくい。それが犯罪だと思ってなかったとか(強姦の場合はありえないと思うけど)、他人の利益や尊厳なんか知ったことはないという邪悪な性格であったとか、捕まらないだろうと思ってたとか、そういうのも理解した上で、そいつの行為が犯罪と呼ばれるものだったのかとか、どの程度の罰を与えねばならないかとか考えるんだと思う。

牧野先生が懸念しているのは、「強姦が性欲にもとづくものだ」ということよりは、「性欲は本能であり自然なものだ」とか「本能だからしょうがない」とかって考え方の方なんだけど、これってそんなに司法の場で認められていることなんすかね。たしかに邪悪な犯罪者たちはそういう自己弁護をするだろうけど、われわれがそれを認める必要はまったくないように思える。「他人のものを取りあげて自分のものにしてしまいたい」「腹が立つ奴は殴りたい」みたいなのも我々の自然的な傾向であって、もし「本能」っていう言い方をすれば本能。でもそういう欲求を野放しにしたら困るから法や罰があるわけで、自然なもの、本能的なものだからって主張されたってつっぱねることはできるわね。

難しいのは「その時私は自分をまったくコントロールすることができなかった」と主張された場合で、これ心神喪失とか心神耗弱とかそういう面倒な問題になりますわね。もしこの手の話をするのであれば、性欲によってわれわれがそうした自分のコントロールをまったく失うことがありえるかっていうおもしろい話になる。牧野先生は本当はこれがしたかったのかしら。刑法学とかの分野でこの問題がどうなってるか私は知らないんですが、衝動的な行動についていくらか情状酌量の予知はあるのかもしれないけど、たいていの性犯罪はそういう衝動的なものではないだろうから関係なさそうな気もする。この点は後半の事例研究でもはっきり出ていると思う。痴漢やセクハラぐらいのことを考えても、たとえば道を歩いていて、白昼人目のあるところで突然衝動的に女性に襲いかかる奴なんてのはいないわけで、おそらく皆捕まらないだろう、セクハラで訴えられないだろうぐらいの計算をしてからやってる気がしますね。少なくとも頭のなかで何回も予行演習していると思う。

 加害性の追求

二つ目。この本の後半では研究対象となった警察学校動機の強姦魔の悪質さが強調されていて、これはなんともすばらしい研究だと思う。理解しにくいのは、第3章「加害性の追求」での議論でなにを目指しているかっていうことなんよね。牧野先生が考えているのは単なる厳罰化じゃないみたいで、んじゃいったいなにか。研究対象になっている強姦魔はまったく悪質凶悪なやつで、これほど悪質な犯罪者は厳罰に処すべきだと思わされるんだけど、逆に読者にはその悪質さがかえってそうした犯罪者の特異性みたいなのを感じさせてしまう。よくいわれるサイコパス的な感じ(よく知らんけど)。こんなに異常なやつを追求するってのはどういうことなのか。もちろん異常人物として研究対象としては興味深いだろうけど、刑事司法の場で他になにをしようというのかがわからない。

「追求」ってのがわからんのんよね。「加害者は取調べにおいてその加害性を十分に追及されることがない」(p.130)っていう文章なんかが典型なんだけど、警察や検察の取調べは建前としては道徳的・法的非難の場ではなく、事実確認の場だろうと思う。「どんな悪い奴かはっきりさせる」ってことかなあ。「あの事件はなぜ起こったのか」(p.198)という問いの答を追求するのかもしれないけど、加害者の性格や生い立ちや考え方をはっきりさせるのだろうか。あるいは性犯罪をとりまく社会的ななにかをはっきりさせるのだろうか。そこらが見えなくて最後まで不満のままだった感じ。

性欲による行動は不可避なの?

あと最後の方はけっっこうあやういことも書いていて、たとえばp.201では若年者の犯罪は更生可能性があるから量刑軽くなることが多いわけだけど、性犯罪だと再犯可能性が高いから若年であることは軽減ファクターではなく、「むしろ加重ファクターであり、裁判所の判断に誤りがある可能性を示している」とかっていうんだけど、こういうの大丈夫なんだろうか。もうちょっと慎重な議論してほしい感じがある。

まあでも一番気になるのは、やっぱり何度もくりかえされる「操作・裁判は、性犯罪は「性欲」によって行われる、男性の生理に基づく不可避の犯罪であるという前提で進められている」(p.202、下線は江口)っていう主張かな。これほんとうにそう考えられているんだろうか。ほんとうに不可避なんだろうか。牧野先生が勝手にそう読みこんでいるという可能性はないだろうか。なんらかの意味で本当に不可避なんだったら罪を問うことさえ不可能に思える。また逆に、本当に不可避なんだったらそんなもんはどっかに閉じ込めておかなきゃならんってことでもある。刑事罰ではなく保安処分の対象ではないのか。

また牧野先生自身は性犯罪の背景に性欲の他にどういう動機を見つけたいのか、どういう筋書なら納得のいく「加害性の追求」になると考えているのか。たとえば性犯罪は性欲ではなく支配欲に基づくものであるとか、女性を家にとじこめておくための男性集団の共謀によるものだとか、そういうやつなんかなあ。

→続き「女性には男性の性欲がわかりにくいのだろう」