妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。

まず反妊娠中絶論で最も普及している形(A)は、「前提1―罪のない人を殺す(死なせる)ことは不正である。」および「前提2―胎児は罪のない人である。」ことから、「結論―胎児を殺すこと(=中絶)は不正である。」という論法を取る。

これに対して、マーキス (1989)を初めここ20年注目されている反妊娠中絶論(B)は、「前提1―殺人が不正なのは、被害者から我々と同じ価値ある未来を奪うからである」および「前提2―中絶は他事から我々と同じ価値ある将来を奪う」ことから、「結論―中絶は殺人とまったく同じ程度に(あるいはそれ以上に)不正である」と論じる。

もう一つ、有望な反妊娠中絶論(C)は、Hare (1975)やGensler (1986)による黄金律型の推論である。そこでは、「あなたがしてほしくないことを他の人にするな」および「あなたのしてほしいように他の人にせよ」との黄金律に基づき、「我々は中絶されずに生まれてきたことを喜ばしいと思う」すなわち「胎児の立場に立てば、中絶されないことを望む」、それゆえ(特に特別の理由がない場合は)中絶しないべきである、と論じる。これら中絶反対論はどれも一見して強力なものである。

一方、妊娠中絶を正当化する論理としては、女性たちの感情や感覚に基づくもの、功利主義、進退に対する権利論、パーソン(「人」、権利主体)論などがある。このうち「胎児はまだ他人として感じられないので他人ではない」などと論じる単なる感情や感覚に基づいた議論は、たとえば「動物は人だとは思えないから苦しめてもよい」とか、「女性は同じ人間だとは思えないから平等に扱わなくてもよい」という議論がおかしいのと同様に説得力に欠ける。妊娠中絶を正当化するには、単なる感情や感覚以上の根拠が必要である。

一方、帰結主義・功利主義による妊娠中絶正当化の議論の方がまだしも説得力がある。たとえばSingerは親(特に母親)と未発達な胎児の利益を比較衡量して母親の利益の方が重大だとする。Hareは胎児を代替可能な存在とみなしたうえで、後にもっとよい条件でより幸福に生きられる子どもがいるならば中絶は正当化されるという。ただし、これは法的に中絶を合法化するかどうかの議論にすぎず、道徳的な議論ではない。

他方、Thomson(1971)は、自分の身体に対する権利を主張して、バイオリニストとつながれたままになる義務はない、胎児は母親の身体を使用する権利はもっていないのだから中絶しても胎児の権利を侵害したとは言えないと論じる。ただしトムソンの議論のうち、「AがBに対して善行することが道徳的な義務であっても、BがAに対して善行される権利をもつわけではない」ことや、女性にだけ「善きサマリア人」であることを求めるのは不平等であり不正義だという主張は見落としてはならない。

しかし、トムソンの「胎児の生命に対する権利」への反論は不十分であり、また「自発的に産むことを選択し妊娠した胎児にのみ責任がある」と想定しているのは、Beckwithの「家族(肉親)は選ぶことができないが義務を負う関係にある」とする自発主義批判を乗り越えられない。結局、「身体に対する権利」の議論も、法的な規制に対する反対する議論としては悪くないが、倫理的な議論としては不十分である。

他にWarren (1973)に代表される(国内でよく知られているTooley 1972は代表的ではない)パーソン論は、典型的な「人」(権利をもつ存在)の条件を列挙するが、これでは新生児や重度意識障碍者まで「人々」ではないことになるという難点がある。

結論としては、リプロダクティブ・ライツに含まれる「中絶の権利」を主張するのはかなり困難であり、「自分の身体に対する権利」だけでは法的にはクリアできても倫理的には不十分である。基本的にはパーソン論を取るか、功利主義を取るかの二択である。もしくはそれ以外の選択肢を考えるべきである。


Beckwith, Francis J. (1998) “Arguments from Bodily Rights: A Critical Analysis,” in Louis Pojman and Francis J. Beckwith eds. The Abortion Controversy, Wadworth, 2nd edition.
Gensler, Harry J. (1986) “A Kantian Argument against Abortion,” Philosophical Studies, Vol. 49. Reprinted in as “The Golden Rule Argument against Abortion”.
Hare, R. M. (1975) “Abortion and the Golden Rule,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 4, No. 3. (R. M. ヘア,「妊娠中絶と黄金律」,奥野満里子訳,江口聡編監訳『妊娠中絶の生命倫理学』,勁草書房,2011).
Marquis, Don (1989) “Why Abortion Is Immoral,” The Journal of Philosophy, Vol. 86, No. 4. (ドン・マーキス,「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」,山本圭一郎訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Singer, Peter (1993) Practical Ethics, Cambridge University Press, 2nd edition. (ピーター・シンガー, 『実践の倫理』新版, 山内友三郎・塚崎智監訳, 昭和堂, 1999).
Thomson, Judith Jarvis (1971) “A Defense of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 1. (ジュディス・トムソン,「妊娠中絶の擁護」,塚原久美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Tooley, Michael (1972) “Abortion and Infanticide,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 2, No. 1. (マイケル・トゥーリー,「妊娠中絶と新生児殺し」,神崎宣次訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Warren, Mary Anne (1973) “The Moral and Legal Status of Abortion,” The Monist, Vol. 57. (メアリ・アン・ウォレン,「妊娠中絶の法的・道徳的位置づけ」,鶴田尚美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).

死の悪さに関する剥奪説とマクマハンの時間相対的利益説

殺人の悪さや死の悪さの理由を説明する方法の一つは、「剥奪説」と呼ばれる立場です。この立場では、殺人の被害者になることや、死ぬことは、それによって価値のある未来を失なうことになるので当人にとって悪い出来事である、ということになります。私は最低あと30年ぐらいは生きて時々おいしいものを食べたりしてその30年の人生をそこそこ楽しむことができるでしょうが、今殺されるならばそのそこそこ楽しいであろう30年を失うことになる。これは私にとって悪い。

90歳の老人が死ぬよりも、20歳の若者が死ぬ方が悲劇的でより悪いことだ、と考える人は多いでしょう。こうした考え方は年齢差別(エイジズム)だと言われることもあります。年寄の命を軽く見るのか!みたいな。でもまあふつうそう考えますよね。二人の赤の他人が池で溺れていて死にそうだとして、どっちか1人しか助けられないとき、(他の条件が同じなら)私だったら20歳の方を助けます。90歳の人はせいぜいあと10年ぐらいしか生きられないでしょうが、20歳の人はうまくすれば80年ぐらい生きられるし。90歳の人はもう十分生きたし楽しいことも味わったでしょうが、20歳の人はまだだろう、みたいなことも考えるわけです。まあとにかくこれは死が二人から奪う「将来」の長さ、その価値みたいなのからそこそこうまく説明できる。そういうわけで剥奪説はけっこう人気があります。

ドン・マーキスという人は、1989年にこの議論を使って妊娠中絶に反対する議論を構成して一発当てて業界の有名人になりました。その議論は次のようになります。(1) 我々を殺すことが悪いのは、我々から価値ある将来を奪うからである。(2) 胎児も我々と同じような価値ある将来をもっている。(3)それゆえ、胎児を殺す(中絶する)ことは、我々を殺すのと同じように悪い。この議論はシンプルなんですが、やっつけるのはなかなか難しい。1990年代はこのマーキスの議論をどうやってやっつけるかっていうのはプロチョイスの哲学者たちの課題になりました。私もむかし紹介論文を1本書いたのですが、うまく反論できたかどうか自信がない。

しかしこの剥奪説にはちょっと直観に反するところもある。80歳と20歳の比較だと上のようにうまく説明つくのですが、1歳児と20歳だとどうでしょうか。私の直観だと、1歳で死ぬのもやっぱりかわいそうだけど、20歳で死ぬよりはなんかましな感じがする。微妙。

さらに胎児はどうでしょうか。胎児や受精後まもない胚も、1歳児や20歳と同じように価値ある将来をもっているわけですが、20歳や1歳児を死なせるより妊娠中絶は悪くないように思えるし、受精した胚が自然に流産してしまってもそんな悪いことではないように思えてしまう。ふつうに考えれば、妊娠3ヶ月での妊娠中絶と妊娠7ヶ月の中絶を比べたら、妊娠7ヶ月の方が正当化するのに重大な理由(母体の生命が危ういとか)が必要な気がしますが、上の単純な剥奪説さによれば、この二つは同じか、へたすると妊娠3ヶ月の方がより多くの将来を奪うからより悪い、ということになってします。

ジェフ・マクマハンという先生は2000年代になってThe Ethics of Killingって本を出して、ここらへんの問題について興味深い見解を提出してます。彼の立場は時点相対的利益説 (Time-relative interest account)って言われてます。マクマハンの議論は、1970年代の生命倫理の議論なんかに比べるとはるかに精緻で細かいものになっていて、おおざっぱな紹介をするのが面倒なのですが、ちょっとやってみましょう。

マクマハンは上の剥奪説の、死や殺人が悪いのは、価値ある将来を奪われるからだ、という基本的な立場を認めます(ただし彼はこの立場を「人生比較説」と呼ぶ)。しかし、この「将来」の見積りがちがうんですね。

デレク・パーフィットの『理由と人格』(1984)依頼、「人の同一性」personal identityの条件っていう問題はずいぶん議論されました。その結果、ある人がその人でありつづける(人の同一性)ために重要なのは、記憶や認知や性格などの心理的性質の継続性だ、とか、人の同一性は程度の問題かもしれない、あるいは、価値の問題について人の同一性はそれほど重要ではないかもしれない、ということがわりと広く認められるようになりました。

マクマハンは、「私」っていうのは本質的に「体に根差した心」であって、私が生き延びていると言えるのに重要なのは、私の記憶や欲求や性格を保持している私の体が生き延びることだ、っていってます。私がどの程度うまく生き延びているかってことは、今の私の記憶や精神的特徴がどの程度濃く残っているか、ってことで計られる。たとえば60歳の私のもっている記憶や意欲や性格が、アルツハイマーなんかで失なわれてしまって、75歳のときには今の記憶や希望をほとんど失なってしまったら、もう今の私はちょっとしか生き延びられなかった、ということになるわけです。

んで私にとっての利益というのは、私がなるべく今の私と継続しているまま生き延びることなわけです。時間を通して私と心理的に強く結びついている将来は価値が高く、あんまり結びついてないと価値が低い。これが時点相対的利益。剥奪説に戻ると、将来を剥奪されることが私にとってどの程度悪いのか、ということは、その剥奪される私の将来が今の私とどの程度結びついているかということに左右される。このマクマハンの時間相対的利益説ってのは、これがさっきのいつ死ぬかの悪さに関係する、っていうのがミソなわけです。

20歳で死ぬのがその人にとってひどく悪いことであるのは、20歳の時点からみて60歳ぐらいまでってのは記憶も連続しているし、20歳の時点で抱いている夢や希望や野望みたいなものを継続してもってがんばって実現させたりしなかったりするしで、時点相対的利益がすごく大きい。ところが、3歳児とかってのはまだちゃんとした記憶も意思みたいなのももってなくて性格なんかもちゃんと定まってないところがあるから、それ以降の人生との結びつきが弱い。だから3歳で死ぬより20歳で死ぬほうがずっと悪く感じられるのだ、ってわけです。妊娠3ヶ月の胎児の場合などは、もうその胎児が成長した結果の成人とは心理的にほとんど結びついていない。だから中絶は20歳の人を殺すよりもずっと悪くないのだ、みたいな議論になるわけです。

私のこの時間相対的利益説おもしろいと思いますね。ちょっと集中して検討してみたいです。


後日記。ここらへんは研究ノートもどきにしました。


ドン・マーキスの「妊娠中絶はなぜ不道徳なのか」はこれに収録してます。