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ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (4)

2巻目の「性」に入ります。この巻、愛じゃなくてどろどろの行為としてのセックスの話になるのかな、と思ってたら、ジェンダーや性自認の性別にかかわる話が多くて最初ちょっととまどいました。でもまあそういう考え方もありますわね。

 

性 (愛・性・家族の哲学 第2巻)
藤田尚志 宮野真生子
ナカニシヤ出版
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宮岡真央子「固有の身体・多様な性を生きる:文化人類学の視点から」

とにかくこの論文はマーガレットミード先生のアラペシュ・ムンドゥグモール、チャンブリっていう例の1950年の研究が出てきてジェンダーの説明されてて驚きました。大丈夫かなあ。「男性と女性が通常考えられているのとは逆の気質をもつ」とか、文化人類学のことには簡単には口出せないけど、ほんとうですか、大丈夫ですか。残りはセックスについては文化によっていろいろあるよ、っていう話だけど、知らない分野なのでパス。勉強になりました。


「身体・自己・性をめぐる池袋真との対話」

タランスジェンダーの池袋先生を中心にしたディスカッション記録。情報や主張は標準的なものだけど、性的なマイノリティーの問題を考えるのは重要だと思う。がんばってほしい。ただしGIDみたいな性自認の問題と、同性愛のような性的指向の問題をいっしょにするのはどうなんかな、みたいなのはいつも思う。

シリーズとしては、マイノリティの問題に哲学っぽいつっこみかたをした論文もう一本ほしかった気がする。保守派の同性愛批判がどういうものか、っていうやつか、あるいは同性婚についての応用倫理的なやつか。


佐藤岳詩「私たちの身体と性とエンハンスメント:美容整形をめぐって」

これはおそらく応用倫理では新しい分野なので佐藤先生えらい。佐藤先生は国内のエンハンスメント系の議論のエキスパートの一人。手なれた感じで「本人らしさ(アイデンティチをおびやかす)」「親不孝だ」「不可逆だ」「行為者性が失なわれる」「画一的になる」etc.とかってよくある批判はあんまり有効じゃないって議論して、美容整形の問題は、男女についてジェンダー偏見を強化するのが問題だ、みたいな結論になる。まあ美容整形するのはたいてい女性で、それは女性に性的な魅力が求められるからです、そういうのは男女差別じゃないですか、っていうことですわね。

「現状の……美容整形は、いまだ美の神話に支配される現代社会においては、男性をより男性らしく、女性をより女性らしくするものであり、ジェンダーの固定化、再生産をもたらすものとなっている場合も多い。……誰もが自由に自分の性的な身体を理解し、自分らしく生きることに価値を認めようとする社会とは逆の方向に私たちを突き動かしてしまうのである。」(pp. 96-97)

ちょっとツイッタで書いたんですが、これって佐藤先生ほんとうに本心から思っているのかなあ、みたいな印象はもってます。「美の神話」ってのは、男性は強くなければならない、女性は美しくなければならない」っていう神話ですね。

そりゃ男女ともにイケメン美人がいいっしょよ。そのための美容整形のなにがだめなの? 女性だけが美を求められるとでも思ってるのかしら。男だってイケメンとブサメンの差はものすごくでかい。そりゃお金があればモテる男子もいるっしょ。でもそれはイケメンのモテ方とはちがうじゃんよ。そんなん男子なら誰でも知ってることだ。(そして女子ももちろん知ってる)おつきあいするときにイケメンとブサメンなら、イケメンがいいじゃないですか。他にも、魅力ある人はよい。魅力ない人が、整形にたよって魅力ある人になろうとしてなにが悪いのか。

最近、キャサリン・ハキム先生の『エロティック・キャピタル』って本読んだんですが、これはとても良書でしたね。まあ性的な魅力っていうのは、知力や財産や、ヒューマンキャピタルやソーシャルキャピタルと同様に資本となりうる。それは我々の人生を豊かにする。エロティック・キャピタルは、ハキム先生にょれば、(1) (顔の)美しさ、(2) セックスアピール、(3) 快活さ、(4) ファッションセンス、(5) 人を惹きつける魅力、(6)性的能力などからなる外見の魅力と対人的な魅力に関する多面的なもので、まあ整形で直せるようなのはこうした多面的なのの一部でしかない。

だから、「大金かけて整形するお金があったら本読むなりダンス習うなりファッション雑誌研究するなりしましょう」みたいなのってのはわかるけど、美容整形がなんか「美の神話」なるものに加担するからだめなもんだ、みたないのってのは、なんかねえ。まあ整形ぐらいでは魅力を手に入れることはできないだろうから、宣伝にだまされちゃだめだよ、とかってのならわかりますけどね。でも整形で満足している人もけっこういるだろう。

まあこの論文っていうか美容整形や性的な魅力については、あとでゆっくり考えたいと思ってます。佐藤先生のも価値のある考察でえらい。

とにかくみんなハキム先生のやつ読んで、エロティックっていうか性的な魅力に対する嫌悪感みたいなのについて考えてみるべきだと思う。

あと蛇足だけど、顔とかってのがアイデンティティとあんまり関係ないみたいな話はおもしろいっすよね。実際、私鏡見るときあんまりないから、鏡見ると「へえ、私こういう顔だっけか」とか思う。自分の顔なんてそんなもんよ。

エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き
キャサリン・ハキム
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ミードの表その後はあるかな

そういや、トラックバックされたりして思いだしたのだが、Margaret Mead の Sex & Temperament: In three primitive societies がこの前届いていた。もちろん問題の表は存在しない。さて、調査はどちらの方面に進めるべきか。村田先生が参照している本のどれかにあると推測するのだが。


まだまだ「ミードの表」

粘着している「ミードの表」問題。

村田孝次先生の『教養の心理学』四訂版、培風館、1987を入手。初版1975年、改訂版1979年。村田孝次先生は奈良女の先生だった模様。発達心理学が専門かな。てっきり村田先生は文化人類学者だと思っていたけど。毎年教科書に使われているのか98年には第17刷。タイトル通り、大学1、2回生向けの教養授業で使うような薄いテキスト。発達、学習、情緒、知覚、思考と言語、知能、パーソナリティと、まあコンパクトななかに70年代くらいまでの心理学の研究成果が要領よくまとめられていて、よい教科書なのではないかと思う。信用できる学者に見える。図書館に大量にあったので、一時期定番のテキストだったのかもしれない。村田先生は1918年生まれ。ご存命だろうか。それにしてもこの手の教科書からミードを引用するってのは勇気が要るよなあ。井上知子先生も専門は心理学なので、まあ村田先生のテキストを見る機会があったのは
わかるけどね。

本文でのミードに対する言及はほんの10行程度。問題の表の解説程度。興味深いのはそのすぐあとの記述。

もっとも、こうした性による役割の分化は、多くの社会において男女の身体的・生理的な差異にもとづいているので、文化的要因によって変動しうる限界が一般に考えらえ、このような限界に若干のバラエティがあるというべきであろう。(p.186)

とか。

先生は一応ミード流の文化人類学の知見を紹介しておいたが、若干批判的な立場に立ちたいと思っていたのかもしれない。そしてすぐにH. Barry, M.K. Bacon and I. L. ChildのA Cross -cultural Survey of some sex differences in socializaion. Journal of Abnormal and Social Psychology, 55, 32-332 をひきあいに出して、児童の性差は文化共通かもしれないという表を提出している。でもこの研究はちょっと問題がありそうだ。

問題の表はp.187。内容は井上知子先生のものとまったく同一。表番号が変わっているだけ。原稿を村田先生からもらったか、貼りつけたのだろう。出典は、巻末の「図・表出典』にある。

Mead, M. 1935 Sex and temperament in three primitive socieitis. Morrow.

ふむ、ぴったり。このリストの最初に

ここには、本書に引用した図・表の掲載された原著をリストしてある。なおそれぞれの図・表にある著者名、掲載年のつぎに、〈より〉とあるのは、原著に若干手を加えたか、原著の記載をもとにして図ないし表を作ったことを意味する。

とある。ミードの表には〈より〉はないので、おそらくこれとほぼ同一のものがSex and Temperamentに載っているのだろう。図書館にないので注文したが、紀伊国屋なのでしばらく時間がかかる。ヒマつぶしのために2000円ちょっと使ってしまうわけだが、まあ行きがかり上しかたがない。他の学者さまをインチキ呼ばわりしているわけだしそれくらいの責任はありそうだ。

まあこの村田先生の本の中心的な部分は、50-60年代のもの。やはり学者は中年までに勉強した財産で残りの学者人生食っていくことになるのだと思う。しょうがない。


「マーガレット・ミードの表」問題その後

マーガレット・ミードの名前を使ったニューギニアの3部族についての表問題。

Amazon から本が届いた。

まず、井上知子・新野三四子・中村桂子・長嶋俊介・志水紀代子『生き方としての女性論』嵯峨野書院、1989 ISBN:4782301375 では、この表はp.129にある。

内容は伊藤公雄先生の『男性学入門』のp.163と同一。ただし、気になっていた部族名はそれぞれ「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャムブリ」になっている。したがってこれは伊藤先生の本で単に誤植されただけかもしれない。

しかしショッキングだったのは、前にも述べたように伊藤先生の本では出典は

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

とされていたので、この表を作成したのは村田孝次先生で、彼の文章が『生き方としての女性論』に収録されているのだろうと思いこんでいたのだが、この本には村田先生の文章はなかった! この表が使われているのは井上知子先生の第5章「女性と男性のありかた」で、井上先生が村田孝次先生を引用しているのである。表には

(村田孝次、1979より引用)

とだけ書いてある。そして、さらに悪いことに、この村田孝次先生の文章がどこの論文であるか、『生き方としての女性論』には載っていない(!)のである。それに、表の上の方、「Mead, 1935」って書いてる! それは『サモアの思春期』ですがな・・・いや、違う。Sex And Temperament In Three Primitive Societies っていう本か( ISBN:0688060161 )。これは見てない。おそらく村田先生の論文は、『男性と女性』ではなく、この本の紹介か解説かそういうものなのだな。で、それを伊藤公雄先生は『男性と女性』だと思いこんだ、というのが真相に近いかもしれん。

とにかく伊藤先生は井上先生からの孫引き。伊藤先生の出典の書き方から孫引きだとは思いも
よらかなったが、私の早合点だったか。

それにしてもこれは・・・。とにかく村田先生の論文はどこのなんという論文なのだろう?

続いて、諸橋泰樹先生の『ジェンダーというメガネ:やさしい女性学』フェリス女学院大学2003 ISBN:4901713027 では、『生き方としての女性論』での表と同様のものがp.44にある。ただし、左右が逆になっている。『女性論』で「男女」と表記されていたのが「女男」になり、「女性的」が「いわゆる女性的」のように語句が変更されている。出典は、

出所 マーガレット・ミード「男性と女性」 1935

これも「1935」!とりあえず諸橋先生は有罪。剽窃決定。真っ黒。

部族の表記は「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」。この表は奇怪で、他の三つの表では「パーソナリティー特性」に入れらているアラペッシュ族の「女男とも子供の世話をする」「きびしいしつけはほとんどしない」「子どもには寛大でむしろ溺愛する」「子どもの成熟を刺激しない」が「パーソナリティ」の方に入れらている。誤植?

伊田広行先生の『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店2004 (ISBN:4272350188)は、この本とミードの『男性と女性』が出典だと主張しているが、それを(「正しく」?)修正しているのだから、
伊藤先生か井上先生か村田先生を参照して出典が怪しいことに気づいているのにそれを書いてない。おそらく幇助?

これひどすぎる。インチキ! 諸橋泰樹フェリス女学院大学文学部教授は剽窃野郎で有罪。
伊田先生は出典を隠して灰色、井上先生はもっと薄い灰色というかほぼ白(村田先生の文献の参照を忘れただけかもしれない)。伊藤公雄京都大学文学研究科教授は無批判孫引き野郎で学者としてまじめに相手するに値しない。と考えてしまってはちょっと言いすぎかな。

まあしかし、ちゃんと自浄できないまま引用しあう学者社会はだめだ。

あんまりあれだから、伊田広行先生のブログにトラックバックしておこう。トラックバックってしたことないからわかんなけど、リンクするだけでいいのかな? http://blog.zaq.ne.jp/spisin/

最近スキャナを入手したので、PDFにしてあげておこう。あら、hatenaにPDFは上げられないのか。

ぐえ。井上先生は「知子」でした。

と、ふと本を読みなおすと井上先生は和子じゃなくて知子(ともこ)先生。こりゃひどいまちがいをしたなあ、と思って上は修正した。しかし、これ実は上の伊藤公雄先生の表がすでにまちがってるからだよ。なんなんだ。伊藤先生は井上先生の本の出版社や出版年も書いてないし、文献表にも出さないし、これくらい色々重なるとなにか出典を探しにくくするための意図的なものではないかとか思ってしまう。そういうことを考えさせられるのがたまらん。

ちなみに諸橋先生の『ジェンダーというメガネ』も、あるアフリカの部族ではイニシエーションに
失敗した男の子は「女」として生き男と結婚することがあるとか、別の部族では生まれる前から占いによって性別が決まってるとか、あやしい調査を出典出さずに紹介している。この本ではさまざまな文化人類学の知見が紹介されるのだが、実際に名前が出るのはミードだけ。(それも実は確認してないわけだ。)

なんというか、こういうことが重なると、「ジェンダーフリーバッシング」とかが起きるのはある程度しょうがないという印象を受ける。女性学とか男性学とかジェンダー論とかって科目名で大学の授業している人々は、いったん自分たちの研究を見直してダメな研究をちゃんと排除して浄化しなきゃならん。まあいわゆる学際的な学問領域が立ちあがるときは、伝統的な領域から難民のような人々がまぎれこもうとする傾向があるようだ。別の分野でもそういうのを見たことがある。そこでがんばれるかどうかがその分野がちゃんと成立するかどうかの分かれ目なのだろう。先行研究を信頼して参照できないのならば学問として一本立ちできない。まあ伊藤先生や伊田先生や諸橋先生が権威として信用されているわけではないだろうが。ジェンダーな人々もここは踏ん張り所だな。


伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』の謎

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004。ISBN:4272350188

この本でもジェンダーは文化だってことの証拠としてp.62でミードの『男性と女性』の研究がひきあいに出されている。

で、先日触れた伊藤公雄の『男性学入門』ISBN:4878932589とほぼ同じ表が使われているのだが、この表、なんだ?この二つの表はすごくよく似ていて、ほとんど縦横を変換しただけ。伊藤公雄は出典としてミード本人じゃなく、

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

としている。「井上和子ほか」の本は巻末の文献表に出典がある。
伊田は

出典 マーガレット・ミード『男性と女性』1949年。諸橋泰樹『ジェンダーというメガネ—やさしい女性学』(フェリス女学院大学)

としている。「ジェンダーというメガネ』の発行年月日や発行者は不明。(フェリス?)もちろんこの表はミード自身のものではない(し、ミードの研究とは離れてしまっている)。

伊藤の本で気になった表記はそれぞれアラペッシュ、ムドグモール、チャンブリになっている。(伊藤の本ではアラ「ベ」ッシュ、ムンドグモール、チャム「プ」リ)。

あと、伊藤の本で「男女」になってるのが「女男」になってる。「男性的」が「いわゆる男性的」になったりもしている。

なんじゃこら。どこかでインチキが横行しているんじゃないのかなあ。

なんか、フェミニズムの人々はバカなバッシングを受けているだけじゃなくて、もしかしたら背後から足ひっぱられているかもしれないとか思ったりもする。(いや、ただの感想。根拠なし。)

 


伊藤公雄先生の『男性学入門』

 

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

 

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。