進捗どうですか (8)

進捗だめです。

短期的には19日のあれの準備をしなければならず、そのための文献調べている段階です。遅すぎる。ネタは「幸福」なわけだけど、どの程度の話にするべきなのかよくわからないので過去の『哲学の探求』読んだり。まあなんにしても私はエレメンタリーな話しかできないわけですが。お客さんがどういう人びとか予想するっていうのは私は一番大事な作業だと思ってます。関東の哲学関係の院生とかの雰囲気というのはもうひとつ知らないし、研究の雰囲気なんかも違う気がする。あそこらの倫理学に対する関心もどれくらいあるのか、とか。私はどうも他のちゃんとした院生や研究者の人がいろんなことを知っていると勝手に想定して勝手に圧迫感じたりする悪い癖がある。

Huppert & Linley eds. Happiness and Well-beingっていう心理学系の有名論文のアンソロジーめくったり。4巻本だけど1巻目のコンセプト中心のだけ。概念的な話はまあ哲学者がやってるよりはやっぱり甘いところがあるみたいだけど私には十分啓発的なところがある。

ネットで青山拓央先生の「幸福の規範化と、私的な逸脱」とか見て、ずいぶん考えてることがちがうのがうーんとなってそれのターゲット論文になってる柏端達也先生の「幸福の形式」読んだり。ほんとぜんぜん考えてることが違う。どちらも日本の分析系の哲学を代表する先生ですが、倫理学の方はあんまり文献見たりする気はないのかな、とか。なにもないところからオリジナルに考えるというのもそれはそれで意味があるとは思います。

一番の大物はFred FeldmanのWhat is this thing called happinessを1冊読むことで、これは3日ぐらい集中的に読んでもうすこしかかる感じ。議論は非常に明晰でわかりやすいです。英語もやさしい。学部3回生ぐらいでも読めるのではないだろうか。哲学ってこういうものだよな、みたいな独特の感じがあって楽しめます。でもこの本読んでなにを議論しているか理解するためには、一回自分で幸福とかハピネスとかそういうものについて考えてみないとならんのよね。とりあえずおすすめなので哲学・倫理学系の院生の方とかはぜひ読みましょう。フェルドマン先生は「心理学者たちはコンセプトの話ちゃんとしてないのにいきなり計量とかしはじめやがって許せん」みたいな立場。私はもうちょっと学ぶところがある気はしてます。

日曜はキェルケゴール協会の年1回の大会。キェルケゴール研究している人は今ではすごく少なくなってしまいましたが、8人ぐらい個人発表で盛況。がんばってほしいです。まあ正直なところ私自身はもうキェルケゴール研究を真正面からする余裕がないのですが、重要な哲学者であることはまちがいがないので、若い人びとにはチャレンジしてほしい。

この協会はいったん(諸般の私の知らない事情で)活動停止したところをなんとかもう一回動かして細々とつなげているので、うまく若い人びとにバトンタッチしたい。

まあしかしキェルケゴールをキリスト教抜きに語ることはできないし、それだけでなくデンマーク語やったりヘーゲルっぽい思考の方法みたいなのにもなじまなきゃならなくて、正面からやるのはすごくたいへんですね。他の主流の哲学者、デカルトだのロックだのヒュームだのカントだのっていうのを研究するのに比べてすごく不利だとは思います。特に最初からキェルケゴール一本だと「哲学的な思考」みたいなのの訓練ができないところがあってやばい。

もし私自身けっきょくペーペーのまま倫理学研究者としては「モドキ」以上のものにはなれなかったわけですが、キェルケゴール研究したいという学生院生様がいたらアドバイスしたいことは、

  • デンマーク語は勉強しなければならないけど、そればっかりやるわけにはいかないので翻訳や英語とか使ってもかまわんだろう。
  • 二次文献はちゃんと見るべきだ。っていうか、ざっとキェルケゴール本人の読んだらすぐに二次文献集めてどういう解釈がありえるか考えてみて、そっから研究はじめる方がよいのではないかと思うです。キェルケゴールを素手で解釈に行くのはちょっとおすすめできない、というかそれの謎考えてるだけで一生が終ってしまう。
  • 二次文献を読めば、キェルケゴールの著作のどこがポイントなのかとか、どこに研究者の解釈の違いがあるのかとか、どこ引用すればいいのか、どこ読めばいいのか、みたいなのがわかる。もちろんそれらとあえて違う解釈、みんなが引用しないところ、読まないところ、とかを強調する手もある。でもそれはやっぱり二次文献ある程度読んだからこそできる話ではないのかな。国内では「虚心坦懐に原典を読む」みたいなのが推奨され、へたすると「二次文献に頼るな」みたいな雰囲気させあった時代がありましたが、わたしはおすすめできない。
  • 二次文献はネットでもたくさん手に入るし、有名書籍もあるし。日本の大学でふつうの教育受けてたらドイツ語までいくのは無理だろうからとりあえず英語論文見たらいいだろう。Kierkegaard Studies Yearbookとかで世界の研究動向がわかる。これはデンマークのキェルケゴール協会中心で、各年ターゲットの本を決めてけっこうな人数でつついている。英語圏のモノグラフみたいなのはもっとよい。Google Scholarとか使えばPDFでもいろいろ手に入る。
  • キェルケゴール内在的にやるのはおもしろくなりにくい。キェルケゴールがある本でなにを言ったか、ってのをだらだら書いておわり、ってことになってしまう。これは他の哲学研究者から見ると、「それのどこがおもしろいの?」みたいなことになっちゃう。やはり他の言語哲学なり倫理学なりキリスト教神学なり、自分のバックボーンになるものを作りつつキェルケゴールにあたらないとならんと思う。
  • 時間論でも存在論でもなんでも、伝記的事実としてキェルケゴールは哲学をまともに勉強したわけではない(っていうかなにもまじめに勉強しなかった)わけなので、彼の哲学が伝統的な哲学の文脈にそのまんまのっかるわけでなあいことは意識しておく必要がある。だからもしアカデミックな世界で生き残れるような形でキェルケゴールを研究したいのなら、キェルケゴール以外の正統派も勉強するべきだ。その上でキェルケゴールがどの程度魅力あるのかを考えたい。
  • 二十世紀のビッグな思想家がキェルケゴールを読んでどう言ったか、というのはやっぱり大事だしおもしろいけど、これもそのビッグな哲学者や神学者の解釈がキェルケゴール解釈として正しいとかそういうんではない。ビッグな思想家ほど他人の思想は自分に関心あるかぎりでつまみぐいして好きなことを言うわけだからして。そういうタイプの研究もけっこう負担が大きい。
  • なんにしても、哲学史上の人を扱う場合には、他の研究者の解釈と自分の解釈のどこが同じでどこが違うかを論じる必要があると思う。昭和の先生たちはまあキェルケゴールを自分なりに紹介すればそれだけで飯の種になったけど平成の諸君はそういうのは無理だと思うです。「おける論文」批判みたいなのもずいぶん強くなってるしねえ。

とかそういう感じかなあ。ほんと偉そうというかなまいきというかごめんなさい。これからも陰ながら応援してます。がんばってください。

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What Is This Thing Called Happiness?
Fred Feldman
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「愛と性の西洋思想史」読書案内

最初にブラックバーン先生の『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』読むとよいと思う。

古代ギリシア・ローマ

サッフォーの恋愛詩は岩波文庫の呉茂一訳『ギリシア・ローマ抒情詩選』にはいってます。

プラトンは『饗宴』だけでなく『パイドロス』も読みましょう。どちらも岩波文庫にあります。

アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は京都大学出版会の朴先生の訳で読んだ方がよい。ちょっとむずかしい。

ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』は古代ギリシアの哲学者たちの言動の記録、ゴシップも多くて楽しめる。哲学者たちの性生活もかいま見える。とくに享楽的な生活を送っていたとされるアリスティッポスに注意。

オウィディウスの『アルス・アマトリア』はぜひ読みましょう。いくつか邦訳がありますが、とりあえず岩波文庫の沓掛先生の『恋愛指南』で。古代ローマ人たちの愛欲生活は木村凌二先生の『愛欲のローマ史』がおもしろい。アルベルト・アンジェラっていう先生の『古代ローマ人の愛と性』もよい。

アウグスティヌスの『神の国』で、神様「知恵の木の実を食べてはならん」って言ってんのにアダムとイブが食べちゃったせいで、セックスについて知り性欲に悩まされてつ生殖するようになったのだ、みたいな話がある。『告白』もおもしろいので読みたい。最初の告白文学。「性欲に困った僕は、神様に「性欲をなくしてください」とお願いしたんですが、「でもいますぐじゃなくて」ってつけ足しちゃいました」みたいな。ははは。

(告白文学というくくりはおもしろくて、ピコ・デラミランデラの『告白』、ルソーの『告白』、トルストイの『懺悔』も読みたい。)

中世

中世はよくわからない。カペルラーヌスの『宮廷風恋愛の技法』ぐらい。

トリスタンとイゾルデ神話については、ドニ・ド・ルージュモンの『愛について』が名著とされているけどどうなのか。

哲学者のアベラールとその愛人エロイーズの話が中世的な熱烈な恋愛の話として有名なんですが、これってどうなんかな、みたいな。岩波文庫の『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』読んでみてください。私はアベラール先生はだめな奴だと思うです。

近世

モンテーニュの『エセー』の第3巻第5章の恋愛・セックス論「ウェルギリウスの詩句について」は岩波文庫の5巻本のやつか、最近出た白水社の宮下志郎先生の訳でないと読めません。腐女子傾向のある人は第1巻28章『友情について』も読みましょう。

哲学でも思想でもなんでもないけど『サミュエル・ピープスの日記』おもしろいので読みましょう。ニュートン先生ともつきあいのあった公務員の性的生活。でもいきなりは読めないので、とりあえず臼田先生の『ピープス氏の秘められた日記』(岩波新書)で。

ルソーは『エミール』『告白』。『新エロイーズ』は入手困難。

カントの女性論・男性論は『人間学』にあります。『倫理学講義』(『コリンズ道徳哲学』)には性的関係についての考察が含まれています。婚外交渉や売買春だけでなくマスターベーションもたいへんな悪徳らしいです。

「サドマゾ」の語源のマルキ・ド・サド。『悪徳の栄え』など。岩波文庫に『美徳の不幸』入ってますが、エッチというよりは哲学的です。カントあたりの哲学とすごく関係があるんですわね。

ウルストンクラフトの『女性の権利の擁護』は女子教育運動や女性解放運動の原点ですので必ず読みましょう。

スタンダールの『恋愛論』は読みにくいですが、非常に有名なので「結晶作用」のところだけは読みましょう。

キェルケゴールの『あれか/これか』。「誘惑者の日記」だけでまあいいでしょう。ドンファン論とかもおもしろいんですけどね。一般読者がキェルケゴールを読むのは無理でです。

エンゲルの『家族、私有財産、国家の起源』はそれ以降の女性解放運動などにも影響を与えています。ただし中身の歴史的事実に関する話はほとんどぜんぶ間違いということになっています。

20世紀になると

フロイトの『性欲論』とラッセルの『結婚論』は影響力があったのでぜひ読みましょう。

古典小説

ラファイエット夫人『クレーブの奥方』。ラクロ『危険な関係』。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、スタンダール『赤と黒』『感情教育』、ジェーン・オースティン『高慢と偏見』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、D.H.ロレンス『チャタレー夫人の恋人』。

こうした小説の案内は木原武一『恋愛小説を愉しむ』(PHP新書)など。

社会心理学、進化心理学

最近の心理学研究は、とりあえず麻生一枝『科学でわかる男と女の心と脳』と金政他『史上最強図解 よくわかる恋愛心理学』あたり。斉藤勇先生とかもたくさん出してますが、ちょっと古いし一般向けすぎます。松井豊『恋ごころの科学』は立派な本でしたが、もう20年前なので情報が古いです。

進化心理学ではデヴィッド・バスがとにかく大物です。『女と男のだましあい』『一度なら許してしまう女 一度でも許せない男』は重複するネタが多いですが必読。ミラーの『恋人選びの心』あたりまでいけばだいたい恋愛とかそういうのについて進化心理学がどういうことを考えているのかがわかる。

認知の歪みと研究者生活

うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。

  1. すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
  2. 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
  3. 心のフィルター。悪いことしか見えません。
  4. 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
  5. 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあいつは悪いやつだ。
  6. マイナス思考。だめだー。
  7. 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
  8. 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
  9. レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
  10. 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」

数年前ぐらいから、倫理的な問題を考えているときは、われわれはけっこうこうした認知の歪みの餌食になってしまうことが多いんではないかと考えるようになりました。これらの認知の歪みは、どれもファラシーとか誤謬推理とかって名前をつけられて古代から研究されている詭弁に類するものでもあります。

私がよくやってしまうのはいろいろあるんですが、まずなんてったて「すべてか無か」ですね。論文と本とか読んでても完璧じゃないと意味がない、ここに穴があるからこの論文はぜんぶだめだー、みたいに考えちゃう。いかんです。

「過度の一般化」はまあ自分の体験から「みんなこうだ」「いつもこうだ」とか思いこんじゃうやつ。ピーターシンガー先生が気にくわないと功利主義者はみんな気にくわないとか、英米の倫理学はぜんぶ気にくわないとかそういう感じになっちゃう。「レッテル貼り」とも関係ありますね。「フェミニスト」とか「パーソン論者」「セクシスト」とかレッテル貼ってそれですましちゃう。じっさいにはフェミニストにもパーソン論者にも功利主義者にもいろんな見解があるわけだけど、とりあえず全部同じだー。

感情的推論もよくやります。結論が気にくわないと論理がまちがってるんだろう、論理がまちがってなかったら前提まちがってるんだろう、って思う。まあでもこれは大事ではあるですけどね。自分の利害がからむとどうしたって感情的になっちゃうけど、それはそれで別にしないとねえ。もとから嫌いな人が主張していることだとまちがってるに違いないと思う、みたいなのもある。もう「あいつが言ってるんだったら同意しなくてすむように自分の意見を変えてしまおう」みたいなときさえありますわね。

国内の倫理学でよく見かける気がするのが「心の読みすぎ」ですかね。「パーソン論者は実はこういうことが目的なのだ、こういうことを考えているのだ」みたいに心を読んじゃう。研究会やネットでも、単に質問されただけなのに悪意を推定する、とかってのもよくやっちゃうんじゃないですかね。

こういうのはネットの議論とか見ててもよく見かけるし、こういう思考はわれわれが生きていくために必要なんだとは思います。でもまあ理屈は理屈で考えてみないとならんといつも自分に言いきかせようとしています。

まあ倫理学や各種の応用倫理、とくに生命倫理の話とかは暗くてつらくて悲しい話が多くて、考えてるだけで気分が落ちてくる。情緒的・扇情的な文章を見ることも多くて、毎日そういう文献読んでるといろいろ腹たってきたりしてどんどん「ギギギ……」な感じになってしまいます。気分や感情が認知を歪めてしまうんですわね。そういうのは健康にも悪い。自己評価低めの人とかはなにかしら自分を責めたてて鬱的になるし、自己評価高めな人は他人を攻撃したくなってトラブルを起こしちゃう。まあとにかく倫理学は「べし」思考のかたまりなので、非常に健康に悪いことだけは意識しておいてください。

なんかときどき噛みしめてしまってる奥歯をゆるめてピースってしてみると文献がぜんぜん違ってみえるかもしれません。生命倫理とかそれだけ考えてるとやばいので、なんか楽しい研究も同時にできるといいですね。愛に満ちたセックスとかハッピーなセックスとか楽しいカジュアルセックスとか……いやこれもやばいですね。なにがいいんですかね。

まあ個人的にはキェルケゴールとか読んでで絶望だの不安だのやってたときは毎日死にそうでしたね。そういういやな体験を好んでする人はいないので、あんまり長く続かない。生命倫理もそういうところありました。

そもそも哲学っていうのはソクラテスの昔から「批判」とかを中心にしているので、おそらくネガティブになりやすい。研究会とか読書会とかでも「〜その読みは違うんちゃうか」とか「お前の言ってることは意味不明だ」とか言われまくりですしね。時々冗談とか言ったり、SF的な変な思考実験とかしながら楽しくやりましょう。

まあとにかく楽しくないと研究も長続きしないし発展しにくい。がんばって楽しく勉強しましょう。あんまり禁欲的になっちゃうのはやばい。バーンズ先生も図書館で借りて読んでみてください。

まあとりあえずつらい勉強するにあたってもこのリストいつも見るようにしてみたらどうですかね。実は私一時期パソコンのデスクトップに貼ってました。ははは。

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キェルケゴールとわたし(死ねないこと、それこそが絶望である編)

  • 諸般の事情で情報倫理とか勉強するチャンスをもらえる。どもありがとうございます。少し生き返る。
  • まあそういう意識でキェルケゴールのことを考えると、内心の秘密とか、コミュニケーションとか、プライバシーとか、大衆社会とか、キェルケゴールってけっこう現代社会を哲学的に考えるときのヒントになるかもなあ、みたいなことは考えたり。まあこの方針はいまだにいろいろありそうだという気がしている。
  • 超ラッキーなことに就職させもらう。ありがたいありがたい。
  • キェルケゴールが著作していた年齢を自分がどんどん越えていくと、キェルケゴールが考えていたことがどんなことかなんかわかるようになってくる。
  • あんな短期間に大量の文章を書いたひとが、そんな勉強してたはずがない。それに論理的な思考というか哲学的な思考が得意なわけではない、と思いはじめる。他の哲学の巨人たちとは別のタイプの人だわね。
  • まあとにかくキェルケゴールより年上になってしまえば、どんなろくでもないやつだったのかがよくわかるようになる。ははは。
  • 大谷先生のキェルケゴール協会ってのは発表させてもらった次の年ぐらいで活動停止していた。どうもお歳だったかなのか、なんか先生がおもしろくないことがあったのかよくわからない。
  • 2000年に先生がお亡くなりになって、そのお葬式にも参列させてもらう。その席で偉い先生たちが大谷先生の意思をついで全集の翻訳したりキェルケゴール協会の活動を再開させたりしよう、って話になったみたい。
  • 事務局やらされる。しかし学会事務なんてできませんがね。ひどく苦労する。雑誌の編集とかも。まあでも若い人々の発表の場を作るためにやるべきかなあ、みたいな。
  • キェルケゴールのメディア批判とか女性運動批判とかで発表したりゴミ論文書いたり。
  • 「キェルケゴールの大衆メディア批判」 http://www.kierkegaard.jp/studies1/eguchi.pdf とか。 http://yonosuke.net/eguchi/papers/kierkegaard-women.pdf とか。
  • 就職してからも研究会もなんとかしたいと思って、のちに大谷大学に行くF君とかと細々開いたりするけど、自分の関心がちょっと遠くなっていてエネルギーを割けない。
  • ちょっと海外の様子も覗いてみたり。昔の論文英語にして発表させてもらったり。
  • 1月暮させてもらったセントオラフ大学キェルケゴール研究センターの人々はよい人だ。(コペンハーゲンの人達が悪い人だというわけではないのだが……キェルケゴール全集4版のために若い人が集まっていて元気そうだった。)
  • キェルケゴール協会はとりあえずなんとか動いて軌道にのったあたりでF君にバトンタッチさせてもらう。よろしくおねがいします。
  • その後事務局は関東に移動。日本統一か。
  • Joachim GarfのS.A.K. (Søren Kierkegaard)っていう評伝が出て、本気でろくでもない奴であることを確信したり。偉人じゃなくて人生に苦しみぬいた実物大の人物として見るのがいいんちゃうか、みたいな。
  • Peter KremerのAgainst Depressionって本でもキェルケゴールがけっこう大きく取り上げられてておもしろい。
  • まあ興味が拡散してしまってキェルケゴール1本で勉強する気はぜんぜんないけど、少しずつ読んだり考えたりはしたいと思っているです。
  • 倫理学の資源としてのキェルケゴールを考えた場合、やっぱり広い意味での道徳心理学のリソースとしてってのが一番でかいだろうなってな気がする。あとやっぱりプライバシーとかコミュニケーションとかそういうのの分析とか。国内の人は形而上学的な側面に魅力を感じてたみたいだけど、そっちはあんまり実りなさそうな気がする。
  • 評論みたいなスタイルで書けないかと「うつ」とかについても書いてみたり。 http://yonosuke.net/eguchi/papers/depression2012.pdf
  • あとなんといってもセックスやエロスの哲学、愛や結婚に関する倫理学みたいなそういうのね。
まあ私自身、研究者としては成功しなかったので若い人々にお説教する資格はないのですが、キェルケゴールみたいな難解な哲学者のものを読もうとするときは、やっぱりあらかじめある程度、〜ハンドブックみたいな地図みたいなものをもっておいた方がよいのではないかと思います。どろどろになってわからない自分の自己評価が下ってしまって生活もできなくなっちゃう。実際キェルケゴール関係の研究者はあんまり生産性が高くないです。
早めに哲学の本でも「これはわかる」っていう経験をする必要があるんじゃないですかね。
私はキェルケゴールはかなり混乱した著作家だと思ってますが、それでもその混乱にさえなんか見るべきところはけっこうあると思っていて、そういう読み方をするにはいっかいそういう思想家から離れてみて、ぜんぜん違う分野のものを読んでみるのもよいのではないかという気がします。キェルケゴールからヘーゲルに行ったりシェリングに行ったり、あるいはポストモダーンに進んだりするのはあんまりおすすめできない。自信なくなって行き止まり。やっぱり自分がわかならないことはわからない、と認めてしまうべきだと思うです。

勉強する上で二次文献は大事です。もちろん二次文献読んでるだけじゃだめですけどね。
とりあえずこれからキェルケゴールを研究したいってのであれば、200周年で出版されたOxford Handbook of Kierkegaardを一読しておきたいですね。でも高い。図書館に入れてもらいましょう。

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まあもちろんキェルケゴールみたいな思想家に全身でタックルする、ってのはありかもしれないですが、それに一生を賭ける情熱と覚悟があるのかどうか。昭和にはそういう研究スタイルもあったんだと思いますが、私はとれませんでした。だから失敗するんすね。ははは。

キェルケゴールとわたし(修士課程編)

  • まあとにかく大学院進学。西谷先生は私の人生についてほんの数秒でさえ考えてなかっただろう。
  • ワープロ買った日から日記をつけはじめているのだが、フロッピーとかなくしてしまった。
  • 大学院に入って奨学金もらえることがわかってPCを買ったんかな。んで1989年の5月17日からの日記が残っている。ここらへんから記憶が少しはっきりしてくる。やっぱり日記は大事よね。
  • 現在残っている日記の最古の記述は「やっとMifesの使い方が解りかけ、ワードスターも使えるようになったのだが、なんと、この辞書は小さいものだというではないか。100キロバイトも少ないなんて信じられない。どうりで頭がわるいと思ったぜ。これから辞書を鍛えた方がいいのか、はたまた一太郎を使うべきなのか。悩むところではある。」ははは。
  • 研究計画とか出さなきゃならなくて苦しんでいるようだ。『不安の概念』読んでなんとかしよう、みたいなことを書いている。フロイトやサルトルの話も出てきているな。
  • 枡形先生の授業は前年で終ったのかな?デンマーク語勉強会に参加させていただく。ほんとうに世話なったよなあ。メンバーは前年の購読に出ていた人々。
  • 大学院進んだのは、学部生活ではテツガクとかそういうのがいったいなんなのかさっぱりわからなくて苦しんだからとしか言いようがない。まあその時点で離れてればよかったんだけどね。失敗している。苦手なものに自分から寄っていくのは馬鹿である。
  • 日記読みなおしても延々苦しんでいる。ははは。
  • Mになるとさすがに二次文献を見るってことをおぼえたようだ。Mac C. TaylorのJourney to Selfhoodとか読んでいる形跡がある。いや、これ学部生のときも見てるのかな。この人いまなにやってんだろうね。キェルケゴール → ヘーゲル → ポストモダーンみたいな進み方をした人。
  • M1のときから林忠良先生の授業に出てるな。先生はヘーゲルが好きなのでもうけっこう苦しんだ。話を聞いてるとわかったような気がするんだけど、自分でパラフレーズしようとするとできない、みたいな。
  • もうヘーゲルの論理学というのはものすごいものでねえ。「AはBである」みたいなのが「すべてのAはB」なのか「すべてのBはAなのか」みたいなのに悩まされる。
  • まあ文閲で1日過す日々、だったような気がする。当時はタバコも吸えた。
  • まあ学部生からこのころまで、雰囲気が宗教学っぽかった。研究室も森口先生の影響でそういう雰囲気があったんだよな。チェスタトン読んだりしている。
  • 無駄な読書をくりかえす。ドイツ語やデンマーク語は読めないから、とにかく英語ぐらいは読むかなー、みたいな。James Collins先生のThe Mind of Kierkegaardとか。
  • 読書会ではボンヘッファー読んだりパスカル読んだりカント読んだりしている。
  • Josiah ThompsonのKiekegaard: A Collection of Critical Essayっての読んでやっと人間になりはじめる。外国語で分厚い研究書は読めないけど(日本語でも)、短い論文なら読めることに気付く。特にLous Mackeyの”The Loss of the World in Kierkegaard’s Ethics”とか読んで、キェルケゴールを批判するってのはありなんだな、みたいな。やっぱり英米系の伝統の上でちゃんと解釈してちゃんと批判するってのは大事ね、みたいなのに気づく。
  • そうやっていろいろ英語二次文献読んでて一番衝撃受けたんはBrand Blanshardの”Kierkegaard on Faith”かな。これは破壊力のある論文だった。キェルケゴールはクソだ!みたいな。英語圏の哲学の伝統からキェルケゴールを読む、っていうのになんか可能性あるかもなあ、みたいな。
  • でもまだはっきりした手掛かりはもってなかった。そもそも「倫理学」ってのがどういう学問かのイメージがこの時点でまだなかった。
  • 文献でよくひかれているウィトゲンシュタインとか一応読んでる。わからん。
  • M1の1月にLanguage, Truth and Logic買ってるなあ。ここらへんでちょっと目覚めた。エイヤー先生は偉大だ。
  • 3月に『恐れとおののき』が最高傑作だな、みたいな印象を書いている。
  • M2。衝撃の怖い先生降臨。ヘア読む。ここらへんは「功利主義とわたし」で書いたけどすごいショックだったねえ。でもやっと自分の感覚はそれほどおかしくない、って思うことをはじめる。
  • 初夏の時点では先生も怖いし、私生活の方でもあれだったので就職するつもりだった。でもまあヘアとそのまわりの議論を見たおかげで倫理学とか道徳とか哲学ってものがなんであるのかやっとかいま見えてきた感じ。
  • M2の5〜6月ごろの日記を読むと、「大学院進んだのは失敗だよな」みたいなことばかり書いてる。失敗でしたよ。ははは。まあこのあともずっと「反復」してんだけどね。
  • あれ、M2で翻訳はじめているのか。数年後に枡形先生編監訳の『キェルケゴール:新しい解釈の試み』ってのになるやつ。まあここらで英米の研究者の研究を意識している。
  • 修論ではまあとにかくBranshard先生の問題意識をもってヘア先生のアイディアをとりいれて『恐れとおののき』読むとどうなるのか、みたいなのを書こう、とか。
  • まあそういうんでなんとか修論出す。だいたい原稿用紙100枚分以下、みたいな分量が標準だったが、70枚ちょっと分ぐらいしかなかったんちゃうかな。ははは。
  • 就職するかどうかの最大の「あれか/これか」。

キェルケゴールとわたし(学部生編)

なんちって。

  • 功利主義とわたし
  • 生命倫理学とわたし

の姉妹編。

  • もちろん学部生のころはなにも考えてなかった。哲学についてもほとんどなにも知らない状態だったんじゃないのかなあ。
  • 3回生になって文学部の授業受けられるようになって購読とか履修しなきゃなんなくて、枡形公也先生の『死に至る病』をドイツ語で読んでる授業に出た。履修しているのは4、5人だったかな。Liselotte Richter先生の訳で。その前に2年ぐらいやってたのかな?もうかなり進んで第二部に入ってたような気がする。
  • キェルケゴールは高校の「倫理社会」の先生が好きだったのは覚えている。なんか愛がどうのこうの、とか言ってた記憶がある。でもなに言ってたかは忘れた。
  • 『死に至る病』読んでももちろんわからん。なんの話をしているやら。もちろんドイツ語の読めないし。
  • それなのになんでかしらんけど「翻訳を見てはいかん」みたいなことを信じていたのでもう地獄。
  • でもとりあえず最初岩波文庫の斎藤信二先生の訳見たのかな?やっぱりさっぱりわからん。
  • こんなわけわからんのでいいのか、と思いつつ語学に苦しめられあっというまえに3回生終了。なにもわからなかった。
  • まあでも当時の私にとってはハイデガもシェーラーもフッサールもカントもどれもこれもなにもわかない状態だったのでなんでも同じ。
  • もう一つ、橋本淳先生がキェルケゴールで講義してたんだな。あれ、これ3回生のときか4回生のときかあんまりはっきりしない。文学部旧館のあの広くて天井が高くて暗い講義室で愛だの憂愁なんだのという話をしていらっしゃったのをおぼえている。橋本先生の授業は女子が多かったのでお知りあいになりたくて出ている、とかって哲学科学生もいたはず。私はお知りあいになれませんでしたが。
  • 4回生夏前ぐらいに、とりあえずキェルケゴールで卒論書こうかなと思いはじめる。でも卒業の見込みはない。
  • まあ高校生のころ大江健三郎先生とか読んで実存主義はかっこいいはず、みたいな。でもサルトルの『実存主義とは何か』すら読んでたかどうか。
  • 4回生でも購読の授業に出る。枡形先生にはドイツ語からなにから本当にお世話になりました。Nさん、T君、O嬢などしばらくいろいろやる人間が集まる。ちょっとあとでY君とかも参加。
  • まあ購読の授業はみんなで「……」みたいになってるときも多かったなあ。
  • 夏までに4回生では卒論書けないことがはっきりする。まあ単位も半分もそろってなかったし当然5回生。
  • 概説みたいなのも適当に手に入ったの読むぐらい。まあ日本語でまともな概説書もなかった。白水社の全集の解説とか読んだりしたけどわけわからん。
  • とにかく学部生時代はどろ沼。あんまり思い出したくないんよね。まあ4回生のころはもう生活でいっぱいでねえ。
  • ハイデガ、フッサール、メルロポンティ、シェーラーとかがよく聞く名前だったかな。あとせいぜいカント。
  • とにかくこの時期、「国内二次文献を集める」ということさえ知らなかった。とにかくキェルケゴール先生の本を読む、できればドイツ語で、みたいな。これはいかんよ。概説書読んだら早めにとにかく日本語の二次文献集めてあたりをつけたいものです。
  • もちろん外国語の二次文献読む能力はなかった。そんでも5回生のはじめには文学部図書館にあったドイツ語のを1、2冊めくってみたのかな?でも読めない。っていうかほとんど神学系のだから引用とパラフレーズだらけでなにもわからない。
  • 「ヘーゲル読まないとキェルケゴールはわからん」みたいな話もあるので『小論理学』ぐらいは見ておこう、みたいな。しかしこれキェルケゴールと同じくらいわからん。地獄。
  • 苦しみつつ5回生。でもまあ『死に至る病』はなにか重要なことを言っている、とは思ったわね。
  • やっとこのころ文学部閲覧室に収められている修士論文を読む、ということをおぼえる。キリスト教学の人とかけっこう書いてる時代だったので10年分ぐらいは読んだんかな。全員手書きのよい時代でした。
  • だいたいみな『死に至る病』か『不安の概念』で、「人間とは何か?人間とは精神である、精神とはなにか?精神とは自己である」みたいなんを議論していた。んじゃ私もそこらへんやるかなあ、みたいな。
  • まあでも『死に至る病』のあの部分はいくら読んだって読めるようにはならんのよね。とにかく混乱していた。
  • 国内二次文献調べられなかったのは、実際調べるのがけっこうたいへんだったからなんよね。いまだったらCiNiiやGoogle Scholarで一発なわけだけど。それにキェルケゴール関連の人はどういうわけかキェルケゴール先生の本以外の論文とかほとんど参照しない。これはいかん。修論でも国内研究論文に言及しているやつはほとんど見かけなかったような気がする。
  • まだキェルケゴール協会や『キェルケゴール研究』みたいなのの存在も知らなかったのかな?
  • まあとにかくそういう雰囲気だったのですよ、「とにかく原典を読むのだ」みたいな。
  • 苦しみながら卒論を書く。文献のつけかた、引用の仕方もわからん。誰も指導してくれなかったのもあるが、勉強する気もなかった。そういうものが重要だという風潮もなかった(はず)。エーコ先生の『論文作法』が出たのはいつだったかな。
  • まあ研究室では院生と学部生ははっきり分かれてる感じだったしねえ。お客さん。それに先輩には「だめな奴だ」って思われてた思うし。実際だめなやつだったし。
  • 勉強っていったら、なんとかドイツ語を鉛筆で大学ノートに書き写して、なんとか読んで訳を書いて、思いつきをメモる、みたいな感じだったかなあ。貧弱。ひどい。時間の無駄。でも本気でどうやって勉強すればいいのかさっぱりわからなかった。
  • 5回生のはじめぐらいには枡形先生から言われてデンマーク語もいちおう勉強したかな? Teach Yourself Danishとか使った。まあデンマーク語は文法はそんな難しくない。辞書とかも入手しにくくてねえ。
  • まあこのころキェルケゴールとかもうあんまり読まれなくなってたんだけど、村瀬学先生の『新しいキルケゴール』っていう本が出て、これはおもしろいと思った。
  • とにかく『死に至る病』の冒頭の「自己の定義」みたいなんはわからん。これでは卒論書けない。
  • でもいまでもちょっと誇りに思ってるのは、『死に至る病』冒頭の「自己の定義」はあれは結論なのだ、ってことに気づいたことだわね。
  • でもこれはひどい。笑える。 http://yonosuke.net/eguchi/papers/soturon.pd
    f
  • 卒論は西谷裕作先生と水垣渉先生におなさけで通してもらいました。ははは。
  • ちなみにこの卒論を書くために12月14日ぐらいにワープロ(シャープの「書院」)買ったんよね。「これじゃ書けない間にあわない!」とか思ったんでねえ。それから数日、新聞の文章を打ちこんでキータイプの練習した。馬鹿すぎる。
  • さらに卒論提出当日(1月15日?)にプリンタが動かなくなって、生協の展示品使わせてもらって打ち出したのであった。いっかい打ち出してみるとあれなんで、生協で半日卒論書いていた。ははは。
新しいキルケゴール―多者あるいは複数自己の理論を求めて
村瀬 学
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オペラを勉強してモテるようになろう!

「セックスの哲学」といえば、面倒なことせずにモテる方法とかってのを期待している人も多いんじゃないかと思うので、おそらくモテるために学んでおくべきことを示唆しておきたいですね。まああくまでおそらくなんですけど。あとに述べるように哲学者や哲学研究者自身はモテることはむずかしい。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の主人公はドン・ジョヴァンには伝説的女たらしで、もうどんな女性でもオトせます。

まずはドン・ジョヴァンニの従僕レポレロによるカタログの歌。スペインでは1003人。
歌詞はこれで見てください。「旦那様に泣かされたのはあなた様でけではありません。イタリアでは640人、ドイツでは231人、しかしここスペインでは何と1003人!」舞台だとこんな感じ。女性はジョヴァンニとあれして「妻」のつもりでいるエルヴィーラ。ところがジョヴァンニ先生はそんな人ではない。
ちなみにこの演奏は歴史的名演。配役もドンピシャだし。指揮は伝説のフルトヴェンクラー先生。

「シャンパンの歌」って有名なところ。ドン・ジョヴァンニの快活さが魅力です。酒もいくらでも飲めるよ。

訳詩書いときますか。

みんな、葡萄酒(ワイン)で
頭がかあっとなるほどに
大宴会を
準備させろ
もし広場で見つけたら、
これという娘を、
それもそなたが自分で
うまく連れてこい。
なんでもいいから
踊りでありさえすれば
あっちはメヌエット、
こっちはフォリア、
そっちはアルマンドと
おまえが踊らせるのだ。
で、わたしはその間に
そっち別に
あれやこれや相手にして
愛のお楽しみといきたい。
ああ、わたしのリストに
明日の朝には
十人がほどの女を
おまえは加えねばならないぞ。
(オペラ対訳ライブラリー『ドン・ジョヴァンニ』、小瀬村幸子訳、音楽之友社、2003、pp.67-68)

まあとにかく快活さ、これがセクシーなのです。貴族というのはもうなんか意味のない自信をもってなきゃならん。そしてなんといっても強い性欲をもつことがモテの最大の秘密です。モテない人間ってのは欲望がそれほど強くないんよね。

口説くときはこういう感じです。相手は本日結婚式の花嫁さんツェルリーナ。結婚式ななのにこんなことしてるとはドンジョバンニ様もひどいけどツェルリーナ(ヅェルリーナ)さんひどいですね。

(ドン・ジョヴァンニ)やっとわたしたちは解き放たれましたよ、
愛らしいヅェルネッタ、あの馬鹿者から、
どうです、我が想い人、わたしは見事にやるものでしょう?
(ヅェルリーナ) 殿様、あたしの夫です……
(ド)誰が?あいつが?
あなたには思えるのだろうか、立派な男に、
わたしほどの自らを誇りとしている気高い騎士に
我慢できると、その優美な可愛い顔が
その砂糖ほどに甘い顔が
粗野な田舎者に手荒く扱われるなど?
(ヅ)でも、殿様、あたしは彼にいたしました、
彼と結婚する約束を
(ド)そんな約束
なんの意味もない、あなたは生れついていあにのですよ、
農婦になるようには、もっと別の運命を
あなたにもたらしてくれるのですよ、その生き生きした目、
そのそんなに美しいちいちゃな唇、
その真っ白く芳しい華奢な指は、
それにしてもできたてチーズにふれ、バラをかぐようんだ
(ヅ)ああ、あたしは望ましくないと
(ド)何が望ましくないと?
(ヅ)シマイニ
騙されるのがです、あたしは知ってます、ほんのまれに
あなた様がた騎士は女たちに
正直に、そして本気になられるのだと。
(ド)うむ、それは虚言、
平民たちの!貴族というのは
眼に誠実を映し出しておる。
さあもう、時間を無駄にすまい、今すぐ
わたしはおまえと結婚したい。
(ヅ)あなた様が?
(ド)もちろん、わたしが。
あの別荘はわたしのだ、ふたりきりになろう、
そしてあそこで、わたしの宝よ、結婚するとしよう。
(二重唱)
(ド)じゃそこで我らは手を取り合おう、
あそこでおまえは「ハイ」というのだ。
見てごらん、遠くはないぞ、
行くとしよう、愛しいおまえ、ここを離れ。
(ヅ)そうしたくもあり、でもそうしたくもなし、
心臓がちょっと震えるわ、
あたしは幸せになる、ほんと、もしかしたら、
けど弄ぶってことだってあるし。
(ド)おいで、わたしの可愛い恋人
(ヅ)マゼットが可哀想になるし、
(ド)わたしがおまえの運命、変えてやろう。
(ヅ)もうすぐ、これ以上、頑張れないわ。
(ド)行こう!……
(ヅ)行きましょう!……
(二人)言こう、行きましょう、愛しのひと、
苦しみを和らげるために、
罪などない清らかな愛の。

もうなにがなんでもするぞ、という欲望がいいですね。女というものはその欲望を欲望するのです。歌うまいやつは磨きをかけておいてカラオケでがんばるとあれかもしれんぞ。ははは。

もう歌詞だけ見るとビートルズとかそういうとぜんぜん違わないっすね。歌うまい人はみなこうして口説いてるらしいです。

ぜんぜん反省しない自信と欲望のかたまりとしてのドン・ジョヴァンニ、っていうのは多くの哲学者をひきつけてきたと思います。一番有名なのはキェルケゴール。『あれかこれか』って本で、「直接的・エロス的な諸段階、あるいは音楽的=エロス的なもの」なんてタイトルで「ドンジョヴァンニ論」やってます。とにかく音楽はエロいことに気づいた男。

ニーチェが『道徳の系譜学』書いたときもあそこで描かれる「貴族的」な人間のありかたってのはドンジョヴァンニ的だったんちゃうかな。ウソをつくのは平民のやることであって、貴族ってのは誇り高くそんなことはしないのだ。実際自分ではウソついてる気ないんじゃないですかね。

まあとにかく「反省しない」っていうのが大事です。「哲学ってのは反省だ」みたいなことを最初のエントリに書いたわけですが、そういうんでは哲学なんかに興味をもつ人は最初からモテの世界から放逐されておりますわね。実際キェルケゴールもニーチェもモテなかった。ははは。

キェルケゴールやニーチェはそのまま読んでもすぐにはわからんですが、岡田先生のこの本はおもしろいですよ。

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セックスの哲学史

最初のエントリに書き忘れてましたが、セックスの哲学があるので、当然セックスの哲学史もあるです。ソーブル先生とかはあんまり得意じゃない感じだけど、この分野もかなりおもしろい。実はほとんどの有名哲学者は、なんからの仕方で愛やセックスについて語っているのです。セックスなり愛なりエロスなりを軸にして哲学史を見ていくと意外なものが見えてくるかもしれないです。まあ私キェルケゴールから勉強はじめたので、特にそう思えたりする。

まあそもそも哲学超古典であるプラトンの『饗宴』はエロース賛美なわけで、『国家』や『法律』とかでもセックスの問題は議論されている。

アリストテレスもニコマコス倫理学の「友愛」の議論のなかで夫婦関係について触れているし、『問題集』では医学的・自然科学的立場からセックスネタをいろいろいじくっている。この『問題集』雑談ネタとしておもしろいので読んでみるとよい。「なぜ性的行為はもっとも快いものであるか?」とかって問いに対して、「本来の目的に向かう場合道程はそれが知覚されるときにはいつも快いから、そして、生きものの生産という目的に向かっているから。生物は快楽を通して行なわれることによって生殖に向かう。」とか答えたり。「目的」の扱いがあれとはいえ、現代の進化心理学と同じ地点にいるではないですか。

他にも「若者が初めて性交を経験した場合に、行為の後で自分が交わった当の女性を嫌うのはなぜか」「なぜ毛深い男は好色なのか」「空腹時は性交が早く済む」「乗馬は性欲を亢進させる」「睫毛の下っているものは好色である」「男と女は欲情の時期が異なる」「憂鬱症の人は性欲的」(以上第4巻)「なぜ酔うと性交不能になるのか」(第3巻)なんて話が満載。

こういうのも少しずつ書いてみたいと思います。

実はこれは「セックスの西洋思想史」みたいにして(女子大の!)教養科目の授業でやっていて、授業資料みたいなのは公開してしまってたり。まああんまりやばいことは教えてないことを示しておかないと立場が危うくなるから恥ずかしいし、著作権とか問題あるんだけど公開しております。

アリストテレス先生の『ニコマコス』は岩波は避けて、高いけど朴先生訳のを読みましょう。ぜんぜん違うよ。朴先生偉大すぎる。『饗宴』はまあどれがいいか知らん。朴先生のはもちろん立派。美知太郎先生の解説本も読みましょう。中公バックスは安いのが出ていたら誰のものでも必ず買いましょう。

生命倫理学とわたし

なんちゃって。「功利主義とわたし」 の兄弟編。

前史

  • 学部~Mのころはなにも考えてなかった。アルバイトだし。卒論はキェルケゴール。修論も。
  • でも小学生のころから医学とか生物とかそっち系の科学とは好きだったねえ。学研(?)の学習マンガシリーズで『人体の不思議』とか『生命の神秘』とか買ってもらってね。小学3~4年生で子どもが『生命の神秘』読んでたら親心配したろうねえ。なんか男性が水撒きホースにぎってましたよ。どういう意味かはさっぱりわかってなかった。次の瞬間には精子が「わーっ!」って泳いでいて、受精して発生がはじまっているという・・・
  • うちのあたりでは学業優秀な子どもは山大医学部に入って医者になるとかそういう感じだったので、自分もそうなるかなとか思ってたような気がする。
  • 高校生物で発生のあたり習ってたときに、「んじゃ人間ていつから人間なんだろうね」とかそういうことを考えたり。文学とかそっちはまってたこともあって、「これは科学の問題じゃないよね」みたいな。大江健三郎先生の『個人的な体験』とかも読んでますた。
  • 高2の物理があれでね。もう赤点の連続。赤点とったのなんかはじめてだったわ(いや、1年生の数Iの最初の方でもとったかな?でもそれはすぐに挽回できた)。とにかく物理は謎。反作用てなんだ!向こうから押してるのはいったい誰だ?ハンマー投げがどっちの方向に飛ぶかわからない。あれはさぼってたのも悪かったけど教師も悪かったわ。
  • まあそんなんで完全に文系になってしまう。あ、高校の思い出じゃなかった。
  • まあとにかくD1ぐらいまでは勉強ってのは誰か偉い人の思想を勉強することだった。

大学院生~OD

  • しかしなんか世間が脳死だなんだかんだって騒いでいるので、そういうことも勉強しないとね、みたいなことに。梅原猛先生とか哲学者代表だし。
  • 研究室の偉い先輩たちが加茂直樹先生を中心に研究会とかやってて、『生命倫理の現在 (SEKAISHISO SEMINAR)*1とかすでに出してた。怖くてどういう人たちか知らなかった。まだ加藤尚武先生のことはアイデンティファイしていない。
  • 加茂先生たちのグループの名誉のために書いておくと、京都で生命倫理の研究が進んだのは加藤先生がいらっしゃる前から。加茂先生のグループと飯田・加藤先生のグループは同時期にまったく独立に活動していたはず。加藤先生の京大就任にともなってそれが融合されるというかそういうグループ分けはなくなるわけだけど。とにかく飯田亘之先生と加茂直樹先生の活動の意義は軽視されすぎ。
  • あ、医学哲学・倫理学会はもっと前から活動しているはずで、そこらへんがどうなっていたのかは私はよく知りません。すみません。偉いです。あと他にもたくさん偉い先生はいらっしゃる。星野一正先生とか木村利人先生とか・・・名前はあげきれないです。
  • 日本生命倫理学会は1988年から。医学哲学・倫理学会はもっと古くて1982年からのはず。
  • 1990年の日記(1990/4/9)にこんなこと書いてるのが「生命倫理」の最初の記述みたい。

情報整理の方法を考える時期にきていると思う。フェミニズムや生命倫理を考えるなら、情報が大事だ。新聞の切り抜きなどは馬鹿らしいが、ある程度情報を集めなくてはならない。どうするか。

  • あれ、これはM2のときだね。それにしても文章が子どもっぽい。
  • 1991年1月16日にはこんな感じ。

また読書会をしようという話がある。今度は生命倫理についてだが、何をネタにしていいのか悩むところだ。

  • 1991年(D1)の年は怖い先生(2年目)が生命倫理の授業を半年やった。『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』が教科書だったか。
  • あれ、けっこう記憶違いがあることに気づく。主に脳死のあたりやったんじゃなかったかなー。そのあとすぐ海外研修に行かれたんよね。半年研究室に教官がいないという状態になったような。
  • まあとにかく読書会なんかしたり。怖い先生はともかく、その前任の先生が非常に寛大な先生だったので、基本的に院生は放置されるのがデフォルトであるという意識。自分たちでいろいろ組織しないとならん。今思えば恐い先生にもっといろいろ教えていただけばよかったんだけど、そういうことをお願いしてはならんのだ、とか思いこんでた。
  • でもこれはもう読書会とはいえないようなお茶飲み会。科哲の大将から見るとこんな感じ。

動物倫理との出会いは、大学院生時代に同じ研究室の先輩や後輩数人とやっていた生命倫理学研究会にさかのぼる。これは雑談とも勉強会ともつかないスタイルでそれぞれのテーマについて話し合う、今から思うとずいぶん生ぬるい研究会だったが、そういうところで勉強したことがあとまで生きることになるのだから分からないものである。(伊勢田哲治、『動物からの倫理学入門』p. 355)

  • ほんとうに人生とは分からないものであるね。
  • でもそれまでの研究室の読書会ってのは、なんかすごい本(『イロニーの概念』とか)を少しずつ読む、ってのが基本スタイルだったみたいなんだけど、この読書会は1回で1本読む、とかそういう感じにしたんだったよな*2
  • 基本的には3~5人ぐらいでBioethicsっていう雑誌の論文を読みましょう、みたいな感じ。へえ、QALYとかってあるんですか、なんかあれだねーとか。なんかそういう感じ。牧歌的。でもそういう勉強スタイルもそれまでの研究室の雰囲気ではなかった。医者呼んできたりもしたり。細長い狭い狭い部屋で和気あいあい・・・でもなかったか。
  • 「千葉大の資料集」というのがあることを知る。ここらへんで加藤尚武先生の名前を知ったのかな。もちろん『バイオエシックスの基礎』の編者として知ってる。「千葉大の資料集」は関西にはあんまり流れてきてなかったず。
  • 1993年に、「千葉大の資料集」にシンガーの妊娠中絶/新生児の治療停止の紹介文を書け、という話が入ってくるのでシンガー読んでなんとか書く。苦労したしけっこう煩悶した。科哲の大将も同じ課題わりあてられたので、読書会でいろいろ意見交換したりしたはず。できたの開けてみると土屋貴志先生が同じのネタにしてスマートなの書いててあれだった。土屋先生もかっこよかったんよねえ。
  • 飯田亘之先生実物が京都に来られて、社交辞令として褒めてくれたり、いくつか助言いただいた記憶がある。でもあれはありがたかった。飯田亘之先生はいろいろ本当に偉いんだよな。どうしても太陽のような加藤先生の陰になって光が当たらないかもしれないけど、日本の生命倫理を研究者組織して本当に立ちあげたのは飯田先生。加藤先生はむしろ宣伝役というかなんというか。
  • 1994年にその加藤先生が教授として就任。
  • 私はこの年から晴れてOD。私は形としては加藤先生の弟子筋ではない*3。でもほんとうにいろいろお世話になりました。
  • 就任前には迎撃体制をとっておこう、ってんで対策読書会したような気がする。「おもしろいけどちょっと具合悪いところもあるね」みたいな感じ。しかし偉大なことはわかった。実際偉大。
  • 奨学金切れて塾講師暗黒時代突入。勉強する時間なんてない。あんまり思い出したくないのだが・・・
  • 1994年に研究室の紀要で生命倫理特集したんだっけか。まあ千葉大の資料集に載せてもらったのを焼き直す。
  • 1994年の12月(OD1年目)に加茂先生たちの生命倫理研究会で発表させてもらったようだ。選択的妊娠中絶の話をしようとしたけど、なにをどう議論していいのかわからなかった。この日はほんとうに最悪の思い出だなあ。朝、「今階段から落ちたら発表しなくてすむかなあ」とか本気で考えた*4。以降この研究会にいろいろ厄介になる。御指導ありがとうございます。
  • 1995年には加藤先生がヒトゲノムプロジェクトの倫理的問題みたいなのでお金をひっぱってくる。偉い。
  • でも時間がなくてちゃんと貢献できず。すみませんごめんなさい。なんか嚢胞性繊維症のスクリーニングみたいなので紹介文書かせてもらうが、勉強不足でだめすぎる。いまだに公開できない。ていうか自分のなかではなかったことになっている。
  • ジョナサン・グラバーの『未来世界の倫理―遺伝子工学とブレイン・コントロール』の翻訳にも参加させてもらう。おもしろい!これは今読んでもおもしろい。
  • まあとにかく人生最大の暗黒時代に襲われていて、生命倫理どころじゃなくなっている。もう自分が生存するだけで必死。
  • でも非常勤の授業では生命倫理とかの講義もたせてもらったりして、とりあえずちょっとずつ勉強はしてた。
  • 信州大学にいる立岩真也先生がなんかすごい文献データベースを作っていることに気づく*5
  • 読書会はけっこう続いたんだけど、科哲の大将が留学することになっていったん終了。あれ、某女史が留学するからだったかな。記憶があいまい。とにかく忙しくて勉強どころではない。
  • 読書会はいまオハイオにいる功利主義女子が主催して第2期に入る。医学部の建物そのものまで侵略してすごい。そのころには私は時々顔出させてもらう程度。「♪とにかく時間が~足りない」
  • いつのまにか、「倫理学本道と生命倫理学あたりの応用倫理学の二本建で業績つくっておかないと就職できないよ」みたいなのが通念になってる。それでいいのかってのはあれだよなあ。

RA/常勤職時代

  • 90年代後半には一気に生命倫理とかの本がたくさん出た。
  • 立岩先生の『私的所有論』読んでわけわからず、でもなんか圧倒される*6
  • 運よく給料をいただける身分にしていただく。感謝感謝。
  • でもネタが「情報倫理」とかだから生命倫理のことはあんまり考えてない。
  • 情報倫理は生命倫理ほどおもしろくないなー、みたいな。
  • いやもちろんおもしろいネタもいろいろあるし。
  • このころになってやっと、ちゃんと「イントロダクション」や「ハンドブック」や「リーダー」読んで、お金かけてそれなりに文献集めてから仕事をするのだ、ってことがわかってくる。遅すぎる。でもいまじゃ一般的なこのスタイルは、95年には一般的ではなかったんですよ。
  • まあでも生命倫理は流行でいろんな人がやってるから、情報倫理で一発当てる方があれかな、みたいな感じでさようなら生命倫理学。
  • でも気にはなっていた。
  • 運よく常勤職ゲット!っていうかもらった。
  • わーい。
  • 好きなことしたいなー。
  • やっぱり生命倫理気になるよなー。特に選択的妊娠中絶なー。
  • フェミニズムも気になるんだよなー。大学が大学なだけにフェミニズムもそれなりにまじめに勉強しないと。
  • 井上達夫・加藤秀一論争があったことはこのころに江原先生のやつで知る。まあよくわからん。そんなん大昔に議論されつくしたことじゃん、みたいな印象。
  • 胚の利用とかES細胞とかで世間がさわいでるよ。
  • なんか少し勉強するかねえ。
  • 脳死も勉強しないとね。とかいいつつ4、5年すぎる。
  • と、なんかとにかくトムソンの議論もパーソン論も紹介なんかおかしくね? っていうか森岡先生の『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』あたりからなんかいやな雰囲気だったんだけど。
  • 異議あり!生命・環境倫理学』とかひどいなあ・・・
  • なんか勉強しないで生命倫理について書いてる人が増えてね? 業界が大きくなって海外文献読まずに国内の文献だけで議論してる?
  • 山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』とかもなんかおかしくね?
  • 小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』。こ、これは・・・
  • まあここらへん別ブログで遊んでいたときに発見したわけだけど。
  • 2006年ごろ『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』に遺伝子治療の件とか書かせてもらって生命倫理学に復帰する準備。
  • よく見ると、『バイオエシックスの基礎』の訳はいろいろ問題ありすぎ。もちろん黎明期にはああいう形で出すのは意味があるけど、流行りで生命倫理学やってる研究者たちがちゃんともとの論文読んでないってのはこれはもう許せん。
  • というわけで学会に殴りこみに行くかなあ、とか。2007年ごろ。まず研究会で発表してまわりの人をディスり、学会でも全員ディスる発表して、その原稿を大学の紀要に載せた。今思えば学会誌に載せりゃよかったんだけど、なんか面倒だし、なるべく早く一目に触れる情報にしたかった。
  • 学会はけっこうな人数がいたんだけど、「トゥーリーの議論についてはここにいらっしゃる方々はみな御存知だと思いますが、魔法の子猫について御存知の方はいらっしゃいますか?」って聞いたときは気分よかった。「それではトムソンの最低限良識的なサマリア人はどうですか?」ははは。あれは人生で最高に痛快な一瞬の一つだったかもしれない。
  • でもそういう全力ディスり論文を書くと、「んじゃお前がやれよ」って話になるわけで、翻訳しなおさないわけにはいかんわねえ。
  • でも日本語が不自由でね・・・・天気悪いと仕事にならんし。
  • とかで今に至る。

*1:この本、まだどこかで教科書として使われてるらしい。すごい。

*2:ここで研究室の伝統というか上下の連結がが一回切れているわけだが、それについて今考えるといろんなことがあれだ。まあ苦しかったかもしれん。

*3:そして残念ながら怖い先生の弟子筋とも言いにくい。I’m a self-made man, and am proud of it、と言うべきなのかなあ。

*4:でも逃げなかった自分を褒めてあげたい。

*5:立岩先生はインターネットの威力を一番最初に使った学者の一人だと思う。

*6:ここでなんか反応するべきだったんだよな。