牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。

一番最初はどうでもいいので飛ばす。

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、女性解放を論じた現代の古典として名高い『第二の性』(1949)で「人は女に生まれない、女になるのだ」と言明し、いかにして女が「作られて」いくかを論じました。女性はリーダーシップに欠ける、権力志向が無い、だから政治家には向かない・管理職には向かない、などともっともらしく言われたりしますが、それは、幼い時から、女の子は優しく素直にと、従順でつねに他者を自分より優先するようにしつけられ内面化していくから。このことが、女性が政治家になりにくい要因の一つを作っているのは明らかでしょう。

この「内面化」仮説の真偽や、「女らしい」から政治家になりにくいのかどうかは、それほど明らかではないと思うけど、今回はいいや。

 1960年代後半から70年代にかけて花開いた女性解放運動(第二波フェミニズム運動)の女性たちは、ボーヴォワールのこの考えを、「ジェンダー」という概念で表現しました。生まれつきの性別(セックス)が女・男の「らしさ」を決めるのでなく、生れ落ちてからの社会環境と文化の中で人は、らしさを刷り込まれていく。「母性本能」ということばに典型的なように、妊娠や出産をする身体をもっていれば誰もが母になりたがり子育てが自然にできるかのような思い込みが、いかに女性を縛ってきたことか。そのウソをあばいたのがジェンダーの語でした。

「女性を縛ってきたことか」→「女性と男性を」がいいと思うけど、まあいいや。

「ジェンダー」の定義してないけど「男/女らしさ」でいいのかな?それとも「社会的性差」「格差」かな。

>

 この意味でのジェンダーは、今では日本でも一般に知られるようになりました。ジェンダーにとらわれない生き方ができる社会を作り上げていくことは、現在進行形の重要な課題であるのは言うまでもありません。
しかし、1990年代以降のポストモダンフェミニズム理論は、ジェンダーにはもっと深い意味があると大胆に発想しました。すなわち、社会的性差は作られたものであるというのはその通りだとしても、その考え方の背後には、男女の生物学的性差は「自然」なものとして存在しているという暗黙の前提があるのではないか。そこで自明とされている「自然」な性差、「セックス」とはいったい何なのか、という問いを投げかけたのです。

問いとしてはいいと思うんだけど、ここで「自然」っていうので何を言ってるかも分析してほしい。「生得的なもの」だろうか。それとも「本性」だろうか。上で「子育てが自然にできる」っていうのがあって、この「自然」はどういう意味かな。「自動的に」「教えられずに」「訓練なしに」「意識的に考えないで」とかそういうのだろうか。けっこうむずかしいね。でもこれもまあいい。

ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダーである」と言います(バトラー、1999、29頁)。肉体的・所与のものと見える性差すら、時代によってさまざまな「科学」的知識の名の下に、二分法的に男/女の記号を付されてきたものである、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであると。

ここで、っていうかここは序文みたいなところなのでうしろの方で「科学がどうのこうの」についてバトラー様が論拠にしているのはファウストスターリング先生の研究なんだけど、あれもずいぶん問題のある研究なのよね。

 これを聞くと、おそらく多くの人がそれはおかしい、と思うでしょう。女と男では体つきが明らかに違う、おっぱいや膣は女性にしかないし、ペニスがあるのは男性。ホルモン分泌も、DNAも異なる。それは、どんな文化・時代でも変わりがないはず、それなのに、セックスがジェンダーだなんて非合理もいいところだ、と。

まあヒトは性的二型がかなりはっきりしてる哺乳類だしねえ。DNA異なるというか、Y染色体以外はDNAは異ならない、っていうのもなんか不正確で、染色体が1本ちがう、ぐらい。

 でも、バトラーは、そういった身体的な差異が無い、と言っているのではないのです。人には、身体的差異はいろいろある。肌や眼の色、人種、性的指向、老若の違い、もって生まれた気質や性格、体格もさまざまです。それなのに私たちは、男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう。そうした認識のあり方が、セックスすらジェンダーであるということの意味なのです。

ここがわからん。バトラー様のあの箇所からこの解釈が本当に出てくるのかどうか。

「男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」はわかるような気はするんだけど、具体例を示してほしい。具体例がないと私わからんのですよ。たいていの学生様もわからんと思う。

ここでたとえば、「車の免許をとるときに生物学的な男女は関係ないはずなのに、公安委員会は男女で違うテストをする」とかそういうのがあるだろうか。これはありそうにない。でも、自働車教習所の教官は男女の違いを意識するかもしれんね。これは真面目な人は男女での統計的な運転の習熟の早さ遅さとか、無謀運転する傾向とか、どういうふうに教えるとわかりやすいかとか、そういうのを考えるかもしれんね。そういうことなの?

ずっと昔にも書いたけど、私は繁華街で向こうから人が歩いてくるときに男女はけっこう意識しますね。男だと危いやつの可能性がある。危険だ。もちろん危険なやつもいれば危険じゃないやつもいる。そういう統計的な危険性の配慮とかのときに、「そいつが男か女か」をつかうのは、正当化できるときもあれば、できないときもあるだろうと思う。(たとえば会社が、女性はごく統計的にではあれ、早期退社しやすいというデータをもっていても、それを就活で使うことは正当化されにくいと思う。)

まあ具体例がないとなんとでも言えるわけですわ。この具体例のなさ、なにがそれであり、なにがそれでないのかを曖昧にしたままにするっていうのがポストモダンとかのいちばん悪いところだと思う。例出してください例。例が出せない話はよくわかってないんです。学部学生様だって3回生ぐらいになると必ず適切な例だしてくれますよ。

また、「人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」っていう我々の傾向を説明するのに、なぜ「セックスはジェンダーだ」みたいなことを言わねばならないのかも私にはわからない。上で牟田先生はセックスもジェンダーもちゃんと定義してないのよね。だからなんとでも言えちゃう。もし「セックスは生物学的な性差(チンチンとか)」「ジェンダーは文化的・環境的に思いこまれてる「らしさ」を指すって定義してれば、この文章のおかしさは明白なのに、そうはしないわけですわ。こういう文章は少なくとも学生様には読ませたくない。

 実は、このように男/女を絶対的な区分として考える考え方は、近代以降もたらされたものです。なぜかといえば、近代以降、「人はみな平等」となったから。身分差が絶対のものだった前近代社会では、人の違いは、まず、身分。身分内での男女の差はそのあとから。身分が低い者、低階層の者は男でも教育機会も自由もないが、身分が高ければ、女性は教育も財産も持てる。それが、近代以降、平等の概念が登場したからこそ、女/男の区分が強調されるようになったのです。帝国主義・植民地主義の時代には、「人種」が人を分ける「自然」なカテゴリーであるとする思考が、黒人を人間以下の扱いをする奴隷制を正当化したように、男女を異なるものとしてまず発想する思考は、近代以降の女性差別を正当化してきたのです。

「人を認識するときにまずはわりと男女を意識することがありますね」って話が、「男/女を絶対的な区分として考える」にすべっていく。この「絶対的な区分と考える」の例もない。それにあてはまる例出してください、例。そして可能ならそうでない例も上げてもらえるともっとよい。

どんな「絶対的な区分」を考えてるんだろう? 男は戦争に行けて、女は家にのこってる、とか? もしこういう例をあげれば、こんな考えかたが「近代以降にもたらされた」なんて馬鹿げた話をしようとする人はいませんわね。そもそも近代っていつから近代かわからんし。ヨーロッパに限っても、16世紀なのか19世紀なのか、なにも具体性がない。学者がそれでいいんですか。

近代がいつかわからんけど、以前にだって「女性は〜できない」みたいなのたくさんあったんちゃうんかな。お寺に入れないとか。バトラー様と牟田先生は、なんか根拠もってるのだろうか。出せますか? 「男女の違いが(身分などの他の違いに比べて)相対的に重視され強調されるようになったのは近代以降である」だともうすこしもっともらしくなるかもしれんけど、それさえ立証するのはかなり難しいように思えるけど、ジェンダー社会学っていうのはそれでいいんでしょうか。歴史学者からの怒られが発生するのではないか。

たとえば、最近読んだ『聖書、コーラン、仏典:原典から宗教の本質をさぐる』ておもしろい本では、コーランには生まれた子が女児だったら殺してしまったりする習俗があることが記録されていて、コーランはそれを禁じているっていう記述がありました。こういう話を前にして、社会学者たちはどういう意味で「近代以降」に絶対的区分になったとかってことが言えるんだろう?

もう一回「自然」が出てきたけど、ここでの自然もわからんねえ。とくに「」をつけて独自の用法で使ってるって明示してるんだから、その「自然」ってなにかを説明する義務が文章を書く側にあると思う。

 このように考えると、「男女平等」という概念にも、違う意味がみえてきます。フェミニズムは、発祥以来、男女間の格差を解消し「男女平等」を実現することをめざしてたたかってきたわけですが、「男」と「女」の平等をめざす、というのは、そもそも、「男」「女」という別々のカテゴリーが存在するという前提に立ってしまっているのではないか。そのこと自体が、人間をまず性の区分で認識するという、近代以降つくられ女性差別を正当化してきた考え方そのものなのに。江原由美子が、「『男』『女』という『ジェンダー化された主体』が最初にあって、その両者の間で支配-被支配の関係がうまれるのでなく、『男』『女』としてジェンダー化されること自体が、権力を内包している」と論じている通り(『ジェンダー秩序』勁草書房 2001、25頁)、「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです。そもそも、「男」「女」は対称でもなんでもないし、「女」と、ひとくくりでくくれるような「女」はどこにも存在しないというのに。

「「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです」はわかりにくい。もちろん、グループを抑圧するためには、そのグループがどういうものかを理解しておく必要がある。そういう意味で、男女に分けることは女性を抑圧するための基本的条件。

でも、たとえば哺乳類を人間と人間以外の哺乳類に分ける、っていうことそれ自体は問題はない。問題なのは、人間と人間以外の哺乳類の間に大きな道徳的地位の差がある、と判断することにある。

政治的参加や、幸福の配慮の問題を考えるときに、男女の違いをもちだして、女性(あるいは男性)は選挙権をもつ必要がないとか、それぞれの幸福の価値に違いがある、と考えるのは不正なのはまちがいない。でもそれは人間には生物学的な男と女という典型的な性的二形がある、という事実についての知識そのものがまちがってるわけではない。

もちろん、我々の心理的な傾向として、なにかをグループに分けたら道徳的地位にも差があると考えやすい、っていうのはあるかもしれないけど、グループに分けること自体は中立であるように思う。ここはむずかしいな。

こうしてみると、あたかも、男女を対等にするというフェミニズムの原点自体が、間違っていたということになりはしないか、それではアンチフェミニストの思うつぼなのでは、と心配にもなるかもしれません。
でもだいじょうぶ、そうではないのです。

フェミニストたちは(自分がフェミニストだとは考えない女性も)、現実に存在するさまざまな女性差別に怒り抗議をするとき、いつも、「では男女の性差がなくなればいいのか」「男女がどのような扱いを受ければ平等なのか」と問い返され、答えられるはずのない「差異か平等か」の二者択一を迫られてきました。そして、女性たちの中での対立をも生んできました。まさにこれこそ、「罠」だったのではないでしょうか。この罠を見抜き、「男」「女」のジェンダーカテゴリーをひらいていくこと(脱構築)で、私たちは新たな未来を構想できる—これがポストモダンフェミニストの提言なのです。

ここで「性差」が出てくるけど、この性差はなんじゃいね。「らしさ」のこと? 上でいろいろ述べてきたことがここにどう効いてるのかわたしにはさっぱりわからんです。
「ジェンダーカテゴリーを開く」も意味わからんし、それが「セックスはジェンダー」とどう関係しているかもわからん。「ジェンダーはいろいろあります」でいいんちゃうのかな。なにを言ってるのだ。

女たちはさまざま。「女」とひとくくりされるわけにはいかない。しかし他方、現実に私たちは、「女」としてくくられて明白にも暗黙にもいろんな不利益を受けている。だから私たちは、女性差別に反対しながらも、めざすべきなのは、すべての女たち、さまざまな女たちの自由と尊厳、そして権利。それは、決して画一的なものではないし、ましてや「男」と一緒でいいなんて、そんな薄っぺらなものじゃない!

わからん。ただのアジテーション? 難しいことをいって混乱させて同意させる攻撃? 私こういうの許せないです。

「すべての男女の自由と尊厳」じゃないのかなあ。なんで「女」なの?脱構築ってどこいったんですか? まあ人がなんと言おうがみんな好きに生きたらいいと思う。そのためになんか難しいポストモダン理論は必要ない。そういうのが必要なのは特殊な人だけだとおもいますね。

上の「差異と平等」ってのは1980年代のラディカルフェミニストたち(特にマッキノン)を悩ませた問題です。男女は同じっていったら女性特有の問題(妊娠就労その他)が見えなくなるし、男女は違うって主張しちゃうと「んじゃ違ってていいじゃん」になっちゃう、という問題。マッキノンの答は、同一か差異かではない、そうではなく、男性が女性を支配していることが問題なのだ!っていさましいやつですわ。上の牟田先生の文章はバトラー様というよりはそうしたマッキノン先生の議論を連想させるけど、バトラー様にもあるのかな。

ものすごく好意的に読むと、マッキノン先生の立場の一解釈では、「女」と呼ばれるのは、必ずしも生物学的な女性ではなく、まさに「支配されている」「従属させられている」人間が「女」なのですわ。牟田先生はどうかわからないけど、このマッキノン解釈はわりと根拠があるかもしれないけど、いまは面倒だからまたあとで。それにこれはマッキノン先生の立場であってバトラー様ではない。でももしこういうことを主張したいのであれば、それはそれで明示してほしいですね。

この「ジェンダー化され従属させられている者が女である」っていう解釈だと、上の牟田先生の「女に課されている不利益に抵抗しよう」「女性差別をなくせ」っていうのが当然のように意味をもってくるんだけど、これってふつうはこうは読めないですよね。

 こんなふうに現代のフェミニズム理論は、ジェンダーをめぐる新たな地平に私たちを招待しています。なんだか刺激的じゃないですか?

わからんです。刺激的っちゃー刺激的ですが、わからなくてイライラして刺激的、ぐらい。堀あきこ先生はよくわかるわけなのだろうか。


あ、バトラー様の原文検討しないとならんかったか。またあとで。

これ読める人はすくないわよねえ。

問題の箇所の直前、culturallyが「社会的」って訳されてるね。 文化的のほうがいいだろう。バトラー様の翻訳は私は質が低いと思う。あちこちで誤訳らしきものが見つかるけど、それ指摘している人々は見たことないですね。(私がちゃんと見たのはExcitable Speechの前半だけだけど、あれはひどい)

「セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである」とかわからんけど、このif は
本当は「セックス(生物学的性差)っていうのは歴史的に不変であるってことがさまざまな研究によってくつがえされるってことになるんだったら、このセックスという人間の考えや言説によってつくりあげられた構築物は、「ジェンダー」ってのと同じくらい文化的に構築されたものってことになる」ぐらいだろうと思う。まあ「セックス」も「ジェンダー」も、どちらも我々のあたまのなかにあるっていう意味では同じです、ってことね。この意味では、他にも「地球」も「宇宙」も「ペンギン」もぜんぶ構築物なわけですわ。

ファウストスターリング先生とかの研究が正しければ、なにが男女の生物学的性差であると考えられてきたかということ自体が時代によって変化しているので、我々の「セックス(性差)」という概念は文化的構築物ですってことになります、その点では「ジェンダー」と変わりません、ぐらいね。そりゃわれわれの頭のなかにある概念とか考え方とか言葉の内容とかは時代によって変わるので、そのいみでは「セックス」も文化的な構築物だわいな。あたりまえ。チンチンがついたりなくなったりするわけではない。そしてチンチンや生殖ぐらい基本的な部分についての考え方がどれくらい変わったかな? これも例がないからどのていどまで「生物学的性差」にしているかわからんよね。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。

たとえば、最近出た藤高和輝先生の『ジュディス・バトラー:生と哲学を賭けた闘い』という本があります。藤高先生は若い人なんでしょうね。

そのなかにこんな一節がある。

「私は約束します」という発話がうまくいくかどうかは文脈によって条件づけられる。仮に、約束した当人が電車の遅延などによって集合場所に遅れた場合はその「約束」は「失敗した」ことになるが、しかしその約束を「偽」とはいえないだろう。当人にはその約束を守る意志があったかもしれないからである。つまり、「約束」という発話は「真偽」で計れば矛盾してしまう。先の例でいえば、それが約束された時点では「真」であるが、それが実現されることに失敗した瞬間から遡れば「偽」である、ということになってしまう。むしろ、この場合の「私は約束します」という発話行為は単に「失敗した」発話であるというべきなのである。 (p. 191)

これ、J. L. オースティン先生の『言語と行為』(How to do things with words)っていう重要書の一節を紹介している(らしい)のですが、ぜんぜんまちがってると思う。

今日18時に、「私は明日9時に君に京都駅で会うと約束します」と、私が誰かを前にして言えば、私はその人と明日9時に京都駅であう約束をしたことになります。今日ワールドカップを見て寝坊してしまい、明日の朝京都駅に行けないことがあれば、私は約束を破ったことになる。でもだからといって、今日18時に約束したことがオースティンの意味で不適切だったということはならない。単に「約束を守る」ことに失敗しただけであり、「約束する」ことに失敗したわけではない。「約束する」 という行為が成功しているからこそ、「約束をやぶった」ら非難されるんでしょ。どういうわけか、この箇所を藤高先生は確認していないらしい。そうした基本的な区別さえできずに、いったいどんな学問ができるというのか。

まあこっからうしろもパフォーマティヴィティとかなんだかむずかしい概念について難しいことを書いているのですが、私にはなにがなにやらさっぱりわからない。そしてそれが我々の生活とどう関係するのかもわからない。上のような誰でもふつうに考えればおかしいとわかることを書いて平気でいるのは異常だと思う。ジュディス・バトラー様やデリダ先生の権威に圧倒され、おびえているのではないでしょうか。オースティン先生を2〜4週間ぐらいかけてじっくり読むだけでいいのに。

藤高先生はおそらくLGBTとかに関心があるまじめな研究者だと思うのですが(それはよくわかる)、ポストモダンとやらに手を出してしまったせいで、誰にもわからない混沌とした議論でうめつくされた本を書いてしまっている。

同じようなことは、森山至貴先生の『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』についても同じです。この本は前半はまじめなLGBTとその解放についての歴史記述があるのに、途中からバトラー様の意味不明な議論を紹介しはじめ、最終的にわけわからないものになっている。詳しくはoptical frog先生のブログを読んでください。ここらへんから連載になっています

ポストモダンにある曖昧模糊とした不明確な概念、論理的でない思考、単なる言葉遊び、情報源をしっかりしらべようとしない態度、有名人を権威だと思いこみ、それをなんとかして解釈しなければならないと思いこむ権威主義、そういうのは学問の世界と我々の生活に大きな害悪をもたらしていると思っています。


と、授業の空き時間にカーっとなっって書いた、みたいな感じなのですが、よく考えたら別にポストモダン悪くないです。悪いのは出典をちゃんとつけなかったり、ちゃんと確認しなかったり、曖昧な言葉をつかったり、単なる言葉遊びですませたりするそういうポストモダンな人々がやる傾向だけで、思想そのものには別に文句はない。文句は、方法にあるのです。ちゃんと読んで出典ちゃんとすればいいだけの話。がんばってください。


バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

lawやpolitical structureがchoiceする、というのはよく分からない事態になってしまうと思います。むしろ(ここで出てきているindividualsとは区別されるような)これまで存続してきた社会において、そこで生活してきた人々が歴史的に集合的に選択してきた慣習、という程度の意味ではないかと思います。慣習とここで言う場合、狭い意味で風俗みたいな意味合いではなく、より広い意味で(例えばヒューム的な意味で)規範をも含意しているとも考えられます(例えば、女性は男性よりも力・能力において劣っているから低賃金で働いて当然である、というような)。その慣習(規範)というのは歴史的・文化的にcontingentで、例えば(カントのように)理性がア・プリオリに選択するというような当必然的な性格を持つものではない、ということではないでしょうか。

なるほど。これも当然かもしれませんが、最初のjuridical systemからして疑似法的な慣習とその規範も含んでいるんでしょうね。

>このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

後者だろうと思います。つまり、フェミニストが実現しようとしている(例えば男女同権的な)政治的制度であっても、それが女性という法規制の名宛人を規定し、すなわちその限りで女性を主体として規定し、その後で法が女性という主体(の意志)を表現するものとして現れてくる限り、女性(フェミニスト的主体)というものは、法によって構成された主体なのだ、ということではないかと思います。

次で出てきますが、「構成」の意味も私にはまだはっきりしてないかもしれません。

discursive constitutedについてですが、discursiveというのは、次のように理解できるんじゃないでしょうか。つまり、法を慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」が言語的に表現されたものだと理解するなら、discursiveというのは、ここでは「法のなかに慣習(規範)として言語的に表現されたところの」というような意味だと取れます。ところで、constituteには「構成する」という意味の他に、「設立する」「制定する」というような法的なコノテーションを持つ意味もあります。それゆえ、discursive constitutedというのは、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されることによって、設立された」という解釈を取れます。とすれば、”the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation. “は、「フェミニストの主体は、[フェミニストにとって][法規制による抑圧からの]解放を可能にするとされるところの政治システムによって[であっても]、[その政治システムを駆動させている法規制のなかに][慣習(規範)として]言語的に表現されることによって、設立されたものであると分かる」という風に解釈できそうです。

「法の中に慣習(規範)として」は、「慣習」よりは「規範」の方がはっきりしてる気がします。

discursive formation and effectも、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されること(*)によって[法規制の名宛人として制定され、それによって法にその意志が代表されるところの主体が]形成されること、それ(*)によって[主体が]帰結すること」というふうに取れます。

はい。

そこで、representational politicsというのは、先ほどコメントしたものよりも詳しく書けば、僕はこう理解しました。つまり、法の中に慣習(規範)が言語的に表現されることによって、なんらかのcontingentな慣習(規範)の負荷がかかった形で、法規制の名宛人として法にその意志が代表されるところの主体が形成される、そうした主体が帰結するというような事態です。おそらくここでpoliticsは、利益団体がどのように多数派を構成するかとか、政治家が権力をどのように獲得するかというのではないでしょう。あるいは言論による抗議・説得というようなものでもないでしょう。むしろ、contingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現されることによって制定される主体というものがもつcontingencyに関するものでしょう。言い換えれば、どのようにcontingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現され、そしてどのように法の名宛人としてcontingentな属性を付与された主体が制定されるのか、というプロセスを意味しているのではないかと考えます。これは少なくとも普通の意味でpoliticsなのではないでしょう。

>では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」

juridical formationは、法を形作るというより、法によって主体を形作るということを指していて、それは女性をフェミニズムの主体として表象する、ということではないのでしょうか。つまり、the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminismというのは、次の文章の”the very political system that is supposed to facilitate its emancipation”に言い換えられているものではないかと思います。また、a given version of representational politicsというのは、givenを「ある」というよりも、「所与の」「すでに与えられた」というような意味があるのではないでしょうか。つまり、これまで存続してきた社会において人々が歴史的に集団的にcontingentに選択してきた仕方におけるrepresentational politicsということが示されているのではないでしょうか。

うーん、だいたいのところはわかってきましたが、まだ自信がないですね。仮に訳してみるとこうなる。

「もしこの分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象させようとするような、言語と政治によってなされる、法による主体の形成は、それ自体が、すでに存在するバージョンの「表象の政治」の言説的な形成であり結果であるということになる。そして、フェミニストの主体は、自分たちを解放させてくれると想定されているまさにその政治システムによって設立されていることになる。」

パラフレーズしてみるとこんな感じでいいのかどうか。

「もしこのフーコーの分析が正しければ、こういうことになる。法や慣習そのものがそれ自体が反映するべき「主体」を限定するものであるため、誰の意思がどう法や慣習に反映されるかということは「表象の政治」のそのものでありまたその結果である。フェミニズムは女性を政治的な主体と認めさせようとするものであり、言葉と政治によって、女性を政治的・法的な「主体」であるように設定し、その意思を法や制度や慣習に反映させようとする運動である。しかしこうした運動自身が、実はすでに存在している「表象の政治」によって、政治的主体を言語的に設定しようとするものであり、また同時に運動自体がそうした「表象の政治」の結果でもある。そうなると、結局のところ、フェミニストの主体といったものは、自分たちを解放してくれるだろうと彼女たちが考えている、まさにその来たるべき政治システムによって設定されるということになるだろう。」

→ しかしその来たるべき政治システムが従来の通念での「女らしい女」だけをその通念にしたがった形で「解放」するとか、あるいは「男っぽい・男と同格の女」だけを解放するとかってことになるとなんか目標が自己矛盾してしまうから政治的には問題だ、と続く。

まだだめそうですね。
私はsskさんの解釈はおそらく適切だろうと思いますが、そこまで行くのはたいへんですね。しかしかなりわかってきましたし、竹村先生や望月先生の訳の問題もちょっと見えてきました。

ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える(2) コメントでやっつけていただきました

前エントリは、コメントで一気にやっつけていただきました。すごい。

以下コメントへのお返事。
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本格的な解説ありがとうございます。なるほどこういうのが知りたかったそのものです。あの時間でこれ書けるのはすごいと思います。

>近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。

「政府が被治者を代表する」という先生の前提こそ曖昧です。ここで先生は政府をどのような意味で理解されているのですか? 執行権を担う制度という意味なのか、立法権を担う制度を意味しているのか、それとも国家というような意味なのか。

私はぼんやり国家だと考えてましたが、たしかに他の可能性がありますね。

しかし、このいずれの意味であっても、代表するものが「政府」なのではない可能性もあります。つまり、被治者をrepresentするのが、端的に法だという場合です。この場合、被治者の意志が法として表れている(represent)のであり、被治者は意志を持つ存在者です。ここで意志を持つ存在者のことを、主体subjectと表現することは哲学的な用語法に適ったものではないでしょうか?

なるほど、その解釈の方がスマートですね。

さらに言えば、representは代表とも表現(表象)とも理解されるものであり、ドイツ語で言うならVertretungと区別して考えなければならない場合もあります。法が被治者の意志をrepresent(repräsentieren)するという場合、represent(repräsentieren)はvertretenではないでしょう。代理は例えば人民が選挙で選んだ代議士、というような事例にふさわしいものです。つまり、ここで「法は人民を代表する」と言っても、「法は人民を、代議士が人民を代理するように、代表する」という意味で解されてはならないでしょう。

なるほどなるほど。Vertretungは「代理」。

また、法が何らかの存在者の意志をrepresentするものである、あるいは法は何らかの存在者の意志としてrepresentされたものであるという理解はとりたてて特別なものではなく、神学上では神の意志が法として表現されていましたし、人民主権の文脈では人民=被治者の意志が法として表現されていました(あるいは人民主権を否定する論者でさえ、法は人民の意志を表現するものだという理解を示していた場合もあります)。

了解です。

そうであれば、juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to representを「法的な権力システムは主体をつくりだすが、それは法的権力システムが結果的に表すことになるところのものである」と訳すことができますし、その場合には次のような理解が可能になります。法は被治者の意志を表すというが、被治者という属性は法によって規定されない限り存在しない(この場合の法は単なるGesetzではなくVerfassungsrechtのような根本法でしょう)、従って、法はまず被治者を(意志の)主体として生み出し、その後で自らを被治者(の意志)を表すものだと規定する、ということです。では、被治者という属性が法によって規定されるという事態はどのようなことかといえば、その法の体系一般を受け入れるべき名宛人が法の規定する存在者だということになるでしょう。法の体系一般というのは、次の箇所で述べられるように、「~するな」という形でregulateする規則の集合体です。

ここまでよくわかりました。すばらしい説明だと思います。(これも読んでる人のために書くとVerfassungsrechtは憲法)

>individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。

なぜか先生は国民国家間での事象を考えておられるようですが、国民国家間で働くjuridical structure(国際法のような?)がここで議論されているのでしょうか?contingent and retractable operation of choicesというのはむしろ、慣習法のように偶然の産物が伝統化されて法として結晶するような状況が想定されているのではないでしょうか。例えば、日本の民法では女性は16歳以上、男性は18歳以上にならなければ婚姻できませんが、こうした規定は当必然的に選ばれているものではないですよね? こうした「偶然的で撤回可能な[はずの]選択の実行」の積み重なりを通して獲得される法的権力システムが、political structureと言われているように思います。

なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

>But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。

さきほど述べたように、法的構造はそれを受け入れるべき名宛人をまず規定します。それがここでthe subjects regulated by such structuresと呼ばれているものです。subjectsは法を自らの意志として表現することになる存在者、つまり意志を持った存在者であるので、その存在者は主体として理解できるでしょう。被治者・臣民・国民と訳してもいいですが、それでは意志の主体としてのコノテーションが失われるのではないでしょうか。

これもよくわかりました。

>私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。
>んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

このof language and politicsは「~による」と訳すべきではないでしょうか

そうですか。このofは私には非常に曖昧に思えます。最後に試訳つくります。

これまでの議論からすれば、法は被治者をregulateするものです。こうしたregulationは、「偶然的で撤回可能な選択の実行」を通じて獲得された政治的構造において、法を通じてなされるものです。法は言語によって表されるものでありますが、もっと詳しく言えば、法は慣習(「偶然的で撤回可能な選択の実行」)を言語的に表現したものでもあります。さらに、こうして言語的に表現された慣習を通じて政治的構造が成り立っています。したがってjudical formationは「言語と政治による」ものである、と理解することができるようになります。

なるほど、「選択」が法自身の選択であると考えれば、
最初のはjuridical formation of language and politicsが正しいですね。正しく読んでもらってすみません。

さらに、関係詞節も合わせて訳せば、「フェミニズムのthe subjectとして女性をrepresentするような、言語と政治による法的な形成」となりますが、ここでは「フェミニズム[運動]の主体」と訳して構わないのではないでしょうか。

なるほど。わかります。ただし、この場合”the subjects”と表現することはできないのですか? まあこの読みであれば、womenを集合的にとってるのだとは思います。
あとこれ今気づいたのですが、含意としては、「(たとえば19世紀から80年代までのように)女性をフェミニズム運動の主体として、法的・政治的に重視させようとするするような語り方の変更と法改革の動きは」ってことなんですね。あってますか?

言語的慣習とそれを通じて出来上がってくる政治的構造のなかに存在する個人は、法によって規制される対象・名宛人として規定され、規定されることで実際に法によって規制されます。同様に、女性を規制していた種々の法律(参政権の制限や離婚の制限、労働上の地位の制限など)は、その規制の以前に、その規制の対象である存在者を女性として表現します。フェミニズムが抑圧(規制)からの解放を謳う運動であり、女性は法の規制の対象として法的に形成される(法的な名宛人として規定される)存在者なのだとすれば、フェミニズムのthe subjectは能動的・積極的にその規制から女性を解放しようとする存在者であるでしょう。その場合、the subjectが「テーマ」として理解されるのは不適切ではないでしょうか。そして、フェミニズムにおいて女性を解放しようとするのは当の女性たちであり、女性たちが主体となって(能動的になって)自らを解放しようとする、という理解につながります。

なるほど。実はthe very political system that is supposed to facilitateのところの is supposed toがよくわからなったのですが、このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

>ところがですね。discursive formation and effectもわからん。…representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。

まず、representational politicsですが、もし(議会)代表制のような政治制度・政体を表すのであれば、representative politicsと言うのではないでしょうか。

これは私も気になりました。

むしろ、竹村訳のように表現による政治(ないしは表象による政治)の方が適格ではないでしょうか。

言論、特に表現の仕方による政治、抗議、説得etc.という意味ですか?

というのも、法は慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」を言語的に表現したものであり、それがまずは規制する対象を規定することで被治者という属性を与え、その後で自らを自らが規制するところの被治者の意志として表現するものであり、これをバトラーはpoliticsと呼んでいるようだからです。

なるほど。
では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。
「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」
ぐらいですか。これでよろしいですか?あれ、ofの意味がおかしいかな。まだわかってないようです。おねがいします。

要点をまとめれば、先生は、法が被治者の意志をrepresentするものだという法学・政治学的な通説を全く無視しており、それゆえに被治者は意志を持った主体である、というsubjectに込められた表現を見落としてしまっているのではないか、ということです。

すみません。とても勉強になりました。

私には「subjectの意味のすりかえ」が行われているようには思えません。こういった議論を、その前提に思い至らないまま「誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせます」とコメントするのは、どうなのでしょうか。

こうして説明してもらえれば、そうしたディスは必要ないかと思います。そうした表現は控えたいと思います。やっとわかってきた感じで、たいへん勉強になりました。あきれずおつきあいください。
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今回、すごくよく読めている人もいることがわかりました。読めてないのは私だけかもしれない。おそろしい。

どんだけジュディス・バトラー先生を攻撃したかのメモ

もうこのブログは終ってますが、ちょっとログの整理。

斉藤純一先生と北田暁大先生を攻撃

バトラー対ヌスバウム

江原先生を攻撃

北川東子先生と舟場保之先生を攻撃

バトラー直接攻撃、いきがかり上charis先生も攻撃*1

若林翼先生の『フェミニストの法』攻撃シリーズ

*1:charis先生とのやりとりは今読んでもおかしい。

バトラーの引用についての誤解ごめんなさい

で書いたジュディス・バトラーの文章
について、舟場先生に捕捉していただいたようだ。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~funacho/2007TB.html の6月3日づけの記事。
基本的には誤植だったらしい。私の疑問に答えてくださっている。ありがとうございます。

舟場先生の論文の出典の疑義については、私の誤解だったようだ。
舟場先生の文章の引用は正確には以下のよう。(なるべく正確に写したけど、まだまちがいがあるかもしれない。)

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだった」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。「ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではな」く、「それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、『性別化された自然』や『自然なセックス』が、文化のまえに存在する『前-言説的なもの』……として生産され、確立されていくのである。」(Butler, op. cit., pp. 10/29)

(舟場保之, 「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」, 『哲學』, 第58号, 2007, p.77-8)

この引用箇所の指示「(Butler, op. cit., pp. 10/29)」を、私は「ジェンダーは、生得のセックス~」以下から「確立されていくのである。」までだと理解していたのだが、正確には「おそらくセックスは~」から「確立されていくのである。」まで全部を示すものだったらしい。なるほど、それならわかる。正確な表記は(Butler, op. cit., pp. 10-11/29)だったということになる。

私の読みまちがえでした。訂正しておわびします(過去のも訂正しておきます)。私が他人の目のなかのオガクズばっかり気にして、自分の目のなかの丸太に気づかないのは本当に問題なので、いつもそれを忘れないようにしたいと思っているのですがなかなかうまくいきません(本当)。まあでもこうして書いておくと誰かが少しずつ丸太をけずっていってくれるような気がするので、こうして恥をかくのには価値があるような気がしております*1

ちなみに、竹村訳だと上の舟場先生の最初の引用文は「おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。」になっていてちょっと表現が違うが、「訳文は適宜変更している場合がある」と断わっているからもちろん問題ない。原文は “perhaps it was always already gender” なので、舟場先生の表現の方が正確だと思うし、この表現のくいちがいから舟場先生がきっちり原書にあたっているのがわかる。「伝言ゲーム」とか失礼なほのめかしをしてしまってたいへん申し訳ありません。

(前エントリで指摘した not ~ merely の問題は解決されていないが、まあこれはまた。)

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*1:が、そういうのを他人まかせにするのはどうなのかという問題はある。