バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

lawやpolitical structureがchoiceする、というのはよく分からない事態になってしまうと思います。むしろ(ここで出てきているindividualsとは区別されるような)これまで存続してきた社会において、そこで生活してきた人々が歴史的に集合的に選択してきた慣習、という程度の意味ではないかと思います。慣習とここで言う場合、狭い意味で風俗みたいな意味合いではなく、より広い意味で(例えばヒューム的な意味で)規範をも含意しているとも考えられます(例えば、女性は男性よりも力・能力において劣っているから低賃金で働いて当然である、というような)。その慣習(規範)というのは歴史的・文化的にcontingentで、例えば(カントのように)理性がア・プリオリに選択するというような当必然的な性格を持つものではない、ということではないでしょうか。

なるほど。これも当然かもしれませんが、最初のjuridical systemからして疑似法的な慣習とその規範も含んでいるんでしょうね。

>このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

後者だろうと思います。つまり、フェミニストが実現しようとしている(例えば男女同権的な)政治的制度であっても、それが女性という法規制の名宛人を規定し、すなわちその限りで女性を主体として規定し、その後で法が女性という主体(の意志)を表現するものとして現れてくる限り、女性(フェミニスト的主体)というものは、法によって構成された主体なのだ、ということではないかと思います。

次で出てきますが、「構成」の意味も私にはまだはっきりしてないかもしれません。

discursive constitutedについてですが、discursiveというのは、次のように理解できるんじゃないでしょうか。つまり、法を慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」が言語的に表現されたものだと理解するなら、discursiveというのは、ここでは「法のなかに慣習(規範)として言語的に表現されたところの」というような意味だと取れます。ところで、constituteには「構成する」という意味の他に、「設立する」「制定する」というような法的なコノテーションを持つ意味もあります。それゆえ、discursive constitutedというのは、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されることによって、設立された」という解釈を取れます。とすれば、”the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation. “は、「フェミニストの主体は、[フェミニストにとって][法規制による抑圧からの]解放を可能にするとされるところの政治システムによって[であっても]、[その政治システムを駆動させている法規制のなかに][慣習(規範)として]言語的に表現されることによって、設立されたものであると分かる」という風に解釈できそうです。

「法の中に慣習(規範)として」は、「慣習」よりは「規範」の方がはっきりしてる気がします。

discursive formation and effectも、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されること(*)によって[法規制の名宛人として制定され、それによって法にその意志が代表されるところの主体が]形成されること、それ(*)によって[主体が]帰結すること」というふうに取れます。

はい。

そこで、representational politicsというのは、先ほどコメントしたものよりも詳しく書けば、僕はこう理解しました。つまり、法の中に慣習(規範)が言語的に表現されることによって、なんらかのcontingentな慣習(規範)の負荷がかかった形で、法規制の名宛人として法にその意志が代表されるところの主体が形成される、そうした主体が帰結するというような事態です。おそらくここでpoliticsは、利益団体がどのように多数派を構成するかとか、政治家が権力をどのように獲得するかというのではないでしょう。あるいは言論による抗議・説得というようなものでもないでしょう。むしろ、contingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現されることによって制定される主体というものがもつcontingencyに関するものでしょう。言い換えれば、どのようにcontingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現され、そしてどのように法の名宛人としてcontingentな属性を付与された主体が制定されるのか、というプロセスを意味しているのではないかと考えます。これは少なくとも普通の意味でpoliticsなのではないでしょう。

>では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」

juridical formationは、法を形作るというより、法によって主体を形作るということを指していて、それは女性をフェミニズムの主体として表象する、ということではないのでしょうか。つまり、the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminismというのは、次の文章の”the very political system that is supposed to facilitate its emancipation”に言い換えられているものではないかと思います。また、a given version of representational politicsというのは、givenを「ある」というよりも、「所与の」「すでに与えられた」というような意味があるのではないでしょうか。つまり、これまで存続してきた社会において人々が歴史的に集団的にcontingentに選択してきた仕方におけるrepresentational politicsということが示されているのではないでしょうか。

うーん、だいたいのところはわかってきましたが、まだ自信がないですね。仮に訳してみるとこうなる。

「もしこの分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象させようとするような、言語と政治によってなされる、法による主体の形成は、それ自体が、すでに存在するバージョンの「表象の政治」の言説的な形成であり結果であるということになる。そして、フェミニストの主体は、自分たちを解放させてくれると想定されているまさにその政治システムによって設立されていることになる。」

パラフレーズしてみるとこんな感じでいいのかどうか。

「もしこのフーコーの分析が正しければ、こういうことになる。法や慣習そのものがそれ自体が反映するべき「主体」を限定するものであるため、誰の意思がどう法や慣習に反映されるかということは「表象の政治」のそのものでありまたその結果である。フェミニズムは女性を政治的な主体と認めさせようとするものであり、言葉と政治によって、女性を政治的・法的な「主体」であるように設定し、その意思を法や制度や慣習に反映させようとする運動である。しかしこうした運動自身が、実はすでに存在している「表象の政治」によって、政治的主体を言語的に設定しようとするものであり、また同時に運動自体がそうした「表象の政治」の結果でもある。そうなると、結局のところ、フェミニストの主体といったものは、自分たちを解放してくれるだろうと彼女たちが考えている、まさにその来たるべき政治システムによって設定されるということになるだろう。」

→ しかしその来たるべき政治システムが従来の通念での「女らしい女」だけをその通念にしたがった形で「解放」するとか、あるいは「男っぽい・男と同格の女」だけを解放するとかってことになるとなんか目標が自己矛盾してしまうから政治的には問題だ、と続く。

まだだめそうですね。
私はsskさんの解釈はおそらく適切だろうと思いますが、そこまで行くのはたいへんですね。しかしかなりわかってきましたし、竹村先生や望月先生の訳の問題もちょっと見えてきました。

ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える(2) コメントでやっつけていただきました

前エントリは、コメントで一気にやっつけていただきました。すごい。

以下コメントへのお返事。
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本格的な解説ありがとうございます。なるほどこういうのが知りたかったそのものです。あの時間でこれ書けるのはすごいと思います。

>近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。

「政府が被治者を代表する」という先生の前提こそ曖昧です。ここで先生は政府をどのような意味で理解されているのですか? 執行権を担う制度という意味なのか、立法権を担う制度を意味しているのか、それとも国家というような意味なのか。

私はぼんやり国家だと考えてましたが、たしかに他の可能性がありますね。

しかし、このいずれの意味であっても、代表するものが「政府」なのではない可能性もあります。つまり、被治者をrepresentするのが、端的に法だという場合です。この場合、被治者の意志が法として表れている(represent)のであり、被治者は意志を持つ存在者です。ここで意志を持つ存在者のことを、主体subjectと表現することは哲学的な用語法に適ったものではないでしょうか?

なるほど、その解釈の方がスマートですね。

さらに言えば、representは代表とも表現(表象)とも理解されるものであり、ドイツ語で言うならVertretungと区別して考えなければならない場合もあります。法が被治者の意志をrepresent(repräsentieren)するという場合、represent(repräsentieren)はvertretenではないでしょう。代理は例えば人民が選挙で選んだ代議士、というような事例にふさわしいものです。つまり、ここで「法は人民を代表する」と言っても、「法は人民を、代議士が人民を代理するように、代表する」という意味で解されてはならないでしょう。

なるほどなるほど。Vertretungは「代理」。

また、法が何らかの存在者の意志をrepresentするものである、あるいは法は何らかの存在者の意志としてrepresentされたものであるという理解はとりたてて特別なものではなく、神学上では神の意志が法として表現されていましたし、人民主権の文脈では人民=被治者の意志が法として表現されていました(あるいは人民主権を否定する論者でさえ、法は人民の意志を表現するものだという理解を示していた場合もあります)。

了解です。

そうであれば、juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to representを「法的な権力システムは主体をつくりだすが、それは法的権力システムが結果的に表すことになるところのものである」と訳すことができますし、その場合には次のような理解が可能になります。法は被治者の意志を表すというが、被治者という属性は法によって規定されない限り存在しない(この場合の法は単なるGesetzではなくVerfassungsrechtのような根本法でしょう)、従って、法はまず被治者を(意志の)主体として生み出し、その後で自らを被治者(の意志)を表すものだと規定する、ということです。では、被治者という属性が法によって規定されるという事態はどのようなことかといえば、その法の体系一般を受け入れるべき名宛人が法の規定する存在者だということになるでしょう。法の体系一般というのは、次の箇所で述べられるように、「~するな」という形でregulateする規則の集合体です。

ここまでよくわかりました。すばらしい説明だと思います。(これも読んでる人のために書くとVerfassungsrechtは憲法)

>individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。

なぜか先生は国民国家間での事象を考えておられるようですが、国民国家間で働くjuridical structure(国際法のような?)がここで議論されているのでしょうか?contingent and retractable operation of choicesというのはむしろ、慣習法のように偶然の産物が伝統化されて法として結晶するような状況が想定されているのではないでしょうか。例えば、日本の民法では女性は16歳以上、男性は18歳以上にならなければ婚姻できませんが、こうした規定は当必然的に選ばれているものではないですよね? こうした「偶然的で撤回可能な[はずの]選択の実行」の積み重なりを通して獲得される法的権力システムが、political structureと言われているように思います。

なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

>But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。

さきほど述べたように、法的構造はそれを受け入れるべき名宛人をまず規定します。それがここでthe subjects regulated by such structuresと呼ばれているものです。subjectsは法を自らの意志として表現することになる存在者、つまり意志を持った存在者であるので、その存在者は主体として理解できるでしょう。被治者・臣民・国民と訳してもいいですが、それでは意志の主体としてのコノテーションが失われるのではないでしょうか。

これもよくわかりました。

>私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。
>んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

このof language and politicsは「~による」と訳すべきではないでしょうか

そうですか。このofは私には非常に曖昧に思えます。最後に試訳つくります。

これまでの議論からすれば、法は被治者をregulateするものです。こうしたregulationは、「偶然的で撤回可能な選択の実行」を通じて獲得された政治的構造において、法を通じてなされるものです。法は言語によって表されるものでありますが、もっと詳しく言えば、法は慣習(「偶然的で撤回可能な選択の実行」)を言語的に表現したものでもあります。さらに、こうして言語的に表現された慣習を通じて政治的構造が成り立っています。したがってjudical formationは「言語と政治による」ものである、と理解することができるようになります。

なるほど、「選択」が法自身の選択であると考えれば、
最初のはjuridical formation of language and politicsが正しいですね。正しく読んでもらってすみません。

さらに、関係詞節も合わせて訳せば、「フェミニズムのthe subjectとして女性をrepresentするような、言語と政治による法的な形成」となりますが、ここでは「フェミニズム[運動]の主体」と訳して構わないのではないでしょうか。

なるほど。わかります。ただし、この場合”the subjects”と表現することはできないのですか? まあこの読みであれば、womenを集合的にとってるのだとは思います。
あとこれ今気づいたのですが、含意としては、「(たとえば19世紀から80年代までのように)女性をフェミニズム運動の主体として、法的・政治的に重視させようとするするような語り方の変更と法改革の動きは」ってことなんですね。あってますか?

言語的慣習とそれを通じて出来上がってくる政治的構造のなかに存在する個人は、法によって規制される対象・名宛人として規定され、規定されることで実際に法によって規制されます。同様に、女性を規制していた種々の法律(参政権の制限や離婚の制限、労働上の地位の制限など)は、その規制の以前に、その規制の対象である存在者を女性として表現します。フェミニズムが抑圧(規制)からの解放を謳う運動であり、女性は法の規制の対象として法的に形成される(法的な名宛人として規定される)存在者なのだとすれば、フェミニズムのthe subjectは能動的・積極的にその規制から女性を解放しようとする存在者であるでしょう。その場合、the subjectが「テーマ」として理解されるのは不適切ではないでしょうか。そして、フェミニズムにおいて女性を解放しようとするのは当の女性たちであり、女性たちが主体となって(能動的になって)自らを解放しようとする、という理解につながります。

なるほど。実はthe very political system that is supposed to facilitateのところの is supposed toがよくわからなったのですが、このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

>ところがですね。discursive formation and effectもわからん。…representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。

まず、representational politicsですが、もし(議会)代表制のような政治制度・政体を表すのであれば、representative politicsと言うのではないでしょうか。

これは私も気になりました。

むしろ、竹村訳のように表現による政治(ないしは表象による政治)の方が適格ではないでしょうか。

言論、特に表現の仕方による政治、抗議、説得etc.という意味ですか?

というのも、法は慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」を言語的に表現したものであり、それがまずは規制する対象を規定することで被治者という属性を与え、その後で自らを自らが規制するところの被治者の意志として表現するものであり、これをバトラーはpoliticsと呼んでいるようだからです。

なるほど。
では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。
「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」
ぐらいですか。これでよろしいですか?あれ、ofの意味がおかしいかな。まだわかってないようです。おねがいします。

要点をまとめれば、先生は、法が被治者の意志をrepresentするものだという法学・政治学的な通説を全く無視しており、それゆえに被治者は意志を持った主体である、というsubjectに込められた表現を見落としてしまっているのではないか、ということです。

すみません。とても勉強になりました。

私には「subjectの意味のすりかえ」が行われているようには思えません。こういった議論を、その前提に思い至らないまま「誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせます」とコメントするのは、どうなのでしょうか。

こうして説明してもらえれば、そうしたディスは必要ないかと思います。そうした表現は控えたいと思います。やっとわかってきた感じで、たいへん勉強になりました。あきれずおつきあいください。
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今回、すごくよく読めている人もいることがわかりました。読めてないのは私だけかもしれない。おそろしい。

どんだけジュディス・バトラー先生を攻撃したかのメモ

もうこのブログは終ってますが、ちょっとログの整理。

斉藤純一先生と北田暁大先生を攻撃

バトラー対ヌスバウム

江原先生を攻撃

北川東子先生と舟場保之先生を攻撃

バトラー直接攻撃、いきがかり上charis先生も攻撃*1

若林翼先生の『フェミニストの法』攻撃シリーズ

*1:charis先生とのやりとりは今読んでもおかしい。

バトラーの引用についての誤解ごめんなさい

で書いたジュディス・バトラーの文章
について、舟場先生に捕捉していただいたようだ。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~funacho/2007TB.html の6月3日づけの記事。
基本的には誤植だったらしい。私の疑問に答えてくださっている。ありがとうございます。

舟場先生の論文の出典の疑義については、私の誤解だったようだ。
舟場先生の文章の引用は正確には以下のよう。(なるべく正確に写したけど、まだまちがいがあるかもしれない。)

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差とし
てのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつ
でもすでにジェンダーだった」と言うバトラーは、「自然」としてのセックス
と「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。
「ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込ん
だものと考えるべきではな」く、「それによってセックスそのものが確立され
ていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、
ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/
文化の手段でもあり、その手段をつうじて、『性別化された自然』や『自然な
セックス』が、文化のまえに存在する『前-言説的なもの』……として生産
され、確立されていくのである。」(Butler, op. cit., pp. 10/29)
(舟場保之, 「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」, 『哲學』, 第58号, 2007, p.77-8)

この引用箇所の指示「(Butler, op. cit., pp. 10/29)」を、私は
「ジェンダーは、生得のセックス~」以下から「確立されていくのである。」
までだと理解していたのだが、正確には「おそらくセックスは~」から「確立
されていくのである。」まで全部を示すものだったらしい。なるほど、それならわかる。
正確な表記は(Butler, op. cit., pp. 10-11/29)だったということになる。
私の読みまちがえでした。訂正しておわびします(過去のも訂正しておきます)。私が他人の目
のなかのオガクズばっかり気にして、自分の目のなかの丸太に気づかないのは
本当に問題なので、いつもそれを忘れないようにしたいと思っているのですが
なかなかうまくいきません(本当)。まあでもこうして書いておくと誰かが少しずつ丸太をけずっていっ てくれるような気がするので、こうして恥をかくのには価値があるような気がしております*1

ちなみに、竹村訳だと上の舟場先生の最初の引用文は
「おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。」
になっていてちょっと表現が違うが、「訳文は適宜変更している場合がある」と断わっているから
もちろん問題ない。原文は “perhaps it was always already gender” なので、舟場先生の表現の方が正確だと思うし、この表現のくいちがいから舟場先生がきっちり原書にあたっているのがわかる。
「伝言ゲーム」とか失礼なほのめかしをしてしまってたいへん申し訳ありません。

(前エントリで指摘した not ~ merely の問題は解決されていないが、まあこれはまた。)

*1:が、そういうのを他人まかせにするのはどうなのかという問題はある。

カルト対象としてのバトラー

charisさんにつっこんでもらったので ( )、バトラーをなぜ憎んでいるのか少しずつ書いてみよう。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20050718 に関連。

バトラーのやばさをはっきり理解したのは、ちょっと前にサラ・サリー『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』を読んだときだと思う。

ジュディス・バトラー(略)はカリフォルニア大学バークレー校のマクシーン・エリオット冠教授で、修辞学・比較文学教授という地位にある。しかしこの大学でのこの公式の称号は、いくぶん「看板に偽りあり」である。というのも、バトラーには、紛れもなく修辞学、あるいは比較文学と言える著作がないからだ。・・・一九世紀ドイツの哲学者G. W. F. ヘーゲルがバトラーの仕事に与えた影響は計り知れない。というのもバトラーは、一九八〇年代に哲学を学び、彼女の最初の本はヘーゲル哲学が二〇世紀フランスの思想家たちに与えた影響を分析したものだったからである。しかしバトラーは二作目以降、精神分析、フェミニズム、ポスト構造主義など、広範囲にわたる理論を使っている。(pp. 13-14)

どうもバトラーは難しい哲学をたくさん勉強した哲学者だと強調したいようだ。

ここ数年は、バトラーの散文の文体は彼女の概念と同様に、批評家*1の関心を惹く傾向にある。おそらくバトラーの文体に文句を言うことで内容が理解できないことの代わりになっているのだろうし、内容を拒絶する安易な口実にもなっているのだろう。

(中略)

バトラーの文体が拙劣であるとか、扱う概念の説明に労を取らない傲慢な思想家と片づけてしまう代わりに、バトラーの文体そのものが、バトラーが理論と哲学で試みる介入の一部であると認識することが肝要である。(サラ・サリー『ジュディス・バトラー』, 竹村和子訳, 青土社, 2005, pp. 32-33)

これって、カルトや一部の宗教が使うのと同じ手口だよな。「わからないのはあなたの勉強が足りないからです」「非難している人は無能か怠惰なのです」「実は裏に政治的な意図があるのです。」「ジュディス様は皆さまのことを真に心配しておられるからこそ、このような態度をお取りになるのです。」

ヌスバウムなんかはこういう感じで批判している。ヌスバウムの批判については上のサリーも触れているが、主として文体の問題と解釈しているようだ。しかし以下読めばわかるように、単に文体だけの問題ではなく、「学問」としての方法の問題を指摘している。(ヌスバウムに批判のもうひとつはバトラーたちの議論の政治的含意についてなんだが、そっちには触れない)

バトラーの思想を把握するのは難しい。それがなんであるかを理解するのが難しいからである。バトラー自身は非常に頭の切れる人物である。公開討議の場では、彼女は明晰に話し、また彼女に対して何が言われているのかをすぐさま理解する。しかし、彼女の文章の書き方は、ぎこちなく曖昧である。彼女の文章は、雑多な理論的伝統からひきだされた他の理論家たちへのほのめかし(allusion, 間接的言及)に満ち満ちている。フーコーと(最近注目しているらしい)フロイトに加え、バトラーの作品はルイ・アルチュセール、フランスのレズビアン作家モニク・ウィティッグ、米国の人類学者ゲイル・ルービン、ジャック・ラカン、J. L. オースチン、米国の言語哲学者ソール・クリプキなどの思想に依拠している。控え目に言っても、これらの人物の見解がお互いに一致することはない。したがって、彼女の議論があまりにも多くの互いに矛盾する概念や学説によって支えられており、ふつうはそういった一見して明らかな矛盾がいかにして解消されるのかについてなにも説明がないのを発見して読者は途方にくれざるをえないことがバトラーを読む上でまず最初の問題だ。

さらに問題なのが、バトラーのいきあたりばったりのほのめかし方にある。上のあげた理論家たちの思想が、初心者に向けて十分に詳細に説明されることはけっしてない(もし読者がアルチュセールの「アンテルペラシオン」という概念に不案内なら、本のなかで迷子になるだろう)。また、上級者に向けて、難解な思想がどう理解されているかを説明することもない。もちろん、アカデミック文章というものは、どうしたってなんらかの仕方でほのめかしを含むことになる。アカデミックな文章はある学説や立場についてのあらかじめなんらかの知識があることを前提としている。しかし、大陸系でも英米系でも哲学の伝統では、専門家を相手に書く学者は、一般に、彼らが言及する思想家たちが理解しにくく、さまざまな解釈の対象になることを認めるものである。それゆえ、学者たちが典型的に想定するところでは、学者は対立する複数の解釈のなかでひとつのたしかな解釈を提出し、また、その人物を自分が解釈したように解釈する理由を議論せねばならず、また他の解釈より自分の解釈が優れていることを示さねばならないという責任がある。

バトラーはこのようなことをなにもしない。さまざまに相違する解釈は、単に検討されずにすまされる。フーコーやフロイトの場合のように、ほとんどの学者は受けいれないであろうかなり異論の余地のある解釈を提出している場合でさえそうである。そこで、バトラーの文章を読む読者は、そのようなほのめかしの多用は、深淵な(esoteric)学問上の立場の詳細について議論しようとする専門家が読者として仮定されているのだと思いこみ、普通の方法では説明することができないという結論に至ることになる。また、バトラーの著作が、現実の不正義ととりくもうとしている一般人に向けられたものでないことは明白である。そういう読者は、それがグループ内での知識を前提としているという雰囲気や、説明に対してさまざまな名前が果たしている高い割合から、バトラーの散文のどろどろのごたまぜスープに途方に暮れるだけだろう。(Nussbaum, Martha, The Professor of Parody: The Hip Defeatism of Judith Butler, New Republic, Vol. 22, 1999.)

同じようなカルト性は、デリダについても見られる。

Q. デリダを読むのはひどくむずかしい。どうしてもっと簡単に書かないの? 意味を伝達したくないの

A. デリダを読むのが難しいのには、三つ理由があるわ。まず最初は、彼が(大陸の)哲学者だってことね。この伝統の外ではあまり行きわたっていない対象に幅広く言及するの。彼のとりわけ不可解な言明の多くは、わかってみるとプラトンとかヘーゲルとかハイデガーに間接的に触れていて、わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ。つぎには、たいへん細かいところにこだわるということがあるわね。繰りかえしが多くて気取りすぎだと思えることがあるかもしれないけど、それは厳密さを求める欲望から来ているのよ。でもこれ意外にもね、ロゴス中心主義に対抗する議論をするという観点からは、言語が透明な窓ガラスのようなものでその向こうに完璧に理解できる観念を認知できるわけではないことを、実例でしめすことがだいじなの。(キャサリン・ベルジー『 ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 』, 岩波書店, 2003, p. 121, 。)

「わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ」が素敵すぎる。

ちなみに、どんどんずれていくけど、このベルジーさんはおもしろい人で、ラカンについても
こんなこと書いている。

・・・彼の『エクリ』は、初読では異様にとらえがたく、謎めいており、読解に難渋する。・・・これらの著述や口頭発言は、精神分析家に向けられたものだった。ラカンの考えでは、精神分析家のしごとは、この上ない注意を払って患者の発言を聞くことだった。分析家は、謎々やほのめかしや削除や省略などによって意識の検閲をくぐり抜けてくる無意識の声を聞くのである。そしてラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。

称賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテキスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。

だが、徐々に前よりはわかるようになるものだ。しかもこの苦労は報われる。ラカンは途方もなくよく本を読んでいて、きわめて知性が高かった。彼は折りに触れてたとえば絵画、建築、悲劇などにコメントしているが、ずっと重々しい学問的著作何冊かにそのコメントが匹敵することも珍しくない。(p. 95)

この確信と批判力のなさはどっから来るのか。この人の実人生だいじょうぶなんだろうかと不安になる。この岩波の「1冊でわかる」シリーズは一般に水準が高くてどれもおすすめなんだけど、なんでこんなものがはいってるんだろうか。

(続く)

*1:ついでに。この本、原文見てないけど、「批評家」と訳しているのは「批判者」の方がいいんじゃないかな。