カント先生とセックス (4) 恋人関係でもセックスしてはいけません

前エントリで「利害関心にもとづいて」と訳されているのは主に金銭的利益とかを考えてって、ことです。まあ「売買春はいかんです」というカント先生のご意見に「我が意を得たり」みたいな人は少なくないかもしれませんが、カント先生が偉いのは、売買春だけじゃなくて、お互いに性的に求めあってる関係でさえセックスはいかん、と主張するところですね。前エントリでは「金銭とかの利益のために体をまかせる」のが問題だったように見えるけど、実は「性欲のためにお互いに身をまかせる」のも同じ。カント先生は結婚してないでセックスするのを「内縁関係」と呼ぶのですが、こんな感じ。

では、自分の傾向性を第二の仕方すなわち内縁関係によって満足させることは許されないのだろうか。──この場合、それぞれの人格は相互に自分の傾向性を満足させるのであり、意図として何ら利害関係をもたず、一方の人格が他方の人格の傾向性を満足させるために奉仕しているのだろうか。──この場合はなんら目的に反するものは存しないように見える。しかし、ひとつの条件がこの場合をも許されないものにする。内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねるが、自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく場合である。しかし、自分を他の人格に対してただたんに傾向性の満足のために差し出す人は、やはり依然として自分の人格を物件として使用させている。傾向性はやはり依然としてたんに性へと向かうのであり人間らしさには向かわない。とにもかくにも、人間は、自分の一部分を他人に任せるときに、自分の全体を任せているのだということは明らかである。人間の一部分を意のままに処理することはできない。なぜなら、人間の一部分はその人間全体に属しているから。

ここはおそらくかなり解釈が必要なところなんですね。「内縁関係とは、ある人格が他の人格に傾向性を満足させるためにだけ身を委ねる〜」ってのはどういうことか。まあ結婚してない短期的〜中期的な性的なおつきあいっていうのは、まあお互いにセックスしたいからセックスする関係なわけですが、それもやっぱりお互いをお互いの性欲の対象にすることだ、と。「自分の人格に関するそれ以外の事情に関して、自分の幸福や自分の運命に気を配る自由や権利は自分自身にとっておく」。「人格」はあんまり深読みする必要はないです。単に自分。つまり、自分の幸せとか将来とかについては自分が決める。どこで就職するかとか、誰とつきあうかとかっていうのは自分で決めますよ、他の人の命令にはしたがいませんよ、っていうのを保持したままで(あたりまえですね)、相手とセックスする状態なわけです。まあふつうですよね。でもこうした態度はカント先生には問題があるらしい。

これは内縁関係と対になる結婚関係をどう考えているかを理解しないとわかりにくいですね。カント先生の考えでは、男女が結婚すると、自分の幸せとか将来について自分だけでは決められないようになるのです。キリスト教的な、結婚によって男女は「一体になる」みたいな考え方。もう身も心も性的能力もぜんぶあなたのものよ、あなたのものはぜんぶ私のもの、だからあなた自身のことでも私の許可がなければ勝手に処分できませんよ、みたいな関係が結婚関係なんですね。セックスはするけど自分のことは自分で決めます、みたいな関係は、自分と相手の性欲を満たすために下半身だけの関係をもつことで、それによって自分をモノにすることだからいかん、それは自分も相手も単なる性欲の満足のための手段とすることだ、と。セフレ禁止。

しかしカント先生、なんだって恋人・内縁・セフレ関係を「性に向かって人間性に向かうものではない」とかって考えちゃうんですかね。モテない雰囲気がただよってます。おたがい納得づくで、自分と相手を性欲を満すためのモノにし獣にする、みたいなのむしろよさそうですけどね。「んじゃ今夜も獣なっちゃう? エブリバディ獣なっちゃう?チェケラ!」「やだーもうエッチなんだから……なる……」みたいな。でもチェケラってはいかんです。

カント先生とセックス (3) 自分の体であっても勝手に使ってはいけません

まあ性欲はそういうわけでいろいろおそろしい。だいたい、いろんな犯罪とかもセックスからんでることが多いですしね。性欲は非常に強い欲望なので、道徳とバッティングすることがありえる、っていうより、他人の人間性を無視してモノに貶めるものだっていうんでは、ほとんど常に道徳とバッティングしてしまう。

例の人間性の定式「人間性を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」にてらして考えてみると、性欲とセックスは相手を自分の欲望を満たすための単なる手段にしてしまうわけで、どうすれば同時に目的として扱うことになるのか難しい。

まあふつうに考えれば、床屋さんやマッサージ屋さんと同じように、相手が自律的・自発的に望んでいることを尊重すればいいんちゃうか、と思いたいところですが、カント先生はそれじゃ満足しないみたいなんですね。ここらへんちょっと入りくんでいてわかりにくいのですが、性欲とセックスは人間をモノに貶める行為であって、他人をモノとして扱うのが許されないだけでなく、自分自身を(自発的・一時的に)モノとして提供することも不道徳で許されません、みたいな論理のようです。だから売春とかもだめ。床屋さんやマッサージ師さんとは違う。あれは技術を売っているわけだけど、売春は自分をモノにおとしめてその体を売ることだ。実は、(一時的な)恋人関係・愛人関係みたいなのでさえだめなんですわ。それはお互いを性的傾向性にもとづく愛によってモノにしてしまう関係である。

カント先生はこんなふうに書いてます。ちょっと長いけど、いつか使うために写経した。

人間は、当人も物件ではないのだから、自分自身を意のままに処理することはできない。人間は自己自身の所有物ではない。それは矛盾である。なぜなら、人間は、人格である限り、他の事物に関する所有権をもつことのできる主体だからである。さてしかし、彼に人間が自己自身の所有物であるとしたら、人間は、その当人がそれに対する所有権をもつことのできる物件であることになろう。しかし、とにもかくにも人間はいかなる所有物ももたない人格なのであり、したがって、当人がそれに関して所有権をもつことのできるような物件ではありえない。なぜなら、実際、同時に物件でも人格でもあること、換言すれば、所有者でも所有物でもあることは不可能だからである。

したがって、人間は自分を意のままに処理することはできず、人間には自分の一本の歯もその他の手足も売る資格がない。さてしかし、ある人格が自分を利害関心に基づいて他人の性的傾向性を満足させる対象として使用させる場合、すなわち、ある人格が自分を他人の欲望の対象にする場合、その人格は自分をひとつの物件として意のままに処理しているのであり、それによって自分を物件にしている。他人はその物件で自分の欲を鎮める。ローストポークで自分の空腹を満たすのと同様に。ともかく、他人の傾向性は性に向かうのであり人間性に向かうのではないので、この人格がその人間性を部分的に他人の傾向性に与えること、そして、それによって道徳的目的という点で危険を冒していること、それは明らかである。

したがって、人間は他人の性的傾向性を満足させるために、利害関心に基づいて自分を物件として他人の使用に供する資格をもたない。なぜなら、その場合、その人の人間性は、ひとつの物件として、すなわち誰彼なくその人の傾向性を満足させる道具として使用される危険を冒すからである。(『コリンズ道徳哲学』39節「身体に対する義務について──性的傾向性に関して」、御子柴訳)

我々自身は我々のものではない、っていう主張は目をひきますね。「我々は自分(特に自分の身体)を自由に処分することができるのか」ってのは生命倫理とかフェミニズムとかで非常に議論されているところですね。自殺の自由はあるか、とか。カント先生ははっきりないって言います。これはずっと一貫してる。売春の自由とかってのも認めないわけですね。ただし、「私の体は私のもの」みたいなフェミニストの標語をカント先生が認めないかどうかはわかりません。フェミニストの意味では認めるんちゃうかな。

カント先生による自殺の禁止の議論は倫理学のテストで出題されるかもしれませんね。「人間性の定式」では「あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず〜」っって言われているわけですが、この「あなた自身の」の方はわすれられやすい。他人だけじゃなく自分も単なる手段としてあつかってはいかんのです。

だいたい、自殺とかってのは苦しいことから逃がれたくて自殺したいと考えるわけですね。おそらく、死ぬことそのものを望む人はあんまりいない、っていうかおそらく現実には存在しない。「生きてんのがやになりました」とかってのは実はなんか夏休みの宿題しなきゃならないとか、そういう面倒なことが苦痛だからそれから逃げたいだけ。面倒なことがなくなれば死ぬことそのものを望んだり意志したりするっていうのは考えにくいですね。とりあえず生きてりゃ音楽聞いたり本読んだりできるし、ひょっとしたらいつかはうまいもの食ったりセックスしたりして楽しいこともあるかもしれないし。

んで、人生の苦しみから逃れるために自殺するというのは、自分自身とその生命を、苦痛を逃れるという目的のための単なる手段として扱うことになる、自分の体をたんなるモノとして処分することになる。だからだめっす、という議論です。これがうまくいってるかどうかはよくわからんですが、おもしろいこと言いますね。ちなみにカント先生はこの議論だけでなく、別のやりかたでも自殺の禁止を立証しようとしてます。

カント先生とセックス (2) 性欲は直接に他人の身体を味わおうとする欲望

カントのセックスについての話は、『人間学』、『コリンズ道徳哲学』(死後出版。カント先生の講義ノートをまとめたもの)、『美と崇高の感情性に関する考察』、『人倫の形而上学』、『人類の歴史の憶測的起源』あたりにばらまかれてます。けっこういろんなこと語ってますわ。『コリンズ道徳哲学』の有名なセックス論はこんな感じ。

……もしその人が相手を単に性的傾向性に基づいて愛しているのだとすると、これは愛ではありえず、むしろ欲である。……そのような人々が、相手を性的傾向性に基づいて愛する場合には、相手を自分の欲の対象にしているのである。さて、そうした人たちは、相手を手に入れ、自分の欲を沈めてしなったなら直ちにその相手を投げ出してしまう。それはちょうど、レモンから汁を絞ってしまえば、ひとがそれを投げ捨てるのと同様である。確かに、性的傾向性は、人間愛と結び付きううるし、人間愛のもつさまざまな意図を伴なってもいる。しかし、性的傾向性はただそれだけをとりだしてみれば、欲に他ならない。そうしてみれば、やはりそのような傾向性には人間を低劣にするものが存している。なぜなら、人間が他人の欲望の対象になるやいなや、関係を道徳的にする動機がすべて脱落してしまうからである。すなわち、人間は、他人の欲望の対象としては、他人の欲望がそれによって鎮められる物件なのであり、誰によってもそのような物件として濫用されうる物件なのである。(御子柴訳)

性的な局面では、性欲の相手は享楽の対象ってことになる。食欲が料理を味わい咀嚼しおなかに飲み込むことに向かうように、性欲というのは直接に人間の体に向って、それを触覚とか味わうことを目指す。まあ手で触ったり口で味わったり粘膜をすりつけたりね。

性的傾向性が根拠になっている場合を除いて、人間が他人の享楽の対象となるようすでに本性上決定されているなどという場合は存在しない。

これはあれですね。他人を直接に享楽の対象としようとする場合、っていうのは、日常生活ではほとんどない。たしかに犯罪とかってのは他人からお金を盗んだり殴ったりするわけですが、泥棒はお金が目標だし、殴るのは殴りたいから殴るというよりは、殴って言うことを聞かせようとか、痛めつけて恐れさせようとか、そういうのが目的であって、相手を味わおうと思ってるわけじゃない。『人倫の形而上学』では「肉欲の享楽は、原則的に、カニバリズム的である。……お互いは、お互いにとって実際に享楽されるモノである」って言ってます。まあカニバリズムとかと並べられると困ってしまうわけですが、性欲にはたしかにそういうところがあるかもしれませんね。カニバリズムに独特の恐しさがあるのは、泥棒や強盗とは違って、それが他の人間の肉体を直接に欲望しているからですね。これは恐い。解剖して楽しむために解剖されるのとかも恐い。他人をそういう目で見る人がいると考えると、すごく異常な感じがする。でもセックスの場合はそれが普通なわけです。「へへへ、いい体だ、パイオツがたまんねーぜ」みたいな。他に他人の肉体を味わうっていう時は、たしかに私にはあんまり想像つかないなあ。

マッサージや整体みたいなサービスがあるわけですが(私苦手です)、あれも体つかうから同じようなものか、っていうとそうでもない。あれは筋肉をもみほぐしてもらったりするのが目的で、相手が能動的に動作することを必要とする。マッサージ師さんの体を味わっているんではなく、もみほぐされることを楽しんでいるわけですが、性欲はそうではない。

まあ男性や女性を「食う」「食われる」「味見する」みたいな表現を使うひとがいるみたいですが、そういう表現がふさわしいこともあるかもしれない。性欲は他人の体を味わおうとする欲望なのです。セックスでは人間はいじくりまわされ使用される物体にされる。それに、相手にそうした操作や使用を許すことで、セックスにおいて人は自分自身もそういうモノにする。性欲とセックスはおたがいをモノとして扱い、それによって自分も他人も動物的存在にしてしまうおそろしい欲望であり行為である、ってな感じ。我々が性的な目で他人を見るとき、肉体として、味わうべきモノとして見ているわけです。まあたしかにそう言われるといやな感じがしますね。

私あんまり性的な目で他人から見られたことないような気がしますが(コンパとかで財布として見られたことはあるような気がする)、ナイスバディな女性とか毎日そうやって見られてるんでしょうなあ。「せまられる」「触られる」「味わわれる」「食われる」とかいつも「〜される」な感じでちょっとあれかもしれないですね。

『コリンズ道徳哲学』は下のに入ってます。これはひじょうにいろんなネタをあつかったおもしろい本なので図書館で読んでみるといいです。他に『人間学』もおもしろい。カント先生っていうとなんか猛烈に難しいことを書いた人というイメージをもっている人が多いと思いますが、あの『〜批判』とか以外はけっこうたのしめます。

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カント先生とセックス (1) いちおう「人間性の定式」の確認

哲学者・倫理学者といえばカント先生。しかしそのカント先生を専門的に勉強していた人が犯罪で逮捕されたというので話題になっているようです。まあ正直なところまったく同世代なのでいろいろ考えちゃいます。でもまあ別に倫理学勉強したから犯罪しなくなるってわけじゃないですからね。物理学勉強したってビルから飛んだら落ちるし、医学や生物学勉強したって100年ぐらい生きたら死んでしまう。私には因果関係とかよくわからんですし、限られた報道からは容疑者の人がどういうことを考えていたのかは想像もつかない。

しかしまあカント先生は本当に影響力のある先生で、道徳の一番基本的な形は「あなたは、あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず、常に同時に目的として扱いなさい」っていうものだっていうのは(もうちょっと別の訳の仕方もありますが)、倫理学者の言葉で一番有名な文句になってます。「定言命法の人間性の定式」とか呼ばれてる。おそらく一番有名なんじゃないですかね。これより有名なのはイエス様の「あなたがしてほしいように他の人にしなさい」とか孔子様の「汝の欲せざることを人に為すことなかれ」ぐらいになっちゃって預言者聖人はては神様の領域になってしまう。

しかしこの「単なる手段としてではなく〜」ってやつはけっこう解釈が難しくて、これがどういう意味かってことと、カント先生はなぜそうしなきゃならないって考えたのか、ってことをすっきり説明できれば哲学の修士論文としては十分すぎるくらいになってしまう。博士論文でもいけるだろう。実はわたしはうまく説明できません。

でもまあぱっと見たらわかることもある。とりあえず人を手段・道具として使ったらいかんのだな、と。性犯罪とかってのは(上の犯罪は誘拐や監禁でしょうから性犯罪なのかどうかよくわかりませんが)、他人を自分の性的な目的、性的な快楽のための単なる道具とすることだ。もう相手の気持ちとかどうでもいいから、あれをあれしてあれしてしまいたい、とそういうことでしょうからね。性犯罪だけじゃなく、多くの不道徳な行動ってのがけっきょくは他人をなんらかの利己的な目的のための道具とすることなのだ、というのはまあわかる気がします。

「常に同時に目的として」の方はちょっとわかりにくい。授業していても一番難しいのはここですね。私はまあ標準的な解釈として、「その人の自由、自律、自己決定を尊重するということなのだ」ぐらいでお茶を濁しています。実はそんなうまくいかないんですが。他人を道具として使わないってことは、自分の目的の手段として使わないということで、その人の自由な意思を尊重することだ、ぐらいに読むんですね。私らは社会のなかでいろいろ他人を手段として使わないと生きていけない。床屋さんにいったら床屋さんを自分の髪の毛を短くするという目的のための手段として使うことになる。でも床屋さんは自由意思で床屋さんになることを選び、そういうサービスを提供することで私から4000円もらいたいと思っていて、サービスを提供してくれる。床屋さんのそういう意思を尊重して髪切ってもらって4000円払うことによって、私は床屋さんを単なる手段としてではなく同時に目的として扱うことになるのです、ぐらい。

まあそんで、この「人間性の定式」っていうのは非常に影響力があって、それ以降のふつうの人びとの道徳的な思考に巨大な影響を与えてるんじゃないかと思いますね。「人を道具として扱うな!」ってのはまさにフランス革命から19世紀〜20世紀にかけての奴隷解放とか女性解放とかそういうのの原動力になっている信念です。カント先生のころはまだ身分とか奴隷とかあった時代ですからね。

セックスの哲学にもこの「道具として扱うな!」てのはすごい大きな影響を与えてます。たとえば、痴漢強姦はもちろん、売春とかってのが批判されるのは、お金で女性を性的快楽のための道具とするからだ、っていう考え方ですね。あるいは専業主婦とかってのも家事とセックスのための道具として妻を見ているのだ、とか。グラビアアイドルも女性をモノとして見ていて許せん、ミスコンも女を商品として扱ってる!現代的な感じではこれは「モノ化」「物象化」objectificationの問題と呼ばれていてすごくおもしろいネタです。

カント先生のセックス哲学がおもしろいのは、強姦とか誘拐監禁だけじゃなくて、実は結婚してない人びとがするセックスはぜんぶだめ、それにマスターベーションとかも許せん、って主張していることなんですが、今日はこれくらいで。続きます。

「モノ化」については昔1本論文書いて、最初の方でカント先生の文章紹介しているので、だめな論文ですがよかったら読んでみてください。ここらへんからセックスの哲学・倫理学やりたいと思ってたんですが、なかなかうまいこといかないんですよね。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/380/1/0130_009_008.pdf

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アリストテレス先生とともに「有益なおつきあい」について考えよう

まあ「有益な関係」みたいなのっていうのはどうなんですかね。世代的なものかもしれませんが、私なんかだと、そういう損得感情が入っているのは恋愛ではないのではないか、みたいなことをすぐに考えてしまうわけですが、女子はわりとプラグマチックに男性をスペックで見たり、その金とか学歴とか地位とかで見ることもそんな珍しくない感じで、そういう話を聞いてるととまどってしまうことがあります。

しかしプラトン先生自身が恋愛についてなにをいっているのか、というのはすごくわかりにくいんですわ。基本的にプラトン先生は熱情的な人で、こう理屈通ってないこともがんばっちゃうタイプの人で、私自身は苦手です。好きなのはアリストテレス先生。こっちは大人で落ちついている。

ザ・哲学者
ザ・哲学者

アリストテレス先生の恋愛や友情なんかについての考え方は『ニコマコス倫理学』で展開されてます。すごく有名な議論です。

まず「愛する友なしには、たとえ他の善きものをすべてもっていたとしても、だれも生きてゆきたいとは思わないだろう」(1155a)ってことです。この「友」が同性なのか異性なのかていうのはあんまり意識されてないっぽい。いちおう同性を中心に考えますが、異性との話も含まれていると読んでかまわないはずです。お金もってて仕事できても、友達がいないと生きていく甲斐がないです。ここでいう友達っていうのはたんにいっしょにいるんじゃなくて、もっと深い結びつきをもって、お互いが幸せに生きることを願いあうような、そういう関係。

単に趣味をもってるとか、車が好きだ、とかっていってそれが友達のかわりになるわけではないですね。

「魂のない無生物を愛することについては、通常、友愛という言葉は語られない。なぜなら、無生物には愛し返すということがないからであり、またわれわれが、無生物の善を願うということもありえないからである。」

恋愛とか友情とかってものは、一方通行じゃない。少なくとも私らが求めるのは、相手からも同じように好かれたいってことで、これが友情や恋愛のポイントです。片思いしている人も相手に好きになってほしいわけで、「電柱の陰から見つめているだけで十分」っていうのは相手にしてもらえないからそれで我慢しなきゃってだけですよね。

「だが友に対しては、友のための善を願わなければならないと言われているのである。・・・しかし、このような仕方で善を願う人たちは、相手からも同じ願望が生じない場合には、相手にただ「好意を抱いている」と言われるだけである。なぜなら、友愛とは、「応報」が行なわれる場合の「好意」だと考えられているからである」

この「好意」がまあ片思いとかでしょうな。「彼は私の友達です」「あの子は僕の彼女だよ」ってときはやっぱり相手にとって自分が特別なことが含意されてます。

ところで、「劣ったものや悪しきものを愛することはできない。愛されるものには(1)善きもの、(2)快いもの、(3)有用なもの、の三つがある。(1155b)」っていうことです。よく「ダメンズウォーカー」とかっていて「ダメな男」にはまる人がいるようですが、隅から隅じまったくだめな人ってのを好きになることは不可能だとアリストテレス先生は考えるわけです。まあ「だめ夫」っていったってどっかいいところはあるわけですからね。金もなければ仕事もできないけど、セックスはうまいとかちゃんと話聞いてくれるとか笑顔だけはいいとか。愛というのはそういう長所を愛することなわけです。

「快いもの」っていうのは楽しいもの、いっしょにいいていい感じを与えてくれるものですね。美人やイケメンとはいっしょにいるだけで楽しいということはよく聞きます。以前、ある女子大生様が「やっぱりイケメンといっしょの方がご飯食べてておいしいじゃないですか!」と発言するのを聞いて衝撃を受けたことがあります。たしかにそういうことはありそうだ。すごい実感がこもっていて感心しました。これはおそらく、イケメンがご飯をおいしくするわけじゃないけど、イケメンといっしょにいることによってひきおこされる快適な気分がご飯をおいしくしてくれるのですね。

「有用なもの」っていうのは、それ自体が快楽をもたらすものじゃなく、快楽のために役に立つものですね。お金もっているということはイケメンとちがってそれ自体では快楽をもらたらさないとしても、いろんな楽しい活動をするのに役にたつ。お金いいですね。私も欲しいです。

他にも前のエントリであげたプラトン先生の議論に出てきたような有用さっていうのはいろいろあるでしょうな。古代アテネのパイデラステアでは、年長のオヤジは少年にいろんなものを提供してくれることになっていた。まずもちろんお金。社会的に成功するには教育とか必要なわけですが、そういうののお金のかかりを面倒見たり。服とかも買ってあげたかもしれんですね。それ以上に重要だったと思われるのが、さまざまな知識の伝授ですわね。本の読み方とか演説の仕方も教えてもらってたかもしれない。学生様だったら年上の彼氏からレポート書いてもらったりしたことある人もけっこういるんじゃないですかね。仕事上のアドバイスを受けることもあるだろう。それに人脈。これも古代アテネでは重要だったようで、「有力者の愛人」とかってのはそれなりにステータスで、いろんなところに出入りするチャンスを得たりすることができたんじゃないでしょうか。やっぱり有力な人と親密なおつきあいするのはとても役に立ちます。

説明が最後になった「善きもの」っていうのが一番どう解釈するのかがむずかしくて、まあ美徳(アレテー)をもっている、ってことですわね。アリストテレス的な枠組みでは、たとえば「勇敢」「知的」「正義」みたいな長所が美徳と呼ばれていて、そういう長所のために人を好きになる。私はここでなんで「イケメン」や「話がおもしろい」が長所に入らないのだろうかと考えてしまうのですが、まあそういうんじゃなくて人格的な美徳を考えてるようですなあ。

アリストテレス先生は最後の美徳にもとづいたお互いが美徳を伸ばしあうことを願う似たもの同士の友愛が一番完全な友愛だと言います。たとえば知性という美徳をお互いに認めあった人びとが、お互いの知性が成長することを願いあう関係とかですかね。まあ今例として「知性」とかをつかったのであれに見えますが、たとえば「サッカーの技能」「忍者としての技能」みたいなものにおきかえることができれば、一部の人びとが大好きなボーイズラブの構図そのものですね。「お前、やるな!」「お前こそ俺のライバルたるにふさわしい!ライバルであり終生の友だ!」みたいに読めばどうでしょうか。このときに攻めとか受けとかあるのかよくわかりません。

まあそういうのが最高の友愛ですが、アリストテレス先生は有用性にもとづく関係とかだめな関係だ、とまでは思ってないみたい。多くの関係がおたがいの快楽をもとめる関係だったり、有用性をもとめる関係だったり、あるいは一方は快楽を提供し、一方は有用性を提供する、みたいな関係ってのもあるかもしれない。最後のは前のエントリで触れた典型的パイデラステアの関係ですわね。年長者は有用さを提供し、年少者は若さと美と快楽を提供する、というそういう関係。先生はどうも人びと自身の優秀さとか階層とかによって相手とどういう関係を結ぶかが違ってくる、みたいなことを言いたいみたいで、快楽や有益さをもとめた関係とかがすごく劣ったもので軽蔑すべきものだ、みたいなことは言おうとはしてない感じです。すぐれた人びとはもっとよい関係を結ぶものだ、程度。

でもそういう関係ははかない。お金や地位を失なってしまえば有用さを提供することはできなくなるし、若さと美なんてのはもうあっというまに色あせるものですからね。どんなイケメン美人でも10年ピークを維持することは難しいでしょうな。まあそういう持続性の点でも「似たもの同士の美徳のための友愛」が一番だそうです。

『ニコマコス倫理学』は朴先生の訳で読みたいです。岩波文庫のは古い。でもさすがに5000円は出しにくいですよね。光文社でなんとかしてもらえないだろうか。

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もっとも、実際にアリストテレスとかの専門家筋には岩波も悪くないという評判みたいです。

プラトン先生の『パイドロス』からオヤジらしい口説き方を学ぼう

最近「倍以上男子」という言葉を流行らせようとしている雰囲気があるようですね 1)2017年だと「パパ活」か。 。私はこういうのはなんかバブル時期のことを思いだしてあれなんですが、まあそういうのもあるでしょうなあ。 http://howcollect.jp/article/7240 まあ流行らないと思いますが、こういう記事を書いている人がなにかソースをもっているってことは十分にありそうだとは思います。

しかしまあこういうので言われている女子とか年少者にとって有利な恋愛の形というのは当然昔からあって、あの偉大なるプラトン先生も検討しておられます。プラトン先生は恋愛とセックスの哲学の元祖でもあるのです。おそらくソクラテス先生もね。

プラトン先生が考えている恋愛っていうのは、『饗宴』でもそうですが、男同士、年長の男(30代とか 2)40才ぐらいになったらそろそろ少年愛やめて結婚して子供つくるのが正しいと考えられてたようです。 )と年少(10代)とかの関係ですわね。少年愛。パイデラステア。どうも当時のアテネの一部の階層ではそういうのが一般的だったんですね。美少年が勢いのある中年に性的な奉仕をして、中年男の方は金銭面とか人脈とか各種の知識や技術を教えたりする関係。まさに倍以上男子です。

プラトンが恋愛について書いたものというと、例の「人間はもともと2人で一つの球体だった、それがゼウスに怒られて二つに分けられちゃった、それ以来人間は自分の半身を求めて恋をするのだ」というアリストファネスの演説が入っている『饗宴』が有名ですが、『パイドロス』も同じくらいおもしろくて重要な本ですわね。その最初に、「君は自分に恋していない人とつきあうべきだ」っていうリュシアスという人の演説が紹介されているのです。話はそこから始まる。

まず、「ぼくに関する事柄については、君は承知しているし、また、このことが実現したならば、それはぼくたちの身のためになることだという、ぼくの考えも君に話した」って感じで話をはじめます。まあ自己紹介みたいなのして、自分がどれくらいお金もってるかとか、どれくらい地位が高いかとか仕事ができるかとかまずは説明するわけですね。んで「このこと」っていうのはまあお付き合いですわ。それは両方のためになるよ、ともちかかけるわけです。

口説きは、「ぼくは君を恋している者ではないが、しかし、ぼくの願いがそのためにしりぞけられるということはあってはならぬとぼくは思う」と意外な展開を見せます。君のことを愛しているわけじゃないけどお付き合いしよう、まあセクロスセクロス。

若い人は、自分を愛している人より愛してない人とつきあうべきなのです。なぜか。リュシアス先生は理路整然と説明します。おたがいそうする理由がたくさんある。

(1) 恋愛というのはアツくなっているときはいいけど、それが冷めると親切にしたことを後悔したり腹たてたりする。恋人がストーカーになっちゃった、とかっていうのは今でもよく聞きますよね。でも恋してない人はそういう欲望によって動かされれてるわけじゃなくて冷静な判断から相手に得なことをするから後悔したりあとでトラブルになったりしない。

(2) 恋しているからおつきあいをする、っていうことだったら、新しい恋人候補があらわれたらさっさとそっちに行ってします。「誰より君を大事にするよ」とかいってたって、他に新しい恋人ができたらそっちの恋人を「誰より大事」にするだろうから、古い恋人はひどいめにあうってこともしょっちゅうだ。実際「恋」とかってのは熱病みたいなもので自分ではコントロールすることができないものなのだから、そんなものに人生かけるのは危険だ。

(3)  おつきあいをする相手を自分に恋している人から選ぼうとすると数が少ない。ふつうの人はそんな何十人も候補があるわけじゃないっすからね。でも冷静におつきあいを望んでいるオヤジは多い。よりどりみどりになる。

(4) 恋している男というのは、有頂天になって自慢話におつきあいのことをペラペラと周りにしゃべるものだが、冷静な愛人はそういうことはちゃんと秘密にしてくれる。

(5) 恋している男は嫉妬ぶかい。今どこにいるだの誰とメールしているかとかいちいち詮索してうざい。

(6) 別れるときも恋している男はいろいろうざい。恋してない奴はさっさと納得して別れてくれる。

(7) 恋している男は、相手がどういう人かを知るまえにセックスしようとするが、恋をしてない理性的な人はちゃんと相手を見てからおつきあいする。

(8) 恋をしている人は相手の機嫌をそこねないようにってことばっかり考えて、本当にタメになることは教えてくれない。それに対して恋してない奴はいろいろ有益なアドバイスをくれる。今の快楽だけでなく、長い目で見たら将来のためにこうするべきだ、みたいなことを教えてくれるだろう。

とかまあ面倒になったからやめるけど、こういう感じ。これは今でもオヤジの口説きに使えそうな部分もあるわけですな。まあいつの時代も人は同じようなことを考えるものです。このリュシアスさんの演説に対して、ソクラテス先生が「おれはもっとうまい話ができるぞ」とか言いつついろいろ検討くわえて「恋愛やおつきあいというものはそういうものではないぞ、もっとええもんなんや」とやっつけていきつつ、その実、実は美少年パイドロス君をナンパしてたらしこんでいく、というのが筋です。そういうのが好きな人は読んでみてください。名作です。

『パイドロス』は岩波文庫のでいいと思います。『饗宴』はいろいろあるけど、光文社の新しいやつ読みやすかった。『パイドロス』訳している藤沢先生は授業受けたことありますが、モテそうな先生でした。

→ プラトン先生の『パイドロス』でのよいエロスと悪いエロス、または見ていたい女の子と彼女にしたい女の子に続く。

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アテネとかの同性愛がどういう感じだったかというのは、まあまずはドーヴァー先生の本を読みましょう。まちがってもいきなりフーコー先生の『性の歴史』とか読んじゃだめです。

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ハルプリン先生のはゲイ・スタディーズとかの成果をふまえたものでもっとドーヴァー先生のより現代的なものだけど、ちょっと難しいし評価もそれほど定まってない。

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アテネで女性がどういう暮しをしていたかっていうのは、これかな。

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References[ + ]

1. 2017年だと「パパ活」か。
2. 40才ぐらいになったらそろそろ少年愛やめて結婚して子供つくるのが正しいと考えられてたようです。

アンソロジーの計画をしてみたり

英米系セックス哲学アンソロジーを組んでみたいと思ったり。まあ私自身がアンソロジー好きなんよね。翻訳して出版したい。

たとえば売買春だとどうなるかな。

  • Jaggar, “Prostitution”
  • Ericsson, “Charges against Prostitution”
  • Pateman “Defending Prostitution”
  • Shrage, “Should Feminists Oppose Prostitution?”
  • Green, “Prostition, Exploitation, and Taboo”
  • Nussbaum, “Whether from Reason or Prejudice?”
  • Primoratz, “What’s Wrong with Prostituion?”
  • Schwarzenbach, “Contractarians and Feminist Debate Prostituion”

うーん、これでは多いね。ここでセンスが問われることになるわけだ。ShrageとPrimoratzとNussbaumでいいかなあ。大物度でいけばPateman入れたい気がする。

まあ
  • 概念的問題
  • 同性愛とか「倒錯」とかクィアとかまわり
  • 結婚、不倫、浮気、カジュアルセックス
  • 売買春
  • ポルノ
  • モノ化、性的使用
って感じになるだろうなあ。3〜4本ぐらいずつと考えるとこれでも20本越えてしまう。同性愛関係は需要からも政治的にも入れないわけにはいかないだろうなあ。あえてポルノは外すかな。

歴史的哲学者たちのセックス論のアンソロジーも出したいんよね。こっちも実は準備はしている。

そういや出版予定の(?)ソーブル先生の翻訳はどうなったんだろう?

セックス哲学アンソロジー The Philosophy of Sexの第6版が出たよ

Alan Sobleが編集していたアンソロジー The Philosophy of Sexの第6版が出てました。

中身がずいぶん変わって、1.(セックス概念の)分析と倒錯、2.クィア問題、3.(性的)モノ化と同意の理論的問題、4.モノ化と同意の具体的問題、という構成になってます。ずいぶん大きな変更です。

The Philosophy of Sex: Comtemporary Readings
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ソーブル先生はあんまりLGBTとか詳しくなくて第5版までの扱いは小さかったのですが、今度のは大々的。Raja Halwani先生がトップ編集者になってます。「今回は、比較的安全なセックスそのものの領域を離れて、ジェンダーの問題につっこんでみた。実は5年前(第5版で)はそうする気にはなれなかったのだが、それは編者のニコラス・パワーとアラン・ソーブルがあんまりクィアの問題扱う気になれなかったからだ。というのも、あんまりアカデミック哲学的にたいしたことないように思えたからだ。でもそれから学界も発展してより論文も出たから、今回はハルワニも加えて充実したよ」みたいなことを序文に書いてます。みんな買って読みましょう。

実はアンソロジーにどういう論文が収録されているかリスト作ろうとしたんだけど挫折。もうばらばらで「これは絶対」みたいなのはまだ存在してない感じ。

https://docs.google.com/spreadsheet/ccc?key=0Al25GTQ1cYTtdFlHNWRtTklaaDFYX3lINmJadm5BYWc

こうして見ると論文の栄枯盛衰みたいなんも感じる。ネーゲル先生強い。

生命倫理のアンソロジーなんかだともっとはっきり「これが大事」みたいなんが決まってる気がするけど、セックス哲学ではそういうのはまだまだ。それに生命倫理なんかだとハンドブックみたいな形でとりあえず定説と基本的批判みたいなんを提示することができるけど、セックス哲学はそういうのもあんまりない。どういう問題を中心的だとみなすか、どう編集するかってのも試行錯誤中。まだ未開拓の領域ですわね。

セックス哲学史:サッポー先生に恋を学ぼう

古代ギリシアの恋愛詩というと女流詩人のサッポー先生が有名です。レスボス島に住んでて女性どうしてあれしていたのでレズビアンの言葉のもとになったとか。名前は聞くわりには作品を読むことめったにないですよね。断片しか残ってないからのようです。

下のは一番有名な断片31と呼ばれているやつ。呉先生が典雅に訳しちゃっててふつうの人は読めないので、もっと簡単な訳の方とそのうち入れかえます。

この詩がなんで有名なのか、ってのはセックス哲学史的にけっこうおもしろい課題です。まあギリシア語ですごく響きがよいんでしょうが、それはギリシア語知らない私にはわかない。そもそも私文学も文学史もよく知らんからたいしたことを語れるわけでなはない。でもこの前読んでみて思ったことを少しだけメモ。

男女が語らっていて、それを遠巻きに見ている女性がいて、その女性はさわやかに笑っている女性の方に目を惹かれ、男に対して嫉妬を感じている、っていう状況なんでしょうね。どうしてもレズビアンとしての側面に目が行ってしまいますが、私が注目したいのは、身体的な感覚の描写なんですわ。この詩は「草よりも蒼ざめて」って表現で有名なんよね。他にも胸はドキドキ、体の皮膚は真っ赤、へんな汗出てるし、みたいな。私はあの人に恋をしているのだわ、今気づいたわ!なんてこと!みたいな。こういう表現が新しかったんじゃないですかね。実際、そうした生理的な反応を感じるのが一番「恋」ってのと近いんじゃないかと思ったり思わなかったり。そういうのがなんにもないのはなんか恋じゃない感じするっしょ? たんなるほんわか「この人といると楽〜、ご飯も作ってくれるし」なんてのが「恋」と呼べるものなのかどうか。やっぱり身体的になにかを感じないと恋ではないのではないか。まあ私はよく知らんですが。嫉妬という感情によって恋を自覚するでってのもおもしろいですよね。

いまじゃどんなマンガだって「ドキ!」「胸キュン!」とか表現されるわけだけど、そういうのっていうのは実はすごく子どものころは気づかない。「ドキドキした?」って聞かれてはじめて、「あ、私ドキドキしてる」とか自覚するもんでね。まあドキドキより下半身への刺激を先に感じる人もいるかもしれんですがね。『なにわ友あれ』って名作ヤンキーマンガで主人公の友人が、「XXがXXしてるのを見たら、それまでXXだったXXがXXしたんやー!」とかやってて、恋にはそういう側面がある。まあヤンキーはヤンキーなりに純情だ。

よく知らないんですが、おそらくホメロスとか読んでても、こういう表現は出てこないんですよ。アキレウスは軍神アレースのごとくうんにゃら、とか三人称の観点から外面的な行動だけが描写されるんよね。でもこの詩では、一人称の人が自分の身体内部の感覚を語っている。この時点で人類は自己意識みたいなのを手に入れたんですね。

実はこの人類はごく最近(ここ2、3000年)になって自己意識を手に入れたのだ、みたいな話はけっこうおもしろいんですよ。ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』てのがトンデモも入っているけどけっこうおもしろい。

万葉集なんか見ても「君が好きさ」「いっしょに寝たい」「一人で寂しい」とか多いけど、こういうタイプのはあんまりなくて、今古〜新今古ぐらいになってでてくるんじゃないっすかね。知らんけど。

サッポー先生は伝統的にバイセクってことになってるらしく、この絵では若い歌手をうっとり見てます。盛んな人だ。もう少し詳しい解説は画像をクリック。

  その方は、神々たちにも異らぬ者とも
見える、
その男の方が、あらうことか、
あなたの正面に
座を占めて、近々と
あなたが爽かに物をいふのに
聴き入っておいでの様は、
また、あなたの惚れ惚れとする笑ひぶりにも。
それはいかさま
私へとなら 胸の内にある心臓を
宙にも飛ばしてしまはうものを。
まったくあなたを寸時(ちょっと)の間でも
見ようものなら、忽ち
声もはや 出やうもなくなり、
唖のやうに舌は萎えしびれる間もなく、
小さな
火焔(ほむら)が膚(はだえ)のうえを
ちろちろと爬(は)つていくやう、
眼はあつても 何一つ見えず、
耳はといへば
ぶんぶんと鳴りとどろき
冷たい汗が手肢(てあし)にびつしより、
全身にはまた
震へがとりつき、
草よりもなほ色蒼ざめた
様子こそ、死に果てた人と
ほとんど違はぬ
ありさまなのを。…………
(呉茂一訳『ギリシア・ローマ抒情詩選』岩波文庫)

サッポー先生の詩はこれに入ってます。

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解説はこれがものすごい名著。どうもサッポー先生は女子向け音楽学校みたいなのの先生だったのではないか、とかって話。宝塚っすね。

サッフォー 詩と生涯

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セックスの哲学史: エピクロス先生に我慢を学ぼう

エピクロス先生は古代ギリシアの哲学者で、ソクラテス先生より一、二世代下ですかね。

エピクロス先生
私のヒーローの一人

いっぱんにエピクロス派っていうと「快楽主義」ってことになってて、英語でエピキュリアン(エピクロス派)って言うとおいしいもの食べたりぜいたくな風呂に入ったりそういうのを連想することになってますが、快楽の追求よりは苦痛の回避をまず考えた、ってのが正しい理解ってことになってます。快楽を追求するのは難しいけど、苦痛を避けるのはちょっと工夫するだけで簡単だよ、ってな感じですね。なんか消極的であれなんですが、私は魅力を感じてます。

先生自身は本とか書かなかったわけですが、しゃべったことと手紙の断片みたいなものが残っていて、岩波文庫にはいってますから買いましょう。

飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これが肉体の要求である。これらを所有したいと望んで所有するに至れば、その人は、幸福にかけては、ゼウスとさえ競いうるであろう。

なんて言葉が残ってます。われわれの関心としては、セックスへの欲望とかってのもなかなか強烈なんだけどそれどうすんのよ、って感じですよね。

いっさいの善の始めであり根であるのは、胃袋の快である。 知的な善も趣味的な善も、これに帰せられる。

これ「胃袋」ってなってるけど、英訳とか見るとbellyだったりして、訳によっては「腹」とか「下腹部」とか訳されることもあるみたい。下腹部といえばあっちの法の快楽も気になりますわねえ。

エピキュリアン、快楽主義てことになればセックス大好きであざといこともするのかと思いきや、エピクロス先生は基本的にはあんまりセックスをおすすめしない。それはセックスそのものが悪いことだからじゃなくて、セックスするために告白したりお金つかったりいろんな面倒なことをしなきゃならないからね。

(おそらく)「セックスしたくてしょうがないんですがどうしたらいいんでしょうか先生」とかたずねられて、上野千鶴子先生は「熟女にお願いしろ」って答えたようですが、エピクロス先生はこう答えています。

肉体の衝動がますます募って性愛の交わりを求めている、と君は語る。ところで、もし君が、法律を破りもせず、良風を乱しもせず、隣人のだれかを悩ましもせず、また、君の肉体を損ねもせず、生活に必要なものを浪費しもしないのならば、欲するがままに、君自身の選択に身を委ねるがよい。だが君は、結局、これらの障害のうちすくなくともどれかひとつに行き当たらないわけにはゆかない。というのは、いまだかつて性愛が誰かの利益になったためしはないからであって、もしそれがだれかの害にならなかったならば、その人は、ただそれだけで満足しなければならない。

立派ですね。上野先生とは格が違います。まあ熟女にお願いしてとりあえずあれしてもらっても、あとでその熟女にしつこくされたり、関係者から「ゴルァ」ってされたり、友だちに笑われたりいろいろいやなことがあるでしょうからね。セックスなんかしないにこしたことはありません。でもんじゃ性欲の苦とかどうすんですかね。まあ一人であれしときゃいいんですかね。「隠れて生きよ」っても言っておられますし。セックスなんかしないでセックスについて哲学していれば穏かに苦痛なく生きることができるわけです。ははは。

犬に見守られながらはずかしいことをする準備をしているディオゲネス先生

そういやエピクロス先生たちの派閥と対立(?)してた派閥に「キュニコス派」(犬儒派)って人々がいたんですが、それの一番有名な「樽のディオゲネス」先生(樽で寝起きしてたから樽のディオゲネス。シノペのディオゲネス。犬みたいな生活したから「犬のディオゲネス」とも呼ばれる)は人前で自分のあれをあれして、「こんなふうにこすっただけでお腹がいっぱいになったらいいのになあ」って言ったとか言わなかったとか。まあこすれば幸福になるんだったらこすればいいですよね。

古代ギリシアの哲学変人たちの言行についてはディオゲネス・ラエルティオス先生の『哲学者列伝』が楽しいので必ず読みましょう。

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ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)
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