ジェンダー」タグアーカイブ

翻訳ゲリラ:生物学的性はバイナリーだ、たとえ性役割がレインボーだったとしても

SNSで生物学者の先生が「人間の性は男と女の2つに生物学的に決定されている」と発言して少し話題になってたので、生物学者が考えている「性」についての論説をゲリラ訳。地の塩のみんなでがんばりました

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男/女/トランスジェンダーの定義 (6) ストック先生の「女性」概念についての論説

Kathleen Stock (2018) “Changing the concept of “woman” will cause unintended harms” のゲリラ訳。著作権的には黒なのですが、おめこぼしを願う感じです。 https://www.economist.com/open-future/2018/07/06/changing-the-concept-of-woman-will-cause-unintended-harms

すでにhatenademianさんという方の翻訳があるのですが、 https://note.com/hatenademian/n/nf73e538912ce 数カ所ちょっとだけ微妙なとところがあるので訳しなおしました(江口)

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男/女/トランスジェンダーの定義 (5) 『トランスジェンダー入門』の「性別」と「アイデンティティ」

というわけで、『トランスジェンダー入門』には「なるほどな」と思わされることが多くて勉強になります。ちょっとだけコメントをいくつか書いておきたいと思います。

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男/女/トランスジェンダーの定義 (4) 『トランスジェンダー入門』での「ジェンダーアイデンティティ」

『トランスジェンダー入門』での「性別」は(我々の古い呼びかたでは)「セックス」ではなく「ジェンダー」の方です。それじゃ、「ジェンダーアイデンティティ」とはどのようなものだろう?

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男/女/トランスジェンダーの定義 (3) 『トランスジェンダー入門』での「割り当て」

まあ前エントリのようなことを考えながら「定義」に関する論争を眺めていたのですが、最近出版された周司あきら・高井ゆと里先生たちによる『トランスジェンダー入門』はよい本でした。いろいろ発見があった。

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男/女/トランスジェンダーの定義 (2) 学術会議の定義のむずかしさ

まあ定義と結論としての規範的判断をつなぐ前提となる規範的判断・原則が私の興味あるものなのですが、とにかくもうすこし定義について考えたい。

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男/女/トランスジェンダーの定義 (1) 定義と規範的判断

「トランスジェンダー」の「定義」についてSNSその他はずっとモメていて、私にはよくわからないところが多くてこれまで何も書いてなかったんですが、そろそろ勉強しないとならない感じで、前期しばらく文献めくったりしていました。考えをまとめるために下のような落書きしてたんですわ。

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伊藤公雄先生のマーガレット・ミード

性差の科学編集委員会 (2011) 『性差の科学の最前線』、京都大学大学院文学研究科社会学教室、っていう報告集があるみたいなんです。google bookにひっかかってきて発見しました

まだ入手できてなくてよくわからないのですが、そのなかの伊藤公雄先生の文章がとてもひっかかりました。こんな感じです。 続きを読む

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なぜ私はフェミニストを信頼しなくなったのか:「ミードの表」昔話

あんまり幸福じゃないのでで、友原章典先生という先生の『実践幸福学:科学はいかに「幸せ」を証明するか』っていう本よんでたら(良い本なので読みましょう)、年寄になったら昔話をすると幸せになるって書いてたのでやりましょう。 続きを読む

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「ジェンダー論と生物学」 (8) 「循環的」「権限が及ぶ」がわからない

んで、加藤先生は「自由意志」の問題をつかって、自然科学者(この場合は神経関係の人々)がいろいろ勝手なことを言うのを戒めたり。ここらへんはまあいいです。そんな素朴な自然科学者たちっていないだろう、ぐらいは思うけど。 続きを読む

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「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。 続きを読む

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「ジェンダー論と生物学」 (5) 「レイプ」という語を人間以外に使えるか?

進化心理学者たちの擬人法的な言葉づかいについて、前のエントリに書いた、ソーンヒル先生たちの『人はなぜレイプするのか』での言い分を引用して紹介しますね。わかりやすい文章なので解説はなにも必要ないと思う。 続きを読む

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「ジェンダー論と生物学」 (4) たしかに鳥は「結婚」しないかもしれないが……

なぜ、つがいになっているメス鳥が、オスの配偶者防衛をかいくぐって他のオスと交尾して卵を産もうとすること、そしてオス鳥が他のオスとつがいになっているメス鳥と交尾することを「浮気」と呼んではいけないのだろうか。 続きを読む

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「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。 続きを読む

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「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。 続きを読む

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加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」という文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。 続きを読む

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(5)

  • これはちょっと細かいのですが。

私はまさしく彼が「聴くこと」を望んでいます。〔私が〕どんなに無力な状況に置かれ、ひどいトラウマを負ったのかを。彼が完全に〔私の苦しみを〕受けとめて理解すると期待しているわけでもありません。私の口から直接出てくる言葉を確かに彼に聞かせたいから、〔加害者に対して〕「〔私の声を〕聴け」と言いたいのです。私は加害者(すべての加害者)は、表面的なレベルでしか受け止められないとしても、〔性暴力被害者が〕何を感じていたのかを知る必要があると思います。私にとって重要なことは、少なくとも、直接的に私から〔加害者に自分の言葉に対して〕耳を傾けられる経験を得ることです。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(4)

    • 第4章第3節も見ておきたい。
    • p. 151に出てくる、Nodding (2011)という資料はどういうものかよくわからない。この団体 https://restorativejustice.org.uk  が出している冊子かもしれない。あるいはこれ https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story そのものか。そもそもこの団体がどういう性質のものかよくわからない。怪しい団体ではないとは思うのだが。
    • p.152に出てくるKeenan (2014) も最初見つけられず苦労したのだが、文献リストでは「報告書」として他の「外国語文献」とは別になっていた。「学会報告、講演」も別になっていて、上とあわせてその分類の基準がよくわからない。このKeenan (2014)もURLとかないので探すのけっこう苦労したけど、とりあえずこれ http://irserver.ucd.ie/bitstream/handle/10197/8355/Marie-Keenan-Presentation.pdf?sequence=1
    • この資料は、修復的司法を希望する、参加したい、加害者と対話したい、という人々30人に対するインタビューで、前の節のデイリーvsカズンズ論争が実際に修復的司法は効果があるか、という数字をつかったあるていど実証的なものであるのに対して被害者の願望を聞き取っているもの。話の順番が奇妙に感じられるが、それは問わないことにする。
    • この資料自体は、貴重な被害者の声をきんとひろっていて、非常に迫力があります。こういうの探してくるのは小松原先生すごくえらいと思いますね。
    • ただし小松原先生の参照のページがずれているようで、対応箇所を見つけるのを非常に苦労することが多い。これは多すぎるのであげきれない。
    • また、このKeenanの調査が、さまざまなタイプの被害者の特徴を示す記号がつけられて特定されていることなどにまったく触れられていないのが気になる。家族内レイプと路上レイプなどは経験その他がまったく違うと思われる。それに、小松原先生が同一人物をダブルにカウントしている箇所があるように思える。下では「VSSR」(Victims of stranger rape as an adult)と記述されてる人の発言が何度もでてくるが、これは同一人物である。しかし、小松原本ではどの発言がどの被害者のものかわからなくなっている。
    • p.154で「責任のメカニズムとして」という表現が出てくるが、これは説明しないとわからない。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(3)

  • デイリー先生の文章の引用

私は〈裁判による性暴力の問題解決〉より〈カンファレンスやそれに類するRJ〉がより一般的に用いられるとは思わない。〔しかしながら〕私は犯罪と被害へ、より洗練された対応をすること、そしてRJがその流れの中に位置づけられることについて考えることは、意義があると思っている。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(2)

p.149

刑事司法制度の補完として、RJを取り入れる具体策としては、「有罪答弁」の改革をデイリーは挙げている。現行の刑事司法制度にも、加害者が自らの犯行を自白する「有罪答弁」は導入されている。しかしながら、デイリーによれば「有罪答弁」は「被害者の決まりきった質問に、加害者が棒読みで答えるという白々としたもの」である。それを「被害者が自分の経験を思いきり語り尽くし、加害者は率直に事件について吐露する場にする」のである。(p. 149, 強調江口)

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)

小松原先生の『性暴力と修復的司法』の第4章は非常に問題が多いと思うので、すこしずつ指摘したいと思います。実は同内容の別の文書を書いてしまって、公開するべきかどうか実はかなり迷ったのですが、やっぱり見てしまった以上は書かざるをえないと思います [1] … Continue reading。ここではなるべく価値判断は避けて、事実だけ記載しなおしたいと思います。ジェンダー法学会の奨励賞を受賞していることからも問題の深刻さを考えさせられました。
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References

References
1この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。

「メディアは現実を構成する」について調べてみた

どうでもいいつまらない話なんですが、時間とお金をつかったので記録だけしておきます。

(マス)メディアとジェンダーというテーマは、ジェンダー論やらフェミニズムやらの中心的なテーマの一つなわけですが、「実証的な調査はどういうものがあるのか」ってんで、私自身「そういや標準的にはどういうふうに信じられたり教えられたりしてるんだろうな」みたいな疑問をもってしまいました。

まあふつうはメディアに出てくる女性像やら男性像やらが、現実の女性やら男性やらの服装やらふるまいやらに影響を与えているので、メディアは注意深く見ないとなりません、みたいになっていて、実際私も今年度の前期のゼミでメディアリテラシーのまねごとしながら考えてたんですわ。ところが、標準的なジェンダー論とかのテキストなんかだと、その問題は指摘されてるけど、さほど実証的な裏付けには言及されないんですよね。

いろいろ見たんだけど、いちばんはっきりわかりやすかったのは、加藤秀一先生たちの『図解雑学ジェンダー』。これは優秀入門書、というか入門の入門。まあ「図解」を1ページまるごと引用させてもらえば、こんな感じ。まあ典型的な「ジェンダー論」って感じですよね。

ここの左のページには加藤先生自身が簡単な文章を書いているんですが、参照文献が諸橋泰樹先生の『ジェンダーの語られ方、メディアのつくられ方』だったのです。
実は10年ぐらい前にこの先生の本を読んでちょっといやなのを発見したりしているので、図書館で調べてみました。(昔私がリクエストして入れてもらった本だと思う。)

と、この『語られ方』の本は2002年出版ということもあって、相当古い情報にもとづいたものでした。

「能力、性別、らしさ、様ざまな特性はは生まれもったものではない、社会的・文化的に構築される」p.19

「男は人の話を聞かなくてよい」p.19

「女性/男性」という性別二分法自体が、もう人間の観念的な枠組み」p.20

「オオカミに育てられた子どもはずっとオオカミのまま……第二次性徴をはじめとするセクシュアリティも開花しない」「ことばがないとセクシュアリティが顕現せず」p.20

「虹の色はリベリアのバサ語では二色」、「ニューギニア高地人のチャンブリ族という部族」では「男性の性格は嫉妬深く、猜疑心が強く、噂話が大好きでショッピングが大好き、……お祭が大好きで、そのときはオスコンテストをする」p.23

生物学的な性別といわゆる性別役割分業の間に、直接の関係はありませんp.24

とか、まあここでは議論できませんが、古すぎますね。肝心のメディアが我々のジェンダーにどういう影響を与えるか、という実証的な議論は特に見つかりませんでした(どっかにあるかもしれないけど)。

もう1冊、『メディアリテラシーとジェンダー』という本もあったのでそっちも見たのですよ。こっちも実証的な議論は特になかったのですが、次のような記述はありました。

次の概念が、メディアリテラシーの内容を説明します。すなわち、(1)メディアは全て構成されたものである、(2) メディアは「現実」を構成する、(3)オーディエンスがメディアを解釈し、意味をつくり出す、(4) メディアは商売と密接な関係にある、(5)メディアはイデオロギーや価値観を伝えている、(6) メディアは社会的・政治的な意味をもつ、(7)メディアは独自の様式、芸術性、約束ごとをもつ、(8)クリティカルにメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションを作り出すことにつながる。(pp. 21-22)

「メディアは「現実」を構成する」とか、いかにも社会構成主義とかそういう難しい立場のけっこう極端な立場のような気がするので、なにかしっかりした根拠があるのかと思ったのです。んで、参考文献としてあげられているカダナ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー』っていう本を入手してみたのです。

この本はメディアリテラシーの教育実践の本としては非常に優れてるのですが、上のような主張はリテラシー教育の上での作業上の仮説のようなもので、それの正当化とかなにもしてませんわ。まあ予想はしてたんですが。

まあこんなもん。まあこれくらいの意味なら「メディアは現実を構成する」って言われてもまあそうですね、ぐらいですね。こういうの参考文献にあげられても困ってしまう。まあ剽窃ではない、ということなんだろうと思うけど、この本入手できない人がみたら、「メディアは社会を構成する」ということになんか難しい根拠づけかなんかがされていると思いこむかもしれませんね。それに諸橋先生はなんで「「現実」」ってわざわざカッコに入れたんですかね。まあどうでもいいです。

他にも諸橋先生の本は「女性週刊誌は女性を思考停止させる」(大意)みたいな書き方で、なんか女性をバカにしている感じがして印象が悪かったです。

まあこういうのはどうでもいいんですが、入門レベルとはいえ、これくらいのちゃんの根拠づけとかできないままにメディアとジェンダーの関係とかそんな簡単には議論できないなあ、みたいな印象はもちました。もちろんメディアが我々の生活に大きな影響を与えているのはそうだと思うので、実際にどのように影響を与えているのか知りたいですね。そしてそういう研究はちゃんとあると思う。

↑にいちゃもんつけたけど、基本的に良書なので買ってあげてください。

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牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

https://www.lovepiececlub.com/column/1958.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。 続きを読む

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『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

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『男と女の倫理学』

前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。

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