タグ別アーカイブ: 愛・性・結婚の哲学

ナカニシヤ出版「愛・性・家族の哲学」を読みましょう (8)

 

性 (愛・性・家族の哲学 第2巻)
藤田尚志 宮野真生子
ナカニシヤ出版
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吉岡剛彦「「法は家庭に入らず」を考える:DV防止法に基づいて」

法学者らしいしっかりした文章で、私が特にコメントすべきことはないです。勉強になりました。「法は家庭に入らず」てことになってたけど、実はDVはやばいので、法的な制度もつかってちゃんと対策しましょう、ってことだと思う。うしろの方の辻村みよ子先生が警察などの介入に対して「根本的批判」しているっていうのはどうなんだろう。警察その他にもちゃんとジェンダー問題に対する意識を教育しないとやばいことになりますよ、ぐらいではないんかな。「立憲主義的リテラシー」っていうのはうまいアナロジーなのかどうかよくわからない。

梅澤彩「生殖補助医療と親子:親子法の再検討」

生殖補助医療を使った新しい形の親子関係を法的にどうするか、って話。これも法学者らしい淡々とした文章で、コメントしなきゃならない箇所は少ない。でも嫡出推定制度・父子関係の否定のところは実はもっとつっこむべきだと思う。現代の進化心理学者たちが推定するところでは、女性の婚外セックスと妊娠はこれまで思われていたよりかなり多く、全人口の10%ぐらいがおそらく、現に父親とされている男性の遺伝的な子どもではないらしい。DNA検査が安価になって実子かどうかかなり確実にわかるようになっているけど、それによって父子関係を否定するのはかなり難しい(っていうかたしか無理)、っていうのはいまホットな話題のはずなので、こういうタイプの本では詳しくやってほしかった気がする。

久保田裕之「共同生活体としての家族」

「家族」ってのを考えるのはいろいろ難しいので血縁とかセックスとか生殖とか抜きのシェアハウスとかの「共同生活」ってのだけとりだしてみると、そっから家族ってものを考えるヒントが得られるんちゃうか、っていうやつ。方針としておもしろいですね。共同生活では、どういうふうにして互酬関係が成立しますか。まあこれ、昔の共産コミューンとかに関係していておもしろい。でももっと身近なシェアハウスをみてみよう、ってことだと思う。まず問題になるのが冷蔵庫で、みたいなのはやっぱり具体的でおもしろいですよね。知見や結論がどうなっているかこういうの社会学系の論文読みなれてないからよくわからないけど、多様な利益を共有した方が結びつきは強くなる、でもやっぱりセックスや血縁をともなわない共同生活はむずかしい、みたいな感じなんかな。「子は鎹」みたいな結論になるのかしら。

奥田太郎「家族であるために何が必要なのか:哲学的観点から考える」

「家族とは何か」という問いに答えるため、「家族」の必要十分条件をさぐる、みたいな感じなんでしょうか。奥田先生は常々こうした「定義」や「カテゴリー」の話が好きなんだけど、私はその感じがいつもちょっとわかりにくい。

議論は明確でわかりやすい。家族って何だか実はそんな簡単にはわからない、っていう一連の話をしてから、山極寿一先生の類人猿・人類学の知見をつかって、家族には自然的基盤がある、その基盤は父子関係の不確定性に対応するものだ、みたいな感じ。まあ人類学や進化学系統の基本的な立場ですわね。でもこれは「家族」の定義とかカテゴリーとはあんまり関係ないような気がする。家族の成立条件は、血縁と契約と社会的承認だ、ってことになる。これが揃うととりあえず家族になるのか(十分条件)、これがそろわないと家族じゃないのか(必要条件)かっていうのはよくわからない。おそらく十分条件でしかないと思う。

さらに家族の社会的機能についてセックスとか生殖とか経済とか教育とかあげられるけど、そういう機能は現代社会ではだんだん「家族」以外のものに外注されるようになって、残るのは「子どもの社会化」と「成人のパーソナリティーの安定」ですよってことになる。「パーソナリティの安定」の方が説明が必要な気がするけど、まあだいたいわかる。いろいろやってきたけど、これからは家族のありかたはさらにもっと選択するものになりますよ、ていう感じ。

ちょっと大きな「社会哲学」って感じでいろんなことが入っていて、奥田先生が裏にどういう問題意識をもっているのかっていうのははっきりしない。なにかもっと具体的な問題を考えているようには思うんだけど。私自身は「家族とは何か」みたいな問いを立てることがないので感じがわかにくい。っていうか、「家族とは何か」を考えたくなるときっていうのはどういうときなんだろうか、と思うです。

まあたとえば保守派の政府が、「家族を重視することを憲法に書くぞ!」って時、それは正当なのか、なぜ「家族」を重視する憲法や政策が必要なのか、そのときどういう「家族」を重視するとか保護するとかっていうのがよいのか、みたいな問題が生じるわけですわね。そういうの考えてるのかなあ。

あとこういう話だと、必ず「これからは新しい家族の形が」って話になるけど、私自身はそういうのはかなり懐疑的で、たしかに離婚と再婚、同性カップルなどはもっと一般的になるだろうけど、一夫一婦(大人2人)を中心にした核家族、みたいなのはやっぱりずっと主流でありつづけるだろうと思ってます。


というわけでおしまい。おもしろいコラムもけっこう収録されていて、ここでは触れられないけど勉強になりました。『愛』の巻は哲学史している感じ。『性』の巻は全体に教育的で実践的なので学生様に読ませたい。『家族』のはもうちょっと具体的な話として学生様がわかりやすい形だとよかったかと思います。

私がこういうの書くと、ディスりぎみっていうか過剰に批判的になってしまう傾向があるんですが、それは心の狭い私の問題で本や論文の問題ではなく、どれもおもしろく勉強になるのでちょっとでも興味をもった人は先入観なしに読んでみてください。私はこう読む、っていうのを書いてみて、この手の話をあんまり知らなかったかもしれない一部の人に関心もってほしかった、それくらいです。

全体としてこのシリーズは野心的で、ぜひ継続してほしいものです。私なんかだと、愛やセックスまわりだと、このブログでもわかるように、浮気やら不倫やら性暴力やらポルノやら売買春やら、もっと「親密な関係のダークな側面」みたいなのに関心もってしまうんですが、そういうのはちょっと偏ってるなあ、みたいなのも自覚して反省するきっかけになりました。献本ほんとにありがとうございました。

この分野これから盛んになるといいなあ。編者の先生たちはえらい!ぜひ3冊買って応援してあげてください。

 


ナカニシヤ出版「愛・家族・性の哲学」を読みましょう (7)

相原征代「「男女不平等」としての結婚:日本とフランスの比較から」

フランス人は結婚しなくなってますが、日本人の学生様はいまだに結婚結婚言ってます、みたいな話。読みやすい。でも私が思うにこの論文はかなり注意が必要だと思う。(実はこのシリーズが授業に使えるかのテストとしてこの論文をゼミで読ませてもらった。コピーですましてしまいました、すみませんすみません。)

まずつっこんでおきたいのは、p.412 「どんな動物でもオスとメスがつがいを作り、その種を後世に残すために子どもをつくるイメージから類推して、人間界においても、「結婚や家族」がとても原始的・自然主義的であると思われがちだが、実はそれは近代化によって作られた概念である」っていう文章。

・一対のつがいを作る動物は非常に少ない。学生様にはネコやイヌはカップルになりますか?って質問するようにしている。なりません。つがいを作るのは哺乳類の3%だけだったと思う。ちなみにゴリラは一夫多妻ハーレム、チンパンジーやボノボは乱婚。鳥類は多いけど、一夫一婦の鳥も期間限定のツバメみたいなやつと生涯に渡るツルみたいなのの違いがある。バラシュ&リプトン先生の読みましょう。

・「結婚や家族」が近代的なものだ、っていうのの根拠にあげられているのはバダンテール先生やアリエス先生やイリイチ先生だけど、いかにも古すぎる。なんらかの形で結婚制度をもたない人類はほとんどないはずだし、たいていは核家族として生活しているはず。そりゃ父親は工場や会社に働きに行き、母親は家で育児だけする、みたいなのはもちろんものすごく近代的だけど、それと結婚や(核)家族そのものがものすごく古く普遍的な制度だっていうのは別の話。よい本はたくさんあるので、こういうのはちゃんとしてください。

最近のフランス女性は、男性に性的パートナーに求められる、親であることと、セックス相手であることと相談相手であることを別々にもとめるようになってます、みたいな。月〜金は子どもとすごし、週末は子どもが元旦那のところに行くので恋人とセックスして、たまにただの友達と話をします、みたいな。そういうのがおフランスでは普通になってきます。フランス女性かっこいいですね。元旦那は新しいパートナーがいるんでしょうなあ。でもこれただの友達はいつもどうなんすかね。気になる。ははは。

まあフランスと日本の比較はいいんですが、この「フランス人は結婚しない」ていうのは誤解をまねきやすいと思うんですわ。それは法的な「結婚」を指してて教会行ったり書類出したりするやつですわね。フランス人はそういうの面倒だしとくにメリットがないのでもうしない、ってことだと思う。特にカトリックで結婚するということは基本的に離婚できない、ってことでもある、って話を聞いたことがある。

でも、固定的なカップルになって(なるべく浮気しないで)セックスしたり同居したり子ども作ったりするのをやめたわけではないっしょ。「婚外子が増えた」とかっていったって、子どもの父親が誰だかわからない、っていう状態になってる人はごく一部で、その割合は他の国とたいしてかわりないんじゃないかと思う。つまり、それって単なる書類の問題でしょ。むしろフランスが法的な結婚制度をちゃんと時代に合わせて変えられなかった、ってことなんちゃうか、みたいな見方もできるんじゃないだろうか。まあかわりにPACSつくったからそれでいいか。

もちろんカップルの安定性みたいなのが弱くなってる、わりと簡単に別れて新しいパートナーを見つける、みたいなのはあると思うけど。でもそういうのをもってして、「フランス人は結婚しなくなってる」って表現するのは、それ自体は正しくても、ちがう方向に誤解されやすいのではないか。

特に日本の学生が「結婚したいー」とかって言ってるのと比べるのはどうなのか。日仏の学生とかの意識の違いを問題にしているけど、日仏の学生双方に、「結婚」ではなく、「固定したパートナーが欲しいすか、いずれいっしょに暮したいですか、セックスして自分たちの子どもほしいですか、子どもできてから別れたら相手に養育費払わせたり、その他面倒見せたいですか、」とたずねたら、そんなに大きな違いがでるかどうか。

相原先生は「(日本的な)結婚は不平等だ」って主張したいらしいけど、そこの記述も奇妙。

(結婚は)たとえるならば、「二人で一台の自動車に乗り込む」ようなものである。自動車では一人しか運転手になれない(二人がハンドルを奪い合うような状況は危険ですらある)が、一人でドライブするより、会話が弾んで楽しかったり、助手席で飲み物を手渡してもらったり、相手が免許をもっていれば、疲れて眠くなったときに運転を替わってもらうことすら可能である。しかし、車に乗り続ける限り、運転手(主導権)は一人である。運転手が運転を交代することに同意しな限り、自分が運転手になるには車を降りるしかない。結婚とはそのようなものであり、したがって、結婚の本質とは「不平等」にこそあるのだ。(p.50)

私はこれ読んで「はてなー?」ってなりました。結婚ってそういうもんだったのか!
学生様はどういう反応してたんだろう。「うんうん」って聞いてたんでしょうか。

結婚生活は二人(以上)でやるものだと思うし、車の運転のようにはなってないと思う。結婚の「主導権」ってときに、いったいどういうことを考えているのかわからない。「家を買うかどうか」みたいな判断をどっちかが一方的にすることがあるのだろうか。今夜セックスするかどうかをどっちかが勝手に判断するのだろうか。お金稼ぐってのだって別にどっちかだけがしなくちゃならないことではないだろう。いったい結婚というのをどういうものだと思っているのか、私には想像がつかない。結婚すると(特に女性は)自分の人生ぜんぶを(おそらく)男性に賭けちゃうことになるのだろうか。それだったらたしかに結婚なんかしない方がいいですわね。でもそれって相原先生の思い込みなのではないか。

まあ結婚生活は不平等、っていうか、子どもは女性しか産めないし、(おそらく)二人が分業して別々のことをした方がいろいろうまくいくってのはその通りだろうけど、それになんか問題があるとは思えないし、また、フランス人のカップルが、実際に生活のいろんなことを「平等」にしているとも思えない。

あとあっちこっちにフランス語が出てくるけど、なんのために表記しているのかわからない。たとえば「コインの両面」に le deux faces d’une méme pièce ってつけるのなぜなのかわからない。学生様はあちこち出てくるフランス語にビビらないようになってほしい。

 

各種の動物の交配システムについては下。

不倫のDNA―ヒトはなぜ浮気をするのか
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ナカニシヤ出版「愛・性・家族の哲学」を読みましょう (6)

性 (愛・性・家族の哲学 第2巻)
藤田尚志 宮野真生子
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古賀徹「恋愛するとどうしてこんなに苦しいのか:性的自己決定の限界」

フロイト〜ラカンにもとづいた恋愛・結婚論。これはやりたいことはわかるような気がするけど、読むのが苦しい論文。細かいこと(実は細かくない)が気になって読みにくい、っていうか私には読めない。パス。フロイト先生は読みよう書きようによってはいろいろおもしろいと思うんだけど、ラカン先生となるとお手あげ。現代思想はたいへん。

全体にこの『性』の巻は、学生向けの親切で教育的なものが収録されていて好感。「〜の哲学」でそういう性教育みたいなの書かなきゃならんのはおかしい気もするけど、いま大学でセックスの話ってちゃんとされてない気がするから重要よねえ。

 

 


家族 (愛・性・家族の哲学 第3巻)
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藤田尚志「結婚の形而上学とその脱構築:契約・所有・個人概念の再検討」

これも現代思想でたいへん。
そもそも「形而上学」とか使う必要があるのかどうか。これ言いかえると「人々の思い込み、あるいは固定観念」ってことだけど、それなら「形而上学」なんて使う必要がないと思う。「人々の無意識に潜む「結婚の形而上学」を露呈させつつ、現在結婚に起こりつつある変化の微細な徴候を見逃さず書きとめていく作業、それが私の考える「結婚の脱構築である」p.6は言葉の「定義 」ではないんだろうけど、「結婚について我々が勝手に思いこんでいることを指摘し批判する」ぐらいでだめですか。「哲学」をなのってこうした難しい言葉遣いをするのはとてもよくないと思う。(具体的には言葉づかいの難しさにびびって「哲学」関係の一般読者や興味ある人々が減る、学生様は「わからないものだ」と思いこむ)。

話はデリダ先生が、「わしら、一対一の「結婚」から、性も数も制限されない市民的結合(Civil Union、フランスのPACSみたいなやつ)に移行しましょう」みたいなことを言ってるのを中心にしてるらしい。でも藤田先生に言わせば、それって(非一対一ってのに関しては)「当面の実現可能性が低過ぎる」と。それはなぜでしょうか、という話。この問いちょっと微妙で、最近ポリアモリーとかはやってるし、昔から昨日書いたような共産コミューンみたいなのあるし、それにいまだに一夫多妻の社会は少なくないし、多夫一妻は数が少ないけどあるんで、どうなんだろう。

んで、結婚には三つの「公理」があるてんだけど、これも「公理」の辞書的な意味とかけはなれていて、哲学って名乗ってこういう言葉づかいするのは哲学教師としてはやめてほしいと思う。公理ってのは「数学の領域で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題」っていう説明はふつうではないと思う。「自明の真理として承認され」のところを「真理だと仮定され」ぐらいっすか。こういうの、もし学生様のことを考えてるのであれば、やっぱりちゃんとしてほしい。長い伝統のなかで、きっちり考えぬかれた言葉を、たんなる比喩的な表現として使うのはほんとうによくない。そういうのは哲学じゃない。「我々の思い込み」でいいじゃないっすか。「我々は結婚について思い込んでいることが三つあります」でなにが問題なのか。こっちの方がシンプルでかっこいい。

んでそのわれわれの結婚に関する三つの思い込みは、(1) 契約・約束、(2) 所有・優先権、(3) 人格・個人ってことらしい。
(1) それは契約・約束である、(2) 結婚によって人は相手を所有する、はわかる。(3)はわかりにくくて、義務や責任の主体として措定され確定される「個人」がいる、ってことらしい。「措定」(おそらくposit)の意味私わからんけど、まあ「(1)や(2)の主体や対象としての「個人」っていうのがはっきりしてますよね、ってことだと思う。これはなんかたしかに形而上学っぽい。

さて、(1)の「結婚ってのは契約だ」って思い込みの問題点はどこだろう。前にも書いたように、カント先生なんかは結婚てのは相互の性的器官や能力を排他的に使う契約です、みたいなことを言ってる。ところがヘーゲルはそんなもんじゃないよ、結婚は契約から出発するけど、それをアウフヘーベンするものだよ、みたいなことを言ってるらしい。だって、結婚によって二人は一つになるんだからね、一つになったらもう契約する相手がいなくなるでしょ、とかそういう感じだろう。これはヘーゲル先生らしい議論ですね。藤田先生の議論はそのあとデリダが出てきてよくわからなくなる。「ヘーゲル的な結婚は、純粋な二者関係では成立せず、必ず媒介を必要とする。にもかかわらず、結婚が契約ではなく、二つの人格が一つになろうとする運動である以上、結婚は媒介を排除しようとするものでもある」とか「契約が約束の交換だとすれば、約束は引力の贈与である」とか。まあこういう書き方があるのはわかるけど、学生様とかどういう顔で聞いてるんだろうと思いますわ。

こういうわかるようなわからないような議論がわからないのは、「二つの人格が一つになる」っていうことが、「具体的には」どういうことかって説明してくれないからですよね。言葉だけならなんとでも言える。ずっとそういう言葉と言葉の結び付きだけを偉い人から示されれば「そういうもんなんかな」と思ってしまう。「二つの人格が一つになるのだ!」「……一つになるのだ」「一つだ!」「……一つだ!」「ひとつだね」「一つなの?」「もちろん一つさ」「えー」「ひとつひとつ」「ひとつー」。これはあぶない。学生様には、正気になって「えと、ちょっと待って。二つの人格が一つになるっていうのは、具体的にはどういうことですか?」って聞けるようになってほしい。

そのあとで坂爪真吾先生の「スキンシップもセックス」論が紹介されるけど、つながりがよくわからない。

(2) 「結婚すると相手を所有します」はなぜだめですか。まあこれはだめですわね。マルクスの話とか出てくる。これはまあわかりやすいんちゃうかな。アドルノ先生の「恋愛における優先権」のぐじぐじした文章も、読み方がわかってればまあおもしろい。これはまあ「すでにつきあってる人がいるからって俺が断われるのはなだろう」みたいな話。そのあと信田さよ子先生が出てきて、これもつながりがよくわからない。

(3) 「結婚する主体の個人ってのがいます」これはよくわからない。まあ人の通時的同一性の問題(昔の私と今の私、将来の私はずいぶんちがうものなのに同じ人なのはなぜか、どういう基準で同じ人なのか)みたいな問題はあるし、哲学っぽい。昔愛しあって結婚したけど、私も彼もずいぶん変わってしまったのに、なぜ昔の約束にしばられなばならないのか、みたいな問題は哲学的に非常におもしろい。だからそういうふうにやってくれるんかな、と思ったけど、藤田先生がなにを考えているかはちょっとよくわからなくて紹介できない。あ、ポリアモリーはここに出てくるんだった。でもこれ「個人が存在するかどうか」の話とは関係ないような気がする。結婚とかセックスとか基本的には個人がするもんだわね。我々は物理的に身体にしばられてるから、身体を使うのについてはそれを単位に考えないとねえ。でもまあいろいろ哲学的な議論をする方向はありそう。

全体にこの論文は非常に難しくて、ふつうの読者は読めないと思う。


ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (5)

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筒井晴香「「脳の性差」と「自然」: 「男脳」「女脳」って?」

タイトルの通り「脳には性差があるから〜はしょうがない」「〜に気をつけよう」みたいな一般メディアでの言説を批判する、っていう趣旨だと思います。趣旨には賛同。

ただしまずこれ、筒井先生がよく参照しているカプラン&カプラン先生の2010年翻訳の『認知や行動に性差はあるのか―科学的研究を批判的に読み解く』っていのはものすごく古いのが不満。初版は1994年でもう20年以上前のもので、内容も当時発展しつつあった脳科学や性差心理学みたいなのに不当に批判的で、なぜ2010年に翻訳したのかよくわからない。もうひとつよく使われているエリオット先生の『女の子脳 男の子脳:神経科学から見る子どもの育て方』は2009年のもので翻訳すぐ出て良書だと思いますが、この手の話はやっぱり最新の心理学のハンドブック等を参照したいところ。心理学関係は10年古いと相当古いと思いたい。

「効果量」の話は、もしするのであればもっと詳しくせねばならないと思う。たとえばこの論文を学生様に読ませる場合、「効果量が1を越える」(p.114)っていうのはどういうことかわからないと、読んでも結局わからないと思う。でもまあこういうのはしょうがないっすかね。うまくわかるように書くのはかなりの腕が必要な気がする。でも「大きい」「小さい」じゃわからんしねえ。

筒井先生のオリジナルな議論としては、なんかの性差や性差に付随した能力差があるとしても、それは生得的な要因と環境要因の結果だし、個人差の方が大きいし、と。これはもちろんOK。男女のグループに対して教育とかする場合にはなにを求めるかとか、どういう教育をするかとか影響があるかもしれないけど、いつも「女子はこれが苦手だからやらせないようにしよう」 とかってことにはならない。むしろ女子はこれが苦手だから力点をおいて訓練しよう、みたいな判断が合理的な場合もある。筒井先生が気にしているのは、こういうのはわかった上で、やっぱり「男だから〜なのだ」「女だから〜なのだ」っていうのが個々人にとってうまくいかないときの理由付けになることによって慰めになるかもしれないくて、それは重要かもしれない、ってことだと思う。ただ、これが行きすぎてしまうと、自分の可能性を閉じてしまうことにつながるかもしれないので注意しましょうね、ということだと思う。これもOK。まあ常識的で健全な感じだとおもうです。

ちょっとだけコメントすれば、各種の脳の機能の差についての知見というのはやっぱり役に立つことがけっこうありそうで、特に各種の発達障害の人なんかは「〜という診断がついた」のようなのにある納得を感じているように見える。それは当人には得ではないけれども、ある種の力づけになる。いったん原因がわかれば、対策も立てられるわけだし、脳神経的な原因があるのならば、薬物その他の対応もいずれ可能になるかもしれない。そういうんで、脳科学は別段恐れるべきものではないし、我々の生活を積極的により豊かにする可能性もある。男女の心理的性差や、その原因となる脳の性差とかについても(そんなものは認知的なものについてはたいしてないだろうけど)よく知られるようになれば、いろんな問題への対処方法に応用できるかもしれない。もちろん、一般メディアでの「脳」とかについてのばかげた言説はどんどん批判してかまわんと思うしがんばってほしいし、まともな人々の研究は(一件すると不都合な結果が出ようとも)応援したい。がんばれー。


相澤伸依「ピルと私たち:女性の身体と避妊の倫理」

女性にとっての避妊の重要性と、避妊ピルがなぜ日本で一般的になってないのか、っていう話。副作用に対する懸念とか、ウーマンリブ団体のウルフの会がピルの使用に消極的だったこととか。基本的に(1) ピルのを飲むと「自分」らしくない感じがするってのと、(2) 避妊は男性にやらすべきだ、っていうのがそういうのの理由だったようだ、という話。相澤先生自身は、避妊の確実性も高いし、自分の体コントロールできるし、女性自身が選択できるものだからぜひ使いましょう、っていう立場で、過去のウーマンリブの主流に批判的。これも全体としてOKだけど、ピルが避けられる理由は他にもあるんちゃうかな、みたいな印象はある。

以下は私のただの妄想。最近、女性の排卵周期が女性の性的な心理にけっこう影響を及ぼしていることが知られていて、排卵日周辺は男性に対する好みや性的な衝動性が違うとかっていうのがあるらしい。着るものもどうも変わるらしい。ジェフリー・ミラー先生の有名なストリッパーの調査によれば 1)ミラー先生が個人的にもストリップ好きなのかはわからない。 、排卵日に近いストリッパーは、それ以外の時期よりチップをかなり多く稼ぐ 2)日本にはないタイプのストリップだと思うけどよくわからない。 。まだなにがそれに直接に寄与しているのかわからないけど、とりあえずそういうことだと。ピルを飲んでいる女性は自然な排卵周期の女性より稼げない傾向があり、またチップの上下もない、とかそういう話。ストリッパー自身はそういうのは自覚していないとか。こういうのは女性の生理周期や性欲や性感やモテ具合みたいなのに影響しているかもしれないっていうのを示唆していて、私自身は相澤先生があげているウルフの会のメンバーの「自分ではない」感じっていうののいくぶんは、そういう意識的/無意識的な性心理的なものに関係しているんじゃないかと思う。さらに一部の女性にあると想定されている排卵周期に付随する一時的なカジュアルセックス欲求からすると、女性にはチャンスがあればいつでも妊娠できる状態になっていたいという欲求さえあるのではないかとも妄想している。

まあここらへんは男性にはよくわからんわよね。エロオヤジのただの妄想。でも「女は何を欲求しているか」っていうフロイト先生を悩ませた謎はいまだにさっぱり解明されていない。まあそういう心理学的な知見がもっと知られれば、ここらへんのピル嫌悪みたいな話はもっとおもしろくなるんちゃうかと思うんですが、まだデータが足りない。セックス心理学者の人々かんばってほしい。私も若ければ性科学とかエッチな科学やってみたかったなあ。

女性のセックス心理についての最近の知見は以下の本を見るとよい。特に最後のヤング&アレクサンダー先生の本は、最新な感じで、哲学・思想・文学への言及も多くて、上の藤田・宮野先生たちの本を手にとった人もけっこう楽しめると思う。

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)
ジェフリー・F.ミラー
岩波書店
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科学者が徹底追究! なぜ女性はセックスをするのか?
シンディ.M・メストン デイヴィット.M・バス
講談社
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性と愛の脳科学 新たな愛の物語
ラリー・ヤング ブライアン・アレグザンダー
中央公論新社
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References   [ + ]

1. ミラー先生が個人的にもストリップ好きなのかはわからない。
2. 日本にはないタイプのストリップだと思うけどよくわからない。

ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (4)

2巻目の「性」に入ります。この巻、愛じゃなくてどろどろの行為としてのセックスの話になるのかな、と思ってたら、ジェンダーや性自認の性別にかかわる話が多くて最初ちょっととまどいました。でもまあそういう考え方もありますわね。

 

性 (愛・性・家族の哲学 第2巻)
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宮岡真央子「固有の身体・多様な性を生きる:文化人類学の視点から」

とにかくこの論文はマーガレットミード先生のアラペシュ・ムンドゥグモール、チャンブリっていう例の1950年の研究が出てきてジェンダーの説明されてて驚きました。大丈夫かなあ。「男性と女性が通常考えられているのとは逆の気質をもつ」とか、文化人類学のことには簡単には口出せないけど、ほんとうですか、大丈夫ですか。残りはセックスについては文化によっていろいろあるよ、っていう話だけど、知らない分野なのでパス。勉強になりました。


「身体・自己・性をめぐる池袋真との対話」

タランスジェンダーの池袋先生を中心にしたディスカッション記録。情報や主張は標準的なものだけど、性的なマイノリティーの問題を考えるのは重要だと思う。がんばってほしい。ただしGIDみたいな性自認の問題と、同性愛のような性的指向の問題をいっしょにするのはどうなんかな、みたいなのはいつも思う。

シリーズとしては、マイノリティの問題に哲学っぽいつっこみかたをした論文もう一本ほしかった気がする。保守派の同性愛批判がどういうものか、っていうやつか、あるいは同性婚についての応用倫理的なやつか。


佐藤岳詩「私たちの身体と性とエンハンスメント:美容整形をめぐって」

これはおそらく応用倫理では新しい分野なので佐藤先生えらい。佐藤先生は国内のエンハンスメント系の議論のエキスパートの一人。手なれた感じで「本人らしさ(アイデンティチをおびやかす)」「親不孝だ」「不可逆だ」「行為者性が失なわれる」「画一的になる」etc.とかってよくある批判はあんまり有効じゃないって議論して、美容整形の問題は、男女についてジェンダー偏見を強化するのが問題だ、みたいな結論になる。まあ美容整形するのはたいてい女性で、それは女性に性的な魅力が求められるからです、そういうのは男女差別じゃないですか、っていうことですわね。

「現状の……美容整形は、いまだ美の神話に支配される現代社会においては、男性をより男性らしく、女性をより女性らしくするものであり、ジェンダーの固定化、再生産をもたらすものとなっている場合も多い。……誰もが自由に自分の性的な身体を理解し、自分らしく生きることに価値を認めようとする社会とは逆の方向に私たちを突き動かしてしまうのである。」(pp. 96-97)

ちょっとツイッタで書いたんですが、これって佐藤先生ほんとうに本心から思っているのかなあ、みたいな印象はもってます。「美の神話」ってのは、男性は強くなければならない、女性は美しくなければならない」っていう神話ですね。

そりゃ男女ともにイケメン美人がいいっしょよ。そのための美容整形のなにがだめなの? 女性だけが美を求められるとでも思ってるのかしら。男だってイケメンとブサメンの差はものすごくでかい。そりゃお金があればモテる男子もいるっしょ。でもそれはイケメンのモテ方とはちがうじゃんよ。そんなん男子なら誰でも知ってることだ。(そして女子ももちろん知ってる)おつきあいするときにイケメンとブサメンなら、イケメンがいいじゃないですか。他にも、魅力ある人はよい。魅力ない人が、整形にたよって魅力ある人になろうとしてなにが悪いのか。

最近、キャサリン・ハキム先生の『エロティック・キャピタル』って本読んだんですが、これはとても良書でしたね。まあ性的な魅力っていうのは、知力や財産や、ヒューマンキャピタルやソーシャルキャピタルと同様に資本となりうる。それは我々の人生を豊かにする。エロティック・キャピタルは、ハキム先生にょれば、(1) (顔の)美しさ、(2) セックスアピール、(3) 快活さ、(4) ファッションセンス、(5) 人を惹きつける魅力、(6)性的能力などからなる外見の魅力と対人的な魅力に関する多面的なもので、まあ整形で直せるようなのはこうした多面的なのの一部でしかない。

だから、「大金かけて整形するお金があったら本読むなりダンス習うなりファッション雑誌研究するなりしましょう」みたいなのってのはわかるけど、美容整形がなんか「美の神話」なるものに加担するからだめなもんだ、みたないのってのは、なんかねえ。まあ整形ぐらいでは魅力を手に入れることはできないだろうから、宣伝にだまされちゃだめだよ、とかってのならわかりますけどね。でも整形で満足している人もけっこういるだろう。

まあこの論文っていうか美容整形や性的な魅力については、あとでゆっくり考えたいと思ってます。佐藤先生のも価値のある考察でえらい。

とにかくみんなハキム先生のやつ読んで、エロティックっていうか性的な魅力に対する嫌悪感みたいなのについて考えてみるべきだと思う。

あと蛇足だけど、顔とかってのがアイデンティティとあんまり関係ないみたいな話はおもしろいっすよね。実際、私鏡見るときあんまりないから、鏡見ると「へえ、私こういう顔だっけか」とか思う。自分の顔なんてそんなもんよ。

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ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (3)

愛 (愛・性・家族の哲学 第1巻)
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藤村安芸子「古代日本における愛と結婚:異類婚姻譚を手がかかりとして」

いわゆる「海幸彦・山幸彦」の話つかって、女の本当の姿を見て逃げちゃう男の話。『崖の上のポニョ』の主人公宗介は半魚人でもOKなので愛があるが、ホヲリ(山幸)は、子供までつくったのに、出産のときに見るなって言われてたのに本当の姿であるサメを見て逃げちゃったから愛がない。ははは。

この論文は全体に難しい。古事記やポニョを読み解くってわけなんだけど、その読み解きの正当性みたいなのはどうやって保証するのかな、みたいなのとか。まあ解釈としてはもっともに読めるかもしれないけど、それって文学とかの領域だなあ、みたいな。「なぜ古事記はこういう物語・記述を採用しているのか」みたいな問いにちゃんとした答があるのかどうかよくわからない。

「暴力性」、「〈本当の姿〉」とかイメージはわかるような気がするけどわからないような気もする。古事記なんかの叙述が、「自然と人間が出会うということと、男女が出会うことを重ね合わせている」みたいなののもわかるようで共通しているのは「出会う」ってことちゃうか、みたいなつっこみも入れたくなるし。まあ物語、特に古事記のエピソードのような断片的でディーテイルが薄いやつを使ってなにか言うのは難しいな、と思ったり。

私なんかだとこの論文で使われている古事記のエピソードとか見ながら、次のようなことを考えた。

・出産とかのときはやっぱり見てはいかんのではないか。なんにしても本当の姿みたいなのは見ない見せない、ってのでいいのではないか。

・ホヲリさんが「驚いて逃げた」っていったって、ヒメが次の日平気な顔出して「いやー、たいへんでしたたいへんでした、はい、これ赤ちゃん、いやー昨日はサメにもどっちゃってたいへんだったわー」とかやればよかったのではないか。出産とか特別なときなのでサメになってもしょうがないのではないか。トヨタマビメは見られちゃって恥ずかしくて実家に帰ります、とかする必要ないんちゃうか。むしろ約束やぶったのが問題なんちゃうか。なぜそれに触れてないのか。

・ホヲリさんはイケメンだからトヨタマビメたちにモテたようなので、やっぱりイケメンは大事だ。イケメンに対抗するためにきれいになりたいっていうトヨタマビメの気持ちはまあわかる気はする。

・トヨタマビメとイザナミは、まあ「恐しい姿」だから美人に姿を変えている。化粧その他は大事だ。

・本当の姿っていうのはまあ男女問わずおそろしかったりやばかったり滑稽だったりする。大物主さんはヤマトトトビモモソビメに「朝の光のなかで本当の姿を見せてください」って言われて、「んじゃ見せる」って答えて見せたら本体は「小蛇」で驚かれたので恥ずかしくて怒ってしまった。大蛇だったら放っておいても「見ろ見ろ」ってやったかもねえ。わあ、神様、罰あてないでください。それにしてもなんで古事記で女性は陰部を突いて死んじゃうのか。やっぱり実際にあったさまざまなレイプ殺人とかが反映してるんかねえ。ちょっとわからん想像ではある。

・古事記の時代で「恋愛」と「結婚」みたいなのを区別する意味がどれくらいあるかっていうのは微妙よね。「恋う」っていうのはやっぱりエッチなことをしたかったりいっしょにごろごろしたり、そういうのができない状態で近づきたいって思うことだろうし、セックスしちゃうのはそのまんま結婚っしょ。どっから結婚か、みたいなのはあんまり考える必要がない気がする。

・スサノオさんに襲われてアメノハトリメさんやっぱり陰部を突いて死んじゃうわけだけど、これスサノオさんの「性的交渉の結果、相手に死をもたらす身体」が直接に畏怖の対象となってるわけではないんではないか。さすがにスサノオさんでもエッチなことをしたら相手が死んじゃうような体ってことはないだろう。まあスサノオさんはすごく乱暴で邪悪ではあったろう。

あら、本論からぜんぜんずれてしまった。やっぱりこの手のは慣れてないから難しい。すみませんすみません。ちなみに文献リストにあげられている『歴史のなかの家族と結婚』は私は評価しないです。


宮野真生子「近代日本における「愛」の変容」

とりあえず「愛」っていう語がどういう経緯で使われているか、っていう話だと思う。
中国語の「愛」は慈悲心である「仁」にもとづいて他人を大切にすることです。古代日本では「愛」をつかって「いとし」「かなし」「うるわし」「めず」なんかにあてた、と。ものに対する愛玩とかも含むし、人間でも小さくて弱い者に対するポジティブな感情です、ぐらいか。これに対して明治以降に西洋から導入された「愛」は、loveとかamourとかで、キリスト教の愛はアガペーとか隣人愛とかで、どういう語をあてるか困りましたが、けっきょく「愛」をあてることにしました、と。

まあこれはよく知られている話。んで西洋語のloveやamourにはエロティック、あるいはロマンティックな意味でのloveもあるわけだけど、これも「愛」「恋愛」にしますた、と。宮野先生のよると、「明らかに異なる意味内容をもつ「恋愛」と「愛」がloveの訳語として使用され、しかも両者が混在した意味合いで用いられたことから、近代日本の愛をめぐる混乱は始まった」ってことになるけど、まあlove自体がいろいろあるわけだからしょうがないっすよね。

明治になると西洋の文物入れて、19世紀のヨーロッパの恋愛とかそういうのの文化も入れちゃって、坪内逍遥先生とかが書生の間で「ラアブ」とかが流行ったのとかあれしてこれして。そのあとキリスト教団体が女子学生をあれするために雑誌作って、それで恋愛賛美とか恋愛結婚賛美とかする。前の佐藤先生が書いてるプロテスタント的な結婚観がおもいっきり導入されてるわけですねえ。(バルトは20世紀の人だけど、あれに近い19世紀のプロテスタントのものだと思う)

まあこのシリーズでは、西洋での「恋愛」の変遷がちょっとわかりにくいんであれよね。騎士道恋愛とかゲーテとかスタンダールとかフロベールとかそういうのもコラム程度でもいいから必要だったんちゃうかと思うです。西洋でも恋愛の考え方がずいぶん変わってるのがわからないと、明治期の日本でそれらを一気に入れたときにどう困ったのかっていうのがわかりにくいかもしれない。特に19世紀なかばの西洋、特にイギリス・アメリカでのの考え方は必要な気がする。

 

透谷先生。おそらくモテない。

論文では透谷先生登場。なんでこの人この手の話すると必ず出てくるんすかね。若死にしてるしたいした作品残してない気がするんだけど。

んで、この論文では私自身はけっこう発見があって、漱石先生を読みなおしたい気になりましたね。『行人』で一郎は弟二郎に「うちの嫁を誘惑してみてくれないか」みたいなの頼むのよね。嫁は見合い結婚で弟はイケメンなのだろう。少なくとも明朗快活な青年ってことになってるみたい。これはすごくキモいですね。宮野先生は『行人』の方の、「自分はどうあっても女の霊というか、いわゆるスピリットを攫まければ満足が出来ない」とかって発言をとりあげて、二郎さんや漱石先生は、明治キリスト教の影響を受けて「結婚とは相手の魂を掴むという「心の結びつき」でなければならない」と考えてるって読むんだけど、私はもっとキモいものを感じますね。そうじゃないんじゃないか。

そうではなく、もっと女のわけわからなさ、女性の恋愛や性欲や貞操に潜む謎、みたいなのをなんか困ってるんちゃうかと思う。まあただの思いつきだからあれだけど、漱石先生はこういうキモいところがあって、そういや『三四郎』の冒頭の方でもなんか知らない女性といきがかりで同宿することになって、なんかわけわからない女で手を出さなかったら次の日度胸がないってなじられた、みたいなへんな話がある。

必ずしもモテないわけではなかったろうけど性格が意固地だからどうか。

元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。

まあこういう女性が何を考えてるのかわからないっていう恐怖は漱石先生の思考の底流にある感じがしますわね。佐伯順子先生なんかも一郎は「夫婦愛」を手にいれたいともがいているのだ、ってみるんだけど、そうかなあ。『行人』や『三四郎』については、おそらく尊敬する小谷野敦先生あたりもいろいろ分析してると思うからあとで読みたい。

漱石のあとは高村光太郎・智恵子先生の純愛っぽいやつがあれされて、でも実は光太郎先生は邪悪で近代的な「愛」みたいなのを使って智恵子先生をあれしたんちゃうかみたいな説とか検討されたり。議論はかなり難しくて長くて 1)実はこの論集、どの論文も私には長すぎる印象がある。 私にはうまく紹介できないけど、言いたいことは、我々は近代的な「愛」とか、「愛をともなった結婚による合一」みたいな魅力的だけど不可能な理想をもってしまっていて、それでいろいろ困ってます、みたいな感じなんですかね。おもしろいので読んでみてください。分野としての「日本思想」は「西洋哲学」に比べて文学解釈に近いところがあって自由度が高くてなんかうらやましい。

あと余計だけど、「近代日本に成立した「愛」」とかっての、近い表現を見るたびに違和感があって、「それって主に小説家とか文化人とかのお話のなかに描かれた「愛」ですよね」みたいなつっこみいれたくなるんよね。思想史やっている人々はあんまり違和感ないかもしれないけど、私はすごくある。だって19世紀ヨーロッパで言われている「愛」だって、その当時の人々がやってたいろんなこととは別のなんらかの理想、悪くいえばお話だろうって言いたくなるわけだしねえ。思想は私たちではない、みたいな。特に透谷先生みたいなまだなにもしないくらいのうちに死んだ人とかが書いたものってどう評価していいのかわからない。そういう「愛」についてのいろんなあれって、基本的に女子(あるいは男子)を口説いたり喜ばせたりするためのテクニックやレトリックやロマンチックなお話かなんかちゃうなかな、みたいな印象はあるわけよね。こういうのはどう言えばよいのかちょっとわからない 2)古代ギリシアでは女性の地位は低かったし自由恋愛みたいなのかなかったから口説くなんてことは考える必要なかったけど、古代ローマでは高級な女性を口説くのに必要だった。そして吟遊詩人とかが宮廷風恋愛物語っていうヒット作を作って爆発的に女子にウケまくった、みたいな。さらに18世紀の小説の時代にルソー先生あたりがよろめきドラマと恋愛における精神性みたいなのを発明して、みたいに見てる。。まあ文化人の人々は「愛」についてそういうことをいろいろ考えていた、っていうのはそうなんだろうけど、ふつうのひとはそういうのとは違う世界に生きてたんちゃうんかなあっていうのはいつもひっかかってますわ。


References   [ + ]

1. 実はこの論集、どの論文も私には長すぎる印象がある。
2. 古代ギリシアでは女性の地位は低かったし自由恋愛みたいなのかなかったから口説くなんてことは考える必要なかったけど、古代ローマでは高級な女性を口説くのに必要だった。そして吟遊詩人とかが宮廷風恋愛物語っていうヒット作を作って爆発的に女子にウケまくった、みたいな。さらに18世紀の小説の時代にルソー先生あたりがよろめきドラマと恋愛における精神性みたいなのを発明して、みたいに見てる。

ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (2)

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福島知己「恋愛の常識と非常識:シャルル・フーリエの場合」

実は刊行前に目次出たときから一番楽しみにしてたのがこの論文で、フーリエの『愛の新世界』っていう奇怪な大著の翻訳者本人のよる解説っていうか部分的紹介。

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フーリエ先生の『愛の新世界』って本はほんとうに奇怪な本で、図書館には入れてもらったもののどうにも読めない。用語法が異常だし話の展開も異常だし。フーリエ先生は「幻視者」みたいに言われることがあるけど、ほんとうに想像力豊かで、ほとんど妄想に近いものを書きつけている感じ。翻訳もたいへんだったと思う。でもフーリエのその幻視かもしれないヴィジョンっていうのはすごく重要だとは思うわけです。セックスや結婚とかに関して、その後の性的に解放されたコミューン形成とかにもかなり影響与えてるんでしょうね。まあとにかくぶっとんでいる。

福島先生が紹介しているのは、「聖英雄ファクマ」さんのお話。もちろんフィクション。福島先生の紹介の最初のところ書き写すだけでそのぶっとびかたがわかると思う。

「世界的に調和世代が訪れた未来、遍歴騎士団に属して世界各地を転戦して回る人々の一人、美しき偉丈婦ファクマが、小アジアの都市ニニドスに捕虜として捉えられた。彼女が属する黄水仙群団・隊団はおよそ千人の冒険者からなり(地名2行半省略)を経由して、西ヨーロッパに抜ける予定だった。

前哨としてクニドス周辺を探索中のファクマたちを「チェス・ゲームに比すべき陣取り合戦の結果」として捕虜にしたバッコス巫女たちは、「恋愛に関して捕虜たちを所有する権利の一切」をこの後二十四時間にわたってもつが、早く攻撃方に戻りたいので、権利の譲渡を宣言した。捕虜が主人を変えるたびに捕囚期間は常に半分に減額される。捕虜と恋愛する権利を得るため恋愛法廷が開廷されることになった」

すごいっしょ。『シドニアの騎士』みたいっすね。「奇居子(ガウナ)」とか「衆合船(シュガフせん)」とか出てきそう。これでも福島先生がまだかなり抑えてくれた記述になってる。フーリエ先生の本文は読むドラッグみたいな感じ。

福島先生自身もこの世界のとりこまれているふうがあって、この「恋愛法廷」ってのは、「半日間の恋人を決める集団見合いである。街コンであり、出会い系である」って表現している。いやそうじゃないっしょ。奴隷とセックスする権利をどうするか、ってはなしっしょ。奴隷市場じゃないっすか。

ファクマさんは捕虜っていうか奴隷になってしまって、半日だれかの「恋愛」の相手をしなければならないわけだけど、官能愛=唯物愛はいやで、心情愛ならする、なぜなら1ヶ月肉欲の日々を送ったので疲れているから、みたいな。わけわからんです。求愛者っていうかそういうのが8人いて、しょうがないから8人じゃなくて1人なら相手してやるっていう。でも8人の男の話がまとまらないので、んじゃ誰にもやらせませんし恋愛もしません、って宣言する。すると一人がショックで失神してしまう。ファクマさんはそれをかわいそうに思ってうめあわせとして恋愛してあげようと思う。しかし他の男たちからそれはずるいと責められて、人々を苦しめたという掟に反する罪を犯したので、その償いに54人と唯物愛=セックスすることになる。

わけわからんです。いやすごい世界。哲学はたいへんです。

まあこういうフーリエ先生の奇怪なヴィジョンの背景にあるのは、19世紀ヨーロッパでの結婚制度や売春なんかのいろんな問題なんでしょうけどねえ。福島先生の解説もなかなか難しくて、なんとも論評しにくい。

最終節「幸福の条件」を見てみると、福島先生の読みではフーリエは恋愛を政治的に考えて一種の公共事項とみなすべきだと考えていると。まあ世の中なかの不幸の大きな部分はモテないとかセックスできないとか結婚できないとか、そういうのによっているので、恋愛を公共事業にしてしまえばそうした不幸が減る。これがフーリエ先生的な計画セックスですわね。

まあ実際そういう考え方によって、共産村を作ってセックスの相手を計画して毎日変える、みたいなのは19世紀におこなわれていて、あんまりうらやましくないけど話はおもしろいです。フーリエ先生と福島先生のこれを読む前に、下の本読んでおくとこうしたぶっとんだ話が、現実とどう関係しているかがわかって、そのおもしろさがわかるんちゃうかなと思います。

 

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あと蛇足だけど、「ブックガイド」で映画『ドッグヴィル』について「結末の惨劇には戦慄せざるをえない」っていうのもものすごく違和感がある。そこじゃないでしょ、ってな感じ。全体にこういうずれた感じがあって、興味深い。

(追記)

ちなみに、p.125で論じられているキェルケゴールの『恐れとおののき』でのアガメムノンやエフタは、「共同体から後世称賛され、栄光を得られると考えているため」に自分の子供を犠牲にするのではない。彼らは共同体の命運をかけた闘いの場で神に帰って最初に戸口から出てきた人間を生贄に捧げるという個人的というよりは民族共同体としての誓いを立てて敵に打ち勝ったために、出てきた娘を犠牲にしなければならなかったわけだけど、それは彼らが(やむをえず?)誓いを立ててしまったからであって、個人としてみんなから称賛されるためではない。

(さらに追記)

功利主義の理解もちょっと問題があって、p.124の「8人の求婚者たちは……自分の幸福を追求しているだけであり、このような要求を経なければ最大幸福の計量もできないわけだから、その意味では功利主義原理にしたがっていないわけではない」もわかりにくい。もちろん欲求や選好を表明しないと功利計算できないってことなのだろうけど、それ自体は功利の原理とは関係がない。「(多数の利益に仕えるという)統一の掟も八人の利己主義者の行動も原理的には同じ」になるというのは意味がわからない。

またベンサムが同性愛を刑罰で禁じることに反対したわけだけど、「その理由はそれが私的な問題であって、法律の対象になじまないから」ではないはず(これはちゃんとした自信がないけど)。こっそりやられている同性愛を法的に罰する利益がなく、不利益は大きいからのはず。快楽はどんな快楽でもそれ自体として価値がある。さらにベンサムは同性愛などが人口抑制などに有益だとかって話もしているはず。

ちなみにベンサム先生はフーリエ先生と同じようにぶっとんでるし言語感覚が異常な感じがあるけど(どちらも新しい制度の設計や、造語・新語が好き)、そんな奇怪な空想はしないわねえ。タイプが違うんだな。

 

 


ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (1)

藤田尚志・宮野真生子「愛・性・結婚の哲学」シリーズ3巻本ってすばらしいものが出版されて、セックス哲学に関心をもつ者としてよろこんでいます 1)ぼやぼやしてたら先越されちゃった 。偉い。すばらしい。

 

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そのうち2冊は執筆者の先生たちから献本いただいて(ありがとうございますありがとうございます私のようなものにありがとうございます)、書評や紹介書かねばと思ってたんだけどおもしろいけどけっこう難しくてなかなか書けない。でももっと売れてこの分野に読者が関心もってほしいから、ちょっとずつ紹介と短評してみたいけど、けっきょく簡単な読書ノート。私が書くとどうしても批判的になってしまったり茶々入れたりしてしまうんですが、そういうのは差し引いてください。おもしろくてたいへんよいシリーズです。まじめな書評はいずれ書きたい。

まずは『愛』の巻の論文3本から。

近藤智彦「古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚:プラトンからムソニウス・ルフスへ」

近藤先生の関心は同性婚にあるようで、ムソニウス・ルフスという古代ローマの哲学者の結婚論を中心にして、現代のカソリック哲学者ジョン・フィニス先生とフェミニスト哲学者マーサ・ヌスバウム先生の論争を検討したりプラトンに遡ったりかなり複雑な構成の本物の哲学論文で、概説ではなく、一般的な読者には歯が立たないように思いました。実は私自身も歯が立たなかった。読者としてはとりあえずプラトンの「エロース」やら「合一」や「産出」やら解説してアリストテレスのフィリアと家政やって、のちにギリシア社会とローマ社会での「(エロティックな)愛」と「結婚」の地位の変化を説明してから、必要ならムソニウス先生を検討して、それがキリスト教っていうか西洋文化に及ぼした影響みたいなのを論じる、ってふつうの順番にしてほしかった。そもそもギリシアとローマでは女性の地位がぜんぜん違うと思うし。でも近藤先生の思考の足跡みたいなのが見えて勉強になる。

 

小笠原史樹「聖書と中世ヨーロッパにおける愛」

分担のなかで、古代ギリシアの「エロース」の話は小笠原先生がやることになったわけですわね。エロースは足りないものを求める欲求としての愛です。それは美に向かいます、みたいな。んで聖書のアガペーってのは神から人間への愛。隣人愛とか。まあキリスト教の人が「愛」の話すると、かならずこういうふうになるんだけど、正直これってどうなんすかね。こういうのってドニ・ド・ルージュモン先生あたりがやりはじめた対比なんだろうけど、これって(おそらく)このシリーズ全体でやりたかった性欲と関係するエロティックラブの話とどの程度関係あるんだろう、っていつも思うです。あと、まずはいわゆる旧訳聖書でのいろんな恋愛話・エロ話は紹介してほしかった気はする。サムソンとデリラぐらい紹介してあげてほしい。サムソンかわいそうすぎる。

中世となるとアウグスティヌス先生がやっぱりセックス哲学者としてものすごく重要なわけですが、エロス/アガペーに対応するクピディタス(欲望)/カリタス(愛)、っていう対比のなかで話が進む。もっとアウグスティヌス先生がいろいろ悩んだ話書いてほしいし、例の原罪と性欲の関係の話も欲しいと思いますた。まあこのクピディタスを克服してカリタスとか隣人愛とか実践しなきゃなりません、ってな感じで中世思想は進みます。

カペラヌス先生の『宮廷風恋愛の技法』はオウィディウスの『愛の技法』と同じく、とてもおもしろく滑稽な読み物なのですが、この紹介だとなんか真面目な本みたいであれですね。アベラールとエロイーズの話も純愛ってよりはかなりひどい話(アベラール先生はこの件に関しては善人とは言いがたい)なわけですが、そこらへんもあんまり批判されてない。でもまあ愛ってのを宗教的に理解しようとするとまあこういう感じになるんでしょうか。もっとエッチな話が読みたかったけど、キリスト教学や宗教哲学の伝統の枠内で恋愛やセックスの話をするのはけっこう難しいのかもしれない。まあ中世ってたって1200〜300年ぐらいあるから一章でカバーするには広すぎる気がするけど、ポイントをうまくおさえてある。

アウグスティヌスか、アベラールか、どっちかにしぼった方が読者は理解しやすかったかもしれない。中世ヨーロッパといってもいろいろ厳しいこと言われながらみんな楽しく邪悪なセックスしていた、っていうかみんなめちゃくちゃしてから禁止したり勧告されたりしたわけで、そこらへんの歴史的事情もちょっと紹介してほしかった気はします。エッチな告解の話とかもおもしろい。フランスで研究が進んでいて、藤原書店あたりからおもしろい本がたくさん出てますね。キリスト教で結婚がどう扱われてるか、特に結婚が「秘跡」ってことになって離婚できなくなるあたりの話はおもしろいと思う。

佐藤啓介「近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論?:聖と俗、愛と情欲のあいだで」

小笠原先生がキリスト教中世までやってるので、佐藤先生はプロテスタント以降を担当する、って形になってるんだと思う。プロテスタントってことでルターからはじまってるけど、当然パウロに遡ることになる。愛と情欲の関係はどうなってますか、と。

実はこの論文には見落しがちなけっこう大きな欠陥があって、この「愛と情欲の関係はどうなってますか」という問いの情欲の方はわかるんですが、この問いが設定されるまで、「愛」の方はほとんど説明されていない。佐藤先生自身や研究会のメンバーは近藤先生や小笠原先生が設定した友愛みたいなやつか、カリタスみたいなやつって理解しちゃうんだろうけど、読者にはわからん。佐藤先生の説明では、パウロ先生もルター先生も特に夫婦間の愛情みたいなのについてはたいして言ってないわけで。パウロの「それぞれ、妻を自分のように愛しなさい」のところで出てくるけど引用内だから目に入りにくいしそれをどう理解すればいいのか、って解釈が必要だったと思うです。まあこの「自分のように愛しなさい」は「自分だと思ってエッチに愛しなさい」の意味ではないですわね。ははは。

さて、バルト先生によれば正しい結婚はどういう関係ですか。

(1) 結婚の決断がものすごく重要で、それは神の命令に服従することです。ちょっとわかりにくいんですが、まあ神様が誰と結婚するか決めてるわけでしょうが、それを「自由に」選択する、っていうそういう形になってます。佐藤先生はけっこう淡白な書き方しているんですが、まあ「運命の人」とか「私はこの人と結婚するために生まれてきたんだわ」って決断する、そういうのにすごい価値があるよ、ってことでしょうね。結婚式の日とかそういう高揚した感じをもつひとはけっこういるかもしれないし、それが神様信仰を強化するってのはありそう。

次に、(2) 生の交わりとしての結婚は「遂行すべき課題」とならねばならない、そうです。「生の交わり」っていうのはまあ性も交わってるんでしょうが、それだけじゃなくてまあいろいろ交わるわけですね。我々は結婚生活をうまくやるようがんばれねばならない、だってそれを神様が決めたことでもあり自分が決めたことでもあるから、みたいな感じですかね。たんに他人にとやかく言われずにセックスするためとか、子供つくるためとか、生活のため、とかってんではなく、人間どうしがちゃんと交わるのが目的であり課題であります。まあ神の計画なり予定なりをちゃんと遂行するのが課題。佐藤先生は「愛や情欲だけでは、神の命令を遂行し続けることはできない」っていうわけですが、それだとまあ遂行できるのはせいぜい3ヶ月や3年ぐらいでしょうからね。

(3) 正しい結婚は完全で全体的な「生の交わり」です。ここ「完全で全体的に交わる」って佐藤先生くりかえしているけどどうするのが正しく交わるのかよくわからない。まあいろいろ二人で生活をがんばる、価値観もすりあわせる、思ってることもちゃんとコミュニケーションする、とかそういうことなんですかね。ちがうような気がする。

(4) 結婚は排他的な生の交わりです。浮気とか不倫とかだめです。神様と人間の関係は一対一なので、それと同じように男女の関係も一対一であるべきだ、みたいな感じらしい。神様と人間の関係が一対一って言われると宗教的でない人間は「いや、神様はみんなの面倒見てるんちゃうか」って思ってしまうけどそういうわけではなく、信仰という形でつながるときは一対一なのだ、ってことだろうけど、それだったらセックスや結婚だって複数としても、それぞれについては一対一なんちゃうか、とかつっこみたくなってしまう。

(5) 結婚は永続的な交わりです。試験結婚とか許しません。佐藤先生ははっきり書かずに「当時の結婚に対する風潮」ってほのめかしているけど、このバルト先生の議論は1932年で、たとえば前にちょっと紹介したラッセルの『結婚論』が1929なので、直接の敵はラッセル先生あたりですわね。もちろん風潮っていうか当時の若者がいろいろしていたのもある。

とかってのが条件。異様なことに、夫婦間の愛情とかさっぱり入ってこない。これ佐藤先生は「端的に言って、バルトの結婚論において、愛はその本質を占めていない」って正しく指摘している。さっきの「愛についてはほとんど説明してないよ」っていうのは、バルト先生がほとんどなにも言ってないからかもしれませんね。でもそれならなおさら佐藤先生が結婚に必要な愛ってのはどういうタイプのものか述べておいてほしかった。

まあ横にそれちゃうけど、「神様が決めた相手とがんばる」っていう考え方の魅力もわからんではないんですよね。昔統一協会っというカルト団体とされている宗教が日本でも流行してたんですわ。この宗教では結婚がものすごく大事で、まず信者は基本的に童貞処女が望ましく、その人々は教祖が決めた相手と結婚する。集団結婚とかで100〜200人ぐらいずらーっとその日にあった相手と結婚式をあげる、みたいなんですげー。んでそれテレビでインタビューやってたの見たことあるんですが、インタビュアーが「はじめて会う人と結婚して大丈夫ですか、合わなかったらどうするんですか」みたいなこと聞いたら「神様が決めたことですから、合わないなりに二人で努力していくのです」みたいなの言ってて、感心しました。好きだほれたとかで結婚しちゃったら好きじゃなくなったら終りだけど、最初からそういうの期待してなければまあ別にロマンチック・エロチックにうまくいかなったとしても生きて交わりを保ちつづけることは可能なのかな、よくできてるな、みたいな。とりあえず神様を挟んでおけば安心。

もとにもどって、佐藤先生は「そんな正しい結婚できてる人いるんですか」って問いを建てる。バルト先生は「そんなやつおらん」とか答えてるらしい。すごいですね。ここにキリスト教の秘密がある。すごく高い要求をして、それに従えない人は罪人です。「人は誰もが情欲にまみれた「姦淫する者」であり、結婚に関する神の「命令」は、人を罪人として告発し続ける厳しい「誡め」でもある」(p.94)というとらしいです。でもキリストであられるところのイエス様はそれをゆるしてくれるのかもしれない。こういうキリスト教的なの、私はもう受けつけられない。でもキリスト教を信じるってのはこういうことなんだろうとは思うです。


References   [ + ]

1. ぼやぼやしてたら先越されちゃった