加藤秀一の性暴力論

昨日加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読んでかなりショックを受けたので、ちとメモを残しておく。

ちょっとよく読んでみる。気になった終章の「性/暴力をめぐって」の前に、

ポルノを論じているところ(第3章)でも性暴力の話をしていた。

加藤先生の「暴力」論

p.176で、先生はこう言う。

暴力という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。・・・人間の肉体に侵襲を加える行為でも、それが行為参加者によって一定のルールに従う合理的行為(医療行為とか愛のムチとかいった)として承認されちるときには暴力ではない」

OK。「暴力」は不当な力だ。ただし物理的な力に限定する必要はないと思う。

しかし次のページ(p.177)は問題がある。

教師が生徒を殴った。・・・これは暴力か否か。行為とその文脈という枠組みだけで考えている限り、この問いに解答を与えることはできない。ここで問われているのは、「殴る」という行為の社会的な意味を決定すべき文脈それ自体の意味づけという、一段高次の論理階型に属する問題だからである。したがって、行為の文脈に対してさらにメタ・レヴェルにある「権力関係」という第三の水準を導入する必要がある。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証され正当化されているときには、殴られた当の生徒がいかに不満を抱いても、教師の行為は暴力という社会的意味を付与されることはない。

こういうのを読むと、社会学者ってのはなあ、と思ってしまう。社会学者の多くにとって、「暴力」かそうでないかってのは「社会的意味」でしかない。「社会的意味」ってのをはっきりさせてくれればいいのだが、たいていの社会学者ははっきりさせてくれない。おそらく上の文章の意味は、「*人々*はそれを暴力とはみなさない」っことなんだろうが、この「人々」が誰かわかんないから不満なんだよな。「行為とその文脈という枠組み」で考えて答が出ないのは、加藤先生が「暴力」かどうかを「人々がそれをどう見るか」という記述的な視点からそれを見ようとしているからだ。哲学者から見れば、あるものが「暴力」であるかどうかは、(加藤先生も「不当な」ということでちゃんと理解しているとおり)事実判断ではなく価値判断なのだから、いくら事実に訴えても一義的な答が出ないことがあるかもしれないのは当然のことだ。いくら「権力関係」なるものを視野に入れても、事実から価値判断は直接には出てこない。(もちろん道徳的実在論をとるひとは別かもしれないが、少なくとも哲学者はこんなおおざっぱな議論はしない。)

人々があるものをある仕方で意味づける、って事実と、その意味づけが正当かどうかということは別のはずだ。ここに混乱があるように見える。

ある性的行為・・・が性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。だからこそ、性的行為の意味を誰の視点からとらえるのかという政治的問題が決定的に重要なのだ。(p.177)

「政治的問題」なのか?「政治的」ということでどういうことを言っているのか不明。

・・・フェミニズムの性暴力論の核心は、女性の視点を肯定するところにある。
性暴力とは被害者=女性が望まない総ての性的行為の強制を指す。

ううむ。「性的行為の強制を指す」だけではだめなのか。「女性が望まない」がどうしても必要なのだろうか。まあいいけど。

p.178のペニスの挿入がどうのこうの、というのは正しい。が、

被害者が相手の行為によって不当に傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。(p. 178)

はおそらくまちがっている。ある人が「不当に傷つけられた」と感じれば、その人がそれを自分にとって性暴力と認める十分な理由になるかもしれない。しかし、それがただちに「性暴力である」と他の人々も認めなければならないわけではない。正当か不当かの区別は、本人の感覚とは独立に示されなければならないんじゃないの? 誰かが「不当に傷つけられた」と感じ、不快に思うならばそれはぜんぶ性暴力、というのでは、あまりにもインフレだ。たとえばある種のフェミニズムの考え方すら、一部の*女性*にとっても不快で人を傷つけるもののようだが、だからといって大学の必修の授業でフェミニズムをとりあげることが性暴力にあたるわけではない。

なんといっても気になるのは、加藤先生は自分自身が事実判断ではなく、価値判断、規範的判断をしていることをどの程度意識しているのかってことだよな。「当人がいやがれば性暴力なのだ」という判断は、「(性)暴力」が価値判断であるかぎり価値判断で、「当人がいやがる」は事実判断だ*1。加藤先生自身が正しく指摘しているように、「暴力」は「不当」な力であり、「不当」であるかは価値判断なのだから、「傷つけられたと感じる」ことから「それは性暴力だ」と言うことは(直接には)論理的関係ではない。ここには論証が必要だ。

ここまでの議論を承認するならば、いわゆる「差別」と暴力との等根源性も明らかになるだろう。(p. 178)

性暴力をめぐる闘争とは、同時に性差別をめぐる闘争でもある。それどころか男の女に対する性暴力は、性差別という全般的状況の(突出してはいるが)一部分であるに過ぎない。(p. 179)

ぜんぜん明らかではない。加藤先生は「差別」という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。加藤先生はわざわざ「*いわゆる*「差別」」とまで表記するのだから、ひとびとが「差別」をどういう意味で使っているかある程度把握しているのではないかと思うが、わたしにはさっぱりわからない。わたしにとっての「いわゆる」差別は、「当の問題について重要ではない特徴をつかってあるグループの人々を選びだし不利益な扱いをすること」のような感じなのだが。単にあるグループの人々をある仕方でとりあつかうのこと自体はこの意味では「差別」ではない。(もちろんもっといろいろな意味はあるのだろうが、加藤先生がどういう意味で使っているのかを知りたい)

差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である・・・人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。したがって厳密には、人は独りでは差別をすることはできないし、反対に独りでは差別をしないこともできない。」(p. 179)

とおっしゃるわけだが、(私の頭が悪いから)よく理解できない。社会的な差別が社会的であるのは当然だと思うのだが。

「差別」は定義していただけてないが、「性差別」の定義はある。

ところで性差別とは何か。詳細に論じる紙数はないが、さしあたり、女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元することであると定義しておこう。(p.179)

なるほど。定義としては「~認めず」は必要ないような気がするけど。それにこの定義では多くの性差別(たとえば就職における女性差別)が抜けおちると思うが、まあ定義は自由だ。

加藤先生の「性」暴力論

加藤先生は、彦坂諦先生の論文(『男性神話』径書房1991。まだ読んでない)に影響を受けて、性暴力が他の暴力と違うのは被害者の側の「屈辱」にあると見ているようだ。

彦坂諦は、屈辱という言葉を用い、次のように問うている。

なぜ強姦されたことをひとは屈辱と感じるのだろうか。
強姦された女が、私たちのこの社会のこのいまの状況のもとで、そのことを屈辱と感じるのは……私たちのこの社会から、歴史的・文化的にじゅうぶんないわれをもって、それは屈辱であるという見方を押しつかれているからだ。

ここで屈辱という言葉であらわされているものが、「性暴力」から「暴力」を引いた残余である。(p. 326)

おそらく彦坂先生も加藤先生もまちがっている。「性暴力」から「暴力」を引いたら、残るものは侮辱ではなくて性欲だ。性暴力が女性に屈辱を与えることは多いだろうが、屈辱は必要条件ではない。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

 

昨日も書いたが、いろいろショッキングな文章だと思う。

「屈辱感」とはどのような感覚か?

まず、「屈辱」とかってのは性犯罪だけなく、一般に犯罪の被害者、もっと広く不当な行為を行なわれた人間にとっては共通の感覚だ。加藤先生はカツアゲされたり道端でおびやかされたりしたことがないのだろうか?私自身はカツアゲされそうになったことはある。もしその犯人に金をとられたら、それは私にとって屈辱的であったろう。暴力的な犯罪の被害者になるということは、まさに自分の弱さを意識させられるということだ。暴力的でない犯罪でも、自分の攻撃されやすさvulnerabilityを意識することになる(犯罪被害の現象学というのはおもしろそうだ)。はっきりとした犯罪でなくても、誰かから騙されたり、操作されたりしたときに我々はひどい屈辱を味わう。たまらん。

「辱める」ってことは

いっぽう、加藤先生が性暴力のポイントと認める「辱める」のはもっと複雑な概念かもしれない。女性を辱めるdishonorするということの裏には、「貞操」や「純潔」が女性の誇りhonorであるというモーツアルト時代の響きが感じられる。わたしには正直なところよくわからん。

ここで私がショックを受けたフレーズが出てくる。

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

私がショックを受けたのは、強調した(strongでかこった)ところ、「でも自分も少しは感じたんじゃないの?」だ。この文脈で出てくるのはほんとうにショッキング。

なにがショッキングかといって、女性が強姦その他によって「快楽を味わう」ことがこの文脈で出てくるとは予想してなかったらからだ。しかし、これは加藤先生の言う「辱める」ことの最も重要なポイントなのだ。

たとえばわれわれは、人を殴って辱めることはできない。金を奪っても辱めることはできない。それらは外的な事件であり、本人の「誇りhonor」とは無縁のことだ。運が悪かっただけ。この意味では、われわれはどんな不正な目にあっても傷つくことはない。

哲学とか好きな人のために書いておけば、ソクラテスは不正なことをされても自分が不正なことをしなければ魂が悪くなることはないと言ったし、ウィトゲンシュタインは「確実性について」で同様のことを主張している。

しかし、ある考え方によれば、不本意でも、性的な快楽を味わってしまうことは、そのひとをその行為に対して共犯関係におくことになるらしい。これは馬鹿げた考え方で、まさにレイピストの発想だ。われわれはいくらおいしいものでも無理やり口に入れられたくない。(しばらく前に山形浩生先生について書いたときのフランクファートの一階の欲求と二階の欲求の区別、あるいは欲求のアイデンティフィケーションの話がここらへんで効いてくる。)

もちろん、加藤先生は、そういう「一般社会の考え」を自分なりに構成して書いただけで、そういう発想に彼自身はコミットしていないと言うだろう。しかし、彼の発想では、社会がどう思うかがすべてを決定してしまうように見える(私の誤解だと思うが)。

田村公江先生の『性の倫理学』(丸善株式会社、2004)という本では、非常に大胆な発言がある。

筆者は高校生のときに通学電車の中で痴漢にあったことがある。満員電車の中で立ったまま眠っていたきに、おっぱいを触られていたのだ。うとうとしながら、なんだか気持ちよくなっていた。」「快感を感じた=本人にとっていやなことではなかった」、だから痴漢は悪いことではなかった、と言えるのだろうか。答はノーである。性的な快感を呼び起こす身体接触を受け入れることに関して、筆者は同意を求められていなかったからである。快感を感じたからといって、同意があったと事後的に言うことはできない。

これは痴漢体験が被害者に身体的な快楽をもたらすことがあるという非常に勇気のある発言で(アカデミックな文脈では空前絶後で、これが唯一)、その正直さにまったく敬服する。しかし、田村先生が指摘しているように、そういう快楽と性暴力の不正さはまったく関係がないのだ。

うーん、やっぱりうまく表現できない。加藤先生が、「少しは感じたんじゃないの?」という見方が「彼女の存在そのものの否定に等しい」と言うときに、いったい加藤先生自身が何を考えているかが問題なのだと思う。たしかに「感じたんじゃないの?」という考え方はその女性を単なる性的なオブジェクトに貶めるものかもしれない。しかしそれはその発想がおかしいんであって、その性的暴行そのものではない。性的暴行そのものの不正さは、「社会の見方」とは独立のはずだ。そうでなければ、社会がOKと言えば性的暴行もOKということになってしまう。

その女性が「汚れ」にされるとすれば、それはそういう見方が汚れにするのであって、性暴力そのものがそうするのではない。この性暴力そのものと、性暴力にあった人に対する社会の見方が、加藤先生のなかではさっぱり区別がついていないように読めるのだ。

私がショックを感じたのは、加藤先生がそういう「汚れ」意識を内面化してしまっているところにあるんだと思う。もちろん、ただの例として構成したものなんだろうけど。

辱めることと男性的性欲

さらにつめてみると、たしかに加藤先生の言う女性を「辱める」ことと、強制的に快楽を味わせることの間には概念的な関係があるように見える。男性的なセクシュアリティにとって、快楽を強制的に味わせることは、たしかに相手の女性を辱めることなのかもしれない。そしてある種の人々にとって、快楽を強制することが、女性に対する性暴力のポイントかもしれないと思う。女性を単なるオブジェクトとするだけでは、十分女性を辱めたことにはならない。上で書いたように、どんな不正な目にあっても、誇りを失なわないことは(理論的には)可能だ。誇りを失なわせ、屈服させるには、相手を権力関係を同意させなければならない。その手段のひとつが快楽だ。松浦理英子が「嘲笑せよ」と主張したのは正しい。たんなる物理的な暴力では人を屈服させることはできない。快楽なり欲求なり、被害者がそれを認めることが必要なのだ。そういうわけで、加藤先生は、男性的な性欲のなかにある「辱める」ことと「快楽」との間の関係を正しく見ているのだが、十分それを自覚しているかどうかはわからない。

これがおそらく加藤先生の不用意な文章を読んで私が感じたショックの本質だ。おそらく女性のほとんどは、友達が痴漢されたり強姦されたりしたときに、「感じた」かどうかは問題に無関係だと思うだろう。というか、「感じた」かどうかを発想さえしないだろう(「今日電車で痴漢にあって腹たつ!」「で、感じた?」とかって会話はありえない)。しかし加藤先生のような女性の視点にかなり近い人でさえ「感じた」かどうかが問題になるかもしれないというところが私にとってショックだったんだろうと思う。男性のセクシュアリティにはまだまだ謎が多く、加藤先生のように最も明晰で自覚的なひとでさえバイアスから逃がれることは難しい。

まあもうずいぶん前の本だから加藤先生の考え方は変わっているかもしれなし、もうこういう不用意な表現はしないだろう。ここらへんの問題について最近の見解を読んでみたいものだ。

うーん、だめだ。頭悪い。もうちょっと言うべきことがあるような気がする。また明日。

*1:「いやがる」「不快に感じる」「傷つけられたと感じる」のは心理的事実。ここは混同しやすいので注意が必要。

性=人格論とか

セックスやセクシャリティまわりの社会学や哲学まわりというのはほんとうに難しい。私の頭が悪いからなのだろうが、よくわからない議論が多くて困る。

今日は「性と人格」まわりの議論を見てみようとしたのだが、これがまた泥沼。自分用にちょっとだけまとめを作っておく。

「性=人格論」という言葉がある。この「=」をどう発音するのかが非常に気になるのだが、まあそれは置いといて。華やかな人々がこの「性=人格」論をやっている。重要なものだけあげると

1992 (1995) 松浦理英子 「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」
1994 → (1998) 上野千鶴子 「『セックスというお仕事』の困惑」
1995 赤川学 「売買春をめぐる言説のレトリック分析」
1998 浅野千恵 「『性=人格論批判』を批判する」
1994 (1998) 上野千鶴子 発情装置―エロスのシナリオ
1999 赤川学 セクシュアリティの歴史社会学
2003 杉田聡*1 『レイプの政治学』

とか。瀬地山・角田対談(1998)とかもあるんだが、まああとで。

赤川先生の言説分析

この「性=人格論」という「=」のはいった形の言葉を造語したのは、どうも赤川学先生のようだ(と浅野千恵先生が言ってる)。

売春が「人格」や「人間性」との関わりにおいて問題化されている。
こうしたレトリックの前提になっているのは、「性そのものが人格や人間性の中心に位置する」という認識である。これを性=人格論のレトリックと呼ぼう。
(江原由美子編『性の商品化』勁草書房1995, p175 )

これだな。

赤川先生は、その後超労作『セクシャリティの歴史社会学』の第11章でさらに詳しく性=人格論の源流をさぐっていらっしゃる。1995年の論文では「レトリック」と呼んでいたが、1999には「レトリック」ではなく「言説」と呼んでいる。(おそらく「レトリック」という言葉が与える「単なる表現上の修辞や工夫」といった印象を嫌ったのだろう)

んで、この赤川先生の研究は私にはけっこう問題があるように見える。

まず赤川先生は「人格」の概念を知るために佐古純一郎の『近代日本思想史における人格観念の成立』という本を参照して、ほとんど無批判に信用しているように見える。(佐古先生の本は持ってないのでわからん)

p.275で赤川先生は、

佐古によれば、「人格」という言葉がPersonalityの訳語として用いられるようになったのは明治二十年代前半

だという。これはもちろんOK。

それは当初は心理学の訳語として使われていたが、やがて中島力蔵・井上哲次郎らによって哲学・倫理学上の用語として定着していく。

ということらしい。これもOK。ただし、そっちの意味の「人格」はpersonalityの訳語ではなく、personの訳語のはずだ。これについてどういうわけか赤川はまったく触れていない。(そしてそれを柳原良江先生は博士論文でそのまま援用してしまっている。おそるべき劣化コピーの連鎖。)

この混同をしたのが佐古先生か赤川先生かははっきりとはわからん(おそらく佐古先生)が、非常に重大な混同だと思う。赤川先生はp.276でこう言う。

まとめると、近代日本において「人格」という観念は、(1)人間の中核にあるものであり、(2)「物」や「器械」ではなく、(3)手段として利用してはならないもの、という含意を持つ記号として生まれた。その意味で「人格」という観念は、現在私たちが通常の意味で使っている以上に、哲学的・倫理学的な負荷の高い概念であったようである。筒井清忠が論じているように、その事情は、「人格」概念が、「人格の向上」を旗頭とし明治末期に登場した修養主義=人格主義とも密接に関わっていたことで一層、強化される。

佐古先生はおいといて、これはとりあえず赤川先生の解釈と受けとめていいのだろう。(赤川先生は「=」が好きなのね。たしかにこの人が造語したように見えるな。)(あと赤川先生が「記号」や「観念」や「概念」をどう使いわけているのかも興味あるが、まあいいや)

このまとめは、(1)の心理学でのpersonalityと、(2)と(3)の(カント的な)倫理学でのpersonを混同してしまっているため、使いものにならないように見える。たしかにカント先生は、価格をもつ「物」と、尊厳をもつ「人格」をはっきり区別しているし、

「あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないようにせよ。」

のような形で人格を単なる手段として利用することを戒めている。

でも、カント的な意味では、「人格person」は(1)人間の中核にあるものではない。カント的な意味だったら、それは人間性Menschheitだ。さっきの1995年の論文では正しく「人間性」にも触れているのに、なぜ『歴史社会学』では落としたんだろうか。

「まとめ」の(1)や、修養主義で言われるのは性格特性character traitや人間性や道徳性をさす「人格」で、けっきょく赤川先生の「人格」は日本語で同じ訳語になる複数の概念をごっちゃにしたものでしかない。

赤川先生は日本の社会学者のなかでも抜群に明晰な方なので、もちろんそんなことには気づいている。大正~昭和の恋愛至上主義と性教育を概観して、次のように言う。

性=人格論とは、恋愛至上主義のフィールドにおけるカント的用法、つまり「人格である性を、道具・モノ・機械のように扱ってはいけない」という倫理命令と、性教育のフィールドにおける性の重要性の強調、つまり「性は人間生活の中核に位置する重大なものである。」というフロイディズム的用法との二つの要素からできあがっている。

これは、非常に重要な主張だ。ただしカントが恋愛についてどう考えていたかというのはおもしろい問題で、カント自身は恋愛至上主義からはもっとも遠い場所にいるはずだ。赤川先生は「恋愛至上主義」がカント議論の流れにあるというが、カントというよりはゲーテ→ショーペンハウエル→トルストイ→ロマン・ロランとか続くロマン派からヒューマニズムの議論なんじゃないだろうか。文学上の自然主義に対する反動もあるわけで、ここらへんもっと難しい対立があるように見える。

まあそこらへんの細かい議論はおいといて、問題は、こういうまったくちがった源流から来ている(原語が違うはずの)「人格」という訳語が、いっしょくたに議論されてしまっている点にある。赤川は少なくとも源流が違うのだからこれらの「人格」がまったく違う概念であることも理解しているはずなのに、それをはっきり述べない。むしろ積極的に混同してしまう。上で引用した文章に続いてこう言う。

そしてこの二つの要素は、戦後の純潔教育において合流・合併することになる。

このようなところに、赤川の「性に関する言説の歴史社会学的記述」という方法論そのものの重大な欠点があるように見える。心理学的なpersonalityと倫理学的なpersonが混同されたのは歴史的な必然ではなく、偶然にすぎない。ぶっちゃけて言えば、personalityとpersonが混同されたのは、どちらの派閥も日本語で「人格」という訳語をつかってしまったために、頭の悪い人々がその二つを混同してしまったからにすぎない。しかし赤川の方法論では、「とりあえずこの時代にはこういうふうに言われていたのでこうだったのだ」としか言えず、批判することができない。赤川先生は、ここで混同があったことを指摘し批判するべきであって、同じ「人格」という日本語を使っていたからといって、それを無批判に受けいれてしまうのが非常に奇妙に見える。彼の方法でわかるのは、せいぜいのところ、「混乱した思考のなかで日本人の文筆家たちが「人格」と性のつながりについてどう考えていたか」でしかない。そしてそれはふつうの人々の生活や意識からも乖離してしまっているかもしれない。(あら、うまく表現できない。私の頭が悪い。)

なんかだめ。わからん。赤川先生はp.286-7で吉本隆明まで持ちだしてごちゃごちゃやるのだが、わたしには理解できない。うう。

上野千鶴子

赤川先生の方法論については上の記載はなんかおかしいので考えなおすです。

で上野先生なんだが、上野先生が『発情装置』の序文でやっていることは、赤川先生や加藤秀一先生の研究に影響を受けているんだと思う。(90年代後半から上野先生は親分になり、子分たちの研究を十分参照するようになった。これは「フェミズニムの社会学」があるとすれば非常に重要な一面なんだけど・・・*2上野先生は、

セクシュアリティの歴史的研究があきらかにするところによれば、性と人格の結びつきは、「近代パラダイム」というべきものです。もちろんここには男にとっては性と人格の分離が可能だが、女にとっては性と人格との分離は不可能だ、という「性の二重基準」が組み込まれています。(p.23)

とかって言ってしまうわけだが、ここで上野先生が「人格」という言葉で何を言おうとしているのかが曖昧でわからん。少なくとも赤川先生のいう(1)の意味か、(2)(3)の意味かをはっきりさせる必要があるんだろうが、これではどうしようもない。社会学者でこれほどまでに自分の使っている概念に無批判な人はめずらしい。おそらく、とりあえずただ書いてみたのだろう。

そもそもカントからロマン主義的な「人格」が近代的なものだってことはそうなのかもしれないが、もっと注意が必要に見える。セックスははるか古代から重要だったと思うのだが。

浅野千恵先生の「性=人格論批判」批判」

浅野先生というひとは上野先生とかと比べるとずいぶん真面目な人のようだ。深刻すぎて困ってしまう。「『性=人格論批判』を批判する」という論文は腰のすわったフェミニスト的意識に根差したよい論文だと思う。(私はこの人が書くものを非常に高く評価している。論文は先生のホームページから手に入るのだが、浅野先生、ディレクトリが丸見えですよ。 )

浅野先生は(1)赤川流の「性=人格論は近代固有だ」」という見方を否定。フーコーはインチキ。(2) 「性=人格論」批判は、たんなるレトリックである「性=人格論」を実体化してしまっているのでダメだ、(3) 「性=人格論批判はフェミニスト的でない。」の三点を主張したいようだ。ここでは議論しないけど、(1)と(3)はその通りだと思う。問題は(2)が何を主張しているか。

私がとりあえずの疑問として提示しておきたいのは、「性=人格論批判」の言説が、むしろレトリックレベルで提出された議論~を実体視するところに成り立っているのではないかという疑問である。

と言うわけだが、この周辺の部分が読みにくくてよくわからない。もし非常におおざっぱな解釈をしてもよいのなら、浅野先生が主張したいのは、「性と人格が結びついているなんてのは、売買春を非難したり規制するためのたんなるお話。だから、そんな議論をまじめに受けとって議論するのはだめだ」ということになる。これでいいのだろうか。

浅野先生も「人格」ということでなにを言おうとしているのかはっきりせてくれないから、せっかくの気合の入った論文もだいなし。もったいない。

杉田聡先生の上野批判。

んで、「性=人格」論者の代表が杉田聡先生なわけだが(NHKビジネス英会話の先生とは別、のはず)。

あんまり好きな人じゃないけど、とりあえず上野先生の「性と人格のむすびつき」が多義的であることを正しく指摘している。さすが哲学専攻(というか、そういう分析ができないようでは哲学勉強している価値がない)。杉田先生によれば、上野先生の「人格」概念は少なくとも

  • 人となり
  • 尊厳を有する人たるペルゾーン
  • 愛もしくはそれに類する心情・内面

の三つの意味で使われているという。最初のが赤川先生の言う(1)のpersonality、二番目が赤川先生の(2)、正しい。三つ目を「人格」と呼ぶのはかなりむずかしいのだが、上野先生が斎藤美奈子のインタビューに答えたものなどを見ると(浅野論文参照)、たしかにそういうルーズな使いかたをしているようだ。「愛」や「親密性」が基本的に「人格的なまじわり」なので、そういう使われかたをするようになるんだろうな。ルーズすぎるが。

わたしだったらこれに加えて「人間の価格」という意味を付け加えたいと思うけど。たとえば貞操を失なうことによって失われると考えられていたのは、私には女性の市場価値そのものに見える。「売春すると人格が損われる」「強姦は女性の人格を損なう」とかって発言で意味されているのは、「売春する女/強姦された女は価値が下る」のように見えるし。(言うまでもないが、私はこの判断にコミットしない。)

杉田先生の分析によれば、上野先生は、(I)性が「人となり」に重要だという考え方と、(II)性(の自由)は人権の一部だという考え方の二つを混同してしまっているという。さらに杉田先生は、上野は(III)ある種の性は人となりを汚す という考え方を採用してしまっているという。

あとで議論するけど実は杉田先生は上のIIIを受け入れているはずで、これが問題を複雑で泥沼にしてしまっているのだが、今日はまあよかろう。

まとめ(られん)

飽きた。上野先生も赤川先生も浅野先生も、「人格」の意味をちゃんととらえておらんというかなんか混同しているというか、明晰化しようという努力のあとが見られない。杉田先生はそこらへん努力している(が、ぜんぜん自分ではダメな議論をしていると思うが、それについてはまた後日)。

おまけ。加藤秀一先生のショッキングな主張

ついでにメモだけ。加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』はよく書けていると思っていたのだが、よく読むとなんかあやしいところがたくさんある。性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって? — 可哀相に — もう処女じゃないのか….でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。バトラーとかの悪い影響がある。

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?男性も暴力的な犯罪の被害者になったときに強い屈辱感を味わうと思うが、それと強姦の被害はどう違うか?
  2. 強姦の被害者の女性はいまだに「汚れたもの」と扱われているのか?
  3. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?
  4. 処女とか貞操とかっていうのはこの本が出た90年代にはこういうふうに扱われていたのか?
  5. 強姦された女というスティグマを貼るのはまさに加藤先生のような考え方じゃないの?「社会がそう思う」は往々にして「私はそう思う」しか意味していない。上の文章で加藤先生が「存在そのものの否定に等しい」とするのは、たんに「社会が一般にそう考えている」という記述には読めない。
  6. 「少しは感じたんじゃないの?」と加藤先生の言う「屈辱」との関係が、往々にして見逃されている巨大なポイントだ。今すぐには議論できないけどそのうち書く。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為の場合もあるだろうが、必ずしもそうでなければならないわけではない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

松浦理英子先生の「嘲笑せよ」論文の影響力が90年代にいかに強かったのかがわかる。あとブラウンミラーやエストリッチ。私にはレイプ犯の内面を見ることは難しいけれども、想像することはできると思う。私の内省によれば、彼らが「女性を侮辱しよう」なんてことを第一の目的にしているはずがないと思う。たとえば京大ギャングスターズのギャングレイプ犯は、女性が寝ている間にセックスしようとしたんだし、気づかなきゃそのままにしようとしてたんだろうから、直接に「侮辱」しようとしたなんてことはないだろう。(文字通り侮辱するためには相手がそれを意識する必要があると思われる。)彼らに「女性を侮辱するつもりだった?屈辱を味あわせるつもりだった?」とたずねても、「そんなこと思いもしなかった」と答えるんじゃないかな。(もちろん、それが問題なのだが)レイプは暴力でもあるが、とりあえずはセックスだ。性暴力を他の暴力と区別するのは、その動機の性欲にほかならない。この点でも杉田聡先生は正しい。

感想

まあ今日あげたような華やかな人びとの研究ってのは、ちょっとおかしいところがあるような気はするがインチキではない。偉い。攻撃しているわけではないつもり。

 

杉田聡先生の人格論アゲイン

杉田先生の『レイプの政治学』の議論は、全体としてよくできていると思う。80年代のフェミニストたちによる「レイプはセックスじゃなくて暴力」という議論を叩く。これはOK。人格は尊厳を持っていること、性的な自由は人格の尊厳の維持のためにも、個人の幸福の追求ににとっても核心的部分であることを主張、これもOK。上野千鶴子の反「性=人格」論を曖昧だとして叩く、OK。

新レイプ神話や上野を攻撃しているときは明快なのだが、彼自身の立場を擁護する肝心の部分になるととたんに歯切れが悪くなるのが難点だ。

杉田が自分の立場を弁護しなければならない点として (1)強姦被害をどう見るか、性的インテグリティのようなものをあまりにも人格の中心部分とみると、強姦被害者は回復不可能な傷を負ったことにされてしまうのではないか、 (2)売春も性的自由の一部ではないのか、というのがありそうだ。杉田先生は明晰な方なのでもちろんこれに気づいてる。

強姦被害の問題

まあそもそも上野が松浦の尻馬に乗って「性と人格を分けよう」と主張したのは、やっぱり強姦被害の問題がある。なぜ強姦は特別な種類の犯罪、人格に対する犯罪とみなされなきゃならんのだ、他の犯罪とどこが違うのだ、というのはもっともな疑問に思える。

杉田先生は、まず、松浦→上野の「意味づけ」を変更しようとする試みは役に立つことはあるかもしれんが社会的にダメだという。p.234-236。たとえば息子が自動車に轢き殺されたときに、「それはたいしたことがないことだと考えよう」なんてのはナンセンスだ。OK。よい議論。また、「レイプは女性を侮辱するために行なわれるのだから、性と人格を切りはなしてしまえばよいのだ」という上野の議論がレイプ被害を少なくする戦略にはならないという指摘も正しい。でもこれだけでは杉田先生は「性犯罪のなにが特別か」に答えていない。これに対するこたえがどこにあるか私は見つけることができない。もしあるとすれば、

たとえば、強力な貞操モラル・・・が成立しているところでは、強姦被害は貞操を破るものとして、女性にとってたしかに「特別な侵害」となっているであろう。・・・弱化したとはいえ「貞操」モラルの残渣、あるいはそのある種の変種・・・でさえ、依然として強姦が女性にとって特別な侵害となる原因になる。人権が意識された社会っではことのほかそうであろうが、そうした意識がなくてもまた同様なのである。
だから、性と人格とを切り離したとしても、そうした根強いモラルが生きる社会では・・・強姦が女性にとって特別な侵害になるという事実は、何ら変わらないのである。(p. 243-4)

ここしかない。つまり杉田先生は、社会のモラルがそうだから強姦は女性にとって特別な侵害なのだ、と主張したがっているように読めてしまう。もしこの読みが正しければ(あんまり自信がない)、松浦や上野の議論と大きな距離があるわけではないように見えてしまう。おかしすぎる。杉田先生はもっとはっきりと性犯罪が特別な犯罪である根拠を提出しなければならないと思う。

私だったら、性的な侵害を受けることは文化とは独立に、実際に被害者にとって心理的に特別な経験なのだ、それは人間に共通の経験だ、と主張して終わりにするんじゃないかな。それで十分なはずだ。誰でも頭を殴られればいやなのと同じように、レイプされることはそれよりイヤなことなのである。(そして進化心理学もそれを支持するはずだ。Randy Thornhill and Craig T. Parmer, A Natural History of Rape: Biological Bases of Sexual Coercion, The MIT Press, 2000やDavid M. Buss, The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating, Basic Books, 2003とか。)

これに対して社会構築主義とかって馬鹿な立場を原理主義的に採用すると、強姦を受けた女性の嘆き悲しみも社会的な条件づけや文化に依存することになってしまうから、「女性が現にそう感じるから」という主張の威力が薄れてしまう。まったく馬鹿な立場だと思う。

売買春は?

杉田先生のもう一つの弱点は、売買春の自由のようなものをどう扱うか。性的自由が認められるんなら、なんで売買春しちゃだめなの、というのはもっともな疑問だ。これで非常におかしな議論をしている。

「ある種の性的自己決定は、法的な厳しい制約を課されるべきである。・・・自己決定権は、それ自体尊重されるべきであるとしても、その行使は他者を害するかぎりはっきりと制限されなければならない。」

これはまともな議論である。危害原則。また、

「他者を害する」とはいかなる事態を指すのか。他者に対する身体的危害はもちろんだが、精神的危害を加えることもここに含まれるであろう。またより広く、他者の有する権利・・・に対する侵害も含まれるだろう。」(p.180)

これもOKである。しかし杉田はここから次のように論を進める。

ある人が、他の人と比べて不当に差別され、それによって「同等に扱われる権利」(平等権)を侵害されたとき、たとえその人が精神的苦痛をこうむらなかったとしても、それは他者を害する行為とみなされなければならない。(pp.179-180)

ここでかなり異常な議論になってしまっている。

言論の自由—これはふつう「精神の自由」として公権力による侵害を受けない権利であるが、一方でより積極的な行動の自由を含意している—の行使の結果、たとえば黒人やユダヤ人、さらには同性愛者、「内縁」者といったマイノリティ集団に対する偏見や憎悪が助長されるとき、そうした自由の行使は無制限ではありえない。(p.180)

上は主張はわからないでもないのだが、かなりホットな議論の対象となっている問題である。少なくとも自明だと言えるような事例ではない。

次に問題の多いパラグラフが続く。

「自己決定権」は、前記のように結婚の自由を含むと理解することができるが、これがたとえば同性愛者や「内縁者」に対する差別をもたらしうることは、明らかであろう。

「明らかであろう」と言うがまったく明らかではない。

人はそれぞれ個人として現われるが、多かれ少なかれある種の規定性を背負った類(たとえば異性愛者、制度的結婚の肯定者として現われる。そして私たちは、その種の規定性を理由に、しばしば人を差別しがちである。差別(平等権の侵害)は、ふつう個人に対する行動にうちに現われるとはいえ、その実差別は、ある種の類的規定をもつ人々に、したがって集団に、向けられるのである。だから「他者」に対する侵害は、個人を越えて集団に及ぶと言うのである。

非常にわかりにくい文章だが、言いたいことはおそらくこうだ。われわれはもちろん個人ではあるが、同時に常になんらかの特徴をもったグループの一員でもある。たとえば私はkalliklesという偽名を持つ個人であるが、同時に「男性」であり「京都市民」であり「日本人」であり「血液型B型」であるように、特定の特徴によってあるグループに入れることができる。

「差別」は常にあるグループに対してなされる。「差別」は私が理解している意味では、「当の問題に無関係な特徴を根拠として扱いを変えること」である。企業が新入社員を採用する際に重要なのは、「その新入社員がその企業にとって有用な人間であるか」であるはずで、そこでは男女の差はとりあえず重要な違いではない。だから「女性だから」という理由で入社を認めないのは「差別だ」と言われる。同様に「生まれた地域」もまたふつうの企業にとっては重要ではない特徴のはずだ。

もちろん、銭湯の女湯に男は入ることができない。なぜなら、われわれは一般に異性に裸を見られることを恥ずかしいと思うことが多いので、銭湯での性別は重要だからである。

さて、差別はある特徴をもとに扱いを変えることなので、ある特徴を共通にもつグループに対してなされる。「おまえはノビタだから仲間に入れない」という「差別」は考えられない。むしろ、差別は「おまえは男だから」「おまえは北海道出身だから」という形になる。「女だから~」という差別は女性というグループに対して、「アジア人だから~」はアジア人に対してなされる差別である。つまり、差別は常にグループに対するものである。ここまでは杉田の言うことはわからないわけではない。

一般に行動は、それが担いうる意味・・・に対して、即自的(無自覚的)でも対自的(自覚的)でもありうるが、ここで問われるべきは、即自的な行動であるよりは対自的な行動である。いま「同性愛者」差別にふたが、たとえば異性との結婚は、即自的な行動として、自らを異性愛に—サルトル流に言えば—アンジガジェ(拘束)するが、それは同時に世界全体を異性愛にアンガジェすることであり、したがって時として同性愛差別を招きうる。しかし、仮にそれを招いたとしても、その差別は、源泉が即自的な行動であるだけに、ふつうは暗示的implicitなものとして許容しうるであろう。

ここから議論は泥沼に入る。こういう難解な文章や独特の術語が出てきたときは用心しなければならない。下敷になっているのはサルトルの『実存主義とは何か』の悪名の高い個所。

「異性との結婚はみずからを異性愛にアンガジェする」。サルトル自身がこういうことを言っているのだが、この文章が何を言おうとしているのは非常にあいまいである。「アンガジェ」に説明されていないさまざまな意味が含まされており、文章の意味を画定することが非常に難しい。「異性愛に拘束する」と解釈しても不明瞭である。異性との結婚が自分を異性愛に拘束するとはどういう意味か?「拘束する」という言葉を文字通りに解釈すれば、おそらく「異性と結婚したら、それからずっと異性を愛するということに自分を拘束し約束したことになる」と解釈するべきなのかもしれないが、いったい結婚することのどこにそういう意味あいがあるのだろうか。なぜひとが異性と結婚したらそれ以後ずっと異性を愛さねばならないということになるのだろうか。わたしにはさっぱりわからない。

さらに悪いことに、そういう異性との結婚は「世界全体を異性愛にアンガジェ」することになるらしい。「世界全体を異性愛にアンガジェ」することがなにを意味しているかわたしにはまったく見当がつかない。「他人も異性を愛するよう拘束する」のだろうか?このようなタワゴトにつきあっている暇があるひとはそれほど多くないだろう。

好意的に解釈すれば、「異性と結婚することは、そのひとの「私にとっては異性との結婚が価値のあることに思える」という価値判断を表明することになる」ということだろう。しかしこれのどこが問題なのだろうか。

さらに、これが「同性愛差別」になる理由がさっぱり見当がつかない。なぜ私が異性と結婚することが同性愛差別と関係があるのか。杉田は差別を招き「うる」としているが、どういう場合にどういうタイプの差別を招くのかわからない。

さらに「ふつうは暗示的なものとして許容しうるであろう」の根拠も明白でない。たんに杉田がそう思いこんでいるだけである。

全体としてこのパラグラフはひどい文章である。意味不明。

だが、対自的な行動から発する差別はそうではない。一般に対自的な行動は、即自的な行動に対してはもちろん、単なる言葉の使用・・・よりもはるかに明確に、自らを、そして世界全体をある方向にアンガジェし、それを通じてより明確なマイノリティ差別を生むのである。」

自覚的な行動は世界全体をアンガジェする力が強いらしい。しかしアンガジェとはなにか?

買春は、対自的な行動である。・・・買春は、ふだんなら望んでも容易に手に入らない女性の身体を、金の力により自由にし、玩弄する行為である。それは、明確な女性支配の行動である。・・・また買春によって男性は、女性を(個々の女性のみか類・集団としての女性を)、男性の欲望に奉仕すべき性的モノ(セクシャル・オブジェクト)であり、金で支配してよい対象であるとする見方の方向に、己れを、したがって世界全体を明確にアンガジェ(拘束)する。それ故、買春者が実勢に女性一般(類・集団としての女性)を差別視する蓋然性は、非常に高い言うべきであろう。ある女性たちを、金で支配してよい存在と見るなら、そもそも一般に女性を、したがって他の女性を支配すべき存在と見ることは、彼にとって正当なのである。(p.182)

この何度も繰り返されるサルトル流の「世界全体をアンガジェする」の意味が明確でない。ある男性が買春するかどうかで世界全体が変化するというのはわかりにくい。おそらくもっとふつうの言い方をすれば、「買春することによって、その男性は女性を支配すべき存在と見るような世界観を手に入れることになる」ということだろう。

構造的・集合的な関係においてみたとき、買春は(ポルノ視聴とともに)「男権主義的セクシュラリティ」や同パーソナリティを作り、女性の性的モノ化、女性に対する支配・統制・差別を生み出さずにはおかない。・・・買春が右のような行動であるとしたら、買春は女性の平等権を侵害する営みであると言わなければならない。それ故、仮にそれが自己決定権の行使とみなされようと、買春はこの故にまったく権利性を主張できない。 (p.183)

これまた難解な文章だが、おそらく言いたいことは、「買春やポルノ視聴は女性に対する支配や差別の心理的原因になるからだめだ」ということなのだろう。

よくわからんよな。たとえばある女性が、留学するためのお金をためるため、一時的に風俗嬢として生きることを主体的に選択し、自分のセックスとひきかえに男性から金を要求することを決断したときに、この女性はいったい何にアンガジュするんだろうか。この女性の決断によって世界はどうなるんだろうか。この女性はおそらく、自分の実存のために、自分の性的な魅力を金銭的な価値に還元し、男性をたんなる財布とみなし、できるかぎり客から金をむしりとることにしたのかもしれない。男性を「モノ化」することによって、この女性は主体性を獲得するのかもしれない。これは杉田先生の言う「平等権」についてはどういう影響をもたらすんだろうか。そういう選択は主体的でも実存的でもない、とか言うんだろうか。

自由と平等のどっちが優先するのかってのはたしかに難しい問題だけど、杉田先生のようになんでもかんでも平等が優先する、というような主張をするのは難しいだろう。

こんな曖昧で怪しい議論をしなければ売買春を非難することができないのは、杉田先生としても無念であろう。

気になるのは、このような文章で杉田は男性あるいは人々の心理や思想を直接に統制しようとしていることである(これに杉田がどの程度自覚的であるかはわからない)。われわれは人々の行動を制限することがあるが、人々の思想をコントロールすることはつつしむべきであるということが近代社会の大原則の一つである。杉田はそのような内面や思想の自由にたいした価値を認めていないのかもしれない。(そうではないと思うのだが)

まあよくわからん。むずかしい。

*1:はてなキーワードになってないのがかわいそうだからブレースでくくってみた。

*2:もし上野先生にあれほど強力な弟子筋(特に赤川先生と加藤先生)がつかなければ、上野先生はカミル・パーリアの路線に乗ってたんじゃないかと憶測している。ラジフェミ路線やフーコー路線より、パーリアのラインの方が上野らしい。でもただの憶測。

二瓶由美子先生のすばらしい研究

二瓶由美子「ポルノグラフィーと性犯罪~暴力的AVが性犯罪に与える影響について」『桜の聖母短期大学紀要』第28号2004 というのも見てみた。

これはもっとすばらしくて、誰がどういう調査を行なったのかがそもそも不明。

1999年12月に結成されたポルノ・買春問題研究会(Anti-Pornography-Prostitution Research Group 以下APP研究会とする)は、(略)日本におけるポルノグラフィーと買売春の被害実態を調査し、それらの社会的根絶のための理論的・実践的方向性を提示しようとするものである。

APP研究会は~2003年には、「ポルノグラフィーの被害」の全体像を明らかにするべく、全国の女性の弁護士、婦人相談員、フェミニスト・カウンセラーなどを対象とするポルノグラフィー被害実態調査(科学研究費基盤事業)を行った。

アンケートに対する回答の中で、ポルノと性犯罪についての分析を担当した経緯があり、本論文においてはこのアンケート結果について言及する。

注のなかで

2001年度から2002年度にかけて、日本学術振興会の科研費事業の認定を受けて実施。2500人にアンケートを送付し、311通の回答を得た。そのうち、ポルノに関連した相談を受けたとするものは167人だった。

ということらしい。APP研が科研費受けたのかと思ったが、中里見博先生が基盤研究でもらったらしい。なるほど。でもあれは「認定」なのかなあ。

荒木菜穂さんのすばらしい研究

ポルノと性意識の実証調査というのは実はあんまり数がない。

もうちょっと若い世代の研究も見てみた。

荒木菜穂「ポルノグラフィ文化におけるホモソーシャルな構造~大学生へのアンケート調査を通して」『鶴山論叢』第5号、2005

荒木さんは発表時点で神戸大学大学院総合人間科学研究科博士課程後期課程に在籍していらっしゃるようだ。

この論文ではどういう対象にどうやって調査したのかも記されていない。

関西の2大学、関東の1大学において、2002年6月21日、7月12日、2003年1月15日の全4回、SWASH (Sex Work and Sexual Health)の協力により荒木が実施。回収数240部、内訳女性131人、男性101人、不明8人。

ということだが、どの程度配ったのか、その他知りたいことはたくさんある。

で内容だが、まず、この論文も質問用紙がどのようなものであるか明示していないのが気になる。

 

(1)まず「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」という設問を行なったらしい。

出てくるのは、

  • 男性では順に「エロ本」(65.1%、以下数値は略)「アダルトビデオ」「成人向け込みっく」「ポルノ小説」「成人映画」「男性週刊誌」「アダルトサイト」「ヌード写真などを使った広告」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」、
  • 女性では「アダルトビデオ」(61.4%、以下略)「エロ本」「成人映画」「成人向けコミック」「ポルノ小説」「男性週刊誌」「ヌード写真などを使った広告」「アダルトサイト」「女性週刊誌」「スポーツ新聞」

ということらしい。質問が選択式なのか記述式なのかわからない。それに、「やおいマンガ・小説」が入っていないのはどうしたことだ。若い(おそらく)女性研究者が、やおいを選択肢に入れないなんて考えられない。

で、さらにまずいことに、次の質問で「ポルノグラフィを目にしたことがあるか」「自主的にポルノグラフィを見ることがあるか」をたずねてしまっている。で、クロスをとる。たとえば次のよう(これも技術的問題から表記を変更してある)

表3 性別と自主的にポルノグラフィを見ることがあるかのクロス表

yes no 無回答 合計
男性 75 (90.4%) 8 (9.6%) 83 (100.0%)
女性 15 (14.2%) 86 (81.1%) 5 (4.7%) 106 (100.0%)
合計 90 (47.6%) 94 (49.7%) 5 (2.6%) 189 (100.0%)

当然の問題は、表3が何を表現しているか、ってことだわなあ。
この質問に答えた人はなにをポルノグラフィだと思って答えたんだろうか?最初の設問で「ポルノグラフィと聞いて思い浮かべるもの」があれほど多様だったのだから、さまざまなものをポルノグラフィと思って答えてるんだろう。荒木菜穂さんはポルノグラフィを定義もせずにこんなことを尋ねてなにか意味があると思っているのだろうか。

この論文ではいっさいの検定を行なわないと決めていらっしゃるようだ。ただクロス表を並べるだけ。

なんか面倒になったからやめる。神戸大学総合人間科学研究科は、ちゃんと社会調査の方法を学生に教えるべきだと思う。

荒木さんはポルノの享受には「ホモソーシャルな構造」があると言いたいようだけど、やおいだのボーイズラブだのってものも視野に入れれば、ぜんぜん研究が違ってきたのに。とくに女子はそういうものを交換して楽しむ傾向があるように見えるから(証拠ないけど)もっとおもしろかったのに。

この方はblogももってるようだ。そっちは実感のこもったおもしろいこと書いている。上の論文は調査としてはダメダメだけど、フェミニズムの視点からのポルノ批判のまとめはよく書けていると思う。研究がんばってほしいものだ。

荒木菜穂さんその後

でネチネチからんでしまった荒木菜穂さんの「現代フェミニズムスにおける「性の政治」再考:「女性による性的快楽の追求」への多様なまなざし」女性学年報、25巻、2004 という論文を見る機会があった。

おそらく若い学生さんなので、特にこの方に粘着しようと思っているわけではないのだが、タイトルに興味があったから読んでみた、ぐらい。特に個人的に興味があるわけではない(まあ若い世代の学者文献リストを見たいってのはある)。読んでいると、途中、(Macska 1998=2002)という表記を見ておどろく。はてなダイアリーでも有名なid:macskaさん(正直私はファンだ)の Living in Postmodernity: The Third Wave Feminsm and the Identity of Desire という論文か本を参照しているじゃないか。おお、「macskaさんはこの名前で出版してたのか!これは読まねば」と思いきや、unpublishedで、http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html 
を指して「アクセス2004年5月8日」と書いている。んじゃ、論文webに載っけてるのかなと見てみると、このページはLiving in Postmodernityというmacskaさんの未発表の本の「解説」のページじゃないのかな。ううーん。まあweb参照するのはいいんだけど、さすがに存在しているかどうかわからない文献を参照しちゃだめなんじゃないか。この場合は、著作権主張もページの下ではっきりなされているわけだから、

macska.org, 2000, 「第3次フェミニズムとは?」, http://www.macska.org/emerging/01-whatis.html, 2004年5月8日アクセス

ぐらいにしといてほしい。

それとも直に原稿見せてもらったのかな。いいなあ。

この本出てるんですか?macskaさん、ということでトラックバック送ってみた。トラックバックというのはリンク貼るだじゃだめなね。・・・あら、なんかおかしいことになった。失敗。ごめんなさい。

“Third Wave Feminism Explained!”っていう本も興味ある。

なんか考証癖がついてきたような気がする。いかん。しかしここしばらくの考証もどきは、論文に書くもんじゃないし、はてなぐらいが適当なネタという気もする。

 

ジェフリー・ウィークス

このジェフリー・ウィークス(『セクシュアリティ』)というひとの議論は、その筋(社会学者?)のひとびとにどのように読まれてるんだろうか。ふつうの読書経験からすると、あまりにも生物学まわりの情報が古すぎて使いものにならないんじゃないだろうか。

考えをまとめるために、第3章から抜き書きしてコメントしてみる。

私たちはいまだに、ジェンダーを考慮に入れずにセクシュアリティを考えることはできないでいる。 p.73

それはどうかな。セクシュアリティの核みたいな部分だけを考えるならジェンダーとかってものとは関係なくやれるような気がするけど、まあよかろう。

生物学的男性と生物学的女性の間に存在する生殖と出産に関わる差異は、男女の間で異なった性的欲求と性的欲望が存在していることに対して、必要かつ十分な説明として理解されてきた。p.73

とりあえず「欲求」と「欲望」の区別がわからん。desireとappetiteかな?あとで調べてみるが、こんな訳するんだったら原語を提示するべきだと思う。

とにかく「必要かつ十分な」の意味が私にはわからん。どういう説明が「必要かつ十分」と言えるんだろうか?

たしかに生物学や進化心理学は繁殖成功率という観点から人間(あるいは生物一般)の欲望なり欲求なりを説明することにトライしているんだと思うが、生物学者も進化心理学者も、それが十分な説明となっているとは思っていないだろう。(もしすでに説明したと思ている生物学者がいたらそれはキチガイである。)人間の意識内容まで生物学のレベルに還元するのは困難だし、それ以前に性淘汰や(もしかしたらあるかもしれない)群淘汰の話もあるし、まだまだわからんところだらけだってのが普通の理解だろう。誰もマウスが感じているような世界を人間が感じているなどと主張しようとしているわけではない。なんらかの連続性があるだろうと言っているだけのはずだ。

[われわれは]つねに、自分自身のセクシュアリティが、最も基本的で自然なものであり、男女関係は鮮明な指紋のように、生来の本能の命令によって永遠に決定されたものであるという幻想に耽りたがる。 (p.74)

「本能」なんて久しぶりに見た用語だな。本能ってなんだろう。ローレンツの時代じゃあるまいし、いまどき「本能」なんてものにコミットしている生物学者はどれだけいるんだろうか。このウィークスの本は1986年、今から20年も前だからしょうがないのか。こういう言葉を見ると、この人は70年代後半からの社会生物学ブームを無視したままでこの本を書いたのがわかる。(いや、「本能」という言葉も使われてたのかもしれないけど。自信ないな。)

たとえ社会生物学がいくつかの事象を説明できるとしても(ひと目惣れは、自分とはまったく異なる組織適合抗原の組み合わせを持つ個体の匂いに対する身体の強力な反応にすぎないのかもしれない、とか、同性愛は血縁の兄弟姉妹の子孫に対する愛他的な情を促進するのに必要と言えるかそれいない)、このような説明は他の事象(例えば、なぜ異文化にはそれほどの多様性が存在するのか、あるいはなぜ歴史は急激な社会変動をたびたびくぐり抜けることになったのか)を普遍的に、あるいは説得力を持って説明することができない。p.81

ここらへんでぜんぜん社会生物学とかを理解していないことがわかってしまう。われわれが世界各地で大きな違いを見せるような「文化」を持つようになったのはおそらくたかだか1万年、へたをすると数千年、世代にするたかだか4、500世代でしかない。こういうスケールで社会生物学が「文化の多様性」について言えることってのはほとんどない。また、ジェフリーは文化の多様性を主張したいようだが、われわれのもっている文化の基本的な側面(たとえば婚姻制度)にどの程度の多様性があると考えてるだろうか。わたしの理解では、現在確認されている文化のほとんどは一夫多妻か実質的な一夫多妻制度で、ほどんと多様性なるものは見られない。思春期のああいうやつ(自粛)とか、ほとんどの文化で見られる現象のはずだ。むしろ、表面的には非常に多様な文化での重要な部分での一律性の方がずっと驚くべきことだと思われる。(そういうのが「構造主義(文化人類学)」とかの一番大きな成果だったと理解しているのだが、まちがっているかもしれない。)

また社会生物学的アプローチは、究極的に、その含意において根強い保守性がある。というのは、私たちが社会的かつ性的に行なうことがすべて遺伝子の偶然の衝突から説明されるのならば、人間が物事を変更する余地はほとんどないからである。pp.81-82

これ以前にも以降にも「生物学的決定論」という言葉を何度も使っているところを見ると、社会生物学が「決定論」だという思いこみがあるらしい(でもどんな意味で?)。まあ80年代にはこういう粗雑な議論が行なわれていたという歴史的な資料としては価値があるのかもしれない。

「われわれが男性と女性を比較観察したときに見うけられる、大きく異なった性的態度をもたらす強い根本的な生物学的源泉」が存在するならば、フェミニストの要求も、あるいは自由主義的改革も絵空事にすぎないものとなる。p.82

われわれは社会生物学的に見ればおそらく人殺しの素質をもっていることになるんだろうが、だからといって人殺しが悪いことであるのはもちろんのことだと思う。いつまでこういう「事実と価値は違います」といった「倫理学の基礎」のような話をしつづけなければならないのだろうか。

かつてキンゼイは次のように述べた。

ホルモンが生殖腺で生産されているという事実は、ホルモンが性反応の基になっている神経系の許容反応を制御する第一次的な機関であると信ずるに十分な根拠にはならない。

ホルモンは遺伝子に劣らず、社会的・心理的な性差を形成する際に決定的とは言えない。p.90

そらその通りだが、キンゼイの文章の使い方がミスリーディングだ。というかほとんど意図的。キンゼイのこの文章をふつうに読めば、「仮に男性の場合テストステロンのほとんどが男にしかない睾丸で生産されているからといって、無根拠にそれがセックスに関係していると思ってはだめだ」ということで、まったく正しい。だからといって、男性ホルモンその他がわれわれの感覚や欲求に重大な影響を与えていないと考える必要はない。男性ホルモンの量が攻撃性その他に影響を与えることは証明されていると思うが、まちがっているだろうか。

抜き書きして読むのがいやになってきた。この人の論拠となるのはおなじみのジョン・マネーやマーガレット・ミードや精神分析で、生物学の知見はほとんどとりいれておらず、この手の話をする資格がない。読むだけ時間の無駄。性差についてちゃんと考えたいなら、まずこんな本は葬り去るなり、国内でこの本を持ちあげてた人びとは「あのころはこう考えてるひともいたんだよね」ぐらいに一定の精算をしておく責任があると思う。

マーサ・ヌスバウム、ジュディス・バトラーを批判する

それでは、バトラーはいったい誰に向って語っているのだろうか。彼女は若いフェミニスト理論家たちにむかって話しているように見えるかもしれない—そのフェミニスト理論家たちというのは、アルチュセールやフロイトやクリプキが本当はなにを言ったのかをちゃんと気にかける哲学の学生でもなければ、問題の本性について情報を必要としており、また自分の価値についてはっきりとしたことを知りたいアウトサイダーたちでもない。ここからすると、読者たちは驚くほど御しやすいと想像されているのだ。バトラーのテキストの預言者的な声にお追従をし、高度な概念の抽象性の緑青に目をくらまされて、想像上の読者たちは質問もせず、議論を要求もせず、言葉の定義も要求しないのである。(Martha Nussbaum, “The Professor of Parody”, The New Republic,Feb 22, 1999. Vol 220 Iss. 8.)

バトラーに関しては、私も同意見だな。そういやドゥルシラ・コーネルという人もいた。彼女も非常に曖昧でカントとラカンだのといった有名人を使ってほとんど意味を把握できないようなことを言っていると思う。日本でバトラーやコーネルをもちあげている人びとは、いったいどういう理解をしているのだろうか。多くの場合、そういう人びとは政治哲学や法哲学や文学の専門家で、バトラーやコーネルを「哲学者」と見ているような気がする。正統の哲学の人びとは彼女たちを哲学者とは認めないだろう。

そういや私はマッキンノンも曖昧で嫌いなのだが、ヌスバウムはそれなりに評価しているようだ。まあマッキノンはバトラーのように有名人たちの名前だけ借りてくるようなことはないからな。マッキノンの議論の迫力と実効性は認めざるを得ない。

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前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

そして、

つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

しかし、実際の第四条は

・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

(「適応」は「適用」の誤植か?)

いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。