森岡先生のパーソン論理解

だらだら。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』での最初に気になった 文章。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。(小松2004 p.149)

この表現は、かなりミスリーディングで気になる。気になりまくり。どっから来ているのかと思っていたのだが、森岡正博先生の『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』をながめていたら、おそらく次の文章から来ているんだろうということがわかった。

パーソン論とは、人工妊娠中絶や治療停止の場面において、生きるに値する人間と値しない人間とを区別する際に、伝統的な西洋倫理学の人格理論を適用しようとする試みである。(森岡1988 p.209)

20年近く前の文章だ。おそらく森岡先生はいまはこういう不用意な書きかたはしないだろう。どういうパーソン論者も、「生きるに値する」かどうかってのを自己意識や理性で区別しようとはしないだろう。「生きるに値する」ってことと「生きる権利をもつ」ってことはずいぶん違う。かりにトゥーリーの議論を使うにしても、「生きる権利」はもってないけど「生きるに値する」存在者はたくさんいるだろう。「自己意識もっていない動物は生きるに値しない」なんてのはたしかに受け入れられない主張だもんな。ここらへんがなあ。

もっとも、森岡先生は『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも次のように書いてる。

(「パーソン論」は)生物学的な意味での人間を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、前者の人間の生命の方が、後者の人間の生命よりも価値が高いと考える理論である。(森岡2001, p.104)

昔の文章よりはるかによくなっているが、やっぱりまちがいとは言えないんだけど、よく知らない読者には「根拠のない恣意的な議論だ」と思わせる傾向がある表現なのではないかと思う。(実際に小松先生はそう読んでしまっていると思う。)あと『生命学に何ができるか』でピーター・シンガーが「パーソン論」の代表的論者として紹介されているのも気になる。

うーん、そうか、小松先生はかなり森岡先生を読みこんでいるな。まあ森岡先生はこの手の議論をしている人のなかで一番優秀な人であるのはたしかなことだから、小松先生の目のつけどころは鋭い。

でもこういう理解が今となってはどうだったかなあ、という感じか。微妙だよなあ。

うしろの引用文を私の理解で書きなおすとだいたい次のようになる。

「パーソン論」は、もし仮に、人間が他の種類の存在者(他の動物や植物)と異った扱いを受けるに値するとするならば、それは人間が持つ理性や自己意識などの知的能力に由来すると考えざるをえないとする学説である。

もっと森岡先生の原文に近いかたちにすると、

(「パーソン論」は)人間を生命をもった存在を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、もしわれわれが〈ひと〉の生命が非〈ひと〉の生命よりも価値が高いと考えるならば、それは〈ひと〉が自己意識や理性をもっているからだとする議論である。

ぐらいか。あれ、なんかredundantっていうかtrivialな文章になってしまってるかな。

ポイントは、もし人間と、他の動植物の生命の価値のあいだにまったくなんにも違いはないと考えるならば「パーソン論」なんかにコミットする必要はないってことだわなあ。でもわれわれは人間の生命は特別だと思っているわけで、その根拠はどこにあるの、という問題意識が「パーソン論」の核心にある。「なんで人間が特別やねん?」に対して「にんげんだから」、では答になってないわけだからして。この問題意識を無視して、小松先生のように、「最初っから人間のあいだに区別をもちこもうとして作りあげた理論だ」のような考え方をしてしまうとそのインパクトを理解していないことになってしまう。哲学ってのは、相手が受けいれている前提から出発して意外な結論に引きずりこみ屈服させるのを目的とするものだ(っていうか、屈服させられている感じがするものだ。そういう意味ではテツガクは暴力的だ。テツガクは我々が望んでいるような結論をもたらしてくれない。これはソクラテス以来の伝統の核心部分にあると思う。)。

ここで、森岡先生がシンガーを「パーソン論」者として扱っているのが適切かどうかってのが問題になる。

このように、シンガーは、「自己意識と理性」こそが、人間を他の生命から区別しているものであり、人間に尊厳を与えるはずのものであると考える。だから、「自己意識と理性」をもった人間が、人間の生命の最上位に位置すべきであり、それらを失うにつれて、人間の生命の価値は下がってゆくべきなのである。(森岡2001、 p.107)

うーん。やっぱりまちがいではないがミスリーディングじゃないだろうか。この理解を正統だと思っているひとは、シンガーの『実践の倫理』のp.87-94とp.101-122を読みなおしてみるべきだと思う。(この二つの箇所の両方読まないと誤解すると思う。)

でもやっぱり難しい。森岡先生が言いたいポイントは別のところにあるようだし。 (「パーソン論」は保守的な現状維持の思想であり、貧弱な人間理解にもとづいている、とか。一部もっともなところもあるが、シンガーの議論が保守的であるとはとても言えないと思う 1)ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 )まあ常々、森岡先生という非常にオリジナルな思想家のいろんな議論については誰かがまじめに考えてみるべきだと思っているので、よい機会かもしれない。(続かないと思う)

References[ + ]

1. ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。

「パーソン論」続き

昨日ちょうど弘文堂の『現代倫理学事典*1が図書館に届いたので、さっそく「パーソン論」をひこうとすると項目がない。(それはそれで見識かもしれん)

でもとりあえず「(マイケル・)トゥーリー」の項目はある。

「自己意識や理性的能力を一度も持ったことのない存在は人格ではないという議論を展開し、このような人格を持たない胎児の中絶や嬰児殺しは必ずしも道徳的に不正ではないと論じた。」

げ、「人格を持つ」か・・・ぐはっ。執筆者は児玉聡先生*2。なんで「人格を持たない」なんて表現使うのだろうか。「人格の特徴をもたない」「人格ではない」、せめて「人格をもたない」ぐらいにすりゃいいのに。(注意!下のコメント欄を参照。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk22/tooley.html では「人格をもつ」という表現が1回だけ出てきています。もしこれがhave a personのような表現であれば児玉先生にも(昨日のエントリで)小松先生にも失礼なこと書いていることになりますので調査します。have personality/personhoodのような表現ならセーフ。)

「人格」の項目ならある。責任編集の大庭健先生のご執筆。(なんかたてつづけに大庭先生の名前が出てきてからんでいるように見えるかもしれないが、そういうつもりではない。偶然。)

けっこう長いエントリー(全部で13節に分けられている)で、全体がむずかしくて私がはっきり理解しているのか自信がない。

第VI節、タイトルが「倫理的プリミティブ」なのだが、

こうした方法論的な循環は、人格という概念のあいまいさ・不確かさを示しているようにも見えるが、そうではなく、人格の概念が論理的プリイティヴ(そこから話がはじまる大元の概念)であることに由来する」

と書いていらっしゃる。この節に「理的プリミティブ」という言葉は一回も出てこない。論理的なのか倫理的なのか。ずいぶん違うと思うのだが。内容からすれば、おそらく本文の方が誤植なんだろう*3。「人格person」っていう倫理的概念はそれ以上分析できない基本的な概念である、ってことかな。そして他の概念はそれを使って定義されたり分析されたりする。だから「人格」を別の概念の組合せで定義したりすることができないと言いたいのだろう(おそらく、いやわからんが)。

でもよく読むとこの解釈はまずいかもしれない。そのあとで、

私たちは、こちらから呼びかければそれに応じて動くものと、そうではないもの、すなわち呼びかけようと呼びかけまいと決まった動きをするものを区別する。・・・このように呼応可能な相手として、そうでないものから区別された存在が、もっとも広義の人格であり、この広義の人格は、人間を構成するプリミティヴである。

と書いていらっしゃる。んじゃ「プリミティブ」は「定義できない」「分析できない」っていう意味でもなさそうだ。だって「存在」と「呼応可能」っていう(より基本的な?*4)概念にもとづいているように見えるから。それにうちの猫は呼びかければ応答するから人格なのかな。むずかしい。(面倒だから第VI節(人格の外延)、VII節(個体的同一性)は引用しないけど、そこ読んでも猫が人格でないということが言えるとは思えない。IV節では、人格である条件として、「自分のことを描写し考えることができなくてはならない」と主張している(なぜかはわからん)。これでいうと、3歳児とかは人格じゃなさそうだ。

さて、「パーソン論」に関係して気になったところ。

「胎児や植物状態の人も、現時点では呼応が成立していないとしても、人格でありうる。新生児のみならず胎児も、時間の幅を長くとれば、呼応可能な間柄のパートナーたりうるからである。

おお、大胆な主張。ふむ。すでに多くの哲学者によって批判されている「潜在的人格」説。これに対する批判は書いてくれないのかな。あと、「ありうる」と「ある」の違いが気になる。「ありうる」なら「たくさんの胎児のなかの一部は人格かもしれない」ぐらいの意味なのかな。(あれ、逆に、成長したヒトは皆「人格」なのかな。それとも「成長したヒトは人格でありうる」なのかな。つまり、成長したのヒトの一部には人格でない存在者がまじっている可能性はあるのだろうか。その場合、人格と人格でないのの違いはどこにあるんだろうか。それとも「成長したヒトは人格である」なのかな。)

それは、発芽したリンゴの苗木は、いまだ果実をつけないから果樹ではない、と言えないのと同様である。

おお、かっこいい。この比喩にはしびれた。ふつうは、「胎児は人格(パーソン)ではない」っていう議論をするために、「どんぐりは潜在的には楢の木だけど、楢の木ではないでしょ」とか「5才の安倍晋三は潜在的な日本の首相だけど、首相の権限をもっていなかったでしょ」、「だからある胎児が将来人格になるにしても、まだ人格とは言えないでしょ、人格と同じ権利はもってないかもしれないでしょ」というように使われる議論なのだが、これをこうするとは。

でも大庭先生のこの比喩はミスリーディングだろう。おそらく「果樹」は「プリミティヴ」じゃないので定義ができる。「食用の果実のなる樹木の総称、またはその一本」ぐらいだろう。「果樹」は「果実がぶらさがっている木」「ぶらさげたことがある木」のことではないから、まだ実がなってなくてもよい。(また少なくともリンゴのはまだ果樹ではないだろう。)「人格」が「果樹」のような概念なのかどうか。(ホモサピエンスの一員としての「ヒト」の方ならば、「果樹」と同じような概念なのは認められる。)

植物状態の人の意識の蘇生は、現代の医学では説明困難なレアケースに属そう。しかし、そうしたレアケースであるということは、アプリオリに不可能だということを含意しない。

なんか二重三重に間違っていると思う。

昔の判断基準での「植物状態」から帰ってきたひとはたくさんいるだろうし、説明困難でもないだろう。「遷延性」植物状態から帰ってこれたのであればそれは遷延性植物状態ではない。大脳が機能停止しているだけじゃなくて、器質的に死んでる(まったく血流がないとかがその判断基準になる)のに帰ってこれたのならまさにいまんところ科学が説明できないミラクルだろう。

でもなにかが現実に可能だったらアポステリオリにもアプリオリにも可能だろう。アプリオリに不可能なのは、8+5=12にしたり、広がりのない箱を作ったり、丸い三角形を作るぐらいだろう。墓から3日後に蘇えるのもアプリオリに不可能なわけではない。

さらにうしろの方で大庭先生はいろいろ書いているのだが省略。

私はチンパンジーや豚や牛や猫を大庭先生の意味で「人格」としない理由が知りたいのだが、どうも答えてもらえそうにないと思う。

うーん、難しい。学生が学習に使う事典としてどうなのかな。「現代」倫理学事典をなのる以上、「パーソン論」をめぐるいろんな議論を紹介するエントリはやっぱり必要だったんじゃないか。せめて「人格」の項ではもうちょっと紹介してくれないと。

まあたまたま最初にひいたエントリがこうだったからってだけで判断してはいかん。事典とかってのは学生の調査の第一歩になるものだから、なるべく客観的に書いてほしいんだが、まあそれじゃおもしろくないのか。いっそ『事典・哲学の木』のような形なら論文・エッセイ集として素直に読めるんだけどね。

それにしてもほんとうにここらへんの議論は難しい。私には難しすぎる。これまで私が書いたことはどれも信用しないでください。。レポート書く学生は参考にしない方がよいと思う。

おまけ

「レイプ」の項(堀口悦子先生)

レイプとは、日本語では、「強姦」という。しかし、日本のポリティカル・コレクトとして、「姦」という字が女を3つ書くという、非常に差別的な文字であり、表現であるということで、「かん」とかなで表記している。

文章が微妙だけど、ママ。わたしもこの「強かん」っていう交ぜ書きは嫌いなのだが、そうだったのか。でもほんとうかなあ。わたしは単に「姦」は常用漢字じゃないから新聞雑誌はそう書いているだけだと思っていたのだが。

「性欲」の項(田村公江先生)

性欲は主観的感覚であり実証的に数値化しにくいものではあるが、各人における強弱の変化には実際にある種の体内化学物質(中略)が影響しているのであろう。そしてここには、男性女性の区別はないと思われる。

体内化学物質(ホルモンや神経系の化学物質)がかかわっているなら、なおさら男女の(統計的な)違いはありそうだけどなあ。そういうことじゃなくて、男女とも生理的なものの影響を受けているということ自体かな?そりゃそうだろう。

「少年犯罪」の項 (河合幹雄先生)

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。

ちょっと文章おかしいけどママ。なんというか、だいじょうぶか。たしかに貧困は大きなファクターだろうけど、少なくとも「両親が揃わず」は不要だと思うけどなあ。「両親が揃っていない」はほんとうにファクターになってるかな。もちろん、「両親が揃っていない」と「貧困になりやすい」ってことは言えそうな気がするけど。

あらその直後にこんなこと書いてる。

貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。

あれ? ちょっとあれなのでそのパラグラフ(項目の最後のパラ)もう一回引用。

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。生活が豊かになって生活のためより、遊びのための犯罪が増えたと言われているが、統計的根拠は乏しい。現在と比較すれば貧しかった時代でも、生活に困ったからといって犯罪はしない。貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。他方で、犯罪のためにスリルがあるのは今も昔もかわらず、遊びのために犯罪に走る少年は昔からいる。

なんだこれ。なんか矛盾してるぞ。なにを言いたいんだろう?日本が貧しい時期はもっと犯罪が多かったのははっきりしているだろうし。うーん?かなり意地悪く読むことができるような気がする。「貧困」が原因ではないが、「貧困」な家庭を持つものが大半なのであり、かつ、遊びのために犯罪に走るのであれば、貧困な家庭で育つひとは貧困とは関係なく遊びのために犯罪に走る、と読まれてしまうかもしれない。いくらなんでもこういう読みをする必要はないだろうが、やっぱりわからん。ひどすぎ。

「ジェンダー」項目なし(!)

「→性」になってる。

で、「性」の項目(田村公江先生)では

[英]gender; sex; sexuality

になってて、本文中では1回も「ジェンダー」が現れない。けっこう長いのだが、主にフロイト理論の話。小見出しは「フロイトの性欲論」「フェミニズムの功績」「去勢不安」「性的な営みをより良いものにするには」「性教育についての提言」「フェミニズムの功績」のところでも「文化的性差」とか「階級」とか「家父長制」とかっておなじみの言葉は出てこない。うーん。

「家父長制」の項(金井淑子先生)のところで「ジェンダー」が使われている。でも「ジェンダー」の説明はなし。

(「家父長制」)はケイト・ミレットが、『性の政治』で、年齢と性からなる二重の女性支配の制度として定義し直し、ジェンダー概念とともに、第二波フェミニズムの不可欠の概念となった。

「フェミニズム」の項(大越愛子先生)でもジェンダーは使われているけど説明ないなあ。

また近代思想を極限まで追求することで、それが暗黙の内に前提としていた男性/女性のジェンダー二元論という虚構をえぐり出すなど、フェミニズムのよって立つ基盤への挑戦も遂行されている。

とかって感じ。

まあ、この事典は「応用倫理学事典」じゃないからそういうのはいいのかな。なんかヘンなこと書いたけど、この手の事典は国内では少ない(岩波の『哲学事典』古すぎ)から、出版してくれただけでありがたいと思う。本当。


*1:高い!ふつうの人には買えない。私も買えなかった。

*2:この方は自分のページで「パーソン論」の解説 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html でも同じ感じで書いているを書いているのだが、こっちの記述は過不足なく書けている (ちなみに「用語集」の他の記載は正確で非常に有用だと思う)

*3:いや、これでいいのか?わからん。

*4:私には「ひと」より「呼応可能」が基本的な概念であるとはとても思えないのだが。だって基本的にはそれ(相手)が「ひと」だと思うから(大庭先生の意味で)呼びかけるわけでね。まあひとかどうかよくわからんものにもとりあえず呼びかけてみることはあるかもしれないけど。まあおそらく大庭先生は、この「呼応可能な存在」は「人格」の「定義」ではない、とおっしゃるだろうと思う。「プリミティブ」ならそれ以上分析を放棄してもよさそうなものなのだが、なぜ「応答可能」をもちだすのだろうか。逆に、「人格」はすべて大庭先生の意味で「応答可能」なのだろうか。

『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

瀬口先生ので気になるところメモ

科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

おもいつくままに書いておくと、

  • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
  • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
  • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

  • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
  • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

何重かの意味でミスリーディングだと思う。

上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

あと気になった点箇条書で追加。

  • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
  • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
  • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

あと短評

宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

後藤論文。読む気になれない。

山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

澁谷論文。まあそうですね。

小谷論文。テクハラですか。

マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
一番価値がある部分だろう。

山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

後藤浩子先生のファンキーなフェミニスト哲学

後藤浩子『“フェミニン”の哲学』とか。なんだこれ。エヴリン・フォックス・ケラーの『遺伝子の新世紀』という本によっかかってなんか変なことを書いているが、このケラーの本というのはまともな本なのだろうか。調査すること。なんで現代思想とかそういう人たちは勉強もせずに変な本をまるうつしして自然科学を知ってるような顏するのかね。

現代社会は医療技術から環境に至るまで、この生細胞(ママ)に新たなる実験の経験を強いているが、細胞の経験に配慮する者は多くはいない。それどころか、我々の意識とは独立して、それに先だって、生細胞それ自体の生の相があることを否認する動き(例えば脳死の認定)さえある。」(p.226)

意味わからん。そもそも「生細胞」ってのがなんだかわからんし。(おそらく「死細胞」と対になる意味ではないと思われる)。面倒だから書かないけど、前後の文脈と脳死がどう関係あるのかわからんし。まあこの本叩かれないのならフェミニズム哲学とかってのはどうしようもないと言われてもしょうがないと思う。

遺伝子技術も生殖技術も、セッティングや若干の修正ができるだけであって、その手前にはあくまでも「偶然と確率」に基づく「発生」がある。羊のドリーでさえドナー細胞と卵だけでは不十分なのだ。「電気ショック」、これが、いやこれこそが発生を始動させるのである。これについては、フランケンシュタイン博士=メアリ・シェリーも遥か昔に看破している。(中略)発生の説明におけるこのような「電気ショック」という言葉に私たちが感じる怪しさは、発生の手前にぽっかり空いた裂け目、つまりそれ以前の過程との非連続性を、この言葉が覆い隠せていないというところから来るといっていい。この個体発生の裂け目にドゥルーズは〈個体化〉という概念を置く。それは〈巻き込み〉という作用と、それによって形成される強度的な場、つまり質や延長を展開する元にある「あらゆる変身の劇場」を指し示すのである。

すげー。強い電波を感じる。こういう文章ひさしぶりに読んだな。こういうのがすべてのページにわたってくりひろげられている。もういっこぐらい。

わざわざ異種交配の賭けに出なくとも、フォン・ベーアが既に魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類といった脊椎動物は、その初期胚がみな形態的に類似していることを発見しているように、胚は既にキマイラなのである。(p.253)

この文脈で「キマイラ」はなにを意味するんだろうか。まあ憶測すれば、ドゥルーズがそういうことを書いていて、後藤先生はそれを引用だとわからないような形で書いているだけなんじゃないかと思うが。

女性の身体は〈宿主〉である。この〈宿主〉が家畜として進化を遂げていくのに必要なのは共棲者の多様性である。そして、この多様性の保持は我々の「想像力」に懸っている。この意味で、フェミニズムの真の闘争は、「想像域の自由」の法的確保より、むしろその手前、つまり幻想精算の実践にあるのだろう。つまり、簡単に言ってしまうと、「自由」や「アナーキー」ではなく、「ファンキーで行こう」ということだ。では、その実践例をひとつ挙げておこう。(Ciaran Carsonの詩省略) さて、あなたはこんなファンキーな〈宿主〉になれますか? (pp.258-9)

「ファンキー」ってのはどういうことかわかってるんだろうか。Ciaran Carson先生はアイルランド人男性のようだが、ファンキーなんだろうか。映画『コミットメンツ』で言われていたように、アイリッシュはイギリスの黒人だからファンキーで”I’m black and proud of it”とか主張してるんだろうか。自分がなにを書いているのかわかっていないようなひとってのはどうなんだろうか。誰かなにか言ってあげればよいのではないのか。全体を通して、まるでポストモダン論文自動生成器による文章のようだ。まじめに勉強して地味な論文を書いているオーバードクターがかわいそうだ。なんとかしてあげてください。

ファイトバックの会とwebプレゼンテーション

http://fightback.exblog.jp/ を見る機会があったのだが、
4月17日の裁判官退席の件、会の主張がよくわからんな。
傍聴者の人数を読めなかったとかってのはまずいのかもしれんが、
指示に従わない聞かない傍聴者が多くてやばいから裁判延期、ってのは
ありそうな話なんだが・・・。そういう話ではないのだろうか。
私のような政治音痴にはわからんかもしれない。

ついに裁判長は、「中止します」とあっというまに自ら退廷。これは多くの傍聴者が発したエネルギーが、裁判長の紛争解決能力を萎縮させ、裁判長席にい たたまれなくさせたせいではないだろうか。

とか、ちょっとまずすぎる。退廷命令出したのに従わなかった人間がいる場合、(1)強制的排除か(2)休廷・延期、のどちらかしか選択肢があるまい。まさか強制排除するほどじゃないから、延期は正しい判断に見える。

それにしても、運動家の人々はwebの作り方にもっと
注意してほしい。いまじゃ最強の市民メディアなんだし。
ブログ形式だけじゃ読みにくいからだめ。

ちゃんと全体の情報がわかるようにしてほしい。
「館長雇止め」がどういう裁判なのかさっぱりわからん。その「ホームページ」は
http://fightback.fem.jp/ だが、全
体がわかるのは「よびかけ」と訴状ぐらいが置いてあるだけで、あのページ読
んで会の主張の全体やその正当性がつかめる人はほとんどいるまい。
あれを読んだだけでそれに応じて「応援」しちゃう人はよっぽど批判能力がな
いひとたちだけだろう。2ちゃんねるあたりのいろんな「まとめサイト」の方が
よっぽどうまい。

上のファイトバックの会のページを批評してみると

  • いま「ホームページ」で一番目立つのは「5月22日に法廷を埋めつくそう」になってる。わからんではないが、そういうのはblogの方で大々的にやればよい。そういう流れていくべき情報と、基盤となる情報や主張は分けておく必要がある。
  • 「雇止め裁判とは何か」のページを作ってホームページの一番目立つところにおくか、トップページに書く。現状では最低限の知識を得るために「ホームページ」→「みなさん応援してください」→「よびかけ」の3クリックが必要だから、最大2クリックにしなきゃ。
  • 三井館長の雇止めが「バックラッシュ」によるものだという論証が必要。「社会的にフェミニズムとかそこらへんに対するバックラッシュがあった」ということと、「三井館長がクビになった」ということの因果関係をはっきりさせてくれないと納得できない。訴状に書いてあるんだと思うが、そんなもん読む気になる奴はほとんどおらん。
  • 就業規則の改訂が三井館長をターゲットにしているという論証も必要。なんか一方的だぞ。企業でも終身雇用をやめて派遣使って、思い通りに働いてくれない人は使い捨てるってのが流れだろう。官公庁や大学その他、かたいところでも全国的に非常勤に厳しくなっていったってのはここ10年ぐらいの流れだったと思う。それで苦しんでいる人は男女を問わず多い。そもそも館長を非常勤にしてしまうというんだから、最初から館長が固定しないつもりだった、使い捨てにするつもりだったんじゃないのか。(もちろんそれがよいことだと言うつもりはぜんぜんないが。)
  • Q and Aはブログで書いたあとにホームページに移動すべき。
  • テレビ番組の動画について、「公開期限が切れました。ご覧になりたいかたは私的に保存している物がありますので fightback@hh.fem.jpまでご相談下さい」とかって書いていて著作権とかそういうのに関して無関心なところを晒しているのはまずい。ワキが甘いというか。
  • フェミニズム運動系のページでは、「代表者」がはっきりしてないことが多いのがいつも気になる。いったい誰が代表者なり責任者なりなのか、明示してほしい。誰が責任を負っているページなのかはっきりしていないのはやはり価値が下る。これは私の男性的なバイアスなのかもしれない(っていうかまさにその典型だろう)のだが、最終的に誰が責任負うのか、誰に話をすればよいのかは、私のような資質の人間には非常に気になる。筆名その他なんでもよいが、とにかくトップの人間ぐらいは明示してほしい。「ファイトバックの会、代表者 フェミ野フェミ子 femimi@~、会員~。でOK。逆に、「賛同者」なんてのはいらん。せめて「ファイトバックの会とは」のページぐらいは作ってほしい。もしかするとトップが誰か意図的にはっきりさせてないのかもしれないが、そういう組織はやっぱり社会的な信用に欠けると思う*1

まあwebもblogも、やっぱり最後はコンテンツだ。あたりまえ。自分たちの主張をわかりやすくプレゼンしてください。とにかく運動家はもっとプレゼン能力を高めよう!

*1:同じく気になるVAWW-NETジャパンは「共同代表者」になっている。なぜ「共同」にするのか、とかってのはジェンダー研究にとってよい課題だと思う。

アンドレア・ドウォーキン メモ

WikiPediaでAndrea Dworkinの項読んでみたり。
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrea_Dworkin
恥ずかしながら、知らない重要な事実がけっこうあった。

  • ジョン・ストルテンバーグと20年以上同棲して、1998年ごろには結婚してた*1
  • 1999年にドラッグレイプ被害(妄想?)に会ったと主張して論争が起こった。

なんじゃこら。ううむ。

ちなみに編集ディスカッションもおもしろい。WikiPediaの編集フレームを英語で読むのははじめてだな。ニュースグループでのフレームに比べて読みやすい。それにしても英語圏のやつらは力があるなあ。キチガイが暴れてもなんとか水準を維持している。まあメインライターの力なんだろうが。日本語のWikiでここまで耐えらえれる人材はいるのだろうか。たしかにWikiPediaには新しい可能性(と困難)を感じるね。ま、このキチガイの言動を見るといわゆる「バッシング」というものが
どういうものかよくわかる。

まあ
精神的にもろい人だろうということは誰もがわかっていただろうが。先日読んだカミール・パーリア のVamps and Trampsが殺したんじゃないかとか想像してみたり。

さらに色々読んでると、米国では明らかにPagliaの影響を受けた世代のフェミニストたちがかなり力をつけてるんだな。たとえばSusie Bright。ううむ、保守化なのかどうか。こういうのぜんぜん紹介されてないよな。

まあこの人のインパクトを考えれば、『現代思想』あたりが追悼特集組むぐらいのことをしてもよかったんじゃないかと思うのだがすでにやったのかな。あといつまでもバトラーだのコーネルだのどんくさいフェミニストの紹介やってないで、若い世代を紹介してくれりゃいいのに。

まあ国内でももうちょっとすると出てくるかな。ここらへんやっている人びとでも、英語で直接どんどん読める人はそれほど多くないのかもしれない。

*1:はてなだと、 http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20050510 ではゲイとレズのカップルと書いてるけど、そうじゃないと思う。

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』の謎

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』大月書店、2004。ISBN:4272350188

この本でもジェンダーは文化だってことの証拠としてp.62でミードの『男性と女性』の研究がひきあいに出されている。

で、先日触れた伊藤公雄の『男性学入門』ISBN:4878932589とほぼ同じ表が使われているのだが、この表、なんだ?この二つの表はすごくよく似ていて、ほとんど縦横を変換しただけ。伊藤公雄は出典としてミード本人じゃなく、

出典: 村田孝次、1979年(井上和子ほか『生き方としての女性論』より)

としている。「井上和子ほか」の本は巻末の文献表に出典がある。
伊田は

出典 マーガレット・ミード『男性と女性』1949年。諸橋泰樹『ジェンダーというメガネ—やさしい女性学』(フェリス女学院大学)

としている。「ジェンダーというメガネ』の発行年月日や発行者は不明。(フェリス?)もちろんこの表はミード自身のものではない(し、ミードの研究とは離れてしまっている)。

伊藤の本で気になった表記はそれぞれアラペッシュ、ムドグモール、チャンブリになっている。(伊藤の本ではアラ「ベ」ッシュ、ムンドグモール、チャム「プ」リ)。

あと、伊藤の本で「男女」になってるのが「女男」になってる。「男性的」が「いわゆる男性的」になったりもしている。

なんじゃこら。どこかでインチキが横行しているんじゃないのかなあ。

なんか、フェミニズムの人々はバカなバッシングを受けているだけじゃなくて、もしかしたら背後から足ひっぱられているかもしれないとか思ったりもする。(いや、ただの感想。根拠なし。)

伊藤公雄先生の『男性学入門』

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。

加藤秀一の性暴力論

昨日加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読んでかなりショックを受けたので、ちとメモを残しておく。

ちょっとよく読んでみる。気になった終章の「性/暴力をめぐって」の前に、

ポルノを論じているところ(第3章)でも性暴力の話をしていた。

加藤先生の「暴力」論

p.176で、先生はこう言う。

暴力という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。・・・人間の肉体に侵襲を加える行為でも、それが行為参加者によって一定のルールに従う合理的行為(医療行為とか愛のムチとかいった)として承認されちるときには暴力ではない」

OK。「暴力」は不当な力だ。ただし物理的な力に限定する必要はないと思う。

しかし次のページ(p.177)は問題がある。

教師が生徒を殴った。・・・これは暴力か否か。行為とその文脈という枠組みだけで考えている限り、この問いに解答を与えることはできない。ここで問われているのは、「殴る」という行為の社会的な意味を決定すべき文脈それ自体の意味づけという、一段高次の論理階型に属する問題だからである。したがって、行為の文脈に対してさらにメタ・レヴェルにある「権力関係」という第三の水準を導入する必要がある。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証され正当化されているときには、殴られた当の生徒がいかに不満を抱いても、教師の行為は暴力という社会的意味を付与されることはない。

こういうのを読むと、社会学者ってのはなあ、と思ってしまう。社会学者の多くにとって、「暴力」かそうでないかってのは「社会的意味」でしかない。「社会的意味」ってのをはっきりさせてくれればいいのだが、たいていの社会学者ははっきりさせてくれない。おそらく上の文章の意味は、「*人々*はそれを暴力とはみなさない」っことなんだろうが、この「人々」が誰かわかんないから不満なんだよな。「行為とその文脈という枠組み」で考えて答が出ないのは、加藤先生が「暴力」かどうかを「人々がそれをどう見るか」という記述的な視点からそれを見ようとしているからだ。哲学者から見れば、あるものが「暴力」であるかどうかは、(加藤先生も「不当な」ということでちゃんと理解しているとおり)事実判断ではなく価値判断なのだから、いくら事実に訴えても一義的な答が出ないことがあるかもしれないのは当然のことだ。いくら「権力関係」なるものを視野に入れても、事実から価値判断は直接には出てこない。(もちろん道徳的実在論をとるひとは別かもしれないが、少なくとも哲学者はこんなおおざっぱな議論はしない。)

人々があるものをある仕方で意味づける、って事実と、その意味づけが正当かどうかということは別のはずだ。ここに混乱があるように見える。

ある性的行為・・・が性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。だからこそ、性的行為の意味を誰の視点からとらえるのかという政治的問題が決定的に重要なのだ。(p.177)

「政治的問題」なのか?「政治的」ということでどういうことを言っているのか不明。

・・・フェミニズムの性暴力論の核心は、女性の視点を肯定するところにある。
性暴力とは被害者=女性が望まない総ての性的行為の強制を指す。

ううむ。「性的行為の強制を指す」だけではだめなのか。「女性が望まない」がどうしても必要なのだろうか。まあいいけど。

p.178のペニスの挿入がどうのこうの、というのは正しい。が、

被害者が相手の行為によって不当に傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。(p. 178)

はおそらくまちがっている。ある人が「不当に傷つけられた」と感じれば、その人がそれを自分にとって性暴力と認める十分な理由になるかもしれない。しかし、それがただちに「性暴力である」と他の人々も認めなければならないわけではない。正当か不当かの区別は、本人の感覚とは独立に示されなければならないんじゃないの? 誰かが「不当に傷つけられた」と感じ、不快に思うならばそれはぜんぶ性暴力、というのでは、あまりにもインフレだ。たとえばある種のフェミニズムの考え方すら、一部の*女性*にとっても不快で人を傷つけるもののようだが、だからといって大学の必修の授業でフェミニズムをとりあげることが性暴力にあたるわけではない。

なんといっても気になるのは、加藤先生は自分自身が事実判断ではなく、価値判断、規範的判断をしていることをどの程度意識しているのかってことだよな。「当人がいやがれば性暴力なのだ」という判断は、「(性)暴力」が価値判断であるかぎり価値判断で、「当人がいやがる」は事実判断だ*1。加藤先生自身が正しく指摘しているように、「暴力」は「不当」な力であり、「不当」であるかは価値判断なのだから、「傷つけられたと感じる」ことから「それは性暴力だ」と言うことは(直接には)論理的関係ではない。ここには論証が必要だ。

ここまでの議論を承認するならば、いわゆる「差別」と暴力との等根源性も明らかになるだろう。(p. 178)

性暴力をめぐる闘争とは、同時に性差別をめぐる闘争でもある。それどころか男の女に対する性暴力は、性差別という全般的状況の(突出してはいるが)一部分であるに過ぎない。(p. 179)

ぜんぜん明らかではない。加藤先生は「差別」という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。加藤先生はわざわざ「*いわゆる*「差別」」とまで表記するのだから、ひとびとが「差別」をどういう意味で使っているかある程度把握しているのではないかと思うが、わたしにはさっぱりわからない。わたしにとっての「いわゆる」差別は、「当の問題について重要ではない特徴をつかってあるグループの人々を選びだし不利益な扱いをすること」のような感じなのだが。単にあるグループの人々をある仕方でとりあつかうのこと自体はこの意味では「差別」ではない。(もちろんもっといろいろな意味はあるのだろうが、加藤先生がどういう意味で使っているのかを知りたい)

差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である・・・人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。したがって厳密には、人は独りでは差別をすることはできないし、反対に独りでは差別をしないこともできない。」(p. 179)

とおっしゃるわけだが、(私の頭が悪いから)よく理解できない。社会的な差別が社会的であるのは当然だと思うのだが。

「差別」は定義していただけてないが、「性差別」の定義はある。

ところで性差別とは何か。詳細に論じる紙数はないが、さしあたり、女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元することであると定義しておこう。(p.179)

なるほど。定義としては「~認めず」は必要ないような気がするけど。それにこの定義では多くの性差別(たとえば就職における女性差別)が抜けおちると思うが、まあ定義は自由だ。

加藤先生の「性」暴力論

加藤先生は、彦坂諦先生の論文(『男性神話』径書房1991。まだ読んでない)に影響を受けて、性暴力が他の暴力と違うのは被害者の側の「屈辱」にあると見ているようだ。

彦坂諦は、屈辱という言葉を用い、次のように問うている。

なぜ強姦されたことをひとは屈辱と感じるのだろうか。
強姦された女が、私たちのこの社会のこのいまの状況のもとで、そのことを屈辱と感じるのは……私たちのこの社会から、歴史的・文化的にじゅうぶんないわれをもって、それは屈辱であるという見方を押しつかれているからだ。

ここで屈辱という言葉であらわされているものが、「性暴力」から「暴力」を引いた残余である。(p. 326)

おそらく彦坂先生も加藤先生もまちがっている。「性暴力」から「暴力」を引いたら、残るものは侮辱ではなくて性欲だ。性暴力が女性に屈辱を与えることは多いだろうが、屈辱は必要条件ではない。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

昨日も書いたが、いろいろショッキングな文章だと思う。

「屈辱感」とはどのような感覚か?

まず、「屈辱」とかってのは性犯罪だけなく、一般に犯罪の被害者、もっと広く不当な行為を行なわれた人間にとっては共通の感覚だ。加藤先生はカツアゲされたり道端でおびやかされたりしたことがないのだろうか?私自身はカツアゲされそうになったことはある。もしその犯人に金をとられたら、それは私にとって屈辱的であったろう。暴力的な犯罪の被害者になるということは、まさに自分の弱さを意識させられるということだ。暴力的でない犯罪でも、自分の攻撃されやすさvulnerabilityを意識することになる(犯罪被害の現象学というのはおもしろそうだ)。はっきりとした犯罪でなくても、誰かから騙されたり、操作されたりしたときに我々はひどい屈辱を味わう。たまらん。

「辱める」ってことは

いっぽう、加藤先生が性暴力のポイントと認める「辱める」のはもっと複雑な概念かもしれない。女性を辱めるdishonorするということの裏には、「貞操」や「純潔」が女性の誇りhonorであるというモーツアルト時代の響きが感じられる。わたしには正直なところよくわからん。

ここで私がショックを受けたフレーズが出てくる。

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

私がショックを受けたのは、強調した(strongでかこった)ところ、「でも自分も少しは感じたんじゃないの?」だ。この文脈で出てくるのはほんとうにショッキング。

なにがショッキングかといって、女性が強姦その他によって「快楽を味わう」ことがこの文脈で出てくるとは予想してなかったらからだ。しかし、これは加藤先生の言う「辱める」ことの最も重要なポイントなのだ。

たとえばわれわれは、人を殴って辱めることはできない。金を奪っても辱めることはできない。それらは外的な事件であり、本人の「誇りhonor」とは無縁のことだ。運が悪かっただけ。この意味では、われわれはどんな不正な目にあっても傷つくことはない。

哲学とか好きな人のために書いておけば、ソクラテスは不正なことをされても自分が不正なことをしなければ魂が悪くなることはないと言ったし、ウィトゲンシュタインは「確実性について」で同様のことを主張している。

しかし、ある考え方によれば、不本意でも、性的な快楽を味わってしまうことは、そのひとをその行為に対して共犯関係におくことになるらしい。これは馬鹿げた考え方で、まさにレイピストの発想だ。われわれはいくらおいしいものでも無理やり口に入れられたくない。(しばらく前に山形浩生先生について書いたときのフランクファートの一階の欲求と二階の欲求の区別、あるいは欲求のアイデンティフィケーションの話がここらへんで効いてくる。)

もちろん、加藤先生は、そういう「一般社会の考え」を自分なりに構成して書いただけで、そういう発想に彼自身はコミットしていないと言うだろう。しかし、彼の発想では、社会がどう思うかがすべてを決定してしまうように見える(私の誤解だと思うが)。

田村公江先生の『性の倫理学』(丸善株式会社、2004)という本では、非常に大胆な発言がある。

筆者は高校生のときに通学電車の中で痴漢にあったことがある。満員電車の中で立ったまま眠っていたきに、おっぱいを触られていたのだ。うとうとしながら、なんだか気持ちよくなっていた。」「快感を感じた=本人にとっていやなことではなかった」、だから痴漢は悪いことではなかった、と言えるのだろうか。答はノーである。性的な快感を呼び起こす身体接触を受け入れることに関して、筆者は同意を求められていなかったからである。快感を感じたからといって、同意があったと事後的に言うことはできない。

これは痴漢体験が被害者に身体的な快楽をもたらすことがあるという非常に勇気のある発言で(アカデミックな文脈では空前絶後で、これが唯一)、その正直さにまったく敬服する。しかし、田村先生が指摘しているように、そういう快楽と性暴力の不正さはまったく関係がないのだ。

うーん、やっぱりうまく表現できない。加藤先生が、「少しは感じたんじゃないの?」という見方が「彼女の存在そのものの否定に等しい」と言うときに、いったい加藤先生自身が何を考えているかが問題なのだと思う。たしかに「感じたんじゃないの?」という考え方はその女性を単なる性的なオブジェクトに貶めるものかもしれない。しかしそれはその発想がおかしいんであって、その性的暴行そのものではない。性的暴行そのものの不正さは、「社会の見方」とは独立のはずだ。そうでなければ、社会がOKと言えば性的暴行もOKということになってしまう。

その女性が「汚れ」にされるとすれば、それはそういう見方が汚れにするのであって、性暴力そのものがそうするのではない。この性暴力そのものと、性暴力にあった人に対する社会の見方が、加藤先生のなかではさっぱり区別がついていないように読めるのだ。

私がショックを感じたのは、加藤先生がそういう「汚れ」意識を内面化してしまっているところにあるんだと思う。もちろん、ただの例として構成したものなんだろうけど。

辱めることと男性的性欲

さらにつめてみると、たしかに加藤先生の言う女性を「辱める」ことと、強制的に快楽を味わせることの間には概念的な関係があるように見える。男性的なセクシュアリティにとって、快楽を強制的に味わせることは、たしかに相手の女性を辱めることなのかもしれない。そしてある種の人々にとって、快楽を強制することが、女性に対する性暴力のポイントかもしれないと思う。女性を単なるオブジェクトとするだけでは、十分女性を辱めたことにはならない。上で書いたように、どんな不正な目にあっても、誇りを失なわないことは(理論的には)可能だ。誇りを失なわせ、屈服させるには、相手を権力関係を同意させなければならない。その手段のひとつが快楽だ。松浦理英子が「嘲笑せよ」と主張したのは正しい。たんなる物理的な暴力では人を屈服させることはできない。快楽なり欲求なり、被害者がそれを認めることが必要なのだ。そういうわけで、加藤先生は、男性的な性欲のなかにある「辱める」ことと「快楽」との間の関係を正しく見ているのだが、十分それを自覚しているかどうかはわからない。

これがおそらく加藤先生の不用意な文章を読んで私が感じたショックの本質だ。おそらく女性のほとんどは、友達が痴漢されたり強姦されたりしたときに、「感じた」かどうかは問題に無関係だと思うだろう。というか、「感じた」かどうかを発想さえしないだろう(「今日電車で痴漢にあって腹たつ!」「で、感じた?」とかって会話はありえない)。しかし加藤先生のような女性の視点にかなり近い人でさえ「感じた」かどうかが問題になるかもしれないというところが私にとってショックだったんだろうと思う。男性のセクシュアリティにはまだまだ謎が多く、加藤先生のように最も明晰で自覚的なひとでさえバイアスから逃がれることは難しい。

まあもうずいぶん前の本だから加藤先生の考え方は変わっているかもしれなし、もうこういう不用意な表現はしないだろう。ここらへんの問題について最近の見解を読んでみたいものだ。

うーん、だめだ。頭悪い。もうちょっと言うべきことがあるような気がする。また明日。

*1:「いやがる」「不快に感じる」「傷つけられたと感じる」のは心理的事実。ここは混同しやすいので注意が必要。

性=人格論とか

セックスやセクシャリティまわりの社会学や哲学まわりというのはほんとうに難しい。私の頭が悪いからなのだろうが、よくわからない議論が多くて困る。

今日は「性と人格」まわりの議論を見てみようとしたのだが、これがまた泥沼。自分用にちょっとだけまとめを作っておく。

「性=人格論」という言葉がある。この「=」をどう発音するのかが非常に気になるのだが、まあそれは置いといて。華やかな人々がこの「性=人格」論をやっている。重要なものだけあげると

1992 (1995) 松浦理英子 「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」
1994 → (1998) 上野千鶴子 「『セックスというお仕事』の困惑」
1995 赤川学 「売買春をめぐる言説のレトリック分析」
1998 浅野千恵 「『性=人格論批判』を批判する」
1994 (1998) 上野千鶴子 発情装置―エロスのシナリオ
1999 赤川学 セクシュアリティの歴史社会学
2003 杉田聡*1 『レイプの政治学』

とか。瀬地山・角田対談(1998)とかもあるんだが、まああとで。

赤川先生の言説分析

この「性=人格論」という「=」のはいった形の言葉を造語したのは、どうも赤川学先生のようだ(と浅野千恵先生が言ってる)。

売春が「人格」や「人間性」との関わりにおいて問題化されている。
こうしたレトリックの前提になっているのは、「性そのものが人格や人間性の中心に位置する」という認識である。これを性=人格論のレトリックと呼ぼう。
(江原由美子編『性の商品化』勁草書房1995, p175 )

これだな。

赤川先生は、その後超労作『セクシャリティの歴史社会学』の第11章でさらに詳しく性=人格論の源流をさぐっていらっしゃる。1995年の論文では「レトリック」と呼んでいたが、1999には「レトリック」ではなく「言説」と呼んでいる。(おそらく「レトリック」という言葉が与える「単なる表現上の修辞や工夫」といった印象を嫌ったのだろう)

んで、この赤川先生の研究は私にはけっこう問題があるように見える。

まず赤川先生は「人格」の概念を知るために佐古純一郎の『近代日本思想史における人格観念の成立』という本を参照して、ほとんど無批判に信用しているように見える。(佐古先生の本は持ってないのでわからん)

p.275で赤川先生は、

佐古によれば、「人格」という言葉がPersonalityの訳語として用いられるようになったのは明治二十年代前半

だという。これはもちろんOK。

それは当初は心理学の訳語として使われていたが、やがて中島力蔵・井上哲次郎らによって哲学・倫理学上の用語として定着していく。

ということらしい。これもOK。ただし、そっちの意味の「人格」はpersonalityの訳語ではなく、personの訳語のはずだ。これについてどういうわけか赤川はまったく触れていない。(そしてそれを柳原良江先生は博士論文でそのまま援用してしまっている。おそるべき劣化コピーの連鎖。)

この混同をしたのが佐古先生か赤川先生かははっきりとはわからん(おそらく佐古先生)が、非常に重大な混同だと思う。赤川先生はp.276でこう言う。

まとめると、近代日本において「人格」という観念は、(1)人間の中核にあるものであり、(2)「物」や「器械」ではなく、(3)手段として利用してはならないもの、という含意を持つ記号として生まれた。その意味で「人格」という観念は、現在私たちが通常の意味で使っている以上に、哲学的・倫理学的な負荷の高い概念であったようである。筒井清忠が論じているように、その事情は、「人格」概念が、「人格の向上」を旗頭とし明治末期に登場した修養主義=人格主義とも密接に関わっていたことで一層、強化される。

佐古先生はおいといて、これはとりあえず赤川先生の解釈と受けとめていいのだろう。(赤川先生は「=」が好きなのね。たしかにこの人が造語したように見えるな。)(あと赤川先生が「記号」や「観念」や「概念」をどう使いわけているのかも興味あるが、まあいいや)

このまとめは、(1)の心理学でのpersonalityと、(2)と(3)の(カント的な)倫理学でのpersonを混同してしまっているため、使いものにならないように見える。たしかにカント先生は、価格をもつ「物」と、尊厳をもつ「人格」をはっきり区別しているし、

「あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないようにせよ。」

のような形で人格を単なる手段として利用することを戒めている。

でも、カント的な意味では、「人格person」は(1)人間の中核にあるものではない。カント的な意味だったら、それは人間性Menschheitだ。さっきの1995年の論文では正しく「人間性」にも触れているのに、なぜ『歴史社会学』では落としたんだろうか。

「まとめ」の(1)や、修養主義で言われるのは性格特性character traitや人間性や道徳性をさす「人格」で、けっきょく赤川先生の「人格」は日本語で同じ訳語になる複数の概念をごっちゃにしたものでしかない。

赤川先生は日本の社会学者のなかでも抜群に明晰な方なので、もちろんそんなことには気づいている。大正~昭和の恋愛至上主義と性教育を概観して、次のように言う。

性=人格論とは、恋愛至上主義のフィールドにおけるカント的用法、つまり「人格である性を、道具・モノ・機械のように扱ってはいけない」という倫理命令と、性教育のフィールドにおける性の重要性の強調、つまり「性は人間生活の中核に位置する重大なものである。」というフロイディズム的用法との二つの要素からできあがっている。

これは、非常に重要な主張だ。ただしカントが恋愛についてどう考えていたかというのはおもしろい問題で、カント自身は恋愛至上主義からはもっとも遠い場所にいるはずだ。赤川先生は「恋愛至上主義」がカント議論の流れにあるというが、カントというよりはゲーテ→ショーペンハウエル→トルストイ→ロマン・ロランとか続くロマン派からヒューマニズムの議論なんじゃないだろうか。文学上の自然主義に対する反動もあるわけで、ここらへんもっと難しい対立があるように見える。

まあそこらへんの細かい議論はおいといて、問題は、こういうまったくちがった源流から来ている(原語が違うはずの)「人格」という訳語が、いっしょくたに議論されてしまっている点にある。赤川は少なくとも源流が違うのだからこれらの「人格」がまったく違う概念であることも理解しているはずなのに、それをはっきり述べない。むしろ積極的に混同してしまう。上で引用した文章に続いてこう言う。

そしてこの二つの要素は、戦後の純潔教育において合流・合併することになる。

このようなところに、赤川の「性に関する言説の歴史社会学的記述」という方法論そのものの重大な欠点があるように見える。心理学的なpersonalityと倫理学的なpersonが混同されたのは歴史的な必然ではなく、偶然にすぎない。ぶっちゃけて言えば、personalityとpersonが混同されたのは、どちらの派閥も日本語で「人格」という訳語をつかってしまったために、頭の悪い人々がその二つを混同してしまったからにすぎない。しかし赤川の方法論では、「とりあえずこの時代にはこういうふうに言われていたのでこうだったのだ」としか言えず、批判することができない。赤川先生は、ここで混同があったことを指摘し批判するべきであって、同じ「人格」という日本語を使っていたからといって、それを無批判に受けいれてしまうのが非常に奇妙に見える。彼の方法でわかるのは、せいぜいのところ、「混乱した思考のなかで日本人の文筆家たちが「人格」と性のつながりについてどう考えていたか」でしかない。そしてそれはふつうの人々の生活や意識からも乖離してしまっているかもしれない。(あら、うまく表現できない。私の頭が悪い。)

なんかだめ。わからん。赤川先生はp.286-7で吉本隆明まで持ちだしてごちゃごちゃやるのだが、わたしには理解できない。うう。

上野千鶴子

赤川先生の方法論については上の記載はなんかおかしいので考えなおすです。

で上野先生なんだが、上野先生が『発情装置』の序文でやっていることは、赤川先生や加藤秀一先生の研究に影響を受けているんだと思う。(90年代後半から上野先生は親分になり、子分たちの研究を十分参照するようになった。これは「フェミズニムの社会学」があるとすれば非常に重要な一面なんだけど・・・*2上野先生は、

セクシュアリティの歴史的研究があきらかにするところによれば、性と人格の結びつきは、「近代パラダイム」というべきものです。もちろんここには男にとっては性と人格の分離が可能だが、女にとっては性と人格との分離は不可能だ、という「性の二重基準」が組み込まれています。(p.23)

とかって言ってしまうわけだが、ここで上野先生が「人格」という言葉で何を言おうとしているのかが曖昧でわからん。少なくとも赤川先生のいう(1)の意味か、(2)(3)の意味かをはっきりさせる必要があるんだろうが、これではどうしようもない。社会学者でこれほどまでに自分の使っている概念に無批判な人はめずらしい。おそらく、とりあえずただ書いてみたのだろう。

そもそもカントからロマン主義的な「人格」が近代的なものだってことはそうなのかもしれないが、もっと注意が必要に見える。セックスははるか古代から重要だったと思うのだが。

浅野千恵先生の「性=人格論批判」批判」

浅野先生というひとは上野先生とかと比べるとずいぶん真面目な人のようだ。深刻すぎて困ってしまう。「『性=人格論批判』を批判する」という論文は腰のすわったフェミニスト的意識に根差したよい論文だと思う。(私はこの人が書くものを非常に高く評価している。論文は先生のホームページから手に入るのだが、浅野先生、ディレクトリが丸見えですよ。 )

浅野先生は(1)赤川流の「性=人格論は近代固有だ」」という見方を否定。フーコーはインチキ。(2) 「性=人格論」批判は、たんなるレトリックである「性=人格論」を実体化してしまっているのでダメだ、(3) 「性=人格論批判はフェミニスト的でない。」の三点を主張したいようだ。ここでは議論しないけど、(1)と(3)はその通りだと思う。問題は(2)が何を主張しているか。

私がとりあえずの疑問として提示しておきたいのは、「性=人格論批判」の言説が、むしろレトリックレベルで提出された議論~を実体視するところに成り立っているのではないかという疑問である。

と言うわけだが、この周辺の部分が読みにくくてよくわからない。もし非常におおざっぱな解釈をしてもよいのなら、浅野先生が主張したいのは、「性と人格が結びついているなんてのは、売買春を非難したり規制するためのたんなるお話。だから、そんな議論をまじめに受けとって議論するのはだめだ」ということになる。これでいいのだろうか。

浅野先生も「人格」ということでなにを言おうとしているのかはっきりせてくれないから、せっかくの気合の入った論文もだいなし。もったいない。

杉田聡先生の上野批判。

んで、「性=人格」論者の代表が杉田聡先生なわけだが(NHKビジネス英会話の先生とは別、のはず)。

あんまり好きな人じゃないけど、とりあえず上野先生の「性と人格のむすびつき」が多義的であることを正しく指摘している。さすが哲学専攻(というか、そういう分析ができないようでは哲学勉強している価値がない)。杉田先生によれば、上野先生の「人格」概念は少なくとも

  • 人となり
  • 尊厳を有する人たるペルゾーン
  • 愛もしくはそれに類する心情・内面

の三つの意味で使われているという。最初のが赤川先生の言う(1)のpersonality、二番目が赤川先生の(2)、正しい。三つ目を「人格」と呼ぶのはかなりむずかしいのだが、上野先生が斎藤美奈子のインタビューに答えたものなどを見ると(浅野論文参照)、たしかにそういうルーズな使いかたをしているようだ。「愛」や「親密性」が基本的に「人格的なまじわり」なので、そういう使われかたをするようになるんだろうな。ルーズすぎるが。

わたしだったらこれに加えて「人間の価格」という意味を付け加えたいと思うけど。たとえば貞操を失なうことによって失われると考えられていたのは、私には女性の市場価値そのものに見える。「売春すると人格が損われる」「強姦は女性の人格を損なう」とかって発言で意味されているのは、「売春する女/強姦された女は価値が下る」のように見えるし。(言うまでもないが、私はこの判断にコミットしない。)

杉田先生の分析によれば、上野先生は、(I)性が「人となり」に重要だという考え方と、(II)性(の自由)は人権の一部だという考え方の二つを混同してしまっているという。さらに杉田先生は、上野は(III)ある種の性は人となりを汚す という考え方を採用してしまっているという。

あとで議論するけど実は杉田先生は上のIIIを受け入れているはずで、これが問題を複雑で泥沼にしてしまっているのだが、今日はまあよかろう。

まとめ(られん)

飽きた。上野先生も赤川先生も浅野先生も、「人格」の意味をちゃんととらえておらんというかなんか混同しているというか、明晰化しようという努力のあとが見られない。杉田先生はそこらへん努力している(が、ぜんぜん自分ではダメな議論をしていると思うが、それについてはまた後日)。

おまけ。加藤秀一先生のショッキングな主張

ついでにメモだけ。加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』はよく書けていると思っていたのだが、よく読むとなんかあやしいところがたくさんある。性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって? — 可哀相に — もう処女じゃないのか….でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。バトラーとかの悪い影響がある。

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?男性も暴力的な犯罪の被害者になったときに強い屈辱感を味わうと思うが、それと強姦の被害はどう違うか?
  2. 強姦の被害者の女性はいまだに「汚れたもの」と扱われているのか?
  3. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?
  4. 処女とか貞操とかっていうのはこの本が出た90年代にはこういうふうに扱われていたのか?
  5. 強姦された女というスティグマを貼るのはまさに加藤先生のような考え方じゃないの?「社会がそう思う」は往々にして「私はそう思う」しか意味していない。上の文章で加藤先生が「存在そのものの否定に等しい」とするのは、たんに「社会が一般にそう考えている」という記述には読めない。
  6. 「少しは感じたんじゃないの?」と加藤先生の言う「屈辱」との関係が、往々にして見逃されている巨大なポイントだ。今すぐには議論できないけどそのうち書く。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為の場合もあるだろうが、必ずしもそうでなければならないわけではない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

松浦理英子先生の「嘲笑せよ」論文の影響力が90年代にいかに強かったのかがわかる。あとブラウンミラーやエストリッチ。私にはレイプ犯の内面を見ることは難しいけれども、想像することはできると思う。私の内省によれば、彼らが「女性を侮辱しよう」なんてことを第一の目的にしているはずがないと思う。たとえば京大ギャングスターズのギャングレイプ犯は、女性が寝ている間にセックスしようとしたんだし、気づかなきゃそのままにしようとしてたんだろうから、直接に「侮辱」しようとしたなんてことはないだろう。(文字通り侮辱するためには相手がそれを意識する必要があると思われる。)彼らに「女性を侮辱するつもりだった?屈辱を味あわせるつもりだった?」とたずねても、「そんなこと思いもしなかった」と答えるんじゃないかな。(もちろん、それが問題なのだが)レイプは暴力でもあるが、とりあえずはセックスだ。性暴力を他の暴力と区別するのは、その動機の性欲にほかならない。この点でも杉田聡先生は正しい。

感想

まあ今日あげたような華やかな人びとの研究ってのは、ちょっとおかしいところがあるような気はするがインチキではない。偉い。攻撃しているわけではないつもり。

杉田聡先生の人格論アゲイン

杉田先生の『レイプの政治学』の議論は、全体としてよくできていると思う。80年代のフェミニストたちによる「レイプはセックスじゃなくて暴力」という議論を叩く。これはOK。人格は尊厳を持っていること、性的な自由は人格の尊厳の維持のためにも、個人の幸福の追求ににとっても核心的部分であることを主張、これもOK。上野千鶴子の反「性=人格」論を曖昧だとして叩く、OK。

新レイプ神話や上野を攻撃しているときは明快なのだが、彼自身の立場を擁護する肝心の部分になるととたんに歯切れが悪くなるのが難点だ。

杉田が自分の立場を弁護しなければならない点として (1)強姦被害をどう見るか、性的インテグリティのようなものをあまりにも人格の中心部分とみると、強姦被害者は回復不可能な傷を負ったことにされてしまうのではないか、 (2)売春も性的自由の一部ではないのか、というのがありそうだ。杉田先生は明晰な方なのでもちろんこれに気づいてる。

強姦被害の問題

まあそもそも上野が松浦の尻馬に乗って「性と人格を分けよう」と主張したのは、やっぱり強姦被害の問題がある。なぜ強姦は特別な種類の犯罪、人格に対する犯罪とみなされなきゃならんのだ、他の犯罪とどこが違うのだ、というのはもっともな疑問に思える。

杉田先生は、まず、松浦→上野の「意味づけ」を変更しようとする試みは役に立つことはあるかもしれんが社会的にダメだという。p.234-236。たとえば息子が自動車に轢き殺されたときに、「それはたいしたことがないことだと考えよう」なんてのはナンセンスだ。OK。よい議論。また、「レイプは女性を侮辱するために行なわれるのだから、性と人格を切りはなしてしまえばよいのだ」という上野の議論がレイプ被害を少なくする戦略にはならないという指摘も正しい。でもこれだけでは杉田先生は「性犯罪のなにが特別か」に答えていない。これに対するこたえがどこにあるか私は見つけることができない。もしあるとすれば、

たとえば、強力な貞操モラル・・・が成立しているところでは、強姦被害は貞操を破るものとして、女性にとってたしかに「特別な侵害」となっているであろう。・・・弱化したとはいえ「貞操」モラルの残渣、あるいはそのある種の変種・・・でさえ、依然として強姦が女性にとって特別な侵害となる原因になる。人権が意識された社会っではことのほかそうであろうが、そうした意識がなくてもまた同様なのである。
だから、性と人格とを切り離したとしても、そうした根強いモラルが生きる社会では・・・強姦が女性にとって特別な侵害になるという事実は、何ら変わらないのである。(p. 243-4)

ここしかない。つまり杉田先生は、社会のモラルがそうだから強姦は女性にとって特別な侵害なのだ、と主張したがっているように読めてしまう。もしこの読みが正しければ(あんまり自信がない)、松浦や上野の議論と大きな距離があるわけではないように見えてしまう。おかしすぎる。杉田先生はもっとはっきりと性犯罪が特別な犯罪である根拠を提出しなければならないと思う。

私だったら、性的な侵害を受けることは文化とは独立に、実際に被害者にとって心理的に特別な経験なのだ、それは人間に共通の経験だ、と主張して終わりにするんじゃないかな。それで十分なはずだ。誰でも頭を殴られればいやなのと同じように、レイプされることはそれよりイヤなことなのである。(そして進化心理学もそれを支持するはずだ。Randy Thornhill and Craig T. Parmer, A Natural History of Rape: Biological Bases of Sexual Coercion, The MIT Press, 2000やDavid M. Buss, The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating, Basic Books, 2003とか。)

これに対して社会構築主義とかって馬鹿な立場を原理主義的に採用すると、強姦を受けた女性の嘆き悲しみも社会的な条件づけや文化に依存することになってしまうから、「女性が現にそう感じるから」という主張の威力が薄れてしまう。まったく馬鹿な立場だと思う。

売買春は?

杉田先生のもう一つの弱点は、売買春の自由のようなものをどう扱うか。性的自由が認められるんなら、なんで売買春しちゃだめなの、というのはもっともな疑問だ。これで非常におかしな議論をしている。

「ある種の性的自己決定は、法的な厳しい制約を課されるべきである。・・・自己決定権は、それ自体尊重されるべきであるとしても、その行使は他者を害するかぎりはっきりと制限されなければならない。」

これはまともな議論である。危害原則。また、

「他者を害する」とはいかなる事態を指すのか。他者に対する身体的危害はもちろんだが、精神的危害を加えることもここに含まれるであろう。またより広く、他者の有する権利・・・に対する侵害も含まれるだろう。」(p.180)

これもOKである。しかし杉田はここから次のように論を進める。

ある人が、他の人と比べて不当に差別され、それによって「同等に扱われる権利」(平等権)を侵害されたとき、たとえその人が精神的苦痛をこうむらなかったとしても、それは他者を害する行為とみなされなければならない。(pp.179-180)

ここでかなり異常な議論になってしまっている。

言論の自由—これはふつう「精神の自由」として公権力による侵害を受けない権利であるが、一方でより積極的な行動の自由を含意している—の行使の結果、たとえば黒人やユダヤ人、さらには同性愛者、「内縁」者といったマイノリティ集団に対する偏見や憎悪が助長されるとき、そうした自由の行使は無制限ではありえない。(p.180)

上は主張はわからないでもないのだが、かなりホットな議論の対象となっている問題である。少なくとも自明だと言えるような事例ではない。

次に問題の多いパラグラフが続く。

「自己決定権」は、前記のように結婚の自由を含むと理解することができるが、これがたとえば同性愛者や「内縁者」に対する差別をもたらしうることは、明らかであろう。

「明らかであろう」と言うがまったく明らかではない。

人はそれぞれ個人として現われるが、多かれ少なかれある種の規定性を背負った類(たとえば異性愛者、制度的結婚の肯定者として現われる。そして私たちは、その種の規定性を理由に、しばしば人を差別しがちである。差別(平等権の侵害)は、ふつう個人に対する行動にうちに現われるとはいえ、その実差別は、ある種の類的規定をもつ人々に、したがって集団に、向けられるのである。だから「他者」に対する侵害は、個人を越えて集団に及ぶと言うのである。

非常にわかりにくい文章だが、言いたいことはおそらくこうだ。われわれはもちろん個人ではあるが、同時に常になんらかの特徴をもったグループの一員でもある。たとえば私はkalliklesという偽名を持つ個人であるが、同時に「男性」であり「京都市民」であり「日本人」であり「血液型B型」であるように、特定の特徴によってあるグループに入れることができる。

「差別」は常にあるグループに対してなされる。「差別」は私が理解している意味では、「当の問題に無関係な特徴を根拠として扱いを変えること」である。企業が新入社員を採用する際に重要なのは、「その新入社員がその企業にとって有用な人間であるか」であるはずで、そこでは男女の差はとりあえず重要な違いではない。だから「女性だから」という理由で入社を認めないのは「差別だ」と言われる。同様に「生まれた地域」もまたふつうの企業にとっては重要ではない特徴のはずだ。

もちろん、銭湯の女湯に男は入ることができない。なぜなら、われわれは一般に異性に裸を見られることを恥ずかしいと思うことが多いので、銭湯での性別は重要だからである。

さて、差別はある特徴をもとに扱いを変えることなので、ある特徴を共通にもつグループに対してなされる。「おまえはノビタだから仲間に入れない」という「差別」は考えられない。むしろ、差別は「おまえは男だから」「おまえは北海道出身だから」という形になる。「女だから~」という差別は女性というグループに対して、「アジア人だから~」はアジア人に対してなされる差別である。つまり、差別は常にグループに対するものである。ここまでは杉田の言うことはわからないわけではない。

一般に行動は、それが担いうる意味・・・に対して、即自的(無自覚的)でも対自的(自覚的)でもありうるが、ここで問われるべきは、即自的な行動であるよりは対自的な行動である。いま「同性愛者」差別にふたが、たとえば異性との結婚は、即自的な行動として、自らを異性愛に—サルトル流に言えば—アンジガジェ(拘束)するが、それは同時に世界全体を異性愛にアンガジェすることであり、したがって時として同性愛差別を招きうる。しかし、仮にそれを招いたとしても、その差別は、源泉が即自的な行動であるだけに、ふつうは暗示的implicitなものとして許容しうるであろう。

ここから議論は泥沼に入る。こういう難解な文章や独特の術語が出てきたときは用心しなければならない。下敷になっているのはサルトルの『実存主義とは何か』の悪名の高い個所。

「異性との結婚はみずからを異性愛にアンガジェする」。サルトル自身がこういうことを言っているのだが、この文章が何を言おうとしているのは非常にあいまいである。「アンガジェ」に説明されていないさまざまな意味が含まされており、文章の意味を画定することが非常に難しい。「異性愛に拘束する」と解釈しても不明瞭である。異性との結婚が自分を異性愛に拘束するとはどういう意味か?「拘束する」という言葉を文字通りに解釈すれば、おそらく「異性と結婚したら、それからずっと異性を愛するということに自分を拘束し約束したことになる」と解釈するべきなのかもしれないが、いったい結婚することのどこにそういう意味あいがあるのだろうか。なぜひとが異性と結婚したらそれ以後ずっと異性を愛さねばならないということになるのだろうか。わたしにはさっぱりわからない。

さらに悪いことに、そういう異性との結婚は「世界全体を異性愛にアンガジェ」することになるらしい。「世界全体を異性愛にアンガジェ」することがなにを意味しているかわたしにはまったく見当がつかない。「他人も異性を愛するよう拘束する」のだろうか?このようなタワゴトにつきあっている暇があるひとはそれほど多くないだろう。

好意的に解釈すれば、「異性と結婚することは、そのひとの「私にとっては異性との結婚が価値のあることに思える」という価値判断を表明することになる」ということだろう。しかしこれのどこが問題なのだろうか。

さらに、これが「同性愛差別」になる理由がさっぱり見当がつかない。なぜ私が異性と結婚することが同性愛差別と関係があるのか。杉田は差別を招き「うる」としているが、どういう場合にどういうタイプの差別を招くのかわからない。

さらに「ふつうは暗示的なものとして許容しうるであろう」の根拠も明白でない。たんに杉田がそう思いこんでいるだけである。

全体としてこのパラグラフはひどい文章である。意味不明。

だが、対自的な行動から発する差別はそうではない。一般に対自的な行動は、即自的な行動に対してはもちろん、単なる言葉の使用・・・よりもはるかに明確に、自らを、そして世界全体をある方向にアンガジェし、それを通じてより明確なマイノリティ差別を生むのである。」

自覚的な行動は世界全体をアンガジェする力が強いらしい。しかしアンガジェとはなにか?

買春は、対自的な行動である。・・・買春は、ふだんなら望んでも容易に手に入らない女性の身体を、金の力により自由にし、玩弄する行為である。それは、明確な女性支配の行動である。・・・また買春によって男性は、女性を(個々の女性のみか類・集団としての女性を)、男性の欲望に奉仕すべき性的モノ(セクシャル・オブジェクト)であり、金で支配してよい対象であるとする見方の方向に、己れを、したがって世界全体を明確にアンガジェ(拘束)する。それ故、買春者が実勢に女性一般(類・集団としての女性)を差別視する蓋然性は、非常に高い言うべきであろう。ある女性たちを、金で支配してよい存在と見るなら、そもそも一般に女性を、したがって他の女性を支配すべき存在と見ることは、彼にとって正当なのである。(p.182)

この何度も繰り返されるサルトル流の「世界全体をアンガジェする」の意味が明確でない。ある男性が買春するかどうかで世界全体が変化するというのはわかりにくい。おそらくもっとふつうの言い方をすれば、「買春することによって、その男性は女性を支配すべき存在と見るような世界観を手に入れることになる」ということだろう。

構造的・集合的な関係においてみたとき、買春は(ポルノ視聴とともに)「男権主義的セクシュラリティ」や同パーソナリティを作り、女性の性的モノ化、女性に対する支配・統制・差別を生み出さずにはおかない。・・・買春が右のような行動であるとしたら、買春は女性の平等権を侵害する営みであると言わなければならない。それ故、仮にそれが自己決定権の行使とみなされようと、買春はこの故にまったく権利性を主張できない。 (p.183)

これまた難解な文章だが、おそらく言いたいことは、「買春やポルノ視聴は女性に対する支配や差別の心理的原因になるからだめだ」ということなのだろう。

よくわからんよな。たとえばある女性が、留学するためのお金をためるため、一時的に風俗嬢として生きることを主体的に選択し、自分のセックスとひきかえに男性から金を要求することを決断したときに、この女性はいったい何にアンガジュするんだろうか。この女性の決断によって世界はどうなるんだろうか。この女性はおそらく、自分の実存のために、自分の性的な魅力を金銭的な価値に還元し、男性をたんなる財布とみなし、できるかぎり客から金をむしりとることにしたのかもしれない。男性を「モノ化」することによって、この女性は主体性を獲得するのかもしれない。これは杉田先生の言う「平等権」についてはどういう影響をもたらすんだろうか。そういう選択は主体的でも実存的でもない、とか言うんだろうか。

自由と平等のどっちが優先するのかってのはたしかに難しい問題だけど、杉田先生のようになんでもかんでも平等が優先する、というような主張をするのは難しいだろう。

こんな曖昧で怪しい議論をしなければ売買春を非難することができないのは、杉田先生としても無念であろう。

気になるのは、このような文章で杉田は男性あるいは人々の心理や思想を直接に統制しようとしていることである(これに杉田がどの程度自覚的であるかはわからない)。われわれは人々の行動を制限することがあるが、人々の思想をコントロールすることはつつしむべきであるということが近代社会の大原則の一つである。杉田はそのような内面や思想の自由にたいした価値を認めていないのかもしれない。(そうではないと思うのだが)

まあよくわからん。むずかしい。

*1:はてなキーワードになってないのがかわいそうだからブレースでくくってみた。

*2:もし上野先生にあれほど強力な弟子筋(特に赤川先生と加藤先生)がつかなければ、上野先生はカミル・パーリアの路線に乗ってたんじゃないかと憶測している。ラジフェミ路線やフーコー路線より、パーリアのラインの方が上野らしい。でもただの憶測。