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性表現と表現規制(8) ポルノ批判と会田先生の答え

まあ米国での規制の法制度づくりは失敗したわけですが、その後もポルノは性差別だというマッキノンとドウォーキンのラインの議論はけっこう魅力を感じる人もいるようです。

表現そのものが性差別だとかってのに疑問を感じる人がいると思いますが、人種差別的なヘイトスピーチのこととかを考えると、ポルノも女性に対するヘイトスピーチなのだ、みたいな言われ方をしたりします。わかりにくいって言えばわかりにくいんですけどね。

まあもうちょっとだけこのタイプの人々の言い分を聞いておくことにしましょう。

まずポルノってやっぱり言論だから言論の自由の方が大事なんちゃうか、言論だとしたら規制するのはおかしいだろう、という批判に対して、ラジフェミ(まあラジカルフェミニストにもいろいろいますが、今回はとりあえずこう呼んでおきます)の人々は、ポルノはそもそも言論なんかいな、言います。正直言論ってよりはマスターベーションの道具みたいなもんだろう、と。なにも新しいアイディアとか含んでないじゃないか、とりあえずたんなるオナニーの「おかず」ではないか、と。

それに仮に言論だと認めたとしても、言論の自由は絶対的なものではない、虚偽の広告とか規制しているのだから、女はいじめられて喜ぶものだとかって女性についての虚偽をばらまいているポルノを規制しても良いだろう、とか。

ポルノとか芸術とかは既成の道徳概念とかをひっくり返すものだ、みたいな見方に対しては、ポルノのいったいどこが既成の概念をひっくり返してるんだ、男が主体で女は受け身っていう旧来の考え方を繰り返しているだけじゃないか、とか。

まあもっといろいろあるんですが面倒だから途中で。とにかくこの系統の人々はいまだにポルノに対して反対しているし、法規制を求める人も少なくありません。とにかく性表現の規制をめぐる議論は、「猥褻」ではなく「性差別」が中心になってるわけですね。(もちろん性差別反対派と猥褻反対・保守派が手を結んだりしている部分もあります。)

んでまあ一番最初の会田誠先生と森美術館に対する抗議とそれへの返事の話にもどると、「ポルノ被害を考える会」とかはこういうマッキノンたちのラインでポルノを考えているわけですね。特に児童ポルノってのは、年端もいかない少女を邪悪な欲望の対象とするおぞましいものだ、と。んでおそらく会田先生なんかの作品では虐待されている少女が微笑んだりしているこそ気にくわん、女はいじめられて喜ぶというポルノ的幻想の最たるものではないか、みたいな感じだと思うんです。さらに、森美術館という一流美術館がそういう作品を堂々と展示することによって、そうした作品の作り方や欲望のあり方にお墨付きを与え、男性的な性欲とファンタジー中心社会をさらに盛り上げようとしている、と。彼らがよく使う比喩に「黒人が首輪付けられて犬扱いされて喜んでいる絵とかOKだっていうのか?」みたいなのがあるんですが、まあそういうものとしてポルノを見ているわけですね。

というわけでまあ会田先生の法律上の「児童ポルノ」や「わいせつ物」にはなりようがないですが、そういうものだとして展示を中止させようとしたってところだと思います。この戦略が正しいかどうかはわからんですね。私自身はぜんぜんだめだと思うんですが、まあ運動というのはいろいろあるんでしょう。

で、問題はこれに対する会田先生の「発表する場所や方法は法律に則ります」ですな。「考える会」などは法律は不十分だと考え、法が要求する以上のことをもとめているわけです。これに対して「法律に則ります」ってのはぜんぜん会の要求にそうつもりはありません、ってことですわね。「「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけない」とかってのは嫌いな人や不快な人や腹をたてる人がいてもアッシはやらせていただきますよ、ってことなんで、まあ「考える会」の主張にはまったく従うつもりがないってことですわ。

というわけで、さいど一番最初にもどると、こうしたポルノ批判の文脈で芸術家が「法に則って」とか「法の範囲内で」とか発言することはぜんぜん保守的でもなんでもないわけです。


性表現と表現規制(7) エロチカとポルノ

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンのラインの考え方では、性表現はよい性表現と悪い性表現がある、と。それを分けましょう。たんに友好的で平等で自発的で楽しいセックスを描いた「エロチカ」と、女性をものみたいに扱ったりいじめたり差別したり男性に従属させている「ポルノグラフィ」に分ける、と。

このエロチカとポルノ(グラフィ)の分け方は、従来の「猥褻なもの」とかの意味のポルノと混同しやすいのでよくない言葉の再定義ですよね。いろいろ問題が起こります。

まあとにかくポルノはそれ自体が女性をモノ・物品・商品として扱い、女性を苦しめ、女性を男性より下の地位に置いているので差別的であり、性暴力である、ってわけです。

あとは無理やり写真やヴィデオ取られたり、ポルノ無理やり見せられたり同じようなことをしろって命令されたり、「いやよいやよって言ってのは喜んでいるだろう、へへへ、体は正直だぜ」みたいな性暴力の原因にもなっている、というわけです。困りますね。

というわけで彼女たちの派閥の人は、1980年代前半にイリノイとかミネソタとかあそこらへんで条例を作って、そうした女性差別的ポルノを規制しようとするわけです。ただし「そういうポルノを製作販売したら罰する」とかって刑法的なものじゃなくて、「そういうポルノによって被害を受けたっていう民事倍賞を求めることができる」みたいなタイプの民事的な条例です。

まあ刑事だろうが民事だろうが、こういう法律は実際に表現を規制することになります。だってなにかるたびに「これは性差別的な表現だから賠償を請求する!」って裁判起こされたらおちおち出版とか制作とかしてられないですからね。

まあそういうふうにしてマッキノン=ドウォーキンの条例とかは表現の自由っていう大原則と真っ向からぶつかることになります。すごい議論になってみたいね。それまでわりとまとまってがんばって運動していたフェミニスト陣営もこれをどう扱うかっていうので真っ二つに割れる。マッキノンたちの批判はもっともだからポルノ規制しようという派閥と、いや表現の自由はすごく大事だからフェミニストとしてこそ表現の自由を優先するべきだ、みたいな。

実際にマッキノンらが作った条例はどれも違憲判決が出てつぶれます。でもフェミニスト内部にはしこりが残ったままだし、彼女たちが主張したポイントは一応じゅうようなものだと思われています。

いまアメリカとかのAVとか見ると、女性は「おー、いえーす、いえーす、いえーす、おーカモーン、オーイエ〜〜〜ス」とかやっているわけですが、あれは昔はおそらく「おー、ノー」だったんですが「ノー」だって言ってんのにエッチなことをするのはやばいので、「イエス」っていうようになったらしいですね。ポルノ女優じゃなくて一般人がどういうふうに言ってるのかはしりません。あと必ず女性が上になったりもするわけです。そういうのもフェミニストの人々が運動した成果といえるのかどうかはまあよく知らんですが。まあとにかくそういうふうにすることによってポルノじゃなくてエロチカです、というわけでしょう。まあああいうのエクササイズやってみるみたいでどの程度エロいのかよくわからんですな。

マッキノンの本は難しくて読みにくいです。英語で呼んでもよくわかんない部分が多いいし、昔の翻訳もあまりよくないですが、APP研の中里見先生たちのやつは正確でグーです。反マッキノン陣営のストロッセン先生のもいっしょに読んどいたほうがよいです。私もここらへんの勉強はじめたときにちょっと研究ノートみたいなのかいたことがあるんですが、これ読むよりは下の『ポルノグラフィと性差別』の解説とか読んだほうがいいんじゃないかな。でも一応貼っておきます。
 http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/6/femi.pdf

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ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性
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性表現と表現規制(6) 性差別としての性表現

しかし1980年代からは、「猥褻」としてではなく「性差別」や「性暴力」として性表現を見る考え方が現れて注目をあびるわけです。この一連のエントリの始まりに書いた「ポルノ被害を考える会」なんかの思想的背景はこういうところにあるはずです。

1960年代に米国あたりでは黒人の公民権運動とかがあって人種差別に対してみんなが非常に敏感になったわけです。でももう一つ大きな差別があるんではないか、それは性差別だ、と。ジョン・レノン先生はオノ・ヨーコ先生に教えられて「女は世界中でニガーだ」みたいな曲を歌ったりして。まあ女性は経済的な差別だけじゃなくて、痴漢強姦その他の性暴力にもさらされているのに放って置かれているじゃないか、それは黒人に対する暴力や差別が放置されていたのとおんなじだ、ってわけです。(同じ意識から「動物も食べられたり毛皮剥がれたり実験に使われたりして差別されている!種差別だ!」って発想も出てきます。)

まあそうして第二波フェミニズムって呼ばれる動きが出てくる。70年代前半とかに女性が集まって、「こんなことに苦労している」みたいな話をすると、旦那やボーイフレンドや上司から侮辱されたり無理やりセックスされたりしているわけです。強姦・レイプっていうと道を歩いているといきなり暗がりに連れて行かれて「あれー、きゃー!」みたいなを連想してしまうけれども、実際に無理やりやられるのはデートとか夫婦関係とか職場の権力関係のなかでなんだ、ってんでデートレイプだのドメスティックバイオレンスだのセクシャルハラスメントだのってのが問題に上がってくる。今となっては、3、40年前にはそういうのが問題にされてなかった、って方が驚きですけどね。人々の意識は変わるものですね。

まあそういう性差別や性暴力を考えて、なんでそういうのがそれほど社会に蔓延しているかっていったら、それはポルノが悪いんではないか、ポルノが男たちが性差別したり性暴力振るったりする教科書になっているのではないか、ってのが基本的な発想ですわ。

まあ性表現とかエロとか、やっぱり圧倒的に女性が描かれる対象になってるし、男が無理やり嫌がる女をあれする、とかってのが典型的な表現だし。雑誌のグラビアなんか見ても女の子はちゃんとにこやかに笑っておっぱいを強調してなきゃならん、ベッドに横たわってなきゃならん、みたいな。背筋伸ばしてしっかり前を見ている姿とかあんまりエロくないっすからね。SMとか好きな人は縛られたりするのはだいたい女性だしねえ。まあ中年男性が縛られたりするのもいいのかもしれないですが、体の緩んだ中年男性が縛られてるだけだとなんかちゃんとエロにならないので女王様も同時に描かないとならんわけです。

まあとにかく性表現では男性と女性は別の扱いを受けていて、女性はだいたい受け身でいじめられたり暴力振るわれたりする側になってる、と。ケイト・ミレットって評論家が『性の政治学』って本書いたり、アンドレア・ドウォーキンっていう作家・評論家が『インターコース』って本買いたりして、フェミニズム批評みたいなのが流行するわけです。それまでの性表現なんてのはぜんぶ男の視点から男の都合の良いセックスを描いているだけだ、みたいな話になる。1960年代に超大物だったノーマン・メイラー先生とかが槍玉に挙げられたり。猥褻で問題になったヘンリー・ミラー先生も。まあでも今回は「猥褻」っていう切り口ではなく、「性差別」なわけです。

こういう動きの中で、セクハラ訴訟とかですごい成果を上げたキャサリン・マッキノン先生がドウォーキン先生と組んで性差別的な性表現を問題化しようって運動を立ち上げるわけです。

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性表現と表現規制(5) 猥褻規制の問題点

しかしまあ猥褻だから規制してしまえ、って考え方は多くの批判にさらされていて、一般にうまくいかないと思われています。

まずはなにが猥褻なのかが常に曖昧なことですわね。

まず定義そのものが曖昧。「いたずらに性欲を刺激する」の「いたずらに」ってのがどういう意味か。無駄に、ってことなのか。無駄に性欲を刺激するってんだったら、どういう場合に無駄じゃない性欲の刺激なのかとか。まあ他にも。

さらに判断の基準が曖昧。「いたずらに性欲を刺激する」とか「性的羞恥心を害する」とか言われたってどういうものが性欲を刺激するのかは人によって違うだろうし、どの程度刺激したら猥褻なのかとか謎。まあ人間のやることはある程度「だいたい」でいかなきゃらんので裁判官がだいたいで判断するしかないわけですが、まあこういうのはちょっと困りますよね。

性欲を刺激する度合いとか性的羞恥心とかが時代によって変化するってのを気にする人もいます。1970年ごろの日本だったら性器が丸出しになっている写真とかすごく入手しにくかったからいたずらにひどく性欲を刺激されたり性的羞恥心をひどく害される人もいたでしょうが、いまとなってはネットとかでそういう画像は嫌ってほど見てるのでなかなかそんなに刺激されませんね。残念なことです。

まあ欧米では1960年代後半から1970年頃に「セックス革命」が起こって、(一部の)若者がばんばん見境なくセックスするようになって、セックスの話をオープンにするようにもなったんでそういうのの影響もあります。セックス革命については立花隆先生の『アメリカ性革命報告』なんかが時代を感じさせて楽しいです。

「善良な性道徳」みたいなのも問題ですよね。いったいどういうのが善良な性道徳なのかわからん。まあそりゃ強姦とか平気でしてしまう人は道徳的にだめなわけですが、性的に活動的だったりセックスを楽しんでたりエロが好きだったりするのが特に道徳に反しているとは思えないし。セックスとか性欲とかそういう個人的なことに政府権力みたいなのが絡んでくるってのも問題がある気がします。公の感知しないプライベートな領域があるべきだ、って考え方が1950年代ぐらいには一般的になってました。

芸術か猥褻か、みたいなのも問題です。日本の判例でどうなっているのか知りませんが、米国のミラー判決とかでは「芸術的価値がないもの」が猥褻ってことになってるわけですが、芸術的な価値とかってのがどうやって判断されるのかわからない。やっぱりエロは芸術の基本なので、優れた芸術にエロは入り込んでくる。っていうか画集とか見てると、もう優れた芸術家はみんなエロいんではないかと思わされますね。私も画家になればよかった。まあこれは優れた芸術作品だから猥褻じゃないけど、これは下手くそだから猥褻、とか困ります。猥褻だけど芸術なものがあってもいい。

一番大きな問題として、それにそもそもなんで猥褻なものだから規制していいということになるかがさっぱりわからない。たしかに街中にそういう猥褻なものがあったら羞恥心を害されたり不快になったりする人もいるでしょうから困りますが、閉鎖された店からこっそり買ってきて家でこっそり見る分には誰もこまらない、っていうか制作者と本屋さんは本が売れて嬉しいし読者もエッチな楽しみを得ることができる。

だからまあ「猥褻だから規制しよう」ってのはよくわからない考え方ですし、憲法第21条で「表現の自由は保障する」っていってんだから刑法175条みたいなのは違憲なんちゃうか、すくなくともあんまり必要ないもんではないのか、みたいなのが憲法学者たちの主流の意見なんじゃないですかね。つまり、「猥褻」の議論は古いし、ほとんど終わった議論かもしれない。

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性表現と表現規制(4) 猥褻猥褻

ええと、んで猥褻なんですが、どういうわけかエロい表現は国家が規制してもかまわん、とみんな思いこんでた時代があるみたいなんですね。いまもそうかもしれないですけど。とにかくある種の表現はわいせつでいやらしくてけしからんので流通させないようにしよう。ロック先生やミル先生がそういうについてどう考えていたかはしりません。とにかくちょっとエロいのは許しますが、猥褻なのはいかんです。いかんエロい表現、それが猥褻。

まあ文学の話でいけば、19世紀半ば以降の自然主義とかってのが人間の本当の姿を描こう、みたいにしていろいろやばいことを書いたりして。でもまあそんなエロいわけではなく、人間ってこうだよね、みたいな感じで表現を拡張したわけですわね。でもふつうの人間っていろいろエロいことばっかり考えてるから、ふつうの人間を描こうとするとどうしてもエロくなったり、エロいと喜ばれるので芸術家もどんどんエロ描いたり。20世紀ぐらいにはもう露骨にエロを目指すものも多かったし、D. H. ロレンス先生やヘンリー・ミラー先生みたいに「エロこそ人間性」みたいな描き方をする人も出てきたりしてもうたいへんです。なんていうか、20世紀前半は芸術家みたいなキレてる人ががいろんなタイプのエロに挑戦し、半ば以降は中流の人もみんな性の解放を目指した、みたいな感じですかね。もちろん階級がもっと下の人はいろいろしてたでしょうなあ。実際は19世紀末〜20世紀前半の人たちはみんないろんなことしてたんでしょうけどね。

えーと、んで猥褻猥褻。

誤解されやすいんですが、「猥褻」obsceneっていう概念は、たんに「エロい」という意味ではないです。単にエロじゃなくて、プラスアルファがある。それはだいたい不快なものです。

日本だと、「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」が猥褻なもので、こういうものは頒布とか規制しても憲法第21条に反しないってことになってます。おもしろいですね。ふうつの人が見て恥ずかしくならないものは猥褻じゃないし、善良な性的同義観念に合ってればいい。普通の夫婦が「同衾した」ぐらいの文章だったら大丈夫なんでしょうが、善良な人は性器のアップ写真とか見たらなんか羞恥心を害されたり道義観念に反していると思うかもしれませんね。当然のことながら、医学写真とか「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ」ないので猥褻ではないです。

米国だと猥褻ってのは(1)平均的な人が、今日の地域社会の基準を用いて考えた場合、全体的に見て、好色な興味に訴えるものであり、(2)その作品は、当該の州法によって具体的に定義された性的行為を、明白に不快な仕方で、描写あるいは記述しており、(3) その作品は、全体的に見て、重要な文学的、芸術的、政治的、あるいは科学的な価値を欠くものである、みたいな感じです。猥褻は「不快」じゃないとならんのですが、まあなにが深いかってのは平均的な人が判断するってのでよい。

英国だと「当該物件が、それを入手する可能性のある者でその種の不道徳な影響に心を閉ざしてはいないものに対して、これを堕落、腐敗させる傾向を持つもの」とか。

まあ猥褻というのはこういうふうに、とりあえずは性的な関心を喚起するものであって、かつ、不快なものなのですね。そういうのは政府が規制してもかまわんのである、ってのが1970年ごろまでの話。

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性表現と表現規制(3) エロな表現

んでやっと猥褻の話なんですが。猥褻って字は難しいですね。私は書けません。猥褻猥褻。

言論の自由ってのはまあ政治的にはとても重要なので、民主的な先進国の市民ならほとんど誰でもその重要性を認めるわけですが、それでも言論の自由や表現の自由ってのは絶対的なものではないです。前にも書いたように、誰かについて嘘だとわかっていることを言いふらすとか、嘘の宣伝をするとか、誰かを面と向かって侮辱するとか、誰かの私的な生活を暴き立てるとか、暴動やリンチを扇動するとか、不快な話を聞きたくない人々の前で大声で話すとかなんでも自由です、ってなことになると具合が悪いです。そういうわけで日本の法律と判例でも表現の自由は公共の福祉に反しない限りで保護されるとかそういう限定がついているわけです。

ところでこれまで言論の自由と表現の自由を区別しないで使ってきましたが、まあ面倒なのであんまり区別しませんが、言論の自由ってfreedom of speechでやっぱり言語的な表現なわけで、なんからの思想の表現なわけですが、表現の自由でfreedom of expressionで図像とか動画とかはいってもっと複雑ですわね。

んで、18〜19世紀的な言論の自由ってのはやっぱり思想の自由なわけでありまして、あんまり画像のこととか考えられてなかったはずです。実際にあるアイディアを伝えるために絵を印刷するのが難しかったからでしょうね。いまなら本にイラストとかはいっているのはふつうというか、私はマンガ大好きなわけですが、図像を印刷するのはけっこう大変みたいですね。19世紀はじめの新聞とか線画みたいなのか銅版画見たいなのしかなくて、あんまりエロくない。絵画は一品物でカラー印刷とかできないですしね。エロが活躍するのは写真の技術ができてから……あ、まだエロの話じゃなかった。

いやまあエロの話にしますか。まあ表現の自由に関する議論のなかでも、エロ表現に関する規制は非常に面白いですね。人間のかなり多くはエロなことをしたりするだけでなく見たり読んだりするのもすごく好きなので、昔からいろんなエロが制作されているわけです。まあ芸術家も人間なのでエロが好きだし、人々がエロが好きなのでエロい作品を作ったりするのでまああれです。おもしろいことに、政府とかお堅い方々というのはあんまりエロが好きじゃないのですね。どうもエロには風紀を乱す力があるようで、文化が栄えるとエロが栄えて為政者がそれを作る人を処罰する、ってのが繰り返されるわけです。

特にエロい部分をあれしているのがエロいです

これたとえば古代ローマ時代のオウィディウスとかエロい詩を書いてたらアウグストゥス皇帝からローマ追放されたりしている。ギリシアやローマのエロチックな絵画や彫塑がどの程度エロいものとして見られていたかってのはよくわからんですが、少なくともルネッサンスとかのあの美術作品とか文学作品とかってのは当時の人にはとにかくエロくてすばらしかったでしょうなあ。中世のとは全然違いますしね。まあいま読むとボッカチオの『デカメロン』なんてそんなエロい感じはしないですが、それでもまあ当時はかなり赤裸々な感じだったろうし、ボッティチェリの絵とかもエロいですよね。とにかくエロはいい。まあそういうのは禁書になったり。18世紀イギリスでのクレランドの『ファニーヒル』とかいま読んでもエロいかもしれません。あと19世紀後半の匿名筆者による『わが秘密の生涯』とかすばらしい。むかしの富士見ロマン文庫はすばらしいです。

なかなか猥褻にならんですね。

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性表現と表現規制(2) 言論の自由

まあまずは当然「表現の自由」の話をしなきゃならんわけですが、話が大きすぎてどっから話を始めていいのかわからないですね。

日本では日本国憲法第21条とかで「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とかって大々的に宣言されているわけですが、表現の自由ってものは歴史的には(他の「基本的人権」に比べても)そんな歴史の長いものではない。世界的はせいぜい米国独立戦争のころからで、19世紀でも表現の自由とか保障している国はめったになかったし、20世紀になってもそんな一般的ではない。まあ1948年の世界人権宣言とかでも触れられてますが、そんな無条件のものではない。まあ少し考えただけでも、嘘を言う自由があるのかとか、ふつうの人のプライベートなことを暴く自由があるのかとか、人を傷つけるようなことをいう自由、言葉で暴動を扇動する自由なんてのがあるの(あるべきなのか)かってってのはかなり難しいことはすぐにわかると思います。

法律ってのは人間が決めたものなので、どうやって決めるかによって内容が変わってくる。日本国憲法もアメリカの進駐軍の人たちが決めたんだからあれだ、なんていう人々もいるくらいなわけで、なぜある法律や憲法が正しいのかっていうのはその法律以外の方法で正当化する必要がある。

一般に、「人間は〜の権利をもっている」とかっていうときの正当化の方法は大きく分けていくつかあります。一つは正当な手続きを介して決められたものだから正しい、みたいなやつ。日本国憲法の表現の自由の保護は正当な手続きによって定められたものだから正しいのだ、みたいな。私憲法を定める際の正当な手続きがどういうもんなのかよくわからんです。明治憲法から日本国憲法になる時にどういう手続きがなされたのか知らんし、そもそも明治憲法の正当性はどうなっているか、なんで天皇陛下はそんな偉かったのか、とか考え始めると混乱しちゃいます。ははは。これは憲法学者の間でいろいろ議論されてるんじゃないですかね。

二つ目は、人間が作った法律がどうあれ、それ以前になんか自然な法(自然法)とでも呼ぶものがあるのだ、みたいな考え方です。「自然法」思想ですね。法律できめる以前に人々は当然の権利をもっている、なんてのかが「自然権」思想なんてよばれます。人間の権利は人間が決める前に神様や天が決めているのだ、ってなると天賦人権説とかいわれますね。こういう自然法とか自然権とか言って近代で一番影響力があったのはおそらくジョン・ロック先生の『市民政府論』での理論なんですが、ロック先生が自然の権利だって主張するのは生命や財産に対する権利で、言論の自由だの表現の自由だのってのはあんまり見かけないですね。ロック先生の影響を受けたフランス啓蒙思想のヴォルテール先生の「私はあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」みたいな名言は有名ですな。ただしこれの出典がどこかは私は知りません。しかしこういう文脈で言われる言論の自由みたいなのは、宗教的な信念に関する言論だったり、政治に関する言論だったりして、なんでも好きな事を言える自由ではなかったはずです。それにまあ自然法だの自然権だのってのは、それってどんな自然な法や自然な権利があって、それをどうやって知ることができるの?誰が決めたの?みたいな疑問がいつもつきまとっていてなかなか難しい。でもこういうのが明治時代に「天賦人権論」みたいな名前で輸入された。

三つ目の正当化の方法は、帰結主義とか功利主義とか呼ばれるタイプの正当化の方法です。基本的に、言論の自由とか表現の自由とかってのを認めておくと、結果として人々が幸福になったり社会が正しい方向に進歩したりするからそういうものを認めておくべきなのだ、みたいな議論になります。一番有名なのはJ.  S. ミル先生の『自由論』ですわね。この本は本当に人類史上に残る名著の一冊なので、少しでも政治や哲学みたいなのに興味ある人は必ず読んで欲しい本です。授業でいつも言ってるんですが、私の生涯のベスト10ぐらいの本の1冊です。

ミル先生によると、言論の自由はほぼ絶対的に保証されるべきなんすよね。まず当然のことながら、政府による暴虐とか圧政に抵抗するために必要だ、と。政府が悪いことしてたら「悪い奴らだ!」って言わなきゃならんすからね。でもミル先生が生きてた19世紀なかばには、そういう目的のための言論の自由は当然視されてるから言うまでもない、と。イギリスは進んでますね。さすが先進国(まあそこに至るまでには各国で血と汗をともなった活動があったわけです)。さらに重要な理由があるよ、と。ミル先生にとって重要なのは、正しい意見をいう自由と言うよりは、まちがっているかもしれない意見をいう自由、まちがってるとおもわれる意見をさえ発言される寛容さなんだ、って授業では説明してます。第一に、今はまちがってると思われてる主張も、実は正しいことがあるじゃん、と。「それでも地球は回ってる」みたいな感じですね。第二に、間違ってるとおもわれる意見にも部分的には鋭いところがあって、そこはちゃんとした意見を作っていく時にも役に立つから喋らせといたほうがいい、みたいな。まあネットとか見てても、頭から尻までまちがってる人や意見ってのは滅多になくて、部分的にはけっこういいこと言ってることも多いですからね。

第三に、自分と反対の意見のひとと自由に討論しないと自分が信じてることの根拠を忘れちゃうから、と。これおもしろいんですよね。なぜ意見のことなる他人の意見より自分の意見の方が正しいの理由をちゃんと出せないんだったら、ただまちがった意見を思い込んでいるのとぜんぜん変わらないよ、と。「地球は太陽の周りを回っている」て真理だって、「えー、太陽が地球の周りを回ってるんじゃないのー?」っていう人と議論してその人を説得できる理由を提出できなきゃ相手と同じ程度にまちがっていることを信じてるのかもしれない。実際、私は「地球は平たい」とか「太陽の方が回ってるんだ」とかって人と議論したことないから、こういうのがどうやって正当化されるのかよくわからんですよね。試してみてください。たいていの人は答えらんないんじゃないかな。それは議論をしたことがないせいだ、と。

第四に、ちゃんと自由な討論とかして自分の意見や信念を時々生き生きとさせないと、意見が生活に与える影響を失っちゃう、ってんです。これはちょっとわかりにくいんですが、たとえば「大学教員は勉強するべきだ」みたいなことを信じていても、時々勉強しない大学教員をディスってみたり、「もう勉強なんかしなくてもいいんちゃうかな」とかいう人々を説得しようとしてみようとしないと、意見の威力やそれが本当に意味していることを忘れちゃうんですよね。その結果、「勉強するべきだ」みたいな正しい意見は知っていても、それを生活に反映することができなくなる。一方いつも他人をディスっていれば、「毎日ちょっとずつでも勉強したりブログ書いたりしないとなあ」みたいなことを思い出してまあ実際にそうしてみたりするわけです。授業では法然先生や親鸞先生の「なむあみだぶつ」みたいなんだって最初は他の流派の人たちから「なんで南無阿弥陀仏唱えただけで極楽往生できるんだ」みたいに質問されて議論して、「やっぱりうちはなむなむだけで!」とかになったわけだろうからねえ、みたいな話してます。ははは。首になるかもしれません。

まあこんなわけでミル先生によると、意見は多様な方がよいのですわ。そのほうが自由な討論が促進されて、結果的に社会や人類全体が進歩するし、その結果人々はより知的・道徳的に向上したり、より幸福になったりするわけです。

さて問題は、こういう手続だの自然権だの功利主義だのによって言論の自由とかが大事だと言えるとして、んじゃただ単にエロい表現とかも表現の自由っていってほごされるべきなのか、みたいな話ですわね。前置き長過ぎますね。ははは。

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性表現と表現規制(1)

会田誠先生の森美術館というところでの展覧会に、ポルノ被害と性暴力を考える会(http://paps-jp.org/ 以下「考える会」)という団体が抗議をしたのをきっかけに、ネット界隈では芸術と表現の自由とかについての議論が盛んになっているようです。まあ性表現と表現の自由の問題は愛好者も多いし、もしかしたら深刻な問題を含んでいるかもしれないので興味深いですね。

私自身は「芸術」みたいなもの全般はとにかく、造形美術の方はまったくダメというかよくわかんなくて、造形美術とかについて語る資格はまったくないし、芸術一般というくくりを超えてはそんな興味があるわけでもない。造形とかで興味があるのはアートではなくむしろずばりエロ。でもまあ性表現と表現の自由の問題はセックス哲学の問題として興味深いし、本物の問題があるように思っていますので少しずつ書いてみたいと思います。

「考える会」の抗議に対しては森美術館と会田先生本人から声明が出ていて、そのなかで会田先生は

僕の作品群の中には、性的なテーマとは限りませんが、人によってショッキングと受け取られる表現があると思います。そういう場合、僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。また「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけないとも考えています。発表する場所や方法は法律に則ります。 http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html 

てなことを言ってる。

ちょっと前にツイッターで、この「発表する場所や方法は法律に則ります」について、芸術家がそうした宣言をすることは危険だという趣旨のつぶやきがリツイートされて流れていました。その一人にお話を聞いてみると、そうした宣言は刑法175条のわいせつ物頒布罪という悪法を承認することであり、国家権力が表現に介入することを是認することであって、また会田先生という有力な芸術家がそうした宣言を行うことによって他の芸術家や表現者たちが萎縮してしまう(萎縮効果)という危険がある、ということのようでした。(誤解があるかもしれません)

しかし私の理解では上の会田先生の宣言をそう読むのはあまりよい解釈じゃない気がしたんですね。それを説明するには、まずは考える会の主張をちゃんと理解してあげる必要があるように思います。

考える会や、おそらくこの団体と近い関係にあるポルノ・買春問題研究会 http://www.app-jp.org/ の背景になっている理論はそれなりにおもしろいんですよね。基本的には1980年代にキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンといったラジカルフェミニストたちが生み出した物の見方。これらの人々は、ある種の性的な表現「わいせつ」だから規制するべきだってんではなくて、ある種の性表現はそれ自体が性暴力や性差別や性虐待であり、またそうした暴力や差別を生み出す社会を生み出している原動力だから規制するべきだ、ってな議論をしているわけです。とりあえず古臭い「猥褻」は直接には関係ないんですわ。

まあ長くなるんですこしずついきます。