品川哲彦先生のもゆっくり読もう(1)

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

とりあえずすでにざっと読んでるんだけど、機会があるので10日間ぐらいかけてゆっくり読んでみたい。

品川先生は私が子どものころから某研究会の中心的なメンバーだったので、いろいろ教えていただいたことも多い。ヨナスとかケア倫理とかの多くは品川先生が発表したり文章にしたものを読んで印象を形成してしまってるような気がする。

私は非常に狭い世界で生きてるので、私の主観では品川先生は森岡正博先生たちと同じく一世代上の偉い先輩たち、という感じで、ある意味スタンダードというか倫理学系の主流派に見えてる。客観的にはそうではないっていうか、どっちかといえばむしろ反主流派、主流の倫理学に対する異議申し立て組なんだろう。関西以外にいればまた違った印象なんだろう。私は京都からほとんど出たことがない(研究会や学会も遠いところは苦手、大阪でさえ行けない)のでここらへんほんとうによくわからん。最近の若者たちは日本全国あちこち移動しつつ勉強しているのでぜんぜん違う印象を受けてるだろう。

まあ国内の倫理学のどこに主流派がいるのかよくわからん。大庭健先生や川本隆先生も「俺が主流だ」とは思ってないだろうしな。反主流派ばっかりで自称主流派や正統を自認する人がいない、ってのが国内の倫理学研究の問題なのかもなあ。加藤尚武先生は主流派になりたい主流派であるべきだとは思ってたかもしれんが十分主流派になれたかどうかはよくわからんし。この本読むと、倫理学ってなんだろうなとか考えちゃう。

この違和感ってのは上に書いた一世代上の人たちにずっと漠然と感じてたことなんで、今回はゆっくり考えたいものだ。まず少なくとも私が倫理学とかってものにどういうことを期待してるかははっきりさせる必要がありそう。

  1. 道徳と呼ばれる人間的な営みがどんなものであるかという分析、解明、説明。
  2. 道徳と呼ばれる人間的な営みの正当化。
  3. さまざまな実践的問題に対するガイドの提供(すくなくともガイドの基盤の提供)

のような気がする。

私にとっては3.のガイドとしての側面がとてもずば抜けて重要に見えるんだけど、そのためには1.や2.が当然必要になる。
他にもありそうだな。狭い意味での「道徳」の外の価値についても倫理学は扱う必要があるかもしれない*1

それにしてもこの本高すぎる。せめて3000円代にならなかったかな。学生さんとか買えないよ。「責任編」と「ケア倫理編」の2分冊にして3000円ずつにしたらよかったんじゃないだろうか。そうもいかんか。

第一章

  • ヨナスについてのゴシップ欲しいよね。
  • 「患者の自己決定と功利主義的な資源配分を基軸とするアメリカの生命倫理学」p.4。アメリカでどの程度功利主義が力をもっているかってのはあやしいと思ってるんだけど、どうだろうか。イギリスやオーストラリア系列の人は功利主義的傾向が強いけど、アメはそうじゃないんじゃないのかっていう気がしてしょうがないんだけど。もちろん英語圏というくくりはそうなんだけど。国内から見ると英国系と米国系の違いが見えにくくなってんじゃないのかなあ。まあブラントとか大物もいるけど、典型的な功利主義はイギリス的なものであってアメリカ的なものじゃない感じがある。
  • 特に関係ないけど、以前からギリガンに先立つコールバーグの扱いもいろいろ気になってんだよな。どうもコールバーグ先生は倫理学にすごくあこがれてて、メタ倫理学とかいっしょうけんめい勉強してたわけだ。私の憶測では、コールバーグ先生は60年代~70年代の倫理学の発展を無思慮(利己主義)→ メタ倫理学上の相対主義 → メタ倫理学上の主観主義・情動主義 → ロールズの正義論ととらえてた感じがあって、そういう発展と個人の道徳的発達を重ねあわそうとしていたように思う。昔『道徳性の形成』読んだときの単なる印象なんだけど、なんというか哲学・倫理学コンプレックスを感じたんだよな。まあこりゃ単なる印象でしかないな。
  • でもまあ品川先生の本に戻ると、「正義」こそが従来の倫理学の最大の問題だったという理解(そんなこと品川先生自身は直接には言ってないけど)がなんか私には奇妙に見えて、正義なんてのはさまざまな価値の一つ、倫理学上のトピックの一つに過ぎないじゃんとか言いたくなるんだよな。まあ「広い意味での正義」(アリストテレスの「一般的正義」?)あるいは「正しさ」が最大の問題の一つであるのはそうなんだけどね。でもそれ以外にもいろんなトピックが倫理学には含まれているわけで。
  • 「正義と境界を接するもの」というタイトルにはそこらへんから違和感がある。ここらへんの違和感ってのは、やっぱり世代の違いなんじゃないかという気がする。おそらく品川先生の世代ってのは70年代後半から80年代前半に学生~大学院生時代を送っている。
  • 私にはどういう感じだったかよくわかんないんだけど、70年代前半の「マルクス主義か実存主義か」みたいな時代が終って、 みんな現象学の深淵な蛸壺(失礼)に沈積していた時期(一方では英米系のメタ倫理やってリンゴの等級*2について考えてたひともいたらしいけど)に、ロールズとかがバリバリの「倫理学」「政治理論」としていきなりあらわれた感じだったんだろうという理解をしている。
  • ロールズの『正義論』の翻訳が1979年。当時の倫理学大学院生がロールズをどうとらえてたのかは不明。
  • 私が学生生活していた80年代後半~90年代前半の東鴨川大学文学部の雰囲気は、まったく現象学べったりだったような気がする。すごいたくさん授業があった。もちろんヒュームやカントもあったけど。あとヘーゲル。あとキルケゴールあたり。ホワイトヘッドとかもいたか。とにかくなんか宗教的なものも強かった。あ、こういうのは前に書いたな。
  • まあでも当時の人びとにはロールズ大きかったんだろうなあ。あ、まあ余計な回想にふけっててはいかん。
  • 「本論考の第一の焦点は、倫理理論の基礎づけ問題にある」p.6。よい。ただし「基礎づけ」ってのには説明の文脈と正当化の文脈なのかって問題があって微妙。品川先生はどっちのこと考えてるのかなあ。正当化の方だと理解して大丈夫なんだろうか。
  • 「本書はこのように、責任、ケア、正義のあいだの関係の考察を通して、倫理の基礎はなんであるのか、倫理とはどのようなことであるのかということを問う意図を含んでいる。」(p.6) ここでも微妙だな。もしかしたら説明の文脈かもしれないっていう疑念は捨てきれない。
  • アリストテレス。状態(ヘクシス)としての一般的正義(p.8-)とか、分配的正義とか矯正的正義とか。分配的正義や矯正的正義が徳の一つなのか、状態(ヘクシス)、つまり性向、ぶっちゃけて人のありかたについてのものなのかどうか。おそらく違うんだけど、品川先生ははっきり解釈してくれてないように見える(私の読みが足りないかも)。アリストテレスの解釈難しいとこだよなあ。私も自信ない。でもこういうのがイラっとするところでもある。やっぱり哲学ってのは「~である」よりも「~でない」をはっきりさせてほしいと思うんよ。まあ個人的好みなんだけど、「~じゃありません」と言ってもらわないと頭悪い人間はぼんやりとしか筆者の言いたいことをとらえられないことがあると思うのね。
  • p.13。資源の配分が次第に「正義」の問題とみなされるようになったのは、16世紀の「慈愛」に基づく貧民法 → カントの個々人の平等な尊重 →19世紀のマルクスや功利主義 → 1971年のロールズ『正義論』で完成、という図式はどうかなあ。これって米国(っていうかロールズ)中心すぎる見方なんじゃないだろうか。なんかおかしい。これはフライシャッカー先生の見解らしいけど、どうなんよ。 まあ国内のマルクス主義に大きく依拠した理解もあれなんだけど*3。どっちもフェビアン協会とか民主社会主義者たちが果たした役割とか過少評価されてるんじゃないかなあ。米国だとまず赤狩りとかがあって社会主義的傾向の人がたいへんな目にあって、 次に公民権運動があって(ロック流の権利の問題として。そのころ哲学者はリンゴやプロパガンダについて考えてて*4)、ロールズが突然出現したわけなんかね。
  • だいたい「貧乏人にも福祉がいきわたるように」っていうのは分配的正義の問題なのかな。ロールズがそれは「正義」の問題だ、と主張したということか。うーん。広い意味での正義というか「正しい社会」の問題のような気がする。たんに「正義」の用法がずれてきただけなんじゃないかな。あ、それでもいいのか。わからん。
  • なんか苦しくなってきた。ロールズらやハーバーマスやらそんな偉大なのか。ここらへん理解を共有してないのがだめなのね。おそらく私が悪い。
  • 「分配的正義をめぐるこうした歴史的推移は、1.1 の冒頭に記した正義の概念そのものの変容ではない。類似の事例を同様に処遇する「画一的あるいは不変な特徴」(略)は一貫しており、ただ事例の異同を求める基準が変わってきたにすぎない。」(p.17)うーん?冒頭にあるのはアリストテレスの一般的正義の話で、分配的正義の話ではないのだが・・・読みにくい。
  • まあ「正義」っていうときに、一番基本的な要素に「同じものは同じに扱う」ってことがある(シジウィックの「正義の原理」)ってことかな?”whatever action any of us judges to be right for himself, he implicitly judges to be right for all similar persons in similar circumstances” (Sidgwick 1907, 379)

  • 「正義」の意味の一つに上のシジウィックが指摘したような性質があるのはわかるんだけど、こんな薄いのではほとんど役に立たないっていうかあれなんだが・・・「正義」っていう言葉の問題なのかなあ。いや、なんか読みまちがえてる可能性があるな。この本、倫理学専攻の学生さん読めるかどうか心配になってきた。私がおかしすぎるのかな。
  • 現代の正義の観念は、人間が人間であるかぎりは平等に尊重される権利をもっていることを最も根底の基盤としている。したがって、個人と個人は対等な関係にあり、公平にあつかわれなければならない。それゆえ、道徳的な原理があるとすれば、それは個々人に等しく適用される普遍妥当性を充たしていなくてはならない。そうした普遍妥当的なルールに到達するためには、個々人の個別の状況は捨象して、個々人の主張にたいして公正で中立的な推論の手続きを経なくてはならない。この一連の推論のなかから鍵となる概念を拾えば、権利、平等、公平、普遍化可能性、構成、中立性、抽象性、推論、手続的等々がそれにあたる。これらの鍵概念が相互にからみあって、現代の正義論ができあがっている。(p.17)

  • ふうむ。細かいところいろいろ気になるところがあるなあ。上のシジウイックの正義の原理ぐらい薄い条件についていえば、「対等な関係」や「個々人の個別の状況は捨象して」ってのは必ずしも必要ないんだけど・・・ここ説明するのは難しいな。やっぱりR. M. ヘアの普遍性universalityと一般性generalityの区別は重要なんだな、とか。これだけ書いてもわからんだろうけど。うーん、こりゃたいへんだな。
  • 「人間が人間であるかぎり」や「平等に尊重される「権利」」もふつうはOKなんだけど、読みようによってはあれかなあ。
  • これだとシンガーあたりの功利主義者の議論も品川先生のいう(広い意味で)正義に関する議論とみなしていいのかな。そうじゃないのだろうか。どうなんだろう。
  • p.19でベンサム→シンガーの議論が出てくる。これらのひとは「既存の正義とは異質な倫理的観点」(p.20)をとっていることになるのかな。
  • とにかく第一章読んだ。上の感想は間にうけないようにしてください。おそらくいろいろ読みまちがってる。むずかしい。たいへん。品川先生が攻撃したいと思っている「正義論」がなんかそもそもおかしいような気はする。そういう正義論がなんかおかしいってのは同意。
  • おそらく品川先生が疑問視しているのは、現代の倫理学がルールの正しさなんかばっかりあつかっていて、その他の価値(慈善や共感や愛情やその他各種の徳など)をちゃんと扱ってないんじゃないかってことなんだろう。まあ徳倫理とかフェミニズムとかと共通の、ロックやカントやロールズ型の政治理論なんかに対する正当な疑問ではあるわな。
  • ここらへんは私自身が現代の正義に関する議論をちゃんと押えないと十分理解できないかもしれないなあ。もっとも、どうも「正しい(right)」「公正な(fair)」「あるべき(ought)」という意味で「正義」を使うのは違和感あるんだけどなあ。

  • 品川先生なんで功利主義者にならないのかな。うーん。功利主義でいいじゃん(うまくいろいろ屈折させないとならんけど。ミルやヘアやシンガーのタイプの洗練されたやつの説明を正しく理解してもらえたら納得してもらえるんじゃないのかなあ。)。

第2章・第3章

  • ここらへんは明日。
  • Das Prinzip Verantwortung なあ。Verantwortung を「責任」と訳して大丈夫なんかなとか思ったりしてた。むしろ「応答/返答という原理」の方がしっくり来るような気がする。おそらくこれおそらくわりと新しい造語(英語のresponsibilityから?)なんだよなあ。あとで辞書で確認しよう。「Schuld」じゃないんだよな。でもやっぱり「責任」かあ。「責任」という日本語はあまりにも多義的で曖昧すぎてあれだと思うんだけど。でも「正義」や「権利」もそうなんだから、しょうがないねえ。「義務」や「罪責」はまだましだねえ。
  • ここらへんはヨナス先生や品川先生だけじゃなくて、レヴィナス先生やデリダ先生や岩田靖夫先生や大庭健先生や熊野純彦先生や瀧川裕英先生や佐藤義之先生やそこらへんの「責任responsibilityとは、すなわちrepponse応答が~」「顔が問いかける」とやるいろんな人の言い分も同時に検討してみる必要があるかもしれないなあ。むずかしいよなあ。いや無理だな。無理はするべからず。
  • レヴィナスやデリダとかよくわからんし。なぜウケてるのかもよくわからん。
  • まあ並べられてみれば、ケア倫理とヨナス他の応答原理との発想の類似関係や問題意識の共通性はかなり明白に見えるよな。ギリガンのなかでも「責任」や「応答」が一番中心的なわけだし。でも品川先生が指摘しているように、直接に結びつけている人はあんまりいないんだろうけど。ここらへんに品川先生の感覚の鋭さや状況判断の的確さを感じる。たんなる憶測だけど、「ロールズ流正義論」vs「ケア倫理」という米国の図式にヨナス入れてみたいってのが発想だったんだろうなあ。そこそこ成功していると思う。順番逆でもよかったかもね。英米の話ならべて、ヨナスで掘る、とかって形で。

*1:もちろんそれは「道徳」の範囲をどう見るかってのに依存するけど。

*2:まあリンゴの等級と現存在的不安とどっち考えるかと問われれば現存在について考えてみたいね。

*3:水田洋・珠枝夫妻とかの影響力はすごいものがあったみたいね。いまだに高校倫理の参考書(授業で使ってる)には「空想的社会主義」「科学的社会主義」なんて言葉が平気で載ってる。おまえらのどこが科学的なんだごるあ、とか(うそ)。

*4:あるいはヒッピーしたり学生とセクロスしたりしてて

他の文献も読んでみる

手に入りやすいものだけ適当に見てみましょう。

  • 斎藤真緒「「ケア」をめぐるアポリア」、『立命館人間科学研究』第5号、2003。国内の基本文献調査。見通しがよくて役に立つ。「感情労働」についても論じている。なにが「アポリア」かよくわからない。
    どうも中村直美先生が「アポリア」として指摘したってことらしい。

  • 中村先生調べないと。
  • 宮内寿子先生がけっこうよい。 「ケア倫理の可能性」『筑波学院大紀要』第3集、2008。ノディングスとクーゼの批判を紹介。他に「ケアリングと男女共同参画」とか「自由と幸福」とか、着実で好感。
  • 生命倫理学を学ぶ人のために』の竹山重光先生のやつ。メイヤロフは重要だよ。あとギリガンとノディングスの紹介。字数少ないからこんなものだろう。もっと分量増やした方がよかったんじゃないだろうか。そういやこの本はもう10年前だから、アップデートした方がよいのではないかという気もする。
  • 岡野八代先生はこの分野ではすでに大物だ。『シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判 フェミニズム的転回叢書』とかこのひとのも脱構築しちゃって難しいから腰落ちつけて読まないとなあ。あ、『現代思想』2005年9月号の「繕いのフェミニズムへ」の方が重要だわ。でもどうもこの方も功利主義でいいんじゃないかという気がする。
    功利主義も「自他の区別」とか(それだけでは)あんまり気にしませんよ。っていうか
    まさにその点がロールズ先生あたりから攻撃されてたわけで。やっぱり
    藁人形攻撃しているっていうか、80年代の「正義論」がだめすぎたように見えるなあ。

  • 牟田和恵先生もなんか書いてそうな気がしたけど、見つからん。
  • 上野千鶴子先生とかも調べる必要あるんだろうか。あ、上の『現代思想』になんかインタビューが。
  • それにしてもクーゼはまともだ。
  • 図書館に『時代転換期の法と政策 (熊本大学法学会叢書)』があった。中村直美「正義の思考とケアの思考」。
    よい。「ケアの倫理」とかじゃなくて「ケアの思考」にしてるのがとてもよい。
    内容も正統派。クーゼ派。お、ストッカーの「分裂症」論文や、それに答えるヘアの二層理論にも
    触れてるぞ。よい。

    雑感

  • どうも地位や権力もってる主流派の方に説得力を感じるのはやっぱり
    すでに権力とかもっちゃってるからなのか、男性的思考に染まりきってるからなのか、
    ケア能力が足りないからか邪悪だからか。精神分析されたり脱構築されちゃうとやだな。

  • 自明な結論は、「ケアも正義も大事です、特に最近はケアとか忘れられてたかもしれないので注意しましょう」。品川先生もこの結論でいいんじゃないだろうか。
  • でもたしかにケアとか、仁愛とかに代表される人間的な徳とか、そういうのって
    ここ最近の「倫理学」の議論で無視されがちだったように見えるかもしれんよな(実はそうじゃないんだけど)。

  • 加藤尚武先生あたりが
    「倫理学ってのは対立を調停する手段を考える学問だ」とか「合意形成こそ重要」とか
    そういう主張してた(正確じゃないけど)のが裏目に出てるのかもしれないなあ。倫理学ってのは
    そんな貧弱なもんではないぞと言いたいひとがいるのはとてもよく理解できる。

  • 「愚行権」とかって言葉が流通しちゃって*1、リベラリズムってのが「とにかく他人をほうっておくことなのだ」とか理解されちゃってるのもなんだか有害だ。
  • ミルの『自由論』の立場は、「他人はほっとけ」なんてもんじゃないぞ!誰かが他人には危害加えないけど道徳的にやばいことしてたら
    世論の非難とかしてぜんぜんかまわん。全力で説得しようと試みてぜんぜんかまわん。

  • それに、誰かが困ってたら助け、破滅しそうだったら防げってのが
    ミルの意見だ。誰も壊れた橋を渡ろうとなんかしないのだから。特にミルの時代に比べて、
    われわれはミルが考えてたよりずっと弱いってことがわかってんだから。ギャンブルとかアル中とかドラッグとか。ミルは楽天的すぎたわね。でもミル先生がいま生きてたらそういう人類の経験からいろいろ考えて、立場をちょっと変更するだろう。
    まあミル先生は当時の悲惨な状況を主として教育の問題だと思ってたかもしれない。「このひとたちもちゃんと教育されればもっと
    うまく生きられるはずだ」とか思ってたんだろう。ミルが考えてたほど人間は可塑的ではないかもしれない。また合理的でも理性的でもない。

  • 国内ではどうも法と道徳の関係がよく理解されてない感じがする。
    あるいは社会制度と個人の徳との関係っていうか。これがやばい香りがする。

  • 特に国内の伝統としては各種の「徳」や「調和」「順応」「忍耐」「気配り」とかが重視される
    傾向があって、ケアとかの重要性をとなえるひとは各種の政治的含意にも
    気をつけてほしいような気はする。共同体主義についてもそう感じる。
    徳倫理学とかちゃんと紹介されたらとんでもなく
    流行するだろう。

  • 特に道徳教育の人たちはそういうのが好きだし、ケアとかばっかりに見える。ちょっと危険かもしれない。
  • だからまあケアを代表に、もっといろいろ人間生活で重要な価値について
    われわれは語りあうべきだわね。正義だけじゃだめ。美とかもあるし。

  • 哲学研究者はもっと “The importance of what we care about” を語りあうべきなんだよな。
    でもそれやるのに、脱構築やらなんやらのなんかヘンなものもってくる必要はない。古典の分厚い伝統をもってるってのが
    伝統的な哲学を専門とする研究者が関連諸分野の研究者に対してもってるアドバンテージなんじゃないかと思ってる。
    アリストテレスやヒュームやカントやミルやシジウィックからくみだせるものはまだまだたくさんありそうだ。哲学の伝統のうすっぺらい理解にまどわされる必要はないっしょ。

  • 米国の哲学教育がおかしくなってんじゃないかという印象はなんか強くなってる。
    アラン・ブルームやロバート・ベラーとかが危惧してた状況で育った学生たちがいま中核になってるんじゃないのかなあ。

  • だから品川先生の本はそこらへん考えさせてくれてとてもよいと思う。「善人の、善人による、善人のための倫理学」とか
    って言葉が最初読んだときから頭にあるんだけど、それだけじゃないはずだ。

*1:この言葉はミスリーディングで凶悪なほど有害だ。