久しぶりに小松美彦先生

粘着しはじめてはや1年になろうとしている。まだ心の目は得られないまま。

・・・ある二人の患者の紛う方なき現実を見ておきたい。一人は医師から全臓器提供を勧められる程の状態から社会復帰を遂げた日本人女性であり、(略)前者の女性については、脳外科医の山口研一郎らが、「『全臓器提供』より奇跡的に 生還した女性」(山口他[2002] 1)kallikles注。山口研一郎、西口嘉和、中出幸子、和田志乃「『全臓器提供』より奇跡的に生還した女性」、『月刊総合ケア』、Vol.12 No. 8, 2002、pp. 84-7 )という論文で詳細にレポートしている。

取りよせてみた。これ、「詳細にレポート」ということなので、小松先生の2ページにわたる記述は要約だと思ってたんだけど、どうも違うね。詳細なのはハワイから帰ってきてからの社会復帰への道のり。4ページある原論文のうちハワイでの出来事を記述したのは2列分ほど、小松先生の文章の分量とさほど変わらない。重要な情報はすべて小松先生の方で記述されている。もうちょっと詳しい情報があるかと思ったのだが。また、原論文で家族が「臓器提供を勧められた」のかどうかははっきりしてない。

それに遺書 2)山口先生によれば「ドナーカードのことと思われる」。 持ってるか確認するとか、費用が1日30万かかる、とかってことを伝え説明するのは米国の医師の義務のような気がするなあ。その時点でいろいろ説明しないとあとで訴えられるだろう。娘が脳挫傷で意識不明なんてことになってショック受けてる家族に臓器移植の話するのはたしかにアレだと感じるひとは多いだろうなあ。アレだろう。医者が説明したという記述のあとで、「第三章第二節で見たように、アメリカの病院では脳死に至る以前にモルヒネを投与して臓器を摘出できるという規定をもっているところが少なからずあるのだ」と小松先生が挿入しているのだが、これは小松先生の文章。このハワイの病院がそうかどうかは原論文ではわからん。またこのモルヒネ投与の話はありそうな話だけど、ソースがTBS(米CBS?)のテレビ番組で、検証しにくくて困る。でもまあ小松先生はそういう情報源にこそ、隠されている重要な情報があるのだと考えているんだろうからある程度しょうがない。

論文の残りはこのケースのリハビリ実践の報告で、山口先生たちにはがんばってほしい。

げ。

サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(略)を繙いてみたい。この”童話”は、主人公の少年と王子さまとの出会いから別離までを描いた物語である。二人が地球を出発して宇宙の星々を旅する過程でさまざまな人間や動植物にめぐりあい、再び地球に帰ってくるといった構成をとっている、と読みうる。(p. 34)

ぎゃー  3)こういう装飾は嫌いでいままで使ったことなかったけど、驚きを示すため一生に一回使ってみよう  、こんな話だった?

と、Amazonの書評を見るとさすがに指摘している人がいる。よかった。誰も指摘してなかったらどうしようかと思った。しかし、さすがにこれはどうなのよ・・・心の目をもってると、そういうふうに「読みうる」のか・・・まあ「物語全体に対する筆者の解釈は別稿にゆずる」ということなので、そういう読みを可能にしたり必然にしたりするなにかがあるのだろう。でも本当に驚いたですよ。心臓がドクっていうのを感じた。本読んでそんなのは久しぶりだ。

あ、もしかしたらそういう情報をちゃんと選別できるのかが重要だってことをすでにこのページで逆説的に指摘しているのだろうか。「この本は信用できませんよ」「心の目で読まないとこの本は読めませんよ」ってことを最初の方で宣言しているのかもしれない。それだったらイジワルな仕掛けだなあ。わけわからんようになってきたぞ。

References[ + ]

1. kallikles注。山口研一郎、西口嘉和、中出幸子、和田志乃「『全臓器提供』より奇跡的に生還した女性」、『月刊総合ケア』、Vol.12 No. 8, 2002、pp. 84-7
2. 山口先生によれば「ドナーカードのことと思われる」。
3. こういう装飾は嫌いでいままで使ったことなかったけど、驚きを示すため一生に一回使ってみよう

シューモン先生の「水頭無能児」論文

アラン・シューモン先生の「水頭無能児」の論文はPDFで手に入るということを教えてもらった。

“Consciousness in congenitally decorticate children: developmental vegetative state as self-fulfilling prophecy”. Dev Med Child Neurol. 1999 Jun;41(6):364-74. http://journals.cambridge.org/article_S0012162299000821

インフォーマントによれば、水頭無脳症とは

水無脳症というようです(hydranencephaly)。原因・病態の点では医学的に水頭症とも無脳症とも異なり、大脳の部分に穴があいていて水がつまっているようです。大脳の「ほとんど」がないようですが、薄い層やわずかな皮質組織ぐらいは残っていることもあるようです。

ということらしい。とりあえず脳死状態でも無脳症でもない。

If these children had been kept in institutions or treated at home as ‘vegetables’, there can be little doubt that they would have turned out exactly as predicted. What surely made all the difference was that their parents ignored the prognoses and advice, and instead followed their instinct to shower the children with loving stimulation and affection. Such children and their families have much to teach about
not only the neurophysiology of consciousness.

心温まる。

シューモンの原論文l(“Chronic Brain Death”)も高く評価されているとのこと。ちなみにNeurology誌のインパクトファクターは4.947、超一流の6には届かないがかなり信頼のおける雑誌ということだ。インパクトファクター3以下は信頼できないとか言われてしまうらしい。へえ、理系の雑誌ってたいへんだ。まあ日本の哲学の雑誌や出版社の信頼性とか考えはじめるとよくわからんようになってしまうから考えないようにしよう。

いろいろ感謝感謝。

インパクトファクターって本当はなんだろう、とか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Impact_factor

http://scientific.thomson.com/free/essays/journalcitationreports/impactfactor/
へえ、なるほど。勉強になりました。

まだまだ小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(4)

ISBN:4569626157

Alan Shewmon先生のもとの論文とかNeurologyに掲載された批判とか入手してみた。シューモン先生の論文は、新聞記事とかまでメタ分析のソースにしていてあやうい。

前節のようなシューモンの衝撃的な論文を掲載したNeurology誌は、翌99年の10月号で小特集を組み、4組の第一線の医学者による反批判と、シューモンによる再批判を掲載した。(p.116)

正確にはこれらのシューモン批判は”To the editor:”ではじまるcorrespondence。統計的手法についてかなり厳しく批判されている。特に、4組のなかでもEelco Wijdicks/ James L. Bernat先生たちによるものはかなり調査に力を入れていて説得的な批判になってる。

特に小松先生の本を読んで強い印象を受けるであろう脳死のまま14年以上心臓が動きつづけている男子(症例”T.K.”)について、Wijdicks先生たちは

Even the macabre case of child “T.K.” seems suspect, with no full BD assessment (no apnea test) and the presence of septations on MRI. Septations suggest tissue organization, and tissue organization requires intracranial blood flow. MR angiography may not be as sensitive or specific as conventional cerebral angiography.

とおっしゃっている。後の方がわかりにくいと思うが、これはMRIで見たらこの子の脳はばらばらっていうか分裂(septations)しているように見えたとシューモンは原論文で言うわけだが、MRIで組織が組織として見えるためには組織としてなりたってなきゃだめで、組織の形を維持しているためには血流の存在が前提で、だからまだ脳に血流あるんじゃないの、というわけだ(ここらへん私詳しくないのでまちがってるかもしれん)。つまりこのケースはいんちきかもしれない「脳死判定」を受けただけで、ふつうの意味での脳死かどうかわからんようだ。

シューモン先生はanswer (小松先生のいうところの「再批判」)で

I share Wijdicks’ and Bernat’s concern for diagnostic accuracy. Where we seem to differ is in the evidentiary standard that should obtain for such a study. They seem unwilling to consider a case unless every detail be handed to them, including final pCO2 of the apnea test. Either we take what information we can get and try to learn from it what we can, or we continue to actively ignore a very interesting and conceptually important phenomenon.

(意訳)私も、WijdickとBernatたちと同様に診断の正確さについては懸念している。彼らと私の意見が違っているのは、このような研究においてどの程度の証拠が入手されるべきかという基準である。彼らは、無呼吸検査での炭酸ガス分圧まで含めて、あらゆる詳細なデータまで入手できなければ、そのケースを考察したくないと考えているようだ。とにかく手に入れられる情報を集めてそこから学べるだけのものを学ぼうとするか、あるいは、非常に興味深く概念的に重要な現象をあえて無視しつづけるのか。

とそこらへんを認めてなんか情けないことを書いてるように見える。苦しい。興味深い題材だからこそ、ちゃんとした証拠が欲しいやんねえ。

小松先生は、シューモンがそのあとで書いた”The Brain and Somatic Integration”論文で「それは論敵を完膚なきまでに打ちのめした決定的な批判といえよう」と言ってるが、そりゃどうかな。それに小松先生の記述からは誤解しやすいと思うけど、ここでのシューモン先生の「論敵」っていうのは「有機的統合説」論者で、「脳死」論者全体じゃないからね。まして、Neurology誌で編集者に批判の手紙を出した4人のことではない。ここ小松先生の記述はミスリーディングだと思う。(意図的ではないことを望む)

まあ脳死についての「有機的統合」説がだめなのはその通りだしその点ではShewmon先生にも小松先生にも文句はないんだけどね。

かくして、シューモンはこう結論する。

脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。身体の統合性はどこか単一の中枢器官に局在するものではなく、すべての部分の相互作用による全体的な現象である。通常の条件下ではこの相互作用への脳の緊密な関与は重要ではあるが、それは有機的統合体の必須条件ではない。たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。[・・・]要は、脳死を死とする生理学的根拠は、生理学的見地からすればまったく薄弱だということだ。(pp. 473-474)

ISBN:4569626157 (pp.124-5)

これはShewmon先生の”The Brain an Somatic Integration”という論文の結論conclusionのほぼ全訳になっているのだが、小松先生が中略したところに何が書いてあるのかというと、私の訳だとこうなる。

それゆえ、もし脳死が死と同一視されるべきであるとしたら、それは本質的に非・身体的non-somatic、非・生物学的non-biologicalな死の概念にもとづかなければならない(たとえば意識をもつ能力の不可逆的な喪失にもとづく人格性の喪失)ということである。これについて議論するのはこの論文の範囲を超えている。

If BD is to be equated with death, therefore, it must be on the basis of an essentially non-somatic, non-biological concept of death (e.g., loss of personhood on the basis of irreversible loss of capacity for consciousness), discussion of which is beyond the present scope.

なんでこんな重要なところを略すかなあ。シューモン先生は有機的統合体説がだめだといっているのであって、脳死の概念がだめだと言っているわけではない。これも意図的ではないといいな。

あとちょっと細かいけど「脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。」 “The integrative functions of the brain, important as they are for health and mental activity, are not strictly necessary for, much less constitute, the life of the organism as a whole.” は「全体としての有機体の厳密には必須ではなく、いわんやそれを構成constituteするものではない。」

もうひとつ「たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。」の部分は正確には「・・・は衰えるが、死んではいない」って感じ。”the body without brain function is surely very sick and disabled, but not dead.”

最後のところは、”The point is simply that the orthodox, physiological rationale for BD is precisely physiologically untenable.” 「要は、オーソドックスな生理学にもとづく脳死の根拠は、まさに 生理学的に支持できないということだ。」*1

シューモン先生の論文が専門家集団でどの程度認められているかも知りたいのだが、ちょっと私の能力では無理。引用された数とかインパクトファクターとかは、やっぱり専門の人じゃないとわからん。Neurologyは権威ある専門医学誌の一つなんじゃないかと思うが、Journal of Medicine and Philosophyがどの程度のランクなのかは私にはちょっとわからん。無念。

まあ「本当の話」とかタイトルについているような本は、特にそのまま「本当の話」と思ってはいかんような気がする。日常生活だって、「これは本当の話なんだけど」と最初についたら疑うもんな。

気になっている音楽聞いたり笑ったりする「水頭無脳児」のケースについては調査中。数日後に結果が出ることになりそう。

*1:あとで気づいたけど、この小松先生の訳文はかなり問題がある。あたかもシューモンが生理学者として脳死の概念すべてを否定しているかのように読めてしまう。シューモンが否定しているのは、脳死の「オーソドックスな生理学的な根拠」。「オーソドックスな」を訳出しないことで、別の印象が生まれてしまう。これも意図的でないと言えるのかどうか怪しくなってきた。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(3)

ISBN:4569626157

あとシンガーの議論やろうかと思ってたけど、根気がつづかん。一箇所だけ。

脳の機能が不可逆に停止した人間に関して倫理的に関連のある最も重要な特徴は、その人間が人間という種の一員であるということではなく、その人間には意識を回復する見込みがまったくないということだ・・・意識がなければ、生存しつづけたとしても、それが本人の利益になることはない。・・・これとまったく同じことが 遷延性植物状態の患者にもあてはまる(シンガー[一九九八]、255-25頁*1

人間の生死の決定を利益なるものの有無ではかるとは、なんとも世知辛くやるせないことではないか。なんたる傲慢で想像力を放棄した行為だろうか。(p. 217)

「利益」を金銭的な利益のようなものとしてとらえてはならん。原文は “Without consciousness, continued life cannot benefit them.” でも書いたが、 当人がまったくなにも感じない場合に、なにかそのひとにとって「よいこと」があるのか、という問いだし、傲慢でも想像力*2を放棄したものでもないと思う。

ちなみに、この引用文のすぐあとでシンガーは次のように言っている。

だからといって、不可逆に意識を失った患者の生命を終わらせる決定が簡単であるとか、機械的におこなわれるということにはならない。考慮すべき患者の感情は微妙であり、また大切でもある。患者が新生児や幼児であったり、意識の喪失が突然であったりした場合にはとくにそうである。 (シンガー、p.256)

シンガーを読んだことのあるひとはわかると思うが、シンガーは特に傲慢でも想像力が欠けるひとでもない。むしろふつうの人よりはるかに左翼的・平等主義的な実践的関心にあふれていて圧倒される。

根気が続かないのであとメモだけ。

  • 全体を通して大きく依拠しているシューモン(Alan Shewmon)の研究、シューモン自身はどうも(脳死)臓器移植反対派ではないようだ。どういう立場なのか紹介してもらえたらよかったのではないか。
  • 「有機的統合の不可逆的喪失」説の批判はポイントをついておりたいへんよいと思う。ただし、この概念がだめだってことは当時からいろんな人によって指摘されていたと思う。
  • 和田移植以来の日本の移植医療の問題点はよく調べてあって勉強になる。
  • 最後の方で脳死患者が19年生きつづけているという話が紹介されているが (高間智生*3、「『脳死』で16年間生き続ける少年」、『ザ・リバティ』(幸福の科学出版)、1999年10月号)、ほんとうに脳死なんだろうか。これはたしかなニュースソースなのだろうか*4。 まえに書いた遷延性植物状態の患者が看護師に返事をしたとかってのと同じように、あんまり信用ならないデータを大事なところで使われるのは非常に困るのではないか。小松先生が出してくるいくつかの珍しい事例について、医学界はどういう反応をしているのか知りたい。もし医学界や報道が意図的に無視しているのだとすればそれは大問題だよなあ。
  • 小松先生がはっきりさせてくれないのは、シンガーやのような人びとも、自分自身の道徳心のようなものと理論的な整合性の要求の間で悩んでいることだろう。彼らは生と死についてとにかく首尾一貫した考え方をしたいってことで、いろいろとまじめに考えている。もし「ホモサピエンスはとにかくどんな状態でも生き続ける権利がある」を本気で主張すれば、もし首尾一貫しようとすればいろいろ理論的に不都合なことが起きるし、あるいは首尾一貫しない不整合な感情論・直観的判断におちいってしまうのだが、そこらへんどの程度本気で考えているのかわからん。
  • たとえば中絶や避妊とかに対してどういう考え方をとるのだろう?
  • あるいは末期患者の治療停止について。どうにも治療効果がなく、意識もない患者も、何度も蘇生させるべきだろうか?(現在の医療では、無理矢理生かしつづけることはほとんど無制限にできるのではないか。)

というわけで、http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061214 で書いた大庭先生の「(生命倫理学が)どのように作られたものかをもう一度考えなおせ」については、あんまり得るところがなかった。もちろんそれは 私に心の目や想像力が欠けているからだろう*5。反省しよう。


*1:ピーター・シンガー『生と死の倫理』、昭和堂、1998。この手の話に興味があるひとは、小松先生の紹介を読むだけでなく自分で一回読んでみて考えてみるべきだと思う。それをしないで小松先生の議論は説得力があるからシンガーは読む必要がないと思いこむひとは、小松先生が批判するマインドコントロールにはまっているのと変わりがないと思う。

*2:だいたい、自分と違う意見の人は想像力がないとか本当のことを見る目がないと主張するのはどうなんだ。時々そういうひとっているのだがよくわからん。他の分野でも見かける。

*3:このお名前ではgoogleでは1件もひっかからない。

*4:いや別に幸福の科学の雑誌だからどうってわけじゃなくて・・・

*5:もし万が一そうでなければ、ある哲学者がある応用倫理学批判の本の書評(http://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/~iseda/works/igiari.html)で触れているように、この著者も「読者に思わず反論したい気をおこさせ、いわば読者を論争のまっただ中に導く」ことによって、心の目をひらき想像力を羽ばたかせ、批判的精神を発揮させようとしているのだろう

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(2)

続き。

いわゆる「パーソン論」

前からいわゆる「パーソン論」の解釈は非常に気になっているのだが、よい入門・解説書がないんだよな(あとで調査する)。

とりあえず小松美彦先生の文章を読みながら落ちいりやすい読み間違いを確認しよう。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。一八世紀に活躍したイギリスの思想家ジョン・ロックなどの伝統的な人格論に基づいていると考えられている。 一九七〇年代にアメリカの生命倫理学者マイケル・トゥーリー*1が 提唱し、八〇年代以降のアメリカやオーストラリア*2で第一線の生命倫理学者たちによって磨き上げられてきた。(p.149)

最初の「一言でいうなら」の一文はちょっと乱暴かな。まあしょうがないのかしょうがなくないのかは最後に結論出すことにしよう。

まず、人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる、とパーソン論は捉える。人間を一生物種のヒトたらしめる生命と自己意識や理性を備えた人格者(パーソン)らしめる生命である。この理念的な区別を現実に当てはめてみると、人間世界には生物的生命と人格的生命の両者を兼ね備えている者もいれば、生物的生命しか有していない者もいることになる。他方、パーソン論は、ある人間が生物学的なヒトであること、その者が「生きる権利」をもった人間であることは必ずしも一致しないとする。つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

まず注意しなきゃならんのは、「パーソン論」なんてものは存在しないってことだよな。世の中に存在しているのは、あくまでマイケル・トゥーリーの議論やエンゲルハートの議論。

この「パーソン論」って言葉はおそらく森岡正博先生が 発明して、加藤尚武先生が広めたんじゃないかと思うけど*3、非常にミスリーディングだったんじゃないかと思う。まあしょうがなかったのかもしれん。これもあとで考えよう。

とりあえず「~と捉える」のはトゥーリー先生やH.T.エンゲルハート先生で、彼らが実際になにを主張しているのかしっかりとらえないとならん。ふつうは「トゥーリーは」と書いてほしいところ。トゥーリーの”Abortion and Infanticide”という悪名高い論文は、 『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』に(抄訳だが*4)森岡先生の訳で収録されている。ここからは、いちおう、小松先生はトゥーリーの議論を考えていると想定することにする。(別の論者ならそれを考えなきゃならん)

で、トゥーリーが「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」と捉えているかというとこれはミスリーディングなだけではなく、誤解だろう。

日本語で「ひとを殺すことは不正だ」「ひとを殺してはいけない」というようなときの「ひと」にあたる英語は”person” とか “humann being”が使われる。”It is wrong to kill a person.”とか”It is wrong to kill human beings.”とか使われる(んだと思う)。

おそらく”person”の方が日本語の上の「ひと」に近いだろう。でもまあ、日本語では、「無実のひとを殺すのは不正だ」「無実の人間を殺すのは不正だ」の間に違いがあると思う人はほとんどいないだろう。英語でも、personとhuman beingはふつうに交換可能に使われているはず。

でもまあ、トゥーリーの論文が書かれた1972年のころに激しく議論されていが妊娠中絶とかを考えると、personとhuman beingを同じ意味に使うのはまずいかもしれないってことにトゥーリー先生は気づいた。

ってのは、「胎児はいつから人間human beingですか?」という問いに対して答えようとするのは、難しいというより(もっと分析しないと)ほとんど意味がないからだ。生物学的に見れば、胚から胎児を経て新生児になるまでは

連続していて、どれもホモ・サピエンスの一匹(の子供)という意味では線なんか引けない。「受精卵」と「初期胚」と「後期胚」と「胎児」は連続している。だから上の「胎児はいつから人間ですか」が「胎児はいつからホモサピエンスの個体ですか」という意味の問いであれば、「おそらく胚の時点から」とか答えることになる。(ここ、実は「個体」の定義が難しいんだけど面倒なので書けない)

しかし、「胎児はいつから人間なんだろう?」という問いにはもうひとつの(おそらくもっと重要な)意味があって、それは「ひとはみんな生きる権利を持っている。だからひとは殺しちゃいけない。そして胎児はいつから(その殺してはいけない)ひとになるのだろう?」という意味での「ひと」の意味がある。この問いで使われている「ひと」はたんに「ホモ・サピエンスの一員」という意味ではない。

なぜかといえば、先の「胎児はいつから人間ですか?」という問いは、「(ホモサピエンスの個体はみんな生きる権利を持っている。だからホモサピエンスの個体は殺しちゃいけない。そして)胎児はいつからホモサピエンスの個体になるのだろう。」という問いではないように見えるから。ホモサピエンスの個体という意味でなら、さっき書いたようにずっとホモサピエンスの個体で、あんまり疑問の余地はない。

だから、「胎児はいつから人間なのか」っていう我々が日常的に考える(実 は曖昧な)問いは*5、実は、「胎児は(いつから)生きる権利を持つのか」というもっと正確な問いで問いなおすべきだ、ってのがトゥーリー先生の第一のポイント。すばらしい。ここらへんの分析の鋭さがトゥーリー先生の論文が皆に読まれ影響力をもったゆえん。答えなきゃならない難しい問いは、哲学的に反省してより明晰な問いに直さなきゃならん。そうすれば答えに少しは近づく。(もちろん、そこでいろんなものが削り落されることになってしまうのは意識しておかなきゃならん。)

さて、いったんこうして切り分ければ、曖昧な言葉づかいをしているのはテツガク的にあんまりうまくない。曖昧な言葉は曖昧な思考をまねくし、論理的な混同を犯しやすい。そこでトゥーリー先生は、生物学的な意味での人間を a member of homo sapiens とか呼んで、「生きる権利をもっている存在」を personと呼ぶことにしよう、と提案するわけだ。

「人格」personということばはどのように解釈されるべきであろうか。私は人格の概念を、すべての記述的内容を離れた純粋に道徳的な概念として扱うことにする。特に、私の用語法では、「Xは人格である」X is a personという文は、「Xは生存する(重大な)道徳的権利を持っている」 X has a (serious) moral right to lifeという文と同じ意味を持つsynonymousことになるであろう。(トゥーリー、p.97)

これは単なる用語法についての(勝手な)取り決めにすぎない。論文を読んでいてこういう宣言があったら、読者はいつも「person 人格」をそういう意味で理解しなければならん。もちろん、学術論文で勝手にそういう定義を採用するのはぜんぜん問題がない。

国内の議論の問題は、このpersonに「人格」という訳語を当てた(これはしょうがない)ので、「人格」に勝手にいろなものを読みこんでしまう傾向があることに思える。(だから森岡先生あたりが「人格論」ではなく「パーソン論」と呼ぶのは、まあ意味があったとは思う。術語なのだ。)

ぜいぜい。面倒。

上の小松先生の文章に戻る。「人間の生命は生物的生命と人格的生命との二種からなる」はまったく誤解。別にそんな奇妙な二つの「生命」を持っているわけではない。

もう一回確認すると、トゥーリーは第一歩として、「胎児はいつから人間ですか」という問いは、「胎児はいつから生存する権利を持つ存在になりますか」「胎児はいつから生存する権利をもちますか」という問いで問いなおすべきなのだというポイントを指摘しているにすぎない。

さて、トゥーリーの議論はこっからが難しい(それに問題も多い)。「胎児はいつから生存する権利をもちますか」に答えるためには、「権利をもつ」ってことがどういうことかわからなきゃならん。

こういう言葉の分析が、当時はやっていた言語分析とかそういう流れで重要だったんよね。まあ「問いをはっきりしなければ答は出ない」ってのはいまだに正しい方針だと思う。だいたいの「難問」は問い自体がなにを問うているのかよくわからんわけだし。正しい問いを問うことができるようになる、ってのが哲学の最大の目標なんだと思う。

まあ実際日本語では「~する/に対する権利がある/を持つ」と表現するわけだが、権利って概念もよくわからず使ってしまうのがふつうだと思う。テツガクやっている人間もたいていよくわかってない。私はまったくわからない。

トゥーリー先生は「権利」をかなり独特の意味で使う。(どう独特なのか書いてるとロンブンになってしまうので極端に簡略化するけど、それでも面倒。)

トゥーリーによれば、そもそも「なにかについて権利をもつ」ってことは、 本人が望まなければ(欲求しなければ)それを放棄できるってことでもある*6。こういう形で「~について権利をもつ」ことと「~について欲求をもつ」ことのあいだには密接な関係がある。

たとえば、子猫は暖かい場所で寝たいとか、踏まれたくなないという欲求をもつ(踏まれたらやだ)ことができるので、「猫はこたつで寝る権利がある」とか「かんぶくろにいれて踏まれない権利がある」ということは有意味だけど、まったくなにも欲求をもたない存在(新聞紙とかチョークとか)は、「権利を持つ」ということが言いにくい。

ここで理解しにくいので注意しておく必要があるのは、「権利が決めるかどうか」をどうやって決めるのかっていう問題と、たとえば「猫は~の権利を持つ」という発言が意味を持つかどうかってのは別の問題だってことなんだが、もう眠いのでまた明日。

一寝してもうちょっと。

「誰がどんな(道徳的)権利を持つのか」ってことをどうやって決めるかって問題はもちろん非常に難しい。ある種の人々はそれは単なる社会の取り決めだと考えるし、ある種の人はそれを神によって定められていると考えるかもしれないし、他にも理性によって要求されるとか、もっと基本的な功利の原理から派生する二次原理だとか、いろんな考えかたがある。しかしトゥーリーのポイントは、こういう「どうやって決めるか」には関係がない。むしろ、「権利をもつ」という言葉の意味に何が含まれているのかという分析。

トゥーリーの提案は、

「AはXに対する権利を持っている」という文は、「もしAがXを欲求しているならば、他人はAがXをするのを妨げるような行動を慎むという当面の義務を負っている」という文とほぼ同じ意味をもつ。 (トゥーリー、p.102)

て感じになる。慣れてないひとは「当面の義務 prima facie duty」がわかりにくいと思うが、「当面の」は「他になんか重大な理由がなかったら」ぐらいの意味のとってよいと思う。

「私は幸福を追求する(道徳上の)権利をもっている」という文は、だいたい「もし私が幸せを追求しようとしているなら、(特に理由がなければ)他のひとは私が幸せを追求するのを邪魔するべきではない」ということを意味すると分析できるってわけだ。

(なんども書くけど、この分析が正しいのかどうかはかなり微妙なライン。たとえば、「子供は教育を受ける権利がある」という文や発言が、本当に「もし子供が教育を受けたいと願うなら、他のひとはその子供が教育を受けるのを邪魔するべきではない」程度のことしか意味していないのかというのはもっと議論が必要。私の理解では、この文は「(子供が教育を受けたいと願うかどうかとは別にして、)他の人々はその子供が教育が受けられるようにちゃんと手配する義務がある」というはるかに強い内容をもっているように思われる。「生存する権利」もふつうはこっちの意味のはず。まあでも、トゥーリーの「権利」の分析は「権利」の一つの意味では有力かもしれない。)

トゥーリーの議論の最後のステップは、このたんなる「権利をもつ」の分析から、「生存権(生きる権利)」を持つに進むところ。

「~について権利をもつ」ためには、少なくとも「~に対して欲求をもつことができる」が必要。それでは、「生存する権利をもつ」ためには、「生存することについて欲求をもつことができる」が必要だということになりそうだ。

ところが、「生存することを欲求する」ってのはかなり多くの条件を必要とする。

子猫も「痛めつけられないことを欲求する」「暖かいところで寝ることを欲求する」ことがおそらくできる。だからなんらかの権利の決定の手順によって、「子猫は痛めつけられない権利を持つ」ということが言えるかもしれない。

しかし、自分が「生存する」ことを欲求するためには、「自分」が時間を通じて生きていること、そもそも「自分」が存在していることを意識していなければならんとトゥーリーは考える。

ある存在者が、諸経験とその他の心的状態の主体という概念を持っていなければ、その存在者はそのような主体が存在してほしいと欲求することなどできない。さらに、ある存在者は、現在自分自身が諸経験とその他の心的状態の主体であると信じていなければ、自分自身がそのような主体として存在し続けることを欲求することはできない。(トゥーリー、p. 104)

ここもわかりにくいと思う。ショーペンハウエルやシュバイツァーのような人々はどんな生物でも「生きようとする意志」とかを持ってるとかそういうふうに考えてたわけだし。

でもまあ、われわれが「自分が自分であること」「他人と違うこと」「5年前、1年前、1年後、10年後もおなじ私であること」を意識するってのは、ずいぶん成長してからのことはふつうのひとでもぼんやりとわかるんではないだろうか。そういう「自己意識」持っているのが人間(や他の大型類人猿とか)の特徴で、他の動物や植物と質的に違うポイントだと主張されることがある。この自己意識がないと、少なくとも「自分が生き続けたい」と望むことは難しそうだ。

というわけで、トゥーリーのとりあえずの分析のたどりつく先は、「もし「ある存在者が生存する権利をもつ」ということが言えるならば、「その存在者は生存しつづけたいという欲求を持つことができる」が言えなきゃならん。そしてそのためには自己意識をもっているはずだ。」

もう一回注意しておくと、これは「自己意識をもっていれば生存権をもつ」という主張ではない。「もしあなたが(私が)「~は生存権をもつ」と言おうとするなら、「~は自己意識をもっている」ことを認めなければならない」ぐらい。

はあはあ。

でも、自己意識もってない動物やひとはいる。「自己意識をもつ」は「生存権をもつ」の必要条件なので、そういう存在者は生存権をもつとは言えない。

A ⊃ B。 でも ¬B。 しかるに、¬B ⊃ ¬A。よって¬A、という議論。

あーあ。だめだめ。時間の無駄。やっぱりふつうの人にはわかりにくいよな。これどうやって説明すりゃいいのかってのはほんとうに難しい。

もう一回あらっぽくまとめると、

(1) ある存在者が「権利をもつ」ならば、「それに対応する欲求をもつ」ことが言えるはず。

したがって、(2) ある存在者が「生存しつづける権利をもつ」ためには「生存しつづける欲求をもつ」が言えるはず。

しかし、(3)「生存しつづける欲求」をもつためには、(少なくとも)自己意識をもつことが必要。

したがって、(4) 自己意識をもたない存在者は、生存しつづける欲求をもつということはできない。

(5) したがって、自己意識をもたない存在者は、(この意味では)生存権(生存しつづける権利)をもつとは言えない。

だから、胎児とかは生存権をもっているとはいえず、妊娠中絶は正当化されるかもしれない。すくなくとも「生存権」があるから妊娠中絶は正当化できないと考える必要はない。ついでに新生児の安楽死とかも正当化されてしまう(!)。いっぽうで、子猫が(なんらかの「権利」の決定方法によれば)「無駄に苦しめられない権利」を持っていると主張することはできるかもしれないし、もちろん新生児が「無駄に苦しまない権利」をもっているとは言えそうだ、ということになる。まあこういう結論が邪悪なテツガクに見えてもしょうがない。

まあ、この議論の(1)と(3)はかなり問題を含んでいるし、この手の問題を考える場合に「生存権」がそれほど重要かどうか、あるいは実践的な議論にとって枠組として有用なのかどうかは問題だと思うが、とりあえずこれが「パーソン論」だってのをちゃんと理解したいところ。重要なので何回も書くけど、これは「権利をもつ」についての言葉の分析の結果の分析にすぎず(あやしげかもしれないけど)、「権利」の範囲をどうやって決めるのかという実質的な問題を扱っているわけではない


小松先生の解釈

で、小松美彦先生の文章に戻る。

つまり、生存権は人格的生命を有している者だけに認められるというのだ。 (pp.149-50)

最初の方でも書いたが、「人格的生命を有している」は不正確な表現。

そしていつも気になるのは、この「認められる」なんだよな。こういう文章を書くひとは、トゥーリーが「人格だけに生存権を認めることにしようぜ」と主張していると誤解してしまっているのではないかと推測される。

一方、「生存権は人格にのみ認められる」のならば正確な表現だが、これはトゥーリーの恣意的な定義なので、別に批判の対象になることがらではない。

その証拠がすぐに出てくる。

したがって、パーソン論からすると、自己意識や理性の源とされる大脳が機能停止した脳死者や植物状態の者、もともと大脳の大部分が存在しない無脳児は、生物としてのヒトではあっても人格をもつ者ではない。 そしてそうである以上、この者たちに人間としての生存権はない。(p. 150、強調kallikles)

この「人格をもつ」という表現(そして最初の引用であげた「人格者」という用語)が、小松先生の「パーソン論」理解をうたがわせる。 「人格」は持ったり持たなかったりするものではない*7。「人格かそうでないか」つまり「生存権をもつ存在者かそうでないか」なのよ。

まあこれは「人格」って言葉が専門の論文用の術語なのにもかかわらず、われわれがよく慣れしたしんでいる言葉でもある(とくに「性格」や「アイデンティティ」に近しい意味で)ことに原因があるわけだが。むずかしい。

もうちょっとだけ補足。

たしかにパーソン論は、それなりの論理を備え、概念用語を駆使してはいるものの、私たちにありがちな例の考え方”まともに感じ考えられなくなったら人間はオシマイだ”と、本質的に変わらないのではないか。パーソン論とは、”ありがちな考え方”を学問的に根拠づけたものに他ならないだろう。(pp.150-1)

トゥーリーの議論がどの程度「それなりの論理を備え」ているかは微妙(私はうまくいってないと思う)だが、この小松先生の指摘は(書き方は悪いが)大事なところで、小松先生もあとで議論するピーター・シンガーなんかも指摘するところ。たしかに、私自身は「まったくなにも感じ考えられられなくなった私はオシマイだ」と思う(ただし「まともに」感じられなくてもオシマイだとは思わないと思う)。

もちろん、そうでないと考える人びとがいることも理解できるのだが、そういうひとが、まったく自分が何もまったく感じない場合に、自分の(他人のではなく)生命が、自分にとって価値があるとするときに何を判断の基準にしているか非常に理解しにくいとは思う。これを主張できるのは、私生命の価値が私にとって価値があるのは、私が感じるなにかのためではない、私が感じるなにかとは独立の価値があると主張できるときだけになる。

もちろん、他の(感覚のない)人の生命が私にとって価値があることは多いだろうし、私の感覚のない生命が他の感覚のある人にとって、価値があることはあるかもしれない。でも感覚のない私にとって感覚のない私の生命が価値があるかどうかはわからん。

誰かの主観的経験(つまりなんらかの「感じ」)にまったく依存しない客観的な価値ってのがあるのかどうか。これが言えるかどうか。哲学・倫理学の大問題だが、これにイエスと答えるのはかなり難しいと思う(必ずしも不可能ではないと主張する人びともいる)。

(続く)


(ところで、もしこのエントリ読んで大学の期末レポート書こうとするひとがいたら、(1)自分でもちゃんと調べてください。(2)出典にこのブログのURLを書いてください。「kallkles, 「kalliklesの日記」、2006年12月15日、ttp://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061215 」、とかでいいんじゃないかな。”kallikles”とか変な名前を書くのがいやなひとは
メールくれれば教えます。)

*1:トゥーリー先生を「生命倫理学者」と呼ぶのはあんまりよくない。生命倫理では他にたいした業績はない。むしろ因果関係とかが専門のはず。「哲学者」「分析哲学者」ぐらいがよさそう。

*2:イギリスも

*3:間違い。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061218 のコメントによれば、飯田亘之先生の論文が初出ではないかという情報。

*4:たいていのセイメイリンリガクシャはこれが抄訳であることさえ気づいていないのではないかと思わされることがある。原文はたいていの生命倫理学のアンソロジーで手にはいる。いま私の手にあるのはP. Singer (ed.) Applied Ethics, Oxford University Press, 1986. 原論文はPhilosophy & Public Affairs, Vol. 2, 1972. 印税もらってたらとんでもない額になってるよなあ。

*5:どうでもよいことだが、私は高校生のころに生物が好きで特に発生のあたりが好きだったのだが、ある日「んじゃいつから人間なのかな」とか考えて泥沼にはまったことがある。結論は「こりゃ生物学じゃなくて哲学だよな」ってことでテツガク勉強したいと思った。その選択はまちがってたんだけど。

*6:この点は強い異論がありえる

*7:この主張は怪しいかもしれません。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061217 参照。わたしがまちがっていたらごめんなさい。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(1)

ISBN:4569626157

前回書いた『情況』の大庭健先生は、次のようにおっしゃっている。

だからすでに生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人は、せめて(小松美彦先生の)『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)程度だけでいいから、小松さんの仕事をきちんと読んで、自分の乗っている土俵がどのように作られたものなのかをもう一回考えなおしてくれないかということは少し言っておこうという気になっています。

私は生命倫理学の土俵に乗ってしまっている人ではないのだが、せっかく大庭先生のおっしゃることなのでちょっとずつ読んでみよう。

いろいろ気になるところだらけなんだけど、ちょっとづつ。

植物状態を扱っている第5章。

医師の堀江武先生の見解として

「植物状態患者には記憶機構も感覚系も作動状態にあり「意識」はあるが、表現手段のための運動系に障害がありコミュニケーションが不可能である」(小松 p.194)

ってのを紹介している。んで、「正真正銘の遷延性植物状態の患者」が看護婦の問い掛けにまばたきの回数で応答しているという報告が紹介されている(p.194)。

これどうなんだろ。植物状態というのは、厳密じゃないけど、「生きてはいるけど意識がない状態」ぐらいだと思っていた、もちろんもっと厳密にする必要がある。小松先生も神野哲夫先生の論文からこの定義を紹介している。「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」(p.185)。OK。妥当な定義に見える。

しかし小松先生は、遷延性植物状態の「定義」を『南山堂医学大辞典』からひっぱってくる。それによれば、(1)自力で移動できない、(2)自力で食物を摂取できない(3)糞尿失禁をみる(後略)とかってのになってる。しかしこれは判断(診断)基準であって「定義」じゃないだろう。

こういう「定義」と「判断基準」の区別の話はハーバードの脳死基準のときから口をすっぱくして語られているのに、なんで小松先生はその区別を無視してしまうのだろうか。わからん。

まあとにかく、植物状態はふつうは定義からしてawarenessがないのだから、問い掛けに応えるならそれは植物状態ではない。これは定義の問題。

んで、問題の堀江武先生の研究だが、この研究はちゃんとしたものなのかどうか確かめる必要がある。巻末の文献リストによれば、これは堀江武、1997、「外傷性植物患者との12年–シグナルからサインへ」、『第6回意識障害の治療研究会要項集』、19頁。あら、学術誌じゃない。この研究会はあんまりgoogleにもひっかからん。どうやって入手するんだろう。まあ国会図書館行けばありそうだが。CiNiiでも堀江先生はあんまりひっからん。どうも最近は日本語では書いて
いらっしゃらないようだ。

googleでひっかかった千葉療護センターのページは重要だな。 。http://chiba-ryougo.jp/ronbun.html 。病院全体として植物状態(意識障害)の患者さんの看護を研究しているようだ。

しかしこのレベルの研究会要綱や雑誌論文は、医学系では学術論文とは認めにくいのではないだろうか。確認してないけど査読とかもはいっていないんじゃないかと思うし。もし事実ならたしかに大発見だが、その後どうなってるんだろうか。それを小松先生のように医学的な新しい知見として紹介してしまうのはどうなんだろうか。やっぱりわれわれが医学とかの論文をとりあえず事実についての知識として信用するのは査読や検証や追試、引用などのシステムがしっかりしているからであるからして。哲学のロンブンとは格が違う(っていうか違っていてほしい)。とくに専門外の人間が医学についてなんか語るときはやっぱりちゃんとした研究を参照したいところだ。

意識、覚醒、認知機能

順番がひっくりかえるが、第5章(1)「植物状態の患者に意識はないのか」のところも気になる。

まあ植物状態で失なわれている「意識」ってのが哲学的にも医学的にも面倒なのはその通り。「意識とは、自己と周囲の状況とを認識している状態」(p.181)ぐらいでしょうがないかもしれない。でもこれこんどは「認識」を定義しないとならんからたいへん。

でも小松先生は次のように話をすすめる。

臨床医学には意識に関する最低限の規定がある。意識は「覚醒」arousalと「認知機能」cognitive function(「意識内容」contentとも呼ぶ) との二つの要素からなる、という規定である。したがって、臨床的に意識がないとされるのは、あくまでも覚醒と認知機能(意識内容)との双方が消失した状態を指す。ここで覚醒とは、外界に対して注意が向けられて刺激を受容し、反応が可能な状態にあることをいう。他方、認知機能(意識内容)とは、外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力である。(p.183、強調kallikles)

まずこの理解の出典がわからん。まあ一般的なのかな。

次に気になるのは、覚醒の方の「外界に対して注意が向けられて」の一節。「注意を向ける」(志向性)ってのは、ふつうのなかなか高度な心的機能なんじゃないかと思う。たとえばゾウリムシも刺激に反応するわけだが、ゾウリムシが外界に注意を向けているかはなかなかむずかしい。まあ定義しだいかもしれんが。

んで、このあとに、

そして、これらの機能を仮に脳の各部位に還元させるなら、覚醒は主として脳幹に、認知機能(意識内容)は大脳皮質に対応しているといわれる。(同上)

と小松先生はいう。これどうなんだろう。誰の見解かわからんので調べようがない。少なくとも大脳皮質も「注意を向けて刺激に反応」する機能を果たしているんじゃないだろうか。

そして、小松先生の意味での「覚醒」がどの程度重要かってのが問題だよな。

んで本論。ピーター・シンガーのような論者は、「(大脳)皮質への血流がなければ、意識内容が不可逆に失われている、と確信できるのである」と言うわけだが、小松先生は上のような議論から、

そもそもシンガーのこの認識は、右で確認した意識障害をめぐる世界的な知見を踏まえていない。なぜなら、皮質死状態の者は、皮質の血流が途絶えていても脳幹が機能している以上、たとえ認知機能が失われているとしても、意識のもう一方の要素の覚醒があるからだ。(p.183)

とするわけだ。この議論はどうなんだろう。

そもそもシンガーのようなひとが問題にしている「意識」は、上の区別でいえば認知機能(意識内容)に対応するものなんじゃいのか。たんに外界からの刺激に反射するという意味での「覚醒」はそもそも問題ではないはずだ。ここらへんなんかおかしいぞ。

だいたいそもそも、(わざわざ順番を逆にしたのだが)さっきの「植物状態」の定義では「外界の刺激に対するawareness(覚醒)の欠如と、心機能、呼吸、血圧の維持などの植物機能は保たれている慢性の神経学的状態である」とされている。これはawarenessで単なるarousalではない。ふつうのawarenessは「外界からの情報をもとに、外界の意味づけを行うとともに、そうした自己の行動を自覚している能力」の方に近いのではないのか。arousalとawarenessをおなじ「覚醒」の語を使われては混乱してしまう。(もっとも、おそらく意図的ではなく引用の都合だろううし、ここが哲学的に難しいのはわかる。)

あと、p.184のシューモンの水頭無能児(脳幹は機能しているけど大脳が発達してない)が「音楽に楽しそうに反応し、鏡に映る自分の顔を見て嬉しそうに笑うのである。さらには、背臥位の状態でも足をぴょこぴょこさせながら、家具にぶつかることもなくベランダに出ることができた」という報告は、孫引きではなく、できればシューモンの原著論文を参照してほしかった。有名なひとなんだから論文も入手しやすいだろうし、同じ報告あちこち書いていそうなものだ。(私が調べるのは・・・うーん。その手の論文をネットで読める環境にはない。)

ここらへんの議論はたしかに難しいな。しばらく時間がかかりそうだ。私が書いていることもまちがいだらけだち思うので読んでいるひとは間に受けないように。