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ミル自伝

ミル自伝 (大人の本棚)

ミル自伝 (大人の本棚)

みすず書房から出た村井章子訳の『ミル自伝』(「大人の本棚」とかってシリーズ)。解説のたぐいがまったくない。訳注もないみたい。人名ぐらい注つけてもいいのに。 『自伝』原稿出版の経緯*1や実際に訳出した版や原題*2すらもわからんのだが、みすず大丈夫か?光文社の例のシリーズの対抗なんだろうけど、ミルが誰かもわからず、人名も誰が誰やらわからんという状態でだいじょうぶなんだろうか。学生に勧めたいような勧めたくないような。微妙。

訳文は読みやすくていいんだけど、ちょっと文学臭が薄くなってしまっているような気がする。まあしょうがないかな。

たとえば

At first I hoped that the cloud would pass away of itself; but it did not. A night’s sleep, the sovereign remedy for the smaller vexations of life, had no effect on it. I awoke to a renewed consciousness of the woful fact. I carried it with me into all companies, into all occupations. Hardly anything had power to cause me even a few minutes oblivion of it. For some months the cloud seemed to grow thicker and thicker.

有名なこの「危機」*3の箇所は次のようになってる。

はじめのうち私は、すぐに抜け出せると思っていた。だがそうはならなかった。日々の小さな悩みを忘れさせてくれる一夜の眠りも、このときばかりは効き目がなく、朝になればたちどころに自分の惨めな状態を思い出す。友といるときも、仕事をしているときも、逃れられない。ほんの数分でいいから忘れさせてくれるものがあればよいのに、それもなかった。数か月の間、私はますます深みにはまるように感じられた。

岩波文庫の西本正美先生の訳だとこんな感じ。(戦後の版のやつが見つからないので戦前のやつの表記を変更して引用。みつかったら入れかえる)

最初私は、こうした心の雲はひとりでに消えるだろうとたかをくくっていた。ところが中々そうはいかなかった。人生の些細な煩悶を医するにはこの上もない薬である一夜の安眠も、私の悩みには何の効き目もなかったのである。私は目を覚ますと、新たにこの痛ましい現実に対する意識が更生するのを覚えた。いかなる友と交わるにも、如何なる仕事をするにも、この意識は私に常につきまとっていた。せめて数分間でもそれを私に忘れさすだけの力をもったものはまずなかったのである。数カ月間は、この雲はますます濃くなって行くのみであるように思われた。

この暗い雲*4 っていうイメージは(陳腐だけど*5)大事だと思うんだけどね。文学作品だとやっぱり残さないわけにはいかないだろう。でも村井先生の訳し方もありだな。装丁とか悪くない。このシリーズはけっこう楽しみだ。けど、2000円以内に収めたかった。無理か。

*1:生前は出版されなかったし、養女のヘレン・テイラーがいろいろ手を加えた部分がある。ミルが自分の性生活について書いてるのが残っていればおもしろかったのにね。ハリエットテイラーとはずっとプラトニックでした、とか。

*2:そりゃAutobiographyに決まってるけど。

*3:どうでもいいけど、ミルの「危機」の時代にインターネットがあったらどうだったろうとか考えちゃう。やっぱり2ちゃんねるメンヘル板や半角板に出入りしたかな。

*4:リストに”Nuages gris”っていう曲があるね。あら、International Music Score Library Projectって閉鎖したのか。

*5:陳腐さはミルの魅力の一部。


読書『女が男を厳しく選ぶ理由』

だいたい同じような話だろうと思っていると、ちょっとづつ進んでるのね。この手の学問やってる人はたいへんだろうけどやりがいもあるだろうなあ。ただ、たしかにこの本はかなり誤解されやすような気がする。
的確な書評は http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080116#1200490717 。もう私は shorebird さんが紹介してくれたものを順に読んで生きていくわけだ。

個人的におもしろかったのは、この人たちが金髪碧眼嗜好をわりと普遍的なものと考えている様子なところ。私自身の内観ではそういう嗜好をさっぱり見つけられないのでなんか愉快。さすがにバイキングたちの息子は違う。風に飛ばされてきた髪の毛一本から、「金髪のメリザンドよ」とやっちゃうに違いない。きっとわたしのご先祖にはそういう淘汰がかからなかったのだろう。南方系? カナザワ先生もブロンド好きなのかなあ。あ、ブロンドの女は馬鹿偏見の説明 1)それは若いから。 もよかった。 でもニキビ面馬鹿 2)若いから 仮説とか背の低いのは馬鹿 3)若いから 仮説が成立しなかったのはなぜか?他のところも、この人々独自の説明はなんかちょっと甘いんだよな。


References   [ + ]

1. それは若いから。
2, 3. 若いから

中里見博先生のポルノグラフィ論 (2)

最近児童ポルノの単純所持の違法化の議論あたりの影響か、「中里見博」で検索してたどりつく人が増えているような。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060313/p1 にひっかかって来訪していただいているらしい。

新しい本を出してらっしゃるのでじっくり読んでみる。(前にも書いたが政治的にはまったく違う立場に立つけど、やっていること自体や立派な学者的態度は応援している。)

ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ)

 

ソフトからハードまでグラデーションとして存在するポルノグラフィを共通して貫いている原理は、女性を性的に客体物化する(objectify)ことである。(中略)女性の性的客体物化の究極的な形態は、女性の死であるといってよい。つまり、女性の性的客体物化の行き着く果ては、セックス殺人(セックスを目的に女性を殺すこと)である。女性を性的客体物化することを快楽とする男性のセクシュアリティは、究極的にはセックスと死を結びつける — 女性の死こそ男性の最大の性的快楽とする — 権力にほかならない。つまり、女性を性的客体物化する男性のセクシュアリティそのものが、一つの権力なのである。女性の性的客体物化(sexual objectification)、これがジェンダーとしての男性が女性に行使する共通の性的権力である。(pp. 26-7)

うーん、どうなんだろうな。ポルノが女性を客体物化(objectify)しているってのまではわかるのだが、それがセックス殺人と結びつくってのはとっぴもない主張に見える。まあそういうのが好きな人がいるってのはありそうな話だが、ポルノ好きを極めると殺人ポルノに行きつくってことはどれくらいありそうな話なのかな。私はほとんどありそうにないと思うのだが。レイプもの好きなのもそれほど多くないような気がするし。「行き着く果て」ってのは、「一部の人の嗜好が行き着く果て」ということでよいのだろうか。

まあじっくり読んでみよう。衝撃的だったのはあとがき。

七年にわたるAPP研究会での活動をつうじて、多くの同志と出会い、少なくない同志を失った。この活動は幸福よりも不幸を、喜びよりも苦悩を、より多くもたらしたかもしれない。(p. 238)

うーん、いろいろたいへんだったんだな。やっぱり不幸になる研究活動とかって のは凡人には難しい。研究や勉強は、相応の快楽や喜びをもたらさねばならない 1)私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。 。訴訟とかもあったしなあ。あの会の活動のしか
たが、ちょっと無防備というかvulnerableな感じがあって心配していたのだが。(この研究会も、webの使い方がヘタな団体の一例なんだよな。http://www.app-jp.org/


References   [ + ]

1. 私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。

小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』

小谷野敦先生は私が敬愛する人の一人。おもしろいことを色々書いていらっしゃる。共感するところも多い。一回は御著書についてなんか書いてみてかった。死刑の問題については最近興味があるので読んでみよう。

それは対偶ではないですよ。

・・・これを、当為命題の形で言うなら「何の罪もない人を殺してはいけない」になるだろう。しかし、それと同値である対偶命題は、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」になる。(p.9)

対偶関係ってのは、「P⊃Q」に対して「¬Q⊃¬P」。当為がはいっているやつは面倒なときがあるのかもしれないが、面倒なのでとりあえず単純に「Xには何も罪がない」をP、「Xを殺してはいけない」をQとすると、対偶の¬Qは「Xを殺してはいけないわけではない」、¬Pは「Xには何の罪がないわけではない」。だから、対偶は「Xを殺してはいけないわけではないのならば、Xには何の罪もないわけではない。」もうちょっと日常語に近くすると、「Xを殺してよいならばXにはなんか罪がある」ぐらいか。(正確じゃないけど)

「罪のある人は、殺してもいい場合がある」はPとQで書きなおすと、・・・ええと・・・頭悪いからわからん。これ否定がはいってるからなおさら面倒なんだな。

もっと正確にするために「Xには罪がある」をR、「Xを殺してよい」をSとすると、もとの「何の罪もない人を殺してはいけない」は¬R⊃¬S。対偶は¬¬S⊃¬¬R。「Xを殺してよいわけではないわけではない」ならば「Xには罪があるわけではないわけではない。二重否定はふつう肯定にしてよいので、S⊃R。「Xを殺してよい」ならば「Xには罪がある。」。

ふむ、やっぱり小谷野先生のは対偶命題じゃない。「何の罪もない人は殺してはいけない」と主張する人が、「罪のある人も殺してはいけない」と主張してもなにも矛盾はないし。

小谷野先生は鋭い視点が売りなんだけど、論理的な推論が苦手のようで時々
気になるんだよな。これは本論いきなり2ページ目だったからとてつもなく
目についてしまう。三浦先生とは知り合いのようだから『論理トレーニング』ぐらいは読んだのかな。

まあ小谷野先生の名誉のために言っておけば、この文章のつづき

・・人々は、「何の罪もない人々を殺傷し」とテロリストや殺人者を非難する時、暗に、というよりはっきりと、「罪のある者は、場合によっては殺してもいい」ということを認めているのだ。

ってのはほぼ正しいだろう。(しかしこれは論理的な含意ではない)ここらへんの論理関係はたしかに素人には直観に反するので理解しにくいのだ。でも「対偶」とかって言葉を使うひとはちゃんと勉強しとかなきゃならん。

 

死刑制度の変遷

p.9-24あたりの歴史的叙述はおもしろいなあ。いろいろ知らなかったことが
書かれている。小谷野先生はこういうのがすばらしい。

ただし、

・・・死刑を廃止したヨーロッパ諸国は、キリスト教国である。キリスト教ならば、「ロマ人への手紙」にある「復讐するは我にあり」、つまり、人が人に復讐するべきではなく、紙の手に委ねるべきだという思想があり、死後、人々は紙の国へ行き、最後の侵犯によって悪人は裁かれる、という「信仰」がある。(p.20)

はどうか。ヨーロッパでも死刑はどうかと思われはじめたのはせいぜい18世紀だろう。ベッカーリアもベンサムも無神論的傾向が強かったはずで、キリスト教と死刑廃止が理論的にどの程度関係があるのはかちゃんと立証してもらいたいところ。

ちなみに当該個所は「ローマ人への手紙」12章19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」あたり。このパウロが引用している言葉がどこから来てるかは未調査。

あとまあ、団藤先生が死刑廃止運動のトップにまつりあげられたのはたしかに廃止派にとってあんまりよくなかったよな。ここらへんの指摘は小谷野先生鋭い。

改心しない悪人

「「嘘つきや卑怯者、乱暴者は、たいてい、悔い改めないまま一生を終わる。最近の社会生物学によれば、こうした性質はほぼ先天的なものだという。」(p.28)かなり大胆な主張だが、小谷野先生にしてめずらしく出典がついていない。私はそういう趣旨のは読んだことないなあ。

復讐、および社会からの排除が、刑罰の意義の中心をなすと私は考える。復讐とは、人類にとって普遍的な心情であり行為なのである。(p.29)

この本の中心的な主張なのだろうが、これがまさに死刑や刑罰に関する論争の中心的論争点だということを小谷野先生はどの程度自覚しているだろうか。

教科書的に言って、復讐心が「人類の普遍的な心情」であることは、死刑肯定派否定派にかかわらず、ほとんどの論者が認めると思う。また、「社会からの排除」は強すぎるが、「犯罪の抑止」が刑罰の主要な目的であることもほとんどの論者が認める。ふつう、「抑止」は、犯人の再発を防ぐ「特殊予防」と、一般の人々の同様の犯罪を防ぐ「一般予防」の二つに分けられ、「特殊予防」は教育、匡正、威嚇、隔離など、一般予防はいわゆる見せしめってことになる。ここらへんまではどういう人でも力点の差はあってもほとんどの人が認めると思う。

しかし、「復讐」が(国家による)刑罰の意義(「目的」?)がどうかは議論が分かれる。国家には市民の安全を保証する責務があるのだから犯罪を抑止する必要はあるわけだが、「復讐」を国家が市民にかわって行なう理由があるのかどうか。もちろんあるという主張をする人々は多いし、そのひとびとの多くは国家は被害者から復讐する権利を奪っているのだから、その肩代わりをしなければならないと主張するわけだ。でもその議論は簡単にはいかんので、十分な論証が欲しいところ。

小谷野先生は上の文章に続いて、「人はそれを野蛮だと言うのだろうか。」と書くのだが、野蛮かどうかではなく国家の機能がどうかという話をしてほしかったところ。

「遺族」は被害者の代理たりうるか

団藤も、多くの論者は、死刑廃止への反対論は、被害者遺族の感情を基礎としている、と言う。けれど、では被害者当人の報復感情はどうなるのか。誰も、死んでしまった者にそれを尋ねることはできない。しかし、彼に殺された当人の気持ちを尋ねれば、もしかすると天国にいてすべてを許す気になっているかもしれないが、遺族より遥かに強烈な復讐心を抱いているかもしれない。(pp.30-31)

小谷野先生は基本的に経験的に立証できることを重視して、こういう実証も反証もできないようなことは言わない人だという印象があったのだが。
筆がすべった?

まあどうでもよいことだが、私自身が近親縁者を殺されたら自分で殺しに行くですけどね。でもそれが国家がやるべきことなのかどうかはわからん。そしてそれは被害者本人の感情とはなんの関係もないかもしれんなあ。

この文脈で出てくるのが、小谷野先生のかなりオリジナルな主張だ。

「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。(p.33)

これをどう解釈するかはかなり難しい。ひとつの解釈は、復讐行為を行なう人々の心理的事実として、彼らは「自分の感情の満足のためではなく、被害者のためにやっているのだ」と感じている、というもの。これはおそらく事実として正しい。上で私は「被害者本人の感情とはなんの関係もないかも」と書いたのは、客観的に見ればかなり異常で、ふつうは「彼の(彼女の)恨みをはらす」という形になるだろう。

しかし小谷野先生はこれを「行なわれるべき」だと書く。この「べき」はどこから来ているのか。なぜ被害者(の感情)を代理すしなければならないのか。また、死者の感情ってのをどう考えるべきだと小谷野先生は考えているのか。そういうものが存在するのかどうか。そして復讐が成功したとしても、それによって
(あると主張されている)死者の感情になんらかの変化が生じるのかどうか。復讐が成功したかどうかは(おそらく)死者は知りえないだろうし。もちろん死者が天国からこの世界を見ていれば別だが、そういう形而上学的な主張にコミットしないと小谷野先生の主張は出てこないように見えるが、それでもOKなのかどうか。

ここから小谷野先生はさらにオリジナルな主張に進む。正直おもしろい。

私が「仇討ち制度」復活に賛同しかねるのは、実現の困難以上に、この理由による。呉は、仇討ちの権利を個人から国家が奪ったというが、逆に言うならば、仇を討ってくれるような家族がいない者(殺された者)にも、国家が代わって復讐する権利を与えたとも言えるのである。(p.33)

なんかよくわからんがすばらしい。そういう孤立した人間に思いを馳せることができるのが小谷野先生のすばらしいところ、私はそういうところが好きなんだなと確認。

残りの部分

残りの部分は国内のだめな廃止論者の論評とかフィクションの論評とかそういうの。それなりにおもしろいけど特に感じるところなし。

全体として、小谷野先生が「復讐」に注目しているのはよいのだが、それと国家の関係がよくわからんので死刑についての議論としてはあんまりおもしろくなかった。でもまあこんなものかな。団藤先生流の方針じゃない廃止論を誰かが紹介してくれればいいんだけどなあ。

復讐感情については、「死者の感情」とか解釈に苦しむものを導入しなくても、J.S.ミルの議論(ex. 『功利主義論』の第4章とか)にある「共感」とか参考にすれば、もうちょっとまともなことが言えそうな気がするんだが。「われわれは動物と共通に危害を加えられたらそれに報復する感情をもっていて、さらに人間は動物より拡大された共感の能力によって、共同体の仲間に加えられた危害についても同じような報復の感情を抱く」とかそういう感じ。まあ小谷野先生はそこらへんはあんまり興味ないかもしれない。

あと、まああれだ。小谷野先生が悪人はある程度先天的に決まってるとか更生させるのは難しいとかってほのめかしているのはどうなんかな。別にいいんだけど、私だってヤノマモ族のような環境に生まれてたら人の一人や二人は殺したろうし、場合によっては強姦とかもするだろうし。まあ反社会的な人々がいるってのはもちろん認めるけど。わからん。

 


最近読んだ本『恋人選びの心』など

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

同じような本をたてつづけに読んだので、いまどういうのが正統派の解釈かわからなくなってきた。

それにしても長谷川真理子さんは翻訳の印税もけっこうなものだろうな。うらやましい。

禁じられたベストセラー―革命前のフランス人は何を読んでいたか

期待したほどおもしろくなかった。

うそつき―うそと自己欺まんの心理学

これはなかなかおもしろい。


まともなジェンダー入門書

ジェンダー (図解雑学) 読んでみたが、コンパクトで平明な表現なのに目先が利いていて非常に優れた入門書。これ1冊あれば他の入門系の本はいらんのではないか。

しかし、より深く考えてみると、ジェンダーとセックスという境界線をどこに引くか、何がジェンダーに含まれ、何がセックスに含まれるかという認識そのものも絶対的ではなく、時代や地域、あるいは学問的立場によって変化する。そこで現在では、性別に関する知識や考え方全体を指して「ジェンダー」と呼ぶ用法も広まってきた。この観点からは、生物学的な性差とみなされる要素だけを特別扱いしてセックスという別の語を割り振る必要はないということになる。それもまた、私達の社会がつくりだしたものなのだから。 p.24

「生物学的な性差」まで社会が作りだしているとか言われるとやっぱるうっと来る。

それになぜ「ジェンダー」の方を優先するのか? それならもうセックスでいいじゃん、と言いたくなるよな。まあ日本語で「セックス」使うと性別より性行為を指しちゃうからしょうがないのかな。

・・・けれども、そんな風に勝ち負けにこだわること自体が、偏狭な — 男性中心・プロ中心・米国流中心の — スポーツ観に毒され過ぎているのかもしれない。カラダを動かす爽快感を純粋に楽しみ、他人との競争よりも自分との戦いを重んじること — アマチュア中心の女子スポーツや障がい者スポーツの盛り上がりは、そんなスポーツの原点を再認識させてくれるように思う。 p.54

ほんとうにそういうことを考えているのだろうか? ふつうの競技スポーツの基本はやはり競争にある。競わないスポーツはスポーツではないような気がする。まあ定義の問題なのだろうか。女子スポーツや障がい者スポーツが盛んになるのは、まあすてきなことなんだろうが、なぜ女性だとか障害者だとかでカテゴリ分けして競うんだろう。やっぱりそういうふうにカテゴリ分けた方が力が接近しておもしろいからなんだろうと思うんだが。

被害者の主張が事実に即しているならば、彼女がそれを強制だと感じる限り、加害者がどう自分勝手な意味づけをしようと、それは不当な性暴力なのである。性暴力を定義するのは被害者の視点である。 p.126

しかしなにが「強制」であるかを明確にするのは非常に難しい。

おそらくこういう場合の「強制」には、脅迫や誘惑や懇願や操作や欺瞞や取引がはいってることになるんだろうが、ふつうの人びとのセックスに”一切の”(こういう広い意味での)強制がはいっていないときってのはどれくらいあるんだろうか。まあ「強制」を狭く解釈すりゃいいのかもしれんが、気になる。これはそのうち関連論文紹介したい。


『その音楽の作者とは誰か』

著作権まわりとか興味があって買ったのだが、難しくて私の頭ではほとんど理解できない。学者というのはむずかしいことを考えるものだ。(博士論文らしいから一般人向けじゃないのだな)

ポピュラー音楽において一つの「作品」であるとはどういうことかってのはおもしろい問題だと思うのだが、けっきょくどういうものが「作品」であるのかがわからなかった。タイプとかトークンとかインスタンスとかメガタイプとか、あるいはバルトやフーコーの議論とか、この本の難しい議論が、なにを作品とみなすかってことについてなにか理解を深めてくれるようなものなのだろうか。

私自身はポピュラー音楽で、楽譜に記譜されるようなもの(コード進行、リフ、リズムパターン、メロディーの断片など)は単なる「アイディア」でしかなくて、「表現」ってのは実際の演奏やレコードに固定された音源そのもの、歌詞カードに固定された歌詞ていどしかないんじゃないかと思うのだが、そういう浅薄な理解ではだめなんだろう。

 

ところでそもそも、こういう研究は従来の書物っていうメディアではうまくいかないような気がするな。実音がないと迫力がない。このひとは楽曲を~~といじった、とかって記述を何十行も読んでもさっぱりおもしろくない。いっそ、CDやDVDで出版したらどうか。あるいはネット使うか。


ななめよみ

ブルマーの社会史―女子体育へのまなざし (青弓社ライブラリー)

ブルマーの社会史―女子体育へのまなざし (青弓社ライブラリー)

ざっと目を通しただけ。特に目新しい情報や切口はなし。私はブルマーファンでもないし。

宅間君、なかなかキテるな。第4章の宅間君の手記を読んで自分が書いたのかと思った。

「人はなぜ人を殺せるか」の答えがわからん。どうも最初から問題があったとしか読めない。

もっと地味な殺人者を研究した方がよいのではないだろうか。

 

社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤ったか

まあ哲学者ももう社会生物学を無視できないのははっきりしていると思う。