伏見憲明先生と若林翼先生

の補足。

ゲイという経験
ゲイという経験

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伏見 憲明
ポット出版
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若林先生の本で気になって見てみた。若林先生が参照しているpp. 82-3は「性の自己決定」というタイトルの小文。

淳一君は、同性愛は趣味やおふざけではなく、生まれつきなのだから、差別されるいわれはない、と主張する。そう言いたい気持ちはよくわかる。だけど、それなら、生まれつきでなかったらどうなるのか。

例えば、レズビアンの中には、「女性に差別意識を持っている男たちとは恋愛はできないから、同性愛を選択した」と語る人たちがいる。性欲よりも対等な関係の方が、そういうレズビアンには大切なのだ。

うん、特に問題はない。「性欲よりも対等な関係の方が」の一文が非常に効いてるように思う。これが事実として正しいのかについては知らないけど、伏見先生がこの問題*1について本当によく考えているのがわかる。

伏見先生自身の立場は、

結局のところ、許されない性というのは、他人に迷惑をかけたり、傷つけたりするもの以外にはない。生まれつきであろうが、選んだものであろうが、それは関係ないのだ。

僕は淳一君に言った。「たとえ同性愛がだてや酔狂だったとしても、それで差別されるのはおかしいんじゃないの?」

これも問題ない。「それは関係ないのだ」がOK。伏見先生は(すくなくともこの本書いているときは)ふつうの性的リバタリアン。安心した。

このタイプの主張を、若林先生のように「同性愛には生物学的基盤がある」という主張に対する批判のようなものとしてとらえるのはだめよ。

まあ若林先生の

「同性愛が人間の意志によってどうにもならないことであると想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだことについては非難可能性が高いということを意味する」

が微妙におかしいんだよなあ。ここらへん説明するのってほんとうにたいへんだなあ。もちろん、私が若林先生を誤読している可能性があるんだけど、非常に微妙。

もうちょっと考えてみる。もし上の若林先生の文章が次のようであれば問題はない。

「ある **動作** が人間の意志によってどうにもならないことである(から、非難するには当たらない)と想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだ **動作** については非難可能性が高いということを意味する」

いや、まあ「非難可能性」がまだあいまいだけど、まあそれは見逃すことにしてね。

しかし、次のようであれば、これは問題ありまくり。

「同性愛が人間の意志によってどうにもならないことである(から、非難するには当たらない)と想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだ **同性愛** については非難可能性が高いということを意味する」

伏見先生ならば、「意志によって自由に選んだ 同性愛については非難可能性が高い」だけでなく、この文全体を否定するんじゃないかと思う。

若林先生のもとの文章は、この二つの文章のどちらに近いのだろうか。こうしてみると、もとの若林先生の文章がかなりねじれてたんだなってことがわかる。(直したやつも実は論理的にはまだ誤謬推理かもしれないんだけど、今回は見ないふりをする。「裏返してみる」ってのがどういうことか、ってことね。)

*1:自己選択的レズビアンの存在の可能性とか、性欲とライフスタイルの違いとか。

『フェミニストの法』続き(おしまい)

メモだけ。今日のはあんまり重箱ではないはず。

法において身体の具体性を考えるとき、具体的な身体を有する者として我々の頭に真っ先に浮かぶのは誰であろうか。女性、障害者、中間的セックスの人びと、性同一障害者、ゲイ・レズビアン、子ども、老人として名付けられた人びとではないだろうか。 (p. 166)

  • 私の発想とはずいぶん違うけど。法学者はそうなのかな。中年男と若くて健康な女性を思いうかべる。これはすでにスケベオヤジだから。
  • 「中間的セックス」。だいじょうぶ?
  • なんかへんな二分法やカテゴリーにとらわれてるのは若林先生じゃないのか?っていう疑問が。

そうした人びと〔ゲイ、レズビアン、中間的セックスの人びと*1〕は自身がヘテロセクシスト的なジェンダー規範を内面化しているがために、自己評価が低く、ともすれば、自己の身体、欲望、活動、人生設計を価値のないものとして捉えてしまうことになるのである。(p.167)

  • ほんとにだいじょうぶ?
  • セクハラ関係で裁判で使われる「合理的な人間」という基準を、「通常人(=男性)」でも「通常の女性」の基準でもなく、ドゥルシラ・コーネル風の「自己と他者の性的な自己想像を尊重する人間の基準」として解釈しよう(pp.169-170)ってのはわからんでもないが、実質的にどういうことかはっきりさせてくれないと。自分と相手の「両方」の性的な自己想像なるもの「平等に」配慮する人はどういう判断をするのよ。そんな基準があるの?それ自体が正しいセックス*2、あるべき性的人間像、正しい性的自己想像のありかたをを人びとに押しつけることにはならないの?
  • p.170下の方。これがふつうのリベラルな理想でなくていったいなんなのかわたしにはわからん。

こうして既にジェンダー化された女性が、自由な人格となるプロセスに従事する条件が与えられることによって、性的な欲望も含めて繰り返し自分自身を解釈し、肯定し、また自己のあり得る姿を想像することができるる。それによって、女性は自尊心を育て、自己の選択にも自身をつけていくだろう。このことは、男性、ゲイ・レズビアン、トランスジェンダー、トランスセクシュアル、中間的セックスの人びとの自己解釈と自己肯定にもつながると思われる。(p.170)

  • たとえばポルノマニア、ロリコン・ペドフィリアの人とか真正サディストの人とか、共依存する人びととかどうよ。ドンファンや風俗マニア、痴漢実存、穿き古しパンツフェチ、女子大生ゴミフェチはどうよ。そういう人びとは繰り返し自己解釈し自己肯定するべきじゃない?*3やっぱり結局危害原則みたいなもので線ひきするんだろうな。でもそういう人びとのことを本当に考えているかな?若林先生の頭に一瞬でも思い浮かんでいるだろうか?
  • 自由な人格。若林先生が思っている「自由」ってだけ?それとも「本当の」自由があるの?積極的自由?消極的自由と福祉リベラルで十分じゃないの?
  • 自尊心重要。でもそんなに若林先生以外の女性は自尊心を奪われてるのかなあ。「本当の」自尊心を奪われてるの?
  • 「「女性の仕事」の価値を正当に評価する」p.171。この表記だいじょうぶ?女性女性ってそういうのが二分法なんじゃないのかいな。ここの節のむすびはこんな感じ。

以上のような想像的な議論から、これまで女性と関連付けられ、賃労働と比べて低い価値評価しか得られなかったケア労働が、重要な基本財として正当に評価され得るのではないだろうか。それによってまた、女性が—そして将来的にはジェンダー、セクシュアリティにかかわりなく人びとが—ケア労働にかかわりつつ、自己の善の構想を「自律的に」追求していくことができるようになるのではないかと思われるのである。(p.181)

  • わかるんだけど、二分法うたがうってのなら、やっぱりこの「女性が」ってのがまず出てくる書き方は不用意すぎるんじゃないのか。まあフェミニズムだからそれでいいんだけど。
  • 「自律的」が引用符でかこまれているのはやっぱり「本当の」自律とそうじゃない自律があるのかもなあ。
  • (若林先生の議論とは直接関係ない自分用メモ。ケアが基本財だってのは当然だし、「ケア」を労働ととらえるってのはわかるんだけど、それって大丈夫なんかなあ。もちろん、「ケア」って呼ばれてるものの物理的な側面が労働になりえるのはわかる。でもたとえば「愛情労働」ってのはありえるのかな。ここらへんは私が「ケア」まわり勉強してないからわかってない。)
  • やっぱり若林先生の本もミル、セン、バトラー、アイリス・ヤング、アーレント、ベンハビブ、ロールズ、ロナルド・ドゥオーキン、マリ・マツダ、コーネル、ナンシー・フレイザー、井上達夫、岡野八代と華々しい名前がどかどか出てきてけっこう肯定的に評価されてるけど、これらの相互に矛盾するように見える考え方をどう整合的な筋にまとめているかってのがわからない。こういう人びとの議論の結論だけが使われていて、その議論の中身を捨象しちゃってるから。これはすごく不満。ヌスバウム*4もこういうのは不満だと思う。

〔多田富雄先生が同性愛にも生物学的基盤があるようだという見解を紹介していることについて〕同性愛が人間の意志によってどうにもならないことであると想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだことについては非難可能性が高いということを意味する。二元的なジェンダー構造にあてはまらない人びとの中には、トランスベスタイト、トランスジェンダー、トランスセクシュアルの人、ホモセクシュアル、バイセクシュアル指向を有する人、相手の身体にではなくジェンダーに性的欲望を抱く人……と様々であり、その中には生物学的な要因が見つからない場合もあれば、自分で選択する場合もあるだろう。(p.16の注)

  • だいじょうぶ?不用意すぎる。この手の話をしようとするにはあまりにもナイーブすぎるんじゃないの?
  • 生物のどんな欲望も生物学的な要因をもっているはずです。そうでないなんて考えられない。
  • だから、上のような「逸脱的」な人びとについて「生物学的な要因が見つからない場合もあるだろう」なんて考えることそれ自体が、若林先生が実はそういうのがなにか説明を要する異常だ(ホモにはなんか「特別な原因」があるはずだ)と考えていることを暴露しちゃってます。だめすぎ。
  • 生活様式や行為についてはたいていの人は自分で選択しているでしょう。
  • 若林先生はなんらかの欲望を意志できますか?ライフスタイルは選択できるとおもいますが、性指向を「選択」できますか?
  • ある物理的動作について、それが「意志」によって選ばれたものであるばあい(そしてそれが人びとに危害を加えるものである場合)非難可能性が高くなるのは当然だと思います。
  • 誤解のないように書いておくと、私は上にあげられてるのはどれも非難に値するものではないと思います。ヘテロセクシュアルな欲望がいくら生物学的な要因にもとづいたとしても、それにしたがって強姦したらそりゃ非難されるべきだとも考えてる。
  • この部分で参照されている伏見憲明先生の本(『ゲイという経験』)は未読だけど、伏見先生はこういう不用意なことは言わないんじゃないかと思う。あとで読んでみよう。
  • 全体を通して、若林先生はもっと性的マイノリティーについて真面目に考えてみるべきなんじゃないかと思う。いまのところ多数派女性のため*5の「フェミニズム」を、もりあげたり修正したりして政治的に正しいものにするための道具に使っている印象を受けちゃって、どうしても厳しい読み方しちゃう*6。これが誤解であるとよいと思う。最近のフェミニズムまわり読むと不快な気分になることが多い。いやもちろん私は常にマジョリティーの一員であることをめざしているので詳しくは知らんのだけど、この本で書いてあるようなものではないんじゃないかという印象はある。よくわからん。
  • あと若林先生が典型なんだけど、法学・政治学関係の人が自然科学的な知見*7の引用に、自然科学者じゃなくて社会学・人文学者参照するのがぜんぜんだめだめ。社会学関係の人はあやしげな一昔前の自然科学を根拠にしてるわけで、それの孫引きみたいな形になっちゃうから。自然科学の発展は人文社会系よりはるかに速いので、そこらの社会学者なんかをその手の話の権威としている場合ではない。もちろん社会学者の知見を導入するのはとてもよいことだけど、直接自然科学の知見もとりいれてほしい。法学者は法学者として法学の伝統をもうちょっと教えてほしい。
  • 正直なところ、フェミニズムにはまたさらにちょっと距離を感じ、それに批判的な立場に近づいてしまった。まあ私凡庸なオヤジだからなあ。

二日前のに対する追記

バトラーのクラスの怪文書事件がなんでこんなに気になるのか考えてみた。あの文章は、ダートマス大学に対する誹謗中傷になってるからなのだ。あれほどなにが起こったかわからない文章にもかかわらず、とりあえず読者にはダートマス大学というのがレイシストやセクシストのスクツであるように見え、学生の質は小学生なみに見え、さらに、大学当局の対応を書かないことで、なにも対応できない無能な当局であるような印象を与える。これやっぱり明らかな不正な行為だろう。

そんな事件が起こったらクラスで真面目なミーティングしなきゃならんし、当局に相談もしてそれなりの対応をとらなきゃならんだろう。シャレですまんよ。ダートマス大学と学生に対する名誉毀損じゃねーの?

これが民主主義に必要な遂行的矛盾とやらなのだろうか?すくなくとも、言論や表現の自由とその規制について真面目に考えている人間がやることではない。

そしてそこを素通りする若林先生も、ほんとうに表現について真面目に考えたのか疑わしくなっちゃう。(いや、考えているとは思うんだけど)

おそらくあそこの記述は、中傷的表現のパロディーになってんのね(ちなみに全体はおそらくデリダとサールとの論争のパロディー)。とにかく国内のジェンダーまわりの研究者はまじめすぎて、そういうのが見えなくなってしまうのかもしれんなあ。パロディーパロディーとか言うんだったらもっと軽く笑わせてくれ。とにかくもっとクリティカルにいってほしい。私も真面目にクリティカルにやりたい。*8

二分法に関するメモ

あんまり否定的なことばっかり書くのはあれだから、読者にちょっとだけ情報提供してみよう*9。(どうも誰でも知ってることだろう、とも思えないので)

諸概念に関する二元的指向は二つの作用を内包しており、それらの作用によって女性は差異化されている。一つは性別化(sexualization)であり、もうひとつは階層化(hierarchization)である。能動/受動、文化/自然、精神/身体、理性/感情、論理/直感、仕事/家庭、公/私などの二項対立的諸概念は、前者が男性、後者が女性に結び付けられるという性別化と、価値的に前者が高く、後者が低いという階層化を同時に伴う*10。(p. 165)

とかまあそういう話。第一章とかでも男性/女性とかっていう二分法はやめたらどうかっていう話が出てきていて、まあそれはそれでわかる。

問題は、それに替えるべき対案としてどういうのを用意するか。90年代のジェンダー論とか、こういう「二分法や二項対立を捨てよう」ってときに、「中間もあるから」とかって話になっちゃうのがだめなんだよな。たとえばそれはセクシュアリティと性自認の関係とか考えるとわかる。

80年代ぐらいまではそういう一元的スペクトルが流行ってたみたいね。片方に女性的なんがあって、片方に男性的なんがあって、それぞれの人はそのどっかに位置すると考えられたりする。しかしこんなナイーブな考え方はもう多くの分野で捨てられていると思う。残ってるのはフェミニズム関係ぐらい。身体にしても性欲にしても、そんなきれいなグラデーションになんかなってないじゃん。ポピュレーションにちゃんと山があってかなり明確に分かれているのは誰だってはっきりわかってるはずだ。そもそも男っぽいとか女っぽいとかってそんな単純が概念じゃないっしょ。性欲とかってのはもっと複雑でしょ。性同一性障害の人とか身体的に半陰陽の人とか、「中間の人」とかじゃないっしょ。それなのに古くさいグラデーションだの中間だのっての言ってるのがもうだめだめ。

私がセクシュアリティとかジェンダーとかについて可能性がありそうだと思っているのは因子分析的多元的理解(これ自体古くさいけど・・・なんかはずかしいなってきた)。性格心理学なんかでもパーソナリティーをいくつかの主要な因子に分解して理解されているはずだし(現在はbig5とか)。

たとえばLoftus et al., Human Sexuality (Peason) *11 っていう性科学の教科書では、ホモセクシュアリティに関しても、キンゼー流の一元的スペクトル的理解(かたっぽにホモがいて、かたっぽに異性愛がいて、その中間にバイセクシュアルがいる)に替えて、異性愛傾向と同性愛傾向の二つの尺度によるマトリックス的な理解が紹介されている。異性愛傾向と同性愛傾向は独立で、両方好きな奴(性の巨人?)もいればどっちにも消極的なやつ(アセクシュアル)がいる。私自身はこれ見たときにはたと膝を打ちたくなった。ほんとは二次元じゃなくて、もっと詳しく見れば他にも「犬好き」「ストッキング」「コップ」とかいろんな次元があるんだろう。性欲は難しい。まあやっとそういうレベルに性科学が進んできたということでもある。

「男らしさ」なんてのは多様な因子のクラスターのようなものにすぎん。「スケベ」とかだって、おっぱい好きとお尻好きとクビレフェチとかもそれぞれ独立かもしれんぞ。レズっ気あんまりなくてもおっぱい好きな女性とかも多いだろう。

こう見ると、以前に逸脱的と思われていた傾向がよりよく理解できるようになるかもしれん。とにかくこういう理解ってのはずいぶん見通しをよくしてくれるのがわかる。「性自認」と「性的指向」もまた分けて考える必要があるし、ここらへん昔ながらのジェンダーもセクシュアリティーもごっちゃにしている理解は時代遅れなわけだ。

まあそういう心理的・社会的な欲求その他を要素に分けてみると、いくつかは伝統的な見解と一致したクラスターをなしている可能性も十分にあるんだろうけどさ。でもいったんこういう分析的な視点を手にいれれば、なんかいいことがいろいろありそうだ。最近とあるブログで話題にされていた「男と女は相互補完的で」とかって馬鹿げた発想のどこが馬鹿げているかもこういう視点を手に入れれば理解しやすくなるんじゃないだろうか。

でまあ「中間が」とかって話を見るたびに、なんかそういう理解自体が二分法/一元的理解やタイポロジーにもとづいているのがわかってしまい、もう古くさくて使えないだろうと言いたくなるわけで。

で何が言いたいかというと、フェミニズムもそろそろ古くさい「二分法は卒業しましょう」とかってスローガンだけじゃなくて、それに影響されて発達しているもっと実質的な研究をとり込んで刷新するべきなんじゃないかなとかそういうこと。若い人にはがんばってほしい。あら、まとまらなかった。まあこの項はただの与太話。

*1:女性も入るのかもしれない。

*2:それはどんなものか。

*3:フェミニストの多くがよくわかってないのは、上に書いたような人びとってのは「男社会」のなかでもなにも肯定されてないってことなんだけど、わかってもらいにくいみたいね。

*4:あ、昨日から敵だったんだ。

*5:あるいはエリート女性のため。上野千鶴子が「ゲイとはいっしょに戦えん」とかっていってたのは、ある意味正直で好感もてないわけではない。

*6:いや、かわいそうなマイノリティをダシにしてはいけません、ってんじゃなくて、もうちょっと調べてみたいものだ、と。うまく説明できない。ただのとおりすがりに言及するだったらとくに気にならないんだけど。なんか表層的な理解のまま重要な論点(あるいは中心的な論点)に使っている場合が多い印象がある。もっともマイノリティを自称する人びと自身が書くものもいろいろ問題があるような気はする。これ難しいやね。

*7:ここでは心理学も自然科学の組に入れましょう。

*8:おそらくアメリカのその手の業界の人びと(学会ホッパー)は学会だのなんだので顔会わせて、いろいろ個人的なこと(たとえば飲み会でなに喋るか、どういう冗談を言うか、誰を連れて二次会から消えるか)とか知ってんだよな。狭い世界だし。それを本や論文とかでは婉曲的な表現でいろいろやってる。国内にいて真面目に本だけ読んでるとそういうのわからず真面目に読んじゃったりして。かっこわるい。後進国。参考文献はデビッド・ロッジの一連の大学ものとか?

*9:稲葉先生からトラックバックいただくといきなり読者が増える。

*10:この若林先生の文章は、「二分法」と「二元論」の区別をちゃんとしていないかもしれない。

*11: ISBN:0205406157 高いよ。でもそれだけの価値がある。

『フェミニストの法』続き

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

昨日書いた部分はけっこう気になっているので、もうちょっと。(下では最初、subversiveを「攪乱的」と訳してたけどやっぱりなんかおかしいので「転覆」に一括置換した。よけいにおかしくなったかもしれない。)

pp. 136-139 でだいたいジュディス・バトラーの立場を共感的に紹介。まあだいたい国内で標準的な理解*1。で、次にヌスバウムの批判の紹介。(1)現実問題の解決に役立たない。(2)規範理論がない。

(1)の方は実践的に重要なんだけど若林先生の反論があんまりおもしろくない(「いろんなやりかたがあっていいでしょ」っていう感じ)ので、とりあえず(2)。

彼女〔ヌスバウム〕の批判の第二点目は、〔ジュディス・〕バトラー理論に規範理論が欠けているということに関してである。ヌスバウムによれば、バトラー理論に規範理論が欠けているために、抑圧的なジェンダー・システムの攪乱が社会的に良いことであり、正義規範の攪乱が社会的に悪いことであるという区別をつけることはできない。バトラーの理論が開放的に見えるのは、読者がそこに、人間の平等と尊厳という規範理論を暗黙のうちに挿入するからである。バトラーが、普遍的な規範的諸観念を、「同一」という記号のもとで植民地化しようとするものとして批判するのに対して、ヌスバウムは、我々は普遍的な規範に謙虚であるべきであり、抑圧されている人びとの経験から学ぼうとしなければならないと主張する。(pp. 140-141)

ヌスバウムの翻訳がないと思うから、該当する箇所を超訳。

私のように、現代のロースクルールでフーコーを教えてみればよい。すると、すぐに、転覆てのもがいろんな形をとりかたをすることがわかるだろう。それらがすべてバトラーやその仲間たちにとって好ましいものというわけではない。リバタリアンの鋭い学生は私にこう言った。「なぜ僕が、こういうアイディアを税制や差別禁止法に反対したり、あるいは民兵になったりするのにするのに使っていけなんでしょうね?」と。彼ほど自由解放が好きではない人びとは、転覆的なパフォーマンスをクラスでのフェミニスト的意見を茶化すのに使うかもしれない。あるいは、レズビアン・ゲイ法学学生団体のポスターを剥ぎとるかもしれない。これらのことは実際に起っている。こういうパフォーマンスは、たしかにパロディー的で転覆的だ。では、なぜ、こういったパフォーマンスが革新的でよいものだ、とはいえないのか?

そう、こういった問題にはよい答がある。しかしそれをフーコーやバトラーに見つけることはないだろう。こういう問いに答えるためには、人間がどういう自由や機会をもつべきであるかを論議する必要があり、社会制度が人間を手段ではなく目的として扱うということはどういうことかを話しあう必要がある。つまり、社会的正義と人間の尊厳についての規範的理論が必要なのだ。我々は自分たち自身の普遍的規範(our universal norms)については謙虚であるべきでありそれゆえ抑圧さている人びとの経験から学ぼうとするべきだと考えることと、規範はなにもいらないと考えることとはまったく違ったことである。フーコーは、バトラーとは違って、少なくとも後期の著作ではこの問題に取りくんでいる様子はある。そして彼が書くものは、社会的抑圧とそれがもたらす危害についての激しい感覚によって活気づけられている。

たとえば、(個人的徳として理解される場合の)「正義」が、バトラー的な分析ではジェンダーの構造をもっていることを考えてみよう。正義は、生得的なものでも「自然的」なものでもない。それは反復的なパフォーマンスによってつくありあげられ(あるいはアリストレスが言うように、それをなすことによって学ばれ)、われわれの性向を形作り、またその一部の抑制を強制する。このような儀礼的パフォーマンスと、それにともなう抑圧は、社会的権力のarrangementによって強要される。それはたとえば、遊び場を独り占めしようとする子どもがすぐに身をもって理解することだ。個人生活だけでなく政治においても、正義のパロディー的転覆はどこにでも存在する*2。しかし、ある重要な違いがある。一般にわれわれはそういった転覆的パフォーマンスを嫌い*3、また、若者たちが正義という規範をそのようなシニカルに見ることは強くdiscourage*4されるべきだと考えている。バトラーは純粋に構造的・手順的な仕方では、なぜジェンダー規範の転覆が社会的によいものである一方、正義規範の転覆が社会的に悪いものであるのかを説明することができない。フーコーがアヤトラ〔ホメイニ師〕を応援したことは記憶しておくべきだ。たしかに、なぜ彼がそうしてならないのか?あれもまたレジスタンスだったのであり、〔フーコーの〕テキストのなかには、あの〔ホメイニの〕闘争が、市民的権利や市民的自由を求める〔ヌスバウムにとってもっと重要な〕闘争ほどの価値はないと教えてくれるものは実際のところなにもないのだ*5

けっきょく、バトラーの政治の観念の中心はからっぽの空き地なのである。この空き地は解放的に見えるかもしれない。なぜなら、読者が暗黙のうちになんらかの人間の平等や尊厳などの規範的理論でその空き地を埋めるからだ。しかしここでまちがいがないように。バトラーにとっては、フーコーにとってと同様、転覆は転覆であり、それは原則的にどんな方向にでも行けるのだ。実際のところ、バトラーの素朴な空っぽの政治は、彼女がこよなく愛している大義causeにとって特別に危険なのだ。というのは、異性愛的ジェンダー規範の抑圧性を明らかにしようという転覆的パフォーマンスに熱心なバトラーのお友達たち一人一人それぞれに対して、1ダースほどもの納税規範に反対し、差別禁止に反対し、同級生に敬意をもつことなどに反対し、それらをあざけり笑おうとする人びとが存在するのだから。そういう人びとに対して、われわれは、「あんたはあんたの好きなようになんにでも抵抗できるわけじゃない」と言わなければならない。というのは、これらのふるまいを悪しきものだとする公正、品位、尊厳といった規範が存在するからである。しかしそうしようとするならば、われわれはそういった規範を明確に表現しなければなない—そしてこれがバトラーが拒否することなのだ。
(http://www.akad.se/Nussbaum.pdf だと9ページ目から。)

うまく訳せないところがけっこうある。ごめんなさい。このヌスバウムの批判についてはまあちょっとアレすぎるかな、とは思うけど、まあ全体としてはそうなんじゃないかとか個人的には思うのだが、どうか。ヌスバウムの文章は骨太で怒りに満ちててかっこいい。

一番上の若林先生の要約がここらへんのうまい要約になっているか、というとちょっと微妙だと思う。「ヌスバウムは、我々は普遍的な規範に謙虚であるべきであり、抑圧されている人びとの経験から学ぼうとしなければならないと主張する。」ここで終るのは微妙におかしいっしょ。あ、それに「普遍的規範に謙虚であるべき」はあきらかに大きな誤読だね。「自分たちが信じてる規範が普遍的だと思いこむのはだめだよ」って言ってるわけで。ぐは。かなり致命的。だいじょうぶかな*6

んで、上のヌスバウムの紹介につづくのが昨日書いたこれ。

確かにバトラーは、規範理論を明示的な形で展開してはいない。しかし、『触発する言葉』において、教育の場における憎悪表現の使用がその種の言葉の使用を煽ることになったというバトラー自身のエピソードは、ヌスバウムが危惧しているところと一致しており、また別の場所でバトラーは、民主主義を擁護することを示している。 (p. 141)

「ヌスバウムが危惧しているところと一致」はアナクロかもしれない。むしろヌスバウムはExcitable Speechの昨日あげた部分を読んだ上で、自分の体験もまじえて批判書いているはず。おそらくヌスバウムは現場の教師として、あの曖昧模糊としたバトラーの記述からなにが起こったのかを十分具体的に推測できたのだろう*7

問題は、「民主主義を擁護することを示している」。ほんとか?

この論点の根拠として示されているのは『触発する言葉』のp. 137とp. 140。

あいかわらずなにが書いてあるのかわからん文章だけど、該当箇所は

自分の発言に他人がどんな意味を与えるか、どんな解釈の衝突が起こりうるのか、解釈の差異をどう裁定すればよいのかをまえもって知ることなどできないゆえに、この種のリスクや被傷性(ヴァルネラビリティ)は、民主主義のプロセスにはそもそもふさわしいものである。(p.137)

上のはハーバーマスの議論をいつものようにごちゃごちゃやっている部分の一部。
ハーバーマスの言い分なのかバトラーの言い分なのか、ハバマスあたってみないとかわからんような
書き方。しんどいので今日はやめ。

行為遂行的な矛盾を発することができるというとは、けっして自己破壊的な試みではなく、逆に行為遂行的な矛盾は、普遍に関する歴史的基準を継続的に定めなおし、練り上げていくためには、必要であり、それこそ民主主義が未来に向かって進展していくときには不可欠である。(p.140)

こっちはとりあえずバトラー自身の主張に見えるが、実質的にどういうことを言っているかはわからん。原文は “In this sense, being able to utter the performative contradiction is hardly a self-defeating enterprise; performative contradiction is crucial to the continuing revision and elabration of historical standard of universality proper to the futural movement of democracy itself.” なんじゃこら。”proper to” がどこにかかるのかわからんなあ。historical standardなのかな。最初の”hardly”も曖昧すぎる。

まあともかく、こんな文脈の参照二つ程度で、ヌスバウムに噛みついて「バトラーは民主主義を擁護している」と言えるのかな。そういってしまいたいのなら、ヌスバウムが指摘している「空き地を自分で埋める」を若林先生がやってしまってないって証拠が欲しいところ。かつ、もしバトラーが民主主義なりなんなりを擁護しているとしたら、そのバトラーの立場が、単なる彼女の好みとかっていう偶然的なものではなく、彼女の理論的枠組のなかでうまくなんかの形で必然的にわれわれに要求されることを示さないとならんことも上のヌスバウムの引用からわかると思う。これは難しい課題に見える*8

だからこれじゃ私は納得しない。

追記思いつきメモ

  • 「正義」という言葉の重さヘビーさを国内の論者はあんまり理解していない可能性がある。ヌスバウムがなぜバトラーに怒るのかってのは「正義」の重さがわからんとわからん。おそらくある種の人びとにとっては、「なにを茶化してもいいけど正義だけは茶化してはいかん」なんだと思う。あるいは、「正義」と「怒り」は密接な関係にある。単なる「公正 fair」だけではない。その重さがわかるかどうか。「善意benevolance」や「慈善charity」とかとは質の違う重さがある。「正義」は人びとの「幸福」だけではなく、人の生き死に、殺しあいにかかわるものだ。もちろん善意や慈善が正義より価値が低いと言いたいのではない。「正義」の血腥さを理解しているかどうか。

別のところに書いたが、

ヌスバウム一問一答

Which living person do you most despise, and why?
あなたがもっとも軽蔑する人はだれですか?

I don’t waste time despising people. Anger is much more constructive than contempt.
わたしは誰かを軽蔑したして時間を潰したくはないわ。怒りの方が軽蔑よりずっと建設的よ。

  • 真面目。ドイツ人であれば Ernst って呼ぶやつ。ヌスバウムはこれこそが重要だと思ってるんだろうけど、現代ではかっこわるいかもしれん。若林先生自身はこの徳をもってると思うんだけど、なんでそういう人がポストモダンなんだろうか。わからん。

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ショック

実は私は今日までヌスバウムの写真とか見たことがなくて、Hiding from Humanityの表紙絵はヌスバウム本人が脱いだんだと思っていた。勇気があるなあ、とか。だから私のなかでのイメージはこれだった。(なんかいろんなものが伝わってくるよい絵だと思う。)
http://books.google.co.jp/books?id=XfSYON-JXHwC&dq=hiding+from+humanity&pg=PP1&ots=04monFW8uV&sig=zUSM4o7Uq3q4MvVlMQ5aUrIiLp0&hl=ja&prev=http://www.google.co.jp/search?q=Hiding+from+Humanity&sourceid=navclient-ff&ie=UTF-8&rlz=1B3GGGL_enJP255JP255&sa=X&oi=print&ct=title&cad=one-book-with-thumbnail

ところが、Wikipdeia見るとこれ。http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Nussbaum_Martha2.jpg

ぐは。パツキンスマートベッピン金持ちエリート正常健康貴族的、つまり無敵。

やられた。うかつだった。そりゃ保守的にもなるだろうよ。アレテーもエウダイモニアも好きだろうよ。バーナード・ウィリアムズもかわいがってくれたろうよ。もうヌスバウム応援するのやめるし。今日から敵。

*1:もちろん私にははっきりとはつかめない形なのだが。

*2:ここの訳特に自信がない。

*3:おそらく英語圏ではバトラーの「転覆的パフォーマンス subversive performance」という表現は、「おふざけのおバカさわぎ」の婉曲な表現と理解されているのだと思う。この理解が正しいのかどうかは難しいが、渋い竹村訳とかではそういうニュアンスはわからんと思う。「クィア」な人びとの一部とカタブツのひとびととの現実生活での断裂がかいま見える。国内の研究者はどの程度そういうのを意識しているのか。特にフェミニストの人びとはどう考えているのか知りたいところ。私はどっちも知らない。

*4:すぐに訳せなかった。こんなのも訳せないなんて!

*5:イラン革命とフーコーの関係については誰かちゃんと解説してほしい。とりあえずここらへんか。

*6:もしこれほんとに誤読してるんならたいへん。私の勘違いであることを祈る。

*7:ここらへんはアメリカで教師をすることの困難さを感じさせる。ヌスバウムの書いていることはわかる。ヌスバウムは大学名を明かさずにだいたいどんなことがあったのか推測させてくれるが、バトラーは大学名学科名は明らかにしたのに何が起こったのかはあきらかにしてない。

*8:それがまったく不可能だとは思わないので、バトラーで行くぞってのなら腕を見せてほしかったと思う。

若林翼先生の『フェミニストの法』読んでみる。

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

気鋭の若手法学研究者*1。私は若手研究者が好き。若い人は覇気があり勉強していてすばらしい。気になったとこだけいつものように重箱の隅。

〔ポルノに反対する〕第二の議論は、ポルノグラフィの撮影において、現実に男性によって女性が暴行され、強姦され、そして時には殺人まで行われる、というものである。 (p.84)

バクシーシ山下やバッキー栗山とかルーシー・ブラックマンさん事件とか実際に起こってるんでまあOKなんだけど、この「ポルノ撮影のために殺す」ってのはなんか誤解をまねくんじゃないかなあ。ブラックマンさんのは殺してついでにビデオとったんじゃないのかな。わからんけどね。まあ闇でなにがあるかわからんけど。この一文についている注がマッキノン。

〔注〕14 女性は、「猟奇ビデオ(snuff film)を創るために実際に殺されている。MacKinnon, Not a Moral Issue ~ 略。(C. マッキノン『フェミニズムと表現の自由』のp.455)

こういうのはちょっと困るんだよな。スナッフフィルムの実在の注にマッキノン使われるのは困る。マッキノン自身がスナッフフィルムの実在を確認したわけじゃないので。これマッキノン読んでない人は、マッキノンの本にはその事実が書いてあるんだろうと思いこむだろう。まああっても不思議はないんだけど、誰も見たことがない、それがスナッフフィルム。

だいたい、その手の興奮を味わうために実際に人を殺してビデオ作る連中がいるとしたら、そりゃ若い女の方があれかもしれないけど男だってあれなんじゃないのかな。だからもしあるとすれば、「殺人ビデオのために人間を殺すやつらもいる」なんじゃないかな。「女が」と強調する必要あるんだろうか。あるか。

アクション映画とかのために死んでる男もけっこういるだろうし。ボクシングやプロレスも危険。そういやタルコフスキーが牛に火をつけて走らせて地域の農民から囲まれて殺されそうになったとかって話もあり。まあここらへんとポルノの話はぜんぜん違うか。すまんすまん。

しかし、『触発する言葉』において、教育の場における憎悪表現の使用がその種の言葉の使用を煽ることになったというバトラー自身のエピソードは、ヌスバウムが危惧しているところと一致しており、また別の場所でバトラーは、民主主義を擁護することを示している。 (p. 141)

さらっと書かれているけど、これも気になる*2。正直なところ、このバトラーのエピソード(Excitable Speechのpp.37-8、『触発する言葉―言語・権力・行為体』だとpp.58-9)記述がぼんやりしていてわけわからんのでずっと気になっている箇所なんだが、若林先生はどう読んだんかな。

そういえば、1995年の夏、ダートマス大学の批評理論学科で、その種の言葉の例を出すことがその言葉の使用を煽ることになるという、やっかいな体験をした。たぶんシラバスに反応したのだろう、ある学生が、その授業を受講しているさまざまな学生に悪意に満ちた手紙を送り、彼らの人種やセクシュアリティについて、「じつは知っているのだぞ」という憶測の文面をよこした。・・・例としてあげたトラウマが、いわば無署名の手紙というトラウマとなって返ってきたのだ。のちに教室の中で、教育的目的のためにこのトラウマがふたたび反復されることになった。しかしトラウマについての言説を刺激したことは、トラウマの改善のためにははたらかなかった。ただし、感情を交えずそういった言葉を吟味していくことは、その発言に付随して(一部の者に)触発される感情の奔流を、若干改善することになりはした。・・・(『触発する言葉―言語・権力・行為体』, p. 58)

わけわからんよな。翻訳もあやしいと思う。「実は知っているのだぞ」のところは “A student, apparently responding to the course content, sent hateful letters to various students in the class, offering “knowing” speculation on their ethnicity and sexuality;”とか。「シラバス」じゃなくてcourse contentだから実際に授業している内容。「知ったかぶった憶測を」じゃないのかな。わからん。。knowingがわざわざ引用符に入っている意味もわからん。「触発される感情の奔流」のところは書名の「触発された~ excitable」に直接関係しているように見えるけど、実は”the rush of excitement”で関係あるのかないのかわからん。

まあなにが起こったのかが(おそらく)意図的に曖昧にされている文章なので、これ訳せなくてもしょうがないと思う。ふつうだったら「これこれこういう内容で」「クラスではこういう話をして」「そしたら学生はこう反応して」ぐらい書くもんだろう。この文章はバトラーから見た思い込みだけが書いてあって、私にはなにも信用すべきところがない。こういう文章は私には読めない。

私の想像では、「攪乱するんだ!」「意図的に誤用するんだ!」とかってみんな言ってるから、「ほんとにおまえらそんなことできんの?」とかって挑戦してみたんじゃないかと思うんだけど*3。(竹村和子先生が考えているであろう)「おまえは実は日本人の男だって知ってるぞ」「おまえ童貞だろ」とかって文面じゃなくて、「ジャップは~だそうだな」「日本の女は~が~なんだってな」とかそういう文面じゃないのかな。わからん。わからん。

だからむしろ若林先生がこのバトラーの文章にあるエピソードが具体的にどういうものだったと考えているのか知りたい。この一文を含んでいるのは、ヌスバウムの非常に厳しい批判に対してバトラーを擁護しようとする論証なのだから(全体をうまく紹介できないけど)、「バトラー自身のエピソード」とかで一行でさらっと済ませる部分ではないと思う。

あとp.145の注で、以前にも書いた角田由紀子先生の『性差別と暴力』の「被害者資格」の話使っていて、これもどうなんだろうな。どう読んでもあの裁判で裁判官たちが原告の貞操観念と証言の信憑性との間に関係があると考えてるとは読めないんだが。でもこれは「それがあんた自身のバイアスやねん」と指摘されたからそうなのだろう。『性差別と暴力』読んだ人は、『判例時報』1562号読んで感想教えてくださいよー。

全体として若林先生がやりたいことはわかる。セクハラだのポルノだのリベラルだの正義だのって話はわかるし、「単純な二分法を疑いましょう」「自律は重要です」「女性の仕事をもっと評価しましょう」とかっていう結論のところとかははっきりしていて共感できる。わからんのは主体だのなんだの持ちだすとこで、その議論が具体的な結論とどう関係があるのかがわかなん。そういう難しいポストモダン理論とか持ちださなくても同じこと言えるんじゃないかというかもっとうまく言えるんじゃないかという気もする。さっさと縁切っちゃえばいいのにとか思うわけだが、そうもいかんのだろうなあ。

*1:『キャプテン翼』とは関係ないと思う。それは大空翼と若林源三だ。

*2:こっちは若林先生がジュディス・バトラー擁護のためにヌスバウム(前に触れた"Professor of Parody"論文)に噛みついるとこなので、必ずしも重箱の隅ではない。でもここの議論全体が難しくてうまく書けない。

*3:ダートマスはお金もちのぼっちゃんとが通うそこそこよい大学のはずなので、言葉教えたら使っちゃった、なんて小学生レベルではないと思うんだが、どうなんだろうか。