牟田先生たちの科研費報告書を読もう (7) おしまい

んでこのシリーズ、実は最初は牟田先生の論文が、われわれの日常的な事実と乖離してるんじゃないか、そしてその規範的主張が勝手なものじゃないか、って書こうとしてたんですよ。実はマッキノンやギデンズのあんまりよくない引用方法を発見してしまったらもうそういうのどうでもよくなっちゃったんですが。

でも最後にその最初の話だけ。

牟田先生は、まともなセックスには同意・合意が必要であると考えます。あたりまえだけど。そして、「同意とは、コミュニケーションによって得られるが、そこにはさらにネゴシエーションも当然含まれてくるはずだ」とおっしゃる。コミュニケーションとネゴシエーションがどういう関係かわからんけど、まあネゴシエーションって交渉ですよね。交渉にはもちろんコミュニケーションが必要、ぐらいか。これもいいっしょ。んで、まともなセックスには「ネゴシエーションと同意の確認の連続がなければならないはずだ」っておっしゃる。これもいいでしょう。まあ交渉したり、セックスをどう進めるのか相談したり、相手の反応を見たり、まあいろいろしながらセックスというのは進むのだと思いますし、そうあるべきでしょう。

牟田先生は、田村公江先生のちょっと変わった論文「性の商品化:性の自己決定とは」(金井淑子編『性/愛の哲学』、岩波書店、2009、収録)を参照しています。牟田先生によれば、田村先生が論じているのは、

性的行為するかどうかの最終決定権は女性が持つ・途中でやめることもできる権利もある・男性は自分の性的快感獲得よりも女性の性的快感獲得を優先すべきである、等の条件が満たされてはじめて、女性は性的行為において男性と対等になれる、と論じる。

ということです。実際に田村先生はこういう驚くべきことを論じているんですわ。田村先生の論文もおもしろいので引用しながら紹介してみたいのですが、もう疲れたのでやめます。

とにかく簡単に言えば、田村先生(そして牟田先生)にとって、なぜセックスの決定権が女性にあり、行為において女性の快感が優先されるかというと、女性は身体的にも精神的にも傷つきやすく、また男性(というかペニス)の協力なしには快感を獲得できないからです! びっくりしますね 1)まあ実は私数年前にこの田村先生の論文を3回生ぐらいに配ってちょっと議論してもらったことがあるのであれなんですけどね。ふつうの女子大生様の意見は「甘えすぎではないのか、女有利すぎないか」ぐらいでした。課題は「グループに分かれて、批判的を思いつくだけ考えよ」だったので、私の意見はあんまり反映されてないはず。 そんなんだったらセックスなんかしなくていいのではないか。

上に続けて、牟田先生はこう書きます。

おそらく多くの人は、このような条件は非現実的と考えることだろうが、しかし問題は、これらの条件が守られそうにないこと以上に、「これまで、満たされないことがあまりにふつうであったため、あからさまな暴力や強制がない限り、うやむやにされても女性はその不平等性に気付かなかった」(田村 2009:191)ことにこそある。現在の私たちは、かつての性の抑圧から多少は解放され、性の自由らしきものを手に入れた。だからこそ、女性たちは、「対等」「自由」と信じて、普通のセックスのなかに厳然とある抑圧を見逃してきた。

つまり、田村先生や牟田先生は、ベッドの上での「対等な」関係は非現実的だ、ベッドの上では女性はいつも、みんな、選択権なし、リードされっぱなし、やられっぱなし、快感も得られません、みたいなもんんだって思ってるんですよ。信じられますか。そんな貧弱なセックスがいまの日本の男女なのですか。さらに牟田先生は、

性的行為にはネゴシエーションが必要、という考え方には、現在ではおそらくは女性を含めて多くの人が「面倒だ」「無理」と、疑問や反発を感じるだろう。

っていうわけです。これ、なんか根拠があるんでしょうか。相談しないでセックスしている人々はどれくらいいるんでしょうか。もちろんうまく交渉できない人もいるでしょうけど、ふつうはいろいろ交渉しながら楽しくセックスしてるんじゃないですか。みんな絶望的なセックスしてるんですか。人々の貧弱なセックスは男性中心的社会の構造とかの結果なんですか。

こうした「男にやさしく大事にしてもらわないと楽しいセックスはできないし、そもそもセックスさせてやってるのだからそういうことを要求できる権利が女性にはある」みたいな貧弱でなさけないセックス観のもとで生きるよりは、この論文集に収めれらている元橋先生が批判する「新自由主義的セクシュアリティ」、つまり、女性もがんばって魅力を磨き、自発的で男を喜ばせ自分も快楽その他を獲得しようとするするセックス、の方がずっといい気がしますが、どうですか。

私の好きなハキム先生っていう人は、交渉っていうのは性的な魅力や技術とともに、若いときから少しずつ修得していくものだ、って言ってます。大人の魅力的な女性にとって、それは男性にやさしくしてもらうんではなく、努力によって獲得するものです。

自分のエロティックキャピタル(性的魅力)を開拓するのに多少なりとも時間を費やしてきた女性は、次第に男性の扱いに自信を持ち、優しくも意地悪くもできるようになる。社交術はより磨かれ、多種多様な状況や人々に対応できるようになる。……性的な経験を積んだ女性たちは、男性に対する従順さが薄れ、積極性が増し、自己主張が強くなり、セックスにおいても人間関係においても「支配する」立場に慣れていく。その結果、男性優位主義の文化が強く残る社会でさえ、女性たちは自信を深め、男性と平等だという意識を持ち、従順さよりも自主性を重んじるようになる。(p.221)

ってことですわ。他の印象的なフレーズはここらへんで紹介しておきました

新自由主義的セクシュアリティは女性のエンパワになるかもしれない。「性の商品化」こそエンパワかもしれないのです。新しい世代のフェミニストは、そこらへん批判的に検討してみてほしいですね。そしてなにより、現実の人々がどんなセックスしたり、いろんな面で支配したりされたりしているのかちゃんと観察してみてほしい。文献あさるのでもいいです。イデオロギーで決めつけるのだけはやめてほしい。

半端になったけど、こんな感じでこのシリーズはおしまい。

References[ + ]

1. まあ実は私数年前にこの田村先生の論文を3回生ぐらいに配ってちょっと議論してもらったことがあるのであれなんですけどね。ふつうの女子大生様の意見は「甘えすぎではないのか、女有利すぎないか」ぐらいでした。課題は「グループに分かれて、批判的を思いつくだけ考えよ」だったので、私の意見はあんまり反映されてないはず。

牟田先生たちの科研報告書を読もう (6) 雑感

しかし誤解のないように書いておくと、私この科研費報告書自体は(そして牟田先生の論文も)高く評価しているわけです。この手のセックスにまつわるいろんな問題っていうのは実は国内ではちゃんと議論されてないので、いろんな立場の意見が検討されるべきで、そうした議論の基盤を提供してくれているのでたいへん価値がある。科研費もらってもらってたいへん助かります。ぜひもっと出してあげてほしい。

っていうか、私が思うに、いまジェンダー/セクシュアリティまわりの研究者が少なすぎるんすわ。みんな同じような話してるし。もっと科研でお金出したげてください。

あと前の記事に質問もらってるんですが、牟田先生たちのあの動画サイトはどうなんだ、っていう件なんですが、まああれに学術的価値はほとんどないですわね。でもなんでああなってしまったのかだいたい想像できたりして、ちょっとつらいところがあります。

想像では(勝手な想像ですよ!)、最初はジェンダー平等のための理論と運動の架け橋をつくりたい、とかかからはじまったと思うんです。んで、その手の運動している人だけじゃなくて、その手の学者研究者系統も、ITすごく苦手な人々多いんですよ。まあ牟田先生たち自身もそんな得意じゃないと思う。だから「ジェンダー平等を目指す研究者とその他みんなのための手引きを作ろう」みたいな発想は自然だったと思うんです。

でも実際にそうしたサイトを作ろうとすると、自分らではやはり知識も技術も足りないからできないわけですわ。だからプロに頼む。でもプロっていうのは技術は提供してくれるけど、知恵はあんまり貸してくれないんすよね。どういうサイトつくりたいか、どういうビデオ作りたいかっていうヴィジョンがはっきりしてないとどんなプロでも助けようがない。でも発注する側もよくわからないから、ああいう中途半端というかなんのためかわからんものができてしまう。システムを発注するっていうのはたいへんなことですよね。あちこちの団体で同じような問題が起こり続けていると思います。

まあ例のあの画像の世界ですね。

まあ場合によって責任者はごめんなさいしないとならんかもしれんのですが、彼女たちのあれがそういうものかどうかは私には判断ができません。

あと、今回気づいたんですが、SNSというかツイッターの特徴として、すごくリツイートとかされるネタがあるんですね。フェミニスト批判みたいなのはかなり好まれるネタで、500人とか1000人とかがリツイートしてしまう。これ炎上しているというか攻撃される側としては世界が襲ってくるように見えるはずで、ツイッタの特性を理解してないと認知歪んで世界について誤解しちゃいますわね。

牟田先生の論文のテーマの一つは「なぜ女は「叩か」れるのか」みたいなのだと思うんですけど、SNSとかで活動しても反応が思い通りにいかないと、本気で蹴られ殴られたりしていると思いこんでしまうかもしれない。実際にはそれって一部の人々のものであっても。

世間の人々をうまく説得するのが学者の仕事かっていうとよくわからないし、「隅々まで説得する」みたいなのもおそらく活動家の仕事ですらない。そんなことは誰にもできないわけだし。ネットと通じた言論活動とか啓蒙とか討論とか、そういうのについてはやはりいろいろ考えておかねばならないなとは思っています。SNSもブログも使いかたをまちがうと本気で健康を損ないます。とにかく健康に悪いことは避けたいものです。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (5)

もう一つあげましょう。牟田先生は、「ギデンズが論じるように、法的な平等が保障されジェンダー平等への道が見えつつあるからこそ、性暴力やジェンダー暴力がいっそう生み出されているとすれば」と言います。この文章に対する注は

ギデンズは、「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ、、、。、、今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」(ギデンズ 1995: 183)と論じている。

です。実はこのギデンズに依拠した牟田先生の文章は前にもブログでつっこんでいるのですが、今回本当にギデンズがこんなこと言ってるのかちょっと調べてみました。

別の論文 1)牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。では牟田先生は、「ジェンダー平等が進展するほど、男性による暴力や支配が起こりやすくなる」と考えているようで、その根拠にギデンズ先生を使ってるわけですね。しかし、男女平等が進むと性暴力が増える、みたいなの信じられますか? 私は信じられない。その逆でしょ。男女不平等なほど性暴力は多いだろうと思う。ギデンズ先生がそんな馬鹿げたことを言ってるとも信じられない。

んでギデンズ先生の『親密性の変容』を見てみると、性暴力を論じているのはまあごく一部ですわね。んで、男女平等になって性暴力が増えてる、みたいなばかげた主張もしていない。

私の読みでは、ギデンズ先生がやってる議論はこうです。男性の女性支配っていうのは、近代までは、男性が女性を「所有」し隔離するという形でおこなわれてました。女性は家庭生活のなかで暴力にさらされることはあっても、家族以外からそういうことを受けることは少なかった、なぜなら隔離されていたから。レイプとかは、戦争とか征服とか略奪とか植民地とかそういうトラブルの時に起こる。(でもそういうトラブルはもちろん多い)でもそうした暴力っていうのは男同士でもふるいあっていて、男性も十分危険な状況で生きていた。

現代社会では、それいぜんよりは比較的暴力が抑制されていて、男性同士の暴力も少なくなって、暴力といえば男女間の暴力、性暴力が注目されるようになった。そこで上の

「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ、、、。、、今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」

の引用文なんすよ。牟田先生が原文確認しているかどうかわからないけど、ここの「大きな意味をもつ」の原文は

It makes more sense in current times than it did previously to suppose that male sexual violence has become a basis of sexual control. (原書p.122)

で、「昔よりは今についての方が、男性の性暴力が性的支配の基盤になった、っていう考えかたが、make more senseする/筋が通ってる/理解できる/もっともらしいですね」ですわ。このブログでも何回か議論したブラウンミラー先生あたりの「レイプは昔から男性が女性を支配する脅しの手段だった」っていうのをむしろ否定してるんですわ。

まあもうすこしギデンス先生を解説しておくと、そのあとは

In other words, a large amount of male sexual violence now stems from insecurity and inadequacy rather than a seamless continuation of patriarchal dominance. Violence is a destructive reaction to the waning of female complicity. (p.122)

これはまあ読みにくいしギデンズ先生がどれくらい自信あって断言しているのかわかりませんが、フェミニストが言うような家父長制のためとかってよりは、男性自信が不安だから性暴力振ってしまうんでしょ、ぐらいね。女性が男性に協力してくれなくなったから、それに破壊的な形で反応してるんでしょう、と。でもそうした性暴力全体が「増えてる」なんてぜんぜん言ってないですからね。

で、ここ見てたらもっと大きな問題を見つけてしまいました。この引用文のすぐあとで、ギデンズ先生は、女性もけっこう男性に対して身体的暴力を振ってるよとか、女性同性愛でも性暴力はけっこう頻繁だよとか、雑誌のセックス悩み相談に手紙を送る男性たちは、女性の性的満足のために自分の問題を解決しようと悩んでるみたいだよとか、売春婦のところに通う人々の多くは(牟田先生が想像している「女性を組み敷く」みたいな能動的なセックスのためではなく)受動的な役柄を演じたいと望んでいるよとか、まあそういうことを紹介しているわけです。これ、牟田先生が、この論文で想像している男性の一方的セックスとか暴力的で凄惨な売買春現場とかとはぜんぜん違ったものです。なぜ自分が引用している箇所の次のページ(翻訳p. 184)でそうした自分に不利な知見が紹介されているのを無視してしまうのですか。

やばい。(おそらくまだ続く)

References[ + ]

1. 牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (4)

上野千鶴子先生が「嘘はつかないけど不利になることは隠す」とか発言しているのが発見されて、ツイッターの学者研究者界隈に動揺が広がってるようですが、まあそういう感じありますよね。特にフェミニズム/ジェンダー論まわりでは目につく。というか、昔からフェミニズムまわりではつらい経験をすることが多かったのですが、「嘘は書かないけど自論の不利になることにも言及しない」ぐらいの原則でやってるのだと思ったら理解しやすいことは多いです。

牟田先生の論文でもそういうところはあって、たとえば去年SNSで話題になった事件について、こういうふうに書くわけです。

日本では、5月に、伊藤詩織さんが、元TBS記者の山口敬之氏からTV局での仕事を紹介するからと酒席に誘われて酔わされた状態で、ホテルに連れ込まれレイプされたことを実名で告発した(伊藤 2017)。山口氏は安倍首相の伝記本を複数著している首相ご用達ジャーナリストであるところから警察権力の介入によって逮捕を免れた疑惑さえある。しかしこの事件はネット上では拡散し詩織さんのサポートの声がひろがったものの、一般のTVや新聞等の大メディアはほとんど報道せず、現在のところ捜査が再開される様子も無い。

この文章には嘘はない、というかまあSNSで知られているそのままが書いてあります。でも、山口氏が合意の上のセックスだと主張していること、東京地検が嫌疑不十分で不起訴処分にしたこと、検察審査会でも不起訴相当と判断されたことは書かれていない。デュープロセスや推定無罪、疑わしきは被告の利益に、という非常に重要な原則についても論文全体を通しても触れられていない。(実は推定無罪という言葉は、この科研費報告書全体でも一度も使われていないようだ。)はたして科研費報告書のようなもののなかで、山口氏の名前を出すのが適切かどうかわたしには判断ができない。

古久保先生の論文でも

続いて若者の性暴力(大学生における性暴力事件)の頻発について、テーマとしている。これが性暴力問題に関する1回目の授業になるが、そこでは性暴力被害者に焦点をあてるというよりも、むしろ二次加害者・傍観者という立場に焦点をあてて授業を進めている。これは、過去の大学でのレイプ事件の際に、加害者の「友人」たちがSNSを使って二次加害行為を行ってしまったという歴史的経緯を踏まえて行っているものであり、信頼している友人が加害者だと訴えられている事実を知ったときの認知的不協和を想像してもらいながら、二次加害の問題性を説明している。この授業を通じて、学生に性暴力が身近なところにあることに気づかせることにもなるが、実際、この段階で感想文のなかでは、「自分の友達」の性暴力被害についての言及が毎年出てくる。

という表現があるのですが、これはおそらく、2009年にあった京都教育大学集団準強姦事件と呼ばれてるやつをモデルにしてますよね。でもあれは、判決文などで知られている範囲ではかなり微妙な事件ですし、二次加害が云々の話もどれだけ古久保先生がデータをもっているのかわかりません。実際の裁判判決等の事情をふつうに書いたらやっぱり古久保先生たちには不利になるだろうと思います。それに、それこそこういうのが、「加害者」とされた人々への伝聞による加害ではないのかと心配になります。この報告書で触れられている他のトラブル・裁判例についてもそうした不安は同様です。

性暴力まわりの裁判とかについては、そうした「嘘は書かないけど自説に不利なことも書かない」みたいなのが一般化しているようで、非常につらいです。「これおかしいな」と思って判決文とりよせたりするとぜんぜん印象の違うことが書いてある、のようなのは頻繁で、フェミニスト学者の先生が出してくる裁判事例は、私はそのままでは信じない習慣がついてしまいました 1)このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

こうした「嘘は書かないけど不利なことは隠す」という態度と、権威の発言や文献を恣意的に使う、というのは密接な関係にあるように思います。こうなってくると、意図的に勝手な使いかたをしているのか、あるいは勘違いその他のためにまちがってしまっているのかわからない場合がある。牟田先生の論文から二つ挙げてみたい。

一つは次の文章です。

セクハラに関する法理を打ち立てたアメリカのフェミニスト法学者キャサリン・マッキノンが「はっきりしているのは、自由に選択したとみなされている「真実の愛」と、頭に突きつけられた銃のようなものを意味する強制とを対立させる硬直した二分法では、女性のセクシャリティがどのように社会的に形づくられているのか、そしてそれが表現される条件――経済的なそれを含めて――がいかなるものであるかと説明するのには十分ではないということである」と述べているように(マッキノン 1999:103)、上司など職業上重要な関係にある相手からの性的なアプローチや性的言動をすぐにはっきりと断るなどきわめて困難であり、対応に曖昧さやためらいがまとわりつくのも当然だ。

牟田先生がマッキノン先生の文章をどう解釈しているのかはよくわからないですが、「セクハラされてるときに女性は簡単には断れないのだ」ということを主張する根拠になると解釈しているようです。

でも実はこれ、もっと広い文脈で見ると、マッキノン先生が主張しているのは「上司と部下のセックスでも、はっきり強制やレイプ(まがい)と言える場合もあるけれども、はっきり合意と言える場合もあるし、さらには、はっきりどちらともいえないような微妙でグレーなケースもあることはやっぱり認めなきゃならないね、でも少なくともはっきりしているやつはアウトだ」っていう文脈なんですわ。

私の読みでは、マッキノン先生は教育や秘書業務とかの現場で、尊敬や業務上のふるまい、あるいは利益なんかと恋愛感情や性欲がごっちゃになってしまうということを指摘した上で、

以上述べたことは、セクシャル・ハラスメントの法的成立条件を明らかにする論点ではなく、法的にはむしろ不利な事例を検討してみることによって、その社会的真実を明らかにすることができる論点である。

って述べてるわけです。マッキノン先生は80年代はかなり強硬で一方的な議論をするようになるのですが、少なくとも70年代はこうして自分たちに不利な事情があることも認めた上で、それでもなおセクハラっていうのはなくすべきだ、はっきりしているのは撲滅すべきだ、と主張しているわけです。牟田先生が使ってるように「マッキノン先生が指摘しているように女性は簡単に断われないのだ」っていう文脈のものではなく、「同意か強制かよくわからないケースもあるんだから、たしかに白とか黒とかはっきりしない場合もありますよ」ってことを言おうとしている流れなのです。まあマッキノン先生のこれは立派な態度だと思いますね。現代のフェミニストの先生たちにもそうしてほしいと強く願います。

(この項続きます)

References[ + ]

1. このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(3)

牟田先生のセックス平等の話をするまえに、もうすこしだけ他の論文に簡単なコメント。

元橋利恵先生の「新自由主義セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」は、二つの話題があって、「女性は自分の性器の呼び名がない」みたいな話と、「最近は女性が競争(新自由主義)のために男向けにいろいろ努力してる」みたいな話をくっつけようとしてるみたい。

まあ性器の呼び名みたいなのは古い話で、ろくでなし子先生みたいな方もいらっしゃるのだから好きにすりゃいいのにと思いますが、まあいいです。そもそも英語圏女性も自分のそれを「ヴァギナ」とは思ってないと思うし、そもそもその部分をヴァギナとか穴とかと見てるのかどうか、はたしてそれが女性の実感なのかどうか私はちょっとわからないところですが、まあいいです。あんまりやるとバレ噺になっちゃうし。

本論の新自由主義的セクシュアリティなるものはけっこうおもしろくて、わたしが今注目しているキャサリン・ハキム先生のエロチックキャピタルをネガティブに見た話ですわね。紹介しているウェンディ・ブラウン先生ってのはずいぶんと左翼ですが、別の見方もありそうなのでがんばってほしいです。

荒木菜穂先生の「日本の草の根フェミニズムにおける「平場の組織論」と女性間の差異の調整」も勉強になりました。まあ組織ってどこでもむずかしくて、とくに女性だけのグループっていろいろ難しいってのは、荒木先生も文献にあげてる西村光子先生の『女たちの共同体』他でいろいろやられているので、ここらへんも研究すすむといいっすなあ。まあ男子としては、「きみら女性はそんな組織化得意じゃないっしょ」みたいなの言いたくなるけど、私も組織とかグループとか苦手だから。ははは。

伊田久美子先生の「イタリアにおけるフェミニズム運動の新たな動向」はすみませんがまだ読んでません。

北村文先生の「国籍/エスニシティ/階層を超える・つなぐフェミニズム」はかなりおもしろくて、個人的にはこの論文集で一番勉強になりました。まあ女っていったっていろいろ対立があるってのを、アジアで女中さんをやとってるマダムvsメイドって形で見てる。でもマダムが一方的な支配者ってことはないよね、みたいな話。男女関係だって男性が一方的に支配者とかってのはなさそうなので、ここらへんの研究もすすんでほしいです。

熱田敬子先生の「日本軍戦時性暴力/性奴隷制問題との出会い方」もまだ読んでないです。

岡野八代先生の「道徳的責任はなにか」はやはり倫理学にかかわりをもつ人間として読まざるをえなくて読んだのですが、従来の「男性的」な倫理学がよくない、っていうのを言うのにウォーカー先生は〜と言ってる、ぐらいしか根拠がなくて、私は不当ないいがかりではないかと思います。ケア倫理と従来の倫理学の関係については、むかし品川哲彦先生の『正義と境を接するもの』の書評もどきをやったときに考えました(ブログも残ってるはず)。まだ岡野先生みたいなやりかたをする人がいるなら、もっとちゃんとした文章書いておかないとならないなと思いました。

まあでも(まだ読んでないのを含めて)どれもまじめで、科研費研究報告としては十分というか立派ですよね。えらいと思います。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(2)

牟田先生の論文のセックスの平等まわりの議論はいろいろおもしろくて、学問として議論したいところがあるのですが、その前にもうひとつどうしても問題を指摘しておきたい論文があります。

古久保さくら先生の「運動と研究の架橋:世代の架橋としての教育の可能性」です。

この論文は大学でジェンダー平等教育をやってらっしゃる古久保先生が、どういう授業実践をしているのかっていうのことと、セックスにおける「自己決定」をどう考えるか、というのの二つがテーマで、これは問題として重要で論文の価値があります。くりかえしますが、私はこの科研費研究の報告書を公開していることはとても高く評価していて、現在の日本のフェミニズムのよいところと悪いところの両方がよくわかると思っています。

性教育はとても重要です。小中高での教育がいろいろ言われるけど、私は大学でも性教育もとても重要だと思ってます。生命倫理学や倫理学・応用倫理学の授業とかでも、いきがかり上、生殖や性暴力についていろいろ説明して理解してもらわなければならないことも多い。でもどういうふうに授業すればいいんだろう?

古久保先生はとにかく女性は犠牲者だっていうのを強調するタイプの授業をしているみたいですね。仁藤夢乃先生の「買われた展」 1)これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。 とか紹介するみたい。仁藤先生は私ちょっとどうかと思ってるんですが、まあそれはいいです。

次はyoutubeのオランダの飾り窓のダンス。これはいかん!私腰ぬかしましたよ。動画は前から知ってましたが、これをそのまんま授業教材やなにかの論拠に使うとは。

これ、詳しい情報が英語ではあんまり出てこないのでよくわからないのですが、犯罪的トラフィッキングの犠牲者が、「このアムステルダムの飾り窓の中にいる!」とか、本当ですか? ただのパフォーマンスじゃないんですか? オランダって本当にそんな野蛮な国なんですか? パフォーマンスと事実の区別がつかなくなってませんか?

んでそういうふうに「売春している(若い)女性は犠牲者だ」って教えこんで、学生様にディスカッションさせるらしい。するとだいたい「許せませーん」とか言ってくれるんだけど、少数の学生様は「それ自分で決めてやってるんだったらええんちゃうか」って言うこともあるみたいですね。これは自然な発想だと思う。強制はいかんが、ちゃんとした年齢でちゃんと考えて自分からやってるなら、セックスワークはかまわんのではないか、という人々はたくさんいますよ。友人にセックスワーカーがいる学生様などは「いやいやではないって言ってました」とか指摘する。

ところが、古久保先生はそれでも売買春は悪いことだ、性差別だ、それを望んでする人はいないって思いこんでるみたいなんですよね。いちばん気になったのは、「性サービス産業に従事する友人をもつ学生も何人もいる」「性サービス産業に従事している若年女性は受講学生の近くにもいるのであるが、本人たちの姿を「納得している」「楽しそう」な姿として理解する」とか書いちゃってるんだけど、先生、先生のクラスには「友人」じゃなくて本人たちもいるでしょう。先生が「売春は被害です、セックスワーカーは犠牲者なのです」みたいな話ばっかりしているから「私もやってますけど」って言えないだけじゃないですか?

応用倫理学とかやってると、中絶とかセクマイとか性暴力とかセクハラとか、性教育まわりはいろんなこと話しなきゃならんわけですが、100人200人の講義してたら(大講義じゃなくても)そういうのをすでに経験しているひとびとが一定数いることは当然のことですよ。なにが「友人」ですか。長年そういう授業していったい何をいってるのですか。私はそういうのは許せませんね。そしてそういうのがフェミニズム教育だかジェンダー教育なのだとしたら、そういうのいらんのではないでしょうか。

まあその後ろの方の紆余曲折した議論はあんまり文句ありません。我々は自己決定が大事です。性産業はかなり難しいサービス業で、みんなが簡単にできるようなものではありません。特に若い人々ができるようなものではないし、いろいろ危険なのでせめて18歳ぐらいで規制しておきましょう。ちゃんとした自己決定ができるようになるために、家庭や教育は大事だし、ちょっとずつ自己決定したり拒否したりする訓練をしていかねばなりません。こんなの、誰だって言ってることじゃないですか。いったいなにをしてるんですか。

最初から性産業は特別な仕事だ、よくない仕事だって思いこんでるから自己決定だけじゃだめだって言いたくなるんではないですか? 危険な仕事はほかにもたくさんあります。そして、多くの場合、人々はいろんな選択を繰り返しながら自己決定を学んでいき、一部の人は危険な仕事をみずから選択する。強制される場合は社会がそれを保護しなければならないし、強制する奴等は罰しなければならない。まあそういうのは私も同意します。

でも古久保先生は、けっきょく、

自らのセクシュアリティを「自然」と位置づけ、性暴力被害の結果すら「自己責任」とみなそうとする学生の意識は、15回の講義を終了してすら変わっていないことがある。まじめに授業と対峙しなかったからなのか、対峙できなかったからなのか、彼らが何に怯え、何に傷ついているから「抵抗」をしているのか、授業の感想からでは理解しきれない部分は大きい。「抵抗」を理解するところから、社会的公正教育の実効性は高まる(……)とされるが、80-100人程度のクラスでそれはなかなかに困難なことではある。

ってな感じで学生様に対する違和感や(自分自身の)抵抗感を表明しておられますが、それって学生の方ではなく先生の問題なんじゃないでしょうか。あまりに自分の価値観を学生様に押しつけようとしてないですか? 学生の反論を「抵抗」呼ばわりして大丈夫なのですか? それに、飾り窓の件のように、おそらく事実じゃないことを事実だと思いこんでませんか? もうすこし学生様たちの言い分を聞いてみてはどうでしょうか。

References[ + ]

1. これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(1)

フェミニストの牟田和恵先生たちの科研費研究の使途がおかしいのではないか、みたいな難癖みないなのが話題になって、それに反応してか先生たちのグループが成果の電子書籍を公開してくれたので、ちょっと読んでみました。公開えらい。

私の印象では、ちゃんとしたグループ研究だと思いますね。立派だ。えらい。一部には「ジェンダー平等のための〜」っていうタイトルなのに、いわゆる慰安婦問題を中心にした研究にしぼられているのはどうなのかという声もあるようなのですが、まあジェンダー平等とかって目標の一部に慰安婦問題の考察が必要不可欠なのだ、みたいな立場だったら許されるのではないか。研究計画とか読んでないからわからんですが、まあそういうのはあんまり関心がない。

んで内容としてもろにセックスの話をあつかってるとわかる章だけ読んでみたんですが、研究として立派だとは思うものの、いろいろ言いたいことは出てきますね。

最初に言いわけしておくと、この論文集はいわゆる朝鮮半島での従軍慰安婦問題ってやつが中心になってて、そっちの方は私詳しくないのでそんなコメントできません。半島で軍が直接女性を狩り出したとかってことはあんまりなさそうだけど、でもいろんな業者に騙されたり売られたりして、とにかく本人の意に反していわゆる「慰安婦」になって/させられていたたひとはかなりいたろう、日本軍が間接的に関与してたことはもちろんあったろう、そして労働環境が劣悪な場合もかなりあったろう、ぐらいの認識です。日本軍は他の地域ではもっと直接的に邪悪なことをしていたとも思ってます。


んでまあ読んでみると、かなりいやな気分になるところがありました。いくつか指摘してみたいと思います。

牟田和恵「なぜ「慰安婦」はこれほどバッシングされるのか:性暴力をめぐる新たな認識をめざして」

牟田先生たちは台北の公娼館跡地を訪問して、昔そこで公娼をしていた白蘭さんという人に話を聞いたようなのですが、彼女はその公娼館にいたころが一番よかった、って言ってるらしいわけです。

幼いころから極貧で親に売られ苦労してきた白蘭さんにとってここで働いていた時代が、することを自分で決めることができ、一日3人も客を取れば十分生活できた、一番いい時期だったからと、公娼館の閉鎖後、食い詰め体を壊した彼女はここで死にたいと瀕死の状態で戻ってきていたのだった。

ということらしい。ところが牟田先生はその部屋を眺めて、

右奥の部屋は、かつて女性たちが客を取っていたままのかたちで保存されているのだが、そこは、セミダブルの寝台が部屋のほとんどを占め、化粧台等が端に置かれている。廊下や隣の部屋との境は薄いベニヤ板のような間仕切りで、しかも天井まで仕切られているわけではなく、上が10センチくらい空いている。ここで一回15分で客たちは「女を買って」いた。

この薄暗い部屋にたたずみながら私は、そこで行われていたのはいったい何だろうかと疑問を抱いていた。それは果たして「セックス」なのか?話し声は筒抜けでプライバシーの無いここでは、娼妓と客のコミュニケーションなど、身振りでのやり取り以外にはほとんどなかったであろう。男がズボンと下着を下ろし、女の上にのしかかり、ペニスを突き刺して擦り、射精するだけで終わるような15分だったであろう。それはどのような15分だったであろう。それはどのような意味でセックスなのだろうか?

といろいろ想像をめぐらせている。まあこれはよくわかります。15分じゃたしかに短かそうですねえ。でもほんとに15分なんだろうか。牟田先生は、上の白蘭さんが、15分で1日3人お客さんとって、計45分で3回セックスすると(楽に)生活できた、と想像しているのだろうか。そんなものなのかな。そこらへん、白蘭さんに聞くことはできなかったのかな。むずかしいですか。むずかしいでしょうな。聞きにくいわね。

でも、私はそういう場所に行ったことがないのでよくわかりませんが、同じような仕組みでやっていたはずの大阪飛田のは、井上理津子先生という方が『さいごの色街 飛田』というルポで描いてるんですね。かなり取材していて、良質なルポだと思います。そこだと、20分か30分が選べて、20分だと1万5千円(当時)とかで、けっこういろいろ話をしたりさまざまな交渉したりするらしいです。もうちょっとリアルな描写もあります。どうも「組み敷く」みたいな形ではない。当時の台湾や朝鮮半島でどうだったかはもちろん知らんけど、それほどちがってたろうか。まあ飛田に限らず、昭和初期からしばらくの遊廓やちょんの間や私娼窟みたいなのがどういうものだったかというのはいろいろ文学作品が残っていて、わりと正確に様子がわかるはずですね。そのころの朝鮮も外国というよりは日本帝国の一部だったわけだからそんな大きくちがってたわけでもないんちゃうかという気もします。なかにはおそらくやっぱり悲惨なやつもあれば、そうでもないのもあるだろうと思う。おもしろいかどうかわからないし、あんまり上品なものでもないし、つらいと思えなくもないけど、*牟田先生が思ってるほどは*悲惨ではないかもしれない。

でもこれは私が気になる問題ではないのです。私が問題にしたいのは、牟田先生がわざわざ現地調査に行って、「ここにいたときがいちばんよかった」とまで言うお姉さんの話を聞いていながら、たんに「それはどのような意味でセックスなのだろうか?」と想像するにとどまっていることですね。

牟田先生は(おそらく)性風俗一般について、「カネを払って「同意」を買っているとはいえ、それはレイプとどう違うのだろうか。」、買春は「幾ばくかの金銭によって同意を擬制しただけのレイプではないのか?」という疑問を持ち、「私たちはそれを長らく、合法・非合法を問わず、「セックスをカネで買う」商行為とみなしてきたが、実はそれは、経済的社会的力関係の下でなければ生じえない性交の強制、すなわちレイプに他ならないのではないか」とおっしゃる。

んじゃ上の白蘭さんはレイプされいた時代が生涯で一番よい時代だったということになる。それでいいのだろうか。さらに気になるのは、その文章につけられた注ですわ。

ここでの記述は、現実のセックスワーカーの方々とその現場について述べているのではなく(実際、上述の通り白蘭さんが、文萌楼で公娼として働いていた時期が自分の人生で最良だったと語っていた事実は重い)、性行為の「同意」についてラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないかという理論的な問題提起であることを断っておく。

これを見たとき、私ほんとにいらいらして禁煙していたタバコ吸ってしまました 1)あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。。実際に人々がおこなっているセックスはどのようなものかと調査したり考えたりするよりも、まず「ラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないか」ってのを優先するというのは、いったいどういうことなのかわたしにはわからないです。なぜ牟田先生はわざわざ取材・調査に応じてくれた白蘭さんの言葉や思いをもっと紹介してくれないのだろう。なぜ白蘭さんという生身の人の生身の経験を踏み台にして、いきなりアメリカの白人インテリのラジカルフェミニストの理論から見た売買春の話にジャンプしてしまうのだろう。

「慰安婦」とか債務奴隷の状態にされた人々のなかにものすごく悲惨な経験をした人々が、かなり多数いるのはまちがいないところだと思うわけですが、だからといって「ラディカルに考える」ために、人々の姿を勝手に想像し押しつけるのははまちがっていると思う。それがフェミニズムとか哲学とか社会学とかだったら、そういう学問はなくてもよいのではないかとさえ思ってしまいました。(続きます)

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1. あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。