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女性の性欲の強さについてモンテーニュ先生語る

皇后メッサリナさんはエッチなことがしたくて夜に道にエッチな格好で立ったりしてやばかった

性欲の男女差で思い出したんですが、私、前にも書いたように、モンテーニュ先生ものすごく好きなんですよ。先生はモテてモテてしょうがなかったようで、まあモテなくても殿様だからエッチなことしまくりですよね。きと。んで、先生は女性の方がエッチが好きだし得意だって言ってる。まあ前のエントリでの性的キャパシティも性的エンジョイメントも男より上。

女性は世間に認められている生活の掟をこばんだとしても、少しも悪いことはない。これは男性が女性の同意なしにきめたものだからである。女性とわれわれとの間に策謀や闘争があるのは自然である。両者のもっとも親密な和合ですら混乱と風雲をはらんでいる。われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝〔ティトゥス・イリウス・プロクルス〕とある皇后〔クラディウス帝の妃メッサリナ〕自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上ことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。

モンテーニュ先生は、女性だって性欲があるんだから好きにセックスしてかまいません、って言ってるわけです。自分の奥様や愛人にもそう言ったかどうかは不明。

 

この性欲ほど激しい欲望はないのに、われわれは女性だけをこれに抵抗させようとする。普通の悪徳としてではなく、忌むべきもの呪うべきものとして、無信仰や親殺し以上のものとして抵抗させようとする。しかも、われわれ男性はこれにふけっても批判も叱責もされないのである。われわれのなかでこれを征服しようと試みた人たちでさえ、いろいろな物質的な手段を用いて、肉体をいためつけ、弱らせ、冷ますことがどんなに困難であるか、いやむしろ不可能であるかを十分に認めている。ところがわれわれは、女性が健康で、逞しく、ぴちぴちして、栄養がよく、同時に節欲的であることを、つまり、同時に熱くて冷たいことを欲する。実際、われわれは、結婚のつとめは女性が燃えるのを抑えることにあると言っているが、そういう考え方では女性をあまり爽快にすることはできない。

この最後のところがいいですね。小中高と体育とかして男子も女子も健康で元気になってほしいって思ってるのに、どういうわけかセックスはしちゃいけません、みたいになってるような気がする。まあ今はそうはなってませんか。

 

成熟した処女はイオニアの踊りを習うことを喜んで、四肢を疲れさせ、子供のうちからみだらな愛を夢みる

これ、(おそらく)ラテン語の詩の一部を先生が引用してるんですが、まあダンスとか習っちゃうとそういうこと考えちゃって危険です、みたいな。はははは。

この、モンテーニュ先生の『エセー』の「ウェルギリウスの詩句について」は猛烈におもしろいのでみんな必ず読みましょう。

 

 

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「性欲が強い」ってどういうことだろう?

ポルノとか痴漢とか常にSNSで話題になっているわけですが、ときどき「男の性欲はそんなに強いのか、それはどういうものか」「女も男と同じくらい性欲を感じている」「だから性犯罪するのは性欲ではなく支配欲なのだ」とかいろんなことがいわれたりします。

たしかに「性欲が強い」とかっていうのは、いったい何を言ってるんですかね。ふつうに考えて、性欲とかってのは内的に感じるものだろうから、他人がどれくらい強い性欲を感じているかっていうのはよくわからない。いま道歩いている中学生とか老人とかがものすごく強い性欲を抱えて悩んでいる、とか考えるとなんかおかしいですね。

ちょっと探してみると、Baumeister, Catanese and Vohs (2001) “Is There a Gender Difference in Strength of Sex Drive?”って論文がけっこう有名らしい。

これ、”Sex Drive”、「性衝動」に男女差があるかってわけで、上のようにわれわれが「性欲が強い」って言ってるときの性欲と完全に一致するかどうかはよくわからんけど、まあこまけーことはいいんだよ。

バウマイスター先生たちによれば、われわれが「性衝動」(あるいは「性欲が強い」っていうとき)について語るときは、最低三つぐらいの意味がある。まず、(1) 性的動機ね。セックスするとへの動機を頻繁に強く持つひとは性衝動が強いと言える。まあこれふつうの意味ですね。

ただ他に、(2) 性的キャパシティ sexual capacity、どれくらいセックスできるか、どれくらいで飽きたり疲れたりしてできなくなる、っていうのもあるぞ、と。おもしろいですね。飽くことなき性欲、1日に5回も10回もなんかするようなひとも性欲強いって言われそう。いわゆる性豪。絶倫。

さらに、(3) 性的享楽 sexual enjoyment、つまり、どれくらいセックスを楽しいと思うか。特に他の活動とくらべてセックスからどれくらい楽しみを得るか。性欲が強い、セックスが好きで好きで、とかってときに、1ヶ月に1回でいいけどそのときはものすごく楽しめる、みたいなひともいて、こういうひとも「自分は性欲が強いなあ」っておもうかもしれませんね。

バウマイスター先生挙げてるのはこの三つだけど、んじゃ「性的刺激に敏感である、反応しやすい」とかってもあるかもしれんな、とか思いますが、まあバウマイスター先生たちがやりたいのは、とりあえず上の(1)の性的動因・動機としての性的衝動、その人の行動につながる動機の男女差についての研究を見てみましょう、ってことです。

まあこういうのは自己評価で「あなたはどれくらい性欲が強いですか、1〜7で答えてください」ってのであんまり信頼できないことになりそうなので、いろんな尺度で検討してみないとならん。

先生たちが見た研究だと

  • 性的なことをどれくらいの頻度で考えるか、性的な空想どれくらいするか、それに自発的に性的に興奮することがどれくらいあるか
  • 自分の生活でどれくらいの頻度でセックスしたいと思うか。
  • セックスパートナーを(同時に、あるいは一定期間で、あるいは生涯で)何人ほしいか、つまり何人とセックスしたいか。
  • どれくらい頻繁にマスターベーションするか。
  • セックスしない生活をどれくらいいやがるか。たとえばある種の宗教者とかセックスしちゃだめだったりできなかったりしますわね。結婚してないとかパートナーがいないとかもセックスできないことが多い。そういう生活をどれだけ避けようとしますか。
  • 生涯のいつ頃から性欲を意識したりマスターベーションやセックスを始めるか。
  • セックスの機会を求めるか回避するか、誘いかけるか断るか。
  • 各種のセックスのバラエティをどれくらい好むか。性欲が強い人はいろんなパターンを試してみるかもしれない。パートナーが脱衣するのを見る、オーラルセックスをする/受ける、アナル刺激、道具を使う、その他まあいろいろあります。
  • セックスするためにどれだけのリソースを費やすか。デート相手におごったり、エロ本を買ったりいくら使いますか、ってことね。もちろん時間や体力その他のリソースも使う。
  • セックスやその表現に対して好意的ですか否定的ですか。性欲強い人は猥談とかエロ本とかカジュアルセックスとか不倫とかそういうのに対して好意的なんじゃないか。
  • 性欲が低い状態あるいはセックスできない状態がどれくらいあるか。性機能障害とか問題なわけですが、そういう状態になりやすいひとは性欲それほど強くないかもしれない。
  • 他にも自己評価とか。

まあいろんな尺度で男女を比較してみて、こりゃあきらかに男性の方がセックスまわりのことを考える回数も時間も長いし、たくさんセックスしたいし、セックスパートナーもいっぱいもちたいし、いっぱいマスターベーションするし、セックスできない生活を避けようとするし、色気づくのも早いし、セックスをもとめて誘いかけるし、いろんなバラエティをためそうとするし、各種リソースを浪費するし、セックスやそのまわりの表現や各種慣行に好意的だし、性的に不活発な期間が短いし、自己評価でもやっぱり性欲強いって答えます、ということです。男ってフケツ!

ちなみに、私のお気に入りのキャサリン・ハキム先生も男性の性行動を社会学的データから研究して、男の方が性欲たくさんもっててセックス不足に悩んでる、って結論してます。2011年なのでバウマイスター先生たちより10年あと。
http://www.catherinehakim.org/wp-content/uploads/2011/06/2015-IntSoc-MaleSexualDeficit.pdf


秋の夜にプラトン先生で眠れない

セックスの哲学史、みたいなのやってるわけですが、プラトンの哲学をテーマにした場合はなにを論じるべきか、とか考えるわけです。テキストはもちろん『饗宴』と『パイドロス』あたりですね。

この二つの作品についての日本の哲学者の先生たちの解説なんかだと、プラトンと愛&セックスの問題を扱う態度は二つあって、ひとつは、セックスや性欲の面をわりと軽めに扱って、「知への愛」とか真・善・美への愛の話なのだ、みたいにやる方法がある。田中美知太郎先生や納富先生なんかそういうお上品な感じかな。もう一つは、同性愛(とそれに対する近現代の社会的偏見)とか生殖とかそっちの話に焦点をあわせてやる方法で、これはたとえば前に紹介した近藤智彦先生とかがやってる感じ。

でもなんか私はもっと俗な読み方、俗な語り方があるような気がしていて、授業ではそれでやらせてもらってます。具体的には前に2本ぐらい記事書いた感じでやるわけです。

いまぼーっと考えていることでは、プラトンから汲み出せるのは、今も昔もかわらぬいくつかのテーマや通念、人間知みたいなものなんじゃないかと。まあ愛やセックスについて素手の「哲学」でなにかすごいものが発見できるというわけではなく、プラトン先生だってまわりの人々や自分の内的な感情を観察して語っているわけで、それが我々とぜんぜん違う、ってのもないだろうとか思ってます。

私が学生様に「プラトン先生はこんなこと考えてたみたいよ」って講義するときのポイントを列挙すると、下のような感じになる。

(1) プラトンにとってエロス/性欲/恋愛は凶悪な暴君で、これをどう評価しどうコントロールするかというのは正しい節制的な生活を送る上で最大の問題のひとつだった。

まあこれは我々のなかのそれが強い人にとってもそうかもしれませんね。

(2) エロスは悪しき困ったものでもありが、またなにか我々にとって有益なものでもある。

エロスは我々を気違いじみた行動に駆り立てることもあれば、よりよいもの、よりよい生活への原動力にもなる。そこで、プラトン先生はよいものとわるいものを分別しようとする。この「よいエロスとだめなエロスがありますよ」ってのはプラトン先生にとって中心的な感じがします。

(3) よいエロス、本来的なエロスはよいもの(善)への欲求である。

まあふつうに考えて、恋心にしても性欲にして、美人イケメンナイスバディといった容姿のよい人々、あるいはやさしいとか勇敢だとかっていう性格的な美徳をもった人々、あるいは頭が良いとか足が速いといった知的・肉体的な美点をもった人々に向かうもので、なにも長所やよいところがない人を好きになるのは難しいですね。ただ、プラトン先生は、おかしな考え方をするひとなので、美人のA子さんを好きなのは、A子さんの「美」を好きなのだ、って考えをすすめてしまう。「美」はA子さんと同じく美人のB子さんももってるので、ちゃんと理性を働かせれば、A子さんとB子さんを同じように愛せるようになるはずだ、そして修行をつめばA子さんとB子さんが共通にもっている「美」そのものを求めるようになるはずだ、みたいに考えちゃう。さらには、身体の美より魂の美の方がえらいのだから、魂の美を求めるはずだ、最後には美そのものをもとめるようになるのだ、みたいになっちゃう。哲学者とは思えないほどひどい論理だけど、まあそうなっちゃう理由もわからんではない。

(4) プラトン先生が気にしていて、批判したかたのは、「美と快楽」と「有用さ」を交換するふつうの人々の付き合い方だった。

これはかなり私のオリジナルな読みだと思うんだけど(そしてそう思うのは私が勉強たりないからなんけど)、古代ギリシアのパイデラステアってのは、スタンバーグ先生がいうところの非対称的な関係なわけですよね。年上の地位やお金や知恵を手に入れたおじさんと、まだなにももってないけど若くてきれいな少年の関係。一方は美少年からサービスされることによって快楽を得て、一方はサービスの対価としてお世話してもらってお金や知恵その他を得る。これってまあ現代でもおじさんと若い女性の間に成立しているというあんまり清くないかもしれない形の交際のパターンですね。でもこれって、あきらかになんか不純なところがある。プラトン先生はそういう欲と損得勘定の人間関係ってのがいやだったんだろなとか。

まあ夜中に目が覚めちゃって、半端なことを書いてしまった。あと

(5) もっもプラトン先生は身体の美の価値は否定できない、というよりやっぱり好きで、特になよなよよりガチムチの方が強くてたくましくてえらいので、男女のあれより男どうしの方がえらいと考えていた。
みたいな話もあるけど、これはまた。
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