牟田先生たちの科研費報告書を読もう(3)

牟田先生のセックス平等の話をするまえに、もうすこしだけ他の論文に簡単なコメント。

元橋利恵先生の「新自由主義セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」は、二つの話題があって、「女性は自分の性器の呼び名がない」みたいな話と、「最近は女性が競争(新自由主義)のために男向けにいろいろ努力してる」みたいな話をくっつけようとしてるみたい。

まあ性器の呼び名みたいなのは古い話で、ろくでなし子先生みたいな方もいらっしゃるのだから好きにすりゃいいのにと思いますが、まあいいです。そもそも英語圏女性も自分のそれを「ヴァギナ」とは思ってないと思うし、そもそもその部分をヴァギナとか穴とかと見てるのかどうか、はたしてそれが女性の実感なのかどうか私はちょっとわからないところですが、まあいいです。あんまりやるとバレ噺になっちゃうし。

本論の新自由主義的セクシュアリティなるものはけっこうおもしろくて、わたしが今注目しているキャサリン・ハキム先生のエロチックキャピタルをネガティブに見た話ですわね。紹介しているウェンディ・ブラウン先生ってのはずいぶんと左翼ですが、別の見方もありそうなのでがんばってほしいです。

荒木菜穂先生の「日本の草の根フェミニズムにおける「平場の組織論」と女性間の差異の調整」も勉強になりました。まあ組織ってどこでもむずかしくて、とくに女性だけのグループっていろいろ難しいってのは、荒木先生も文献にあげてる西村光子先生の『女たちの共同体』他でいろいろやられているので、ここらへんも研究すすむといいっすなあ。まあ男子としては、「きみら女性はそんな組織化得意じゃないっしょ」みたいなの言いたくなるけど、私も組織とかグループとか苦手だから。ははは。

伊田久美子先生の「イタリアにおけるフェミニズム運動の新たな動向」はすみませんがまだ読んでません。

北村文先生の「国籍/エスニシティ/階層を超える・つなぐフェミニズム」はかなりおもしろくて、個人的にはこの論文集で一番勉強になりました。まあ女っていったっていろいろ対立があるってのを、アジアで女中さんをやとってるマダムvsメイドって形で見てる。でもマダムが一方的な支配者ってことはないよね、みたいな話。男女関係だって男性が一方的に支配者とかってのはなさそうなので、ここらへんの研究もすすんでほしいです。

熱田敬子先生の「日本軍戦時性暴力/性奴隷制問題との出会い方」もまだ読んでないです。

岡野八代先生の「道徳的責任はなにか」はやはり倫理学にかかわりをもつ人間として読まざるをえなくて読んだのですが、従来の「男性的」な倫理学がよくない、っていうのを言うのにウォーカー先生は〜と言ってる、ぐらいしか根拠がなくて、私は不当ないいがかりではないかと思います。ケア倫理と従来の倫理学の関係については、むかし品川哲彦先生の『正義と境を接するもの』の書評もどきをやったときに考えました(ブログも残ってるはず)。まだ岡野先生みたいなやりかたをする人がいるなら、もっとちゃんとした文章書いておかないとならないなと思いました。

まあでも(まだ読んでないのを含めて)どれもまじめで、科研費研究報告としては十分というか立派ですよね。えらいと思います。

品川哲彦『倫理学の話』書評

(『週刊読書人』第3124号 2016年1月22日掲載の草稿)

倫理学の話

倫理学の話

posted with amazlet at 16.02.21
品川 哲彦
ナカニシヤ出版
売り上げランキング: 209,026

本書は、読みやすい倫理学概論および学説史である。叙述は歴史的順序には従わず、著者独自の観点からの配列となっているが、しっかりした索引、注および相互参照が付記されているため、事典的に読むことも可能である。

全体の四分の三は、近年の英語圏の標準的なテキストで頻繁に扱われている諸倫理学説の紹介と検討である。第一部でまず、倫理学は、他人を教導しようとする「倫理」ではなく、むしろ自分自身の倫理観を反省する哲学であるとする筆者の立場が明確にされる。第二部では倫理の基礎づけとして、倫理を自己利益にもとづいて説明しようとするプラトンとホッブズ、人々との共感を重視するヒューム、理性にもとづいた義務と尊厳を説くカント、社会全体の幸福の促進を目指す功利主義者たちの理論が説明される。第三部は、特に「正義」をめぐって、ロックの社会契約説、ロールズのリベラリズム、ノージックのリバタリアニズム、サンデルらの共同体主義およびその源流としてのアリストテレスとヘーゲルがとりあげられる。

紹介と解説は総じて平明であり、どの章でも初学者が疑問を感じやすい箇所、誤解しやすい箇所に対して相当の配慮がなされていることは特筆に値する。たとえば、功利主義の考え方を論じる上で、「功利主義は多数の人々の幸福のためならば、少数の罪のない人を殺すことを認めてしまう」といった安直な批判に対しては、ヘアの「道徳的思考のレベル」の区別を紹介し、そうした批判は安直な思考実験と道徳的な直観にもとづいたものであって、現代のエレガントな形の功利主義に対しては十分な批判にはならないという考え方を紹介している。こうした細心な叙述は随所に見られ、基本的学説の正確な理解を必要としている読者に有用なはずである。

「正義」に関する議論の後半部分では、ケアの倫理、ヨナスの責任論、レオポルドの土地倫理、レヴィナスの他者論やデリダの正義の脱構築といった、伝統的な正義論の枠組み自体を疑い問いなおそうとする思想の概略とその魅力が紹介されており、これが本書の特徴的な部分となっている。もちろん、こうした思想群にはわかりにくい部分がある。たとえば、ギリガンらによる「ケアの倫理」は、男女の心理学的な発達に関する事実的主張にすぎないのか、あるいはそれを越えて規範的主張としての説得力を持つのか、ヨナスらが主張する「将来世代に対する責任」の根拠は何か、レヴィナスの言う「他者の無条件な歓待」はどのような内容をもつのか、デリダによって脱構築された「正義」観念は我々の道徳的生活にどのような関係をもつのか等々、読者は多くの疑問を抱くことになるだろう。

しかし、こうした思想を紹介することで「正義」を問いなおそうとする著者の試みは理解できないものではない。我々は往々にして、自分のふるまいや考え方は正しく、自分たちは正義にかなっていると思いこみがちである。歴史的に見てこうした思いこみは、「我々」と見なされる人々以外の存在者に対する政治的抑圧や暴力につなってしまう。アカデミックな倫理学研究でさえ、独善的な取組みをすればそうした側面をもちえる。筆者が「正義」についての標準的とされる倫理学説の検討にとどまらず、上述のような思想家たちの紹介によって「正義とは異なる基礎」や「正義概念の脱構築」の可能性を探るのは、そうした政治的意識の反映でもある。

「あと書き」では、ユダヤ人芸術家メナシェ・カディシュマンのインスタレーションが発する「ノイズ」を聞き「自分は苦しんでいる人々の呼び声もあたかもたんなるノイズのように聞き流してしまっているのではないか?」と自問する筆者の姿が描かれる。多彩な倫理学的な立場それぞれの見解に耳を傾けつつ「じっくり考えなくてはならない問題」について誠実に「ゆっくり話す」という手法は、倫理学という営みへ誘いとして適切な方法であることはまちがいがない。

ブックガイド:倫理学入門の読書順

サンデル先生がテレビで放映されたり児玉聡先生の『功利主義入門』が出たりして(英米系の)倫理学が人気なようです。入門書を読んでいくおすすめの順番を考えたり。

功利主義入門―はじめての倫理学 (ちくま新書)
児玉 聡
筑摩書房
売り上げランキング: 11,458

まあやっぱりここらへんから。非常にクリアなのでどんな人でも読めるはずです。

プレップ倫理学 (プレップシリーズ)
柘植 尚則
弘文堂
売り上げランキング: 322,057

これは超初歩。クセがなくていいけど、ちょっと教科書っぽすぎるかもしれない。

2015年に出た品川哲彦先生の『倫理学の話』もここらへんで読みたい。大陸系の考え方も検討しているのがポイントです。

倫理学の話

倫理学の話

posted with amazlet at 16.02.21
品川 哲彦
ナカニシヤ出版
売り上げランキング: 209,026

まあでもやっぱり英語圏のやつをちゃんと読みたい。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マイケル サンデル
早川書房
売り上げランキング: 1,748

最初の方だけ読んでわかったつもりにならないで、最後まで読みましょう。ネットで「トロリー問題で議論するサンデルは〜」って言ってるひとたちは最初の方しか読んでないみたいです。サンデル先生自身の立場はうしろの方に出てくる。

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで
ジェームズ レイチェルズ
晃洋書房
売り上げランキング: 214,525

いま国内で出ているなかで、一番標準的な倫理学の教科書として使えるのはこれです。

法哲学

法哲学

posted with amazlet at 16.02.21
瀧川 裕英 宇佐美 誠 大屋 雄裕
有斐閣
売り上げランキング: 116,507

『法哲学』ってことになってるけど、倫理学と共通の部分も多いし、権利や自由などの面倒な概念についてわかりやすい説明があるのでおすすめ。

動物からの倫理学入門

動物からの倫理学入門

posted with amazlet at 16.02.21
伊勢田哲治
名古屋大学出版会
売り上げランキング: 237,511

伊勢田先生のこの本も入門書としてとてもよい。肉食とか菜食主義とかそういうのからはじまって具体的な問題を通して進んでいくので実感しやすいはず。

新版 現代政治理論

新版 現代政治理論

posted with amazlet at 16.02.21
W. キムリッカ
日本経済評論社
売り上げランキング: 38,464

これはほぼ専門書というか、この本読みおえたら倫理学入門はおしまいです。「倫理学」の授業のテストでは必ずAをもらえるでしょう。

私個人としては、本当は倫理学ってのは、上にあげたような「正しさ」「正義」「権利」なんかだけじゃなく、もっと個人的な幸福、よい生き方、それにさまざまな道徳的・非道徳的感情を扱うもんだと思うけど(そこに政治哲学や法哲学との考察対象の違いがある)、そっち方面でよい入門書は今のところあんまりおもいつかない。

品川先生その後

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm 。
(もとのレジュメは )

いつもながらとても誠実なリプライ。
私のへんな文章なんか読んでないで、ぜひ先生の本を買ってください。 アマゾンから買っても私には一銭も入らないので安心。皆様の支出がそのまんま哲学出版と研究*1を支えます。

ちなみにその数日前に行なわれた別の研究会での
野崎泰伸さんのコメントは http://www.arsvi.com/2000/0807ny.htm
品川先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentYN.htm 。

品川先生のリプライの最後のところにちょっとだけコメントすると、

私自身はこの手の議論をWeb上で展開するのは、あやうさも感じています。どうも、Web上でひろったジョーホーや、研究会や学会で聞いた耳学問だけで、あれやこれやと判断するひとが増えているように思えるからです。この手のやりとりが、問題となっているテクスト(この場合は拙著ですが)を読まないひと、読んでもわからないひとに利用されることがあるだろうことは、こういうかたちで公開する以上はやむをえないとはいえ、おそろしい気がいたします。

私自身はやっぱりそういう情報はwebでもどんどん流すべきだと思います。国内では
学者や教員が何に興味をもってどんなことをやっているのかもっと公開するべきだし、
もっと人文系の学者もお互いの本を読みあうべきだし、 もっと書評文化が発展するべきだと思っています。そうやってこそ、耳学問であれやこれやな連中を排除することができるんだし、人文系のガクモンのおもしろさや難しさを味わってもらえるんだと思います*2

*1:はてなとアマゾンも支えてしまうけど。

*2:ついでにそういう読んでないのに偉そうなこと言う人間も適切に抽出できるっしょ。そういうのが恥ずかしいとわかってるひとは先生の本買うから大丈夫。読んでもわかんない奴はもとからほっとくしかない。

品川先生:時間ぎれ

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

コメントのレジュメ。

追記(7/30)

もっと共感的に読むべきだったのははっきりしてます。っていうかそういうの私はunderstandingじゃなくてダメダメ。でもあんまりunderstandingなのも哲学としてはどうなんかなという感じがあってね。でもそりゃだめだ。徳が足らんです。

個人的にはおかげでヒューム先生の偉大さを思いしったのが最大の収穫でした。Annette Baierも読もう。あとノディングスはちょっと詳しく検討して批判する必要があるかもしれない(訳文を含めて)。

なんか品川先生が風評被害を受けているんじゃないかという声もあり。いや、よい本なんでみなさんぜひ買ってください。哲学者が自分を掘り下げ、自分でなんか新しいことをやろうとしている雰囲気がよいです。この手の話はこの本読んでからじゃないとダメよ、ぐらいに売れてほしいなあ。

追記(8/2)

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm です。

ノディングス先生名言集

ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の観点から
ネル ノディングズ
晃洋書房
売り上げランキング: 91,176

なんか翻訳大丈夫なんだろうか。わたしが持ってるのは第4刷。3刷で訳直したみたい。

翻訳の問題だけじゃなくて、論述上の問題をかかかえた本に見える。アマゾンで「原典そのものが難解」と評しているひとがいるけど、難解というよりは思考が混乱しているし、かなりふつうのひとが反発を感じそうなことを婉曲的な表現で述べていると思う。これはちょっとのれない。(私はギリガンは非常にまともだと思っているが、ノディングスは有害かもしれないと思いはじめている。)

合州国では、正義の名の下に、学校が人権的(ママ)に隔離されるべきではないことを決めています。人種差別廃止のために、法的な命令によって、人種的な居住区別の学校が廃校にされる場合もあります。転校させられた生徒の両親は、以前の学校では活発であったのに、新しい環境の下では自分がよそ者のように感じられ、その結果、少数民族は、白人の子どもたちを見習うために、いっしょにいる必要があるのだという、誤った考え方にとらわれ続けています。たしかに、かなりの数の人びとが貧困にあえぎ、物資や人間としての尊厳を奪われているというのは、不公正です。しかし、不正義のおもてに表れた兆候を取り除くために作られた、一つの尺度を推奨する前に、ケアリングならば、こう問うでしょう。もしわたしたちがこれをすれば、コミュニティーはどうなるのかしら、家族は、子どもたちはどうなるのかしら、と。(序文p. iii)

微妙な書き方だな。人種分離政策とっといた方がいいってことだろうか?なんかヤバい匂いがする。

ケアするひとであり続けるためには、わたしは殺さねばならないこともありうる。眠っている夫を殺す女性の事例について考察しよう。たいていの状況のともでは、ケアするひとは、そのような行為は誤りだと判断するであろう。それは、夫をケアするというまさしくその可能性を犯している。しかし、夫がどのように妻と子どもを虐待したのかを聞き、その女性が体験してきた恐怖と、その問題を適法的に解決しようとした過去の努力について聞くとき、ケアするひとは自分の判断を修正する。陪審は、酌量されるべき自己防衛という理由でその女性が無罪だと評決する。ケアするひとはその女性を倫理的だと理解するが、それはひどく縮小された倫理的理想に導かれてのことである。その女性は、自分自身と子どもたちを守るためには仕方がないと考えた唯一の方法で行動したのである。したがって、その女性は、自分自身をケアするひととみなすという理想像のなりゆきに則って行動したのである。しかし、なんとひどい理想像であろうか。その女性は、一度殺人を犯したが、再び殺人を侵さないはずのひとなのであって、もはや、たんに殺人を侵さないはずのひとではない。究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある。行為者は、貪欲さや、残忍さや、個人的な関心から、落としめられた理想像を選んだのか、あるいは、ケアを維持するのを不可能にするような、良心の欠けた他人によってその理想像へと駆られたのか。(p.160)

なに言いたいのかわからん。うしろpp.178-179あたりを見ると、「子どもと自分を守るために旦那殺したんだったらやむをえない」と言いたいように見えるけど、これが正義の原理じゃなくてなんなんだろう?

クラスでただひとりの黒人学生が、人権侵害や非人道的行為が黒人に対して平然と行なわれている様を、また、かれの絶望感が次第に大きくなっていく様を雄弁に語った。そして、かれは「バリケードに行くつもりだ」と語った。その学生には、あきらかに、人びとの彼に対する扱いを非難し、事態の改善を要求する権利があった。それなのに、バリケードや銃や暴力にいきつかねばならないのか。おそらく、そうなのだろう。・・・ああ、(人種差別主義者の)伯母も父も間違っている。でも、わたしには親切にしてくれた。・・・あなたにもお判りのように、わたしは、バリケードまで行くなら、こちら側にいるに違いないし、また、父やフィービー伯母さんのそばに立っているだろう。わたしは、ジムたちを罵るだろう。バリケードを撤去しようとするだろう。平和をもたらそうとするだろう。・・・では、そのとき、ジムに、まったく「正しい」黒人の青年に何をするだろうか。ジムが視界に入ったなら、とAさんは言う。それがジムだと気づけば、何か別の目標に眼を移すであろうと。(pp. 171-172)

なんかすごいな。バリストするような黒人は物理的暴力を使う悪い人!排除しなきゃ!なんじゃないの?おそろしいよ。ジムから眼をそらして罵りつづけるのね。

暴力が突然、予期せず行使されたとしよう。いま愛されていてケアされているひとが、暴力というこのひどい行いに関与する、あるいは関与しようとするのである。わかりました。Aさんは言うだろう。あなたは、わたしをそこまで追いつめるのですね。わたしは、たとえなにが起ころうと、悪いことには協力するつもりはありません。わたしは、こうしたケアリングに対する侵犯行為に対してならば、ジム(抗議活動をしている正しい黒人青年)を守ったでしょう。しかし、もう一度言いますが、わたしのケアされるひとならばそんなことをするはずがありません。

パパがジムを殺したなんてあるはずがないわ。なにかのまちがいよ。どうしてもしょうがなかったのよ、きっとジムが最初に銃をもちだしたんだわ。暴力じゃないわ、事故よ。ただ威嚇するつもりだったにの弾が出ちゃったのよ。なのかなあ。いや、意地悪く読みはじめるとここらへんキリないよ?こわすぎる。

自分の愛する人びとは「そんなことをするはずがない」と彼女が断言するとき、その断言は信頼の表明である。そしてここにある信頼感は関係性にもとづいている。・・・それは、関係性のうちで過ごされた年数という証拠により跡づけられ基礎づけられた主張である。一定の証拠に基づいて唱えられたこのような主張は、主張者が話題になっている人びとを知っているという状態を要求する。さらに、その主張は、他者のうちでケアが維持され続け、また完全に出来上がっているという状態を要求する。(p.175)

どういうことだろうな。誰か解説してほしい。ノディングの名前を論文にあげる人びとはノディングスほんとに読んでるんだろうか?

わたしたちはどんなひとでも愛せるわけではない。どんなひとでも十分にケアできるわけではない。またケアするためにどんなひとでも愛する必要はない。わたしは「心をかけないケア(care-about)を無視してきたし、またそれでもよいと信じている。それは行おうと思えば、非常にたやすく行える。わたしは、飢えたカンボジアの子供たちを「心をかけないでケア」できるし、5ドルを飢餓救援基金に送れるし、いくぶんかの同情も感じられる。しかし、わたしの送金が、食料費に使われるのか、あるいは、銃の購入に使われるのか、それとも、政治家がキャデラックの新車を購入するために使われるのか、十分にはわからない。上のようなわたしの行為は、ケアにとってのできの悪い又従兄弟である。「心をかけないケア」はつねにある一定の思いやりおある無視を含んでいる。わたしたちは、まさにそこまでは思いやり深くいられる。ちょうどそれくらいの熱中に同意する。承認し、肯定する。5ドルの貢献を行い、それに続けて他の事柄を行う。(p.175)

どういうことなんかね。これも解釈が必要に見えるな。カンボジアの子供たちのために5ドル使うのはあんまり意味がないってことかな。せめてどこの募金団体がそのお金をどう使っているか調べてもよさそうだけどな。

もはやケアれないひとが、後退したそのひとに暴力を働き、脅威を増し、悪意ある取り組みを続けるなら、そのひとは、さらにひどい虐待を阻止するために行動しても正当化される。もちろん、さらにひどい虐待を阻止する行動も、ケアリングの倫理に導かれなくてはならない。がまんできないほどしつこいセールスマンであっても、かれを撃ち殺してしまったなら、あきらかにわたしたちは正当化されない。(p.180)

わたしもそう思います。さっき梅田に超高層駅ビルができるので、とか
電話してきた人がいるんですが、撃ち殺すのはやめておきます。ケアリング。

多くの女性は勝ち負けを争うゲームを避ける。・・・創意に富み、予知できず、空想をかきたてて始まる事柄が、 とにとして、規則に縛られ、技量にこだわり、ひどく深刻なもの*1になる。Aさんを不安にさせるのは、ほとんどすべてこの深刻さである。というのは、深刻さがあるから、彼女は、これは試行ではあるが、自分の夫もこんな仕方で人生を理解しているかもしれないという不安を抱くからである。Aさんは試してみる。彼女は自分の家族とフットボールをするが、そのとき反則をする。対戦相手にしがみついたり、くすぐったりする。こぼれたボールを拾ってタッチダウンする。ときには、フィールドから走り出て、自分のチームが勝って、それでおしまいと主張する。彼女は、ともかくプレイするなら、楽しさが残らなければならないと強く主張する。(p.186)。

女はルールにしたがってスポーツすることができないどころか、ゲームを壊し、真剣さや楽しみそのものを壊してしまう。っていうかこういうのは他の女性たちに対する侮辱なんじゃないのか?大丈夫なの?次のページp.186のスポーツ参加の話にも注意。わけわからん。

わたしは、ネズミとの関係を確立しなかったし、いつまでも確立しそうもない。ネズミは、わたしに呼びかけない。ネズミは、期待通りには、わたしの家の戸口には現れない。ネズミは、わたしの方に首を伸ばしもしなければ、自らの欲求を鳴いて知らせもしない。ネズミは、ひとを避けることを覚えていて、すばやく走り過ぎていくだけである。さらに、わたしには、ネズミをケアする覚悟ができていない。ネズミに対しては、どのような関係があろうとも感じない。ネズミを苦しめようとは思わないし、そうしたわけで、ネズミに毒をもるのをためらうけれども、機会が生じたら、ネズミを、きれいに駆除してしまおうと思う。(p. 242)

アザラシの赤ん坊の虐殺は、嫌悪感を催すが、ウツボの虐殺は、単なる安堵をもたらす。倫理性に関して心情の果たす役割を認識する際に、感傷的だと非難されるべきではない。(p.245)

これが人間に適用されるとどうなるかと考えただけで恐い。このひとが思ったときに戸口にあらわれないホームレスの人とかどうなるんだろうなあ。

野放しの「ケアの倫理」は「正義の倫理」によって矯正されなければ超保守思想に結びつくかもしれない。実際にノディングスはそう見える。

教育の第一目標として、ケアリングの維持、向上を指し示す際に、わたしは、優先事項に注意を喚起している。もちろん、知的な目標や美的な目標を捨て去るつもりはないけどれど、次の点を提案したいのである。すなわち、知的な課題や美的な評価は、その遂行が倫理的な理想を危うくするとしたら—永続的にではなく、一時的にではあるが—意図的に度外視されるべきである、と。(pp. 268-269)

もちろん倫理的な理想ってのはケアリング関係の維持だろう。これがどれくらい恐しい主張であるか、読者は注意するべきだと思う。

わたしが提案しているところを述べれば、こうである。すなわち、生徒が主題に対して、つらさや無関心を示すときはいつでも、教育者は、引き下がらねばならない。(p. 269)

これは一理あるかもしれんが「いつでも」は絶対にだめ。「関心をひきだす工夫をしましょう」だろうよ。

たえず、学校にかかわる人びとは、「批判的思考」「批判的読解」「批判的推論」といった目標について語っている。わたしたにの批判的技能や、それを発達させるための練習が「P」とか「Q」とか、「PはQを含意する」とかという表現に縛りつけられている限り、学校は、自らの姿を把握していない。巨大な裸の王様の外観を呈すであろう。曇りのない眼で、行いを見る必要がある。対話の目的は、観念と触れ合い、他のひとを理解し、他のひとに出会い、ケアを行う点にある。

クリシン教育には懐疑的なのね。まあ発達段階によるけどね。でもまともな批判的思考を身につけたら、ノディグス先生の言うこと聞いてくれなくなる可能性があるからじゃないの?

いいですか、本気ですが、わたしはこの本、ジョークじゃなくて本当に恐いです。無批判に(読まずに?)称賛している国内の人も恐いです。

枝葉にこだわりすぎかなあ。でも単なる枝葉じゃないような気がする。

雑感

ヨナスは品川先生が話題にしていること以外にもいろんなことを言ってるわけだが、もう調べる時間がない。

昨日の合評会のレジュメほしいなあ。

盛永審一郎先生はヨナスの受容でも大きな働きをしている。少なくとも1993年にはその重要性を指摘しているわけだ。 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001524258/ すでに品川先生の問題意識を先取りしている。

人間は種として存続可能なのだろうか。人間には動物が持っている「本能的社会」というものがないらしい(注)。それならば、いかにして人間は、種のことを、他人のことを考慮にいれた行為をすることが可能だろうか。(p.25)

注についてるのは日高敏隆先生『動物にとって社会とは何か』1977。まだ日高先生が社会生物学に屈服する前(ローレンツとかの紹介いっしょうけんめいやってたころ?)だね。

CiNiiだと1988年の角田幸彦先生が一番古いのかな。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003633151/

おそらくアネット・ベイヤーなんかはヒュームを正しく理解し援用しているんだな。

もう新しい文献読むのやめなきゃ。

あら?オーキンもってるぞ!まあ読む時間はない。

*1:まだ原書届かないけどseriousかなあ。