タグ別アーカイブ: パーソン論

パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。

パーソン論の基本は、「もしあなたたちがある存在者をパーソンとして特別扱いにするのならばその基準とその根拠を出せ」なわけです(くりかえすのがあんまり苦にならなくなってきました)。これだけでは序列化とか優越とかそういうのは入ってきてない。むしろ優越なり序列とかがあるとすれば、それはパーソンを特別扱いにしている *私たち* が導入しているものであって、パーソン論者が導入しているものではない。問題はパーソン論ではなく私たちの道徳的信念にあるのです。

だいたい序列化ってのもわからんではないですか。頭がいい人が悪い人より序列が上だとか、そんなことを森岡先生は信じているんでしょうか。

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パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。

くりかえしますが(もう何度でもくりかえします)、パーソン論というのは基本的に

(1) 同じものは同じにあつかえ、同じにあつかわないのならばその根拠を明確にしろ、というのが道徳的思考の基本だ。
(2) われわれは生物のなかでもパーソンを特別扱いにしている。
(3) パーソンを特別扱いにするならその特徴を出せ。
(4) どうもパーソンを特別あつかいにするのは心理的特徴しかないようだ。

のような順番で進む議論です。パーソンを特別扱いにする心理的特徴が実際になんであるかは論者によって異なります。自己意識だの理性だの、いろんな提案がおこなわれている。(このなにを候補にあげるかは論者によるというのも何度もくりかえす価値があります。)

パーソンはふつうは「特別な権利」(たとえば生命に対する権利、生命の維持を求める権利、財産権など)をもっている存在者ということになっているので、ここから、パーソンでなければそういう特別な権利をもっているとは必ずしもいえないだろう、ということになります。しかし「パーソン論」は、パーソンでない存在者がそういう権利をもたないと積極的に主張するわけではない。単に、「かくかくしかじかの特徴をもつ存在者をパーソンとするならば、その特徴をもたない存在者は *それだけでは* その特別な権利をもつと簡単に主張できるわけではない」と言っているにすぎません。他のさまざまな理由からさまざまな権利をもつことは十分考えられます。けっきょく権利ってのは決め事ですからね(かなり特殊な「自然権」のような立場をとらないかぎり)。

「パーソンである特徴をもたない存在者は生命に対する権利をもつとは言えない」のような表現を見てしまうと、どうも「そういう存在者は生きる資格がない」「だから殺してもかまわないのだ」「むしろ死ぬべきだ」「抹殺してしまえ」と言っているのだ、みたいな考え方をしてしまう人がいる。これはもう森岡先生あたりがパーソン論を紹介したときからのひどい誤解ですね。こういうのはやっぱり生命倫理学者はどうにかしてほしいところです。

これまた何回も書きますが、上の(2)は実際にわれわれはそうしているわけですが、必ずそうしなければならないわけではないです。パーソン論をやっつけたいと思うならまさにこの(2)を攻撃すればよい。つまり、「パーソンかどうかなんか実は道徳的にはたいして重要ではないのだ」と主張すればよい。そしてこれが(私の理解では)どういうわけか「パーソン論者」として国内で忌み嫌われているピーター・シンガーの基本的な考え方です。なんでシンガーがパーソン論者にされてしまうのかよくわからん。


パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である

いや、ぜんぜん。

とにかく国内で議論されている「パーソン論」は古いんですわ。けっきょくパーソン論というのは「われわれは人パーソンを特別扱いしている」っていう事実からはじまってるわけですが、70年代から80年代にかけての論争のなかでそういう「人間」を特別扱いにするって考え方はあんまり筋が通らないってことが理解されるようになって、議論はもっと進んでいます。

「パーソン」かどうか、なんてのは程度の差だし、そんな重要じゃないだろう、ってのが主流じゃないですかね。特に英国系の議論では。米国流の「権利」を中心にした考え方ではいまだにやっぱり権利の主体は誰なの、って話をしなきゃならんわけですが、けっきょく権利なんてのは人間の決め事だからどういうふうにもその主体の範囲を決めることができる。いまだにパーソンにこだわってるのは自然権とかそういうものでなんとか議論しようとしている人だけでしょう。

そもそもたとえば「自己意識」がパーソンであるための重要な条件だ、って言われたって、なぜ自己意識が権利とか道徳的地位と関係があるのか論証しなきゃならん。それはかなり難しいしおそらく無理そう。だからもう「パーソンかどうか」っていう基本的に権利ベースの考え方は放棄されて、道徳的地位とかそういう話になってると理解してます。

自己意識やら高度な知性やらがなくなって重要な存在者がいるのははっきりしているのだから、もうパーソンについて考えんのは無駄だよね。みたいな。

たとえばThe Oxford handbook of BioethicsのBonnie Steinbock先生の”Moral Status, Moral Value, and Human Embryos”とか見ると雰囲気わかるんじゃないすかね。

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日本の生命倫理学ももっとちゃんとアップデートしましょう。こうしてパーソン論についてごちゃごちゃやってるのは、あんまりひどい議論ばっかり見かけるからいらだってやってるだけ。


パーソン論参考資料『妊娠中絶と生命倫理』でのウォレン論文解説

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胎児の道徳的地位の議論としては、メアリ・アン・ウォレンのこの論文も重要である。トゥーリーとウォレンの論文は、結論としては胎児はまだ十分な精神的活動をしていないので中絶は許容される、という似かよったものになっているが、議論の哲学的な内容はまったく異なっている。トゥーリーの論文よりはむしろウォレンのものの方が、基本的なアイディアとして広く受け入れられた形の議論になっている。

ウォレンはトムソンの議論の難点を指摘したのちに、中絶の道徳性に関する議論で使用されている「人間」(human being)は二つの意味を含んでいることを指摘する。遺伝学的な意味でのヒト(犬や猫やチンパンジーではないという意味で人間である)と、道徳的な意味でのひと(パーソン)(殺してはならない存在、権利をもつ存在という意味での人間)である。

中絶反対派と容認派の双方が、中絶される胎児がヒトの胎児であることを認めている。ここには対立点はない。むしろ対立点は、胎児はどの程度の道徳的地位(moral status)をもっているのか、子どもや成人と同じ権利をもっているのかということにある。言いかえると、胎児は道徳的な意味での「ひと(パーソン)」なのか、権利をもっている人々、殺してはならない人々の集まりである「道徳的共同体」の一員なのか、という問いが重要なのである。

私たちは「ひと」ではないものに対してさほど配慮をする必要はないと考えている。雑草を引き抜き、ゴギブリを殺し、牛や豚を屠殺して食べている。それではどのような存在が道徳的配慮に値する「ひと」なのだろうか。この問いに対して、「ヒト(ホモ・サピエンス)である存在」と答えるのは有効ではない。その場合、「なぜヒトは特別なのか?」とさらに問われることになり、この問いに対して「それはヒトだから」と答えるのでは単なる同語反復になってしまうからである。一方、もし私たちとまったく同じように考え感じコミュニケーションをすることができるが、ホモ・サピエンスではない未発見の動物や宇宙人がいるとしたら、それを好きに殺しても(たとえば珍味として食べてみても)道徳的に問題はないということになるかどうかは疑問である。そこで、「ひと」である条件を生物種に訴えることによって示すことは難しい。

ウォレンは私たちが日常的に考えている「ひと」であることの中心的な特徴として(1)意識、(2)推論の能力、(3)自発的な活動、(4)コミュニケーションの能力、(5)自己意識、の5点を挙げる。典型的な「ひと」であるヒトの成体(つまり私たち)は上の5つの特徴をもっているが、私たちが「ひと」と認める存在が必ずしもこの5つの能力のすべてをもっているとは限らない。たとえば認知症の老人は推論の能力を失なっているかもしれない。しかし少なくとも上の五つの条件をすべて欠いている存在は「ひと」とは呼べないだろう、というのがウォレンの見方である。初期の胎児が上の5つの特徴をかねそなえているということはないし、仮に胎児が痛みなどを感じる意識能力をもっているとしても、それは他の牛や豚といった動物も同様である。こうして、ウォレンは大胆に初期の胎児はグッピーと同程度の道徳的地位しかもっていないと主張する。

しかしウォレンは上の5つの特徴をもつ存在者がなぜ「ひと」であるのか、道徳的共同体の一員であるのかという理由は説明していない。単に私たちの多くはそう考えているはずだということしか示していない。また、このウォレンの議論も、「ひと」であることの条件として精神的な能力や活動に注目するために、トゥーリーのものと同様に新生児や重度の認知症の老人などを死なせることを正当化してしまうように思われる。そのため、非常に不愉快で不道徳な見解だと考える読者は多いだろう。この点に関してはウォレン自身も気にしており、この論文がアンソロジーに収録される際には「新生児殺しに関する追記」を付記するよう求めている。

しかしここで注意しておかねばならないのは、もし(たとえば経済的な理由による)殺人は禁止しながらも妊娠中絶が正当化されると考えるとすれば、胎児の道徳的地位は成人ほどのものではないということをなんらかの形で立証しなければならないということである。そしてまた、食べるために牛や豚を殺すことは許されるが、ヒトを殺すことは許されないと考えるのであれば、それがなぜであるのかを「ヒトを殺してはならないのはそれがヒトだからだ」などという同語反復ではない形で説明しなければならないということである。もし胎児を殺すことが不正であるのであれば、他の動物を殺すことも不正かもしれない。もし胎児を殺すことが不正ではないのであれば、胎児と同じような意識状態にあるヒトを殺すことも不正ではないかもしれない。こうしてトゥーリーとウォレンの論文以降、胎児や新生児、他の動物の道徳的地位の問題が「ひとであるとはどのようなことか」という問題として重要な哲学的課題として浮かびあがってきたのである。


パーソン論参考資料『妊娠中絶の生命倫理』でのトゥーリー論文の解説

自分で書いたトゥーリー論文とウォレン論文の解説を公開してなかったことに気づきました。下の本の「編者解説」の草稿の一部です。買ってくださいー。

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ここまで見たように(そして本書に収録した他の論文でも批判されているように)、トムソンの「身体に対する権利」による中絶の擁護論には難点が多い。そこで、中絶を正当化しようとするならば、胎児はどのような権利をもっているのか、どのような道徳的配慮を要求する資格の存在なのかという問題、つまり、胎児の道徳的地位の問題を考える必要がある。そこで提出されたのが、権利をもった「ひと」(person)であるための条件を分析し、胎児はいまだ「ひと」ではないために中絶は許容されるとする「パーソン論」と呼ばれる議論である1

「パーソン論」の立役者の一人はマイケル・トゥーリーである。トゥーリーは米国の哲学者であり、生命倫理の他にも形而上学や認識論の分野でも業績がある。
日本ではこの論文はよく知られており、「パーソン論」の代表論文とされているが、議論の筋はかなり独特であり、必ずしも多くの哲学者に共有されているものではないことに注意が必要である。

トゥーリーの問題意識は、中絶の問題は、従来の中絶に関する議論のように、胎児が「人間」であるかどうかを議論するよりも、直接に胎児は生きる権利をもっているかどうかを議論するべきであるということである。たしかに胎児が人間の胎児であることは間違いがない。しかし、胎児は生きる権利、 生命に対する権利をもっているだろうか? トゥーリーは「生命に対する重大な権利をもった存在者」を「ひと」と定義する。ここで、トゥーリーが用いている特殊な術語としての「ひと」は、私たちの使う一般的な意味での「ひと」とはまったく違っていることを留意してほしい。ここでの「ひと」は「生命に対する重大な権利をもった存在者」を指すために規約として取り決められた専門用語である。このような論文を読む場合は、常に頭のなかで「ひと」を「生命に対する道徳上の権利をもっている存在」のように置きかえて読む必要がある。また「パーソン」は物件(単なるモノ)と対照される意味での「人格」つまり「ひと」という意味であり、性格や品性という意味での「人格」と混同しないように注意してもらいたい。

さて、トゥーリーの議論の粗筋は次のようになる。(a) 「AはXに対する権利をもつ」ということは、「他の人はAからXを奪うことを慎しむ一応の責務がある」ということを意味する。たとえば、私が自分の車に対する権利をもっているということは、他の人は私の車を壊したり奪ったりしないようにしなければならない、ということを意味する。しかしこれは私が自分の車をそのまま持っておきたいという欲求をもっているからであって、もし私が自分の車を壊してほしいと思っているならば、他の人が壊してもかまわない。したがってトゥーリーは(a’)「AはXに対する権利をもつ」ということは、「もしAがXを欲求するならば、その場合、他の者にはAからそれを奪うような行為を慎む一応の責務がある」ということを意味しているのだ、という。

次にトゥーリーによれば、(b)あるものを欲求するためには、その主体はその対象についての概念をもっていなければならない。たしかに、私が「車を盗んでほしくない」という欲求するためには、「車」や「所有する」「盗む」という概念を理解している必要があるだろう。そしてさらに、(c)自分が「生き続けたい」と欲求するためには、「自分」や「生きる」という概念をもっていなければならない。

ところが、(d)猫や胎児は自己意識をもっていない。言い換えると、「自分」や「生き続ける」という概念をもっていない。(この主張はわかりにくいかもしれない。自分が生き続けること、あるいは自分が死ぬということを理解することはたしかにかなり高度な能力である。「生き続けたい」と思うためには、外界や他の人々と区別された「私」を意識しなければならないし、また今現在の自分と1年前の自分や1年後の自分が同じ持続した自分であることを理解する必要がある。)

したがって、猫や胎児は「自分が生き続ける」ということを欲求できない。そのため、生き続ける権利(=生命に対する権利)を持つことができない2。したがって、胎児は(トゥーリーの定義での)「ひと」ではない。

このトゥーリーの議論はかなりトリッキーに見えるだろう。特に(a’)の権利と欲求の関係についての主張は不明瞭でかなり疑わしい。トゥーリー自身が気づいているように、たとえば寝ている人や意識を失なっている人は生きつづけたいという欲求を失なっているが、生きる権利を失なっているとは思われないし、人生に希望を失なって死ぬことを欲求している若者を殺すことはやはり不正だろう。またたとえば、生命保険に加入している人は自分がかかっている病気についての概念をもっていなくてもその病気を治すための治療費を受けとる権利があるだろう、という批判がある3も参照。]。こうした難点から、トゥーリーは1983年に出版した論文と同名の書籍Abortion and Infanticideでは本論文の立場を捨てている。

さらに新生児もまた自己意識をもっていないので生命に対する権利をもたず、場合によっては死なせることも許される、という主張はかなりショッキングなものだろう。同じように無脳症の幼児や認知症の高齢者、脳死者なども生命に対する権利をもたないことになる。こうした私たちの道徳的直観に反する点は(日本国内以上に)英米でも強い反発を呼んでいる。

なお、この解説では触れることができないが、トゥーリーの立場の主張が成功しているか否かは別として、この論文後半の他の線引きの代替案と潜在性の議論に対する批判もまた巧妙で重要なものであることをつけ加えておきたい。

脚注:

1 英米ではpersonhood argumentと呼ばれることがある。
2 ここで、猫もまた(生き続けることではなく)苦しめられないことに対する欲求はもつだろうから、「苦しめられない権利」はもつことができるかもしれないことにも注意しておく必要がある。
3 Stevens 1984。Marquis(1989)の批判

パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない

なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。

よく見かける誤解の一つが、「パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない」みたいなやつですね。もう面倒なので文献ひっくりかえすのはあとにします。

でもまあ一応森岡ターゲット論文ぐらいは見る。http://www.lifestudies.org/jp/persona01.htm

森岡先生は「パーソン論者によれば、パーソンとは自己意識と理性を持った存在者のことであり、その存在者に対してはある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」と表現してます。これまちがいではないんですが、誤解を招く表現になってると思うんですわ。

まずまあ前にも書いたように、全部のパーソン論者が「自己意識と理性」をパーソンの条件にしているわけじゃない。でもこれはいいです。問題は次の「ある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」。

私が書くなら、「ある特別な道徳的配慮をはらうことが〜」になるかなあ。

パーソン論のそもそもの前提は「われわれはパーソンと呼んでいる一部の存在者を特別あつかいしている」って事実なんですよね。まあ特殊な権利を認めたり、特殊な保護をおこなっている。でも、それ以外の存在者に対しては道徳的配慮をしなくてもいいってことにはらんわけです。それは誰も考えてない。猫はおそらくパーソンじゃないけど、楽しみの気紛れに殺してはならん。できるかぎり保護しなければならない。だからパーソンでないとされた存在者は道徳的配慮の対象にならないと考えてはいかん。まあ森岡先生はそうは考えてないと思います。

パーソンである存在者とパーソンでない存在者のあいだにどれくらいの配慮の違いを設けていいのか、ってことはパーソン論そのものからは出てこないはずです。我々がパーソンとそうでない存在者の間にたいしたちがいを設けたくないと思えばそうすればよい。私はそっちの方に賛成ですね。っていうかわれわれはパーソンばっかり特別あつかいにしすぎていると思われます。

何度も書いているようにトゥーリー(1972)の議論はかなり特殊だってことを意識しておいてもらうことを前提にしてトゥーリーの議論を考えてみると、彼によれば自己意識をもってない存在者は自己が存続することを望むことができないので自己の生命が持続することを欲求できず、それゆえ自分の生命に対する権利をもつことができない(くりかえしますが、この議論はうまくいってないです)。でもそれでも猫が苦しめられない権利をもつことは可能なわけです。だって猫は苦しめられないことへの欲求、苦しめられることへの嫌悪をもつことができるでしょうからね。

あとウォレン先生(1973)は、感覚、自発性、コミュニケーション能力、推論、自己意識などの特徴のどれもがないとパーソンとはいえないだろうって言ってますが、んじゃ新生児にはなにも配慮しなくていいのかっていう問いに対しては、新生児とかはすでにさまざまな人間関係や愛情や愛着の対象になってるんだから殺してもかまわないってことにはらならん、としつこくくりかえしてます。

まあパーソンに与えられている「特別な資格や権利」がどんなものであるべきか、ってのは「誰がパーソンであるか」ってこととは別に考えなきゃならんことなのです。これ混同するとおかしなことになる。


パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である

(このエントリは失敗なので書き直します)

「パーソン論は切り捨ての思想だ」っていうタイプの議論は「パーソン論」が国内に紹介された時点から存在していて、特に強い影響力のある森岡正博先生が広めた、と理解しています。先生は『生命学への招待』に収められている「パーソン論の射程」(初出は1987)から『生命学に何ができるか』(2001)、そして比較的近年の論文「パーソンとペルソナ」(2010)まで一貫してそうした主張をおこなっているようです。森岡先生の著書や論文が明示的に参照されることはそれほど多くないようですが、パーソン論に対する基本的な理解として国内で広く受けいれられているようです。

前にも書いたように一口に「パーソン論」と言っても、けっきょく各種の重要な権利の主体となるのはどのような存在か、ということが問われていることが共通しているだけで、全員がしかじかのことを主張しているということは言えないのですが、国内で広まっている解釈にしたがうと次のようになります。

パーソン論者によれば、権利をもった人(person)であるためには知性や自己意識が必要であるとされる。しかしこうしたことを主張するのは知性や自己意識をもった人自身が考えるからそうなるのだ、自分の仲間に権利を認め、知性が低かったり自己意識をもっていない人を切り捨てるためにそういうことを勝手に想定しているだけなのだ。したがってパーソン論は自分たちを勝手に贔屓している思想である、のように。

まあ表現はさまざまあるわけですが、森岡先生とかの流派のはこういう感じかなあ。あるいは、パーソン論は知的能力によって人々のあいだに差をつける能力主義だ、みたいな感じか。

この種の解釈のどこがおかしいのかを説明するのはかなり難しいですが、がんばってみます。

まず、いわゆる「パーソン論」で使われる議論は、私の理解では次のようになります。

(1) われわれは「人」(person)と呼ばれる存在を特別あつかいにしている。あるいは特別扱いにせざるをえない。(事実)
(2) 特別扱いにするならば、その特別扱いの理由をはっきりさせる必要がある。(合理性・道徳的思考における要求)
(3) 人間(ホモサピエンス)を特別扱いにするならば、人間が他の動物と違う特質に訴える必要がある。
(4) 人間が人間(ホモサピエンス)であることはその理由にならない。なぜホモサピエンスが特別なのかの理由を示す必要がある。
(5) 候補としてあげられるのは言語の使用や自己意識の有無である。他にもありえる。
(6) なんにしても、その基準が特別扱いにしている「人」とそれ以外の存在者との扱いを変える理由になるなら、その基準は人間以外の存在者にも適用されるべきだ。

パーソン論というのはけっきょく特別扱いする対象とそうでない対象の違いはいったいなんなのか、ということを問題にしているわけなので、いずれにしてもなんらかの「線引き」や「排除」の理屈ということになります。これは正しい。

しかしそれが自分勝手だとかっていうことにはかならずしもならない。誰もがある基準で特別扱いする基準を提唱することができます。たとえば「白人」だとか「日本人」だとか「男性」だとかそういうのを挙げてよろしい。しかし「白人」「日本人」「男性」なんてのがちゃんとした区別の理由になるかどうかかはあやしい。同じように「人間ホモサピエンスであること」もちゃんとした理由になるのかはあやしい。多くのパーソン論者は「自己意識」や「高度な知性」を特別扱いにする理由にしますが、もちろんそれを疑問視してもかまわない。彼らはたんに「自己意識や高度な知性がおそらく基準として妥当だろう、それはなにか人の特別さを示すことになるから」程度のことを考えているわけです。むしろ他によい基準があれば、パーソン論とかやっている人々はよろこんでそれを受け入れるでしょう。つまり「自己意識」や「高度な知性」は単なる提案にすぎません。

もうちょっと詳しく見ると話は変ってきます。「パーソン論」と一括りにされますが、提案されている基準はさまざまなんですね。マイケル・トゥーリー先生の1972年の論文「妊娠中絶と新生児殺し」では、人パーソンを「生命に対する重要な権利を持つ存在」と定義した上で、「生命に対する権利」をもつためには、「自己の生命を維持することに対する欲求」がなければならないはずだ、そしてそのためには「自己の生命を維持すること」やつきつめれば「持続する自己」の概念をもっていなければならないはずだ、というふうに議論がなされます。この議論は多くの倫理学者によって検討された結果、あんまりうまくいってないと考えられてます。

もっと一般的なのはメアリ・アン・ウォレン先生の議論です。これは一般にわれわれが特別扱いにしている「人」はどんな特徴をもっているだろう、として、感覚や欲求、自発性、推論能力、コミュニケーション能力などを列挙して、このうちどれが人であるための重要な条件であるかはわからないが、どれももっていないのであれば我々が考える「人」とはいえないだろう、ぐらいの議論をしています。こっちの方が「パーソン論」としては一般的なやりかたですね。

まあどんなやりかたをしてどんな基準を提案するにしても、もしわれわれが一定の存在者を人として特別扱いしようとするならば、なんらかの基準は必要になります。ウォレン先生みたいなやりかただと、別に自己意識や知性を特別な基準にしなくてもいい。なんでもいいけどとりあえず基準をとってしまえば、それにしたがわねばならない。われわれが日常的にすでにおこなっている特別扱いをする基準はなんであるのかをはっきりさせるのがポイントです。

こうして見ると、それが「切り捨ての思想だ」と非難される必要はなにもないように思えますね。われわれのたいていは人間以外の動物を動物として切り捨てて食べたりしているし、植物や昆虫、細菌や無生物はさらに軽く扱っているわけで、その「切り捨て」の根拠はなんであるのかを考えてみる必要があります。「もしわれわれがある一群の存在者を特別扱いにしようとするのであれば」、なんにしてもそのグループがどういう存在者であるのか、そしてその存在者を特別あつかいをする理由はなにか、っていうのに答える必要があるように思えます。仮にパーソン論が「切り捨ての思想」であるとしても、それが自分の仲間を優先する思想だとか自分勝手な思想だとか言う理由はないように思えます。

森岡先生やその他多くの先生は、「パーソン論を考える人は自分をパーソンだと思っていて、自分たちに有利なように基準を提案している」と主張するわけですが、特にそう考える必要はないように思います。それなら白人哲学者は「白人」、男性哲学者は「男性」とか勝手に他に基準を出すこともできるわけですからね。なぜ「自己意識」や「知性」程度になるのか、それを考えてみることが必要です。それは結局のところ、自己意識や知性をもっていることがその当人の幸福にとって重要だと考えられるから、ということになります。もちろんこれも論証が必要。

まあとにかく「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなことを言いたい人は、それでは私たちは今現在どういう切り捨てかたをしていて、その根拠はなんであるのかを考えてみる必要があると思います。パーソン論にあるていどコミットしている人は少なくともそれは考えているはずです。

でもこれじゃおそらく上のような誤解というか疑問をもつ人に対して根本的な答にはなってないですね。そういう解釈のいちばん深い疑問に答えてない。もう少し考えます。今回は失敗。すみませんすみません。


「パーソン論」よくある誤解(1) パーソン論は功利主義的だ

なんかいまだに生命倫理学の議論における「パーソン論」については誤解が多いようなので、目立つものをいくつかとりあげて解説しておきたいと思います。

「パーソン論」と呼ばれる学説はまあ生命倫理学では一般的で、基本的に各種の「権利」をもった「ひと」である条件はどのようなものかを論じようとするものですね。国内で一番有名なのはマイケル・トゥーリーの論文「妊娠中絶と新生児殺し」で提出されたものです。他にもメアリ・アン・ウォレンの「妊娠中絶の法的・道徳的地位」のヴァージョンも有名ですし、まともな生命倫理学者はほとんど必ずそれぞれの「パーソン論」を提出しています。っていうか「権利」の重要性を認める以上、誰がどんな権利をもっているのかをはっきりさせることはどうしても必要になるので当然そういう議論はしなくちゃならんわけです。

上のどちらの論文も『妊娠中絶の生命倫理』という本で訳出されていますので参照してください。典型的な批判も収録しています。

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パーソン論は功利主義的だ

たとえば社会学者の加藤秀一先生は『〈個〉からはじめる生命論』という著書で「功利主義のパーソン論」という見出しを立てたり、「興味深いのは、生命倫理の文脈で有力視される功利主義的議論がしばしばシンプルな快楽説に基盤を置いているようにみえることだ。とりわけ「パーソン論」と一括りにされるタイプの議論にそのことは顕著である。」(p.54)のように書いたりしています。

これは非常によく見かけますが、かなりはっきりしたまちがいです。パーソン論と功利主義の関係はむしろ対立的といえるほどです。功利主義は最大の幸福を生みだす行為や制度が正しいとする立場であって、誰が幸せになるかには基本的に無関心です。ロールズという影響力のある政治哲学者は功利主義は「人の個別性」に関心をもたない、と批判しています。私が幸せになろうが、あなたが幸せになろうが、幸せの量が同じならば同じくらい正しい、ということになります。あなたが10ポイント幸せが増え、私も10ポイント幸せになるケースと、あなたが20ポイント幸せになり私が現状のままでいることは、どちらも同じ程度によい、ということになります。また、とにかく功利主義は「パーソン(ひと)」であるかどうかということにも基本的には関心をもちません。馬の幸せも私(いちおう人間)の幸せも同じような幸せであれば同じように評価しなければなりません。功利主義において権利はたいして重要ではありません。と書くと誤解されてしまいますが、権利は人々の幸福(あるいは幸福であるための安全)を増やすために必要とされる決め事にすぎません。

これに対して「パーソン論」は基本的に「権利」に関する学説です。「パーソン論」と呼ばれる学説を提唱する人々はさまざまいるのですが、基本的に「我々が各種の権利をもっていると認める(べきな)のはどのような存在か、なぜそうしているのか」ということを問題にします。権利とは、よっぽどのことがないかぎり侵害してはいけない利益です。功利主義にとって権利は二義的な意味しかもちませんが、パーソン論では中心的です。むしろ功利主義では十分に考慮されていない(と言われる)人の権利を重視すべきだ、って発想の上での議論です。

国内でパーソン論と功利主義が混同されることがあるのはおそらくいくつかの理由があります。

第一に、よく読まれたピーター・シンガーの『実践の倫理』で妊娠中絶の問題があつかわれる際に、シンガーがパーソン論と功利主義の両方をもちいて中絶を正当化したことがあげられれます。シンガーは人を死なせることが不正である有力な根拠として(1)権利論(パーソン論)、(2)カント的な自立の尊重、(3)古典的功利主義、(4)選好功利主義の四つをとりあげて、それぞれの立場から中絶が非難されるべきであるのかを検討しました。これはシンガー自身が好む功利主義の立場から論じるだけでは十分な議論ができないからです。(1)〜(4)のどの立場からでも中絶が許容されることを示すことができれば、実践的な問題の解決に大きく前進することになるわけですから、シンガーのこのやり方は悪くないといえるでしょう。問題は混同してしまう読者や日本の哲学者たちにあります。

第二に、もっとひどい読み方として、中絶に関する議論の多くは「英米系の議論だから功利主義だ」のような印象をもった人が多かったようです。実際には英国で優勢な功利主義的な思考と、アメリカの伝統的な思考法である権利にもとづいた考え方はまったく対立するものなのですが、イギリスとアメリカの思想的伝統の区別がついてない人は多いようですね。ははは。そういう人々はもうジョン・ロック先生もロールズ先生もベンサム先生も英語で書いてるから同じ、みたいな考えかたするんでしょうから、そういう人のを読んではいかんです。

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2011年に読んだおすすめ本ベスト10

メディアマーカーで自分的におすすめの五つ星つけた本から、特に印象に残ってるものを順不同であげてアフィリエイトかせごう。

 

香西先生にはいろいろ教えていただきました。ネットとかでの論争の方法について理解が深くなったと思う。

関連で『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』。この2冊読めばまあ一流ソフィスト、じゃなかった一流レトリック家の基本的な考え方がわかる。『 反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書) 』まで読めば十分か。ネットの議論で負けることが少なくなるかもしれない。『 オルグ学入門 』も香西先生から教えてもらったけどもうすごい奇書。これは買うほどの価値はないだろうけど、図書館とかで一読の価値がある。

性格とかパーソナリティとかについてはずっと興味をもってるんだけど、これが一番おもしろかった。

ビッグファイブの堅牢さと、それらがそれぞれ生物学的な基盤あるんじゃないかとかそういう話。

パーソナリティ心理学の本道としてはミシェル先生の『 パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解 』がおそらく現在最強の教科書で勉強になった。

 

女性が会社で働くということについて鋭い分析とハウツー。女性は必読。っていうかこういうエンパワが国内でももっと注目されるべきだと思う(政治的にどうかは別にして)。『 会社のルール 男は「野球」で、女は「ままごと」で仕事のオキテを学んだ 』『 女性(あなた)の知らない7つのルール―男たちのビジネス社会で賢く生きる法 』はこの本に影響を受けた同工異曲。どれ読んでも同じだが、とにか重要な観点。

ポジティブ心理学や進化心理学に影響を受けた倫理学まわりの成果が出そうな感じ。まだ発展途上だけど。

欲望について 』もよかった。

性差科学といえば、これがよかった。非常に慎重。

性差や性分化、性志向などの生物学的な解明については『 科学でわかる男と女になるしくみ ヒトの性は、性染色体だけでは決まらない 』も買ってあげてください。最新の内容のはず。

女性のグループ内力学については『 女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること 』も重要。『 女はなぜ足を引っ張りあうのか 』も笑えた。

子ども向けエリノア・ルーズベルトの伝記。エリノア先生についてはちゃんとした評伝が出版されるべきだと思う。国内ではその業績が十分に理解されていないようだ。政治学の人々に期待。

すごい資料。英米の法律関係についてなんか言わなきゃならんひとは必携。

現代英米情報辞典 』は新しくしてほしい。

倫理学・法哲学まわりで重要なのはこれ。倫理や政治における感情の重要性。

ジュディス・バトラー様とか読んでるヒマがあったらこういうの読んで欲しい。

恋愛ものではこれがとてもおもしろかった。

PUA (Pick-up Artist)という文化があることを教えてもらった。まあナンパの方法なんだけど、カルチャー研究みたいなのにも重要な気がする。あれ、もう入手できないみたいね。

英語読みやすいから

でもいいと思う。かえっておもしろいだろう。

具体的なハウツーは『 確実に女をオトす法則 』だけどこれはまあたいしたことがない。とにかく『ザ・ゲーム』はおもしろいので一読の価値がある。

認知的不協和について。『 なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか 嘘とだましの心理学 』とかも。

行動経済学みたいなんもたくさん読みました。

なぜ直感のほうが上手くいくのか? – 「無意識の知性」が決めている 』、『 なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴 』とかもどうぞ。

あ、番外だけど買ってください。

トムソンの有名なヴァイオリニストの議論とかパーソン論とか正しく読めるようにしました。あと売りはヘアの直観主義批判がどんなものか、とか、死の悪さについての剥奪説が中絶問題に適用されるとどんな問題をひきおこすかとか。あとハーストハウスのやつを読むと徳倫理学ってのがどういうインパクトがあったかがわかるはずです。よろしくおねがいします。


パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

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