パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。

パーソン論の基本は、「もしあなたたちがある存在者をパーソンとして特別扱いにするのならばその基準とその根拠を出せ」なわけです(くりかえすのがあんまり苦にならなくなってきました)。これだけでは序列化とか優越とかそういうのは入ってきてない。むしろ優越なり序列とかがあるとすれば、それはパーソンを特別扱いにしている *私たち* が導入しているものであって、パーソン論者が導入しているものではない。問題はパーソン論ではなく私たちの道徳的信念にあるのです。

だいたい序列化ってのもわからんではないですか。頭がいい人が悪い人より序列が上だとか、そんなことを森岡先生は信じているんでしょうか。

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パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。

くりかえしますが(もう何度でもくりかえします)、パーソン論というのは基本的に

(1) 同じものは同じにあつかえ、同じにあつかわないのならばその根拠を明確にしろ、というのが道徳的思考の基本だ。
(2) われわれは生物のなかでもパーソンを特別扱いにしている。
(3) パーソンを特別扱いにするならその特徴を出せ。
(4) どうもパーソンを特別あつかいにするのは心理的特徴しかないようだ。

のような順番で進む議論です。パーソンを特別扱いにする心理的特徴が実際になんであるかは論者によって異なります。自己意識だの理性だの、いろんな提案がおこなわれている。(このなにを候補にあげるかは論者によるというのも何度もくりかえす価値があります。)

パーソンはふつうは「特別な権利」(たとえば生命に対する権利、生命の維持を求める権利、財産権など)をもっている存在者ということになっているので、ここから、パーソンでなければそういう特別な権利をもっているとは必ずしもいえないだろう、ということになります。しかし「パーソン論」は、パーソンでない存在者がそういう権利をもたないと積極的に主張するわけではない。単に、「かくかくしかじかの特徴をもつ存在者をパーソンとするならば、その特徴をもたない存在者は *それだけでは* その特別な権利をもつと簡単に主張できるわけではない」と言っているにすぎません。他のさまざまな理由からさまざまな権利をもつことは十分考えられます。けっきょく権利ってのは決め事ですからね(かなり特殊な「自然権」のような立場をとらないかぎり)。

「パーソンである特徴をもたない存在者は生命に対する権利をもつとは言えない」のような表現を見てしまうと、どうも「そういう存在者は生きる資格がない」「だから殺してもかまわないのだ」「むしろ死ぬべきだ」「抹殺してしまえ」と言っているのだ、みたいな考え方をしてしまう人がいる。これはもう森岡先生あたりがパーソン論を紹介したときからのひどい誤解ですね。こういうのはやっぱり生命倫理学者はどうにかしてほしいところです。

これまた何回も書きますが、上の(2)は実際にわれわれはそうしているわけですが、必ずそうしなければならないわけではないです。パーソン論をやっつけたいと思うならまさにこの(2)を攻撃すればよい。つまり、「パーソンかどうかなんか実は道徳的にはたいして重要ではないのだ」と主張すればよい。そしてこれが(私の理解では)どういうわけか「パーソン論者」として国内で忌み嫌われているピーター・シンガーの基本的な考え方です。なんでシンガーがパーソン論者にされてしまうのかよくわからん。

パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である

いや、ぜんぜん。

とにかく国内で議論されている「パーソン論」は古いんですわ。けっきょくパーソン論というのは「われわれは人パーソンを特別扱いしている」っていう事実からはじまってるわけですが、70年代から80年代にかけての論争のなかでそういう「人間」を特別扱いにするって考え方はあんまり筋が通らないってことが理解されるようになって、議論はもっと進んでいます。

「パーソン」かどうか、なんてのは程度の差だし、そんな重要じゃないだろう、ってのが主流じゃないですかね。特に英国系の議論では。米国流の「権利」を中心にした考え方ではいまだにやっぱり権利の主体は誰なの、って話をしなきゃならんわけですが、けっきょく権利なんてのは人間の決め事だからどういうふうにもその主体の範囲を決めることができる。いまだにパーソンにこだわってるのは自然権とかそういうものでなんとか議論しようとしている人だけでしょう。

そもそもたとえば「自己意識」がパーソンであるための重要な条件だ、って言われたって、なぜ自己意識が権利とか道徳的地位と関係があるのか論証しなきゃならん。それはかなり難しいしおそらく無理そう。だからもう「パーソンかどうか」っていう基本的に権利ベースの考え方は放棄されて、道徳的地位とかそういう話になってると理解してます。

自己意識やら高度な知性やらがなくなって重要な存在者がいるのははっきりしているのだから、もうパーソンについて考えんのは無駄だよね。みたいな。

たとえばThe Oxford handbook of BioethicsのBonnie Steinbock先生の”Moral Status, Moral Value, and Human Embryos”とか見ると雰囲気わかるんじゃないすかね。

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日本の生命倫理学ももっとちゃんとアップデートしましょう。こうしてパーソン論についてごちゃごちゃやってるのは、あんまりひどい議論ばっかり見かけるからいらだってやってるだけ。

パーソン論参考資料『妊娠中絶と生命倫理』でのウォレン論文解説

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胎児の道徳的地位の議論としては、メアリ・アン・ウォレンのこの論文も重要である。トゥーリーとウォレンの論文は、結論としては胎児はまだ十分な精神的活動をしていないので中絶は許容される、という似かよったものになっているが、議論の哲学的な内容はまったく異なっている。トゥーリーの論文よりはむしろウォレンのものの方が、基本的なアイディアとして広く受け入れられた形の議論になっている。

ウォレンはトムソンの議論の難点を指摘したのちに、中絶の道徳性に関する議論で使用されている「人間」(human being)は二つの意味を含んでいることを指摘する。遺伝学的な意味でのヒト(犬や猫やチンパンジーではないという意味で人間である)と、道徳的な意味でのひと(パーソン)(殺してはならない存在、権利をもつ存在という意味での人間)である。

中絶反対派と容認派の双方が、中絶される胎児がヒトの胎児であることを認めている。ここには対立点はない。むしろ対立点は、胎児はどの程度の道徳的地位(moral status)をもっているのか、子どもや成人と同じ権利をもっているのかということにある。言いかえると、胎児は道徳的な意味での「ひと(パーソン)」なのか、権利をもっている人々、殺してはならない人々の集まりである「道徳的共同体」の一員なのか、という問いが重要なのである。

私たちは「ひと」ではないものに対してさほど配慮をする必要はないと考えている。雑草を引き抜き、ゴギブリを殺し、牛や豚を屠殺して食べている。それではどのような存在が道徳的配慮に値する「ひと」なのだろうか。この問いに対して、「ヒト(ホモ・サピエンス)である存在」と答えるのは有効ではない。その場合、「なぜヒトは特別なのか?」とさらに問われることになり、この問いに対して「それはヒトだから」と答えるのでは単なる同語反復になってしまうからである。一方、もし私たちとまったく同じように考え感じコミュニケーションをすることができるが、ホモ・サピエンスではない未発見の動物や宇宙人がいるとしたら、それを好きに殺しても(たとえば珍味として食べてみても)道徳的に問題はないということになるかどうかは疑問である。そこで、「ひと」である条件を生物種に訴えることによって示すことは難しい。

ウォレンは私たちが日常的に考えている「ひと」であることの中心的な特徴として(1)意識、(2)推論の能力、(3)自発的な活動、(4)コミュニケーションの能力、(5)自己意識、の5点を挙げる。典型的な「ひと」であるヒトの成体(つまり私たち)は上の5つの特徴をもっているが、私たちが「ひと」と認める存在が必ずしもこの5つの能力のすべてをもっているとは限らない。たとえば認知症の老人は推論の能力を失なっているかもしれない。しかし少なくとも上の五つの条件をすべて欠いている存在は「ひと」とは呼べないだろう、というのがウォレンの見方である。初期の胎児が上の5つの特徴をかねそなえているということはないし、仮に胎児が痛みなどを感じる意識能力をもっているとしても、それは他の牛や豚といった動物も同様である。こうして、ウォレンは大胆に初期の胎児はグッピーと同程度の道徳的地位しかもっていないと主張する。

しかしウォレンは上の5つの特徴をもつ存在者がなぜ「ひと」であるのか、道徳的共同体の一員であるのかという理由は説明していない。単に私たちの多くはそう考えているはずだということしか示していない。また、このウォレンの議論も、「ひと」であることの条件として精神的な能力や活動に注目するために、トゥーリーのものと同様に新生児や重度の認知症の老人などを死なせることを正当化してしまうように思われる。そのため、非常に不愉快で不道徳な見解だと考える読者は多いだろう。この点に関してはウォレン自身も気にしており、この論文がアンソロジーに収録される際には「新生児殺しに関する追記」を付記するよう求めている。

しかしここで注意しておかねばならないのは、もし(たとえば経済的な理由による)殺人は禁止しながらも妊娠中絶が正当化されると考えるとすれば、胎児の道徳的地位は成人ほどのものではないということをなんらかの形で立証しなければならないということである。そしてまた、食べるために牛や豚を殺すことは許されるが、ヒトを殺すことは許されないと考えるのであれば、それがなぜであるのかを「ヒトを殺してはならないのはそれがヒトだからだ」などという同語反復ではない形で説明しなければならないということである。もし胎児を殺すことが不正であるのであれば、他の動物を殺すことも不正かもしれない。もし胎児を殺すことが不正ではないのであれば、胎児と同じような意識状態にあるヒトを殺すことも不正ではないかもしれない。こうしてトゥーリーとウォレンの論文以降、胎児や新生児、他の動物の道徳的地位の問題が「ひとであるとはどのようなことか」という問題として重要な哲学的課題として浮かびあがってきたのである。

パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない

なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。

よく見かける誤解の一つが、「パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない」みたいなやつですね。もう面倒なので文献ひっくりかえすのはあとにします。

でもまあ一応森岡ターゲット論文ぐらいは見る。http://www.lifestudies.org/jp/persona01.htm

森岡先生は「パーソン論者によれば、パーソンとは自己意識と理性を持った存在者のことであり、その存在者に対してはある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」と表現してます。これまちがいではないんですが、誤解を招く表現になってると思うんですわ。

まずまあ前にも書いたように、全部のパーソン論者が「自己意識と理性」をパーソンの条件にしているわけじゃない。でもこれはいいです。問題は次の「ある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」。

私が書くなら、「ある特別な道徳的配慮をはらうことが〜」になるかなあ。

パーソン論のそもそもの前提は「われわれはパーソンと呼んでいる一部の存在者を特別あつかいしている」って事実なんですよね。まあ特殊な権利を認めたり、特殊な保護をおこなっている。でも、それ以外の存在者に対しては道徳的配慮をしなくてもいいってことにはらんわけです。それは誰も考えてない。猫はおそらくパーソンじゃないけど、楽しみの気紛れに殺してはならん。できるかぎり保護しなければならない。だからパーソンでないとされた存在者は道徳的配慮の対象にならないと考えてはいかん。まあ森岡先生はそうは考えてないと思います。

パーソンである存在者とパーソンでない存在者のあいだにどれくらいの配慮の違いを設けていいのか、ってことはパーソン論そのものからは出てこないはずです。我々がパーソンとそうでない存在者の間にたいしたちがいを設けたくないと思えばそうすればよい。私はそっちの方に賛成ですね。っていうかわれわれはパーソンばっかり特別あつかいにしすぎていると思われます。

何度も書いているようにトゥーリー(1972)の議論はかなり特殊だってことを意識しておいてもらうことを前提にしてトゥーリーの議論を考えてみると、彼によれば自己意識をもってない存在者は自己が存続することを望むことができないので自己の生命が持続することを欲求できず、それゆえ自分の生命に対する権利をもつことができない(くりかえしますが、この議論はうまくいってないです)。でもそれでも猫が苦しめられない権利をもつことは可能なわけです。だって猫は苦しめられないことへの欲求、苦しめられることへの嫌悪をもつことができるでしょうからね。

あとウォレン先生(1973)は、感覚、自発性、コミュニケーション能力、推論、自己意識などの特徴のどれもがないとパーソンとはいえないだろうって言ってますが、んじゃ新生児にはなにも配慮しなくていいのかっていう問いに対しては、新生児とかはすでにさまざまな人間関係や愛情や愛着の対象になってるんだから殺してもかまわないってことにはらならん、としつこくくりかえしてます。

まあパーソンに与えられている「特別な資格や権利」がどんなものであるべきか、ってのは「誰がパーソンであるか」ってこととは別に考えなきゃならんことなのです。これ混同するとおかしなことになる。

2011年に読んだおすすめ本ベスト10

メディアマーカーで自分的におすすめの五つ星つけた本から、特に印象に残ってるものを順不同であげてアフィリエイトかせごう。

 

香西先生にはいろいろ教えていただきました。ネットとかでの論争の方法について理解が深くなったと思う。

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)
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関連で『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』。この2冊読めばまあ一流ソフィスト、じゃなかった一流レトリック家の基本的な考え方がわかる。『 反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書) 』まで読めば十分か。ネットの議論で負けることが少なくなるかもしれない。『 オルグ学入門 』も香西先生から教えてもらったけどもうすごい奇書。これは買うほどの価値はないだろうけど、図書館とかで一読の価値がある。

性格とかパーソナリティとかについてはずっと興味をもってるんだけど、これが一番おもしろかった。

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ビッグファイブの堅牢さと、それらがそれぞれ生物学的な基盤あるんじゃないかとかそういう話。

パーソナリティ心理学の本道としてはミシェル先生の『 パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解 』がおそらく現在最強の教科書で勉強になった。

 

ビジネス・ゲーム 誰も教えてくれなかった女性の働き方 (光文社知恵の森文庫)
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女性が会社で働くということについて鋭い分析とハウツー。女性は必読。っていうかこういうエンパワが国内でももっと注目されるべきだと思う(政治的にどうかは別にして)。『 会社のルール 男は「野球」で、女は「ままごと」で仕事のオキテを学んだ 』『 女性(あなた)の知らない7つのルール―男たちのビジネス社会で賢く生きる法 』はこの本に影響を受けた同工異曲。どれ読んでも同じだが、とにか重要な観点。

ポジティブ心理学や進化心理学に影響を受けた倫理学まわりの成果が出そうな感じ。まだ発展途上だけど。

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欲望について 』もよかった。

性差科学といえば、これがよかった。非常に慎重。

性差や性分化、性志向などの生物学的な解明については『 科学でわかる男と女になるしくみ ヒトの性は、性染色体だけでは決まらない 』も買ってあげてください。最新の内容のはず。

女性のグループ内力学については『 女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること 』も重要。『 女はなぜ足を引っ張りあうのか 』も笑えた。

子ども向けエリノア・ルーズベルトの伝記。エリノア先生についてはちゃんとした評伝が出版されるべきだと思う。国内ではその業績が十分に理解されていないようだ。政治学の人々に期待。

すごい資料。英米の法律関係についてなんか言わなきゃならんひとは必携。

現代英米情報辞典 』は新しくしてほしい。

倫理学・法哲学まわりで重要なのはこれ。倫理や政治における感情の重要性。

ジュディス・バトラー様とか読んでるヒマがあったらこういうの読んで欲しい。

恋愛ものではこれがとてもおもしろかった。

PUA (Pick-up Artist)という文化があることを教えてもらった。まあナンパの方法なんだけど、カルチャー研究みたいなのにも重要な気がする。あれ、もう入手できないみたいね。

英語読みやすいから

でもいいと思う。かえっておもしろいだろう。

具体的なハウツーは『 確実に女をオトす法則 』だけどこれはまあたいしたことがない。とにかく『ザ・ゲーム』はおもしろいので一読の価値がある。

認知的不協和について。『 なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか 嘘とだましの心理学 』とかも。

行動経済学みたいなんもたくさん読みました。

なぜ直感のほうが上手くいくのか? – 「無意識の知性」が決めている 』、『 なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴 』とかもどうぞ。

あ、番外だけど買ってください。

トムソンの有名なヴァイオリニストの議論とかパーソン論とか正しく読めるようにしました。あと売りはヘアの直観主義批判がどんなものか、とか、死の悪さについての剥奪説が中絶問題に適用されるとどんな問題をひきおこすかとか。あとハーストハウスのやつを読むと徳倫理学ってのがどういうインパクトがあったかがわかるはずです。よろしくおねがいします。

パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

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サポートページは http://yonosuke.net/eguchi/abortion/

生命倫理学とわたし

なんちゃって。「功利主義とわたし」 の兄弟編。

前史

  • 学部~Mのころはなにも考えてなかった。アルバイトだし。卒論はキェルケゴール。修論も。
  • でも小学生のころから医学とか生物とかそっち系の科学とは好きだったねえ。学研(?)の学習マンガシリーズで『人体の不思議』とか『生命の神秘』とか買ってもらってね。小学3~4年生で子どもが『生命の神秘』読んでたら親心配したろうねえ。なんか男性が水撒きホースにぎってましたよ。どういう意味かはさっぱりわかってなかった。次の瞬間には精子が「わーっ!」って泳いでいて、受精して発生がはじまっているという・・・
  • うちのあたりでは学業優秀な子どもは山大医学部に入って医者になるとかそういう感じだったので、自分もそうなるかなとか思ってたような気がする。
  • 高校生物で発生のあたり習ってたときに、「んじゃ人間ていつから人間なんだろうね」とかそういうことを考えたり。文学とかそっちはまってたこともあって、「これは科学の問題じゃないよね」みたいな。大江健三郎先生の『個人的な体験』とかも読んでますた。
  • 高2の物理があれでね。もう赤点の連続。赤点とったのなんかはじめてだったわ(いや、1年生の数Iの最初の方でもとったかな?でもそれはすぐに挽回できた)。とにかく物理は謎。反作用てなんだ!向こうから押してるのはいったい誰だ?ハンマー投げがどっちの方向に飛ぶかわからない。あれはさぼってたのも悪かったけど教師も悪かったわ。
  • まあそんなんで完全に文系になってしまう。あ、高校の思い出じゃなかった。
  • まあとにかくD1ぐらいまでは勉強ってのは誰か偉い人の思想を勉強することだった。

大学院生~OD

  • しかしなんか世間が脳死だなんだかんだって騒いでいるので、そういうことも勉強しないとね、みたいなことに。梅原猛先生とか哲学者代表だし。
  • 研究室の偉い先輩たちが加茂直樹先生を中心に研究会とかやってて、『生命倫理の現在 (SEKAISHISO SEMINAR)*1とかすでに出してた。怖くてどういう人たちか知らなかった。まだ加藤尚武先生のことはアイデンティファイしていない。
  • 加茂先生たちのグループの名誉のために書いておくと、京都で生命倫理の研究が進んだのは加藤先生がいらっしゃる前から。加茂先生のグループと飯田・加藤先生のグループは同時期にまったく独立に活動していたはず。加藤先生の京大就任にともなってそれが融合されるというかそういうグループ分けはなくなるわけだけど。とにかく飯田亘之先生と加茂直樹先生の活動の意義は軽視されすぎ。
  • あ、医学哲学・倫理学会はもっと前から活動しているはずで、そこらへんがどうなっていたのかは私はよく知りません。すみません。偉いです。あと他にもたくさん偉い先生はいらっしゃる。星野一正先生とか木村利人先生とか・・・名前はあげきれないです。
  • 日本生命倫理学会は1988年から。医学哲学・倫理学会はもっと古くて1982年からのはず。
  • 1990年の日記(1990/4/9)にこんなこと書いてるのが「生命倫理」の最初の記述みたい。

情報整理の方法を考える時期にきていると思う。フェミニズムや生命倫理を考えるなら、情報が大事だ。新聞の切り抜きなどは馬鹿らしいが、ある程度情報を集めなくてはならない。どうするか。

  • あれ、これはM2のときだね。それにしても文章が子どもっぽい。
  • 1991年1月16日にはこんな感じ。

また読書会をしようという話がある。今度は生命倫理についてだが、何をネタにしていいのか悩むところだ。

  • 1991年(D1)の年は怖い先生(2年目)が生命倫理の授業を半年やった。『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』が教科書だったか。
  • あれ、けっこう記憶違いがあることに気づく。主に脳死のあたりやったんじゃなかったかなー。そのあとすぐ海外研修に行かれたんよね。半年研究室に教官がいないという状態になったような。
  • まあとにかく読書会なんかしたり。怖い先生はともかく、その前任の先生が非常に寛大な先生だったので、基本的に院生は放置されるのがデフォルトであるという意識。自分たちでいろいろ組織しないとならん。今思えば恐い先生にもっといろいろ教えていただけばよかったんだけど、そういうことをお願いしてはならんのだ、とか思いこんでた。
  • でもこれはもう読書会とはいえないようなお茶飲み会。科哲の大将から見るとこんな感じ。

動物倫理との出会いは、大学院生時代に同じ研究室の先輩や後輩数人とやっていた生命倫理学研究会にさかのぼる。これは雑談とも勉強会ともつかないスタイルでそれぞれのテーマについて話し合う、今から思うとずいぶん生ぬるい研究会だったが、そういうところで勉強したことがあとまで生きることになるのだから分からないものである。(伊勢田哲治、『動物からの倫理学入門』p. 355)

  • ほんとうに人生とは分からないものであるね。
  • でもそれまでの研究室の読書会ってのは、なんかすごい本(『イロニーの概念』とか)を少しずつ読む、ってのが基本スタイルだったみたいなんだけど、この読書会は1回で1本読む、とかそういう感じにしたんだったよな*2
  • 基本的には3~5人ぐらいでBioethicsっていう雑誌の論文を読みましょう、みたいな感じ。へえ、QALYとかってあるんですか、なんかあれだねーとか。なんかそういう感じ。牧歌的。でもそういう勉強スタイルもそれまでの研究室の雰囲気ではなかった。医者呼んできたりもしたり。細長い狭い狭い部屋で和気あいあい・・・でもなかったか。
  • 「千葉大の資料集」というのがあることを知る。ここらへんで加藤尚武先生の名前を知ったのかな。もちろん『バイオエシックスの基礎』の編者として知ってる。「千葉大の資料集」は関西にはあんまり流れてきてなかったず。
  • 1993年に、「千葉大の資料集」にシンガーの妊娠中絶/新生児の治療停止の紹介文を書け、という話が入ってくるのでシンガー読んでなんとか書く。苦労したしけっこう煩悶した。科哲の大将も同じ課題わりあてられたので、読書会でいろいろ意見交換したりしたはず。できたの開けてみると土屋貴志先生が同じのネタにしてスマートなの書いててあれだった。土屋先生もかっこよかったんよねえ。
  • 飯田亘之先生実物が京都に来られて、社交辞令として褒めてくれたり、いくつか助言いただいた記憶がある。でもあれはありがたかった。飯田亘之先生はいろいろ本当に偉いんだよな。どうしても太陽のような加藤先生の陰になって光が当たらないかもしれないけど、日本の生命倫理を研究者組織して本当に立ちあげたのは飯田先生。加藤先生はむしろ宣伝役というかなんというか。
  • 1994年にその加藤先生が教授として就任。
  • 私はこの年から晴れてOD。私は形としては加藤先生の弟子筋ではない*3。でもほんとうにいろいろお世話になりました。
  • 就任前には迎撃体制をとっておこう、ってんで対策読書会したような気がする。「おもしろいけどちょっと具合悪いところもあるね」みたいな感じ。しかし偉大なことはわかった。実際偉大。
  • 奨学金切れて塾講師暗黒時代突入。勉強する時間なんてない。あんまり思い出したくないのだが・・・
  • 1994年に研究室の紀要で生命倫理特集したんだっけか。まあ千葉大の資料集に載せてもらったのを焼き直す。
  • 1994年の12月(OD1年目)に加茂先生たちの生命倫理研究会で発表させてもらったようだ。選択的妊娠中絶の話をしようとしたけど、なにをどう議論していいのかわからなかった。この日はほんとうに最悪の思い出だなあ。朝、「今階段から落ちたら発表しなくてすむかなあ」とか本気で考えた*4。以降この研究会にいろいろ厄介になる。御指導ありがとうございます。
  • 1995年には加藤先生がヒトゲノムプロジェクトの倫理的問題みたいなのでお金をひっぱってくる。偉い。
  • でも時間がなくてちゃんと貢献できず。すみませんごめんなさい。なんか嚢胞性繊維症のスクリーニングみたいなので紹介文書かせてもらうが、勉強不足でだめすぎる。いまだに公開できない。ていうか自分のなかではなかったことになっている。
  • ジョナサン・グラバーの『未来世界の倫理―遺伝子工学とブレイン・コントロール』の翻訳にも参加させてもらう。おもしろい!これは今読んでもおもしろい。
  • まあとにかく人生最大の暗黒時代に襲われていて、生命倫理どころじゃなくなっている。もう自分が生存するだけで必死。
  • でも非常勤の授業では生命倫理とかの講義もたせてもらったりして、とりあえずちょっとずつ勉強はしてた。
  • 信州大学にいる立岩真也先生がなんかすごい文献データベースを作っていることに気づく*5
  • 読書会はけっこう続いたんだけど、科哲の大将が留学することになっていったん終了。あれ、某女史が留学するからだったかな。記憶があいまい。とにかく忙しくて勉強どころではない。
  • 読書会はいまオハイオにいる功利主義女子が主催して第2期に入る。医学部の建物そのものまで侵略してすごい。そのころには私は時々顔出させてもらう程度。「♪とにかく時間が~足りない」
  • いつのまにか、「倫理学本道と生命倫理学あたりの応用倫理学の二本建で業績つくっておかないと就職できないよ」みたいなのが通念になってる。それでいいのかってのはあれだよなあ。

 

RA/常勤職時代

  • 90年代後半には一気に生命倫理とかの本がたくさん出た。
  • 立岩先生の『私的所有論』読んでわけわからず、でもなんか圧倒される*6
  • 運よく給料をいただける身分にしていただく。感謝感謝。
  • でもネタが「情報倫理」とかだから生命倫理のことはあんまり考えてない。
  • 情報倫理は生命倫理ほどおもしろくないなー、みたいな。
  • いやもちろんおもしろいネタもいろいろあるし。
  • このころになってやっと、ちゃんと「イントロダクション」や「ハンドブック」や「リーダー」読んで、お金かけてそれなりに文献集めてから仕事をするのだ、ってことがわかってくる。遅すぎる。でもいまじゃ一般的なこのスタイルは、95年には一般的ではなかったんですよ。
  • まあでも生命倫理は流行でいろんな人がやってるから、情報倫理で一発当てる方があれかな、みたいな感じでさようなら生命倫理学。
  • でも気にはなっていた。
  • 運よく常勤職ゲット!っていうかもらった。
  • わーい。
  • 好きなことしたいなー。
  • やっぱり生命倫理気になるよなー。特に選択的妊娠中絶なー。
  • フェミニズムも気になるんだよなー。大学が大学なだけにフェミニズムもそれなりにまじめに勉強しないと。
  • 井上達夫・加藤秀一論争があったことはこのころに江原先生のやつで知る。まあよくわからん。そんなん大昔に議論されつくしたことじゃん、みたいな印象。
  • 胚の利用とかES細胞とかで世間がさわいでるよ。
  • なんか少し勉強するかねえ。
  • 脳死も勉強しないとね。とかいいつつ4、5年すぎる。
  • と、なんかとにかくトムソンの議論もパーソン論も紹介なんかおかしくね? っていうか森岡先生の『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』あたりからなんかいやな雰囲気だったんだけど。
  • 異議あり!生命・環境倫理学』とかひどいなあ・・・
  • なんか勉強しないで生命倫理について書いてる人が増えてね? 業界が大きくなって海外文献読まずに国内の文献だけで議論してる?
  • 山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』とかもなんかおかしくね?
  • 小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』。こ、これは・・・
  • まあここらへん別ブログで遊んでいたときに発見したわけだけど。
  • 2006年ごろ『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』に遺伝子治療の件とか書かせてもらって生命倫理学に復帰する準備。
  • よく見ると、『バイオエシックスの基礎』の訳はいろいろ問題ありすぎ。もちろん黎明期にはああいう形で出すのは意味があるけど、流行りで生命倫理学やってる研究者たちがちゃんともとの論文読んでないってのはこれはもう許せん。
  • というわけで学会に殴りこみに行くかなあ、とか。2007年ごろ。まず研究会で発表してまわりの人をディスり、学会でも全員ディスる発表して、その原稿を大学の紀要に載せた。今思えば学会誌に載せりゃよかったんだけど、なんか面倒だし、なるべく早く一目に触れる情報にしたかった。
  • 学会はけっこうな人数がいたんだけど、「トゥーリーの議論についてはここにいらっしゃる方々はみな御存知だと思いますが、魔法の子猫について御存知の方はいらっしゃいますか?」って聞いたときは気分よかった。「それではトムソンの最低限良識的なサマリア人はどうですか?」ははは。あれは人生で最高に痛快な一瞬の一つだったかもしれない。
  • でもそういう全力ディスり論文を書くと、「んじゃお前がやれよ」って話になるわけで、翻訳しなおさないわけにはいかんわねえ。
  • でも日本語が不自由でね・・・・天気悪いと仕事にならんし。
  • とかで今に至る。

*1:この本、まだどこかで教科書として使われてるらしい。すごい。

*2:ここで研究室の伝統というか上下の連結がが一回切れているわけだが、それについて今考えるといろんなことがあれだ。まあ苦しかったかもしれん。

*3:そして残念ながら怖い先生の弟子筋とも言いにくい。I’m a self-made man, and am proud of it、と言うべきなのかなあ。

*4:でも逃げなかった自分を褒めてあげたい。

*5:立岩先生はインターネットの威力を一番最初に使った学者の一人だと思う。

*6:ここでなんか反応するべきだったんだよな。

まだパーソン論

“個”からはじめる生命論 (NHKブックス)

“個”からはじめる生命論 (NHKブックス)

  • 作者: 加藤秀一
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 単行本
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興味深いのは、生命倫理の文脈で有力視される功利主義的議論が非常にシンプルな快楽説に
基盤を置いているようにみえることだ。とりわけ「パーソン論」と一括りにされるタイプに
そのことは顕著である。(p. 54)

功利主義と日本でいわれる「パーソン論」はあんまり関係がない。

そうした議論の代表格は、オーストラリアの哲学者マイケル・トゥーリーが
論文「人工妊娠中絶と嬰児殺し」(1972年)で展開したものである。
そこでトゥーリーは、まず「生物学的規定としてのヒト」と「倫理的・道徳的規定としてのヒト」
を区別する。ある存在者が、事実問題として前者に属するとしても、すなわちある意味では
ヒト=人間であるとしても、それだけでは後者の資格を与えられるわけではない。
ヒトは道徳的配慮に値する存在者、言い換えれば「権利の主体」であるためには、
「パーソン」(人格 person)でなければならない。」(p.54-55)

Tooley先生からお返事が来たよ

と粘着している「人格を持つって言えるか」問題。

トゥーリー先生から非常に親切な長文のお返事が来た。恐縮。
とりあえず一番重要な箇所だけ。

Finally, with regard to the “one has a person” statement, one should
interpret “one has” as equivalent to “there is”. I don’t want to say,
in this context, “one is a person”, for it suggests that there is
something, referred to by the term “one”, that initially is not a
person, and then becomes a person. Of course, there is an organism
that, initially, is not a person, and then becomes a person, but I want
to use the term “one” as a personal pronoun, and so I do not want to
use it to refer to organisms that are not persons. But I could have
said, instead, “the point at which it is a person”.

やっぱりぼんやりとした一般の人を指すoneでした。
よかったよかった。ほんとに一時期は冷や汗かいた。
おそらく児玉聡先生もこれ読んでると思うので、
いずれweb直してくれるだろう。

トゥーリー先生にも御礼書かなきゃな。ちなみに先生はスキーが好きらしい。

でもよくメールを読みなおすと色々難しい。
上の件(「パーソンを持つ」とは言わない)はそれでいいんだけど、
1983年から”person”の定義を変えたんだな。

なんでこだわんなきゃならんのだろうか

「胎児は人格でないといっても、胎児は人格を持たないといっても、誤解さ
れる程度はたいして変わらないのではないか」という意味のコメントをもらった。

どうなんだろう。なんで私はこだわってるのかな。難しいな。

たしかにトゥーリーなりシンガーなり読んだ人はわかるから、
一度そこらへん読んだひとは「人格をもつ」だろうが「人格である」だろうが
言いたいことはわかるよな。
マイケルの(なんちゃって。トゥーリー先生の)論文が
「嬰児は人格をもつか」っていうタイトルで流通して生命倫理学者が皆平気で誰も文句つけなかった(?)のは
そういうことなんだろう。

おそらく私が恐れているのは(何度もここで攻撃している)悪しき伝言ゲームが
広がることなんだろう。
決定的に問題だと思うのは、「である」と「もつ」をだいたい同じように使うような
習慣がついてしまうと、「ひと」と「人格」が同じ意味なのがわかりにくく
なってしまうことなんだと思う。

personは法的・道徳的な文脈で「ひと」っていう意味だ。
「ひとに親切にしましょう」「ひとを殺
してはいけません」「ひとを殺したものは~の刑に処す」
という時に使われる意味での「ひと」。一方、「人格」は
ふつうの日本語では「あの人の人格は複雑だ」とかっていう使われかたをする。
personalityやcharacter traits。このpersonとpersonalityのふたつは同じ日本語になってしまっているから、どうしても混同されやすいと思
う。でもこれは歴史的な経緯があるからしょうがないが、無駄な誤解や混同はできるだけ避けたい。

「子供の人格を尊重する」とか「レイプは女性の人格に対する攻撃だ」
「性=人格」とかってときに使われているときの「人格」はもはやどっちの意味かわからんほど
ぐしゃぐしゃになってる。これについては前に書いたな。
らへん。読みにくい文章だ。反省。

まあとにかく「person」と「人格」と「ひと」は同じ意味のはずなのに、
パーソン論の話をするときに「人格」という言葉を使うから、
「胎児はまだ人格ではない」「胎児はまだ人格を持たない」はほとんど同じように見えている。
でも「ひと」を使えば、「胎児はひとではない」「胎児はまだひとを持たない」になって、
ぜんぜん違ってしまう。その結果、「人格」と「ひと」がもともと同じ言葉だって
のがわかりにくくなってしまうだろう。

恐れているのは、伝言ゲームの結果、この混乱が広がってしまうこと
なんだろうと思う。「性=人格」のときのように無駄な議論をしなきゃならないようになる。
実際に伝言ゲームの2列目にいると思われる小松先生ににはすでにその気があるし、
その次の伝言ゲームではもっとひどいことになるだろう。やっぱりまちがった伝言ゲームは
根元で抑えないと。権威とかそういうのは批判にさらされて生き残っているからこそ信用できる。
去年私がここで学んだのはそういうことだったんだと思う。

は。でもこんな細かいことまあどうでもよいといえばどうでもよいような気もしてきた。
別に日本の生命倫理学業界とかフェミズム業界とかブログ論壇とかほんとの論壇とか養老業界とかそういうのをアレしたいとかってわけでもないわけだし
(いや、あるかな)。
なんでどうでもよくないとか思うんだろう。これが卓越性のゲームってやつか。でも
まあ微力でもなんかの(なんの?)力になりたいような感覚はあるよなあ。

Clarity and consistency in our moral thinking is likely, in the long run, to lead us to hold better views on ethical issues. (Peter Singer) から孫引き

これ好きだし信じてんだよな。and it will make the world betterとか。これはなんちゃってな話。