妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。

まず反妊娠中絶論で最も普及している形(A)は、「前提1―罪のない人を殺す(死なせる)ことは不正である。」および「前提2―胎児は罪のない人である。」ことから、「結論―胎児を殺すこと(=中絶)は不正である。」という論法を取る。

これに対して、マーキス (1989)を初めここ20年注目されている反妊娠中絶論(B)は、「前提1―殺人が不正なのは、被害者から我々と同じ価値ある未来を奪うからである」および「前提2―中絶は他事から我々と同じ価値ある将来を奪う」ことから、「結論―中絶は殺人とまったく同じ程度に(あるいはそれ以上に)不正である」と論じる。

もう一つ、有望な反妊娠中絶論(C)は、Hare (1975)やGensler (1986)による黄金律型の推論である。そこでは、「あなたがしてほしくないことを他の人にするな」および「あなたのしてほしいように他の人にせよ」との黄金律に基づき、「我々は中絶されずに生まれてきたことを喜ばしいと思う」すなわち「胎児の立場に立てば、中絶されないことを望む」、それゆえ(特に特別の理由がない場合は)中絶しないべきである、と論じる。これら中絶反対論はどれも一見して強力なものである。

一方、妊娠中絶を正当化する論理としては、女性たちの感情や感覚に基づくもの、功利主義、進退に対する権利論、パーソン(「人」、権利主体)論などがある。このうち「胎児はまだ他人として感じられないので他人ではない」などと論じる単なる感情や感覚に基づいた議論は、たとえば「動物は人だとは思えないから苦しめてもよい」とか、「女性は同じ人間だとは思えないから平等に扱わなくてもよい」という議論がおかしいのと同様に説得力に欠ける。妊娠中絶を正当化するには、単なる感情や感覚以上の根拠が必要である。

一方、帰結主義・功利主義による妊娠中絶正当化の議論の方がまだしも説得力がある。たとえばSingerは親(特に母親)と未発達な胎児の利益を比較衡量して母親の利益の方が重大だとする。Hareは胎児を代替可能な存在とみなしたうえで、後にもっとよい条件でより幸福に生きられる子どもがいるならば中絶は正当化されるという。ただし、これは法的に中絶を合法化するかどうかの議論にすぎず、道徳的な議論ではない。

他方、Thomson(1971)は、自分の身体に対する権利を主張して、バイオリニストとつながれたままになる義務はない、胎児は母親の身体を使用する権利はもっていないのだから中絶しても胎児の権利を侵害したとは言えないと論じる。ただしトムソンの議論のうち、「AがBに対して善行することが道徳的な義務であっても、BがAに対して善行される権利をもつわけではない」ことや、女性にだけ「善きサマリア人」であることを求めるのは不平等であり不正義だという主張は見落としてはならない。

しかし、トムソンの「胎児の生命に対する権利」への反論は不十分であり、また「自発的に産むことを選択し妊娠した胎児にのみ責任がある」と想定しているのは、Beckwithの「家族(肉親)は選ぶことができないが義務を負う関係にある」とする自発主義批判を乗り越えられない。結局、「身体に対する権利」の議論も、法的な規制に対する反対する議論としては悪くないが、倫理的な議論としては不十分である。

他にWarren (1973)に代表される(国内でよく知られているTooley 1972は代表的ではない)パーソン論は、典型的な「人」(権利をもつ存在)の条件を列挙するが、これでは新生児や重度意識障碍者まで「人々」ではないことになるという難点がある。

結論としては、リプロダクティブ・ライツに含まれる「中絶の権利」を主張するのはかなり困難であり、「自分の身体に対する権利」だけでは法的にはクリアできても倫理的には不十分である。基本的にはパーソン論を取るか、功利主義を取るかの二択である。もしくはそれ以外の選択肢を考えるべきである。


Beckwith, Francis J. (1998) “Arguments from Bodily Rights: A Critical Analysis,” in Louis Pojman and Francis J. Beckwith eds. The Abortion Controversy, Wadworth, 2nd edition.
Gensler, Harry J. (1986) “A Kantian Argument against Abortion,” Philosophical Studies, Vol. 49. Reprinted in as “The Golden Rule Argument against Abortion”.
Hare, R. M. (1975) “Abortion and the Golden Rule,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 4, No. 3. (R. M. ヘア,「妊娠中絶と黄金律」,奥野満里子訳,江口聡編監訳『妊娠中絶の生命倫理学』,勁草書房,2011).
Marquis, Don (1989) “Why Abortion Is Immoral,” The Journal of Philosophy, Vol. 86, No. 4. (ドン・マーキス,「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」,山本圭一郎訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Singer, Peter (1993) Practical Ethics, Cambridge University Press, 2nd edition. (ピーター・シンガー, 『実践の倫理』新版, 山内友三郎・塚崎智監訳, 昭和堂, 1999).
Thomson, Judith Jarvis (1971) “A Defense of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 1. (ジュディス・トムソン,「妊娠中絶の擁護」,塚原久美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Tooley, Michael (1972) “Abortion and Infanticide,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 2, No. 1. (マイケル・トゥーリー,「妊娠中絶と新生児殺し」,神崎宣次訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).
Warren, Mary Anne (1973) “The Moral and Legal Status of Abortion,” The Monist, Vol. 57. (メアリ・アン・ウォレン,「妊娠中絶の法的・道徳的位置づけ」,鶴田尚美訳,江口聡編監訳,『妊娠中絶の生命倫理』,勁草書房,2011).

引用・参照の方法

本文

文献リストにあげたから勝手に情報や文章そのものを使ってよいわけではない。とりあえず初心者のうちはいちいち参照せよ

初心者のうちはもう面倒だからなんでも参照つけちゃえ。

  • 「伊勢田哲治によれば、〜である(伊勢田 2005, p.10)。」

長い理屈とかを書くときはこれでは難しいので、次のように

  • 「伊勢田哲治は次のように主張する。〜である。〜である。したがって〜なのだから、〜である(伊勢田2005, pp. 13-15))。」

「〜によれば」が多すぎるとかっこ悪いときは、文献参照だけで済ませることもできる。

  • 「〜である(伊勢田 2005, p. 10)。」複数ページになる場合は、「伊勢田によれば〜〜である(伊勢田 2005, pp.10-13)。

いかにもかっこわるいけどね。でも誰の調査結果か、誰の主張かを明確にするのはレポートの基本。慣れてくると省いてよいところがわかってきます。

ページ数まで必要かどうかは文脈による。迷ったらつけておけ。

文章(あるいは文章の一部)をそのまま使用する場合は「」でくくれ

  • 「伊勢田によれば、「〜〜〜(そのまんまの文章)〜〜〜」である(伊勢田 2005, p.10)」

でも基本的には情報源をパラフレーズ(自分の言葉で書き直す)する。そのまま引用するのは特に重要な箇所にしぼる。どこが「特に重要」でどこが重要でないかを見分けるのが勉強。

例外:多くの人に広く認めていることは参照する必要がない。

上で書いた「省いてよい」のは、(1) 自分のオリジナルなアイディア(当然)、(2)誰でも知ってること、一般的なこと、当然なこと。

  • ×「太陽は東から昇る(バカボンのパパ、1973)」

難しいんだけど、3、4冊の本/論文で特に誰それのアイディアだと明記されずにのってるやつはそのまま書いてもよい。

勉強が進んでくると、どれがふつうのアイディアでどれが著者のオリジナルなアイディアかわかってくる。それが勉強。だから初心者のうちはいちいち出典つける。

文献リスト

文献リストの書き方は大きく分けて2種類。

 
伊勢田哲治、『哲学思考トレーニング』、ちくま新書、2005。

という順番。伝統的。人文系の研究者に多い。筆者、『タイトル』、出版社、年。もう一つは、

 
伊勢田哲治 (2005)、『哲学思考トレーニング』、ちくま新書。

という順番。筆者 (発行年)、『タイトル』、出版社。年を筆者の次に置くのね。Author-Yearスタイルと呼ばれます。文章中で参照しやすいのでこっちが理系・社会科学系で優勢。上のように「〜である(伊勢田、2005)。」のように書くときはこっちを使用する。

あとほんとは「ちくま新書」じゃなくて「ちくま書房」だけど、まあこの方がわかりやすいかと私はこういうスタイルにしてます。

論文の場合は

 
江口聡 (2007)「国内の生命倫理学における「パーソン論」の受容」、『現代社会研究』、第10号、京都女子大学。

のようになります。著者、「タイトル」、『雑誌名』、巻号、年、その他の情報。雑誌なんかがマイナーな場合は上のようにさらに詳細な情報をつけるのもいいですね。

複数の人が書いている図書のなかの一章を指す場合は、

 
江口聡 (2010)「ポルノグラフィと憎悪表現」、北田暁大編、『自由への問い(4):コミュニケーション」、岩波書店。

のように。その章を書いた筆者とタイトルを先に出して、それが収録されている本を次に。

Webの情報は難しいんだけど、とりあえず次のように

 
スタイルAに準ずる 江口聡、「引用・参照の方法」、http://yonosuke.net/eguchi/memo/citation.html 、2011年2月2日閲覧。

著者、「タイトル」、URL、閲覧日ぐらいは最低の情報。Wikipediaの場合はWikipedia推奨の方法があります。

「関係性」の議論にも苦しんでいます

「進捗だめです」のかわりに。あれは飽きてしまった。

ドゥルシラ・コーネル先生の議論にも困ってるんですが、国内にたくさんいる「関係性」の人々にも困ってるですよね。「女性と胎児の関係性が大事なのだから、女性の決定を尊重しなければならない」ってまあそういう感じの議論。もちろんこれでかまわないんだけど、これを言うためには胎児の権利や利益とかそういうのは女性の権利や利益ほどじゃないことを立証しておかなきゃならないと思うんです。私は。でも「線引きはだめだ」みたいな議論をする人がいる。ほとんど誰も、新生児を親の意志によって処分してよいとは考えないわけだから、胎児が新生児とは違うことを言わなきゃならんはずなのに、なぜかそうした議論が避けられているように思える。

伊佐智子先生の一連の論考「人工妊娠中絶における女性と胎児」「生命倫理と権利概念」「生む権利としてのリプロダクティブ・ライツ」「わが国のリプロダクティブ・ライツをめぐる問題状況と議論状況について」や、森脇健介先生の「いわゆる「中絶の権利」に関する一考察」とか読みなおしてもよくわからない。森脇先生のはよく書けているように見えて、もう一つ納得できない。

もちろん、ドゥオーキンやコーネルのように「法的に人じゃないんだから人じゃないよ」ってやるんだったらまあそれはそれでいいんですけどね。でも国内でその強硬ラインをとる人はそれほどいないみたいですね。

けっきょく私は、なぜ多くの論者たちが(かなり保守的な態度の人を除いて)「人とはなにか」というパーソン論問題を回避できると考えているかわからないのです。そしてこれが、大学院生のころから25年くらいずっと謎で、今年研究させてもらっていることの核の一つなわけです。

もちろん胎児は権利もってないとか、権利もってるとしても非常に限られているとか、母親の権利によってオーバーライドされるとか、そもそも利益ももってないとか、いろんな議論をすることは可能で、それがまさに英米でやってるパーソン論なわけです。なぜこんなほとんど自明なことが理解されていないのか、私にはほんとうにわからない。まああまりにも自明だからみんな書いてないだけかと思うんですが、これほどまでみんな同じような書き方をしていると不安になります。私の読み方がおかしいのかもしれない。っていうか、みんな当たり前と思ってることを私が理解してないだけかもしれない。すげー不安。私は自分に自信がないので、「おかしいだろ」ってすぐには言えないんです。実際読めてないことも多いし。

昔、某先生と飲み屋で議論したとき(立岩先生ではない)はけっきょく胎児の道徳的地位は女性より低いのだと考えていると認めてもらいましたが、それをはっきり認めてくれる人はあんまりいないです。

ついでに書いておくと、もう一ついやなのが、妊娠中絶の権利を認めながら、選択的妊娠中絶は認めない、っていう立場をとる人がけっこういるんですが、これの根拠がよくわからない。特に「関係性」の人びとがどうやってそうした判断を正当化するのかわからない。もちろんそこそこうまくやる議論はある。たとえばExpressivist Argumentと呼ばれてるやつは、選択的妊娠中絶が障害者に対するメッセージになるから不正なのだ、と議論するわけですが、そこらへん明示的に利用しているものはあんまり見ない。

なんで「人」や「権利」の議論が嫌われるのか、ってのの仮説はいくつかあるんですが。

  1. 森岡先生あたりからはじまる「パーソン論」に対する各種の誤解。これはずっと前にいくつか書きましたね。とくに「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなの。それにしても最近の文献見ても森岡先生の影響力の強さには驚かされます。たとえば小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』でも先生の1988の本の議論がそのまま踏襲されている。
  2. 「権利」てのがなんであるかよく理解されてない。権利ってのはギリギリの切り札なんすよ。っていうか、道徳的に許容できる/できない morally permissible / impermissibleってのが理解されてない気がする。
  3. 強硬なプロライフがあまりいない。昔は澤田愛子先生、今だと秋葉悦子先生とかがんばってらっしゃるのですが、あんまり読まれてない。そもそもプロライフの議論が十分に紹介されていない。はっきりした敵がいないからギリギリにつめた議論でなくとも通用するのかもしれない。
  4. キリスト教や英米(特にアメリカ)に対する偏見。上と関係するんですが、キリスト教、特にバチカン系の人がプロライフでがんばってるんですが、それが、独特の宗教的信念に基づいているとして偏見に近いものとして片づけられている。彼ら彼女らはそういう宗教的な議論はあんまりしてないです。少なくとも「バチカンの言うことを聞けー」みたいな議論はしない。

まあもっとありますね。ここらへんはまあ歴史的特殊事情ですわね。もっと心理的ななにかがあるんではないかという気もしてます。

ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。彼女の中絶についての議論が紹介されたのは1998年の『現代思想』に載った「寸断された自己とさまよえる子宮」でわりと注目されたんじゃないでしょうか。それが収録されている『イマジナリーな領域』の翻訳が出たのが2006年で、それ以降はフェミニズム系の人が中絶の議論するときは非常によく取りあげられている印象です。塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブライツ』でもとりあげられてますね。

私このコーネル先生が苦手なんですわ。ジュディスバトラー先生ほどではないけど。レトリック過剰なところがあるし、ラカンの「鏡像段階とかひっぱって来るのとか、なぜその必要があるのかわからないし。

まあとにかく彼女の中絶の権利の擁護の議論は、簡単に言うと、我々にとって自分の身体の統一性は非常に大事であり、それは自分のイマジナリーを反映するものじゃないとならん。望まない妊娠は身体統一性を損うものである。したがって、女性の中絶の権利を否定して、妊娠の継続・出産を強要するのは平等に反するし、女性の格下げである。したがって女性がオンデマンドで(つまり、あらゆる事情を理由に)中絶する法的権利が必要だ、ぐらいだと思います。

私がこの議論がよくわからなかったのは、ラカンとか持ちだされてくるのもよくわからなかったのもあるのですが、プロライフの人たちが主張している胎児の権利とか生命の価値とかどうなってんの、ってことですわね。特に、国内でこの議論を紹介する人の多く(確認してないけど)が、いわゆる「パーソン論」に触れてその欠陥を指摘してからコーネル先生の議論を援用する、って形になってたのがよくわからなかったわけです。

だってそりゃ身体の統一性なるものはたしかに重要だとは思いますが、胎児が権利をもっていたり、その生命が大きな価値をもっているのならば、女性の身体の統一性という価値と胎児の生命との間で葛藤が起こるわけですからね。なぜ女性の身体の統一性が優先するのだろう、と思ってました。

まあコーネル先生の議論をそのまま使わないまでも、女性と胎児の関係は特別な関係なのであるから云々、という議論はよく見られます。これも私は同じように納得してなかった。いやもちろん言いたいことは十分よくわかるのですが、「パーソン論」とらないんだったら、プロライフの人の(けっこう堅い)理屈をどうするの、っていうのがわからなかった。

ここ数日コーネル先生の議論を読み直してたんですが、彼女の議論そのものもすごくわかりにくいんですね。彼女は基本的にほとんど、米国の中絶裁判判決文と、ロナルド・ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』の議論だけを相手にしていて、哲学的生命倫理学の文献はほとんど見てないんですわ。「パーソン論」だけじゃなく、プロライフの人々の議論さえ参照してない。

んで、私のここまでの理解では、ドゥオーキン先生が『ライフズ・ドミニオン』でだいたいロー判決(妊娠初期の中絶を禁止するのは違憲。ただし、中期〜後期になるにしたがって州が一定種の規制をおこなうのは場合によっては可能だ、ぐらいの判決)を追認する形の議論しているに対して、「いやそれじゃぬるい、もっとオンデマンドに近い形で中絶できる権利を認めろ」ってやってるわけです。

しかしこれ、ドゥオーキン先生もそうなんですが、けっきょくはっきり言って、胎児をパーソンと認めてないんすよね。そしてその理由は示されていない、っていうかまあはっきりいって、米国憲法では胎児はパーソンではないから、ぐらいの根拠なわけです。

これ私おかしいと思いますね。もしそんなことが言えるのであれば、わざわざ「パーソン論」とかトムソン先生の「自分の身体を使用する権利」とかでがんばる必要がないわけですからね。まあとにかくコーネル先生のプロライフ論者の無視っぷり、完全シカトは私おかしいと思います。女性と胎児の特殊な関係をもっと真面目に考えろ、ってのなら、Margaret Olivia Little先生の”Abortion, Intimacy, and Duty to Gestate”とかLaura Purdy先生の”Are Pregnant Women Fetal Containers?”とか優秀な論文が他にあると思うし。

少なくとも、国内で「パーソン論」に批判的な論者がドゥオーキンやコーネルの議論を採用することはできないと思う。なんらかの「パーソン論」、あるいは胎児の生命権、あるいはほとんどすべての権利を否定する議論を提出する必要があるはず。なんでこういうことになってるんですかね、とか。

まあ譲って、ドゥオーキンやコーネルの議論は米国憲法の上でどういう法が可能だったり要求されるかとう議論である、とするならそれでいいんですけど、これと道徳的なレベルの議論は混同するべきではないと思う。私は道徳的なレベルの話に興味がある。なぜ胎児は人としての権利をもってないのか、という疑問に対する答が、「憲法では人じゃないから」では満足できない。なぜ憲法や他の法で人と認める必要がないのか、というのが知りたい。

私まちがってんのかなあ。不安。もうすこし読んで考えます。

イマジナリーな領域―中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント
ドゥルシラ コーネル
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ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由
ロナルド・ドゥオーキン Ronald Dworkin
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産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム
山根 純佳
勁草書房
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中絶権の憲法哲学的研究: アメリカ憲法判例を踏まえて
小林 直三
法律文化社
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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
塚原 久美
勁草書房
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んでいろいろ文献見てて雑感。

研修中とはいえ、そろそろ来年度のシラバス考えたりしなきゃならないわけです。私は哲学とかのおもしろみっていうのは、常識的な意見とか、他の人の意見とかを批判してなんか真理みたいなところに近づいていくところにあると思っているわけですが、そういうのってもちろん他の人とディスカッションしたりするのが一番なんですが、対立する論文を読み比べてみたり、論争を追っ掛けてみたりするのがいいんですよね。

でも国内では論文そのものがあんまりないから学生様に読ませることができない。さすがに英語で読めってわけにはいかんですしねえ。英米の大学のシラバスなんか見てると、毎週2、3本の抜粋なり論文なり読んでいろいろやってるみたいでうらやましい。日本で同じことをしようとすると翻訳からしなきゃならなかったりするわけでねえ。教科書そんなたくさん買わせるわけにもいかんし。だいたい、一人の人間が書いた教科書とか、あるい論争の紹介なんてのは迫力がないんすよね。

進捗どうですか (7)

進捗だめです。

先週はひどい週だったので、今週はいろいろ考えて活動しよう、みたいな。

なんといっても自分が何やってるのか記録をとってモニタリングするのが大事だろう、ってのでいろいろ勉強したり。

デヴィッド・バーンズ先生の『フィーリングGoodハンドブック』や、アブラモヴィッツの『ストレス軽減ワークブック』、ミルテンバーガー先生の『行動変容法入門』とか読んで先延ばしをふせぐための各種の工夫とか。紹介されているテクニックはどれもだいたい同じようなもんで、多くは「ライフハック」とかって名前で紹介されているものですね。ネットでも「行動記録 ライフハック」とかで検索するといろいろ出てきます。たとえば;とか。それにしても『行動変容法入門』はなんか人間を訓練するべき犬とかと同じように見てて怖くておもしろいです。20世紀なかばのアメリカの心理学実験室とかを連想しました。

とりあえず30分刻みぐらいで自分がなにをしているのか記録することに。前はTogglっていうアプリ使ってたけどもうひとつので、紙やエディタに適当に書いてく方がよさそう。今回はこんな感じでエディタに記録してみました。

08:00 準備、認知療法本読む
:30 執筆パーソン論
09:00 台所掃除
10:00 パーソン論
:00 パーソン論
11:00 パーソン論
:30 ジムへ移動
12:00 ジム

なんかいい歳してこんなことしているのは情けないですが、そういう自分に対する躾みたいなのをちゃんとしてこなかったためにこういう惨めなことになっているのでしょうがない。

今週の一番大きな課題は、2週間前に発表したパーソン論のその後みたいなのを紀要に載せるために書きなおすって作業でした。まあ上のような記録残しながらやったおかげでなんとか提出。「研究ノート」でいいや。

次は某フォーラムで発表するための幸福の話のリサーチと原稿書きしなければならないのですが、性的な同意の話なんかを読んだりしてしまいました。実はこっちの方の研究も「研究計画」に書いているのでやらねばならないのです。以前読んでたWertheimerのConsent to Sexual Relationsっていうのを読みなおしたり、関連する論文読んだりしながらブログ書いたり。

これの関係で自由と責任の話で有名なFischer & RavizzaのResponsibility and Control読んだり。たしかにこれは重要な本だということを確認したり。哲学関係の英語の本を1冊丸々読む、というのは時間の余裕がないとできないのでこの研修期間は貴重です。感謝感謝。

あとなんとか某学会の某原稿をあれしました。これはほんとうはもっとちゃんとやるべきだったかもしれないけど、やってもあんまり読まれないものだし、心理的にも手がつけられないから終り。

でもまあわりと私にしては生産的な1週間だったかなあ。その反動か土日はなんかどっと疲れが出たような感じで寝まくってしまいました。

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進捗どうですか (5)

進捗だめです。

2週間おきの月曜に書こうと思ってたんですが、間があいてしまいました。もう記憶がよくなくて2週間も前のことっていうのはおぼえてないので、毎週日曜日に書けたらいいなと思うです。

ちょっと記録見てみると(断片的な記録はいろんな形で残してます)、5月の最後はなんか脳死の勉強してましたね。実は私脳死については論文もどきとか書いたことないし、授業でもほとんどとりあげないので、有名論文とかまじめにあたってなかったんですわ。Michael B. green & Daniel Wiklerの”Brain death and personal identity” (1980)とか古いけどすごく優秀な論文だなあ、とか今ごろ感心してたり。ここらへんの有名論文もアンソロジー欲しいですね。

そのあとは、昨日土曜日の研究会で発表するためのレジュメを書く準備してあっというまの2週間でした。あせるばかりでちゃんと書けない。実際にキーボード叩いて文章を書いたのは3日ぐらいだけど、それまで同じ本や論文何回も読んだりうだうだしたりでもうねえ。とりあえず書いたのはこういうかんじ。

「パーソン論はどうなったの? 我々と同じ将来説、動物説、時間相対的利益説」

なんか文章おかしいところもあるし内容もつめきれてないけど今できるのはこんなもん。

それにしても文章書くの苦手で、それだけで大学教員とかになるべきじゃなかったって思いますね。こういうブログやツイッターみたいなのはそれほど嫌いじゃないのですが、論文みたいな形が決まったものは本当に苦手です。

研究会はいろいろ勉強になりました。自分のはまああれだけど、他のは動物実験反対とか不妊治療とか優先主義とか精神医療と地域社会とか。内容も勉強になったし、文章うまい先生のとか見ていろいろ考えたたり。優先主義とかせめて話がわかる程度に勉強しとかなきゃならんな、とか。

まああとそういう研究会とか出ちゃうとちょっと攻撃的になっちゃってだめだ、みたいなのは今回もあれしましたね。これは自分でも困ってるんですけどね。口を開けば攻撃的になるというのはこれはやばい。研究会とか学会とか、ここしばらく意識的におとなしくしてたんですが、どうもあれです。これも落ちついた大人になれないまま終ってしまいそうです。

これから夏本番に向けて、翻訳とか某発表とか某発表とかまだまだ仕事があって、ぜんぜん休むヒマがなくて、かえって仕事しすぎで早死にするんじゃないかとか心配したり。やばい。

進捗どうですか (1)

やはり研修とか研究とかといえば、進捗どうですか、ということになりますね。

この言葉私30代なかばまで知りませんでした。某プロジェクトのリサーチアソシエートとかっていうのに雇ってもらってから「シンポジウム開催準備の進捗どうなんだ」みたいな言われかたして、「シンチョクってなんですか」みたいな。「捗る」って漢字書けなかったですね。

まあ研修にはいってあっというまに2週間すぎちゃいました。「進捗どうですか?」「進捗だめです。」で終ってしまう。

やっぱりなにごもとも記録が大事っすよね。記録のこしとかないとなにしたか忘れちゃう。

ええと。なにやったかなあ。

1. 仕事環境の整備

やはりなにごとも環境です。iMac 21”をもちかえり、システムディスクを新しく作りました。外付けディスクから起動してたんだけど、10.8のままだった内蔵ディスクもMavericsに。ははは。

PDFとかはMendeleyで管理してるんですが、これなんか不具合あるような気がしたのでアカウントとりなおして再構築。時間の無駄。

あとはたいしたことしなかったな。EvernoteとかRemember the MilkとかEmacsとかMacTeXとかふつうの環境。文献リストはBibTeX。Emacsのbibtexモード。

2. 文献調査

研究計画に「(1) パーソン論の現代的検討については、1970〜90年代の古典的パーソン論を総括したのちに、Jeff McMahan、David Boonin、David DeGraziaの3人の現代の論者の「現代的パーソン論」を検討し、中絶や脳死にかかわる「人格」概念がどのように批判され更新されたかを評価する」とかって書いたんでまあここらへんからはじめます。っていうか、この3人の議論を把握して検討して紹介できたらだいたい研修成功ですね。(「現代的パーソン論」は適当すぎだけどまあ「研究計画」なのでわかりやすいように)

2週間かけてDeGrazia先生のPersonal Identity and EthicsCreation Ethicsの2冊なんとか目を通したんですが、この先生はいいですね。特にCreation Ethicsは生殖関係の生命倫理やりたい人は必読です。基本的な議論のおさらいと議論の定跡がわかる。

あと、(中絶論文翻訳本でお世話になった)塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブ・ライツ』、柘植あづみ先生の『生殖技術』、荻野美穂先生の『女のからだ』あたり読んだり。

日本の中絶とパーソン論まわりの論文を読みなおしたり。論文のコメントつき一覧を作ってみてるんですが、まだ公開できない。なにを言っているのかよくわからない論文が多くて正直つらいです。

1980年代末から千葉大学で飯田亘之先生や加藤尚武先生が生命倫理学に関する「資料集」を出していて、それを見直したり。いろいろ小さな発見があっておもしろい。この資料集シリーズは20世紀後半の日本の生命倫理学の発展を見直す上で貴重な資料なので、PDFにしてもってます。必要な人は連絡してください。

Human Identity and Bioethics
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David DeGrazia
Cambridge University Press

Creation Ethics: Reproduction, Genetics, and Quality of Life
David Degrazia
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A Defense of Abortion (Cambridge Studies in Philosophy and Public Policy)
David Boonin
Cambridge University Press
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The Ethics of Killing: Problems at the Margins of Life (Oxford Ethics Series)
Jeff McMahan
Oxford University Press, U.S.A.
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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
塚原 久美
勁草書房
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生殖技術――不妊治療と再生医療は社会に何をもたらすか
柘植 あづみ
みすず書房
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女のからだ――フェミニズム以後 (岩波新書)
荻野 美穂
岩波書店
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パーソンとペルソナとローマ法

まあどうでもいいことですが、論文いくつか読みなおしているなかに「生命倫理のパーソンの概念はラテン語のペルソナから来ていて、これはキリスト教の三位一体の〜」みたいな話が出てくることがあるんですわね(キリスト教出してこない人は「ペルソナは仮面を意味していて〜」みたいになる)。

まあ英語の「パーソン」がラテン語の「ペルソナ」から来てるのはそりゃわかるんですが、それがどうだっていうんですかね。私はわからんです。

いろいろざっと見てみたところでは、パーソン論は少なくともキリスト教の神の三位一体とかとはぜんぜん関係ないみたいですね。もし「パーソン論」がラテン語の「ペルソナ」と関係するとしたら、それはおそらくローマ法の分類が「人」と「物」と「行為」の三種に分類されるからですわね。つまり、ローマ法は「ある人がどんな権利をもっているか、人と人はどういう関係にあるか」「ある物(財産)についての権利はどのようになっているか」「どういう行為が不法であるか」というふうに分類されていたんですわ。まあ人と物をいっしょに扱うわけにはいかんですからね。

この「人」「物」「行為」の分類は重要で、18世紀のブラックストンによる英国コモンローの注釈書とか、フランスのナポレオン法典とかにそのまんま使われてるわけです。早い話、ヨーロッパ的な法の体系にかわわっている。そういうわけでパーソン論がラテン語の「ペルソナ」と関係あるんだよ、って話は、パーソン論が法や権利にかかわる話であるかぎりは当然であるていどの話なんではないかと思いますね。それ以上なにがあるかはまだよくわからんです。

パーソン論その後/道徳的地位

大学教員という職業はヒマそうに見えて実は忙しい。特に私学の教員とかってのは夏ぐらいしか勉強する時間がとれないんですわ。学期中は授業させてもらったりいろんな会議に参加させてもらったりその他の事務仕事させてもらったり学生様の勉強のお世話をさせてもらってりしていて、やりたい勉強をする時間がない。お盆ぐらいまでレポートの採点とかして、お盆あけてから2週間ぐらいに勉強しないとならんわけです。まあそのあいだに秋の学会の準備したりもする。だから休みとかない。夏休みじゃなくて夏勉強。ははは。

やっぱりパーソン論まわりは長いこと気になっているので、この夏はなんとか論文何本かまとめたい、みたいなことを考えていろんな本やコピーした論文眺めてみたり。眺めてるだけ。ははは。

しかしパーソン論関係の論文は国内では山ほどあるんだけど、どれも判を押したように同じようなこと書いてないっていうかなんというか、うんざりしました。せめてお互いに参照するなり引用するなりしたらいいのに、みんな同じ限られた文献を見て同じような結論に到達してる、みたいな。正直いらいらします。この状況をなんとか変えたいとか思いなおすのでした。

まあそもそも「パーソンかどうか、その基準はなにか」みたいなことはもう古くさくてしょうがないんですわね。英米圏では誰もそんなことは議論してない。少なくとも2000年ぐらいからは、パーソンかどうか、とかって二分法で考えるよりは、moral statusとかmoral standingみたいな形で、それぞれの生命にどういう(道徳的)価値があるだろうか、みたいに議論するのが一般的な形だと思うです。

一番最初に「パーソン」の基準とか提出したメアリ・アン・ウォレン先生(なむなむ)なんかは各種の道徳的地位の基準を検討して、いくつかの原則のミックスじゃないとだめみたいね、みたいな結論になってます。道徳的行為者でありえるかとか、ホモサピエンスは特別かとか、感覚の有無とか、有機体(生物)はやっぱり価値があるわね、とか、「関係」が大事だ、とかまあいろいろある。

ウォレン先生が最終的に提出している原則は、以下の順番になる。

  1. 生命に対する敬意の原則。生命は理由なく殺したり破壊しちゃだめ。
  2. 虐待禁止の原則。殺さなきゃならない理由がある場合でも、虐待や残酷はいかん。苦痛は最小限にするべき。
  3. 道徳的行為者の原則。(理性をもっていて)道徳的に行為できる存在者はやっぱり特別な価値があるだろう。それがニンゲンであれ火星人であれ、ロボットであれ。
  4. 人権。やはりすべての人間は人間としての権利をもっている。
  5. 生物種間原則。生物種が異なっていても、ちゃんと配慮しなければならない。特にペットその他人間と深いかかわりをもっている存在者は相応の配慮を要求する。
  6. エコシステム原則。生態系も道徳的配慮の対象とするべきだ
  7. 尊重の推移律の原則。だいたい上に並べた順番で配慮していくべきである。
みたいな。まあウォレン先生は昔から直観的な議論をするのであれですが、もうパーソンなんてのにあんまりこだわってないです。そういうのはまあ70年代から動物の権利や障害者の権利とかちゃんと考えてきたからこうなってる。パーソンであろうがなかろうが、動物を虐待したりするのはやっぱり道徳的には不正だってのはみんな認めるでしょうしね。
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中絶の議論ももうパーソンの話はめったにやらんですね。それはまた。

認知の歪みと研究者生活

うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。

  1. すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
  2. 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
  3. 心のフィルター。悪いことしか見えません。
  4. 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
  5. 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあいつは悪いやつだ。
  6. マイナス思考。だめだー。
  7. 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
  8. 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
  9. レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
  10. 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」

数年前ぐらいから、倫理的な問題を考えているときは、われわれはけっこうこうした認知の歪みの餌食になってしまうことが多いんではないかと考えるようになりました。これらの認知の歪みは、どれもファラシーとか誤謬推理とかって名前をつけられて古代から研究されている詭弁に類するものでもあります。

私がよくやってしまうのはいろいろあるんですが、まずなんてったて「すべてか無か」ですね。論文と本とか読んでても完璧じゃないと意味がない、ここに穴があるからこの論文はぜんぶだめだー、みたいに考えちゃう。いかんです。

「過度の一般化」はまあ自分の体験から「みんなこうだ」「いつもこうだ」とか思いこんじゃうやつ。ピーターシンガー先生が気にくわないと功利主義者はみんな気にくわないとか、英米の倫理学はぜんぶ気にくわないとかそういう感じになっちゃう。「レッテル貼り」とも関係ありますね。「フェミニスト」とか「パーソン論者」「セクシスト」とかレッテル貼ってそれですましちゃう。じっさいにはフェミニストにもパーソン論者にも功利主義者にもいろんな見解があるわけだけど、とりあえず全部同じだー。

感情的推論もよくやります。結論が気にくわないと論理がまちがってるんだろう、論理がまちがってなかったら前提まちがってるんだろう、って思う。まあでもこれは大事ではあるですけどね。自分の利害がからむとどうしたって感情的になっちゃうけど、それはそれで別にしないとねえ。もとから嫌いな人が主張していることだとまちがってるに違いないと思う、みたいなのもある。もう「あいつが言ってるんだったら同意しなくてすむように自分の意見を変えてしまおう」みたいなときさえありますわね。

国内の倫理学でよく見かける気がするのが「心の読みすぎ」ですかね。「パーソン論者は実はこういうことが目的なのだ、こういうことを考えているのだ」みたいに心を読んじゃう。研究会やネットでも、単に質問されただけなのに悪意を推定する、とかってのもよくやっちゃうんじゃないですかね。

こういうのはネットの議論とか見ててもよく見かけるし、こういう思考はわれわれが生きていくために必要なんだとは思います。でもまあ理屈は理屈で考えてみないとならんといつも自分に言いきかせようとしています。

まあ倫理学や各種の応用倫理、とくに生命倫理の話とかは暗くてつらくて悲しい話が多くて、考えてるだけで気分が落ちてくる。情緒的・扇情的な文章を見ることも多くて、毎日そういう文献読んでるといろいろ腹たってきたりしてどんどん「ギギギ……」な感じになってしまいます。気分や感情が認知を歪めてしまうんですわね。そういうのは健康にも悪い。自己評価低めの人とかはなにかしら自分を責めたてて鬱的になるし、自己評価高めな人は他人を攻撃したくなってトラブルを起こしちゃう。まあとにかく倫理学は「べし」思考のかたまりなので、非常に健康に悪いことだけは意識しておいてください。

なんかときどき噛みしめてしまってる奥歯をゆるめてピースってしてみると文献がぜんぜん違ってみえるかもしれません。生命倫理とかそれだけ考えてるとやばいので、なんか楽しい研究も同時にできるといいですね。愛に満ちたセックスとかハッピーなセックスとか楽しいカジュアルセックスとか……いやこれもやばいですね。なにがいいんですかね。

まあ個人的にはキェルケゴールとか読んでで絶望だの不安だのやってたときは毎日死にそうでしたね。そういういやな体験を好んでする人はいないので、あんまり長く続かない。生命倫理もそういうところありました。

そもそも哲学っていうのはソクラテスの昔から「批判」とかを中心にしているので、おそらくネガティブになりやすい。研究会とか読書会とかでも「〜その読みは違うんちゃうか」とか「お前の言ってることは意味不明だ」とか言われまくりですしね。時々冗談とか言ったり、SF的な変な思考実験とかしながら楽しくやりましょう。

まあとにかく楽しくないと研究も長続きしないし発展しにくい。がんばって楽しく勉強しましょう。あんまり禁欲的になっちゃうのはやばい。バーンズ先生も図書館で借りて読んでみてください。

まあとりあえずつらい勉強するにあたってもこのリストいつも見るようにしてみたらどうですかね。実は私一時期パソコンのデスクトップに貼ってました。ははは。

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