カテゴリー別アーカイブ: キェルケゴール

『不安の概念』(5) 禁止されるとやりたくなりますか

私が一番好きなイエスさんのお説教は、もちろん、これ。

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:27あたり)

大事なことだから先生もう一度繰り返します。誰でも情欲をいだいて女を見るひとはすでに心の中で姦淫を犯したのです。もう一回くりかえしますよ、エッチな目で女を見るものは罪人なのです。それじゃ、みんな目をつぶってください。先生怒りませんから、罪人のひとは手をあげてくださーい。あ、目をくりぬいてください、地獄におちるよりその方がましです。

われわれはパンツを見ても見られても平気だったのに、いつから罪人になってしまったのでしょうか。つまり、われわれはいつ無垢を失ったのでしょうか。

キェルケゴールは、これを「心理学的に」探求しようとするわけです。ここでいう「心理学」っていうのは、もちろんブント以降の実験心理学じゃないし、ミル先生あたりの連合心理学とかともちがう。まあ心(プシケー)についての内観によって心の動きを観察する方法なんだと思います。ここらへん当時のデンマークでの用法があって面倒で、私は解説できない 1)キェルケゴールでの「心理学」ってのが何かって論文は日本語でもいくつかあるんですが、納得してないので今は触れません。 。まあでも、心の動きを観察して記述するんね。

キェルケゴールはアダムにおいても、現代のわれわれと同じような心理的な過程があるはずだ、なぜならわれわれはアダムと同じなのだから、っていう想定をおいてます。そうじゃないとアダムは人類じゃないってことになっちゃうからね。キェルケゴールは「人間の本性」みたいなのは想定してかまわんという立場なのでそれでOK。

キェルケゴールはレオンハルト・ウステリ先生っていうドイツの神学者の説を紹介します。キェルケゴールは一応神学修士(マギステル)なので、いちおう神学の基本的学説ぐらいは知ってる。それによると、「知恵の木の実を食ってはいけないという禁止そのものがアダムのうちに罪を生んだ」ってことになってるらしい。

これは通俗的ですが面白いですよね。禁止されるとやりたくなってしまう。ジャンプはエッチだから読んじゃいけません、って言われたらこれは読みたい。それまでジャンプ興味なくても読みたい。それまでただ「裸ばっかりだなあ」て思ってた『ハレンチ学園』も『マジンガーZ』も『けっこう仮面』も、エッチだからだめだといわれれば、読みたい。読みたい読みたい。読みましょう。読んだひとは手をあげて目をくり抜いてください。地獄に落ちるよりその方がましだってイエスさんがいってまーす。

 

 

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1. キェルケゴールでの「心理学」ってのが何かって論文は日本語でもいくつかあるんですが、納得してないので今は触れません。

『不安の概念』(4) 無垢はエロについて無知っす

んで、『不安の概念』の第1章第1節〜第2節では、アダムの最初の罪はよくわからんね、って話をぐだぐだやるわけです。まあここらへんでキリスト教の問題わからん人は読み進められなくなるですね。私も別にキリスト教にそれほど興味あるわけじゃないから読めない。キェルケゴールもよくわからずぐだぐだやってるんだと思う。まあここらへんいろいろ、とりあえず堕罪、原罪の話は大事だよ、ぐらいに読んどいていいんじゃないか。

「堕罪以前のアダムの状態については、古来いろいろ空想的なことが語られてますよね」みたいな話をしている。そう、そういうのはアウグスティヌス先生とかもしてるよ。

問題は第3節「無垢の概念」だ。ここからはそれなりに(それほどじゃないえど)おもしろくなる(いきなりヘーゲル先生登場してうざいんですが)。

無垢 innocence っていうのはまあまだなんの罪もおかしてないし、罪への欲求や傾向ももってない状態、ぐらいに読んでいいんだと思う。まあ罪っていうと(キリスト教に興味ない人間には)抽象的になっちゃうけど、これをエロと読むとどうだ!

子供は無垢です。エロのことは(すくなくとも)あんまり考えてない、てことになってる。まあ実際には、小学校低学年ぐらいからエッチな興味はあるんだろうけど、その前、3歳児とか少なくともエロをエロだとはおもってないんじゃないか。これです。これが無垢な状態ね。スカートめくりたい、パンツ見たいと思わない。そもそもパンツ毎日見てるし。逆にパンツ見せても平気、すっぽんぽん、それが無垢な状態。まだセックスがなんであるかとか、性欲がなんであるのかがわからない状態、そもそも知らない、それが無垢。

んで3節のキェルケゴールの結論はこういう感じ。

創世記の物語は無垢についてもまた正しい説明を与えてくれる。無垢は無知である。

アダムとイブは、セックスについて知らないという意味で無垢だったのでーす。


『不安の概念』(3) キェルケゴールの問いは

んでまあ、もどって、『不安の概念』の最初の2章で扱っているのは、キリスト教では人間はみんな罪人です、ってことになってますが、人間はどうやって罪人になるのですか、という問いだと思うんですわ。これ、つまり原罪の話ね。

人間にはアダム以来の原罪があるから罪を犯します。われわれはアダムとイブから原罪を遺伝されちゃってます。でもんじゃ、アダムはなぜ最初の罪を犯したのですか。これがキェルケゴールの問いね。

まあキェルケゴールのパパもけっこう悪い人で、奥さん死ぬ前に女中さんに手を付けていて、奥さん死んでから女中さんを奥さんにすげたみたい。それがキェルケゴールのママね。まあ最初の奥さんを殺したとかってことはないと思うけど、なんかやばい。キェルケゴールはそういうパパの血を継いでいるのです。そういう彼の個人史的な事情があるってことはいろいろ指摘されているところ。キェルケゴールのなかでは罪とセックスはわれわれにはわかりにくい形で結びついているのはわかる。

もう一回繰り返すと、キェルケゴールが考えるところでは、人間はアダム以来の原罪をおっちゃてますから罪を犯して罪人になるのです、っていう説明を一応みとめるにしても、んじゃアダム自身はなぜ罪を犯したのですか、ってことになる。最初の罪を犯した結果エデンの園を追放されたのはしょうがないとして、なぜそれまで無垢で原罪なんか負ってなかったアダムが、神の命令に反するという罪を犯したのだろう。

これ、私はもちろんよく知らないのですが、キリスト教では大問題なわけですよね。キェルケゴールはキリスト教の大問題と言われるものを著作で扱っているわけです。『恐れとおののき』ではアブラハムが神様から命令されて息子イサクを殺そうとした話(いわゆる「アケダー」)、『反復』ではなにもわるいことをしてないヨブがひどい目に合う話、そして『不安の概念』では原罪の教義。キェルケゴール前期の3つはキェルケゴールのキリスト教に対する懐疑の表明だと見ることができる、っていうか私はそう読んでるわけです。キリスト教は理解できない。

実際、原罪の教義ってのは、キリスト教では理性によっては理解できないものである、みたいにされてるんですね。ルターのシュマルカルデン条項の「原罪はいかなる人間理性によってもそれを知るよしなく、ただ聖書の啓示によって認められ、信じられるところの深く、いとわしい本性の堕落である」みたいなのが『不安の概念』でも引用されてるです。それは理性ではわからん。


『不安の概念』(2) セックスセックスぅ

『不安の概念』は人間の「自由」とそれを前にした不安の話だ、っていうのがまあサルトルとかの読みなんだと思うんですが、本当にそうかな、っていう疑問がある。そうじゃないかもしれない。

『不安の概念』はわれわれの性欲とそれにまつわるキリスト教の「罪」の概念、われわれの罪悪感の話なんじゃないか。まあこういうこと書くと、「江口はすぐにセックスセックス言ってる、セックスと言ってみたいだけではないのか」みたいに言われちゃうわけですが、まあそういうのもあるんですがそれだけでもない。

たとえばこういう印象的な一節がある。

……だから罪性は感性ではない。そんなことはありえない。しかし罪なくしては性もなく、性なくしては歴史もない。完全な精神には性もなければ歴史もない。だからこそ復活において性的区別も’なくなり(マルコ12:25 )、そしこのゆえに天使もまた歴史もまた歴史をもたないのである 1)第1章第6節、翻訳は中公世界の名著の田淵義三郎先生のを使う予定。

英語だと、

So sinfulness is by no means sensuousness, but without sin there is no sexuality, and without sexuality, no history. A perfect spirit has neither the one nor the other, and therefore the sexual difference is canceled in the resurrection, and therefore and angel has no history.

デンマーク語で読む気はないけどこんな感じ。

Syndigheden er da ikke Sandseligheden, ingenlunde, men uden Synden ingen Sexualitet og uden Sexualitet ingen Historie. En fuldkommen Aand har hverken det Ene eller det | Andet, hvorfor jo ogsaa den sexuelle Differents er hævet i Opstandelsen, og hvorfor heller ingen Engel har Historie.

「性」って訳されてるのはSexualitet。性欲や性的活動一般を指すと思う。まあこういうことが言われる理由はこれからおいおい第1章〜2章読みながら解釈していくけど、アダムとイブがいわゆる「堕罪」、神の命令に背いてアップル食べちゃって、その結果自分たちが裸であることに気づき、(性的な)恥の感覚や性欲をもつようになり、セックスうするようになり、子供を生むようになり、死ぬようになった。これによって歴史がはじまったわけです。それまでは歴史なんてものはなかったけど、歴史は罪の自覚と生殖とともに始まるのだ、みたいな感じね。これがセックスの哲学でなくてなんであろうか。

(ノンストップライティング、ここで15分ちょっと)

 

ちなみに田淵先生がつけてる「マルコによる福音書」12:25は「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」ってことらしい。おもしろいね。まあわれわれがアフターライフで復活したときに、性欲とかセックスとかあると、この世と同じようにいろいろ面倒なことしなきゃならんですからね。性欲なくなるのはいいですなあ。

(ここでプリンス様のLet’s Go Crazy聞いてください。)

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References   [ + ]

1. 第1章第6節、翻訳は中公世界の名著の田淵義三郎先生のを使う予定。

『不安の概念』(1) 『不安の概念』はセックス哲学の本、性欲の本かもしれない

この前、年に1回のキェルケゴール研究者の会合に出て、いつものようにみんながなにを話しているのかほとんどわからなくて、絶望しています。まあそもそも私キェルケゴールあたりから勉強をはじめたのに、30年たってもそういう状態で、いろいろ思うところがあるわけです。「キェルケゴールと私」シリーズにも書いたんですけどね。

http://yonosuke.net/eguchi/archives/1104
http://yonosuke.net/eguchi/archives/1103
http://yonosuke.net/eguchi/archives/1102
http://yonosuke.net/eguchi/archives/1101

まあキェルケゴールは本当に難しい思想家で、どう解釈していいのかわからない。30年以上(ずっとではないけど)時々読み続けて、結局ほんとうにわからんですね。キェルケゴール本人もわからんけど、それを解釈している学者さんたちが言ってることがわからない。なぜそう読むのかとか、そんな難しくて自分自身でわかってるのかとか、いろいろ文句つけたくなってしまって精神衛生に悪いです。

このシリーズで説明していきいますが、私はキェルケゴールは実はセックスの哲学者としても重要だと思っているわけです。ていうかむしろ、セックスの哲学はキェルケゴールを読んだからこそ興味がある。彼がセックスの話を扱っているのはけっこう多いのですが、『あれか/これか』『不安の概念』『人生行路の諸段階』の3冊が基本ですかね。実は私はこのどれも扱ってないので、勉強人生終わるに当たってなんかしておかねばならないとは思っているわけです。

まあ『不安の概念』あたりから行きますかね。「不安とは自由のめまいである」っていうものすごく有名なフレーズがあって、いろんな人が引用するんですが、これわけわかりませんよね。私はわからない。

この本はものすごく有名ですが、世界的に、あんまり理解されてない本と思う。キェルケゴールの作品の中でも読むのが一番難しいやつの一つだと思いますね。ハイデガー先生が『存在と時間』でこれの「不安」の話を使っていろいろやってるので有名だってのではものすごく有名なのですが、キェルケゴールのを読んでもそもそもなんの話をしているかわからないってのが普通だと思います。学会や研究会で読んでる人の話を聞いてもなにがなんやらわかりませんね。この前も一つ二つそういうのを聞きました。というわけで、ちょっと時間をかけてやってみたい。

————————–

『不安の概念』を読む上での問題は、まずこれいったい何についての本なのか、ってことですわね。「そら不安でしょ」っていうのはそのとおりだけど、われわれの感じる不安一般についての本なのかどうか。私はそうじゃないと思う。実は副題は、「原罪(遺伝する罪)の教義の問題について、単純に心理学的な方向にそった考察」みたいなやつなんですわ。キリスト教的にはわれわれはみんな罪人であり、それはアダムからずっと遺伝する「原罪」なるものがあるがゆえにキリスト教的には罪をおかさざるをえないってな感じになってるんだけど、それって個々人の心理のなかではどうなってるか考えてみましょう、ぐらい。

もうちょっとばらしてしまうと、キリスト教的、っていうかキェルケゴール的には、われわれはみんな神の命令に背く罪への傾向みたいなのもってるわけだけど、それってどうしてそうなってるんですか、みたいな問いね。アダムとイブが禁断の木の実を食べる罪を犯して、その「原罪」がわれわれまで遺伝してきていて、われわれがもともと罪を犯す傾向をもってしまっているのなら、われわれには罪を犯すことの責任はないっしょ、そういうふうに作った神様がおかしいんではないか、みたいな疑問というのはある。

まあここらまではキェルケゴール読んだことある人ならだいたいわかる。ていうかまあ一番最初に書いて有ることだから、ここだけは読む。問題は、このわれわれの個々の罪、そして「原罪」の問題を、どの程度実感に即してよむことができるのか、ですわ。

解説者や研究者がおうおうにしてちゃんと触れないのは、ここでキェルケゴールの頭に思い浮かんでいる「罪」ってのがセックスに関係したものだ、ってことなんだろうと私は思っているわけです。実は不安の概念はセックス哲学の本なんですわ。これが私がこれから書いていこうとおもっていることです。

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キェルケゴールとわたし(死ねないこと、それこそが絶望である編)

 

  • 諸般の事情で情報倫理とか勉強するチャンスをもらえる。どもありがとうございます。少し生き返る。
  • まあそういう意識でキェルケゴールのことを考えると、内心の秘密とか、コミュニケーションとか、プライバシーとか、大衆社会とか、キェルケゴールってけっこう現代社会を哲学的に考えるときのヒントになるかもなあ、みたいなことは考えたり。まあこの方針はいまだにいろいろありそうだという気がしている。
  • 超ラッキーなことに就職させもらう。ありがたいありがたい。
  • キェルケゴールが著作していた年齢を自分がどんどん越えていくと、キェルケゴールが考えていたことがどんなことかなんかわかるようになってくる。
  • あんな短期間に大量の文章を書いたひとが、そんな勉強してたはずがない。それに論理的な思考というか哲学的な思考が得意なわけではない、と思いはじめる。他の哲学の巨人たちとは別のタイプの人だわね。
  • まあとにかくキェルケゴールより年上になってしまえば、どんなろくでもないやつだったのかがよくわかるようになる。ははは。
  • 大谷先生のキェルケゴール協会ってのは発表させてもらった次の年ぐらいで活動停止していた。どうもお歳だったかなのか、なんか先生がおもしろくないことがあったのかよくわからない。
  • 2000年に先生がお亡くなりになって、そのお葬式にも参列させてもらう。その席で偉い先生たちが大谷先生の意思をついで全集の翻訳したりキェルケゴール協会の活動を再開させたりしよう、って話になったみたい。
  • 事務局やらされる。しかし学会事務なんてできませんがね。ひどく苦労する。雑誌の編集とかも。まあでも若い人々の発表の場を作るためにやるべきかなあ、みたいな。
  • キェルケゴールのメディア批判とか女性運動批判とかで発表したりゴミ論文書いたり。
  • 「キェルケゴールの大衆メディア批判」 http://www.kierkegaard.jp/studies1/eguchi.pdf とか。 http://yonosuke.net/eguchi/papers/kierkegaard-women.pdf とか。
  • 就職してからも研究会もなんとかしたいと思って、のちに大谷大学に行くF君とかと細々開いたりするけど、自分の関心がちょっと遠くなっていてエネルギーを割けない。
  • ちょっと海外の様子も覗いてみたり。昔の論文英語にして発表させてもらったり。
  • 1月暮させてもらったセントオラフ大学キェルケゴール研究センターの人々はよい人だ。(コペンハーゲンの人達が悪い人だというわけではないのだが……キェルケゴール全集4版のために若い人が集まっていて元気そうだった。)
  • キェルケゴール協会はとりあえずなんとか動いて軌道にのったあたりでF君にバトンタッチさせてもらう。よろしくおねがいします。
  • その後事務局は関東に移動。日本統一か。
  • Joachim GarfのS.A.K. (Søren Kierkegaard)っていう評伝が出て、本気でろくでもない奴であることを確信したり。偉人じゃなくて人生に苦しみぬいた実物大の人物として見るのがいいんちゃうか、みたいな。
  • Peter KremerのAgainst Depressionって本でもキェルケゴールがけっこう大きく取り上げられてておもしろい。
  • まあ興味が拡散してしまってキェルケゴール1本で勉強する気はぜんぜんないけど、少しずつ読んだり考えたりはしたいと思っているです。
  • 倫理学の資源としてのキェルケゴールを考えた場合、やっぱり広い意味での道徳心理学のリソースとしてってのが一番でかいだろうなってな気がする。あとやっぱりプライバシーとかコミュニケーションとかそういうのの分析とか。国内の人は形而上学的な側面に魅力を感じてたみたいだけど、そっちはあんまり実りなさそうな気がする。
  • 評論みたいなスタイルで書けないかと「うつ」とかについても書いてみたり。 http://yonosuke.net/eguchi/papers/depression2012.pdf
  • あとなんといってもセックスやエロスの哲学、愛や結婚に関する倫理学みたいなそういうのね。
まあ私自身、研究者としては成功しなかったので若い人々にお説教する資格はないのですが、キェルケゴールみたいな難解な哲学者のものを読もうとするときは、やっぱりあらかじめある程度、〜ハンドブックみたいな地図みたいなものをもっておいた方がよいのではないかと思います。どろどろになってわからない自分の自己評価が下ってしまって生活もできなくなっちゃう。実際キェルケゴール関係の研究者はあんまり生産性が高くないです。
早めに哲学の本でも「これはわかる」っていう経験をする必要があるんじゃないですかね。
私はキェルケゴールはかなり混乱した著作家だと思ってますが、それでもその混乱にさえなんか見るべきところはけっこうあると思っていて、そういう読み方をするにはいっかいそういう思想家から離れてみて、ぜんぜん違う分野のものを読んでみるのもよいのではないかという気がします。キェルケゴールからヘーゲルに行ったりシェリングに行ったり、あるいはポストモダーンに進んだりするのはあんまりおすすめできない。自信なくなって行き止まり。やっぱり自分がわかならないことはわからない、と認めてしまうべきだと思うです。

勉強する上で二次文献は大事です。もちろん二次文献読んでるだけじゃだめですけどね。
とりあえずこれからキェルケゴールを研究したいってのであれば、200周年で出版されたOxford Handbook of Kierkegaardを一読しておきたいですね。でも高い。図書館に入れてもらいましょう。

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まあもちろんキェルケゴールみたいな思想家に全身でタックルする、ってのはありかもしれないですが、それに一生を賭ける情熱と覚悟があるのかどうか。昭和にはそういう研究スタイルもあったんだと思いますが、私はとれませんでした。だから失敗するんすね。ははは。

 


キェルケゴールとわたし(博士課程・OD編)

  • まあ修論書いているうちにおもしろくなってきてしまって、いろいろ悩んだ末に内定ぶっちして博士課程に進んでしまう。ばかばか。でもまあ恐れおののきつつがんばるつもりではじめる。でも不安。
  • まあしかしとりあえずなんか国内のキェルケゴール研究者の人々とは違うことをしよう、ぐらいのことは考えてたような気がする。でもちまちま読むのは苦しい。
  • 国内の人々は基本的にキリスト教、少なくとも宗教学の関係者で違和感はずっとあった。
  • 宗教っぽいのそれ自体には自分はほとんどなにも興味をもってないことに気づく。キェルケゴールもそういうつもりで読んでいるわけじゃない。
  • 図書館で文献ちまちま集めているうち、少なくとも英米のキェルケゴール研究者がどんなことをやっているのかはわかってくる。何人か注目すべき人々がいるのもわかった。彼らの文章はわかりやすい。世俗的だし。
  • 研究室で出していた『実践哲学研究』に修論をもとにして「沈黙のヨハンネスはなぜ眠れないのか」ってのを書かせてもらう。このタイトルはいまだに好きだな。愛着がある。 http://hdl.handle.net/2433/59166
  • デンマーク留学していたY君編入。同い年なので仲良くさせてもらう。元気かなあ。
  • このころはキェルケゴールほっといて、もっぱら英米のメタ倫理とか読んでいる。
  • 林先生の授業でも「ヘーゲルとか意味わからん」とか暴れる。枡形先生の『不安の概念』の読書会でも「意味不明ですね」みたいなことを言うようになる。いかん。ごめんなさい。
  • ここらへんでキェルケゴールがかなりおかしい奴であることに気づく。ストーカーじゃんね。
  • 混乱した思想家だとは思うけど、やっぱり好きなものは好きではある。でも論文に書きようがない。
  • キェルケゴールの原文ももう躊躇せず英訳で読んじゃう。デンマーク語で1冊読むなんて何年かかるかわからんし。まあさすがに重要なところのチェックぐらいはするけど。日本語訳は桝田啓三郎先生の以外はほとんど使えない感じね。
  • D2のときに枡形先生の紹介でほぼ同じネタでキェルケゴール協会で発表させてもらう。でもタイトルや力点は変えて「キェルケゴールとヘア」みたいな。いちおうこの前の年の例会にも顔出してるのかな?この協会の会合は年2回あったんだな。誕生日(5/5)のころと命日(11/11)のころ。
  • キェルケゴール協会とその雑誌『キェルケゴール研究』ってのは基本的に大谷長先生が個人的にやってるものだったという理解でいいのかなあ。まあまあ怖かった。私が発表させてもらったときに大谷先生は「最大不幸者」の話して、すごい情熱でねえ。「シュムパラネクローメノイ(ともに死んだ者)諸君!」とかって。暗い。私は前座でもうなんというか軽薄な感じに見えたろうねえ。それなりに真面目だったんですけどね。
  • 関倫ではキェルケゴールじゃなくてヘアで発表している。これはひどい発表だ。発表態度もひどかった、というのはいまだにあちこちで言われる。すみませんすみません。
  • 日本宗教学会でも発表したか。「公開性の問題」みたいなの。原稿なくしちゃったよ。宗教学会は会費滞納してクビにになりました。ごめんなさい。関哲でも「キェルケゴールは反哲学者か」みたいなの。これはひどかったんじゃないなあ。ここも会費滞納でクビになってます。ほんとうにすみません。
  • D3ぐらいになるともう生活があっぷあっぷでどうにもこうにもしょうがない。基本的にDのころはお金もなかったし、精神衛生も最低でもう死ぬかと思ってたなあ。
  • まあとにかくキェルケゴールは精神衛生に悪い。どうしたって「自己」とか「絶望」とかネガティブなものに目を向けることになるし。ぜんぜんポジティブなところがない。
  • OD1年目、また『実践哲学研究』に「主体性は真理である再考」みたいなの書いたり。 http://hdl.handle.net/2433/59202 まあここらへんずっとアイディアは同じ。いろいろ試しているつもりなんだけど発展してない感じ。でも本当はこのアイディアをなんとか形にして博士論文にするべきだったんだよな。でもできない。
  • OD 2年目ぐらいでもうほとんど死んでる状態。勉強のことなんかほとんど考えてない。人生お先まっくら。絶望とは死に至る病である。
  • まあでもこの間枡形先生には本当にお世話になったです。訳書は『キェルケゴール: 新しい解釈の試み』ってのと、『宗教と倫理』ってのにかかわらせていただきました。読書会とかはつらい生活のなかでも一瞬の楽しみだった気がする。

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キェルケゴールとわたし(修士課程編)

  • まあとにかく大学院進学。西谷先生は私の人生についてほんの数秒でさえ考えてなかっただろう。
  • ワープロ買った日から日記をつけはじめているのだが、フロッピーとかなくしてしまった。
  • 大学院に入って奨学金もらえることがわかってPCを買ったんかな。んで1989年の5月17日からの日記が残っている。ここらへんから記憶が少しはっきりしてくる。やっぱり日記は大事よね。
  • 現在残っている日記の最古の記述は「やっとMifesの使い方が解りかけ、ワードスターも使えるようになったのだが、なんと、この辞書は小さいものだというではないか。100キロバイトも少ないなんて信じられない。どうりで頭がわるいと思ったぜ。これから辞書を鍛えた方がいいのか、はたまた一太郎を使うべきなのか。悩むところではある。」ははは。
  • 研究計画とか出さなきゃならなくて苦しんでいるようだ。『不安の概念』読んでなんとかしよう、みたいなことを書いている。フロイトやサルトルの話も出てきているな。
  • 枡形先生の授業は前年で終ったのかな?デンマーク語勉強会に参加させていただく。ほんとうに世話なったよなあ。メンバーは前年の購読に出ていた人々。
  • 大学院進んだのは、学部生活ではテツガクとかそういうのがいったいなんなのかさっぱりわからなくて苦しんだからとしか言いようがない。まあその時点で離れてればよかったんだけどね。失敗している。苦手なものに自分から寄っていくのは馬鹿である。
  • 日記読みなおしても延々苦しんでいる。ははは。
  • Mになるとさすがに二次文献を見るってことをおぼえたようだ。Mac C. TaylorのJourney to Selfhoodとか読んでいる形跡がある。いや、これ学部生のときも見てるのかな。この人いまなにやってんだろうね。キェルケゴール → ヘーゲル → ポストモダーンみたいな進み方をした人。
  • M1のときから林忠良先生の授業に出てるな。先生はヘーゲルが好きなのでもうけっこう苦しんだ。話を聞いてるとわかったような気がするんだけど、自分でパラフレーズしようとするとできない、みたいな。
  • もうヘーゲルの論理学というのはものすごいものでねえ。「AはBである」みたいなのが「すべてのAはB」なのか「すべてのBはAなのか」みたいなのに悩まされる。
  • まあ文閲で1日過す日々、だったような気がする。当時はタバコも吸えた。
  • まあ学部生からこのころまで、雰囲気が宗教学っぽかった。研究室も森口先生の影響でそういう雰囲気があったんだよな。チェスタトン読んだりしている。
  • 無駄な読書をくりかえす。ドイツ語やデンマーク語は読めないから、とにかく英語ぐらいは読むかなー、みたいな。James Collins先生のThe Mind of Kierkegaardとか。
  • 読書会ではボンヘッファー読んだりパスカル読んだりカント読んだりしている。
  • Josiah ThompsonのKiekegaard: A Collection of Critical Essayっての読んでやっと人間になりはじめる。外国語で分厚い研究書は読めないけど(日本語でも)、短い論文なら読めることに気付く。特にLous Mackeyの”The Loss of the World in Kierkegaard’s Ethics”とか読んで、キェルケゴールを批判するってのはありなんだな、みたいな。やっぱり英米系の伝統の上でちゃんと解釈してちゃんと批判するってのは大事ね、みたいなのに気づく。
  • そうやっていろいろ英語二次文献読んでて一番衝撃受けたんはBrand Blanshardの”Kierkegaard on Faith”かな。これは破壊力のある論文だった。キェルケゴールはクソだ!みたいな。英語圏の哲学の伝統からキェルケゴールを読む、っていうのになんか可能性あるかもなあ、みたいな。
  • でもまだはっきりした手掛かりはもってなかった。そもそも「倫理学」ってのがどういう学問かのイメージがこの時点でまだなかった。
  • 文献でよくひかれているウィトゲンシュタインとか一応読んでる。わからん。
  • M1の1月にLanguage, Truth and Logic買ってるなあ。ここらへんでちょっと目覚めた。エイヤー先生は偉大だ。
  • 3月に『恐れとおののき』が最高傑作だな、みたいな印象を書いている。
  • M2。衝撃の怖い先生降臨。ヘア読む。ここらへんは「功利主義とわたし」で書いたけどすごいショックだったねえ。でもやっと自分の感覚はそれほどおかしくない、って思うことをはじめる。
  • 初夏の時点では先生も怖いし、私生活の方でもあれだったので就職するつもりだった。でもまあヘアとそのまわりの議論を見たおかげで倫理学とか道徳とか哲学ってものがなんであるのかやっとかいま見えてきた感じ。
  • M2の5〜6月ごろの日記を読むと、「大学院進んだのは失敗だよな」みたいなことばかり書いてる。失敗でしたよ。ははは。まあこのあともずっと「反復」してんだけどね。
  • あれ、M2で翻訳はじめているのか。数年後に枡形先生編監訳の『キェルケゴール:新しい解釈の試み』ってのになるやつ。まあここらで英米の研究者の研究を意識している。
  • 修論ではまあとにかくBranshard先生の問題意識をもってヘア先生のアイディアをとりいれて『恐れとおののき』読むとどうなるのか、みたいなのを書こう、とか。
  • まあそういうんでなんとか修論出す。だいたい原稿用紙100枚分以下、みたいな分量が標準だったが、70枚ちょっと分ぐらいしかなかったんちゃうかな。ははは。
  • 就職するかどうかの最大の「あれか/これか」。

キェルケゴールとわたし(学部生編)

なんちって。

  • 功利主義とわたし
  • 生命倫理学とわたし

の姉妹編。

  • もちろん学部生のころはなにも考えてなかった。哲学についてもほとんどなにも知らない状態だったんじゃないのかなあ。
  • 3回生になって文学部の授業受けられるようになって購読とか履修しなきゃなんなくて、枡形公也先生の『死に至る病』をドイツ語で読んでる授業に出た。履修しているのは4、5人だったかな。Liselotte Richter先生の訳で。その前に2年ぐらいやってたのかな?もうかなり進んで第二部に入ってたような気がする。
  • キェルケゴールは高校の「倫理社会」の先生が好きだったのは覚えている。なんか愛がどうのこうの、とか言ってた記憶がある。でもなに言ってたかは忘れた。
  • 『死に至る病』読んでももちろんわからん。なんの話をしているやら。もちろんドイツ語の読めないし。
  • それなのになんでかしらんけど「翻訳を見てはいかん」みたいなことを信じていたのでもう地獄。
  • でもとりあえず最初岩波文庫の斎藤信二先生の訳見たのかな?やっぱりさっぱりわからん。
  • こんなわけわからんのでいいのか、と思いつつ語学に苦しめられあっというまえに3回生終了。なにもわからなかった。
  • まあでも当時の私にとってはハイデガもシェーラーもフッサールもカントもどれもこれもなにもわかない状態だったのでなんでも同じ。
  • もう一つ、橋本淳先生がキェルケゴールで講義してたんだな。あれ、これ3回生のときか4回生のときかあんまりはっきりしない。文学部旧館のあの広くて天井が高くて暗い講義室で愛だの憂愁なんだのという話をしていらっしゃったのをおぼえている。橋本先生の授業は女子が多かったのでお知りあいになりたくて出ている、とかって哲学科学生もいたはず。私はお知りあいになれませんでしたが。
  • 4回生夏前ぐらいに、とりあえずキェルケゴールで卒論書こうかなと思いはじめる。でも卒業の見込みはない。
  • まあ高校生のころ大江健三郎先生とか読んで実存主義はかっこいいはず、みたいな。でもサルトルの『実存主義とは何か』すら読んでたかどうか。
  • 4回生でも購読の授業に出る。枡形先生にはドイツ語からなにから本当にお世話になりました。Nさん、T君、O嬢などしばらくいろいろやる人間が集まる。ちょっとあとでY君とかも参加。
  • まあ購読の授業はみんなで「……」みたいになってるときも多かったなあ。
  • 夏までに4回生では卒論書けないことがはっきりする。まあ単位も半分もそろってなかったし当然5回生。
  • 概説みたいなのも適当に手に入ったの読むぐらい。まあ日本語でまともな概説書もなかった。白水社の全集の解説とか読んだりしたけどわけわからん。
  • とにかく学部生時代はどろ沼。あんまり思い出したくないんよね。まあ4回生のころはもう生活でいっぱいでねえ。
  • ハイデガ、フッサール、メルロポンティ、シェーラーとかがよく聞く名前だったかな。あとせいぜいカント。
  • とにかくこの時期、「国内二次文献を集める」ということさえ知らなかった。とにかくキェルケゴール先生の本を読む、できればドイツ語で、みたいな。これはいかんよ。概説書読んだら早めにとにかく日本語の二次文献集めてあたりをつけたいものです。
  • もちろん外国語の二次文献読む能力はなかった。そんでも5回生のはじめには文学部図書館にあったドイツ語のを1、2冊めくってみたのかな?でも読めない。っていうかほとんど神学系のだから引用とパラフレーズだらけでなにもわからない。
  • 「ヘーゲル読まないとキェルケゴールはわからん」みたいな話もあるので『小論理学』ぐらいは見ておこう、みたいな。しかしこれキェルケゴールと同じくらいわからん。地獄。
  • 苦しみつつ5回生。でもまあ『死に至る病』はなにか重要なことを言っている、とは思ったわね。
  • やっとこのころ文学部閲覧室に収められている修士論文を読む、ということをおぼえる。キリスト教学の人とかけっこう書いてる時代だったので10年分ぐらいは読んだんかな。全員手書きのよい時代でした。
  • だいたいみな『死に至る病』か『不安の概念』で、「人間とは何か?人間とは精神である、精神とはなにか?精神とは自己である」みたいなんを議論していた。んじゃ私もそこらへんやるかなあ、みたいな。
  • まあでも『死に至る病』のあの部分はいくら読んだって読めるようにはならんのよね。とにかく混乱していた。
  • 国内二次文献調べられなかったのは、実際調べるのがけっこうたいへんだったからなんよね。いまだったらCiNiiやGoogle Scholarで一発なわけだけど。それにキェルケゴール関連の人はどういうわけかキェルケゴール先生の本以外の論文とかほとんど参照しない。これはいかん。修論でも国内研究論文に言及しているやつはほとんど見かけなかったような気がする。
  • まだキェルケゴール協会や『キェルケゴール研究』みたいなのの存在も知らなかったのかな?
  • まあとにかくそういう雰囲気だったのですよ、「とにかく原典を読むのだ」みたいな。
  • 苦しみながら卒論を書く。文献のつけかた、引用の仕方もわからん。誰も指導してくれなかったのもあるが、勉強する気もなかった。そういうものが重要だという風潮もなかった(はず)。エーコ先生の『論文作法』が出たのはいつだったかな。
  • まあ研究室では院生と学部生ははっきり分かれてる感じだったしねえ。お客さん。それに先輩には「だめな奴だ」って思われてた思うし。実際だめなやつだったし。
  • 勉強っていったら、なんとかドイツ語を鉛筆で大学ノートに書き写して、なんとか読んで訳を書いて、思いつきをメモる、みたいな感じだったかなあ。貧弱。ひどい。時間の無駄。でも本気でどうやって勉強すればいいのかさっぱりわからなかった。
  • 5回生のはじめぐらいには枡形先生から言われてデンマーク語もいちおう勉強したかな? Teach Yourself Danishとか使った。まあデンマーク語は文法はそんな難しくない。辞書とかも入手しにくくてねえ。
  • まあこのころキェルケゴールとかもうあんまり読まれなくなってたんだけど、村瀬学先生の『新しいキルケゴール』っていう本が出て、これはおもしろいと思った。
  • とにかく『死に至る病』の冒頭の「自己の定義」みたいなんはわからん。これでは卒論書けない。
  • でもいまでもちょっと誇りに思ってるのは、『死に至る病』冒頭の「自己の定義」はあれは結論なのだ、ってことに気づいたことだわね。
  • でもこれはひどい。笑える。 http://yonosuke.net/eguchi/papers/soturon.pdf
  • 卒論は西谷裕作先生と水垣渉先生におなさけで通してもらいました。ははは。
  • ちなみにこの卒論を書くために12月14日ぐらいにワープロ(シャープの「書院」)買ったんよね。「これじゃ書けない間にあわない!」とか思ったんでねえ。それから数日、新聞の文章を打ちこんでキータイプの練習した。馬鹿すぎる。
  • さらに卒論提出当日(1月15日?)にプリンタが動かなくなって、生協の展示品使わせてもらって打ち出したのであった。いっかい打ち出してみるとあれなんで、生協で半日卒論書いていた。ははは。
新しいキルケゴール―多者あるいは複数自己の理論を求めて
村瀬 学
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