「パーソン論」よくある誤解(1) パーソン論は功利主義的だ

なんかいまだに生命倫理学の議論における「パーソン論」については誤解が多いようなので、目立つものをいくつかとりあげて解説しておきたいと思います。
「パーソン論」と呼ばれる学説はまあ生命倫理学では一般的で、基本的に各種の「権利」をもった「ひと」である条件はどのようなものかを論じようとするものですね。国内で一番有名なのはマイケル・トゥーリーの論文「妊娠中絶と新生児殺し」で提出されたものです。他にもメアリ・アン・ウォレンの「妊娠中絶の法的・道徳的地位」のヴァージョンも有名ですし、まともな生命倫理学者はほとんど必ずそれぞれの「パーソン論」を提出しています。っていうか「権利」の重要性を認める以上、誰がどんな権利をもっているのかをはっきりさせることはどうしても必要になるので当然そういう議論はしなくちゃならんわけです。
上のどちらの論文も『妊娠中絶の生命倫理』という本で訳出されていますので参照してください。典型的な批判も収録しています。
たとえば社会学者の加藤秀一先生は『〈個〉からはじめる生命論』という著書で「功利主義のパーソン論」という見出しを立てたり、「興味深いのは、生命倫理の文脈で有力視される功利主義的議論がしばしばシンプルな快楽説に基盤を置いているようにみえることだ。とりわけ「パーソン論」と一括りにされるタイプの議論にそのことは顕著である。」(p.54)のように書いたりしています。
これは非常によく見かけますが、かなりはっきりしたまちがいです。パーソン論と功利主義の関係はむしろ対立的といえるほどです。功利主義は最大の幸福を生みだす行為や制度が正しいとする立場であって、誰が幸せになるかには基本的に無関心です。ロールズという影響力のある政治哲学者は功利主義は「人の個別性」に関心をもたない、と批判しています。私が幸せになろうが、あなたが幸せになろうが、幸せの量が同じならば同じくらい正しい、ということになります。あなたが10ポイント幸せが増え、私も10ポイント幸せになるケースと、あなたが20ポイント幸せになり私が現状のままでいることは、どちらも同じ程度によい、ということになります。また、とにかく功利主義は「パーソン(ひと)」であるかどうかということにも基本的には関心をもちません。馬の幸せも私(いちおう人間)の幸せも同じような幸せであれば同じように評価しなければなりません。功利主義において権利はたいして重要ではありません。と書くと誤解されてしまいますが、権利は人々の幸福(あるいは幸福であるための安全)を増やすために必要とされる決め事にすぎません。
これに対して「パーソン論」は基本的に「権利」に関する学説です。「パーソン論」と呼ばれる学説を提唱する人々はさまざまいるのですが、基本的に「我々が各種の権利をもっていると認める(べきな)のはどのような存在か、なぜそうしているのか」ということを問題にします。権利とは、よっぽどのことがないかぎり侵害してはいけない利益です。功利主義にとって権利は二義的な意味しかもちませんが、パーソン論では中心的です。むしろ功利主義では十分に考慮されていない(と言われる)人の権利を重視すべきだ、って発想の上での議論です。
国内でパーソン論と功利主義が混同されることがあるのはおそらくいくつかの理由があります。
第一に、よく読まれたピーター・シンガーの『実践の倫理』で妊娠中絶の問題があつかわれる際に、シンガーがパーソン論と功利主義の両方をもちいて中絶を正当化したことがあげられれます。シンガーは人を死なせることが不正である有力な根拠として(1)権利論(パーソン論)、(2)カント的な自立の尊重、(3)古典的功利主義、(4)選好功利主義の四つをとりあげて、それぞれの立場から中絶が非難されるべきであるのかを検討しました。これはシンガー自身が好む功利主義の立場から論じるだけでは十分な議論ができないからです。(1)〜(4)のどの立場からでも中絶が許容されることを示すことができれば、実践的な問題の解決に大きく前進することになるわけですから、シンガーのこのやり方は悪くないといえるでしょう。問題は混同してしまう読者や日本の哲学者たちにあります。
第二に、もっとひどい読み方として、中絶に関する議論の多くは「英米系の議論だから功利主義だ」のような印象をもった人が多かったようです。実際には英国で優勢な功利主義的な思考と、アメリカの伝統的な思考法である権利にもとづいた考え方はまったく対立するものなのですが、イギリスとアメリカの思想的伝統の区別がついてない人は多いようですね。ははは。そういう人々はもうジョン・ロック先生もロールズ先生もベンサム先生も英語で書いてるから同じ、みたいな考えかたするんでしょうから、そういう人のを読んではいかんです。

2011年に読んだおすすめ本ベスト10

メディアマーカーで自分的におすすめの五つ星つけた本から、特に印象に残ってるものを順不同であげてアフィリエイトかせごう。

香西先生にはいろいろ教えていただきました。ネットとかでの論争の方法について理解が深くなったと思う。

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関連で『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』。この2冊読めばまあ一流ソフィスト、じゃなかった一流レトリック家の基本的な考え方がわかる。『 反論の技術―その意義と訓練方法 (オピニオン叢書) 』まで読めば十分か。ネットの議論で負けることが少なくなるかもしれない。『 オルグ学入門 』も香西先生から教えてもらったけどもうすごい奇書。これは買うほどの価値はないだろうけど、図書館とかで一読の価値がある。

性格とかパーソナリティとかについてはずっと興味をもってるんだけど、これが一番おもしろかった。

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女性が会社で働くということについて鋭い分析とハウツー。女性は必読。っていうかこういうエンパワが国内でももっと注目されるべきだと思う(政治的にどうかは別にして)。『 会社のルール 男は「野球」で、女は「ままごと」で仕事のオキテを学んだ 』『 女性(あなた)の知らない7つのルール―男たちのビジネス社会で賢く生きる法 』はこの本に影響を受けた同工異曲。どれ読んでも同じだが、とにか重要な観点。

ポジティブ心理学や進化心理学に影響を受けた倫理学まわりの成果が出そうな感じ。まだ発展途上だけど。

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欲望について 』もよかった。

性差科学といえば、これがよかった。非常に慎重。

性差や性分化、性志向などの生物学的な解明については『 科学でわかる男と女になるしくみ ヒトの性は、性染色体だけでは決まらない 』も買ってあげてください。最新の内容のはず。

女性のグループ内力学については『 女の子って、どうして傷つけあうの?―娘を守るために親ができること 』も重要。『 女はなぜ足を引っ張りあうのか 』も笑えた。

子ども向けエリノア・ルーズベルトの伝記。エリノア先生についてはちゃんとした評伝が出版されるべきだと思う。国内ではその業績が十分に理解されていないようだ。政治学の人々に期待。

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倫理学・法哲学まわりで重要なのはこれ。倫理や政治における感情の重要性。

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恋愛ものではこれがとてもおもしろかった。

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英語読みやすいから

でもいいと思う。かえっておもしろいだろう。

具体的なハウツーは『 確実に女をオトす法則 』だけどこれはまあたいしたことがない。とにかく『ザ・ゲーム』はおもしろいので一読の価値がある。

認知的不協和について。『 なぜ人は10分間に3回嘘をつくのか 嘘とだましの心理学 』とかも。

行動経済学みたいなんもたくさん読みました。

なぜ直感のほうが上手くいくのか? – 「無意識の知性」が決めている 』、『 なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴 』とかもどうぞ。

あ、番外だけど買ってください。

トムソンの有名なヴァイオリニストの議論とかパーソン論とか正しく読めるようにしました。あと売りはヘアの直観主義批判がどんなものか、とか、死の悪さについての剥奪説が中絶問題に適用されるとどんな問題をひきおこすかとか。あとハーストハウスのやつを読むと徳倫理学ってのがどういうインパクトがあったかがわかるはずです。よろしくおねがいします。

パーソン論まわりについて書いたもの

大庭健先生経由で小松美彦先生を発見してパーソン論について考えはじめる。

← 発端

パーソン論と森岡正博先生とか児玉聡先生とか攻撃したり批判したり勉強したり

加藤秀一先生と「美味しんぼ」。加藤先生の本についての言及を一部操作ミスでなくしちゃってる。

「パーソン(ひと)」の概念についてのマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレンの議論や、それらへの批判はこちらで読めます。

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生命倫理学とわたし

なんちゃって。「功利主義とわたし」 の兄弟編。

前史

  • 学部~Mのころはなにも考えてなかった。アルバイトだし。卒論はキェルケゴール。修論も。
  • でも小学生のころから医学とか生物とかそっち系の科学とは好きだったねえ。学研(?)の学習マンガシリーズで『人体の不思議』とか『生命の神秘』とか買ってもらってね。小学3~4年生で子どもが『生命の神秘』読んでたら親心配したろうねえ。なんか男性が水撒きホースにぎってましたよ。どういう意味かはさっぱりわかってなかった。次の瞬間には精子が「わーっ!」って泳いでいて、受精して発生がはじまっているという・・・
  • うちのあたりでは学業優秀な子どもは山大医学部に入って医者になるとかそういう感じだったので、自分もそうなるかなとか思ってたような気がする。
  • 高校生物で発生のあたり習ってたときに、「んじゃ人間ていつから人間なんだろうね」とかそういうことを考えたり。文学とかそっちはまってたこともあって、「これは科学の問題じゃないよね」みたいな。大江健三郎先生の『個人的な体験』とかも読んでますた。
  • 高2の物理があれでね。もう赤点の連続。赤点とったのなんかはじめてだったわ(いや、1年生の数Iの最初の方でもとったかな?でもそれはすぐに挽回できた)。とにかく物理は謎。反作用てなんだ!向こうから押してるのはいったい誰だ?ハンマー投げがどっちの方向に飛ぶかわからない。あれはさぼってたのも悪かったけど教師も悪かったわ。
  • まあそんなんで完全に文系になってしまう。あ、高校の思い出じゃなかった。
  • まあとにかくD1ぐらいまでは勉強ってのは誰か偉い人の思想を勉強することだった。

大学院生~OD

  • しかしなんか世間が脳死だなんだかんだって騒いでいるので、そういうことも勉強しないとね、みたいなことに。梅原猛先生とか哲学者代表だし。
  • 研究室の偉い先輩たちが加茂直樹先生を中心に研究会とかやってて、『生命倫理の現在 (SEKAISHISO SEMINAR)*1とかすでに出してた。怖くてどういう人たちか知らなかった。まだ加藤尚武先生のことはアイデンティファイしていない。
  • 加茂先生たちのグループの名誉のために書いておくと、京都で生命倫理の研究が進んだのは加藤先生がいらっしゃる前から。加茂先生のグループと飯田・加藤先生のグループは同時期にまったく独立に活動していたはず。加藤先生の京大就任にともなってそれが融合されるというかそういうグループ分けはなくなるわけだけど。とにかく飯田亘之先生と加茂直樹先生の活動の意義は軽視されすぎ。
  • あ、医学哲学・倫理学会はもっと前から活動しているはずで、そこらへんがどうなっていたのかは私はよく知りません。すみません。偉いです。あと他にもたくさん偉い先生はいらっしゃる。星野一正先生とか木村利人先生とか・・・名前はあげきれないです。
  • 日本生命倫理学会は1988年から。医学哲学・倫理学会はもっと古くて1982年からのはず。
  • 1990年の日記(1990/4/9)にこんなこと書いてるのが「生命倫理」の最初の記述みたい。

情報整理の方法を考える時期にきていると思う。フェミニズムや生命倫理を考えるなら、情報が大事だ。新聞の切り抜きなどは馬鹿らしいが、ある程度情報を集めなくてはならない。どうするか。

  • あれ、これはM2のときだね。それにしても文章が子どもっぽい。
  • 1991年1月16日にはこんな感じ。

また読書会をしようという話がある。今度は生命倫理についてだが、何をネタにしていいのか悩むところだ。

  • 1991年(D1)の年は怖い先生(2年目)が生命倫理の授業を半年やった。『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』が教科書だったか。
  • あれ、けっこう記憶違いがあることに気づく。主に脳死のあたりやったんじゃなかったかなー。そのあとすぐ海外研修に行かれたんよね。半年研究室に教官がいないという状態になったような。
  • まあとにかく読書会なんかしたり。怖い先生はともかく、その前任の先生が非常に寛大な先生だったので、基本的に院生は放置されるのがデフォルトであるという意識。自分たちでいろいろ組織しないとならん。今思えば恐い先生にもっといろいろ教えていただけばよかったんだけど、そういうことをお願いしてはならんのだ、とか思いこんでた。
  • でもこれはもう読書会とはいえないようなお茶飲み会。科哲の大将から見るとこんな感じ。

動物倫理との出会いは、大学院生時代に同じ研究室の先輩や後輩数人とやっていた生命倫理学研究会にさかのぼる。これは雑談とも勉強会ともつかないスタイルでそれぞれのテーマについて話し合う、今から思うとずいぶん生ぬるい研究会だったが、そういうところで勉強したことがあとまで生きることになるのだから分からないものである。(伊勢田哲治、『動物からの倫理学入門』p. 355)

  • ほんとうに人生とは分からないものであるね。
  • でもそれまでの研究室の読書会ってのは、なんかすごい本(『イロニーの概念』とか)を少しずつ読む、ってのが基本スタイルだったみたいなんだけど、この読書会は1回で1本読む、とかそういう感じにしたんだったよな*2
  • 基本的には3~5人ぐらいでBioethicsっていう雑誌の論文を読みましょう、みたいな感じ。へえ、QALYとかってあるんですか、なんかあれだねーとか。なんかそういう感じ。牧歌的。でもそういう勉強スタイルもそれまでの研究室の雰囲気ではなかった。医者呼んできたりもしたり。細長い狭い狭い部屋で和気あいあい・・・でもなかったか。
  • 「千葉大の資料集」というのがあることを知る。ここらへんで加藤尚武先生の名前を知ったのかな。もちろん『バイオエシックスの基礎』の編者として知ってる。「千葉大の資料集」は関西にはあんまり流れてきてなかったず。
  • 1993年に、「千葉大の資料集」にシンガーの妊娠中絶/新生児の治療停止の紹介文を書け、という話が入ってくるのでシンガー読んでなんとか書く。苦労したしけっこう煩悶した。科哲の大将も同じ課題わりあてられたので、読書会でいろいろ意見交換したりしたはず。できたの開けてみると土屋貴志先生が同じのネタにしてスマートなの書いててあれだった。土屋先生もかっこよかったんよねえ。
  • 飯田亘之先生実物が京都に来られて、社交辞令として褒めてくれたり、いくつか助言いただいた記憶がある。でもあれはありがたかった。飯田亘之先生はいろいろ本当に偉いんだよな。どうしても太陽のような加藤先生の陰になって光が当たらないかもしれないけど、日本の生命倫理を研究者組織して本当に立ちあげたのは飯田先生。加藤先生はむしろ宣伝役というかなんというか。
  • 1994年にその加藤先生が教授として就任。
  • 私はこの年から晴れてOD。私は形としては加藤先生の弟子筋ではない*3。でもほんとうにいろいろお世話になりました。
  • 就任前には迎撃体制をとっておこう、ってんで対策読書会したような気がする。「おもしろいけどちょっと具合悪いところもあるね」みたいな感じ。しかし偉大なことはわかった。実際偉大。
  • 奨学金切れて塾講師暗黒時代突入。勉強する時間なんてない。あんまり思い出したくないのだが・・・
  • 1994年に研究室の紀要で生命倫理特集したんだっけか。まあ千葉大の資料集に載せてもらったのを焼き直す。
  • 1994年の12月(OD1年目)に加茂先生たちの生命倫理研究会で発表させてもらったようだ。選択的妊娠中絶の話をしようとしたけど、なにをどう議論していいのかわからなかった。この日はほんとうに最悪の思い出だなあ。朝、「今階段から落ちたら発表しなくてすむかなあ」とか本気で考えた*4。以降この研究会にいろいろ厄介になる。御指導ありがとうございます。
  • 1995年には加藤先生がヒトゲノムプロジェクトの倫理的問題みたいなのでお金をひっぱってくる。偉い。
  • でも時間がなくてちゃんと貢献できず。すみませんごめんなさい。なんか嚢胞性繊維症のスクリーニングみたいなので紹介文書かせてもらうが、勉強不足でだめすぎる。いまだに公開できない。ていうか自分のなかではなかったことになっている。
  • ジョナサン・グラバーの『未来世界の倫理―遺伝子工学とブレイン・コントロール』の翻訳にも参加させてもらう。おもしろい!これは今読んでもおもしろい。
  • まあとにかく人生最大の暗黒時代に襲われていて、生命倫理どころじゃなくなっている。もう自分が生存するだけで必死。
  • でも非常勤の授業では生命倫理とかの講義もたせてもらったりして、とりあえずちょっとずつ勉強はしてた。
  • 信州大学にいる立岩真也先生がなんかすごい文献データベースを作っていることに気づく*5
  • 読書会はけっこう続いたんだけど、科哲の大将が留学することになっていったん終了。あれ、某女史が留学するからだったかな。記憶があいまい。とにかく忙しくて勉強どころではない。
  • 読書会はいまオハイオにいる功利主義女子が主催して第2期に入る。医学部の建物そのものまで侵略してすごい。そのころには私は時々顔出させてもらう程度。「♪とにかく時間が~足りない」
  • いつのまにか、「倫理学本道と生命倫理学あたりの応用倫理学の二本建で業績つくっておかないと就職できないよ」みたいなのが通念になってる。それでいいのかってのはあれだよなあ。

RA/常勤職時代

  • 90年代後半には一気に生命倫理とかの本がたくさん出た。
  • 立岩先生の『私的所有論』読んでわけわからず、でもなんか圧倒される*6
  • 運よく給料をいただける身分にしていただく。感謝感謝。
  • でもネタが「情報倫理」とかだから生命倫理のことはあんまり考えてない。
  • 情報倫理は生命倫理ほどおもしろくないなー、みたいな。
  • いやもちろんおもしろいネタもいろいろあるし。
  • このころになってやっと、ちゃんと「イントロダクション」や「ハンドブック」や「リーダー」読んで、お金かけてそれなりに文献集めてから仕事をするのだ、ってことがわかってくる。遅すぎる。でもいまじゃ一般的なこのスタイルは、95年には一般的ではなかったんですよ。
  • まあでも生命倫理は流行でいろんな人がやってるから、情報倫理で一発当てる方があれかな、みたいな感じでさようなら生命倫理学。
  • でも気にはなっていた。
  • 運よく常勤職ゲット!っていうかもらった。
  • わーい。
  • 好きなことしたいなー。
  • やっぱり生命倫理気になるよなー。特に選択的妊娠中絶なー。
  • フェミニズムも気になるんだよなー。大学が大学なだけにフェミニズムもそれなりにまじめに勉強しないと。
  • 井上達夫・加藤秀一論争があったことはこのころに江原先生のやつで知る。まあよくわからん。そんなん大昔に議論されつくしたことじゃん、みたいな印象。
  • 胚の利用とかES細胞とかで世間がさわいでるよ。
  • なんか少し勉強するかねえ。
  • 脳死も勉強しないとね。とかいいつつ4、5年すぎる。
  • と、なんかとにかくトムソンの議論もパーソン論も紹介なんかおかしくね? っていうか森岡先生の『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』あたりからなんかいやな雰囲気だったんだけど。
  • 異議あり!生命・環境倫理学』とかひどいなあ・・・
  • なんか勉強しないで生命倫理について書いてる人が増えてね? 業界が大きくなって海外文献読まずに国内の文献だけで議論してる?
  • 山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム』とかもなんかおかしくね?
  • 小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』。こ、これは・・・
  • まあここらへん別ブログで遊んでいたときに発見したわけだけど。
  • 2006年ごろ『生命倫理学と功利主義 (叢書倫理学のフロンティア)』に遺伝子治療の件とか書かせてもらって生命倫理学に復帰する準備。
  • よく見ると、『バイオエシックスの基礎』の訳はいろいろ問題ありすぎ。もちろん黎明期にはああいう形で出すのは意味があるけど、流行りで生命倫理学やってる研究者たちがちゃんともとの論文読んでないってのはこれはもう許せん。
  • というわけで学会に殴りこみに行くかなあ、とか。2007年ごろ。まず研究会で発表してまわりの人をディスり、学会でも全員ディスる発表して、その原稿を大学の紀要に載せた。今思えば学会誌に載せりゃよかったんだけど、なんか面倒だし、なるべく早く一目に触れる情報にしたかった。
  • 学会はけっこうな人数がいたんだけど、「トゥーリーの議論についてはここにいらっしゃる方々はみな御存知だと思いますが、魔法の子猫について御存知の方はいらっしゃいますか?」って聞いたときは気分よかった。「それではトムソンの最低限良識的なサマリア人はどうですか?」ははは。あれは人生で最高に痛快な一瞬の一つだったかもしれない。
  • でもそういう全力ディスり論文を書くと、「んじゃお前がやれよ」って話になるわけで、翻訳しなおさないわけにはいかんわねえ。
  • でも日本語が不自由でね・・・・天気悪いと仕事にならんし。
  • とかで今に至る。

*1:この本、まだどこかで教科書として使われてるらしい。すごい。

*2:ここで研究室の伝統というか上下の連結がが一回切れているわけだが、それについて今考えるといろんなことがあれだ。まあ苦しかったかもしれん。

*3:そして残念ながら怖い先生の弟子筋とも言いにくい。I’m a self-made man, and am proud of it、と言うべきなのかなあ。

*4:でも逃げなかった自分を褒めてあげたい。

*5:立岩先生はインターネットの威力を一番最初に使った学者の一人だと思う。

*6:ここでなんか反応するべきだったんだよな。

Tooley先生からお返事が来たよ

と粘着している「人格を持つって言えるか」問題。

トゥーリー先生から非常に親切な長文のお返事が来た。恐縮。
とりあえず一番重要な箇所だけ。

Finally, with regard to the “one has a person” statement, one should interpret “one has” as equivalent to “there is”. I don’t want to say, in this context, “one is a person”, for it suggests that there is something, referred to by the term “one”, that initially is not a person, and then becomes a person. Of course, there is an organism that, initially, is not a person, and then becomes a person, but I want to use the term “one” as a personal pronoun, and so I do not want to use it to refer to organisms that are not persons. But I could have said, instead, “the point at which it is a person”.

やっぱりぼんやりとした一般の人を指すoneでした。よかったよかった。ほんとに一時期は冷や汗かいた。おそらく児玉聡先生もこれ読んでると思うので、いずれweb直してくれるだろう。

トゥーリー先生にも御礼書かなきゃな。ちなみに先生はスキーが好きらしい。

でもよくメールを読みなおすと色々難しい。上の件(「パーソンを持つ」とは言わない)はそれでいいんだけど、1983年から”person”の定義を変えたんだな。

なんでこだわんなきゃならんのだろうか

「胎児は人格でないといっても、胎児は人格を持たないといっても、誤解される程度はたいして変わらないのではないか」という意味のコメントをもらった。

どうなんだろう。なんで私はこだわってるのかな。難しいな。たしかにトゥーリーなりシンガーなり読んだ人はわかるから、一度そこらへん読んだひとは「人格をもつ」だろうが「人格である」だろうが

言いたいことはわかるよな。マイケルの(なんちゃって。トゥーリー先生の)論文が「嬰児は人格をもつか」っていうタイトルで流通して生命倫理学者が皆平気で誰も文句つけなかった(?)のはそういうことなんだろう。

おそらく私が恐れているのは(何度もここで攻撃している)悪しき伝言ゲームが広がることなんだろう。決定的に問題だと思うのは、「である」と「もつ」をだいたい同じように使うような習慣がついてしまうと、「ひと」と「人格」が同じ意味なのがわかりにくくなってしまうことなんだと思う。

personは法的・道徳的な文脈で「ひと」っていう意味だ。「ひとに親切にしましょう」「ひとを殺してはいけません」「ひとを殺したものは~の刑に処す」という時に使われる意味での「ひと」。一方、「人格」はふつうの日本語では「あの人の人格は複雑だ」とかっていう使われかたをする。personalityやcharacter traits。このpersonとpersonalityのふたつは同じ日本語になってしまっているから、どうしても混同されやすいと思う。でもこれは歴史的な経緯があるからしょうがないが、無駄な誤解や混同はできるだけ避けたい。

「子供の人格を尊重する」とか「レイプは女性の人格に対する攻撃だ」「性=人格」とかってときに使われているときの「人格」はもはやどっちの意味かわからんほどぐしゃぐしゃになってる。これについては前に書いたな。読みにくい文章だ。反省。

まあとにかく「person」と「人格」と「ひと」は同じ意味のはずなのに、パーソン論の話をするときに「人格」という言葉を使うから、「胎児はまだ人格ではない」「胎児はまだ人格を持たない」はほとんど同じように見えている。でも「ひと」を使えば、「胎児はひとではない」「胎児はまだひとを持たない」になって、ぜんぜん違ってしまう。その結果、「人格」と「ひと」がもともと同じ言葉だってのがわかりにくくなってしまうだろう。

恐れているのは、伝言ゲームの結果、この混乱が広がってしまうことなんだろうと思う。「性=人格」のときのように無駄な議論をしなきゃならないようになる。実際に伝言ゲームの2列目にいると思われる小松先生ににはすでにその気があるし、その次の伝言ゲームではもっとひどいことになるだろう。やっぱりまちがった伝言ゲームは根元で抑えないと。権威とかそういうのは批判にさらされて生き残っているからこそ信用できる。去年私がここで学んだのはそういうことだったんだと思う。

は。でもこんな細かいことまあどうでもよいといえばどうでもよいような気もしてきた。別に日本の生命倫理学業界とかフェミズム業界とかブログ論壇とかほんとの論壇とか養老業界とかそういうのをアレしたいとかってわけでもないわけだし(いや、あるかな)。なんでどうでもよくないとか思うんだろう。これが卓越性のゲームってやつか。でもまあ微力でもなんかの(なんの?)力になりたいような感覚はあるよなあ。

Clarity and consistency in our moral thinking is likely, in the long run, to lead us to hold better views on ethical issues. (Peter Singer) から孫引き

これ好きだし信じてんだよな。and it will make the world betterとか。これはなんちゃってな話。

森岡正博先生にまだ粘着

森岡先生に粘着してみるメモ。

森岡正博先生の「パーソン論」批判は

  1. パーソン論は保守主義だ。
  2. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  3. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。
  4. 〈ひと〉でない存在者に対して冷淡だ。

の四つらしい。私は1と3の主張は偽であるか、すくなくとも多義的で曖昧であると思うし、2と4は偽ではないが文脈を無視していていいがかりに近いと思う。ちょっとずつ考えてみる。(パーソン論というくくりで、シンガーのような一流の哲学者とエンゲルハートのように哲学的に洗練されていない折衷主義者をいっしょにするのはどうも気になる。)

森岡先生でよくわからんのが、彼が、社会的・法的な(最低限の)ルール作りの話をしているのか、道徳的義務や責務の話をしているのか、もっと個人的な理想の話をしているのか、われわれの実感の話をしているのか。もっと別のことなのか。

4番目のやつから。キーになるのは次の文章。

潜在性を持ち出す議論のポイントは、……潜在的な〈ひと〉を殺すことは、将来生まれ出てくるかもしれない何らかの尊い「可能性」を奪ってしまったことになるのであり、その可能性を奪ってしまったことに対して、われわれは何かの「責め」を負わなければならない、ということを主張したいのではなかろうか。

すなわち、胎児には〈ひと〉になる潜在性があるということは、中絶を禁止する根拠にはならないけれども、中絶してしまったわれわれが何かの「責め」を負わなければならないということに理由にはなる、ということである。ここで真に問われているのは、それが道徳的に許容されるかどうかという次元の問題ではなく、われわれが「責め」を負うことになるのかどうかという次元の問題なのである。(『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』p.117)

いつもながら非常に魅力と迫力のある文章だが、この「責め」がどういう「次元」の話なのかが私にはぴんと来ないんだよな。「法的には許される(べきだ)が道徳的には非難される(べきだ)」はよくわかる。おそらく女性の中絶の権利を擁護する人びとにもそういう人びとは多い。

しかし、「道徳的には許されるが「責め」はある」となるとわかりにくい。森岡先生にとって「道徳」ってのはどういうものなのか。森岡先生と私の「道徳」の範囲が違うのかもしれん。やっぱりある種の宗教的立場で主張される罪(「私にはどうしようもなかったが、それでも私は非難されるべきだ」を認める立場)とかヤスパースの「形而上学的罪責」のレベルなのか。guiltとか remorseとかregretとかの議論だよな*1。難しい。

森岡先生の議論の裏には、おそらく、「中絶や治療停止を選択する人びとは、それが法的には許されても罪の意識を感じるべきだ」がある。そして、「その罪の意識を軽減する「パーソン論」は有害だ」と言いたいのだと思える。これどうしたらいいんかなあ。「罪の意識を感じる人びとの方が一般には善良だ」ならその通りなのかもしれんがなあ。少なくとも、たとえば、犬猫金魚ハムスターだって、何の罪悪感なく殺したりする人びとと私はつきあいたくないもんな。牛肉豚肉を平気で食うひとよりは、「命をいただいてありがとう」な人びとの方が善良だ。中絶ならなおさらだ。しかしこれ「パーソン論」の問題なんだろうか?森岡先生は、我々から「責め」の感覚(あるりは「罪悪感」)をなくそうとするあらゆる議論に反対なのかもしれん。

だから次のような文章が出てくる。

パーソン論にあるのは、自分が悪いことをしないためには、どのように「悪」を定義すればよいのかという視点だ。裏返せば、パーソン論には、悪の行いをしてしまった自分が、それを引き受けてどのように生き続ければいいのかという視点がない。悪の「責め」をみずからに引き受けながら、いかに人生を生き切ればよいのかという視点がない。(p.118)

でもこれって私だったら個人の理想の話(もちろんそれは非常に重要だが)であって、「パーソン論」のように、「権利」とか線引き問題とかもともと最低限の基準の話をしている議論にそれを求めるのはおかどちがいだ、と言いたくなる。(「権利」はほんとうに最後の「切り札tramp」でしかない。これは、国内で読書してり議論している分には、「権利」って概念の切り札的性格が理解しにくいってのがあるんだと思う。)

そしてこの批判(批判だとすれば)は、森岡先生が考える「悪」がそもそもどのような基準によって判断されるのかがはっきりしなければ、「パーソン論」だけでなく、なんらかの利害の対立がかかわるほとんどあらゆる法的・道徳的思考に対する批判になってしまう。早い話、「これ、たしかに損する人いるかもしれないけど、事情が事情だから許されるべきだよな」というような思考すべてに適用できるように思われる。パーソン論だけ でなくたいていの法や道徳の理論は「不正」「受けいれられない悪*2」とみなされる行為や制度の基準をめぐるものなので、この問題は重大。もし「受け入れられない悪」の判断基準がわからないのであれば、このタイプの議論は限りなく拡大してしまう。(これに森岡先生がどう答えるかわからないが、ひょっとすると「それでもいい、そうであるべきだ」と言うかもしれない。これはもっとよく考えてみる必要がある。)

こうして読んでくると、冒頭のまとめの四番目は、「冷淡だ」というよりは、「パーソン論はわれわれが本来感じるべき罪責感を軽減してしまう」と書きなおすべきかもしれん。しかしもしこう書きなおすことが許されるとすると、「本来感じるべき」という森岡先生の判断はどっから出てくるのか問いたくなる。あるいは「本来感じているはずの」か。難しい。

でもまあ、なるほど、この本でこの議論のあとに田中美津のリブ論や青い芝の会の議論が来るのは内的な必然性があるなあ。やはりよく書けている。(この本が奇書『無痛文明』と双子だという意味がやっとわかってきた。)森岡先生の議論を考えるためには、とりあえずわれわれの道徳的生活での「責め」や罪悪感ってのがどんなものであるかってことを理解する必要がある。これはとんでもなく難しいな。

*1:Bernard WilliamsのMoral Luckとかが有名。

*2:単なる「悪」ではなく「受けいれられない」悪だと思う。

森岡先生のパーソン論理解

だらだら。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』での最初に気になった 文章。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。(小松2004 p.149)

この表現は、かなりミスリーディングで気になる。気になりまくり。どっから来ているのかと思っていたのだが、森岡正博先生の『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』をながめていたら、おそらく次の文章から来ているんだろうということがわかった。

パーソン論とは、人工妊娠中絶や治療停止の場面において、生きるに値する人間と値しない人間とを区別する際に、伝統的な西洋倫理学の人格理論を適用しようとする試みである。(森岡1988 p.209)

20年近く前の文章だ。おそらく森岡先生はいまはこういう不用意な書きかたはしないだろう。どういうパーソン論者も、「生きるに値する」かどうかってのを自己意識や理性で区別しようとはしないだろう。「生きるに値する」ってことと「生きる権利をもつ」ってことはずいぶん違う。かりにトゥーリーの議論を使うにしても、「生きる権利」はもってないけど「生きるに値する」存在者はたくさんいるだろう。「自己意識もっていない動物は生きるに値しない」なんてのはたしかに受け入れられない主張だもんな。ここらへんがなあ。

もっとも、森岡先生は『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも次のように書いてる。

(「パーソン論」は)生物学的な意味での人間を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、前者の人間の生命の方が、後者の人間の生命よりも価値が高いと考える理論である。(森岡2001, p.104)

昔の文章よりはるかによくなっているが、やっぱりまちがいとは言えないんだけど、よく知らない読者には「根拠のない恣意的な議論だ」と思わせる傾向がある表現なのではないかと思う。(実際に小松先生はそう読んでしまっていると思う。)あと『生命学に何ができるか』でピーター・シンガーが「パーソン論」の代表的論者として紹介されているのも気になる。

うーん、そうか、小松先生はかなり森岡先生を読みこんでいるな。まあ森岡先生はこの手の議論をしている人のなかで一番優秀な人であるのはたしかなことだから、小松先生の目のつけどころは鋭い。

でもこういう理解が今となってはどうだったかなあ、という感じか。微妙だよなあ。

うしろの引用文を私の理解で書きなおすとだいたい次のようになる。

「パーソン論」は、もし仮に、人間が他の種類の存在者(他の動物や植物)と異った扱いを受けるに値するとするならば、それは人間が持つ理性や自己意識などの知的能力に由来すると考えざるをえないとする学説である。

もっと森岡先生の原文に近いかたちにすると、

(「パーソン論」は)人間を生命をもった存在を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、もしわれわれが〈ひと〉の生命が非〈ひと〉の生命よりも価値が高いと考えるならば、それは〈ひと〉が自己意識や理性をもっているからだとする議論である。

ぐらいか。あれ、なんかredundantっていうかtrivialな文章になってしまってるかな。

ポイントは、もし人間と、他の動植物の生命の価値のあいだにまったくなんにも違いはないと考えるならば「パーソン論」なんかにコミットする必要はないってことだわなあ。でもわれわれは人間の生命は特別だと思っているわけで、その根拠はどこにあるの、という問題意識が「パーソン論」の核心にある。「なんで人間が特別やねん?」に対して「にんげんだから」、では答になってないわけだからして。この問題意識を無視して、小松先生のように、「最初っから人間のあいだに区別をもちこもうとして作りあげた理論だ」のような考え方をしてしまうとそのインパクトを理解していないことになってしまう。哲学ってのは、相手が受けいれている前提から出発して意外な結論に引きずりこみ屈服させるのを目的とするものだ(っていうか、屈服させられている感じがするものだ。そういう意味ではテツガクは暴力的だ。テツガクは我々が望んでいるような結論をもたらしてくれない。これはソクラテス以来の伝統の核心部分にあると思う。)。

ここで、森岡先生がシンガーを「パーソン論」者として扱っているのが適切かどうかってのが問題になる。

このように、シンガーは、「自己意識と理性」こそが、人間を他の生命から区別しているものであり、人間に尊厳を与えるはずのものであると考える。だから、「自己意識と理性」をもった人間が、人間の生命の最上位に位置すべきであり、それらを失うにつれて、人間の生命の価値は下がってゆくべきなのである。(森岡2001、 p.107)

うーん。やっぱりまちがいではないがミスリーディングじゃないだろうか。この理解を正統だと思っているひとは、シンガーの『実践の倫理』のp.87-94とp.101-122を読みなおしてみるべきだと思う。(この二つの箇所の両方読まないと誤解すると思う。)

でもやっぱり難しい。森岡先生が言いたいポイントは別のところにあるようだし。 (「パーソン論」は保守的な現状維持の思想であり、貧弱な人間理解にもとづいている、とか。一部もっともなところもあるが、シンガーの議論が保守的であるとはとても言えないと思う 1)ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 )まあ常々、森岡先生という非常にオリジナルな思想家のいろんな議論については誰かがまじめに考えてみるべきだと思っているので、よい機会かもしれない。(続かないと思う)

References[ + ]

1. ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。