パーソン論その後/道徳的地位

大学教員という職業はヒマそうに見えて実は忙しい。特に私学の教員とかってのは夏ぐらいしか勉強する時間がとれないんですわ。学期中は授業させてもらったりいろんな会議に参加させてもらったりその他の事務仕事させてもらったり学生様の勉強のお世話をさせてもらってりしていて、やりたい勉強をする時間がない。お盆ぐらいまでレポートの採点とかして、お盆あけてから2週間ぐらいに勉強しないとならんわけです。まあそのあいだに秋の学会の準備したりもする。だから休みとかない。夏休みじゃなくて夏勉強。ははは。

やっぱりパーソン論まわりは長いこと気になっているので、この夏はなんとか論文何本かまとめたい、みたいなことを考えていろんな本やコピーした論文眺めてみたり。眺めてるだけ。ははは。

しかしパーソン論関係の論文は国内では山ほどあるんだけど、どれも判を押したように同じようなこと書いてないっていうかなんというか、うんざりしました。せめてお互いに参照するなり引用するなりしたらいいのに、みんな同じ限られた文献を見て同じような結論に到達してる、みたいな。正直いらいらします。この状況をなんとか変えたいとか思いなおすのでした。

まあそもそも「パーソンかどうか、その基準はなにか」みたいなことはもう古くさくてしょうがないんですわね。英米圏では誰もそんなことは議論してない。少なくとも2000年ぐらいからは、パーソンかどうか、とかって二分法で考えるよりは、moral statusとかmoral standingみたいな形で、それぞれの生命にどういう(道徳的)価値があるだろうか、みたいに議論するのが一般的な形だと思うです。

一番最初に「パーソン」の基準とか提出したメアリ・アン・ウォレン先生(なむなむ)なんかは各種の道徳的地位の基準を検討して、いくつかの原則のミックスじゃないとだめみたいね、みたいな結論になってます。道徳的行為者でありえるかとか、ホモサピエンスは特別かとか、感覚の有無とか、有機体(生物)はやっぱり価値があるわね、とか、「関係」が大事だ、とかまあいろいろある。

ウォレン先生が最終的に提出している原則は、以下の順番になる。

  1. 生命に対する敬意の原則。生命は理由なく殺したり破壊しちゃだめ。
  2. 虐待禁止の原則。殺さなきゃならない理由がある場合でも、虐待や残酷はいかん。苦痛は最小限にするべき。
  3. 道徳的行為者の原則。(理性をもっていて)道徳的に行為できる存在者はやっぱり特別な価値があるだろう。それがニンゲンであれ火星人であれ、ロボットであれ。
  4. 人権。やはりすべての人間は人間としての権利をもっている。
  5. 生物種間原則。生物種が異なっていても、ちゃんと配慮しなければならない。特にペットその他人間と深いかかわりをもっている存在者は相応の配慮を要求する。
  6. エコシステム原則。生態系も道徳的配慮の対象とするべきだ
  7. 尊重の推移律の原則。だいたい上に並べた順番で配慮していくべきである。
みたいな。まあウォレン先生は昔から直観的な議論をするのであれですが、もうパーソンなんてのにあんまりこだわってないです。そういうのはまあ70年代から動物の権利や障害者の権利とかちゃんと考えてきたからこうなってる。パーソンであろうがなかろうが、動物を虐待したりするのはやっぱり道徳的には不正だってのはみんな認めるでしょうしね。
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中絶の議論ももうパーソンの話はめったにやらんですね。それはまた。

認知の歪みと研究者生活

うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。

  1. すべてか無か思考。完璧じゃなければ意味がない。
  2. 過度の一般化。一つの例から一般法則を導いちゃう。
  3. 心のフィルター。悪いことしか見えません。
  4. 過大評価と過小評価。悪いことは大きく、よいことは小さく考える。
  5. 感情的推論。こういういやな気分になるからきっとあいつは悪いやつだ。
  6. マイナス思考。だめだー。
  7. 結論への飛躍(心の読み過ぎ、勝手な予測)。きっとあいつは邪悪なことを考えている、俺の将来はまっくらだ。
  8. 「べし」思考。人間というのはこうあらねばならないのであーる。
  9. レッテル貼り。「あいつは〜だ!」「〜だからだめだ!」
  10. 個人化。「ぜんぶ私が悪いのです」「悪いのはあいつだ」

数年前ぐらいから、倫理的な問題を考えているときは、われわれはけっこうこうした認知の歪みの餌食になってしまうことが多いんではないかと考えるようになりました。これらの認知の歪みは、どれもファラシーとか誤謬推理とかって名前をつけられて古代から研究されている詭弁に類するものでもあります。

私がよくやってしまうのはいろいろあるんですが、まずなんてったて「すべてか無か」ですね。論文と本とか読んでても完璧じゃないと意味がない、ここに穴があるからこの論文はぜんぶだめだー、みたいに考えちゃう。いかんです。

「過度の一般化」はまあ自分の体験から「みんなこうだ」「いつもこうだ」とか思いこんじゃうやつ。ピーターシンガー先生が気にくわないと功利主義者はみんな気にくわないとか、英米の倫理学はぜんぶ気にくわないとかそういう感じになっちゃう。「レッテル貼り」とも関係ありますね。「フェミニスト」とか「パーソン論者」「セクシスト」とかレッテル貼ってそれですましちゃう。じっさいにはフェミニストにもパーソン論者にも功利主義者にもいろんな見解があるわけだけど、とりあえず全部同じだー。

感情的推論もよくやります。結論が気にくわないと論理がまちがってるんだろう、論理がまちがってなかったら前提まちがってるんだろう、って思う。まあでもこれは大事ではあるですけどね。自分の利害がからむとどうしたって感情的になっちゃうけど、それはそれで別にしないとねえ。もとから嫌いな人が主張していることだとまちがってるに違いないと思う、みたいなのもある。もう「あいつが言ってるんだったら同意しなくてすむように自分の意見を変えてしまおう」みたいなときさえありますわね。

国内の倫理学でよく見かける気がするのが「心の読みすぎ」ですかね。「パーソン論者は実はこういうことが目的なのだ、こういうことを考えているのだ」みたいに心を読んじゃう。研究会やネットでも、単に質問されただけなのに悪意を推定する、とかってのもよくやっちゃうんじゃないですかね。

こういうのはネットの議論とか見ててもよく見かけるし、こういう思考はわれわれが生きていくために必要なんだとは思います。でもまあ理屈は理屈で考えてみないとならんといつも自分に言いきかせようとしています。

まあ倫理学や各種の応用倫理、とくに生命倫理の話とかは暗くてつらくて悲しい話が多くて、考えてるだけで気分が落ちてくる。情緒的・扇情的な文章を見ることも多くて、毎日そういう文献読んでるといろいろ腹たってきたりしてどんどん「ギギギ……」な感じになってしまいます。気分や感情が認知を歪めてしまうんですわね。そういうのは健康にも悪い。自己評価低めの人とかはなにかしら自分を責めたてて鬱的になるし、自己評価高めな人は他人を攻撃したくなってトラブルを起こしちゃう。まあとにかく倫理学は「べし」思考のかたまりなので、非常に健康に悪いことだけは意識しておいてください。

なんかときどき噛みしめてしまってる奥歯をゆるめてピースってしてみると文献がぜんぜん違ってみえるかもしれません。生命倫理とかそれだけ考えてるとやばいので、なんか楽しい研究も同時にできるといいですね。愛に満ちたセックスとかハッピーなセックスとか楽しいカジュアルセックスとか……いやこれもやばいですね。なにがいいんですかね。

まあ個人的にはキェルケゴールとか読んでで絶望だの不安だのやってたときは毎日死にそうでしたね。そういういやな体験を好んでする人はいないので、あんまり長く続かない。生命倫理もそういうところありました。

そもそも哲学っていうのはソクラテスの昔から「批判」とかを中心にしているので、おそらくネガティブになりやすい。研究会とか読書会とかでも「〜その読みは違うんちゃうか」とか「お前の言ってることは意味不明だ」とか言われまくりですしね。時々冗談とか言ったり、SF的な変な思考実験とかしながら楽しくやりましょう。

まあとにかく楽しくないと研究も長続きしないし発展しにくい。がんばって楽しく勉強しましょう。あんまり禁欲的になっちゃうのはやばい。バーンズ先生も図書館で借りて読んでみてください。

まあとりあえずつらい勉強するにあたってもこのリストいつも見るようにしてみたらどうですかね。実は私一時期パソコンのデスクトップに貼ってました。ははは。

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パーソン論よくある誤解(8) パーソン論は人間の尊厳についての議論である

水谷雅彦先生の「生命の価値」っていう昔の論文を読んでいたら、パーソン論が「生命の価値」や「人間の(生命の)尊厳」のような文脈で議論されていることに気づきました。パーソンは尊厳という特別な価値をもっていて、パーソンでない存在者は尊厳をもっていない、みたいな議論として理解されてるようです。これいろいろと難しい問題を含んでますね。

まずそもそも「(人間の)尊厳」ってのがなかなか難しい概念で、実はなにを言っているのかよくわからない。カントの倫理学だと「物件は価格をもつが人格は尊厳をもつ」みたいなことを言われているわけです。いろんな価値があるけど、モノの価値は価格であり、人の価値は尊厳と呼ばれる、ってことですわね。んでカントの場合人(人格、パーソン、ペルゾーン)の価値は、その人が道徳的行為者でありえることから来てる、って話になります。道徳的行為者であるっていうのは、自分の欲求とか感情からではなく、理性的に考えて自分がしたがうべき道徳法則を判断し、その道徳法則に従うことができる能力をもつ、みたいな形になる。まあこういう意味で道徳的行為者な人が実際にどれだけいるのかはよくわからんわけですが、まあとにかく人間の理性的能力こそが人間の尊厳の源泉である、みたいないかめしい話になる。

前に論文にも書いたんですが、1980年代後半ぐらいにはエンゲルハート先生っていう先生が来日してパーソン論の話をしたりして国内の学会ですごくウケたんですね。この先生は基本的にカント主義みたいなのを生命倫理にもちこんで一応の業績をあげていたし、国内の倫理学者の間ではカントはすごく偉いってことになってたし詳しい人も多かったので、「パーソン論」といえばエンゲルハート式のカント流パーソン論、ってことにになってた。

こういう「尊厳」の話と、ふつうに考えてる「人間の尊厳」の話、まあ人間は動物より偉いとか、排泄とかちゃんとできないと人間の尊厳を傷つけている感じがするとかそういう話、あるいは「尊厳死」の話なんかがごちゃごちゃになった時期があるんじゃないですかね。知的障害者には尊厳はない、価値はない、みたいな話にされたらそりゃ怒りますわね。

実際には英米での「パーソン」の話で「尊厳」の話が出てくることはあんまりなかったんじゃないですかねえ。調査しきれないですが。

英米だと「人間の尊厳」じゃなくて「人間の生命の神聖さ」みたいな形の議論の方が優勢だったんじゃないでしょうか。「人間の生命は神聖だ」と言われるけど、そんな神聖さなんか認めらんないね、みたいな話として出てきたはず。もっともドイツだとドイツ基本法とかの影響でやっぱり「尊厳」が中心だったと思う。でもやっぱり脳死者や植物状態の人には尊厳はない、みたいな話にはならなかったはずです。

まあここらへんの「尊厳」「神聖さ」「価値」とかが曖昧に考えられてしまうのは困ったものです。そこらへんちゃんと切り分けてはっきりさせないとうまい哲学にはならないですね。

実はこのエントリ、最初は「パーソン論は価値についての議論である」っていう「誤解」について書こうかと思ってたんですが、まあ価値っていうのはなかなかむずかしくてもうちょっと考えてみないとうまく書けそうにないです。実際ピーター・シンガーなんかは「生命の価値」というタイトルでパーソンの特別な道徳的価値について話してますしね。もうちょっと考えたいと思います。

ちなみにカントの『実践理性批判』や『基礎づけ』は最近熊野先生の新訳が出てますがまだ見てません。

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パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ

「パーソン論」はさまざまあるとはいっても、やはり多くの論者が自己意識だとかそこらへんの心理的特徴に訴えかけているのは否定できないです。これに対してはやっぱり70年代前半からさっそくいろんな代替案が提出されています。

有名で典型的なのは中絶翻訳本に収録したジェーン・イングリッシュ「妊娠中絶と「ひと」の概念」(1975)とかですかね。解説転載しておきます。

ジェーン・イングリッシュはカナダの哲学者であり、登山事故で早逝したので日本ではほとんど知られていないが、ここに訳出した「妊娠中絶と「ひと」の概念」はトゥーリーやウォレンらの「ひと(パーソン)」の概念の有用性を疑問視し、中絶に対してより穏健で受けいれやすい立場を主張をしたもので、頻繁にアンソロジーに収録され続けている。
イングリッシュによれば、「ひと」であることの核になるような特徴は存在せず、「ひとであること」はさまざまな特徴の束でしかない。どんな存在者が「ひと」であるかを明確に定義することはできず、私たちに可能なのは、典型的な「ひと」の事例をあげ、それに類似したものを指摘するのみである。
さて仮に、胎児が生きる権利をもっている「ひと」であるとしても、中絶は自己防衛のためであれば正当化される。自己防衛は必ずしも生命の危険を避けるときだけ正当化されるわけではない。妊娠が命にかかわる場合はもちろんのこと、女性の身体的・精神的健康や幸福やライフプランを著しくおびやかす場合には、自己防衛から中絶を行なうことも許容される場合がありうる。また、仮に胎児が生きる権利をもった「ひと」ではないとしても、つまり、胎児が生きる権利に代表される「権利」全般をもっていないとしても、そこからただちになんの配慮も必要がないということにはならない。権利をもたないものも配慮の対象にはなりうる。動物は「ひと」ではないが、無駄に殺したり苦しめることは明らかに不正である。したがって「ひと」の概念は中絶の許容可能性を考える上ではたいした役には立たない。胎児は新生児に似ているため、「態度の一貫性」のためには、新生児と似た胎児にも一定の道徳的配慮を与えなければならない。胎児の成長は漸進的であるので、出産に近づくにつれて胎児に対する配慮の必要性も高まる。したがって、新生児にほとんど似ていない妊娠初期には女性や家族の利益のための中絶は許容されるだろうが、妊娠後期の中絶が正当化されるのは身体的・心理的・経済的・社会的な危害をもたらすときのみということになるだろうとイングリッシュは主張する。

まあこれはこれで一つの立場なわけで、ふつうにパーソン論やってる人はこういう批判が大昔に出ていることを承知の上で議論しているわけです。国内ではこれと同じような発想のが論文としていまだに生産されてますよね。車輪の再発明みたいな。こんな有名な論文に言及しないで勝手なことを言う生命倫理学者は滅びてほしい。本当。

こういう人々の感情とかを重視する立場の一番の問題は、(1) 権利っていう大事な話を、感情みたいなあやふやなものにまかせていいんですか、そして(2)どういう対象にどういう感情をいだくべきかってのはどうやって決めるんですか、ってことなんかがよくわからんところですわね。

実際、そもそもの議論の初期の段階で、強硬な反中絶論者であるヌーナン先生(これも中絶翻訳本に収録しました)なんかは「感情とかにまかせたら、「黒人には共感しないから奴隷にしてもいい」みたいなのを許すことになるぞ」って主張している。これは正しい。

同じ本に収録したシャーウィン先生なんかも「胎児に二人称で語りかけるかどうかが大事だ」みたいな話をするけど、んじゃ二人称で語りかける気のない母親は胎児を好きに中絶していいって話になるかどうか。

森岡先生の「ペルソナ」論とかでも、「ペルソナだなあ」って感じられなかったらなにしてもかまわんと言うつもりなのか。まあもちろんそうではないでしょう。

けっきょく、当の存在者の特徴以外にも、まわりの人々の感情その他が重要なのはその通りなわけですが、どういう存在者にたいしてどういう感情や態度をもつべきかという話をまたべつにしなきゃならんようになるわけです。そうでなければ理屈の上でも不備のあるものだし、実践的には本当に勝手なふるまいが許容されちゃうことになる。

だからまあ感情とかそういうのを中心にした考え方はありはありかもしれないけど、それが含意するところをちゃんとつめて考える必要がある。

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パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。

パーソン論の基本は、「もしあなたたちがある存在者をパーソンとして特別扱いにするのならばその基準とその根拠を出せ」なわけです(くりかえすのがあんまり苦にならなくなってきました)。これだけでは序列化とか優越とかそういうのは入ってきてない。むしろ優越なり序列とかがあるとすれば、それはパーソンを特別扱いにしている *私たち* が導入しているものであって、パーソン論者が導入しているものではない。問題はパーソン論ではなく私たちの道徳的信念にあるのです。

だいたい序列化ってのもわからんではないですか。頭がいい人が悪い人より序列が上だとか、そんなことを森岡先生は信じているんでしょうか。

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パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。

くりかえしますが(もう何度でもくりかえします)、パーソン論というのは基本的に

(1) 同じものは同じにあつかえ、同じにあつかわないのならばその根拠を明確にしろ、というのが道徳的思考の基本だ。
(2) われわれは生物のなかでもパーソンを特別扱いにしている。
(3) パーソンを特別扱いにするならその特徴を出せ。
(4) どうもパーソンを特別あつかいにするのは心理的特徴しかないようだ。

のような順番で進む議論です。パーソンを特別扱いにする心理的特徴が実際になんであるかは論者によって異なります。自己意識だの理性だの、いろんな提案がおこなわれている。(このなにを候補にあげるかは論者によるというのも何度もくりかえす価値があります。)

パーソンはふつうは「特別な権利」(たとえば生命に対する権利、生命の維持を求める権利、財産権など)をもっている存在者ということになっているので、ここから、パーソンでなければそういう特別な権利をもっているとは必ずしもいえないだろう、ということになります。しかし「パーソン論」は、パーソンでない存在者がそういう権利をもたないと積極的に主張するわけではない。単に、「かくかくしかじかの特徴をもつ存在者をパーソンとするならば、その特徴をもたない存在者は *それだけでは* その特別な権利をもつと簡単に主張できるわけではない」と言っているにすぎません。他のさまざまな理由からさまざまな権利をもつことは十分考えられます。けっきょく権利ってのは決め事ですからね(かなり特殊な「自然権」のような立場をとらないかぎり)。

「パーソンである特徴をもたない存在者は生命に対する権利をもつとは言えない」のような表現を見てしまうと、どうも「そういう存在者は生きる資格がない」「だから殺してもかまわないのだ」「むしろ死ぬべきだ」「抹殺してしまえ」と言っているのだ、みたいな考え方をしてしまう人がいる。これはもう森岡先生あたりがパーソン論を紹介したときからのひどい誤解ですね。こういうのはやっぱり生命倫理学者はどうにかしてほしいところです。

これまた何回も書きますが、上の(2)は実際にわれわれはそうしているわけですが、必ずそうしなければならないわけではないです。パーソン論をやっつけたいと思うならまさにこの(2)を攻撃すればよい。つまり、「パーソンかどうかなんか実は道徳的にはたいして重要ではないのだ」と主張すればよい。そしてこれが(私の理解では)どういうわけか「パーソン論者」として国内で忌み嫌われているピーター・シンガーの基本的な考え方です。なんでシンガーがパーソン論者にされてしまうのかよくわからん。

パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である

いや、ぜんぜん。

とにかく国内で議論されている「パーソン論」は古いんですわ。けっきょくパーソン論というのは「われわれは人パーソンを特別扱いしている」っていう事実からはじまってるわけですが、70年代から80年代にかけての論争のなかでそういう「人間」を特別扱いにするって考え方はあんまり筋が通らないってことが理解されるようになって、議論はもっと進んでいます。

「パーソン」かどうか、なんてのは程度の差だし、そんな重要じゃないだろう、ってのが主流じゃないですかね。特に英国系の議論では。米国流の「権利」を中心にした考え方ではいまだにやっぱり権利の主体は誰なの、って話をしなきゃならんわけですが、けっきょく権利なんてのは人間の決め事だからどういうふうにもその主体の範囲を決めることができる。いまだにパーソンにこだわってるのは自然権とかそういうものでなんとか議論しようとしている人だけでしょう。

そもそもたとえば「自己意識」がパーソンであるための重要な条件だ、って言われたって、なぜ自己意識が権利とか道徳的地位と関係があるのか論証しなきゃならん。それはかなり難しいしおそらく無理そう。だからもう「パーソンかどうか」っていう基本的に権利ベースの考え方は放棄されて、道徳的地位とかそういう話になってると理解してます。

自己意識やら高度な知性やらがなくなって重要な存在者がいるのははっきりしているのだから、もうパーソンについて考えんのは無駄だよね。みたいな。

たとえばThe Oxford handbook of BioethicsのBonnie Steinbock先生の”Moral Status, Moral Value, and Human Embryos”とか見ると雰囲気わかるんじゃないすかね。

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日本の生命倫理学ももっとちゃんとアップデートしましょう。こうしてパーソン論についてごちゃごちゃやってるのは、あんまりひどい議論ばっかり見かけるからいらだってやってるだけ。

パーソン論参考資料『妊娠中絶と生命倫理』でのウォレン論文解説

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胎児の道徳的地位の議論としては、メアリ・アン・ウォレンのこの論文も重要である。トゥーリーとウォレンの論文は、結論としては胎児はまだ十分な精神的活動をしていないので中絶は許容される、という似かよったものになっているが、議論の哲学的な内容はまったく異なっている。トゥーリーの論文よりはむしろウォレンのものの方が、基本的なアイディアとして広く受け入れられた形の議論になっている。

ウォレンはトムソンの議論の難点を指摘したのちに、中絶の道徳性に関する議論で使用されている「人間」(human being)は二つの意味を含んでいることを指摘する。遺伝学的な意味でのヒト(犬や猫やチンパンジーではないという意味で人間である)と、道徳的な意味でのひと(パーソン)(殺してはならない存在、権利をもつ存在という意味での人間)である。

中絶反対派と容認派の双方が、中絶される胎児がヒトの胎児であることを認めている。ここには対立点はない。むしろ対立点は、胎児はどの程度の道徳的地位(moral status)をもっているのか、子どもや成人と同じ権利をもっているのかということにある。言いかえると、胎児は道徳的な意味での「ひと(パーソン)」なのか、権利をもっている人々、殺してはならない人々の集まりである「道徳的共同体」の一員なのか、という問いが重要なのである。

私たちは「ひと」ではないものに対してさほど配慮をする必要はないと考えている。雑草を引き抜き、ゴギブリを殺し、牛や豚を屠殺して食べている。それではどのような存在が道徳的配慮に値する「ひと」なのだろうか。この問いに対して、「ヒト(ホモ・サピエンス)である存在」と答えるのは有効ではない。その場合、「なぜヒトは特別なのか?」とさらに問われることになり、この問いに対して「それはヒトだから」と答えるのでは単なる同語反復になってしまうからである。一方、もし私たちとまったく同じように考え感じコミュニケーションをすることができるが、ホモ・サピエンスではない未発見の動物や宇宙人がいるとしたら、それを好きに殺しても(たとえば珍味として食べてみても)道徳的に問題はないということになるかどうかは疑問である。そこで、「ひと」である条件を生物種に訴えることによって示すことは難しい。

ウォレンは私たちが日常的に考えている「ひと」であることの中心的な特徴として(1)意識、(2)推論の能力、(3)自発的な活動、(4)コミュニケーションの能力、(5)自己意識、の5点を挙げる。典型的な「ひと」であるヒトの成体(つまり私たち)は上の5つの特徴をもっているが、私たちが「ひと」と認める存在が必ずしもこの5つの能力のすべてをもっているとは限らない。たとえば認知症の老人は推論の能力を失なっているかもしれない。しかし少なくとも上の五つの条件をすべて欠いている存在は「ひと」とは呼べないだろう、というのがウォレンの見方である。初期の胎児が上の5つの特徴をかねそなえているということはないし、仮に胎児が痛みなどを感じる意識能力をもっているとしても、それは他の牛や豚といった動物も同様である。こうして、ウォレンは大胆に初期の胎児はグッピーと同程度の道徳的地位しかもっていないと主張する。

しかしウォレンは上の5つの特徴をもつ存在者がなぜ「ひと」であるのか、道徳的共同体の一員であるのかという理由は説明していない。単に私たちの多くはそう考えているはずだということしか示していない。また、このウォレンの議論も、「ひと」であることの条件として精神的な能力や活動に注目するために、トゥーリーのものと同様に新生児や重度の認知症の老人などを死なせることを正当化してしまうように思われる。そのため、非常に不愉快で不道徳な見解だと考える読者は多いだろう。この点に関してはウォレン自身も気にしており、この論文がアンソロジーに収録される際には「新生児殺しに関する追記」を付記するよう求めている。

しかしここで注意しておかねばならないのは、もし(たとえば経済的な理由による)殺人は禁止しながらも妊娠中絶が正当化されると考えるとすれば、胎児の道徳的地位は成人ほどのものではないということをなんらかの形で立証しなければならないということである。そしてまた、食べるために牛や豚を殺すことは許されるが、ヒトを殺すことは許されないと考えるのであれば、それがなぜであるのかを「ヒトを殺してはならないのはそれがヒトだからだ」などという同語反復ではない形で説明しなければならないということである。もし胎児を殺すことが不正であるのであれば、他の動物を殺すことも不正かもしれない。もし胎児を殺すことが不正ではないのであれば、胎児と同じような意識状態にあるヒトを殺すことも不正ではないかもしれない。こうしてトゥーリーとウォレンの論文以降、胎児や新生児、他の動物の道徳的地位の問題が「ひとであるとはどのようなことか」という問題として重要な哲学的課題として浮かびあがってきたのである。

パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない

なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。

よく見かける誤解の一つが、「パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない」みたいなやつですね。もう面倒なので文献ひっくりかえすのはあとにします。

でもまあ一応森岡ターゲット論文ぐらいは見る。http://www.lifestudies.org/jp/persona01.htm

森岡先生は「パーソン論者によれば、パーソンとは自己意識と理性を持った存在者のことであり、その存在者に対してはある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」と表現してます。これまちがいではないんですが、誤解を招く表現になってると思うんですわ。

まずまあ前にも書いたように、全部のパーソン論者が「自己意識と理性」をパーソンの条件にしているわけじゃない。でもこれはいいです。問題は次の「ある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」。

私が書くなら、「ある特別な道徳的配慮をはらうことが〜」になるかなあ。

パーソン論のそもそもの前提は「われわれはパーソンと呼んでいる一部の存在者を特別あつかいしている」って事実なんですよね。まあ特殊な権利を認めたり、特殊な保護をおこなっている。でも、それ以外の存在者に対しては道徳的配慮をしなくてもいいってことにはらんわけです。それは誰も考えてない。猫はおそらくパーソンじゃないけど、楽しみの気紛れに殺してはならん。できるかぎり保護しなければならない。だからパーソンでないとされた存在者は道徳的配慮の対象にならないと考えてはいかん。まあ森岡先生はそうは考えてないと思います。

パーソンである存在者とパーソンでない存在者のあいだにどれくらいの配慮の違いを設けていいのか、ってことはパーソン論そのものからは出てこないはずです。我々がパーソンとそうでない存在者の間にたいしたちがいを設けたくないと思えばそうすればよい。私はそっちの方に賛成ですね。っていうかわれわれはパーソンばっかり特別あつかいにしすぎていると思われます。

何度も書いているようにトゥーリー(1972)の議論はかなり特殊だってことを意識しておいてもらうことを前提にしてトゥーリーの議論を考えてみると、彼によれば自己意識をもってない存在者は自己が存続することを望むことができないので自己の生命が持続することを欲求できず、それゆえ自分の生命に対する権利をもつことができない(くりかえしますが、この議論はうまくいってないです)。でもそれでも猫が苦しめられない権利をもつことは可能なわけです。だって猫は苦しめられないことへの欲求、苦しめられることへの嫌悪をもつことができるでしょうからね。

あとウォレン先生(1973)は、感覚、自発性、コミュニケーション能力、推論、自己意識などの特徴のどれもがないとパーソンとはいえないだろうって言ってますが、んじゃ新生児にはなにも配慮しなくていいのかっていう問いに対しては、新生児とかはすでにさまざまな人間関係や愛情や愛着の対象になってるんだから殺してもかまわないってことにはらならん、としつこくくりかえしてます。

まあパーソンに与えられている「特別な資格や権利」がどんなものであるべきか、ってのは「誰がパーソンであるか」ってこととは別に考えなきゃならんことなのです。これ混同するとおかしなことになる。

パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である

(このエントリは失敗なので書き直します)
「パーソン論は切り捨ての思想だ」っていうタイプの議論は「パーソン論」が国内に紹介された時点から存在していて、特に強い影響力のある森岡正博先生が広めた、と理解しています。先生は『生命学への招待』に収められている「パーソン論の射程」(初出は1987)から『生命学に何ができるか』(2001)、そして比較的近年の論文「パーソンとペルソナ」(2010)まで一貫してそうした主張をおこなっているようです。森岡先生の著書や論文が明示的に参照されることはそれほど多くないようですが、パーソン論に対する基本的な理解として国内で広く受けいれられているようです。
前にも書いたように一口に「パーソン論」と言っても、けっきょく各種の重要な権利の主体となるのはどのような存在か、ということが問われていることが共通しているだけで、全員がしかじかのことを主張しているということは言えないのですが、国内で広まっている解釈にしたがうと次のようになります。
パーソン論者によれば、権利をもった人(person)であるためには知性や自己意識が必要であるとされる。しかしこうしたことを主張するのは知性や自己意識をもった人自身が考えるからそうなるのだ、自分の仲間に権利を認め、知性が低かったり自己意識をもっていない人を切り捨てるためにそういうことを勝手に想定しているだけなのだ。したがってパーソン論は自分たちを勝手に贔屓している思想である、のように。
まあ表現はさまざまあるわけですが、森岡先生とかの流派のはこういう感じかなあ。あるいは、パーソン論は知的能力によって人々のあいだに差をつける能力主義だ、みたいな感じか。
この種の解釈のどこがおかしいのかを説明するのはかなり難しいですが、がんばってみます。
まず、いわゆる「パーソン論」で使われる議論は、私の理解では次のようになります。
(1) われわれは「人」(person)と呼ばれる存在を特別あつかいにしている。あるいは特別扱いにせざるをえない。(事実)
(2) 特別扱いにするならば、その特別扱いの理由をはっきりさせる必要がある。(合理性・道徳的思考における要求)
(3) 人間(ホモサピエンス)を特別扱いにするならば、人間が他の動物と違う特質に訴える必要がある。
(4) 人間が人間(ホモサピエンス)であることはその理由にならない。なぜホモサピエンスが特別なのかの理由を示す必要がある。
(5) 候補としてあげられるのは言語の使用や自己意識の有無である。他にもありえる。
(6) なんにしても、その基準が特別扱いにしている「人」とそれ以外の存在者との扱いを変える理由になるなら、その基準は人間以外の存在者にも適用されるべきだ。
パーソン論というのはけっきょく特別扱いする対象とそうでない対象の違いはいったいなんなのか、ということを問題にしているわけなので、いずれにしてもなんらかの「線引き」や「排除」の理屈ということになります。これは正しい。
しかしそれが自分勝手だとかっていうことにはかならずしもならない。誰もがある基準で特別扱いする基準を提唱することができます。たとえば「白人」だとか「日本人」だとか「男性」だとかそういうのを挙げてよろしい。しかし「白人」「日本人」「男性」なんてのがちゃんとした区別の理由になるかどうかかはあやしい。同じように「人間ホモサピエンスであること」もちゃんとした理由になるのかはあやしい。多くのパーソン論者は「自己意識」や「高度な知性」を特別扱いにする理由にしますが、もちろんそれを疑問視してもかまわない。彼らはたんに「自己意識や高度な知性がおそらく基準として妥当だろう、それはなにか人の特別さを示すことになるから」程度のことを考えているわけです。むしろ他によい基準があれば、パーソン論とかやっている人々はよろこんでそれを受け入れるでしょう。つまり「自己意識」や「高度な知性」は単なる提案にすぎません。
もうちょっと詳しく見ると話は変ってきます。「パーソン論」と一括りにされますが、提案されている基準はさまざまなんですね。マイケル・トゥーリー先生の1972年の論文「妊娠中絶と新生児殺し」では、人パーソンを「生命に対する重要な権利を持つ存在」と定義した上で、「生命に対する権利」をもつためには、「自己の生命を維持することに対する欲求」がなければならないはずだ、そしてそのためには「自己の生命を維持すること」やつきつめれば「持続する自己」の概念をもっていなければならないはずだ、というふうに議論がなされます。この議論は多くの倫理学者によって検討された結果、あんまりうまくいってないと考えられてます。
もっと一般的なのはメアリ・アン・ウォレン先生の議論です。これは一般にわれわれが特別扱いにしている「人」はどんな特徴をもっているだろう、として、感覚や欲求、自発性、推論能力、コミュニケーション能力などを列挙して、このうちどれが人であるための重要な条件であるかはわからないが、どれももっていないのであれば我々が考える「人」とはいえないだろう、ぐらいの議論をしています。こっちの方が「パーソン論」としては一般的なやりかたですね。
まあどんなやりかたをしてどんな基準を提案するにしても、もしわれわれが一定の存在者を人として特別扱いしようとするならば、なんらかの基準は必要になります。ウォレン先生みたいなやりかただと、別に自己意識や知性を特別な基準にしなくてもいい。なんでもいいけどとりあえず基準をとってしまえば、それにしたがわねばならない。われわれが日常的にすでにおこなっている特別扱いをする基準はなんであるのかをはっきりさせるのがポイントです。
こうして見ると、それが「切り捨ての思想だ」と非難される必要はなにもないように思えますね。われわれのたいていは人間以外の動物を動物として切り捨てて食べたりしているし、植物や昆虫、細菌や無生物はさらに軽く扱っているわけで、その「切り捨て」の根拠はなんであるのかを考えてみる必要があります。「もしわれわれがある一群の存在者を特別扱いにしようとするのであれば」、なんにしてもそのグループがどういう存在者であるのか、そしてその存在者を特別あつかいをする理由はなにか、っていうのに答える必要があるように思えます。仮にパーソン論が「切り捨ての思想」であるとしても、それが自分の仲間を優先する思想だとか自分勝手な思想だとか言う理由はないように思えます。
森岡先生やその他多くの先生は、「パーソン論を考える人は自分をパーソンだと思っていて、自分たちに有利なように基準を提案している」と主張するわけですが、特にそう考える必要はないように思います。それなら白人哲学者は「白人」、男性哲学者は「男性」とか勝手に他に基準を出すこともできるわけですからね。なぜ「自己意識」や「知性」程度になるのか、それを考えてみることが必要です。それは結局のところ、自己意識や知性をもっていることがその当人の幸福にとって重要だと考えられるから、ということになります。もちろんこれも論証が必要。
まあとにかく「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなことを言いたい人は、それでは私たちは今現在どういう切り捨てかたをしていて、その根拠はなんであるのかを考えてみる必要があると思います。パーソン論にあるていどコミットしている人は少なくともそれは考えているはずです。
でもこれじゃおそらく上のような誤解というか疑問をもつ人に対して根本的な答にはなってないですね。そういう解釈のいちばん深い疑問に答えてない。もう少し考えます。今回は失敗。すみませんすみません。