倫理学」カテゴリーアーカイブ

スティーブン・ピンカー「「尊厳」の馬鹿らしさ」の抄訳

最近、事情でまた道徳的地位の問題いろいろ考えてます。まあ昔からことだし、なんとかしないと。「(人間の)尊厳」まわりはちょっとどうかっていう議論が多くて、毎日ものすごく苦しんでます。 続きを読む

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ファインバーグは重要だった (1)

12月に学会でワークショップだかシンポだかをやろうっていう話に誘われて、またパーソン論や道徳的地位の問題を漁っているわけです。今回はそれなりに徹底的にやってここらへんのに自分のなかでケリをつけておきたい。 続きを読む

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盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』

そういや、ちょっと前に敬愛する盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』の評をわりあてられて、いろいろ文句つけたくなり、やっぱりパーソン論ちゃんとやらないとなあ、みたいなことを考えたりしたのでした。今年はそれの年になりそう。私途中で投げ出しちゃってだめよね。 続きを読む

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最近の私は倫理学入門の最初のツカミに何を使っているか

まあ全国の倫理学系教員が、入門講義のツカミをどう入るかなあと考える季節ですね。まあだいたい倫理学系の教員はツカミだけはがんばる。あとは難しくてぐだぐだになっちゃう人は私を含めて多いと思うけど。

一時期導入にはみんな(マイケル・サンデル先生流の)トロッコ問題使ってたんではないかという気がする。私も3年ぐらい使ってたかな。
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サルトル先生が夢見たガラス張りの世界

ネットとかでいろいろ書き散らかしていると、自分の思考や感情が他の人に見られるっていうのはどういうことか、みたいなのはよく考えます。次はサルトル先生のインタビューの好きな箇所の勝手な訳。時々授業で使います。 続きを読む

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妊娠中絶の(道徳的)正当化

日本医学哲学・倫理学会『医学哲学 医学倫理』第31号、2013、pp. 59-60 の草稿。


京都女子大学 江口聡(哲学・倫理)「妊娠中絶の(道徳的)正当化」

従来の哲学・倫理学の世界において、中絶の道徳性はどのように議論されてきたかを簡単に説明し、有望な議論を示したい。

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寺田先生の自己責任論批判を読んだ

いまごろ(10年前の)寺田先生の「イラク人質事件をめぐる「自己責任論」と世界市民の責任」 http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/583/1/prime21_99-108.pdf を教えてもらって読んだ。まじめな哲学系の研究者はあんまり現実の問題にコメント出さないことが多いような気がするけど、これは当時の人質問題について倫理学研究者としてまじめに考えてまじめに書いてる立派な論説だと思う。今回の件でいろいろ考えてる人は読むべきだ。

主張や結論には文句がないけど、ただ1節から2節の論の運びにはちょっと疑問がある。

一つは、「自己責任論」って言われている意見がいったい誰のものかよくわからなくて、まともな人がそういうことを論じていたのかどうか。もちろん素人というかあんまりよく考えない人が「自己責任だから放っておけ」とか、ああした人々に批判的な人のなかには「ざまー」とか言ってた人もいるだろうけど、まともな議論はあったのかな。自分の好まない人々がひどい目にあっているときに、あんまり考えずに「自業自得だ」みたいに考える人々っていうのはどうしてもある程度はいるんじゃないかとは思う。準備不足の登山で遭難したりしているときにもそういう反応はあるわねえ。なくしたいものです。

もう一つは細かいことだけど、このころ(2000年代前半)よく見かけた「責任」(responsibilityやVerantwortung)という言葉の語源に遡って、それは「問いかけに応答すること」だというタイプの議論をしていることだわね。そりゃ語源的にはそうなんだろうけど、現在の我々がそういう意味で使っているかどうかは微妙なところ。「もともとはこういう意味だった」というのから「本当はこういう意味だ」って論じてしまうのは語源的誤謬の可能性がある。

語源に訴えたくなるのはわからないでもないけど、「責任がある」はH. L. A. ハート先生あたりにしたがってふつうに(1)「悪い結果の原因として道徳的な非難に値する」「悪い結果の賠償をする義務がある」、(2)「役職や地位や立場によってあることをする義務がある」ぐらいに分けて、「自己責任」って言われる場合は(1)の方だろう、ぐらいでよいのではないかと思う。ハート先生自身はresponsibilityを(a)因果責任、(b)賠償責任、(c)役割責任、(d)責任能力に分けてるけど、日本語の場合因果責任と責任能力はあんまり関係ないと思う。

もちろんこの(1)のハート先生の賠償責任は「責任がある」の中心的な意味なので面倒で、単に「賠償すればよい」って意味ではないだろうと思う。なにか他人の物を壊した責任があるなら、お金払って弁償だけじゃなくてごめんなさいしたり改心したりすることが必要だし、あるいはそれを壊してしまった理由がやむをえないものなら免責されることもあるだろう。また、悪い結果のコストをその責任のある人が負担するべきだ、ということを意味することもあるだろうと思う。(道徳的な)非難というのも難しいんだけど、これは「お前は/あいつはいやな奴だ/だめな奴だ」って言われたらそれだけで堪えるし、最終的には社会的交際を断たれちゃったりする警告でもある。

んでまあ「自己責任」って言われているときに何が言われているのかといえば、やっぱり「その悪い結果のコストはその人が負うべきであり、他の人にそれを救済したり同情したりする義務や必要はない、っていうことだったんだろうねえ。

寺田先生の論文に戻って、もう一つコメントしておきたいのは、

「自己責任」 という観念自体はたいへん重要なものである。 それは、 誰も自分が行ったこと以外のことについて責任を問われないということであり、 責任を負いうるかぎりどのような自由な決定に基づいて行為してもよい、 という自由な社会の最も根本的な原則の一部である

について。これはJ. S. ミルの『自由論』的な主張で、私も大筋では同意するけど、ちょっとミスリーディングなところがある。もしこれがミル的なものであれば、「責任を負いうる限りで」は at one’s own riskとかat one’s own costとかに対応するはずなんだけど、それが「責任を負う」という言葉で表現されちゃうとちょっと誤解をまねきそうではある。このミルのown riskとかcostとかってのは、「自分自身(の利害)に関わり、他人の利害には関わらない限りで」って意味で使われてるはずなので、それははっきりさせておきたいところ。「俺が弁償するから花瓶壊す」みたいなのは他人の利害がからんでれば自由であるべきではない。

さて、一番言いたいことはこの先。寺田先生は人間の相互依存性と不完全な判断力の話に進んで、そう進むのはよくわかる。ただしその前に、この自由主義の原則「自分にのみ関係することがらについてはその人の判断にまかされるべきだ」っていうのが、(1)「他の人はその結果の不利益についてなにも援助する必要はない」を全然含意してない、(2)「自由であるべきだ」ということがまったくなんの干渉をも排除するということではない、ってことに注意を促してほしかったのよ。

あれがミル的な社会的自由の原則であるならば、それは結局はそういう制度が人々の全体としての幸福を促進する(もちろん個人の幸福を促進する蓋然性も高い)からであって、リスクをとった結果困ったことになった人を放っておいてしかるべきだということは含意していない。どういう経緯であれ、不幸になった人々は可能な限り救うべきだろう。もちろん、どんなリスキーなことをする人をも、他の人々はどんなコストを払っても助けるべきだとは言えないにしても、その時点でできることはするべきだということにミル先生ならばもちろん賛成するだろうと思う。

もう一つ、ミル先生が言っている自由主義の原則っていうのは基本的に負のサンクション、特に政府が法的な罰を与えて人々の行動を制約することを禁じるものであって、忠告や説得や懇願によって誰かの行動を変えようとすることは禁じられてはいない。むしろ推奨すらされている(『自由論』第1章)。また、単なる多数の人々の好悪によるものではない重大な帰結をもたらすことがらについては強制さえ許される(第1章、第3章)。

私自身はある人の行動が大きなリスクを伴うことをおこなって、結果的に誰かに危害や面倒をかけることになったとしたら、そういう行動をとったということについてある程度の非難がなされることはしょうがないと思う。また、我々があらゆるコストを払ってでも生命を救うべきだといったことは誰も本気では信じていないのも明らかだと思う[1]よく出される例は、交通事故の防止。。あるリスクのある行動をとった人が結果的にひどい目に会う場合があることは避けられない。

でもそれと、なにも援助しないことは別。政府や人間の結びつきとしての社会はお互いの失敗を許し助けあうものだと思う。だから寺田先生の論説は全体として同意するんだけど、一番大事な、「自分のコストでやることが許されるべきだ」と「誰かがヘマしたときにそれを助ける必要はない」は結びつかないってことをはっきり指摘されるべきだと思う。ともあれ、10年前の寺田先生は立派で、私も見習いたいと思う。

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References

References
1よく出される例は、交通事故の防止。

ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。 続きを読む

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死の悪さに関する剥奪説とマクマハンの時間相対的利益説

殺人の悪さや死の悪さの理由を説明する方法の一つは、「剥奪説」と呼ばれる立場です。この立場では、殺人の被害者になることや、死ぬことは、それによって価値のある未来を失なうことになるので当人にとって悪い出来事である、ということになります。私は最低あと30年ぐらいは生きて時々おいしいものを食べたりしてその30年の人生をそこそこ楽しむことができるでしょうが、今殺されるならばそのそこそこ楽しいであろう30年を失うことになる。これは私にとって悪い。 続きを読む

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パーソンとペルソナとローマ法

まあどうでもいいことですが、論文いくつか読みなおしているなかに「生命倫理のパーソンの概念はラテン語のペルソナから来ていて、これはキリスト教の三位一体の〜」みたいな話が出てくることがあるんですわね(キリスト教出してこない人は「ペルソナは仮面を意味していて〜」みたいになる)。 続きを読む

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パーソン論その後/道徳的地位

大学教員という職業はヒマそうに見えて実は忙しい。特に私学の教員とかってのは夏ぐらいしか勉強する時間がとれないんですわ。学期中は授業させてもらったりいろんな会議に参加させてもらったりその他の事務仕事させてもらったり学生様の勉強のお世話をさせてもらってりしていて、やりたい勉強をする時間がない。お盆ぐらいまでレポートの採点とかして、お盆あけてから2週間ぐらいに勉強しないとならんわけです。 続きを読む

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認知の歪みと研究者生活

うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(8) パーソン論は人間の尊厳についての議論である

水谷雅彦先生の「生命の価値」っていう昔の論文を読んでいたら、パーソン論が「生命の価値」や「人間の(生命の)尊厳」のような文脈で議論されていることに気づきました。パーソンは尊厳という特別な価値をもっていて、パーソンでない存在者は尊厳をもっていない、みたいな議論として理解されてるようです。これいろいろと難しい問題を含んでますね。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ

「パーソン論」はさまざまあるとはいっても、やはり多くの論者が自己意識だとかそこらへんの心理的特徴に訴えかけているのは否定できないです。これに対してはやっぱり70年代前半からさっそくいろんな代替案が提出されています。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ

これも森岡先生がばらまいた誤解というかなんというかなんともいえない解釈ですね。

先生は『生命学に何ができるか』では「(パーソン論によれば)中枢神経系のはたらきの程度に応じて、人間を一元的に序列化することができる」(p.105)と考えられてる、とか、論文「パーソンとペルソナ」でも「「パーソンである自分とその同類は他のカテゴリの存在者よりも優越しているはずだ」という前提」とかそういう読みをしている。私はこの序列化とか優越とかそういうのがどういう意味なのかよくわからんですね。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である

これももうひどい誤解ですねえ。障害児施設の運営などでがんばっていらっしゃる高谷清先生が月間保団連に「「パーソン論」は、「人格」を有さないとする「生命」の抹殺を求める」という論文を発表しておられました。まあ高谷先生は実務家・思想家として活発な活動をされてはいるもののかなりご高齢のようですし、お忙しいでしょうから直接「パーソン論」の論文を読むことを求めるのは無理でしょうから、責任はそういうおかしな紹介の仕方をしている生命倫理学者にあると思います。 続きを読む

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パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である

いや、ぜんぜん。

とにかく国内で議論されている「パーソン論」は古いんですわ。けっきょくパーソン論というのは「われわれは人パーソンを特別扱いしている」っていう事実からはじまってるわけですが、70年代から80年代にかけての論争のなかでそういう「人間」を特別扱いにするって考え方はあんまり筋が通らないってことが理解されるようになって、議論はもっと進んでいます。 続きを読む

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