投稿者「kallikles」のアーカイブ

中里見博先生のポルノグラフィ論 (2)

最近児童ポルノの単純所持の違法化の議論あたりの影響か、「中里見博」で検索してたどりつく人が増えているような。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060313/p1 にひっかかって来訪していただいているらしい。

新しい本を出してらっしゃるのでじっくり読んでみる。(前にも書いたが政治的にはまったく違う立場に立つけど、やっていること自体や立派な学者的態度は応援している。)

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ゲーテはカントの文体を褒めたか

の続き。

charis先生に教えてもらったエッカーマンの『ゲーテとの対話』だが、どうにもへんな感じ。ゲーテ先生がカントの文章を褒めているところは見当らないような。かろうじてかすっているようなのが、

私はゲーテに、近代の哲学者のうち、誰がもっともすぐれていると思うか、と尋ねてみた。 続きを読む

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バトラーの引用についての誤解ごめんなさい

で書いたジュディス・バトラーの文章について、舟場先生に捕捉していただいたようだ。http://www5f.biglobe.ne.jp/~funacho/2007TB.html の6月3日づけの記事。基本的には誤植だったらしい。私の疑問に答えてくださっている。ありがとうございます。 続きを読む

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カント先生とおはなしを続けてみる

カント先生おはようございます。

婦人の徳は、美しい徳である。男性の徳は、高貴な徳たるべきである。女性は悪を避けるであろうが、その理由は、それが不正だからではなく、醜いからである。そして有徳な行為が、彼らにあっては、道徳的に美しい行為を意味する。当為もなく、しなければならぬということもなく、負い目もない。婦人は、一切の命令、一切の口やかましい強制に堪えられない。彼らが何かを為すのは、ただそれらが彼らに気に入っているからである。・・・私は、美しい性が原則をよくし得るとはほとんど信じない。私はそれによって、女性を侮辱することにならぬように望む。なぜなら、原則は男性にあっても極度に稀だからである。その代わりに摂理は、女性の胸中に親切で好意的な感覚、礼儀正しさに対する繊細な感情、好ましい魂を与えた。 (p.41)

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カント先生とおはなししてみよう

「『思想』2007年4月号に、水田珠枝さんによる論文「平塚らいてうの神秘主義(上)」が掲載されている。」 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070524/1179982514読んでしばらくの間なんかおかしいと思ってたら、そういうのは哲学だけでなく文学作品だってそうだということに気がついた。 続きを読む

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メモ

ちなみに『ジュディス・バトラー』のSara Salihは英文学、http://www.utoronto.ca/english/faculty/bios/salih.htm、『ポスト構造主義』のCatherine Belseyも英文学っぽい。公式ページ見つけられないけどhttp://www.english.heacademy.ac.uk/intconf/plenary/belsey.htm続きを読む

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北川東子先生のポエム

さて、「ジェンダー」とは流動的なパフォーマンスである。誰かがなにかを言って、なにかを指差す。すると、男が女を見つめることになり、女は見つめられていると思う。法は「違・法・外」を定め、そのことで、犯罪者を名指し、罪そのものが成立する。派手な衣装をまとったドラッグ・クィーンたちが甲高い声で笑う。すると、ふたつのセックスがちらちらして、互いが互いを模倣してみせる。そのとき、ジェンダーが行なわれている。(北川東子「哲学における「女性たちの場所」—フェミニズムとジェンダー論」,『哲學』, 第58号, 2007, p.50)

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中里見博先生のポルノグラフィ論 (1)

中里見博「ポルノグラフィと法規制:ポルノの性暴力にジェンダー法学はいかに対抗すべきか」、『ジェンダー法・政策研究センター研究年報』第2号、2004と「ポルノ被害と法規制:ポルノグラフィーをめぐる視座転換をめざして」、『ジェンダーと法』、第2号、2005。後者は前者の短いバージョン。

米国では、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。その研究には、大別して、(1)被験者を用いた実験研究、(2)性犯罪加害者の聞き取り、(3)サバイバー(性暴力被害者)の証言・体験談、がある。
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なるほど

さらにいろいろ教えてもらう。

  • シューモン先生の論文はもっと真面目に共感的に読む必要がある。
  • シューモン先生は臓器移植反対派ではない。2004年の論文ではむしろDead Donor Ruleを考えなおす方向に進んでいるようだ。要チェック。
  • 4歳で「脳死」になり21年行きた T.K. は脊髄反射以外は何の反応もなかったということだ。Repertinger, S., Fitzgibbons, WP, Omojola MF, Brumback RA, “Long Survival Following Bacterial Meningitis-Associated Brain Destruction,” J Child Neurol 2006; 21: 591-595)という論文に詳しい症例があるらしい。

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シューモン先生の「水頭無能児」論文

アラン・シューモン先生の「水頭無能児」の論文はPDFで手に入るということを教えてもらった。

“Consciousness in congenitally decorticate children: developmental vegetative state as self-fulfilling prophecy”. Dev Med Child Neurol. 1999 Jun;41(6):364-74. http://journals.cambridge.org/article_S0012162299000821

インフォーマントによれば、水頭無脳症とは

水無脳症というようです(hydranencephaly)。原因・病態の点では医学的に水頭症とも無脳症とも異なり、大脳の部分に穴があいていて水がつまっているようです。大脳の「ほとんど」がないようですが、薄い層やわずかな皮質組織ぐらいは残っていることもあるようです。

ということらしい。とりあえず脳死状態でも無脳症でもない。

If these children had been kept in institutions or treated at home as ‘vegetables’, there can be little doubt that they would have turned out exactly as predicted. What surely made all the difference was that their parents ignored the prognoses and advice, and instead followed their instinct to shower the children with loving stimulation and affection. Such children and their families have much to teach about not only the neurophysiology of consciousness.

シューモンの原論文 (“Chronic Brain Death”)も高く評価されているとのこと。ちなみにNeurology誌のインパクトファクターは4.947、超一流の6には届かないがかなり信頼のおける雑誌ということだ。インパクトファクター3以下は信頼できないとか言われてしまうらしい。へえ、理系の雑誌ってたいへんだ。まあ日本の哲学の雑誌や出版社の信頼性とか考えはじめるとよくわからんようになってしまうから考えないようにしよう。

いろいろ感謝感謝。

インパクトファクターって本当はなんだろう、とか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Impact_factor

http://scientific.thomson.com/free/essays/journalcitationreports/impactfactor/
へえ、なるほど。勉強になりました。

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まだまだ小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(4)

ISBN:4569626157

Alan Shewmon先生のもとの論文とかNeurologyに掲載された批判とか入手してみた。シューモン先生の論文は、新聞記事とかまでメタ分析のソースにしていてあやうい。

前節のようなシューモンの衝撃的な論文を掲載したNeurology誌は、翌99年の10月号で小特集を組み、4組の第一線の医学者による反批判と、シューモンによる再批判を掲載した。(p.116)

正確にはこれらのシューモン批判は”To the editor:”ではじまるcorrespondence。統計的手法についてかなり厳しく批判されている。特に、4組のなかでもEelco Wijdicks/ James L. Bernat先生たちによるものはかなり調査に力を入れていて説得的な批判になってる。

特に小松先生の本を読んで強い印象を受けるであろう脳死のまま14年以上心臓が動きつづけている男子(症例”T.K.”)について、Wijdicks先生たちは

Even the macabre case of child “T.K.” seems suspect, with no full BD assessment (no apnea test) and the presence of septations on MRI. Septations suggest tissue organization, and tissue organization requires intracranial blood flow. MR angiography may not be as sensitive or specific as conventional cerebral angiography.

とおっしゃっている。後の方がわかりにくいと思うが、これはMRIで見たらこの子の脳はばらばらっていうか分裂(septations)しているように見えたとシューモンは原論文で言うわけだが、MRIで組織が組織として見えるためには組織としてなりたってなきゃだめで、組織の形を維持しているためには血流の存在が前提で、だからまだ脳に血流あるんじゃないの、というわけだ(ここらへん私詳しくないのでまちがってるかもしれん)。つまりこのケースはいんちきかもしれない「脳死判定」を受けただけで、ふつうの意味での脳死かどうかわからんようだ。

シューモン先生はanswer (小松先生のいうところの「再批判」)で

I share Wijdicks’ and Bernat’s concern for diagnostic accuracy. Where we seem to differ is in the evidentiary standard that should obtain for such a study. They seem unwilling to consider a case unless every detail be handed to them, including final pCO2 of the apnea test. Either we take what information we can get and try to learn from it what we can, or we continue to actively ignore a very interesting and conceptually important phenomenon.

(意訳)私も、WijdickとBernatたちと同様に診断の正確さについては懸念している。彼らと私の意見が違っているのは、このような研究においてどの程度の証拠が入手されるべきかという基準である。彼らは、無呼吸検査での炭酸ガス分圧まで含めて、あらゆる詳細なデータまで入手できなければ、そのケースを考察したくないと考えているようだ。とにかく手に入れられる情報を集めてそこから学べるだけのものを学ぼうとするか、あるいは、非常に興味深く概念的に重要な現象をあえて無視しつづけるのか。

とそこらへんを認めてなんか情けないことを書いてるように見える。苦しい。興味深い題材だからこそ、ちゃんとした証拠が欲しいやんねえ。

小松先生は、シューモンがそのあとで書いた”The Brain and Somatic Integration”論文で「それは論敵を完膚なきまでに打ちのめした決定的な批判といえよう」と言ってるが、そりゃどうかな。それに小松先生の記述からは誤解しやすいと思うけど、ここでのシューモン先生の「論敵」っていうのは「有機的統合説」論者で、「脳死」論者全体じゃないからね。まして、Neurology誌で編集者に批判の手紙を出した4人のことではない。ここ小松先生の記述はミスリーディングだと思う。(意図的ではないことを望む)

まあ脳死についての「有機的統合」説がだめなのはその通りだしその点ではShewmon先生にも小松先生にも文句はないんだけどね。

かくして、シューモンはこう結論する。

脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。身体の統合性はどこか単一の中枢器官に局在するものではなく、すべての部分の相互作用による全体的な現象である。通常の条件下ではこの相互作用への脳の緊密な関与は重要ではあるが、それは有機的統合体の必須条件ではない。たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。[・・・]要は、脳死を死とする生理学的根拠は、生理学的見地からすればまったく薄弱だということだ。(pp. 473-474)

ISBN:4569626157 (pp.124-5)

これはShewmon先生の”The Brain an Somatic Integration”という論文の結論conclusionのほぼ全訳になっているのだが、小松先生が中略したところに何が書いてあるのかというと、私の訳だとこうなる。

それゆえ、もし脳死が死と同一視されるべきであるとしたら、それは本質的に非・身体的non-somatic、非・生物学的non-biologicalな死の概念にもとづかなければならない(たとえば意識をもつ能力の不可逆的な喪失にもとづく人格性の喪失)ということである。これについて議論するのはこの論文の範囲を超えている。

If BD is to be equated with death, therefore, it must be on the basis of an essentially non-somatic, non-biological concept of death (e.g., loss of personhood on the basis of irreversible loss of capacity for consciousness), discussion of which is beyond the present scope.

なんでこんな重要なところを略すかなあ。シューモン先生は有機的統合体説がだめだといっているのであって、脳死の概念がだめだと言っているわけではない。これも意図的ではないといいな。

あとちょっと細かいけど「脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。」 “The integrative functions of the brain, important as they are for health and mental activity, are not strictly necessary for, much less constitute, the life of the organism as a whole.” は「全体としての有機体の厳密には必須ではなく、いわんやそれを構成constituteするものではない。」

もうひとつ「たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。」の部分は正確には「・・・は衰えるが、死んではいない」って感じ。”the body without brain function is surely very sick and disabled, but not dead.”

最後のところは、”The point is simply that the orthodox, physiological rationale for BD is precisely physiologically untenable.” 「要は、オーソドックスな生理学にもとづく脳死の根拠は、まさに 生理学的に支持できないということだ。」*1

シューモン先生の論文が専門家集団でどの程度認められているかも知りたいのだが、ちょっと私の能力では無理。引用された数とかインパクトファクターとかは、やっぱり専門の人じゃないとわからん。Neurologyは権威ある専門医学誌の一つなんじゃないかと思うが、Journal of Medicine and Philosophyがどの程度のランクなのかは私にはちょっとわからん。無念。

まあ「本当の話」とかタイトルについているような本は、特にそのまま「本当の話」と思ってはいかんような気がする。日常生活だって、「これは本当の話なんだけど」と最初についたら疑うもんな。

気になっている音楽聞いたり笑ったりする「水頭無脳児」のケースについては調査中。数日後に結果が出ることになりそう。

*1:あとで気づいたけど、この小松先生の訳文はかなり問題がある。あたかもシューモンが生理学者として脳死の概念すべてを否定しているかのように読めてしまう。シューモンが否定しているのは、脳死の「オーソドックスな生理学的な根拠」。「オーソドックスな」を訳出しないことで、別の印象が生まれてしまう。これも意図的でないと言えるのかどうか怪しくなってきた。

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ウィトゲンシュタイン問題

正月は時間があるので、哲学のことを考えたりもした。

国内でもウィトゲンシュタイン[1]ヴィトゲンシュタイン(前期も後期も)が好きな人ってのは私のような哲学ファン[2]私は哲学ファンだがウィトゲンシュタインファンではなかった。のなかでも多いようだが、『論理哲学論考』を読んだ人のなかに、一番最初の

1 世界は事実の総体である。 (訳によっては「世界は事態の総体である」「世界は成りたっていることがらの総体である」とかのはず)

っていう命題について、これをぱっと見て他の選択肢がどういうのがあるのかを理解しているひとはどれくらいの割合なのだろうか(つまり、これとは違う考え方にどんなのがあるか、もっと簡単に書くと、「世界は~の総体である」の~に他になにが入りうるか。それを即座に思いつくか。そして他の候補を出している典型的な哲学者はそれぞれ誰か。)。 実は私も元日まで理解していなかった[3]「おまえはそんなこともわからなかったのか」と責めないでください。「腑に落ちる形で」ってことで勘弁。

勉強不足で、この点について解説もまともなもの読んだことない。っていうか読んでも理解できてなかったのだろう。正直なにがポイントなのかさっぱりわかってなかったようだ。もう正月休みが終りで調査できないけど、いずれ日本語web上の最善の解説を探してみたい。(あらかじめ、おそらく三浦俊彦先生の本読んだ人が一番的確なことを書いているのではないかと予想する。)いや、私が勉強不足なだけだろう。おそらく優秀な20%ぐらいはすぐに答えがでるのだろう(ほんとにもっと高い?50%ぐらい?70%はいないだろう。)。また、この1と人気の「6 語りえないにことついては沈黙しなければならない」の関係がどうなっているか説明できるひとはどれくらいいるんだろう。それにしても哲学ってなんだろうな。趣味として楽しむには敷居が高すぎる。そして私は信じられないほどの超スロウラーナー。ほんとにもっと丈夫な頭と疑う体力が欲しかったなあ。

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References

References
1ヴィトゲンシュタイン
2私は哲学ファンだがウィトゲンシュタインファンではなかった。
3「おまえはそんなこともわからなかったのか」と責めないでください。「腑に落ちる形で」ってことで勘弁。

養老先生と毎日新聞はだいじょうぶか

毎日新聞はいろいろやってくれる。今日の16面。宮脇昭先生と養老孟司先生の対談。
(養老先生にはまったく興味ないけど、毎日新聞の編集方針や社員教育には俄然興味がある。)
全体にひどいが、さすがにこれはどうかという部分。

養老さん:大阪教育大付属小学校では、容疑者は8人を殺した。
驚いたのは、容疑者が警官に囲まれて出てきたでしょ。昔だったら、
あんなことをしたら先生方から2階の窓から落とされてましたよ。先生方が
預っている子供と自分の子供と同じと見ていないということです。8人も殺されたという感情的
な反応がないんですよ。

  • そのひともう容疑者じゃないし。「犯人」にしてください。ちゃんと国家で殺しました(と報道されてます)。
  • 教師はリンチするべきだったということか。
  • 親は自分の子供を殺されたらリンチしても当然か。
  • 子供を殺された親は容疑者が警察に囲まれて出ることを許さないのか。
  • 「昔だったら」はいつのことか。それは本当か。
  • 教師は教えている子供と自分の子供を同じと見るべきのか。それは可能か。
  • 養老先生はそれだけで人の感情的な反応を読むことができるのか。
  • いまだにこういう形であの先生たちを責めるというのがどういうことかわかっているのか。養老先生はともかく、毎日新聞はどう考えているのか。
  • たしかに「疑問をもつことには体力がいるんです。頭が丈夫でなければいけない。丈夫な頭こそ大事です。」(17面)これだけは認める。
  • でも養老先生は、あんまり頭が丈夫でないひとや、頭が丈夫でなくなったひとはどうすればいいかも頭が丈夫なうちに考えた方がよいと思う。正直わたしはそっちの方が興味がある。

養老先生が悪いのか、毎日新聞が悪いのか。年末進行でいろいろたいへんだったのか。
新聞記事っていうのは発行されるまでどの程度の人数の目が通っているのかな。興味がある。

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一年の反省

この日記の1年分を読みなおしてみる。
まあごちゃごちゃ書いてきたが、勉強になったところもあれば
ならなかったところもあり。全体にネガティブで傲慢でoffensiveだけど、
そんなに大きくまちがったことは書いてないしまちがっているところは恥をかいていると思うので、
もうちょっと続けてみるかな。

書き方が悪くて一部の人に不快を与えているかもしれないのは
いろいろ反省。また意図的に傲慢な書き方をしてみているわけだけど、
よっぽどのことがなければもうちょっと考えた表記にするべきかもしれない。

伊藤公雄先生の「卓越性のゲーム」については
もうちょっと考えるべきかもしれん。
あんまり勝ち目もないし。でもまあ、この「卓越性のゲーム」が意義を持つ分野もあるとは思う。「ゲーム」呼ばわりして知的に不誠実なことをするのはいかん。
J.S.ミル先生は「功名心」は非常に重要だと言ってる。

種々の芸術や知的な職業においては、それによって生計を経てようとすればある程度まで上達しなければならず、さらにその名を不朽にするような傑作を残そうとすればいっそう高い程度にまで上達しなければならない。たんに前者の程度まで上達することにたいしても、職業としてその仕事に従事するものの立場からすればそれ相当の動因があるが、後者の程度にまで上達することは、はげしい功名心をもつものか、あるいは一生のうちある時期にその心を起したものでなければ到達できないことである。たとい偉大な天分に恵まれていても、すでに最高の天才による見事な傑作が数多く残されている仕事において、自分もまたぬきんでようとするためには、長い期間耐えがたい苦行を重ねてゆかねばならないのであるが、その場合の刺激剤としては、ふつうこの功名心にまさるものはないのである。
(J.S.ミル『女性の解放』大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫、pp.151-2)

まあミルが考えているような不朽のなんやらなんか私たちには関係がないが。
金銭的な報酬と別になんか「知的」(はずかしいなこれ)なことをするには、
功名心のようなものが必要だってことだと思う。この手のメディアでは「卓越性のゲーム」は必須で もあるし、学術界ではなおら必要なんじゃないだろうか*1
でもなんかもっとなんか実質的なことをやりたいものだ。

「あなたは自分の読者を馬鹿だと思ってもよいのですが*2
あなたが議論している哲学者やその見解を馬鹿げていると思ってはいけません。もし
彼らが馬鹿なら、わたしたちは見向きもしないからです。もし
あなたがその見解によいとこがなにもないと思うのなら、おそらくそれはあなたがその見解について考えたり議論した経験が十分になくて、その見解の提唱者たちがなぜそれに魅力を感じているかを十分に理解していないからかもしれません。彼らを動かしている動機をもっと考えてみましょう。」

You can assume that your reader is stupid (see above). But don’t treat the philosopher or the views you’re discussing as stupid. If they were stupid, we wouldn’t be looking at them. If you can’t see anything the view has going for it, maybe that’s because you don’t have much experience thinking and arguing about the view, and so you haven’t yet fully understood why the view’s proponents are attracted to it. Try harder to figure out what’s motivating them.

じっさいのところ、これまで取りあげてきた人々の著作や研究は やっぱり説得力と魅力があって、stupidだとはぜんぜん思ってない*3。stupidなのはむしろ私自身で、まあslow lernerの恥さらし。でも
それもなんか意味があるだろうという気はする。特に今年後半に
小松先生や森岡先生の見解をゆっくり読んでみたのはよい機会だった。
たしかになんかいいところがあるのだが、それが私はまだピンと来ないんだよな。

まあ読んでくれた人はありがとうございました。特にコメントしてくれた人には感謝。
来年もよろしく。

*1:でも政治の世界ではそういうのとは違うインセンティブがあるかもしれない。

*2:馬鹿だからわからんだろうと思えってことじゃなくて、読者にはとにかくわかりやすく書け、ということ

*3:いや、いくつかはまったくstupidなのもあったか・・・でもそういうのをとりあげたいのは、stupidを非難したいんじゃなくて裏の政治的な意味を非難したいんだよな。

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まだまだ「パーソン論」

もちろんトゥーリー先生からすぐにお手紙が返ってくるはずがないが、
昨日寝ながら考えたこと。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that
is killed by abortion has not developed to the point in which one has a
person. (p.73)

この”one”は、the humanを指すのではなく、
we や they や peopleなどの一般の人びとを指すoneなのだろう。っていうか
この引用の一番最初のoneと同一か。あるいは母親か。

the human を指すのであれば、to the point in
which it has a personとかhe / she has a personとかにな
りそうなものだ。

中絶によって殺されるヒューマンは、まだ人びとがパーソンであるとみなす時点に
まで発達していないのから、中絶は不正ではないと主張することができる。

という感じ。苦しいかなあ。まだパーソンではない the humanを he
や sheで受けるのはいやかもしれないからなあ。かといってitもあれだし。
でもthe humanを受ける意味でoneを使う
くらいなら、

you can argue that abortion is not wrong because the one that
is killed by abortion has not developed to the point in which the one has a
person.

と書いてくれればわかりよいのになあ。これだったら完全にお手あげだけど、
まだがんばる余地はありそうだな。

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トゥーリー論文その後

論文
(Michael Tooley, “The Moral Status of Cloning Humans”, Hamber and Almeder (eds.) , Human Cloning, Humana Press, 1999)
届いた。これから読む。ドキドキするなあ。ロンブン読むのにこんなにドキドキするのははじめてだ。理系の人が予測立てて実験するとき、こんな感じなのかな。

うわ! 私がまちがっていた。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person. (p.73)

小松美彦先生児玉聡先生森岡正博先生みなさんごめんなさい。
もうしわけありません。勉強しなおします。勉強になりました。
自分の恥さらしのため、エントリはそのまま残しておきます。

粘着だから

粘着だっていいじゃないか、ぱーそんだもの (かりを)

トゥーリー先生にメール出してみた。

前の方略。

Now I am interested in Japanese history of bioethics, especially how your theory of personhood has been introduced into Japan.

My question is simple. As I understand, in your terminology in “Abortion and Infanticide”, “person” means, roughly, “an entity that has a serious moral right to life”.

But in “The Moral Status of Cloning Humans” in the Kyoto lecture and Humber and Almeder (eds.) Human Cloning, you wrote “… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person.”(p.73)

I feel somewhat strange to find the phrase “one has a person”. I guess it should be “the point in which one *is* a person” or “one has *personhood*”. Or, the word “person” in the latter paper has some different conception from that of the first paper?

I’d be very grateful if you could have some spare time to answer my question. Thank you in advance,

あら、名前の綴りまちがえて出してた・・・

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パーソン論その後

たいへんなことを見逃していた。

そもそも、Tooleyの”Abortion and Infanticede”を森岡正博先生が
「嬰児は人格を持つか」というタイトルで訳していたのだ!
(『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』)
あんまり有名な論文なんで、目の前にあるのに目に入ってなかった。
腰を抜かした。
こんなことさえ気づかないなんて
自分の馬鹿馬鹿。
そりゃみんな「人格を持つ」「持たない」って書きたくなるよなあ。
そして、「人格を持つ」と「人格である」が混用されれば
難しい議論の理解がなおさら困難になるのはあたりまえだ。

これ、ストレートに「中絶と嬰児殺し」とか
せめて「嬰児は生きる権利を持つか」というタイトルで紹介されていたら、
理解はぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。
そもそものはじめから国内の「パーソン論」の議論はまちがってた、
ってことになるかもなあ。そしてそれに誰も気づかなかった?(私は気づかなかった。)
あるいは気づいても誰も指摘してなかった?

ちなみに児玉先生の用語集の記載は、高校教師の方々に
出典記載なしでほとんどそのままでコピペされ、
高校のディスカッションとかの資料になってしまっているようだ。
おそらく大学のレポートでも同様の目にあっているだろう。気の毒。

追記 にあるように、
「~が人格をもつ」はトゥーリーの論文にもでてきます。誤用ではありません。

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「パーソン論」続き

昨日ちょうど弘文堂の『現代倫理学事典』*1が図書館に届いたので、さっそく「パーソン論」をひこうとすると項目がない。(それはそれで見識かもしれん)

でもとりあえず「(マイケル・)トゥーリー」の項目はある。

「自己意識や理性的能力を一度も持ったことのない存在は人格ではないという議論を展開し、このような人格を持たない胎児の中絶や嬰児殺しは必ずしも道徳的に不正ではないと論じた。」

げ、「人格を持つ」か・・・ぐはっ。執筆者は児玉聡先生*2。なんで「人格を持たない」なんて表現使うのだろうか。「人格の特徴をもたない」「人格ではない」、せめて「人格をもたない」ぐらいにすりゃいいのに。(注意!下のコメント欄を参照。 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk22/tooley.html では「人格をもつ」という表現が1回だけ出てきています。もしこれがhave a personのような表現であれば児玉先生にも(昨日のエントリで)小松先生にも失礼なこと書いていることになりますので調査します。have personality/personhoodのような表現ならセーフ。)

「人格」の項目ならある。責任編集の大庭健先生のご執筆。(なんかたてつづけに大庭先生の名前が出てきてからんでいるように見えるかもしれないが、そういうつもりではない。偶然。)

けっこう長いエントリー(全部で13節に分けられている)で、全体がむずかしくて私がはっきり理解しているのか自信がない。

第VI節、タイトルが「倫理的プリミティブ」なのだが、

こうした方法論的な循環は、人格という概念のあいまいさ・不確かさを示しているようにも見えるが、そうではなく、人格の概念が論理的プリイティヴ(そこから話がはじまる大元の概念)であることに由来する」

と書いていらっしゃる。この節に「理的プリミティブ」という言葉は一回も出てこない。論理的なのか倫理的なのか。ずいぶん違うと思うのだが。内容からすれば、おそらく本文の方が誤植なんだろう*3。「人格person」っていう倫理的概念はそれ以上分析できない基本的な概念である、ってことかな。そして他の概念はそれを使って定義されたり分析されたりする。だから「人格」を別の概念の組合せで定義したりすることができないと言いたいのだろう(おそらく、いやわからんが)。

でもよく読むとこの解釈はまずいかもしれない。そのあとで、

私たちは、こちらから呼びかければそれに応じて動くものと、そうではないもの、すなわち呼びかけようと呼びかけまいと決まった動きをするものを区別する。・・・このように呼応可能な相手として、そうでないものから区別された存在が、もっとも広義の人格であり、この広義の人格は、人間を構成するプリミティヴである。

と書いていらっしゃる。んじゃ「プリミティブ」は「定義できない」「分析できない」っていう意味でもなさそうだ。だって「存在」と「呼応可能」っていう(より基本的な?*4)概念にもとづいているように見えるから。それにうちの猫は呼びかければ応答するから人格なのかな。むずかしい。(面倒だから第VI節(人格の外延)、VII節(個体的同一性)は引用しないけど、そこ読んでも猫が人格でないということが言えるとは思えない。IV節では、人格である条件として、「自分のことを描写し考えることができなくてはならない」と主張している(なぜかはわからん)。これでいうと、3歳児とかは人格じゃなさそうだ。

さて、「パーソン論」に関係して気になったところ。

「胎児や植物状態の人も、現時点では呼応が成立していないとしても、人格でありうる。新生児のみならず胎児も、時間の幅を長くとれば、呼応可能な間柄のパートナーたりうるからである。

おお、大胆な主張。ふむ。すでに多くの哲学者によって批判されている「潜在的人格」説。これに対する批判は書いてくれないのかな。あと、「ありうる」と「ある」の違いが気になる。「ありうる」なら「たくさんの胎児のなかの一部は人格かもしれない」ぐらいの意味なのかな。(あれ、逆に、成長したヒトは皆「人格」なのかな。それとも「成長したヒトは人格でありうる」なのかな。つまり、成長したのヒトの一部には人格でない存在者がまじっている可能性はあるのだろうか。その場合、人格と人格でないのの違いはどこにあるんだろうか。それとも「成長したヒトは人格である」なのかな。)

それは、発芽したリンゴの苗木は、いまだ果実をつけないから果樹ではない、と言えないのと同様である。

おお、かっこいい。この比喩にはしびれた。ふつうは、「胎児は人格(パーソン)ではない」っていう議論をするために、「どんぐりは潜在的には楢の木だけど、楢の木ではないでしょ」とか「5才の安倍晋三は潜在的な日本の首相だけど、首相の権限をもっていなかったでしょ」、「だからある胎児が将来人格になるにしても、まだ人格とは言えないでしょ、人格と同じ権利はもってないかもしれないでしょ」というように使われる議論なのだが、これをこうするとは。

でも大庭先生のこの比喩はミスリーディングだろう。おそらく「果樹」は「プリミティヴ」じゃないので定義ができる。「食用の果実のなる樹木の総称、またはその一本」ぐらいだろう。「果樹」は「果実がぶらさがっている木」「ぶらさげたことがある木」のことではないから、まだ実がなってなくてもよい。(また少なくともリンゴのはまだ果樹ではないだろう。)「人格」が「果樹」のような概念なのかどうか。(ホモサピエンスの一員としての「ヒト」の方ならば、「果樹」と同じような概念なのは認められる。)

植物状態の人の意識の蘇生は、現代の医学では説明困難なレアケースに属そう。しかし、そうしたレアケースであるということは、アプリオリに不可能だということを含意しない。

なんか二重三重に間違っていると思う。

昔の判断基準での「植物状態」から帰ってきたひとはたくさんいるだろうし、説明困難でもないだろう。「遷延性」植物状態から帰ってこれたのであればそれは遷延性植物状態ではない。大脳が機能停止しているだけじゃなくて、器質的に死んでる(まったく血流がないとかがその判断基準になる)のに帰ってこれたのならまさにいまんところ科学が説明できないミラクルだろう。

でもなにかが現実に可能だったらアポステリオリにもアプリオリにも可能だろう。アプリオリに不可能なのは、8+5=12にしたり、広がりのない箱を作ったり、丸い三角形を作るぐらいだろう。墓から3日後に蘇えるのもアプリオリに不可能なわけではない。

さらにうしろの方で大庭先生はいろいろ書いているのだが省略。

私はチンパンジーや豚や牛や猫を大庭先生の意味で「人格」としない理由が知りたいのだが、どうも答えてもらえそうにないと思う。

うーん、難しい。学生が学習に使う事典としてどうなのかな。「現代」倫理学事典をなのる以上、「パーソン論」をめぐるいろんな議論を紹介するエントリはやっぱり必要だったんじゃないか。せめて「人格」の項ではもうちょっと紹介してくれないと。

まあたまたま最初にひいたエントリがこうだったからってだけで判断してはいかん。事典とかってのは学生の調査の第一歩になるものだから、なるべく客観的に書いてほしいんだが、まあそれじゃおもしろくないのか。いっそ『事典・哲学の木』のような形なら論文・エッセイ集として素直に読めるんだけどね。

それにしてもほんとうにここらへんの議論は難しい。私には難しすぎる。これまで私が書いたことはどれも信用しないでください。。レポート書く学生は参考にしない方がよいと思う。

おまけ

「レイプ」の項(堀口悦子先生)

レイプとは、日本語では、「強姦」という。しかし、日本のポリティカル・コレクトとして、「姦」という字が女を3つ書くという、非常に差別的な文字であり、表現であるということで、「かん」とかなで表記している。

文章が微妙だけど、ママ。わたしもこの「強かん」っていう交ぜ書きは嫌いなのだが、そうだったのか。でもほんとうかなあ。わたしは単に「姦」は常用漢字じゃないから新聞雑誌はそう書いているだけだと思っていたのだが。

「性欲」の項(田村公江先生)

性欲は主観的感覚であり実証的に数値化しにくいものではあるが、各人における強弱の変化には実際にある種の体内化学物質(中略)が影響しているのであろう。そしてここには、男性女性の区別はないと思われる。

体内化学物質(ホルモンや神経系の化学物質)がかかわっているなら、なおさら男女の(統計的な)違いはありそうだけどなあ。そういうことじゃなくて、男女とも生理的なものの影響を受けているということ自体かな?そりゃそうだろう。

「少年犯罪」の項 (河合幹雄先生)

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。

ちょっと文章おかしいけどママ。なんというか、だいじょうぶか。たしかに貧困は大きなファクターだろうけど、少なくとも「両親が揃わず」は不要だと思うけどなあ。「両親が揃っていない」はほんとうにファクターになってるかな。もちろん、「両親が揃っていない」と「貧困になりやすい」ってことは言えそうな気がするけど。

あらその直後にこんなこと書いてる。

貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。

あれ? ちょっとあれなのでそのパラグラフ(項目の最後のパラ)もう一回引用。

犯罪少年は、両親が揃わず貧困など恵まれない家庭を持つものが大半であり、この背景は現在も昔も変わらない。生活が豊かになって生活のためより、遊びのための犯罪が増えたと言われているが、統計的根拠は乏しい。現在と比較すれば貧しかった時代でも、生活に困ったからといって犯罪はしない。貧しさ故の犯罪は、左派イデオロギーが生んだ言説とみるべきであろう。他方で、犯罪のためにスリルがあるのは今も昔もかわらず、遊びのために犯罪に走る少年は昔からいる。

なんだこれ。なんか矛盾してるぞ。なにを言いたいんだろう?日本が貧しい時期はもっと犯罪が多かったのははっきりしているだろうし。うーん?かなり意地悪く読むことができるような気がする。「貧困」が原因ではないが、「貧困」な家庭を持つものが大半なのであり、かつ、遊びのために犯罪に走るのであれば、貧困な家庭で育つひとは貧困とは関係なく遊びのために犯罪に走る、と読まれてしまうかもしれない。いくらなんでもこういう読みをする必要はないだろうが、やっぱりわからん。ひどすぎ。

「ジェンダー」項目なし(!)

「→性」になってる。

で、「性」の項目(田村公江先生)では

[英]gender; sex; sexuality

になってて、本文中では1回も「ジェンダー」が現れない。けっこう長いのだが、主にフロイト理論の話。小見出しは「フロイトの性欲論」「フェミニズムの功績」「去勢不安」「性的な営みをより良いものにするには」「性教育についての提言」「フェミニズムの功績」のところでも「文化的性差」とか「階級」とか「家父長制」とかっておなじみの言葉は出てこない。うーん。

「家父長制」の項(金井淑子先生)のところで「ジェンダー」が使われている。でも「ジェンダー」の説明はなし。

(「家父長制」)はケイト・ミレットが、『性の政治』で、年齢と性からなる二重の女性支配の制度として定義し直し、ジェンダー概念とともに、第二波フェミニズムの不可欠の概念となった。

「フェミニズム」の項(大越愛子先生)でもジェンダーは使われているけど説明ないなあ。

また近代思想を極限まで追求することで、それが暗黙の内に前提としていた男性/女性のジェンダー二元論という虚構をえぐり出すなど、フェミニズムのよって立つ基盤への挑戦も遂行されている。

とかって感じ。

まあ、この事典は「応用倫理学事典」じゃないからそういうのはいいのかな。なんかヘンなこと書いたけど、この手の事典は国内では少ない(岩波の『哲学事典』古すぎ)から、出版してくれただけでありがたいと思う。本当。


*1:高い!ふつうの人には買えない。私も買えなかった。

*2:この方は自分のページで「パーソン論」の解説 http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/bioethics/wordbook/person.html でも同じ感じで書いているを書いているのだが、こっちの記述は過不足なく書けている (ちなみに「用語集」の他の記載は正確で非常に有用だと思う)

*3:いや、これでいいのか?わからん。

*4:私には「ひと」より「呼応可能」が基本的な概念であるとはとても思えないのだが。だって基本的にはそれ(相手)が「ひと」だと思うから(大庭先生の意味で)呼びかけるわけでね。まあひとかどうかよくわからんものにもとりあえず呼びかけてみることはあるかもしれないけど。まあおそらく大庭先生は、この「呼応可能な存在」は「人格」の「定義」ではない、とおっしゃるだろうと思う。「プリミティブ」ならそれ以上分析を放棄してもよさそうなものなのだが、なぜ「応答可能」をもちだすのだろうか。逆に、「人格」はすべて大庭先生の意味で「応答可能」なのだろうか。

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ハンドルでブログ書くのはたいへんだ

いつも傲慢だが、たまにはちょっと反省してみたりする。そういやちょっと前にid:yamatom さんの http://d.hatena.ne.jp/yamtom/20061214/1166122275を読んでいろいろ考えたのであった。まあ最初は実験のつもりで1年半ほど書いてみたわけだが、匿名でブログ書くのは、実名で書くのと同じ程度にたいへんかもなあ。

ちょっと前からこのページが、ある特定のキーワードではgoogleでの位置が高すぎて困っている。

やっぱり匿名では攻撃するのは簡単だけど、なんか「ちゃんと攻撃する」ための気合いが足らないような気がするしなあ。伊藤公雄先生から「卓越性のゲーム」と言われてもしょうがないかもなあ(インパクションの文章はおそらく山口さんに向かっているもので、私は関係がないと思うけど)。

まあ正直、(有利な立場から)卓越性のゲームやるのはけっこうおもしろいのだが。敵意を表に出した文章とかってのは、めったに書けるものではない。ネガティブ一方なものやバグの指摘ってのは紙のメディアには載せにくいというか、紙に載せるほどの価値はない。正直なところ、国内の人文社会系のアカデミズムでは、もっと「卓越性のゲーム」が争われるべきだと思ってもいる。私の専門分野でも、ちゃんとした論争らしい論争は見たことがない。これはメディアが非常に限られているからなんじゃないかと思っている。テツガク系でロンブンを書くのは非常に手間がかかるし、古典読むのでせいいっぱいで国内の論者のロンブンなんか読んでいる時間がないってのがほんとうのところだろう。書けたとしても発表するべき場所がないかもしれない。

(匿名「思考のバグ取り」掲示板ってのはおもしろいかもなあ。)

でも、学者さまの紙の文章にwebからハンドルで攻撃するのはやっぱり学者(「アカデミズム」)の仁義に反しているような気がするな。伊藤先生がほのめかしているのはおそらくそういうことなんだろう。紙メディアに書くのはたいへんだし、紙メディアからブログとかに反論しようとしても馬鹿みたいだし、かといって紙からブログに降りて来るのも馬鹿げているし、相手にしている時間はなかろう。

まあ一方で、こういうのはメディアの使い方としてけっこうおもしろいとも思った。ちょこちょこ思いついたことをメモしていって、(うまくいけば)なにが問題なのかを自分のなかではっきりさせることができる。攻撃しようと思えばそれなりに資料を調べたりもするし。実際「ミードの表」まわりは発見があって自分でもおもしろかったし、『自由は進化する』もそれなりに勉強になった。ああいうのを実名でやるってのはちょっとたいへんすぎるし、適切なメディアも見つからないもんな。匿名ブログってのはこういう細かいつっこみ入れるには最適のメディアにも思える。自分が同じような攻撃をされても特にいやだとは思わないと思う。

ブログなんかはその程度のメディアであるということで、こういう形で攻撃される人びとが納得してくれればよいが、そう思えない人びともいるだろうなあ。

でもまあ、場合によってはそろそろ店じまいするべきかもしれん。

折衷的にはちょっと調べれば実名がわかるようにして書く、ってのがある。実は現在でもそうしているつもりだし、知ってる人も多いと思うんだけどね。

ハンドル生活ってのもパソコン通信からはじめて人生の半分に近くなってるわけだし。(完全匿名になったことはあんまりないような気がする。)


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