セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。

大学院生の頃にマックス・シェーラーの授業があって、愛と秘奥人格とかなんとかそういう話があって、なんかわからんなーとか。あれはそういう話だとわかったのはアンソロジーやRoger Scruton先生のSexual Desireって本読んでから。まあ基本的には文学の世界の話だわよね。

直接になにかそういうのに近いことをしていると意識していたのは森岡正博先生と小谷野敦先生の二人かな。ここらへんは私の他のネット活動を知っている人はやけにカラんでいるなと思ってると思う。ははは。

まあ小谷野先生は本でしか知らないけど、森岡先生はいろいろあるのでちょっと書いておくかね。

私が大学院生(D)のころは、いろいろ粛清とかあって研究室の人数が少ないせいであんまりうまく研究会活動なんかがうまくいかなくて、あっちこっちの研究会を覗かせてもらっていた。学部生向けの授業に出たり他学部のに出たり、読書会とかも他の研究室の人や他学部の人と(短期間だけど)やったりして。とにかくなんか教えてくれたり議論してくれる人が欲しかったんよね。

当時森岡先生は日文研にいって、単著もあって生命倫理学の有名人というか中心人物だったわけだ。そんでまあ彼が研究会をやっているというので覗かせてもらった。なんの話をしているのか忘れた。おそらくフェミニズムまわりだったんじゃないかな。阪急に乗って桂でバスに乗っていくとなんかきれいな建物があってね。

人数は20人ぐらいだったんじゃないかと思うけど、哲学の人だけじゃなくて社会学やら人類学やら理系やら、単著もあるような華やかな人々が集って、なんか華やかな感じで議論していてなんかもう別世界。宮地尚子先生とか上田紀行先生とか、これから伸びようとしている25〜35才ぐらいの優秀な人々。女性が多かったのもあれだよな。もうなんかいたたまれない感じだったねえ。もうなんていうか自信がぜんぜん違う感じでねえ。ネチネチ暗い百万遍文学部の雰囲気とはまったく違ってた。まあなんというか異邦人な感じ。

そこでやってるフェミニズムとかの議論ってのはもう私にはさっぱりわからなかったけど(まだ勉強する前だった)、なんか話はかみあってる感じだったので、そういうのが流行なのだなあ、みたいな。まあとにかく自信がうらやましかった。こっちは生きてるだけでせいいっぱいだったし、みんな就職してたり研究費もらったりしていて人種が違う感じ。

その後も森岡先生は『脳死の人』とか『生命学の〜』とか出版して、生命倫理でもかなりの影響力をもった、と思う。私はなんかおかしいとは思ったけど、とにかく説得力があるし、影響力もある。オリジナルな人だ。注目せざるをえない。

2005年ぐらいになると森岡先生はなんかセックスというか恋愛ネタで『感じない男』とか『草食系男子』とかいろいろ書いてて、まあぜんぜん共感はもてないもののやっぱりうらやましい。

そういうなかで学会でめずらしく森岡先生がシンポジウムとか出てきて話をして、タイトルはリプロダクティブ・ライツとかだったけど膣外射精がどうのこうの、という話。2007年か。これはひどい話だった、というかもうシンポジウム自体がだめ。その後もいろいろあって現在に至る。

実際に話するのをゆっくり聞いてみたりすると、かなり変わった人で私の若いころの羨望みたいなのは必ずしも適切ではないんだと思うが、書いたものに感じる独特の感じはなんとも言えない。とにかくオリジナルで彼の言ってることは一回考えみる価値がありそうだ。まあそういうんで「森岡先生はフリーダムでいいなあ」みたいななんともいえない感じはもっている。まあ正直うらやましい。相手にされてないけどこれからもからみます。

もう一人注目している小谷野先生は『もてない男』の前からネットでの評判とかで見ていて、変わった人だなあ、みたいな。ほぼ同世代なんで、上の世代の森岡先生とは見方が違う。『男の恋』と『男であることの困難』のどっちを先に読んだか忘れた。あれ、この人は同じような読書をして同じような経験をしているなあ(私生活は違うけど、見方は同じようなもの)、みたいな感じで注目している。なんというかあまりにも正直ですごいんよね。私はああいう生活はできないし、ああいうふうには書けない。まあ小谷野先生だったら、上に書いたような私の森岡先生にたいする妬みみたいなものを理解してくれるだろう、そんな感じ。実証とか、へんなポストモダンやフェミニズム的定説みたいなのに反抗的なのも好き。正直や誠実は美徳だ。あと小谷野先生は恋愛だの愛だのって言ってるけど考えていることはセックスな感じで、そこらへんもおもしろい。こっちは遠まきにウォッチして勉強させてもらう予定。

あとは2000年ぐらいから売買春とかポルノとかでいろんな人がいろんなことを言ってるわね。もちろん杉田聡先生と中里見博は注目している。杉田先生はちゃんとした哲学者な感じがする。社会学系統だと加藤秀一先生とかもかっこいい感じであれだわね。でも議論はわからない。あれ、まだまだ言及すべき人々がいるな。フェミニストもでてきてないし。ここらへんはまた別稿で。

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セックスの概念分析 (4) からセックスの形而上学へ

まあ「セックス」とか「性的活動」とか「性的欲望」「性的快楽」みたいな言葉の分析は「我々はなにを言おうとしているのか」ってのははっきりさせる時には重要だけど、それだけではあんまりたいしておもしろい話は出てこないかもしれない。

「セックス」がなんであるかとかやっぱりすごく広範囲で、「これがセックスだ!、そしてこれ以外はセックスではないのだ!」みたいなクリアな線は引けないかもしれない。

たとえば前にも書いたように、性的活動が(当事者の)性欲(性的欲求)をともなっている活動だとしても、性欲ってのがどんなものかをはっきりさせるのはかなりむずかしい。「これが性欲だ」みたいに示せればいいけど、対象もわからん。異性の身体(や、その一部)に対して性欲を感じる人もいれば、同性に感じる人もいるだろうし、パンツとかハイヒールとかランドセルとかに感じる人もいるかもしれない。パンツは好きですがそれを履く人には興味がありません、みたいな人もいるかもしれない。そういう人がパンツを片手に性的興奮を感じたり性的欲求を満足させたりしているときに、それが性的活動なのかそうでないのかよくわかんなくなる。あるいは、自分の性的快楽に関心はあるけど他人のそれにはまったく関心はない、とか。

それに、たとえば「食欲と性欲はどう違うの?」って聞かれたら「ぜんぜん違う欲望でしょ、もし食欲と性欲が区別つかなかったら変態さんでしょう。厚切りの肉に対して性的欲望を感じたり、性的な興奮を感じながら肉を食べたりしたらやっぱりおかしいでしょ」って答えていいのかどうか。

ちなみに、食の快楽と性の快楽がわけわからん感じになっている名作小説が谷崎潤一郎先生の「美食倶楽部」。(あれ、まだ青空文庫に入ってないのかな。)歯茎を美人の指でなでまわされて気持ちよくなっているとその指がいつのまにかスープでゆでた白菜の軸になっていて噛み切れる!ははは。読みましょう。

でもこうなってくると、なんか「それってたしかに性的活動かもしれないけど、倒錯 perversion なんちゃうか」みたいな、ことを考えたくなる。

「倒錯」っていう概念は今時はかなり評判が悪いです。一時期は同性愛や性同一性障害とかが倒錯って言われてましたし、オーラルセックスとかも倒錯的って言われてましたしね。マスターベーションでさえ倒錯的って呼ばれたころがあったはずです。まあ「倒錯」っていう概念がなにを含んでいる(あるいは何も含んでないのか)のかもこの文脈ではかなりおもしろい話になります(っていうか、「セックスの概念分析」に含まれる問題のなかでも中心的な問題であります。)。

でもこれって、もう言葉や概念の分析を離れてしまってるかもしれない。つまり、人間の生活のなかでセックスとか性的欲望とか性的快楽はどのような地位をしめていて、どういうのが普通で、どういうのが(統計的に)異常かみたいな話になってくる。

そこでまあ「「セックス」って何なの?」という言葉についての疑問は、「セックスってのは人間にとってどういうものなの?」っていう問いにつながってくるわけです。そのためには存在論とか認識論とか神学とか心理学とか人類学とかを参照しなくてはならくなってくる、かもしれない。ソーブル先生はこういうのを「セックスの形而上学」って呼んでるけど、まあ私は「形而上学」って言葉はあんまりうまくないと思ってる。彼のこういう用語法はよくわからんです。まあとにかくそんな感じで話は進む。

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セックスの哲学と私 (3)

まあフェミニズムまわりをうろうろして悩んでいたときに手にしたのがAlan Soble先生の Pornography, Sex and Feminism 。ポルノ規制派のフェミニストたちを「ポルノ読む人間のことをさっぱりわかっとらん」とディスりまくってて痛快すぎた。まあ書き方がユーモアとアイロニーに満ちててすばらしかったわね。「日本のBukkakeのすばらしさがわからんのか」とか。どうもこのころbukkakeがアメリカで流行ってたらしい。私は嫌いでした。ははは。それにしてもやっぱヘビーユーザーは違うわ。

それと前後して読んだのがCamille Paglia (カミーユ・パーリア/カミール・パーリアって表記されることもある)の『セックス,アート,アメリカンカルチャー』。フーコー・デリダ・ラカンのポストモダン御三家をジャンクボンド(不良債権)呼ばわりして苦しめられたあとだけにこれも痛快。ポストモダンな人々は一回パーリア先生読んでみるべきだと思うね。ソーブル先生もパーリア先生も、とてつもなく明晰な書き方をしていて、知性も学識ももうぜんぜん格が違うのがわかった。目からウロコがぼろぼろ落ちたわ。まあなんていうか、セックスとかフェミニズムとかの議論にある暗さや苦痛とかそういうのと別に、明るく楽しくセックスについて哲学する余地がある。

ありゃ、こういうのあるんだ、と思って本棚を見ると、なぜかBaker先生たちのSex and Philosophyがある。実はこれアメリカに渡った某後輩が「こういうものがある」となぜか送ってくれたんだよな。なぜ送ってくれたのかは今だに謎。ぱらっとめくって「いつか読む」みたいになってたんだけど、ソーブル先生の洗礼を受けてから読むと各論文がなにをやっていうのかわかってきた。これってすげーじゃん。(そういえばこの後輩はそれ以前にもSex on Campusという本をくれたのだった。なにも御返してないなあ)

まあソーブル先生について調べてみると、80年代にはわりとラジカルフェミニズムとかに共感的でおずおずと自分の議論を提出してたんだけど90年代にパーリア先生読んでふっきれて言いたいことを言うようになった、みたいな感じだった。90年代後半にはっきりと自分の明晰なスタイルを確立している。先生のアンソロジーも入手したり。アンソロジーが2冊あると、どれが重要な論文とみなされているのかがはっきりわかって有益。アンソロジーは2冊以上そろえるべし。

まあそういうセックス哲学アンソロジーとかではジュディス・バトラー様の名前なんかさっぱり見ないわけよ。イリガライ先生とかそういうのは出てくることはあるけどね。

Baker先生たちのアンソロジーはいろんなバージョンがあるけど、とりあえずKindleで買っとけばいいと思う。

セックスの哲学史

最初のエントリに書き忘れてましたが、セックスの哲学があるので、当然セックスの哲学史もあるです。ソーブル先生とかはあんまり得意じゃない感じだけど、この分野もかなりおもしろい。実はほとんどの有名哲学者は、なんからの仕方で愛やセックスについて語っているのです。セックスなり愛なりエロスなりを軸にして哲学史を見ていくと意外なものが見えてくるかもしれないです。まあ私キェルケゴールから勉強はじめたので、特にそう思えたりする。

まあそもそも哲学超古典であるプラトンの『饗宴』はエロース賛美なわけで、『国家』や『法律』とかでもセックスの問題は議論されている。

アリストテレスもニコマコス倫理学の「友愛」の議論のなかで夫婦関係について触れているし、『問題集』では医学的・自然科学的立場からセックスネタをいろいろいじくっている。この『問題集』雑談ネタとしておもしろいので読んでみるとよい。「なぜ性的行為はもっとも快いものであるか?」とかって問いに対して、「本来の目的に向かう場合道程はそれが知覚されるときにはいつも快いから、そして、生きものの生産という目的に向かっているから。生物は快楽を通して行なわれることによって生殖に向かう。」とか答えたり。「目的」の扱いがあれとはいえ、現代の進化心理学と同じ地点にいるではないですか。

他にも「若者が初めて性交を経験した場合に、行為の後で自分が交わった当の女性を嫌うのはなぜか」「なぜ毛深い男は好色なのか」「空腹時は性交が早く済む」「乗馬は性欲を亢進させる」「睫毛の下っているものは好色である」「男と女は欲情の時期が異なる」「憂鬱症の人は性欲的」(以上第4巻)「なぜ酔うと性交不能になるのか」(第3巻)なんて話が満載。

こういうのも少しずつ書いてみたいと思います。

実はこれは「セックスの西洋思想史」みたいにして(女子大の!)教養科目の授業でやっていて、授業資料みたいなのは公開してしまってたり。まああんまりやばいことは教えてないことを示しておかないと立場が危うくなるから恥ずかしいし、著作権とか問題あるんだけど公開しております。

アリストテレス先生の『ニコマコス』は岩波は避けて、高いけど朴先生訳のを読みましょう。ぜんぜん違うよ。朴先生偉大すぎる。『饗宴』はまあどれがいいか知らん。朴先生のはもちろん立派。美知太郎先生の解説本も読みましょう。中公バックスは安いのが出ていたら誰のものでも必ず買いましょう。

セックスの概念分析 (2)

まあそういうわけで「セックス」っていう概念を分析するというか、とりあえずはっきりさせたいわけだけど、「セックス」が基本的な概念なのかどうかについては諸説がある。ふつうに我々が「セックス(すること)」と呼んでいるものはおそらく「性的な活動」なわけです。(「セックス」にはもちろん「性別」って意味もあるけど、ここではとりあえず関係ないように思える。)

手塚治虫『アポロの歌』。
手塚先生は性器がないと愛せないと
考えたのかもしれません。

もうちょっと反省すると、「セックス」と呼ばれる活動(性的活動)に含まれる「性的部位」や「性的快楽」や「性的欲望」に注目するべきかもしれないという話になる。そしてある部位を性的にしているのはなにかとか、ある感覚や快楽を性的快楽にしているものは何かとか、ある欲望を性的欲望にしているものはなにかとか、それらに共通な「性的」という性質があるのかどうかとかって話になるわけです。

「性的活動」を「なんらかの意味で性的部位にかかわる活動」みたいに考えるのは、一見すると魅力がある。人間の身体のなかで特に性的な部位ってのはある気がしますよね。典型的には股間がそうだし、おっぱいとか尻とかも特に性的な感じがする。そこらへん触ったりしはじめるとそれは性的活動なのだ、すでに性的活動をしている、みたいな。うっかりそういう場所を触っちゃうと「痴漢!」「セクハラ」って呼ばれてもしょうがない。

一方、赤ちゃんの手のひらを「やわらかいねー」って触ってもあんまり痴漢な気はしない。私がおじいさんの踵とかを触ったらセクハラではない気がする。でも私が女子大生のどの部分を触ってもなんかセクハラな気がする。うーん。どうも身体のある部分が性的になったり性的でなくなったりすることがあるみたい。けっきょく、「性的な部位」を性的活動から独立に規定するのはけっこう難しそうだってことになる。性的な部位って何だろう?

そこで、「性的な部位」を「性的な快楽に関係する部位」みたいに考えることも可能かもしれない。唇とか股間とか性的な快楽を与えてくれる傾向があるかもしれないし、腕の内側とか背中とか足の裏だって方法によっては性的な快楽を与えてくれるかもしれない。つまり、「性的な活動」や「性的な部位」より、「性的な快楽」の方が基本的な概念なのではないか、みたいな。性的な快楽を与えてくれる場合にそこは性的になるのです、誰かが性的な快楽を味わっている場合にそれは性的な活動になります、そしてそれは文脈に依存します、みたいになる。これはかなり魅力的な解決法になる。

問題は当然「んじゃ性的快楽ってのはどんなものよ」って話になる。まあ快楽は感覚だから、「これが/それが性的快楽だよ」って教えてもらうしかないかもしれない。ちょっと不満な感じもするけど、これくらいで我慢しておくべきなのか。

もっと問題なのは、「んじゃ誰も性的な快楽を味わってない場合にはそれは性的活動ではないのか」みたいなことを言われてしまいそうな気がする。ぜんぜんうまくいかないセックスとか、誰もぜんぜん快楽を感じてなかったらそれはセックスではなくなってしまうのはなんかへんな感じがする。失敗したセックスはセックスではありません、みたいな。ははは。

「性的快楽」を基本にする考え方と同じくらい(かそれ以上)に魅力的なのは、性的欲望を基本概念にする見方。性的欲望の対象となるのが性的部位であり、性的活動とは誰かの性的欲望にもとづいた活動です。私にはこれが一番有望に思えるっすね。性的欲望をかかえた活動はセックスだり、セクハラをセクハラにしているのはそれが性的欲望にもとづいているからだ。挨拶のキスは欲望にもとづいてないので性的じゃないけど、恋人どうしが夜中にするキスはセックスの一部。

私がこの性的欲望中心説みたいなのを気にいっているのは、セクハラとかってのについて被害者が感じる不快の説明にもなっている気がするからです。女子の多くが感じる不快感のバックには、加害者とされる人の性的欲望(性欲)を感じる不快さがあるんじゃないかって勝手に思っている。同じ「肩にタッチする」って行為でも、相手の性欲を感じると「セクハラ」って言いたくなることがあるんじゃないか、とか妄想。ははは。

まあそういう妄想はさておいて、性的欲望中心説みたいなのもやっぱり「んじゃ性的欲望って何よ」っていう問いを提出されることになるわけで、こっちも性的快楽と同じように「これが/それが性的欲望だ」って形で教えてもらたり、「これが性欲か!」って(自然に?)自覚するのを待つしかないかもしれない。

性的快楽にせよ性的欲望にせよ、独特の色彩というか質があるですよね。子供のころはあんまり感じない感覚を、性的に成熟するにつれて思春期ぐらいから強く独特のものとして感じるようになる。もちろん「私は小学1年生のころから快楽を感じてました」「パンツ見たくてしょうがなかった」って人も多いだろうけど、それが次第になんかやばい特別な種類の感覚や欲望であることを自覚するようになっていくんではないかという気がする。性的快楽や性的欲望として分化していくっていうかなんというか。まあここらへんの分析は、概念分析というよりは現象学とかの研究対象かもしれないですね。

あとここらへんいろいろおもしろいネタが多くて、性的欲望という欲望の対象は何か、みたいな話も興味深い。性欲ってのは快楽を目標としていると考えられることが多いけど、これって本当だろうか? 私のカンなんだけど、たとえば性的快楽がまったくないことがわかっているのにセックスを求める人っているかもしれないし、もしかしたら苦痛があることがわかっていてさえ、セックスを求める人がいるんじゃないかという気がしてます。ぶちゃけた話、人は気持ちよくなりたくてセックスするのではないのではないか。快楽より欲求の方が基本的な概念なんちゃうか、とか。おもしろいですね。機会があればここらへんもっとちゃんと議論してみたい。

性的快楽か、性的欲望かのどちらかを中心に考えていく他にも
、性的覚醒や性的興奮みたいなのを中心に考えいくのもありかもしれません。まあここらへんあんまり考えないので難しい。この手の概念についての論文は日本では魚住陽一先生が「性的欲望とは何か」ってのを書いています。日本のセックス哲学のはじまりとして記憶されることになるかもしれないですね。前半は性的欲望についてのいくつかの立場のうまい紹介になっています。 http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/view/23/12もっとも後半は私はあんまり理解してないです。

あとまあこういう言葉遊びみたいなのを椅子に座って延々やるよりは、人々が実際どうセックスという言葉を使っているかを調査してみるっていうのも興味深い研究方法ですわね。噂に聞くエスノメソドロジーとかって手法がすごい威力を発揮するかもしれない。たとえば人々がどこから「浮気」って考えているのかとかそういうこと調べてほしいものです。

セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。

まあ80年代のフェミニスト内部でのポルノグラフィ論争というのは非常に重要だったんよね。ポルノグラフィを男性優位社会の象徴であり原因であると見て規制してしまえっていう派閥と、やっぱりフェミニムはリベラルじゃなきゃな、って派閥に分かれた。ポルノグラフィの問題によって、セックスそのものに対するフェミニストの態度も問われることになった。アンチ・セックスかプロ・セックスか、みたいな。国内でそこらへんをうまく紹介している本があるかどうか。ヴァレリー・ブライソン先生の『争点・フェミニズム』ぐらいか。これは良書。

その研究会でアンソロジーの翻訳を出そう、みたいな話になって、まあ一応フェミニズムの基本文献はラディカル、リベラル、レズビアン分離派、批判人種理論、ポストモダンまでいちおう主なものは目を通せた、と思う。テキストに使ってたのはBecker先生の『フェミニスト法学』。(この翻訳は結局出なかった。私も悪かったです。ごめんなさい。)

とにかくマッキノン先生とかには苦しめられた。とにかく読みにくいんよね。過去のマッキノン先生の翻訳に目を通すことで、この業界がぜんぜん翻訳だめだってことに気づいたのもこのころ。議論がぜんぜん読めてないんだもん。とはいえ、マッキノン先生たちの「セックスは男による女の支配」みたいな主張にはなにか重要なものが含まれていると思った。もう少し勉強してみよう、みたいな。まあマッキノン先生たちに敵対するナディン・ストロッセン先生のDefending Pornographyみたいな立場の方に共感はすれども、ラジカルな人々の言い分ももっと聞きたい。んでおそまきながら勉強。「ポルノグラフィとフェミニズム法学」  http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/bulletin/6/femi.pdf  とかくだらん文章書いてみたり。

そうこうしているうちにジュディス・バトラー様のExcitable Speechが出ていることに気づいた。まあ『ジェンダー・トラブル』は知ってたんだけど、私が関心あるようなポルノグラフィとかにはまったく関係がないだろうと無視してたんだけど、Excitable Speechはいちおうフェミニズムとかクィア理論とかからポルノグラフィの問題を扱っているそうだから目を通さないわけにはいかない。そしたらもうJ.L.オースティン先生とか滅茶苦茶な扱いされててねえ。言語行為論とか専門と違うけど、まあそれなりにはあれしているわけだし、でたらめ書かれたら困っちゃう。そんとき、「おそらくこれ翻訳されて、国内のアレな学者様たちが言語行為論とかについておかしげなことを言いはじめるだろう」って予言したのを覚えている。

その予想はExcitable Speechが『触発する言葉』って邦訳になって、そのすぐあとに斉藤純一先生たちの『表現の〈リミット〉』で実現するのであった。斉藤先生自身や北田暁大先生があれなこと書いててもうねえ。これはもうほうっておけないから論文書いておいた。http://www.cs.kyoto-wu.ac.jp/grad-bulletin/1/eguchi.pdf 。これが目にとまったのか北田先生に誘ってもらって、似た内容で文章書かせてもらったりもした。北田暁大(編)『自由への問い(4)コミュニケーション』(岩波書店)の「ポルノグラフィと憎悪表現」。北田先生ありがとうございます。

あとその研究会のメンバーがかかわってドゥルシラ・コーネル先生がドロドロのフェミニズムやっててね。カントとラカンとかあれすぎるだろう。そういうおかしげなものとは縁を切って、ちゃんとしたセックス哲学やりたい、と思うようになった。

セックスの概念分析 (1)

「セックスの概念分析」とかっていうとなんかいろいろ難しいことを考えしまいそうになるわけですが、基本的には「セックス」という言葉で何を指しているか、とか、どういうものをセックスと呼んでいるのか、とか、「セックス」と他の言葉とはどういう関係にあるか、とかそういう話ですわね。でもこれはけっこうおもしろい。

まあたとえば、「浮気」ってのを考えみましょう。モテる人は「お前、浮気したな!」とか言われることがあるでしょうが、どういうのが浮気なんでしょうか。辞書をひくと、そういう意味での浮気ってのだいたい「他の異性に心を移すこと」みたいな説明がされてることがある。でもこの定義でいいのかどうか。「心を移さずにあれしたら浮気じゃないのかとか、異性じゃなくて同性とあれしたら浮気じゃないのかとかそういう話になる。あれ、「浮気」ってなんだろう?それって「あれ」をすることなんだろうけど、もしその「あれ」がなにかってのを考えたりするのが「浮気」という「概念」を分析するってことです。

おそらく広い意味では「浮気」は「他の人を性的な対象と思うこと」ぐらい。パートナーがいる人が、そのパートナー以外の「あの人とあれしたいな」、とかそういうこと考えただけで浮気になっちゃう。でもこれはおそらく広すぎるから、「特定のパートナー以外のとセックスしたら浮気」とかにしたい(と多くの人は思うはず)。

でもんじゃどっからセックスなのか。セックスってのはなにか。

「そりゃチンコとマンコをハメることだ」みたいな下品なことを言う人がいるかもしれませんが、それだったらオーラルセックスだけの場合は浮気じゃないのか(クリントン元米国大統領が部下にフェラチオしてもらったのに「セックスはしてません」と言いはったのは有名)、同性とのオーラルセックスは浮気じゃないのか、みたいな話になる。もちろんそういう「定義」を採用してもいいんだけど、まあ我々の多くはそういうふうには「セックス」を使ってないんじゃないかと思います。

んじゃ、セックスという行為はどっからはじまっているのか。チンコやマンコに直接に接触したときからなのか、それともキスとか乳もみとかそういうのからはじまっているのか。セックスはどこではじまって、どこで終るのか。

極端な場合には、「「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ 5:27)とかっていうイエス先生の教えを本気でとらなきゃならない。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」だそうですよ。たいへんです。性欲にもとづいて異性(なり同性)なりを見た人は、みんなセックスしてしまっているので。セクハラしたいと思っただけでセクハラしたのと同じです。目をえぐってしまいなさいす、手を切り落してしまいなさい、なんちゃって。

セクハラとかも同じ問題があるのがわかりますよね。セクシャルハラスメントってんだからセクシャルじゃないとならん。ただのハラスメントはセクハラではない。ではセクハラとはどういうものか。性的ないやがらせがセクハラなわけだけど、では卒論書けなかった罰に男子学生の尻を鞭打ちするのはセクハラなのかたんなる拷問や暴力なのか。尻だったらセクハラだけど肩を鞭打ちしたらセクハラではなくてただの暴行か。んじゃ暴行とセクハラを分ける意味とかあるんかいな、とか。ぜんぶ暴行や強要ではだめなのか。

セクシャルな部分に接触するのがセクハラなら、単なる言葉によるいやがらせはセクシャルじゃなくなっちゃうからセクシャルってのは接触に限る必要はない。さて、セクハラっていったいなんでしょう。これを考えるためにセクシャル/性的ってことばがなにを意味するのかわかってないとならん。

セックスの哲学と私 (1)

んでいきなり自分語りをはじめるか。ははは。

セックスの哲学という分野に興味をもったのは10年ぐらい前かしら。

まず15年ぐらい前に、諸般の事情で「情報倫理」とかってのをケンキューしなきゃならない状況になって、なんかおもしろいネタはないかみたいなサーヴェーしてたわけだ。当時はネットのポルノとその規制(米国のCDA、Communication Decency Act, 通信品位法案)とか)が問題になってたので、そこらへん表現の自由とか言論の自由とかとからめて勉強しようかと思ったのだが、まああんまりうまくいかなかった。どの程度私がポルノ画像とか集めていたかは秘密。netnewsに流れているのをあれするスクリプト書いたりして。ははは。

そこから幸運にも今の勤め先に移らせてもらった。女子大だし、そういう学部なのでまあフェミニストの牙城みたいなところで、研究会とか出せてもらったりして。ジェンダー法とかそういう話だわね。やっぱりポルノに関心があるなあ、とか。でも性の商品化とか売買春とかそういうところに話は広がっていくわね。ポルノは性の商品化そのものだし、ポルノ撮影現場では売買春も行なわれていると考えることができるわけだし。性暴力とかそういうのとも関係がある。

私の世代(1965年生まれ、前後3年〜5年ぐらい)の本読む階層は、おそらく小倉千加子先生や上野千鶴子先生のフェミニズムの影響をもろにかぶった世代で、まあ一定の理解はしているつもりだし、問題意識はわりと共有しているつもり。なのでまあ性の商品化とかを中心とした倫理的・社会的な問題にはずっと関心をもっていたわけで。2000年からちょっと経ったころは、ジュディス・バトラー様とか紹介されたり、国内では杉田聡先生みたいな強硬なポルノ反対派みたいな人がいたり、APP研とかの団体が活動したりしていろいろ気になる。でもまあそれなり勉強していると、なんかそういうのはおかしいんじゃないか、みたいに思いはじめた。哲学っぽいんだけどなんかちゃんとした哲学や倫理学の議論じゃない気がしたんよね。

たまには聞いている音楽を紹介してみる

Happy Music: The Best of the Blackbyrds

Happy Music: The Best of the Blackbyrds

これはほんとうにハッピーなファンク。オハイオプレイヤーズとか好きな人におすすめだわね。オハイオより楽器は習熟しているというかジャズ寄り。(ドナルド・バードだからあたりまえだけど)

実は私はオハイオプレイヤーズはそれほど好きじゃなくてCDもそんな持ってない。なんかP-Funkに比べて作りが単純すぎる感じがするんだわね。でも”Skin Tight”は好き。特にタイトル曲はいいねえ。

Skin Tight

Skin Tight

“Skin Tight”はCarmen Electra(プリンスがプロデュース)がカバーというかサンプルしていてかっこいい。

Electra

Electra

“What’s my name?” — “Skin Tight” がやらしい。

プリンスがプロデュースした女性ボーカルってのは好きなCDが多くて、元妻のMyteのこれとか最高。プリンス自身のより多く聞いたかもしれない。あ、これは昔一回言及したことがあるね。

Child of the Sun

Child of the Sun

“In your grace name”は一回聞いてほしい。こう、なんというか寄せては返す感じのサウンドがもう最高。コモドアーズの”Brick House”をカバーしたのもいい。

質問の仕方 (1)

質問・コメントする

ゼミや少人数の授業で、「質問・コメントはありませんか」というときになにも発言できないってのは悲しいことです。

誰かの話を聞いてなにも尋ねたりコメントしたりすることがないってのは、けっきょく、「私はあなたに興味ありません」「聞いてませんでした」「どうでもいいことです」という否定的な態度を表明することにもなります。

「あなたの発表を聞きました」「あなたの考え方に興味があります」という態度を示すことにもなります。なんか口出しできるようになりましょう。

とにかく三つの質問ができるようになればよい。チェックして質問するのは、まず次の3点です。

  1. 使っている言葉の意味ははっきりしているか?曖昧ではないか?分からない言葉は説明してもらおう。
  2. 主張に具体性があるか?具体例を提出しているか?それは適切か?
  3. 発表者は独断的ではないか?証拠はあるか?その証拠はどこで手に入れたのか?根拠は提出されているか?

詳しくは野矢茂樹先生の『論理トレーニング』(産業図書、2006)の第10章「批判への視点」の10.1「質問への視点」を読んでください。

何も言うことがないときに便利な表現

なにも質問や意見が思いつかないときがあるかもしれません。そういうときは決まり文句を使いましょう。

  • 「おもしろかったです。〜についてもう少し詳しく話してもらえませんか?」
  • 「〜という人は〜と言ってました(書いてました)が、それについてはどう思いますか?」
  • 「結論としてはどういうことになるんでしょう?」

→ 質問の仕方 (2)