檜垣立哉先生の『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉『食べることの哲学』第5章「食べてよいもの/食べてはならないもの」

檜垣立哉先生の『食べることの哲学』を図書館でふと手にとって、クジラ問題のところだけ読んでみたらいろいろ問題を感じたので、いつものように引用とメモ。

小型のクジラがイルカであるといっても誤りでなく、そのため、DNA検査によってイルカの肉かクジラの肉かをみわけることは困難である。 (p.130)

え、そうなの?意味がわからんです。DNA調べたら種の特定ぐらいはできるしょ。だから時々国内で特定種類の鯨肉(調査捕鯨などの)が流通しているって非難されるんでしょ。まあクジラとイルカは種としては近くて、人間が勝手に大きさで区別してるだけ、っていうのならわかるけど。水産庁もDNAで肉がどの種のイルカ・クジラであるか登録しろと指導しているような気がします。

[『ザ・コーヴ』制作者らの]論理破綻こそに食にまつわる問題の意味が詰っているのではないかとおもわせもする。つまり、クジラ・イルカ漁に反対するひとは、まさしくただ反対したいから反対しているのであり、本当はそれ以外の意味などないのではとおもうからである。(p.133、強調は原文傍点。)

こういう文章を見ると、まあなにかに反対したい人はそれに反対したいから反対しているのでそれはいいんだけど、それが「ただそれだけ」なのか、「それ以外の「意味」」はないのか、そもそも「意味」とはなにか、みたいなこと考えてしまいますね。「反対しているのはまったく勝手な感情にもとづくもので、それ以外に反対する理由や根拠ははない」みたいな文章なんだろうけど。たとえば、奴隷制度に反対しているひとも奴隷制度に反対したいから反対しているわけで、民族浄化や奴隷制度に反対したい、反対すべきだと考えているっていう以上の「意味」なんてないかもしれない。

と。んで本論に入っていくわけだけど、その前に、檜垣先生が『ザ・コーヴ』を非論理的、論理破綻、矛盾、とかなんとか何回も繰り返してディスってることに注意をうながしておきたい。ある人の主張が論理的でない場合にはそれは傷であるわけだけど、『ザ・コーヴ』はドキュメンタリー映画・広報映画であって論文ではないので、必ずしも論述の展開が「論理的」でないかもしれないわけだけど、それって映画やドキュメンタリーの欠点なんかな。もちろん映画での主張が矛盾だらけでよいということではなく、論文のような論理的構成になっていないからといってさほどせめられない、と私は言いたい。ドキュメンタリーで出てくる人々の主張はたいてい論文や書籍や他の場所での発表媒体に掲載されているわけだから、主張の論理的なよしあしを見るには映画ではなく他の媒体のものを見た方がよいのではないか、と思う。

第二に、檜垣先生は論理論理論理破綻矛盾!というわけだけど、私にはさほど主張が矛盾しているとは思えなかったってのがある。これは檜垣先生ができるかぎり『ザ・コーヴ』の主張を整合的な形にした上で、どこに矛盾なり論理破綻なりがあるかを示す責任がある。「論理破綻している!」って何度も言うだけでは破綻していることを示したことにならない。それができているか、これから確かめるわけです。


さて。

……できれば酷い環境のもとで飼われないこと、そもそも人間に飼われないこと、これがいいということは確かだろう。……だが、なぜイルカなのだろうか。……なぜそれがイルカ……に対してだけ向けられるのか、そこの線びきの根拠が、正直明確であるとはいえない。 (p.137)

え、そっちに行くんか。

ある社会運動家が、ある問題に関心をもち、ある局所的な事象をとりあげて問題視することはよくある。個人や団体の力には限界があるので、世界の不正や問題をぜんぶいっしょにとりあつかうことはできないからだ。世界をよくするには、それぞれの人が小さくても局所的な問題をとりあげ活動し改善していく方が全体としてはうまくいく見込みが大きい。

ただし、イルカの飼育に関心をもっている人に対して、豚の工場畜産はどう考えるかたずねてみるのはもちろん悪くない。クジラやイルカに豚とは違うなにか特別なところがあると考えているのかどうか聞いてみたらいい。それに対する答はいろいろありうる。「豚についても懸念しているけど私はイルカに特に興味がある」っていうのもまあ一つの答だし、「豚問題もやりたいけどとにかくイルカから」っていう答もありうるだろう。また、「イルカはかわしいけど豚はかわいくないから」という理由であった場合には、「かわいさってそんなに道徳的に大事なのですか」と聞いてみてもいい。でもこれってそれ自体は論理破綻とかではない。しかしまあ檜垣先生が「なぜイルカなのか」と考えること自体はそれでOK。

あと、一般に、なにかが論題になっているときに、別の話にそらしてしまう論法は、「イグノランチアエレンキ」(論点相違)の詭弁/誤謬推理って呼ばれていてあんまりよいものではない。

たしかにオリバーにとって、……それと同種のイルカも、かけがえなのない「伴侶種」であることは理解できる。しかしながら、……他の無数に存在しうる「伴侶種」にも同じことをしなければならないはずだ。 (p.138)

オリバー先生というひとがイルカはコンパニオンだから救うべきだと主張しているかどうかは未確認(この本でもわからん)。でもこれはこれでいい。

でも、たとえば(「伴侶種」である)イルカを大事にするなら、(伴侶種である)犬も大事にしなければならないはずだ、っていうことから、イルカ漁反対運動と、犬虐待反対運動を同時にやらねばならない、っていうのは出てこない。どっちかかたいっぽうだけでいい。

日本でイルカ漁をおこなっているのは和歌山だけではない。……では、太地町の何が問題なのか。 (p.138)

これも同様。和歌山でもフェロー諸島でもクジラ漁がおこなわれているってことから、「同時に」それらに反対しなければならないってことはない。もちろん「フェロー諸島のにも反対しますか?」って聞かれたらおそらく『ザ・コーヴ』の人々は「(条件が同じなら)反対します」って答えると思うけど、同時に映画とらねばならないわけではない。

「〜に反対するなら〜にも反対しろ」は社会運動家たちに対してよくやられる反論で、意見の整合性を見るために質問するのはよいかもしれないけど、実際の運動をいっしょにやらねばならないわけではない。そもそもそんなのリソース限られてるからできないっしょ。

まあでも、この種の疑問自体はOK。こういう疑問を感じたら、『ザ・コーヴ』の人々がどういう立場なのかよく調べてみればいいと思う。もし私の学生様が『ザ・コーヴ』見ただけで彼らの主張について勝手なことを言おうとしたら、「まずちゃんと調べてみたら」ぐらいの話はしますね。オバリーさんとかの文章は日本語では見つからないかもしれないので、しょうがないからクジラ関係の書籍やweb記事とか調べてもらいますかね。できれば英語その他の外国語でも調べてみたいですね。

食料とする動物に対して穏当な殺し方は構わず、残酷な殺し方はまずいというのは、これもまた、いかなる基準で判断すればよいのかわからないことである。穏当であるというのは、端的にいえば相手に「痛みを与えない」ということであろう。……しかし、どのように考えようとも、これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない。もちろんこの感情移入にはある程度の根拠がないとはいわない。しかし「相応」の根拠しかないといえば、どうなのだろうか。 (p.138)

あらー。ツイッタでよくやられている議論ですね。でもこれはよく考えてみる必要がある。

「食料とする動物に対して〜」なんだけど、いまの先進的な屠畜工場では屠殺は一瞬でおこなわれてかなり苦痛は少なくなってると考えられてるみたいですね。テンプル・グランディン先生とかが動物の心理を推察してなるべく苦痛が少なくなるような施設を設計したり、とか聞きます。

クジラやイルカについて「残酷な殺し方」が問題になるっていうのは、クジラやイルカはそうした施設で苦痛が少ない形で殺すことが難しい、どうしても海で追い込み漁やったり、浮き輪つきのモリを何本も打ち込んだりしなければならない、ってところにあるんだと思ってます。まわりで仲間が殺さてるのも知覚するだろうからそれの恐怖もあるだろうしねえ。まあそういうんでイルカクジラ漁は、牛や馬の屠畜とかに比べて批判が多い。

鹿や兎を鉄砲でとってくるのはどうなんだ、とかの話ですが、まあ鉄砲でさっさと片づけるならそれほど苦痛はない、とか考えられるのか、そうでもないのかはよくわかりません。ただイノシシの罠猟とかはかなり問題があると考えらていて、よく知らないけど24時間以上ほうっておいてはだめ、とかいろいろルールがあるみたいですね。あと鳥のかすみ網とかも苦痛が大きそうだから禁止されてるはず。『山賊ダイアリー』とかで解説してくれてるかな。

んで「これは人間という種の感覚器官に依拠した感情移入でしかありえない」がちょっとわかりにくくて、罠に足挟まれて足の骨くだかれてそれでも半日ジタバタする、みたいなのは人間だろうがイノシシだろうがものすごく苦痛な感じがするんですが、先生これ「人間という種」の感覚器官に依存するもので、イノシシは痛くないと思いますか。イルカが太いモリを打ち込まれてなかなか絶命せずに逃げようともがくのもものすごくたいへんそうですが、先生これ人間の種の感覚器官に特有ですか。特有じゃなくて「依拠」ですか。でもそれってどういう意味なんだろう?

まわりで同類のがばんばん殺されてたら、わりに賢くて将来の見通しがあり、共感能力とかが発達していてグループで活動する種の動物はいろいろ動揺しそうですが、これってどれくらい人間の感覚器官に依存しているんだろう。

「相応の根拠」しかないからどうなのですか。我々が他の人間が苦しんでると思うのでさえ、この意味では相応の根拠しかないではないですか。こんなの動物倫理の初歩の初歩だと思うんだけど、そういうのに興味はないですか?


「数々の誤謬」のところは誤謬といいながら事実認識の話で私はあんまりコメントできないんだけど、檜垣先生の方がおかしいように思う。

コーヴ側をC、檜垣先生をHとして表記すると

C「日本がまだイルカ漁やってることを日本人すら知らなかったよ」← H「食べてることは知らなかったよ、政府が隠してるってことはないと思うよ」(?) 論点ずれてる。

C「肉の種類ごまかして流通してるよ」← H「物々交換や儀礼にかかわるものだよ」 いやそれ以上に流通しているからニュースになったんでは?

C「イルカ肉には水銀たまってるよ」← H「健康被害が出てるってのは確認とれてないよ、水俣病みたいな公害と「自然的な淘汰作用」でたまった水銀は別だよ」なに言ってるかわからない。

でもよくわからない。なんか三つとも論点相違になってる気がするけどはっきりしない。『ザ・コーヴ』の言い分にも問題ありそうなんだけど、あれ見直すのいやなんよね。

ここらへんの話はいろいろあって評価がむずかしい。
http://www.econavi.org/weblogue/webtra/kurita/32.html
から、いろいろリンクがあるので見てみるとよいと思う。


もっと問題が多いところへ。

彼ら自身はヴェジタリアンかもしれないが、そもそも牛肉を山のように喰い、動物を殺すことにかんしてはかくも残虐なヨーロッパ系白人であることは確かである。(p.144)

いやこれは……ちょっとコメントしにくいけど、ヨーロッパ系白人だからなんだというのか。いわゆる対人論法(アドホミネム)であり、人種差別的であると思う。人種じゃなくて個人で話してください。こういうのは本当によくないのでやめてください。本当にやめてください。筆がすべっただけですよね。

ごく好意的に読めば、これは我々が感じるオバリーさんたちに対する嫌悪感の説明で、われわれってこういうふうに考えちゃいますよね、ってな解釈ができる。でもその次は

彼らこそが白人中心主義の独善的価値観にもとづいて、異民族・非ヨーロッパ系民族の風習に「野蛮」というレッテルを貼り付け、晒し者にしているのではないか。

ってな形で疑問文の形ではあれ、かなり一方的な議論をおこなっていて、単なる嫌悪感に関する洞察とも思えない。嫌悪感の因果的・記述的説明であるだけなく、それを正当化しようとしていると読むのが、必然ではないにしてもふつうの読みだと思う。それにしても、これって『美味しんぼ』の雁屋哲先生の議論とまったく同じよねえ。(下に前に書いたののリンク貼っておきます)

知性をもった動物を食べてはいけないならば、ではもたない動物は殺してもいいのか。そこで知性は誰が何の基準で判断するものなのか。 (p.145)

これも『美味しんぼ』論法。この手の基本的なやつを「議論されなければならない問題、どう考えても誤謬としか思えない主張が混在している」の一例にあげるのではどうしようもないのではないか。これらの論点はすでにものすごく大量に論じられていて、ネット上にもいろんなものがころがっているし、書籍も多い。

ふつうのヴェジタリアン系統の主張は「知性」ではなく「苦痛」に注目することが多くて、クジライルカな人々はたしかに知性や共感、コミュニケーション能力、推論能力なんかについてもコメントすることが多い。そうした能力が高いほど苦痛や欲求の挫折を多く感じるのではないか、みたいな発想がある。『ザ・コーヴ』の人々がどうか私はまだ調べてないけど。

うしろの「知性は誰が何の基準で判断するものなのか」もよく見るけど、人間が人間の基準で、あるいは共感してるっぽいなーとか、この刺激あるときこういう行動をとるのでこういう認知してるんだろうなーとかでかまわんのではないか。哲学なんだから疑問文なげっぱなしににしないで、先生もいちおう読んだり考えたりしてみてほしい。

殺し方が残虐だからダメだというのであれば、殺し方が穏当であればいいのか。少数種であるから守るのか、では多数種であれば殺していいのか。 (p.145)

残虐な殺し方より穏当な方が望ましいのはたいていの人が認めると思う。「少数種」ってのはわかららんけど、「種の個体数が少ない」の意味かな。まあ絶滅の危険とかそういうのはあるていど考慮しないと。

『ザ・コーヴ』の映画に登場する誰もが、こうした諸問題を、まさにたたみかけるように主張するだけで、本質的に何が問題なのかをまともに論じているようにはみえない。これ自身は、ヨーロッパ人であろうが誰であろうが、常識的におかしなこととおもえる。

まあ『ザ・コーヴ』で主張とその根拠が映画内で完結しておらず、他の資料を読まねばならないっていうのはその通りなんだろうけど、だからこそ学者先生なんだから映画見ておわりにしないで言い分聞いてやってくださいよ。映画にそんないろんなの詰め込めっていう要求は、誰であろうが常識的におかしなことと思えるはずですわ。

動物種と人間との関連を考え、その暴力性を考えるとき、白人であり、それゆえ紛れもない世界支配者集団の一員であるオバリーやシーシェパードが、日本の和歌山県の太地町の漁民という、経済的にも弱小で日本のなかでさえマイナーな地域の集団を「威嚇」することは、何かがおかしい。しかしこの「何かがおかしいが、それをしないと問題が示せない」点をこそ考えるべきではないのか。 (p.146)

まず白人とかに対する偏見をさらすより、普通の勉強をしたらどうか。なぜ「威嚇」にカッコがついているのか。

私なりにパラフレーズすると、白人は世界の支配階級なので(本当に?)、マイノリティである東洋の島国の村とかの弱者になにも言うべきでない、ぐらい?あっってますか?なんでそんなこと言えるの?

たとえば(壊滅したらしい)イスラム国が他宗教の女子を奴隷にしているときに、イスラム国はまだすごくマイナーな集団で世界的には弱者だからメジャーな白人社会がそれに文句言うべきでない、とか言えないでしょ。

最後のところは意味がわからないんだけど、考えてほしい。っていうかこの問いでこの節が終ってて、その答がどこにあるかっていうのはぱっと見ただけではわからんのですよね。でも本人は書いてるつもりなのはわかる。

なぜオバリーは、イルカの「痛み」を感受するが、太地の漁民の「痛み」は感受しないのか。 (p.149)

そもそも危険人物としてあれほどマークされながらも、太地町に、そして熊野に何度も来る彼は、熊野や太地町のことが、本当は相当に好きなのではないか。そもそもそうでなれば、ここまでの攻撃性は出せないのではないか。 (p.150)

すごいすごい。そう、檜垣先生の解釈では、上の「それをしないと」つまり映画を撮影して上映しないとできないことはなにか、っていうのの答は、オバリーさんの個人的な事情にすべて還元されてしまうのです。オバリーはイルカと太地町が好きだから映画をとったのだ、と。それはそれでいいけど、それだけなんかいな。

まあ制作者の個人史にいろんなものを還元する、っていうのは、解釈の方法としてまったくだめってのではないけど、倫理的な主張の解釈としてよいものではないし(アドホミネム)、映画の鑑賞法としてもさほど優れたものではないと思う。

まあ好意的に読めば、オバリーさんたち「エコテロリスト」たちが、イルカの味方をしているつもりで不法なことや現地の人々が嫌がることをするのは正当化できないのではないか、っていうことだと思うけど、ソロー先生だってガンジー先生だってキング牧師だって、社会の多数派が嫌がることをしているわけです。オバリーさんたちやシーシェパードなどの行動が正当かできるかどうかは微妙で、そんなに簡単に正当化はできないけど、彼らが太地町の人々の痛みをわかってない、と主張するのはそんな簡単ではない。

と。ここまで読んできて、最後の方で私の苦手なポストモダンのデリダ先生が出てきて、予想はしていたのですが驚きました。「やはり出たか!」みたいな感じ。

人間に人間は殺せない。それは顔があるからだ。それはわれわれのロゴス的説明すべてに先だつ。こうした主張をなすレヴィナスに対し、それを正義論の観点から認めながらも、では動物はどうなのかとデリダは問うのである。 (p.151)

ふんふん。んでどうなるんですか。

ちょっとレヴィナス先生にもコメントしておくと、顔(哲学用語)があるから人間に人間は殺せない、っていうのはこれは事実ではないですよね。いったいどういうたぐいの主張なのだろう。人間は人間を殺せないはずだ、もよくわからないし。もちろん私は殺せないけど、殺せるひとはたくさんいるし歴史的には殺す方がふつう? こういうの説明してほしいんですよね。

一見すると揚げ足とりにみえるかもしれない。人間の殺戮と正義の議論をただちに動物に適応[ママ]してもよいのかといわれるかもしれない。だが最晩年のデリダは、かなり素朴に、ある意味では力強く、これらの論点を強調する。 (p.151)

「適応」→「適用」かな。私には「では動物はどうなのか」は揚げ足とりには見えない。まじめに問うべき問いだと思います。

で問題は、「論点を強調する」のはわかりましたが、デリダ先生はさっきの問い「動物はどうなのだ」にどう答えてるんですか? これ説明してもらわないとデリダがなにをしているのかわからないです。デリダ先生のむずかしい文章をわれわれ下々のものが読むのは困難なので、もったいぶらずに教えてください。
(1) 動物にも顔があるから殺してはいけない。
(2) 顔のある動物は殺してもいいのだからレヴィナスの言い分はおかしい。
(3) 動物に顔があるかどうかわからない場合、人間に顔があるかどうかどうやってわかるのか。
とかいろんな議論がありえると思うんだけど、デリダ先生は論点を「強調」してどう話をすすめてるのですか。

もちろんこれらの問いは単純に答えられるものではない。……[デリダの答なし]。

もしかしたらこれがデリダ先生の答?

デリダは「痛み」という主題にも触れている。……デリダが考える痛みは、シンガーとよく似てる……だがデリダとシンガーとではおおきな違いがあるように感じられる。 (p.153)

だからデリダ先生はなんていってるのか教えてくださいよ。もったいぶらないで。

デリダの議論はむしろ、人間と動物とが、そして痛みをもつ動物ももたない生き物も、すべて連続しているのではなういかという混交を目指しているとおもえる。それによって、人間とそれ以外だとか、食べてよいもの/よくないものという区分自体を懐疑に晒そうとしているとみえるのである。 (p.153)

「混交」っていうのはふつうは区別すべきものをいっしょにすること、ぐらいですか。 https://www.weblio.jp/content/%E6%B7%B7%E4%BA%A4

これでおわりっすか。ハゲとフサのあいだにはっきり線がひけないからみんなフサだとかハゲだとかそういう話っすか? それとも、人間も結核菌も同じように殺してよいってこと? 人間と動物が、そしてその他の動物が遺伝的に連続していて、さまざまな能力や感受性、生活様式、生殖などにしても連続しているというのはこれはもう現代人の基本知識ですわよね。デリダ先生はそれを言ってるだけなの?

そして、生物種がこの意味で連続しているからといって区別ができないとか不必要だってことにはならんです。さまざまな点で性質や能力が連続しているとしても、もし人間やイルカやチンパンジーが、他の動物とは違ったレベルで自分の将来を考えたり、苦痛を感じたり、死を恐れたりするなら、他の動物とはちがう配慮が必要だということになるかもしれない。

『ザ・コーヴ』の滅茶滅茶な論理設定を支えるものは、実は最初にオバリーが語った一点だけである。それはオバリーが、自分の友人(「伴侶種」)にほかならないイルカを自死させたことへの自己懺悔である。この映画はある意味で一貫してオバリーの自責の映画なののではないか。 (p.154)

『ザ・コーヴ』がそれほど滅茶苦茶なのかどうかは、ここまでの檜垣先生の記述でよくわからない。それほど滅茶苦茶ではないのではないか。もうすこし好意的に解釈してあげてもいいかもしれない。

そうしてひきおこされるさまざまなことは、確かに他人迷惑である。だが一面では、それこそがオバリーの強味となる。なぜならば、彼にとって結果はどうでもいいからである。 (p.155)

いやあ、そういうのって本当にそう思って書いてるのなら人間ってのを馬鹿にしていると思う。先生の解釈はものすごく勝手ですよ。勝手に製作者の個人史から勝手に製作意図を推測し、「彼にとって結果はどうでもいい」までもってきちゃう。これって本当に哲学なんですか。

オバリーとその仲間が、熊野の海で撮った最大のものは、残忍な漁に抗する政治的指向を含んだ映像というよりも、オバリー自身の悲しみとかさなる「声」なのではないか。……どの特定の生物が声をもつか、という議論をするべきではない。声は生けるすべてのものの声である。特定の生物が、痛みの声をもつかという議論にはいるべきではない。いかなる生物ももつ声がある。 (p.156)

なぜ特定の生物が痛みの声をもつかという問題を考えてはならんのだろうか。みんないっしょだからなにを殺してもいいです、あるいはどれも殺してはならんです、ですか。


読んだ章の前の章は『ブタがいた教室』の論評なんですが、あれはひどい話で、豚を飼うことにした教師が最後は生徒にどうするか決めろ、みたいにして丸投げしちゃうんですよね。これについて檜垣先生はこう言う。

正しく無責任であること、これが食と殺すことを目の前にした人間が、社会のなかで平穏に暮らそうと思ったときになせる唯一のことではないだろうか。(p.120、原文強調)

書店のアオリなんかはこういう感じ。

動物や植物を殺して食べる後ろ暗さと、美味しい料理を食べる喜び。この矛盾を昇華する

まあたしかに植物はともかく動物を食うのはいろいろ後ろ暗いところがあるし、社会のなかで平穏に暮したいし、うまい肉も食いたい。でもその唯一の選択肢が無責任とか、なんでもいっしょだからなんでもいっしょ、ってのではないと思う。まあここはむずかしいですね。

ツイッタで檜垣先生御本人から、「平穏にくらそう」というより「平穏に暮すより致し方がないのではないか」の意であるという趣旨のコメントをもらったんだけど、そら気持ちはわかるんですわ。われわれはやっぱり自分がかわいい、自分の子供はもっとかわいいかもしれない、だからどうしても利己的になるし、危険よりは安全を、苦痛よりは快を、悩みよりは楽しみを求めちゃう。でも同じ論法が、たとえば奴隷制とか民族浄化にもつかえるだろうか。

身近に多くの人が奴隷にされたり、民族浄化ってんで虐殺されたりしているときに、我々は実際には恐怖でなにもできないかもしれない。でもそれしか致し方ない、っていう考えかたはないと思う。危険を冒してそうした悪と闘ったり、そうできなくとも一部こっそり逃したり、屋根裏にかくまったり、まあみんなに要求できることではないかもしれないけど、そういうことをする人々はいるし、そうする彼ら彼女らは英雄だ。少なくとも「平穏に暮したいからなにもしません」っていうのは、我々がとってしまう選択肢ではあるけれどもそれほど正しい選択肢ではないかもしれない、ぐらいは考えておきたいところです。


まあそういうわけで、私は『食べることの哲学』のこの節は、哲学としても評論としても非常によくないと思います。少なくとももっと他の人々の言い分をちゃんと読ん紹介してあげてほしい。

と書いたので、私自身も檜垣先生がなにをやろうとしたのかを最大限好意的に読むとすれば、以下のようになるんだとおもいます。

全体は宮沢賢治その他の文学者や『ザ・コーヴ』や『ブタがいた教室』といった「食う」ことに関する倫理的問題を扱った作品をとりあげて、それと大きなネタ本のレヴィストロースあたりの文化人類学と、それ以降のいろな現代思想を紹介しつつ哲学しよう、だと思うです。そしてそうした「食う」ということにまつわるいろんな問題や、我々の負い目の意識、そして負い目を感じながらも、七条大宮「ゆう」のミソラーメンをうまいうまいと食ってしまう我々のありかたを追求してみたい。直前でも書いたように、そうした目標はよくわかるし、価値があるとおもう。ぜひやってください。

でもそうするときに、他にいろいろ思考しそれぞれ哲学している人々に対する敬意みたいなのを示すつのも大事だとおもうんです。他の人々のまじめな思索や活動を、ほとんどなにも調べないで論理破綻だの矛盾だのとディスりつつ話のツマにする、みたいなのはやっぱりまずいと思います。少なくとも私にはそう見えました。

そして『ザ・コーヴ』のようなものを批判したくなる我々についてよく考えたらいいと思います。彼らはほんとうにそんな「滅茶苦茶」なことを言ってるのだろうか? 私は哲学ってそういうお互いの敬意とか反省とかがあるもんだと思うんですよ。もちろん我々の能力には限界があるからそんなたいしたことはできないわけですが、そういう敬意だけはもちたい。


『美味しんぼ』について昔書いたのはこれ。書きなおしておくべきだったかもしれない。倫理学や応用倫理学の授業でもよく使ってるんだけど。書きなおすとなると面倒なのよね。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

あら、美味しんぼの出典がちがった

ルソー先生、あなたの弟子たちが性犯罪に手を染めています(『恋愛工学の教科書』)

以前、ルソーの『エミール』に見られる性暴力の危険性について書いたのですが、あれから250年近くたってもルソー先生と同じ連中はいるわけです。

さて、ここまで密室に移動してからセックスまでのプロセスを見てきましたが、どのプロセスでも女の子は抵抗を見せるはずです。……S[セックス?]フェーズでの抵抗はさらに激しいものとなります。

なぜこのような抵抗(関門といってもいいかもしれません)があるのかと言うと、女の子はセックスすると妊娠する可能性があるので、優秀な遺伝子を選別する必要があるわけです。関門を設けてそれをくぐり抜けることができるGood Genesかどうかを本能的にテストしているわけです。

しかし、その抵抗がテストのための形式的なものか、本当に嫌がっているかは、よく見極める必要があります。行き過ぎると、レイプで訴えられるリスクもあります。

ここでの見極め方としては、力の入り方が挙げられます。女の子はか弱そうに見えて、全力で力を入れると結構強いのです。クリタッチのあたりで、女の子の又に手を入れる際に抵抗して手を掴んでくると思いますが、このときの力の入れ具体をよく見ていた方がいいでしょう。男の力か、というくらい強い力で抵抗されることがあありますが、これはおそらく本当に嫌がっています。

逆に、「いや、全然力入っていないやん」と思ったり、数秒抵抗しただけですぐにやめてしまう場合は、形だけの抵抗だったと言えるでしょう。

このように、抵抗は女の子の性質上、絶対に存在します。その抵抗を額面通りに信じて、やめてしまうのは非モテのマインドです。本当の抵抗なのかどうかという点を常に検証した方がいいでしょう。(pp.222-223、下線は原文ゴシック)

私はこういうのが実際にどうなっているのか全然知りませんが、この筆者は、(1) 女子が本気で嫌がっていることがありえることもありえるのを自覚しながらも、(2) その抵抗が弱い場合には本当の抵抗ではないので、形だけの抵抗であると疑って、とりあえずチューと「クリタッチ」ぐらいしてみるべきだ、と主張しているわけですね。そして強い抵抗でないのは抵抗でないのでもっとした方よい。「未必の故意」みたいなもんですわね。

これは生活道路を自動車でぶっとばしてるようなものですね。もしかすると人を轢いちゃう可能性もあるけど、とりあえずぶっとばしたいからぶっとばす。べつにぶっとばす必要なんかなにもないのに。安全第一なら、問うべきは当然「抵抗してないように見えるけど実は嫌がってるのではないか」でしょう。

まあ女子のみなさまにおかれましては、こういう思考をする人々はけっこういて、ネットで情報交換したりしている、ってことを知っておいた方がいいと思います。

さっきのルソー先生の話もぜひ読んでおいてください。

ちなみに、草食系男子へのアドバイスでもとにかくおずおず同意をとったりしないでやってしまえ、ということが言われることがあるので、論文にしてみましたのでよかったら読んでください。まああんまりまじめに女子とセックスの同意を確認する、というのは非モテ思考である、というのはかなり一般的なようです。

ポモドーロテクニックは5分でいい

教員にとって採点や添削はひじょうに負担でつらいものです。私もものすごく苦手。でもやらないわけにもいかないしねえ。

どんどん先送りしてしまって精神衛生にものすごく悪いのでなんとかしなきゃならんのですが、まあ基本は「小分けにする」しかないですね。

一度にレポートの束の山を見るともう手がつけられません。受講生200人のレポート採点とかだと、まず学年・学科・出席番号とかで10人ぐらいの束に小分けして、それを少しずつやる、ってのしかない。

ポモドーロテクニックってのがあって、よくわからんけどキッチンタイマーみたいなのを使って時間はかって作業しましょう、みたいな。リンクから適当なページみてください。これ、だいたいの手引きでは20分とか25分とかを区切りにするといいってアドバイスしているページが多いんですが、私はそれではぜんぜんできない。だいたいの「ライフハック」は正常な人々のためのものなので、外れ値を生きる我々はさらに自分で工夫しないとならんわけです。

今回は思い切って5分にしてみたんですが、これだと捗るとまではいえないけどなんとか進むかなあ、ぐらい。集中力がないんですわね。でもとりあえず5分ずつすすむしかない。もしかした3分でもいいかもしれない。

Togglっていうアプリ(ウェブアプリ)だと回数も数えて記録してくれるから達成感すこしある。それにしても5分というのは情けない。でも情けなくても人生は進めなければならないのです。

ブックガイド:幸福の心理学/ポジティブ心理学まわり

授業用。学生様向け。

とにかくこれからでいいだろう。

堅実だけどちょっと硬い印象。

まずここらへんでいいのではないか。

とりあえずこの本が一番おすすめなんだけど、翻訳に問題がある。

ちょっと古いのだがおもしろい。訳もしっかりしている。

まずまず。

上と同じ筆者。

学部生にはちょっと歯応えがあるかもしれないが重要書。

翻訳に問題がある。

これも翻訳に問題があるが、上よりはまし。

これは訳に問題はないのだが、記述があっさりしすぎている。

ちょっと散慢。上の本の方がよい。

とてもしっかりしている。

上の2冊はおなじようなもの。とてもおもしろい。

最近読んだこれよかったです。

あとはここらへん見てください。

世界は変えることができる

んで、まあ問題を発見しただけではやはりだめだし、学生様には世界は変えられると信じて欲しい。そのためには私自身が信じないとだめだ。かげで文句いったり、個人を攻撃するだけは世界はよくならん。問題を発見するだけでなく、どうすれば解決するか考えて、ある程度は手も動かさないとならん。知恵をしぼって改善するのだ。そういう態度を教えられないようでは、大学でえらそうなこと言ってらない。ってなわけで面倒でも改善案を書きました。通るといいなあ。

字が汚なくてはずかしい。べつのところで「世界を変える」ってタイトルでこの粗末な紙がその手段か、っていうコメントがありましたが、まあそういうものです。はははは。歌でも歌った方が有効だったろうか。

歌詞の和訳はこっち



(後記)

  • さっそくカウンター前に誘導ベルトが設置されてました。えらい。うれしいなあ。(7/14)
  • これはうまく意図が通じてなかったぽい……一言相談してもらえればよかったのだが……まあ私が悪うございました。もう一回提案するか……でも少しは見やすくなたような気もするからこれでいいのか……(7/23)

悪いデザインは人を苦しめます

「Togetterで炎上しそうになってしまった……」のつづき)

んで、どういう問題があったか、ブログでは書いておきますかね。

ここにプロ(Yashiro Photo Officeさん)の写真があるので、それを参考にしてください。 http://846-photo.com/archives/portfolio/kyoto-wu-ac-library/ ここでの写真もこのページから使わせていただきます。

この図書館、こういう感じですごくおしゃれでかっこいいんですわ。私は建物としては気にいってる。5階分の吹き抜けになっていて、音や空調や床面積や動線の関係でそれがどうかって話はあるんだけど、今回はそれにはあんまり触れない。

本は壁面書架と、階によってはフロアのまんなかにある書架、そして閉架(自動化書庫)に収められている。

図書館の本を利用する場合、いまはやはりOPACで検索して十進分類にしたがって本をとりにいくって形になりますよね。この図書館は、そのもっとも重要な十進分類が明示されていないのです。

フロアの書架にはこういう形で連番が降られているんだけど、この32・33・34という番号は十進分類とはなにも関係がない。

これはけっこうなストレスになるのです。だって「372.2 A34はえーと」って行くと「34」って目に入るわけだから。まあ運営が管理するためには、棚に番号を振ることは必要なわけだろうけど、それは利用者には関係がない。利用者が知りたいのはその棚に何番台が入っているかで、上の「34」の棚だったら、片面に「372〜375」、もう片面に「375〜375.76」が入っているということを知れば十分。そして十進分類の中身の説明が必要かどうかは微妙。それこそ大学図書館なので、「374.94には学校給食関係がある」みたいなのはいらんかもしれん 。そもそもこの部分的で断片的な枝番説明の選択は、なにが基準なんだろうか?(もしかしたらデザイナーが十進分類をよく知らない可能性まである?)

壁面はもっとひどくて、これはもうほとんど手掛かりがない。上は「K」とか「S」というサインがはいってるけど、このSも上の「34」と同じただの連番で、四方の壁にA〜Zまで入ってるけど、そのA〜Zと十進分類がどういう関係になっているかを知る手掛かりはない。

上の2枚目の方の写真(シャレオツ!)だと中央に「100 哲学」という木製の箱みたいなのが置かれてるけど、手掛かりはこの10番ごとだか50番ごとだかの見えにくい箱みたいなものしかないわけですわ。実際には100番ごとだろうが50番ごとだろうが見えないから関係ない、っていうかこんなもの意識してませんし、何番ごとに置かれてるか1年通ってるけど知りません。これ、どういうことかわかりますか?つまり実際には、とにかくいちいち本の番号をてがかりにして、そこからずーっと棚を見ながら歩いていくわけです。

私はかなりよく図書館を利用するのですが、さすがに十進分類がどこにあるか頭にはいってるわけがない。1階と2階を一周ずつする、さらにフロアのまんなかの棚を見て、例の数字に幻惑される、みたいなの毎日おこってますがね。

書架は8段あるので、最上段は2メートルを越えているので、私の目では何番がはいっているかとかもちろんわかりません。(まあこれくらい高いと本をとろうとして脚立や台座に載るのも危険ですが、それはおいといて)

フロアごとに何番台が置かれているかのサインもない。こんなものがプロの仕事か。

そりゃこれを発注したのは大学で、それは委員会やらコンペやらやってるわけなので最終的には大学が悪く、それを支持している我々一般教職員にもおそらく責任がある。でもデザイナーとか建築家っていうのはプロなんだから、なにをどうすればどうなるかちゃんと考えて提案するもんじゃないのでしょうか。そういう話でした。

大学の優秀な学生様たちは、この使いづらさに気づいているので、こういうものを自作して(あんまり目立たないところにだけど)貼らせてもらってるみたい。(先週やっと見つけました)

私これ見つけたとき、正直ちょっと泣けてきましたよ。「私ら教員がしっかりしてないために君たちにこんなことさせちゃってごめんね」みたいな。

世界は変えることができる」へ続く。

日常雑記:Togetterで炎上しそうになってしまった……

去年9月に大学の新図書館が開館してわーいっていって使いはじめたのですが、なんか使いづらくて困ってたのです。建物自体はおしゃれなんだけど、本の配置なんかが機能的じゃない。「あれをこうしてください」とかいろいろ口頭でお願いしてたんですが、なかなか改善しない。

ずーっといらいらしたまま1年近く過ぎて、「なんでうまくいかないんだろう?どうしたらいのかな?」とか思ってたときに、サインをデザインしたデザイナーさんがその図書館のサインのデザインについてツイートしてたので、つい反応してしまいました。

どうもそのデザイナーさんは、大学だし、OPACなどで検索するのだからサインはそれほどわかりやすくする必要はない、知的な印象を重視したい、のような発想でサインを設計したらしいんですね。ずっと悩んでいらいらが溜っていたので、ついキツい言葉で反応してしまいました。ついでにトギャッタとかでセルフまとめ作ってみたりして。作ったあとに仮眠してたらいきなり3万ビュー、コメント100件とかになっててこれはまずい。ネットリンチを誘発してしまった。反省。

トギャッターの「注目まとめ」とかはてなブックマークの「ホットエントリ」とかに入ってしまうと、あっというまに人が集まってえらいことになってしまうわけですね。問題提起はしたいんだけど、ネットリンチみたいな形になるのは本意ではないので一時閉鎖。

おそろしい時代になりました。ある程度問題提起はしたくても、話題が大きくなりすぎると集団による個人攻撃になってしまう。注目をコントロールするっていうことも考えないとならんわけよねね。

↑この本は非常におもしろいので読んでください。

→ 「悪いデザインは人を苦しめます」に続く。

和訳はこっち。

『トゥーランドット』のラストはあれで正しいか?

プッチーニの『トゥーランドット』っていう作曲者本人によっては未完の名作(半名作)オペラがあるんですが、あれって見るたびになんか変な気分になるんですわ。あらすじはwikipediaで十分ですよね。こんなかんじ

第二幕まではいいんです。第三幕で召使のリューちゃんが秘密を守るために自殺しちゃって、そのあとカラフ王子がそれをなにも気にせず、トーランドット姫ちゃんにチューするとなんか姫ちゃんのスイッチがオンになって「その名前は「愛」です!」なんてことになってご結婚、「皇帝ばんざーい」ハッピーエンド。

馬鹿ではないか。リューちゃんなんで死ななきゃならんのですか。姫もチューされたぐらいでなにのぼせあがってるんですか。カラフ、お前も献身的なリューちゃんのことなにも考えてないなゴラ。なんでわがままな姫のために人ばんばん殺されにゃならんのだ。おまえらぜんぶ死ね死ね。

ってやっぱりふつうの観客なら思うと思うんですよ。この筋はどう考えてもおかしい。

これ以前に京都コンサートホールで半上演スタイル(劇はステージの半分だけで、オケもステージに載るコンパクトな形)で見る機会があって、そのとき、私やっと理解したんです。これは本当の筋ではないな、と。

私が思うに、最後は本当はこうなるのです。

リューが自殺→ カラフ後悔する → カラフ死ぬつもりで自分の名前を白状する → でもなんかそれ見た姫が興味をもって近づいてきて、チューしてみろって言う。→ チューすると姫はなぜか夢中になる → 姫は皇帝にカラフの名ではなく「愛です!」っていう → ウォーってもりあがる→ 皇帝「でも名前は知られたんじゃろ? 約束は守れや!」 → カラフの首が飛ぶ → 皇帝「姫、お前も謎々を解かれたら結婚するっていってたのに結婚しなかったから死刑」→ 姫の首飛ぶ → 民衆大喜び、皇帝の誠実の徳を称える → 皇帝も自分の馬鹿さを自覚して死ぬ → 馬鹿の帝国崩壊。

『サロメ』の最後みたいに、皇帝に「あの馬鹿どもを殺せ!」って命令してもらっていきなり終ってもよい。

これなら勧善懲悪で気持ちいいし、むくわれぬ愛、人間のおろかさ、約束の大事さなどを訴えて、まあ悲劇てかドラマらしい。

まあこれかこれに準ずる形だとすっきりするのですが、まあイタリア人としてこうなるのが当然だとわかっていてもいやなので、形だけわーわーハッピーエンドってことにして、「でもあれ死刑だよね」ってあとで言いあって満足する、ぐらい。とにかく全部死刑に決まってるではないですか。

でもピンポンパンだけはまじめだから許す。田舎帰ってゆっくり文人生活楽しんでください……いやだめだな。悪事に加担したからやっぱり死刑。

ぜんぶ死刑にしてもらうにはこの紫禁城のやつの首切り役人が好きなんだけど(下の動画だと10:00 過ぎに登場)、youtubeに日本語字幕のもあるのも探してみてください。よい時代になりました。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。

たとえば、最近出た藤高和輝先生の『ジュディス・バトラー:生と哲学を賭けた闘い』という本があります。藤高先生は若い人なんでしょうね。

そのなかにこんな一節がある。

「私は約束します」という発話がうまくいくかどうかは文脈によって条件づけられる。仮に、約束した当人が電車の遅延などによって集合場所に遅れた場合はその「約束」は「失敗した」ことになるが、しかしその約束を「偽」とはいえないだろう。当人にはその約束を守る意志があったかもしれないからである。つまり、「約束」という発話は「真偽」で計れば矛盾してしまう。先の例でいえば、それが約束された時点では「真」であるが、それが実現されることに失敗した瞬間から遡れば「偽」である、ということになってしまう。むしろ、この場合の「私は約束します」という発話行為は単に「失敗した」発話であるというべきなのである。 (p. 191)

これ、J. L. オースティン先生の『言語と行為』(How to do things with words)っていう重要書の一節を紹介している(らしい)のですが、ぜんぜんまちがってると思う。

今日18時に、「私は明日9時に君に京都駅で会うと約束します」と、私が誰かを前にして言えば、私はその人と明日9時に京都駅であう約束をしたことになります。今日ワールドカップを見て寝坊してしまい、明日の朝京都駅に行けないことがあれば、私は約束を破ったことになる。でもだからといって、今日18時に約束したことがオースティンの意味で不適切だったということはならない。単に「約束を守る」ことに失敗しただけであり、「約束する」ことに失敗したわけではない。「約束する」 という行為が成功しているからこそ、「約束をやぶった」ら非難されるんでしょ。どういうわけか、この箇所を藤高先生は確認していないらしい。そうした基本的な区別さえできずに、いったいどんな学問ができるというのか。

まあこっからうしろもパフォーマティヴィティとかなんだかむずかしい概念について難しいことを書いているのですが、私にはなにがなにやらさっぱりわからない。そしてそれが我々の生活とどう関係するのかもわからない。上のような誰でもふつうに考えればおかしいとわかることを書いて平気でいるのは異常だと思う。ジュディス・バトラー様やデリダ先生の権威に圧倒され、おびえているのではないでしょうか。オースティン先生を2〜4週間ぐらいかけてじっくり読むだけでいいのに。

藤高先生はおそらくLGBTとかに関心があるまじめな研究者だと思うのですが(それはよくわかる)、ポストモダンとやらに手を出してしまったせいで、誰にもわからない混沌とした議論でうめつくされた本を書いてしまっている。

同じようなことは、森山至貴先生の『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』についても同じです。この本は前半はまじめなLGBTとその解放についての歴史記述があるのに、途中からバトラー様の意味不明な議論を紹介しはじめ、最終的にわけわからないものになっている。詳しくはoptical frog先生のブログを読んでください。ここらへんから連載になっています

ポストモダンにある曖昧模糊とした不明確な概念、論理的でない思考、単なる言葉遊び、情報源をしっかりしらべようとしない態度、有名人を権威だと思いこみ、それをなんとかして解釈しなければならないと思いこむ権威主義、そういうのは学問の世界と我々の生活に大きな害悪をもたらしていると思っています。


と、授業の空き時間にカーっとなっって書いた、みたいな感じなのですが、よく考えたら別にポストモダン悪くないです。悪いのは出典をちゃんとつけなかったり、ちゃんと確認しなかったり、曖昧な言葉をつかったり、単なる言葉遊びですませたりするそういうポストモダンな人々がやる傾向だけで、思想そのものには別に文句はない。文句は、方法にあるのです。ちゃんと読んで出典ちゃんとすればいいだけの話。がんばってください。