Spotify楽しいですね

2、3ヶ月前から音楽配信サービスをAppleからSpotifyに乗りかえたんですが、Spotify楽しいですね。いまごろって話になっちゃいますが。すばらしい精度で知らない曲を紹介してくれる。Spotifyの公式のも、知らない他人のプレイリストもおもしろい。

自分でも作ってみたりして。

↑を読むために、参照されてる曲のプレイリスト作ってみました。

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↑で冨田ラボ先生が100曲紹介してたからそれも作ってみてる(まだ途中)

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私のオールタイムベストみたいなのは↓

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昔書いたブログはyoutube音源使ってるけど、かなり消えちゃってわけわかんからSpotifyに入れ替えたいな。

こういうプレイリスト作ったり、つまらないブログ書いたりするのは、なんかボトルにお手紙つめて海に流す、みたいな感じがあって好きですね。おそらく誰の目にも留まらないけどひょっとしたら誰かが拾って読むかもしれない。Spotifyやネットの海に溶けこんでいく感じがある。ボイジャー号にレコード積んで宇宙に流したりするのもそういうロマンよね。あ、パイオニア号につんだ金属板が先だよね。

盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』

そういや、ちょっと前に敬愛する盛永審一郎先生の『人受精胚と人間の尊厳』の評をわりあてられて、いろいろ文句つけたくなり、やっぱりパーソン論ちゃんとやらないとなあ、みたいなことを考えたりしたのでした。今年はそれの年になりそう。私途中で投げ出しちゃってだめよね。

先生は強硬なヒト胚保護派なので、そういう問題に興味ある人はぜひ読んでみてください。ただし専門家向け。

↓はそのときのやっつけのレジュメ。もっとまじめにやります。このブログで連載することになるかも。

先生とはそのあともネットで楽しく交換日記みたいなのさせてもらっていて(Dropbox Papersは楽しい)、某学会あたりで再戦することになりそう。

(PDF) 盛永審一郎『人受精胚と人間の尊厳』へのコメント

椎名林檎先生の「NIPPON」は軍国歌か

なんか若いバンドが軍国歌を作ったとかで話題になってて、聞いてはみたものの別に思うところもなく。ひねってくれないとおもしろくないですよね。事情は知らなかったんだけど、「あれ、これサッカーのワールドカップ用かな?」とか気づいて(実はそれのB面らしい 1)「B面などない」とか言わないでください。年寄りにはやさしくしよう。 )、前にも林檎先生がそういうの作って話題になってたのを思いだして聞きなおしてみました。CDはもってたけどちゃんと聞いてなかった。これは名曲ですね。林檎先生らしくひねりまくり。

万歳(Hurray)!万歳(Hurray)!日本晴れ 列島草いきれ 天晴
乾杯(Cheers)!乾杯(Cheers)!いざ出陣 我ら 時代の風雲児

PVでは最初に昔のNHK風の青空を背景にしたはためく日本国旗が出てきて、まあ誰でもナショナリズム・国粋主義とか連想するんだと思うけど、ほんとにそんな歌だろうか。なんでわざわざ時報鳴らすんですかね。国旗なんてNHKのピッピッピッポーンだ。ポポポポーン!

「フレーフレー日本」なのかと思うとそうではなく実は日本晴れを応援している。「フレーフレー、ニッポン、ガンバレ」が「日本(がん)ばれ」になってるわけよね。いきなり腰を砕いてるというか。脱構築だ。デコンストラクションというのはこういうふうにするものですか。

そして天晴。「あっぱれ」は漢字で書けばこうなり、「あっぱれ」なのは日本とかっていう最近しょぼそうな国家ではなくその上に広がる空。澄みわたる青空。あの空の青さがこの曲を通じてイメージされている。私青空本当に好きなんよねえ。

「列島草いきれ」も問題で、まあサッカー場の芝生の匂いを連想させるのがふつうだけど、「草いきれ」は音程・譜割の関係で「臭い切れ」にしか聞こえないんよね。「列島(は)臭い(布)切れ」なのかもしれない。もしかしたら国旗ディスってる?やばい。んじゃ「列島」も「劣等」なんかいな。「劣等、臭い、(関係を)切れ」かもねえ。ここ思いついて曲ができた感じなんじゃないかな。

「出陣」とかも平和主義・左寄りの人はまあいやな感じなんだろうけど、まあスポーツと戦の関係は世界中普遍的に意識されてるでしょうな。

さいはて目指して持ってきたものは唯(たった)一つ
この地球上で いちばん
混じり気の無い気高い青
何よりも熱く静かな炎さ

いかにも疾走系。「この地球上で」がものすごく印象的で、一番最初でNHK画面見せられて「列島」ってでてくるから、頭のなかはいきなり天気図的な俯瞰、「日本列島晴天です、お日様マーク!」になってるじゃないですか。「地球上」って言われるからさらに視点が上にあがってあの青い地球が見えてしまう。

あの日本代表のユニフォームは「サムライブルー」とか呼ばれて、まあそれを指してるんだけど、実はあの青は、青は青でも紺に近い青よね。群青か。最初に空の青を見てるから、それと比べると私には「混じり気のない青」にも「気高い青」にも思えない。地球の海の青さは私は肉眼では見てないけど、衛星写真で見るあの青もすばらしいわねえ。あれは気高いといってもいいかもしれない。

鬨(とき)の声が聴こえている
気忙(きぜわ)しく祝福している
今日までのハレとケの往来に
蓄えた財産をさあ使うとき

ここのところのメロディーのシェイプ(形)は自然ですが、注目してほしいところですね。上って下ってくる、をくりかえしてる。

これ歌詞カードでは「今日までのハレとケの往来に」になってるけど、「祝福してる今日まで」で切れて「ハレ〜」に聞こえる。こういう歌詞カードと聞いたのが食い違うのは林檎先生多かった気がする。私は聞いた方を優先しますね。

ここはよくわからんけど、この「ハレとケの往来」がなんとも双極性障害、いわゆる躁うつ病を感じさせますね。わりと毎日ウツに苦しんでる人がぱーっと活動的になることがあって、これは、アリストテレスとかガレノスとか、そういう古代ギリシア・ローマの昔から観察されてました。黒胆汁という体液が多い人はそういうずーっと苦しんでいていきなりパーッとでかいことをすることがあるらしい。

「ハレとケの往来のあいだに蓄えてきた」のか「ハレとケの往来のときに(財産を)使う」のかはちょっとあいまいだけど、私は後者をとりたい。(ちょっと苦しいけど)「ウツなケの生活送ってきて、せっかくハレの日が来たんだからパーッとお金使っちゃいましょう、ほかにもはちゃめちゃしちゃいましょう」な感じではないんかね。躁転したから金や資源使いまくります。

私が林檎先生を再評価したのは「長くて短い祭」を紅白で見てからなんですが、あの歌もそうした人生の祭礼的時期・季節を歌ってますね。林檎先生は黒胆汁質の人なのだと思う。

ちなみに、アリストテレス先生なんかに言わすと黒胆汁は天才の印、というか哲学、詩作、芸術、政治を極めた人はみんな黒胆汁質だったとか(『問題集』第30巻)。まあニルヴァーナのカートコベイン先生はたくさん躁鬱の曲作ってるし(たとえばこれ)、ジミヘンもManic Depression(躁うつ病)って曲つくったりしてるし、シューマンもそうだし、特に音楽家とは切っても切れない傾向・病気ですな。

このタイプの人は、いつもはうじうじしてるのに時々暴れたりカジュアルセックスした散財したり、他の人には迷惑なのです。おとなしくしてろ。

爽快な気分誰も奪えないよ
広大な宇宙繋がって行くんだ
勝敗は多分そこで待っている
そう 生命(いのち)が裸になる場所で

前のブロックが上がって下ってを繰りかえしてて、ついにもっと大きな上昇してる感じ。ここのところで譜割がかわって、聴覚上はテンポが半分になるように聞こえると思う。よくある手法だけど(たとえば相対性理論の「気になるあの子」)非常に効果的ですね。まあドラマーその他疾走ばっかりしてらんないし、聞いてる方も飽きちゃうのでこういうふうに作るものです。

この曲の場合、Aメロが疾走系でわーっとやってきてここで離陸して飛行機やグライダーに乗ってる感じになる。ジブリ的でもあるかもしれない。「特攻隊の歌」とか言われるのはこの浮遊感、飛行機に乗ってる感じもあるんだと思います。

歌詞としてはここで「宇宙」が出てきて、青空と列島を上から見てるところから、目線がさらに高いところに行ってますね。

とにかく多幸感がすごい。Aメロから「祝福」だの「蓄え」「財産」とかなんかもう軽躁状態っすよね。話に聞くところでは双極性障害の人が躁転したときというのはものすごく爽快らしいです。私も経験したい。

「いのちが裸になる」も印象的なフレーズで、なんか地球をバックにした裸の母子、みたいなの連想しますね。そういうのよくあるじゃないっすか。なんか生殖とか繁殖とか、そういう連想もはたらく。まあエッチなことを歌ってるのかもしれんし。ってなると「勝敗」はダーウィンとかそういうやつなんかなあ。まあセックスして繁殖したやつが勝ち、みたいなのかなあ。私はエッチなのと生殖みたいなのが直結するっていうのがなんか女性的な発想の印象があります。

ほんのつい先(さっき)考えて居たことがもう古くて
少しも抑えて居らんないの
身体(からだ)任せ 時を追い越せ
何よりも速く確かな今を蹴って

ここが最高ですね。私最初聞いたときシビれました。軽躁状態だともう思考がどんどん進んじゃって、たしかにさっき考えたことがもう古い!みたいな感じになるかもしれんですね。衝動的な行動はいかんですが、しかしいつも沈思黙考して苦渋の決断ばっかりもしてらんないし、決断の瞬間とかってのはもうそういう「重さ」から解放されてなければならん。「時を追い越せ」はまあそれほど斬新ではないかもしれない表現ですが、「なによりも速く確かな今を蹴れ!」みたいなのは最高。見る前に跳べ!実存主義だ。キェルケゴール先生も「瞬間は時と永遠の出会う場所だ!」みたいなことを言うんですが、実存主義者はそういうの好きなんですわ。全体に躁鬱病的。でもそういう一瞬の充実感を求めて新幹線で人殺したりしてはいかんです。

噫(ああ)また不意に接近している淡い死の匂いで
この瞬間がなお一層 鮮明に映えている
刻み込んでいる あの世へ持っていくさ
至上の人生 至上の絶景

「淡い死の匂い」はサッカー的には相手陣を攻めてるところでボール奪われてディフェンダーの裏を狙われて得点されてしまう、みたいなイメージではないかという意味のことをネットで教えてもらって、「なるほど」みたいな感じ。やはりサッカーファンは言うことがちがいますね。(→参考

まあ全体には死を意識すると生の価値がわかるよ、っていう実存主義のポジティブな方。さっき地球とか生殖とかものすごくポジティブに軽躁状態で、その裏側には死があるっていう。死を意識するときに生の価値と意味がわかる、みたいな。いやはや。くりかえしますがやらかしたり人殺したりしても生は本当の意味では充実しないし自分でも馬鹿らしいしなにより迷惑なのでやめてください。

まあこういうのが戦争とか連想させるのももっともなことですわね。実際、実存っぽい哲学者は戦争や争いが好きなんですわ。ヘーゲルもキェルケゴールもナポレオン大好きだし。ヘーゲル先生もどうも戦争は民族を活発にするとかっていう理由で好きだったみたいだし。

間奏のところはギターで音階弾いてるだけで、まあ破壊的な感じですわね。これもなんか戦争を連想させるんだろうと思う。私だったらここで「君が代」に似せたメロディーにしてみたい気がするんだけど、実際最初はそういうアイディアだったんちゃうやろか。

まあ「破壊と再生」みたいなイメージですかねえ。とにかく暴れて生命を充実させろ!椎名林檎=シヴァ神のイメージ。破壊と豊穣。ロックはこうじゃないと。

追い風が吹いている もっと煽って唯(たった)今は
この地球上で いちばん
混じり気のない我らの炎
何よりもただ青く燃え盛るのさ

「追い風」がやっぱりグライダーや飛行機とかを連想させますね(実際には追い風とかあるとやばいいのかもしれないけど)。「煽ってたった今は」のこの曲一瞬だけのコーラスもものすごく効いてる。「たった今」もこの一瞬を燃えつきましょう、な感じでほんとうにすばらしい。

(万歳!万歳!我らが祖国に風が吹いている)
Hurray! Hurray! The wind is up and blowing free on our native home.
(乾杯!乾杯!我らが祖国に日が射している)
Cheers! Cheers! The sun is up and shining bright on our native home.

この最後のところ、our native homeって歌ってるようには聞こえないんですけどね。なんて言ってるんだろう?「ニッポン」と聞こえるようにしてるんだと思うけど、まあ「祖国」じゃないわね。

全体には軽躁な多幸感に満ちてて、戦争イメージというよりは、サッカーと、グローバルな地球みたいなイメージと、そこで繁茂しようとしている人間のセックス生殖生命、みたいなのイメージが重ねあわされてて名曲です。非常に広大でありかつ瞬間に燃えるイメージがって、伝統とか国家っていうのはこの曲ではほとんど価値がない感じになってて、あんまりナショナリズムとか国家主義とか感じられなくて、なんかすごいです。最初っから腰くだいてるし、PVも最初以外はほとんど国旗とか出てこないし、出てきても白黒で断片的。日の丸のイメージの赤さえも2回のロゴしかないんで、なんか国粋主義的ではなく、もっとグローバルな個人主義、個人的な(躁病的)生の賛歌みたいなのを感じます。

あと冒頭のドラムのリズムは337拍子のようでそうではなく、実はモールス符号かなんかに対応しているかもしれないとか、もうちょっといろいろ考えてみたかったけど、なんかワールドカップ見るので忙しくてやめ。みんな楽しみましょう。ワールドカップ興味ないひとも晴の日は外に出ておだやかな軽躁が襲ってくるのを待ちましょう。でも危険や迷惑は避けてね。


『ニコマコス倫理学』みたいに有名じゃないけどアリストテレス先生には『問題集』っていう本がある。これおもしろいよ。

躁うつ病の人本人の分析がおもしろい。

黒胆汁とかそういうのついてはこれが読みやすくておもしろい。

(黒胆汁の言及は上巻の方ね。)

References[ + ]

1. 「B面などない」とか言わないでください。年寄りにはやさしくしよう。

授業袋

興味があって借金玉先生という方の『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』って本読んだのですが、「(工夫してなんとか)やっていきましょう」の精神はとてもよかったですね。やっていってほしい。わたしもますますやっていきたいです。

最初がいきなり仕事鞄の話からはじまって、まあたしかに鞄とか道具とかそういうのってストレスになるよなとか思ったり。

私も仕事道具を揃えたり、バッグをちゃんと整理したりするのがものすごく苦手で、授業前とかよくムキーってなってます。

去年ぐらいから少し楽になったのですが、それはこの一澤帆布のトートバッグというかそういうのを入手してから。バッグなんておしゃれなものは使ってられん。袋でいいんじゃ袋で。

パソコンからケーブルからB4の教材束とか楽勝で入るので、あんまり考えることがなくなりました。肩にもかけられるので、雨の日も傘させば濡らさずにすむ。

借金玉先生は鞄は自立しなければならんというのですが、私はそれは特に必要ない。とにかく考えずにつっこめて、一個で済む、というのがでかい。そしてヘビーデューティー。9000円弱だったかな。紙のショッピングバッグみたいなのはなんどか道で破けて大惨事が発生したので使えない。

口は閉まらないのですが、お店の人に頼むとパチって閉まるボタンか、ヒモで留めるハトメ穴を500円で空けてもらえるので紙やパソコンぶちまけたり雨の日に紙濡らしたりしないためにマスト。

いつも入ってる中身はこんな感じ。

Amazonのリーガルノートバッド、KP法で使うかもしれないマグネット、マジック、白いA4の紙、ペン、HDMIケーブル、Macbookとディスプレイコネクタ、iPhoneのディスプレイコネクタ(Macbookは充電のために入れわすれることがあるので、これいつも持ち歩いて助かったことが何度かある)、電波時計(最近腕時計じゃなくてリストバントしてて見にくいので)、コクヨの指し棒(大人数講義はこれに限る)。ケーブルをたばねる針金みたいなやつも入ってた。電波時計は電池はずれてたりするのでいまガムテで留めました。水がないと死にますし、話の間をとるのにマスト。出席に使ってる大福帳は時々入れわすれていまだに「わー」ってなることがある。

ゼミの書記係をしてもらってWordPressに載せる

ここと同じWordpressで学生用専用サイトを作って、そこでゼミの記録やゼミ生のブログを買いてもらうってのを試しています。

最近短期〜中期的な記憶がだめになってて、授業でなにしたか記録してないとだめなわけですが、それを学生様にやってもらおう、ぐらいの試み。

低学年は文章を書く練習をたくさんしたいわけですが、授業で読み上げて添削するのはとても時間がかかるので全員のは無理です。でもブログの形にしておけば他の学生様がどんなの書いてるのか楽しむこともできるし。学生様は他の学生様に読まれると思うといろいろおもしろいことを積極的に書いてくれます。

このサイトは1〜4回生ゼミ共通にしているので、1回生は上回生ではこんなことしているのだな、とかわかるし、上回生は下級生が見てると思うとすこしはがんばってくれる感じ。

個人名や個人情報が出てしまうのでさすがにネットにフルオープンにはできないので、学外からのアクセスにはプラグインを使って簡単なパスワードをかけています。

学生用のアカウントは手動で発行したのですが、授業内で説明してっさと自分で発行してもらってもいいことに気づきました。

本当は学外にも見える形でやってみたいところはあるけど、現状ではこんなものでしょうな。

あと、ゼミ内容の書記係は2〜3人に同時にやってもらうことで、お互いにいろんなメモの仕方があることもわかるし、モレも少なくなるし、セメスターで当たる回数も増えるのでよいことづくめ。

どうせいわゆる「就活」のグループディスカッションとかでは書記とかしなきゃならないときもあるわけですから、人に見てもらえるメモ・議事録を取る練習になるぞってなことをお説教しておくとやる気出してくれるかもしれません。

授業のお約束2018年度版

授業、特に講義のお約束です。2018年版。江口のお願いなので、他の先生の授業はその担当の先生に合わせてください。

  • 私語厳禁。
  • 出席確認と質問・感想等のために「大福帳」を使用するが、出席点はない。病気の時は休んで構わない。健康第一。ただし、文科省様・大学基準協会様などの要求に答えるため、3/4は出席するように。公欠の場合、やむをえない場合には大福帳にその旨書いておくとよい。
  • 授業中の質問、発言は高く評価する。授業によっては、1回の発言で1点、学期10点まで加点することがある。発言ののちに江口からハンコ等をもらうように。本当にどんな質問でもかまわない。たとえば江口の指示が聞き取れなかった場合、聞き落としてしまった場合も質問してよい。エアコンや照明の調整の要求でもよい。
  • なにごとも「他人を無視しない、透明人間にならない」が基本。トイレ等は周りに軽く合図して行ってよい。
  • やむをえず遅刻した場合はそれなりの態度で入ってくること。軽く会釈したりする程度でよい。さっさと席につくこと。友人といっしょにはいってきてどこに座るか相談したりしないこと。
  • 途中退室もそれなりの態度で出ていくこと。事前に連絡しておくとよし。授業に対する嫌悪感、抗議などで出ていくなどは許す。
  • 飲み物はOK。食べ物は可能ならば避けてください。
  • ノートパソコン・スマホ使用はOK。ただしスマホは目立たないかっこよい姿勢(教えました)で使ってください。
  • スライドの写メはパシャパシャうるさいから避けるように。音出ないなら可。そもそも授業後に授業ページにアップロードするので無駄。
  • 机に座ったらまずノートを開いてペンを出す習慣をつけよう。
  • 腕組み・足組みOK。指示待ちで「手はお膝の上」はかっこ悪い。ペンをもっておこう。
  • 居眠りはやむをえないが、机に突っ伏すのはやめて。
  • 授業内容や発言に、セクハラ・アカハラ等の疑いがある場合は、日時等・内容をメモして、あるいは録音などして、担当部署に相談してよい。ただし、疑問があった場合は、直接、あるいは大福帳、メール、大福帳の束にしのびこませた匿名の紙、等で直接疑義・抗議などしてもらった方がありがたい。
  • レポート課題、試験等は最低2週間前に告知する。内容・評価基準等もそのつど伝達する。まえもって質問する必要はない。
  • オフィスアワーは火曜の昼休み・3限。この時間帯は予約不要。他はメール (eguchi.satoshi@gmail.com)で予約すること。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (7) おしまい

んでこのシリーズ、実は最初は牟田先生の論文が、われわれの日常的な事実と乖離してるんじゃないか、そしてその規範的主張が勝手なものじゃないか、って書こうとしてたんですよ。実はマッキノンやギデンズのあんまりよくない引用方法を発見してしまったらもうそういうのどうでもよくなっちゃったんですが。

でも最後にその最初の話だけ。

牟田先生は、まともなセックスには同意・合意が必要であると考えます。あたりまえだけど。そして、「同意とは、コミュニケーションによって得られるが、そこにはさらにネゴシエーションも当然含まれてくるはずだ」とおっしゃる。コミュニケーションとネゴシエーションがどういう関係かわからんけど、まあネゴシエーションって交渉ですよね。交渉にはもちろんコミュニケーションが必要、ぐらいか。これもいいっしょ。んで、まともなセックスには「ネゴシエーションと同意の確認の連続がなければならないはずだ」っておっしゃる。これもいいでしょう。まあ交渉したり、セックスをどう進めるのか相談したり、相手の反応を見たり、まあいろいろしながらセックスというのは進むのだと思いますし、そうあるべきでしょう。

牟田先生は、田村公江先生のちょっと変わった論文「性の商品化:性の自己決定とは」(金井淑子編『性/愛の哲学』、岩波書店、2009、収録)を参照しています。牟田先生によれば、田村先生が論じているのは、

性的行為するかどうかの最終決定権は女性が持つ・途中でやめることもできる権利もある・男性は自分の性的快感獲得よりも女性の性的快感獲得を優先すべきである、等の条件が満たされてはじめて、女性は性的行為において男性と対等になれる、と論じる。

ということです。実際に田村先生はこういう驚くべきことを論じているんですわ。田村先生の論文もおもしろいので引用しながら紹介してみたいのですが、もう疲れたのでやめます。

とにかく簡単に言えば、田村先生(そして牟田先生)にとって、なぜセックスの決定権が女性にあり、行為において女性の快感が優先されるかというと、女性は身体的にも精神的にも傷つきやすく、また男性(というかペニス)の協力なしには快感を獲得できないからです! びっくりしますね 1)まあ実は私数年前にこの田村先生の論文を3回生ぐらいに配ってちょっと議論してもらったことがあるのであれなんですけどね。ふつうの女子大生様の意見は「甘えすぎではないのか、女有利すぎないか」ぐらいでした。課題は「グループに分かれて、批判的を思いつくだけ考えよ」だったので、私の意見はあんまり反映されてないはず。 そんなんだったらセックスなんかしなくていいのではないか。

上に続けて、牟田先生はこう書きます。

おそらく多くの人は、このような条件は非現実的と考えることだろうが、しかし問題は、これらの条件が守られそうにないこと以上に、「これまで、満たされないことがあまりにふつうであったため、あからさまな暴力や強制がない限り、うやむやにされても女性はその不平等性に気付かなかった」(田村 2009:191)ことにこそある。現在の私たちは、かつての性の抑圧から多少は解放され、性の自由らしきものを手に入れた。だからこそ、女性たちは、「対等」「自由」と信じて、普通のセックスのなかに厳然とある抑圧を見逃してきた。

つまり、田村先生や牟田先生は、ベッドの上での「対等な」関係は非現実的だ、ベッドの上では女性はいつも、みんな、選択権なし、リードされっぱなし、やられっぱなし、快感も得られません、みたいなもんんだって思ってるんですよ。信じられますか。そんな貧弱なセックスがいまの日本の男女なのですか。さらに牟田先生は、

性的行為にはネゴシエーションが必要、という考え方には、現在ではおそらくは女性を含めて多くの人が「面倒だ」「無理」と、疑問や反発を感じるだろう。

っていうわけです。これ、なんか根拠があるんでしょうか。相談しないでセックスしている人々はどれくらいいるんでしょうか。もちろんうまく交渉できない人もいるでしょうけど、ふつうはいろいろ交渉しながら楽しくセックスしてるんじゃないですか。みんな絶望的なセックスしてるんですか。人々の貧弱なセックスは男性中心的社会の構造とかの結果なんですか。

こうした「男にやさしく大事にしてもらわないと楽しいセックスはできないし、そもそもセックスさせてやってるのだからそういうことを要求できる権利が女性にはある」みたいな貧弱でなさけないセックス観のもとで生きるよりは、この論文集に収めれらている元橋先生が批判する「新自由主義的セクシュアリティ」、つまり、女性もがんばって魅力を磨き、自発的で男を喜ばせ自分も快楽その他を獲得しようとするするセックス、の方がずっといい気がしますが、どうですか。

私の好きなハキム先生っていう人は、交渉っていうのは性的な魅力や技術とともに、若いときから少しずつ修得していくものだ、って言ってます。大人の魅力的な女性にとって、それは男性にやさしくしてもらうんではなく、努力によって獲得するものです。

自分のエロティックキャピタル(性的魅力)を開拓するのに多少なりとも時間を費やしてきた女性は、次第に男性の扱いに自信を持ち、優しくも意地悪くもできるようになる。社交術はより磨かれ、多種多様な状況や人々に対応できるようになる。……性的な経験を積んだ女性たちは、男性に対する従順さが薄れ、積極性が増し、自己主張が強くなり、セックスにおいても人間関係においても「支配する」立場に慣れていく。その結果、男性優位主義の文化が強く残る社会でさえ、女性たちは自信を深め、男性と平等だという意識を持ち、従順さよりも自主性を重んじるようになる。(p.221)

ってことですわ。他の印象的なフレーズはここらへんで紹介しておきました

新自由主義的セクシュアリティは女性のエンパワになるかもしれない。「性の商品化」こそエンパワかもしれないのです。新しい世代のフェミニストは、そこらへん批判的に検討してみてほしいですね。そしてなにより、現実の人々がどんなセックスしたり、いろんな面で支配したりされたりしているのかちゃんと観察してみてほしい。文献あさるのでもいいです。イデオロギーで決めつけるのだけはやめてほしい。

半端になったけど、こんな感じでこのシリーズはおしまい。

References[ + ]

1. まあ実は私数年前にこの田村先生の論文を3回生ぐらいに配ってちょっと議論してもらったことがあるのであれなんですけどね。ふつうの女子大生様の意見は「甘えすぎではないのか、女有利すぎないか」ぐらいでした。課題は「グループに分かれて、批判的を思いつくだけ考えよ」だったので、私の意見はあんまり反映されてないはず。

牟田先生たちの科研報告書を読もう (6) 雑感

しかし誤解のないように書いておくと、私この科研費報告書自体は(そして牟田先生の論文も)高く評価しているわけです。この手のセックスにまつわるいろんな問題っていうのは実は国内ではちゃんと議論されてないので、いろんな立場の意見が検討されるべきで、そうした議論の基盤を提供してくれているのでたいへん価値がある。科研費もらってもらってたいへん助かります。ぜひもっと出してあげてほしい。

っていうか、私が思うに、いまジェンダー/セクシュアリティまわりの研究者が少なすぎるんすわ。みんな同じような話してるし。もっと科研でお金出したげてください。

あと前の記事に質問もらってるんですが、牟田先生たちのあの動画サイトはどうなんだ、っていう件なんですが、まああれに学術的価値はほとんどないですわね。でもなんでああなってしまったのかだいたい想像できたりして、ちょっとつらいところがあります。

想像では(勝手な想像ですよ!)、最初はジェンダー平等のための理論と運動の架け橋をつくりたい、とかかからはじまったと思うんです。んで、その手の運動している人だけじゃなくて、その手の学者研究者系統も、ITすごく苦手な人々多いんですよ。まあ牟田先生たち自身もそんな得意じゃないと思う。だから「ジェンダー平等を目指す研究者とその他みんなのための手引きを作ろう」みたいな発想は自然だったと思うんです。

でも実際にそうしたサイトを作ろうとすると、自分らではやはり知識も技術も足りないからできないわけですわ。だからプロに頼む。でもプロっていうのは技術は提供してくれるけど、知恵はあんまり貸してくれないんすよね。どういうサイトつくりたいか、どういうビデオ作りたいかっていうヴィジョンがはっきりしてないとどんなプロでも助けようがない。でも発注する側もよくわからないから、ああいう中途半端というかなんのためかわからんものができてしまう。システムを発注するっていうのはたいへんなことですよね。あちこちの団体で同じような問題が起こり続けていると思います。

まあ例のあの画像の世界ですね。

まあ場合によって責任者はごめんなさいしないとならんかもしれんのですが、彼女たちのあれがそういうものかどうかは私には判断ができません。

あと、今回気づいたんですが、SNSというかツイッターの特徴として、すごくリツイートとかされるネタがあるんですね。フェミニスト批判みたいなのはかなり好まれるネタで、500人とか1000人とかがリツイートしてしまう。これ炎上しているというか攻撃される側としては世界が襲ってくるように見えるはずで、ツイッタの特性を理解してないと認知歪んで世界について誤解しちゃいますわね。

牟田先生の論文のテーマの一つは「なぜ女は「叩か」れるのか」みたいなのだと思うんですけど、SNSとかで活動しても反応が思い通りにいかないと、本気で蹴られ殴られたりしていると思いこんでしまうかもしれない。実際にはそれって一部の人々のものであっても。

世間の人々をうまく説得するのが学者の仕事かっていうとよくわからないし、「隅々まで説得する」みたいなのもおそらく活動家の仕事ですらない。そんなことは誰にもできないわけだし。ネットと通じた言論活動とか啓蒙とか討論とか、そういうのについてはやはりいろいろ考えておかねばならないなとは思っています。SNSもブログも使いかたをまちがうと本気で健康を損ないます。とにかく健康に悪いことは避けたいものです。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (5)

もう一つあげましょう。牟田先生は、「ギデンズが論じるように、法的な平等が保障されジェンダー平等への道が見えつつあるからこそ、性暴力やジェンダー暴力がいっそう生み出されているとすれば」と言います。この文章に対する注は

ギデンズは、「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」(ギデンズ 1995: 183)と論じている。

です。実はこのギデンズに依拠した牟田先生の文章は前にもブログでつっこんでいるのですが、今回本当にギデンズがこんなこと言ってるのかちょっと調べてみました。

別の論文 1)牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。では牟田先生は、「ジェンダー平等が進展するほど、男性による暴力や支配が起こりやすくなる」と考えているようで、その根拠にギデンズ先生を使ってるわけですね。しかし、男女平等が進むと性暴力が増える、みたいなの信じられますか? 私は信じられない。その逆でしょ。男女不平等なほど性暴力は多いだろうと思う。ギデンズ先生がそんな馬鹿げたことを言ってるとも信じられない。

んでギデンズ先生の『親密性の変容』を見てみると、性暴力を論じているのはまあごく一部ですわね。んで、男女平等になって性暴力が増えてる、みたいなばかげた主張もしていない。

私の読みでは、ギデンズ先生がやってる議論はこうです。男性の女性支配っていうのは、近代までは、男性が女性を「所有」し隔離するという形でおこなわれてました。女性は家庭生活のなかで暴力にさらされることはあっても、家族以外からそういうことを受けることは少なかった、なぜなら隔離されていたから。レイプとかは、戦争とか征服とか略奪とか植民地とかそういうトラブルの時に起こる。(でもそういうトラブルはもちろん多い)でもそうした暴力っていうのは男同士でもふるいあっていて、男性も十分危険な状況で生きていた。

現代社会では、それいぜんよりは比較的暴力が抑制されていて、男性同士の暴力も少なくなって、暴力といえば男女間の暴力、性暴力が注目されるようになった。そこで上の

「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」

の引用文なんすよ。牟田先生が原文確認しているかどうかわからないけど、ここの「大きな意味をもつ」の原文は

It makes more sense in current times than it did previously to suppose that male sexual violence has become a basis of sexual control. (原書p.122)

で、「昔よりは今についての方が、男性の性暴力が性的支配の基盤になった、っていう考えかたが、make more senseする/筋が通ってる/理解できる/もっともらしいですね」ですわ。このブログでも何回か議論したブラウンミラー先生あたりの「レイプは昔から男性が女性を支配する脅しの手段だった」っていうのをむしろ否定してるんですわ。

まあもうすこしギデンス先生を解説しておくと、そのあとは

In other words, a large amount of male sexual violence now stems from insecurity and inadequacy rather than a seamless continuation of patriarchal dominance. Violence is a destructive reaction to the waning of female complicity. (p.122)

「言いかえれば、男性の性的暴力の大部分は、今では、たえまなく続く家父長制支配というよりは、男性の不安と無力感に由来している。暴力は女性の(男性との)共謀関係の衰えに対する破壊的な反応なのだ」ぐらいっすか。

これはまあ読みにくいしギデンズ先生がどれくらい自信あって断言しているのかわかりませんが、フェミニストが言うような家父長制のためとかってよりは、男性自身が不安だから性暴力振ってしまうんでしょ、ぐらいね。女性が男性に協力してくれなくなったから、それに破壊的な形で反応してるんでしょう、と。でもそうした性暴力全体が「増えてる」なんてぜんぜん言ってないですからね。

で、ここ見てたらもっと大きな問題を見つけてしまいました。この引用文のすぐあとで、ギデンズ先生は、女性もけっこう男性に対して身体的暴力を振ってるよとか、女性同性愛でも性暴力はけっこう頻繁だよとか、雑誌のセックス悩み相談に手紙を送る男性たちは、女性の性的満足のために自分の問題を解決しようと悩んでるみたいだよとか、売春婦のところに通う人々の多くは(牟田先生が想像している「女性を組み敷く」みたいな能動的なセックスのためではなく)受動的な役柄を演じたいと望んでいるよとか、まあそういうことを紹介しているわけです。これ、牟田先生が、この論文で想像している男性の一方的セックスとか暴力的で凄惨な売買春現場とかとはぜんぜん違ったものです。なぜ自分が引用している箇所の次のページ(翻訳p. 184)でそうした自分に不利な知見が紹介されているのを無視してしまうのですか。

やばい。(おそらくまだ続く)

References[ + ]

1. 牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (4)

上野千鶴子先生が「嘘はつかないけど不利になることは隠す」とか発言しているのが発見されて、ツイッターの学者研究者界隈に動揺が広がってるようですが、まあそういう感じありますよね。特にフェミニズム/ジェンダー論まわりでは目につく。というか、昔からフェミニズムまわりではつらい経験をすることが多かったのですが、「嘘は書かないけど自論の不利になることにも言及しない」ぐらいの原則でやってるのだと思ったら理解しやすいことは多いです。

牟田先生の論文でもそういうところはあって、たとえば去年SNSで話題になった事件について、こういうふうに書くわけです。

日本では、5月に、伊藤詩織さんが、元TBS記者の山口敬之氏からTV局での仕事を紹介するからと酒席に誘われて酔わされた状態で、ホテルに連れ込まれレイプされたことを実名で告発した(伊藤 2017)。山口氏は安倍首相の伝記本を複数著している首相ご用達ジャーナリストであるところから警察権力の介入によって逮捕を免れた疑惑さえある。しかしこの事件はネット上では拡散し詩織さんのサポートの声がひろがったものの、一般のTVや新聞等の大メディアはほとんど報道せず、現在のところ捜査が再開される様子も無い。

この文章には嘘はない、というかまあSNSで知られているそのままが書いてあります。でも、山口氏が合意の上のセックスだと主張していること、東京地検が嫌疑不十分で不起訴処分にしたこと、検察審査会でも不起訴相当と判断されたことは書かれていない。デュープロセスや推定無罪、疑わしきは被告の利益に、という非常に重要な原則についても論文全体を通しても触れられていない。(実は推定無罪という言葉は、この科研費報告書全体でも一度も使われていないようだ。)はたして科研費報告書のようなもののなかで、山口氏の名前を出すのが適切かどうかわたしには判断ができない。

古久保先生の論文でも

続いて若者の性暴力(大学生における性暴力事件)の頻発について、テーマとしている。これが性暴力問題に関する1回目の授業になるが、そこでは性暴力被害者に焦点をあてるというよりも、むしろ二次加害者・傍観者という立場に焦点をあてて授業を進めている。これは、過去の大学でのレイプ事件の際に、加害者の「友人」たちがSNSを使って二次加害行為を行ってしまったという歴史的経緯を踏まえて行っているものであり、信頼している友人が加害者だと訴えられている事実を知ったときの認知的不協和を想像してもらいながら、二次加害の問題性を説明している。この授業を通じて、学生に性暴力が身近なところにあることに気づかせることにもなるが、実際、この段階で感想文のなかでは、「自分の友達」の性暴力被害についての言及が毎年出てくる。

という表現があるのですが、これはおそらく、2009年にあった京都教育大学集団準強姦事件と呼ばれてるやつをモデルにしてますよね。でもあれは、判決文などで知られている範囲ではかなり微妙な事件ですし、二次加害が云々の話もどれだけ古久保先生がデータをもっているのかわかりません。実際の裁判判決等の事情をふつうに書いたらやっぱり古久保先生たちには不利になるだろうと思います。それに、それこそこういうのが、「加害者」とされた人々への伝聞による加害ではないのかと心配になります。この報告書で触れられている他のトラブル・裁判例についてもそうした不安は同様です。

性暴力まわりの裁判とかについては、そうした「嘘は書かないけど自説に不利なことも書かない」みたいなのが一般化しているようで、非常につらいです。「これおかしいな」と思って判決文とりよせたりするとぜんぜん印象の違うことが書いてある、のようなのは頻繁で、フェミニスト学者の先生が出してくる裁判事例は、私はそのままでは信じない習慣がついてしまいました 1)このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

こうした「嘘は書かないけど不利なことは隠す」という態度と、権威の発言や文献を恣意的に使う、というのは密接な関係にあるように思います。こうなってくると、意図的に勝手な使いかたをしているのか、あるいは勘違いその他のためにまちがってしまっているのかわからない場合がある。牟田先生の論文から二つ挙げてみたい。

一つは次の文章です。

セクハラに関する法理を打ち立てたアメリカのフェミニスト法学者キャサリン・マッキノンが「はっきりしているのは、自由に選択したとみなされている「真実の愛」と、頭に突きつけられた銃のようなものを意味する強制とを対立させる硬直した二分法では、女性のセクシャリティがどのように社会的に形づくられているのか、そしてそれが表現される条件――経済的なそれを含めて――がいかなるものであるかと説明するのには十分ではないということである」と述べているように(マッキノン 1999:103)、上司など職業上重要な関係にある相手からの性的なアプローチや性的言動をすぐにはっきりと断るなどきわめて困難であり、対応に曖昧さやためらいがまとわりつくのも当然だ。

牟田先生がマッキノン先生の文章をどう解釈しているのかはよくわからないですが、「セクハラされてるときに女性は簡単には断れないのだ」ということを主張する根拠になると解釈しているようです。

でも実はこれ、もっと広い文脈で見ると、マッキノン先生が主張しているのは「上司と部下のセックスでも、はっきり強制やレイプ(まがい)と言える場合もあるけれども、はっきり合意と言える場合もあるし、さらには、はっきりどちらともいえないような微妙でグレーなケースもあることはやっぱり認めなきゃならないね、でも少なくともはっきりしているやつはアウトだ」っていう文脈なんですわ。

私の読みでは、マッキノン先生は教育や秘書業務とかの現場で、尊敬や業務上のふるまい、あるいは利益なんかと恋愛感情や性欲がごっちゃになってしまうということを指摘した上で、

以上述べたことは、セクシャル・ハラスメントの法的成立条件を明らかにする論点ではなく、法的にはむしろ不利な事例を検討してみることによって、その社会的真実を明らかにすることができる論点である。

って述べてるわけです。マッキノン先生は80年代はかなり強硬で一方的な議論をするようになるのですが、少なくとも70年代はこうして自分たちに不利な事情があることも認めた上で、それでもなおセクハラっていうのはなくすべきだ、はっきりしているのは撲滅すべきだ、と主張しているわけです。牟田先生が使ってるように「マッキノン先生が指摘しているように女性は簡単に断われないのだ」っていう文脈のものではなく、「同意か強制かよくわからないケースもあるんだから、たしかに白とか黒とかはっきりしない場合もありますよ」ってことを言おうとしている流れなのです。まあマッキノン先生のこれは立派な態度だと思いますね。現代のフェミニストの先生たちにもそうしてほしいと強く願います。

(この項続きます)

References[ + ]

1. このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。