Wikipediaを添削してみる

何度も書くように、wikipedia(ja)はあんまり信頼してはいけません。
今回はwikipediaの「功利主義」の項を添削してみたいと思います。(うまく添削できたら
反映させてみようかとも思ってる)

まずこの項は、
なにも出典・参考文献があげられておらず、
ガイドラインの「検証可能性」を満たしてません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7
これでもうwikipediaの記事としてアウトね。

功利主義(こうりしゅぎ、英語 Utilitarianism)は、善悪は社会全体の効用(英:utility)あるいは功利(功利性、公益)・機能(有用性)によって決定されるとする基本的に倫理学上の立場であり、それは法学や政治学でも応用される。

  • 「善悪」が気になる。まずなんの評価かわからん。正確には「行為(やルール・制度)の正・不正」。善い(good)/悪い(bad)とright / wrong は違う概念。たとえば good – better -best という比較級はあるが、rightやwrongに比較級はないことからわかるように、善さと正しさは別の概念。功利主義では、善を最大化するのが正しい行為。ここはずすと説明としてはぜんぜんだめになっちゃう。
  • 「あるいは」がどことどこをつないでいるのかわからん。
  • 「倫理学上の立場」もどうか。英語だと”Utilitarianism is an ethical
    doctrine.”のような表現になるわけだけど、これを「倫理学上の」と表現して
    しまうと、「倫理学という学問分野での立場か、んじゃ法学や政治学はどうな
    る?」とかって誤解が生じる。ethical doctrineの “ethical” は「倫理的な」と訳
    した方が誤解をまねきにくいかもしれないが、まあ微妙だな。「倫理的立場」
    ぐらいかなあ。「事実的 factual」とかと対比される意味で、
    それ自体が価値判断・規範判断だということなんだけど。難し
    い。法学や政治学や経済学といった学問分野でもしばしば倫理的判断はするわけでね。

  • (utility)の入る場所がおかしい。効用 – 功利 – 功利性 – 有用性はどれもutilityの訳語のはずだし、「機能」がなにを意味するのか不明。

というわけで、「功利主義(こうりしゅぎ、(英) utilitarianism)は、
行為や制度の正しさは、社会全体の効用(功利、有用さ)によって決まると考える立場である。」ぐらいか。

倫理学説としては私利のみを計る利己主義(エゴイズム、Egoism)とは異なる。現在でも、近代経済学は、基本的にこの立場にあると考えられる。そこでは消費者ないし家計は効用の最大化をもとめる部門とみなされる。また基数的効用と序数的効用が区別される。

  • 「倫理学説としては」という限定が誤解をまねく。不要。政治学でも法学でもそうなわけだから。
  • 「この立場」が功利主義なのか利己主義なのかわかん。
  • 「消費者ないし家計は」も「部門」も意味わからん。「個人は」か?
  • 「また基数的~」もこれだけ書かれてもわからんだろう。

この部分は全部いらないんじゃないだろうか。

もし書くなら、「18世紀イギリスの哲学者ベンサムによって体系化され、
以降19世紀・20世紀を通して倫理学・法学・経済学・政治学などの中心的な学説の一つである。また功利主義は各国の社会制度・政策に大きな影響を与えている。」ぐらいかな。

功利主義の歴史
功利主義はヒュームの思想にもみられるが、立法の原理・法学の基礎として最大多数の最大幸福を置くという着想はベッカリア、エルヴェシウスを経てベンサムにおいて体系として初めて結実した。

うーん、いろいろねじれている。功利主義は法学だけの思想ではないので。
また「最大多数の最大幸福」は「最大多数ってなに?」という誤解をまねきやすく、ベンサム自身はほとんど使ってないはずなので避けたい。「最大幸福」だけなら可。

「社会全体の幸福が重要であるとする発想は、プラトン以来古来から見られる。
しかし道徳・立法・行政の共通の基礎として最大幸福を置くというはっきりし た着想は、ベッカリーア、エルヴェシウス、プリーストリ、ヒュームなどを経て*1
ベンサムにおいて初めて体系として結実した。」ぐらいか。(プラトン~ヒュームらも
功利主義の原型とみることができるという点についての出典が必要。)

功利主義においては幸福は数量で表すことができると仮定される。 ベンサムは快楽・苦痛を量的に勘定できるものであるとする量的快楽主義を考えたが、J.S.ミルは快苦には単なる量には還元できない質的差異があると主張し質的快楽主義を唱えた(が、快楽計算は放棄しなかった)。

  • 「幸福」と「快楽」を同一視するというベンサムの立場が明確にされていない(要出典)。
  • 「(が、~)」とかって書きかたはかっこ悪いので避ける。「~を唱えた。しかし功利主義の基本的立場は放棄しなかった。」

また、J.S.ミルからシジウィックに至る過程で功利主義は立法的・法学的要素を失い、道徳・倫理学の理論としての色彩を強めていく。

これはかなり独自な主張なので、出典が必要。おそらくまちがっている。(安藤馨先生は
そう書いてるが、私はまちがってると思う。)

ここまで、おそら
く大学1、2年生が書いたもののはず。
中~上の下ランクの大学2回生向けの「功利主義とはどんな思想であるかを述べよ」とい
うレポートだと、内容だけだとBマイナス、出典とか考慮にいれるとCだろう。

あれ、なんか面倒になってきた。根気がない。自分で最初から書いた方が早い。
でもこういうのは自分の商売ネタの一部だからwikipediaには書く気にはなれないんだよなあ。

これはけっこう重要な点で、「その情報を売って商売している人びとは、wikipediaには書かない」って
いう傾向があるはず。だからwikipediaは学術情報とかは弱い。
一方、その情報でお金を稼ぐことが難しいこと、書いているだけで楽しいこと(アニメとか
音楽とか軍事とか)は詳しくて良質の記事が多くなる。

あれ、「ベンサム」の項は短かいけどプロかセミプロの仕事だな。ただしwikipediaのライティングスタイルに沿ってないんじゃないか?

もちろん英語版はすばらしくよく書けている。私こんなの書けない。なんというか鍛えの違いを知らされるね。

*1:これらの人物の順番たしかめてない。生年順がよかろう。

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Wikipediaを添削してみる” に1件のフィードバックがあります

  1. 学生

    私は、ある大学で学生をしています。講義で、「紛争とは何か」という、レポート課題が出されました。もちろん、本にあたって書くつもりです。しかしながら、 Wikipediaの「紛争」の項を、基本的な知識を得るために閲覧しました。結局は書籍を用いて、レポートを作成しますが、 「Wikipediaを参考程度」ですが目を通しました。このことで、なんらかの知見をWikipediaから得たことになりますが、この場合「参考文献」としてのせるべきでしょうか。文を引用する気はありません。

    「ネットの情報は信憑性が低い」からレポートに使うべきではない、というのは分かります。しかしながら、参考文献は、少しでも参考にしたものがあれば、のせるべき性質のものだと聞いています。

    教授にとって、ネットの情報は評判が悪いと分かっています。ですが、私達は日々インターネットで様々な情報を得ます。
    参考文献を厳密に書くなら、ネットのHP等を挙げないといけませんよね。

    このことに関して、他の人はどう考えるのか聞きたいと思い、質問させていただきました。

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