江原先生のを検討してみるがわからん

経験科学的水準の議論においては、セックスもジェンダーも、具体的性差それ自体を指す。セックスとは、生物学的な根拠を持つ性別・性差(それ自体多様性を持つが)のことであり、ジェンダーとは、社会環境によってつくられる性別・性差のことである。したがって、この意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解しようとすると、「生物学的な根拠を持つ性別・性差は、社会環境によってつくられる性別・性差である」という意味になってしまい、到底理解不能な命題となってしまう。

しかし、認識論的水準の議論においては、セックスとは、生物学的な性別・性差とされている「知識」をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された「性別・性差に関する知識」をいう。ここの意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解するならば、「生物学的な性別・性差という『知識』も、知識である以上、社会的文化的に形成されている知識である」という命題となる。この文脈では、セックスとジェンダーというカテゴリーは論理階梯が異なるようにずらされており、その点で「セックスはジェンダーである」という命題はレトリカルな命題であるような印象を受けるが、上記のように理解すれば全く理解不能な命題ではなく、むしろ当たり前で自明なことを述べているに過ぎないように思われる。

なに言ってるかわからん。カッコの使い方になんかトリックがある。

これ、特に後ろの方があやしいなあ。前の段落と同じように単純に書き代えるなら、

生物学的な性別・性差とされている「知識」は、社会的文化的に形成されている「性別・性差に関する知識」である

になって、私にはやっぱり前の段落と同じくらいおかしいと思える。「~とされている知識」がわからん。

セックスとジェンダーはどっちもは知識なのか?そう使いたいんなら、それでもいいけど、ふつうに考えた場合*1、知識というのはなんらかの対象についての知識だろう。では江原先生の言う「セックス」はなんについての知識で、「ジェンダー」は何についての知識なんだろうか。「セックス」はセックスについての(文化的負荷を負って生物学的とされている)知識で、「ジェンダー」もやっぱり(文化的負荷を負っている)セックスについての知識か?んじゃおなじじゃん。トートロジー。

あれ、おかしい。江原先生の「とされている」が気になる。

生物学的な性別・性差とされている対象についての知識は、社会的文化的に形成されている性別・性差とされている対象についてのについての知識である

と言いたいのかな。

江原先生が言いたかったのは、

認識論的水準の議論においては、セックスとは、社会的文化的に生物学的であるとされている性別・性差に関する知識をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された生物学的な性別・性差に関する知識をいう。

と言いたかったのか?あれ、おかしい。

なんというか、難しいのはわかるけど、こういう言葉の使い方ひとつろくにできない(し、解決の見込みもない)のなら、「ジェンダー論」とかってのはやめた方がいいんじゃないかな。生物学的性差と文化的性差ぐらいでいいじゃん。それならOKだしまだ生産性もある。あるいは哲学やっている人がちゃんと助けてあげるべきじゃないのか。(哲学やっているという人たちが助けることができるかどうかは知らないけど、もし哲学者がなんかできるならそういうことしかできないだろう。)

この文脈にはあんまり関係ないけど、こういう馬鹿なことを考えたくないひとは、やっぱり、バトラーに『ジェンダー・トラブル』で引用されて脱構築されちゃってるウィティッグの原文を読んでみるべきだと思う。私の理解では、Wittigは「わしら、人を見るときに、まずどうしたってまず男か女か考えちゃうわよね」ってな実感をちゃんとした言葉で語っていて、別におかしくないしよくわかるし、鋭い指摘だ。

わたしらの大部分(ほんとは全員と言いたい)は、人間(通りすがりでも)を見たときに、どうしても、まずそれが異性か同性かをまず最初に認識しようとするし、すぐに認識できない場合かなり気になり確かめようとする。私の場合は異性だとわかったら、すぐにどの年齢層にいるかとか性的に魅力的かとかをもっと意識する。むしろ、まず最初に性的に魅力的な生き物(つまり若い女)とそれ以外(ジジイ、オヤジ、おばあさん、子ども、猫、机、鉛筆、舗道、空、太陽など)とをまず分けて認識しているかもしれないほどだ。そういう意味で、女性には性的なマークがつけられてしまっている(少なくとも私には。まあ私がつけているのだが)。女性ならば中学生ぐらいまではよくわからんが、20代だと2才の差ははっきりわかる。40才近くなるとかなりおおざっぱになり、60才を越えるとほとんど同じと認識してしまう。同性でも自分にとって危険な近い年齢層はかなりとはっきり意識しようとするが、自分より歳がはなれるにつれてよくわからんようになる。ウィティッグのは、そういうのから逃がれられない私たちってはたいへんだ、って文章だと読んだ。興味あるひとは読んでみるとよい。(今手元にないので、そのうちもう一回読んでみようと思う。いや、勝手にこう読んじゃっただけかもしれんのでぜんぜん違ってたら許してください。)

いったいバトラー読んでいる人間のうちの何割が自分でWittig読んでいるのか私は疑っている。おそらくバトラーがWittigの鋭い洞察になにを借りたのか、Wittigが本当はなにを言ったのかについて、バトラーのファンはほとんど興味がないのだろう。日本googleをひくと、ウィティッグの名前が必ずバトラーと組になって出てくるのがかわいそうだ。そういう風潮を私は憎んでいる。誰もバトラーがちゃんと引用してまともなことを言っているかどうか調べようとせず、「ジェンダーがセックスを規定する」(バトラー)とか書きまくり、伝言ゲームしているのだ。フェミニズムの没落、あるいは、いかにしてフェミニズムはジェンダー「論」とかいう学問もどきとなり退廃したか。

あとバトラーのもうひとつのネタ本であるファウスト=スターリングのあの本が現在どういう立場にあるのかを、生物学まわりの他の本を読んで理解しているひとがどれくらいいるのかとかね。もちろんわたしはちゃんと理解しているとは言えないけど、ファウストスターリングのどこがおかしかったかぐらいはぜんぜんわからないわけではないと思う。

さすがに『哲學』のシンポ論文日本がどっちもバトラーからはじまっていればこういうことを考えちゃうよな。

*1:なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。


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