北川東子先生のポエム

さて、「ジェンダー」とは流動的なパフォーマンスである。誰かがなにかを言って、なにかを指差す。すると、男が女を見つめることになり、女は見つめられていると思う。法は「違・法・外」を定め、そのことで、犯罪者を名指し、罪そのものが成立する。派手な衣装をまとったドラッグ・クィーンたちが甲高い声で笑う。すると、ふたつのセックスがちらちらして、互いが互いを模倣してみせる。そのとき、ジェンダーが行なわれている。(北川東子「哲学における「女性たちの場所」—フェミニズムとジェンダー論」,『哲學』, 第58号, 2007, p.50)

あんまり素敵だったので写経してしまった。『哲學』は日本哲学会が出している雑誌で、おそらく(会員でもないのでよくしらんけど)哲学業界では一番権威がある雑誌のはず。難しい哲学的散文を覚悟して読んだら素敵なポエムだったので得をした気分。

誤解されないように書いておくと、これは「3 「女性的なアプローチ」の意味」と題された一節の最初の一段落。次の一段落はこんな具合。

ジェンダーは遂行的な性格のものであり、固定した場をもたない。ジェンダーは、その場の配置のなかで、その場で行なう者たちが生みだすなにかである。「母たち」や「主婦たち」や「女性たち」という場所にあって、そうしたすべての場所にはないものである。フェミニストたちが、女性たちの場所にこだわるのにたいして、ジェンダー論では「女たち」は構成された主体にすぎず、セックスはパロディーでしかない(バトラー)。ジェンダーの場所は、「ないものがあって、あるものがない」場所である。ただし、「ないものがあって、あるものがない」という謎かけのようなジェンダーの場について語ることがえできるようになったのは、フェミニズムが「不在とされた場所」を可視的にしてくれたからである。(同上)

上で(ジュディス・)バトラーの名前があげられているが、どっからどこまでがバトラーかわからん。「セックスはパロディーでしかない」だけなのか、そこまで全部なのか。素敵なポエム*1が北川先生のオリジナルか、バトラーなのかどうか気になる。文献表に挙げられているのはGender Troubleだけ。最初の段落のも『ジェンダー・トラブル』からの引用かなにかなのかな。見たことないような気がするから、Undoing Genderあたりかもしれんがよくわらかん。

あんまり関係なく上のポエムからふと思ったのだが、ポストモダンフェミニズム(あるいは北川先生の、「フェニズム」と対比される意味での「ジェンダー論」)では「男」「女」「ドラッグクィーン」などの定義ってのはどういうものになるのかな。ドラッグクィーンが「派手な女装をした生物学的な男」ではありえないと思う。「ドラッグクィーンの服装をし、ドラッグクィーン的な思考をする人」かな。この場合、再帰的になってもやむをえないかもしれない。「派手な社会的に女ジェンダーとして認められる服装をして特有の伝統的なパフォーマンスをする、社会的に「生物学的に男」と思われているような人」か。「伝統的にドラッグクィーンと呼ばれるふるまいをする人」しかないかな。男は「社会的に男だと思われている人」でいいのかどうか。あんまりよくないよな。まあ定義なんかどうでもよいと思うが、私は基本的なところが理解できていないな。北川先生の次に掲載されている舟場保之先生の論文でも、

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだっと」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。(p.77)

と書いておられる。その次の引用はGender Troubleの原書 p. 10/ 邦訳p.29の超有名な部分。(どうでもいいが、舟場先生は 「Butler, op. cit., pp. 10/29」 という表記を使っているけど、pp.は「pages」の訳なんじゃないかな。ふつうはpp. 10-11のように使うと思う。1ページだけの時はp.10のように使う。おそらく校正ミスだろう。いや、原書と翻訳のページの複数という意味なのかな。それなら私の誤解だ。出典も調べずに勝手に推測した。ごめんなさい。)

それにしても私が憎んでいる*2ジュディス・バトラーが哲学業界でも大人気。バトラーのこの部分は超人気でこの手の議論するときには必ず出てくるわけだから、やっぱり近いうちゃんと理解できるようになりたいものだ。

前にも書いたけど、哲学業界とかってところでも、だんだん地味な研究をするのはむずかしくなっているのかもしれないが、大学院生やオーバードクターの人には地道にアカデミックに典拠のはっきりした散文でがんばってほしい。ポエムは論文の最初か最後ぐらいだったら許してもらえると思うし、かっこつけるなら偽名使って偽書でっちあげて、エピグラフとして使うとかがよいのではないか(ついでに本文でもそれに言及したりするともっとかっこいい)。生物学的女性院生や女性ジェンダー大学院生や生物学的オーバードクターや女性ジェンダーオーバードクターやそれ以外のジェンダーのオーバードクターもやっぱり地道にやってほしい。

追記

ポエムは秘密クラブかハプニングバーかなにかの場面描写なのだろうか?そうだとすればわかるような気がする(し、バトラーがそういうこと書くのはわかる)が、『哲學』の読者はそういうものになれてるのかなあ。あれ読んでぱっとなんの話かわかるとか。学会の懇談会ではそういうシーンがあるとか。私の知らない世界は広い。

追記2

上の舟場先生のバトラーの引用箇所あたってみたけど、私のもってるGener Troubleだと(Routledgeの1999年のプリント)だと該当個所はp.10じゃなくてp. 11が正しい。おそらく校正ミスだろう。そうでなければどっかで起こった伝言ゲームのミスか。邦訳ページはp. 29で正しい。*3

ところでこの有名な箇所の翻訳だが。竹村訳だとこうなる。

したがって、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」—-つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面 —- として生産され、確立されていくのである。

It would make no sense, then, to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered category. Gender ought not to be conceived merely as the cultural inscription of meaning on a pregiven sex (a juridical conception); gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established. As a result, gender is not to culture as sex is to nature; gender is also the discursive / cultural means by which “sexed nature” or “a natural sex” is produced and established as “prediscursive,” prior to culture, a politically neutral surface on which culture acts.

こうしてみると、竹村訳の「セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない」は「ジェンダーと文化の関係は、セックスと自然の関係とは同じではない(/違う)」ぐらいがよさそうに見える。”pregiven”も「生得の」は訳しすぎかもなあ。「あらかじめ存在する」ぐらいでどうか。

それにしても難しい文章ですな。なぜ難しいかというと、今指摘した”gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established”の一文なんかにおける無冠詞単数形の”gender”が「genderという語」の意味で使われており(上の意味でのdesignateという動詞の主語は私には「語」に思える)、それに対して”sex”の方が「セックスという語」ではなく「性」という概念内容(conception)か、あるいは「性」という対象を指していて、それをごっちゃにして一文のなかで使っているからのような気がする。わからんけど。難しい。とにかくこの一文でバトラーはジェンダーという概念の分析をしているというよりは、彼女が(勝手に)使う「ジェンダー」という語の操作的な定義をしているように見えるのだが、どうなんだろうか。

“gender is not to culture as sex is to nature”はどう読めばいいのかな。「ジェンダーという語と文化との関係は、セックスという語と自然との関係とは違う」なのだろうか。

“sexed nature”や”a naturel sex”はどう訳したらいいんかな。これも冠詞(a natural sexだから男女どっちか一方の性のはず)とかよくわからんよなあ。「性的本性」と「ある自然的性別」なのかな。竹村先生は”a natural sex”を「自然なセックス」と訳しているが、これはおそらくわからないというか訳しようがなくて逃げたんだろう。

あと竹村訳だと”Gender ought not to be conceived merely as ~”のmerelyが抜けてるね。けっこう大きい抜けだと思う。「たんに、あらかじめ存在するセックスに文化が意味を書き込んだものだとしてのみ理解されるべきではない。」あれ、バトラー的にはinscriptionは「書き込んだもの」でいいのかな。「書き込むこと」なのかな。ここも原文があいまいだな。

“discursive”と”prediscursive”も私にははっきり概念の内容が理解できない。「文化的」と「前文化的」に対応すると読んでいいのかな。ここらへんがポストモダン的な言語理解の難しいところだな。わからん。

一行目の”It would make no sense to define~, if ~ is“も気になる。このwouldは英語的にどういうニュアンスなのかな。あ、これは「もし~なら、~なんてことをしようとしたも意味ないよ」でいいのか。if以下じゃなくて、to define以下に仮定がはいっていてそれを受けたwouldなのね。OK。これは読めないとはずかしい。

竹村先生の「つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面」は「つまり、文化がそのうえで作動する政治的には中立な表面」の方がよいと思う。でも「表面」の意味がわからん。あるいは、「~は「前言説的」なもの、すなわち、文化に先行し、また(それゆえ?)政治的には中立なものとされ、その表面で文化が活動しているのだということになる。」ぐらいなんだろうか。

こういうぼんやりした思考や概念が本当にいやだ。それが無批判にどんどん使われて「ジェンダー論」とかの主流になっていくのもいやだ。私の理解では、哲学ってのはまずはまさに吟味することで、おもしろいことを言うことではない。

やっぱりわからん。バトラー読んだり引用している人は、ここらへんちゃんとわかっているのだろうかと疑問におもう。日本語の明晰な解説があれば教えてください。コメント欄に「これ読め」と書いてくれれば必ず読みます。

*1:The DoorsのStrange Daysのレコードジャケットを連想した

*2:これも前にも書いたけど、マッキンノンやヌスバウムについては愛憎いりみだれるって感じ。少なくとも言ってることや魅力はわかってるつもり。

*3:2007/6/4訂正。詳しくは


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