パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である

(このエントリは失敗なので書き直します)
「パーソン論は切り捨ての思想だ」っていうタイプの議論は「パーソン論」が国内に紹介された時点から存在していて、特に強い影響力のある森岡正博先生が広めた、と理解しています。先生は『生命学への招待』に収められている「パーソン論の射程」(初出は1987)から『生命学に何ができるか』(2001)、そして比較的近年の論文「パーソンとペルソナ」(2010)まで一貫してそうした主張をおこなっているようです。森岡先生の著書や論文が明示的に参照されることはそれほど多くないようですが、パーソン論に対する基本的な理解として国内で広く受けいれられているようです。

前にも書いたように一口に「パーソン論」と言っても、けっきょく各種の重要な権利の主体となるのはどのような存在か、ということが問われていることが共通しているだけで、全員がしかじかのことを主張しているということは言えないのですが、国内で広まっている解釈にしたがうと次のようになります。
パーソン論者によれば、権利をもった人(person)であるためには知性や自己意識が必要であるとされる。しかしこうしたことを主張するのは知性や自己意識をもった人自身が考えるからそうなるのだ、自分の仲間に権利を認め、知性が低かったり自己意識をもっていない人を切り捨てるためにそういうことを勝手に想定しているだけなのだ。したがってパーソン論は自分たちを勝手に贔屓している思想である、のように。
まあ表現はさまざまあるわけですが、森岡先生とかの流派のはこういう感じかなあ。あるいは、パーソン論は知的能力によって人々のあいだに差をつける能力主義だ、みたいな感じか。
この種の解釈のどこがおかしいのかを説明するのはかなり難しいですが、がんばってみます。
まず、いわゆる「パーソン論」で使われる議論は、私の理解では次のようになります。
(1) われわれは「人」(person)と呼ばれる存在を特別あつかいにしている。あるいは特別扱いにせざるをえない。(事実)
(2) 特別扱いにするならば、その特別扱いの理由をはっきりさせる必要がある。(合理性・道徳的思考における要求)
(3) 人間(ホモサピエンス)を特別扱いにするならば、人間が他の動物と違う特質に訴える必要がある。
(4) 人間が人間(ホモサピエンス)であることはその理由にならない。なぜホモサピエンスが特別なのかの理由を示す必要がある。
(5) 候補としてあげられるのは言語の使用や自己意識の有無である。他にもありえる。
(6) なんにしても、その基準が特別扱いにしている「人」とそれ以外の存在者との扱いを変える理由になるなら、その基準は人間以外の存在者にも適用されるべきだ。
パーソン論というのはけっきょく特別扱いする対象とそうでない対象の違いはいったいなんなのか、ということを問題にしているわけなので、いずれにしてもなんらかの「線引き」や「排除」の理屈ということになります。これは正しい。
しかしそれが自分勝手だとかっていうことにはかならずしもならない。誰もがある基準で特別扱いする基準を提唱することができます。たとえば「白人」だとか「日本人」だとか「男性」だとかそういうのを挙げてよろしい。しかし「白人」「日本人」「男性」なんてのがちゃんとした区別の理由になるかどうかかはあやしい。同じように「人間ホモサピエンスであること」もちゃんとした理由になるのかはあやしい。多くのパーソン論者は「自己意識」や「高度な知性」を特別扱いにする理由にしますが、もちろんそれを疑問視してもかまわない。彼らはたんに「自己意識や高度な知性がおそらく基準として妥当だろう、それはなにか人の特別さを示すことになるから」程度のことを考えているわけです。むしろ他によい基準があれば、パーソン論とかやっている人々はよろこんでそれを受け入れるでしょう。つまり「自己意識」や「高度な知性」は単なる提案にすぎません。
もうちょっと詳しく見ると話は変ってきます。「パーソン論」と一括りにされますが、提案されている基準はさまざまなんですね。マイケル・トゥーリー先生の1972年の論文「妊娠中絶と新生児殺し」では、人パーソンを「生命に対する重要な権利を持つ存在」と定義した上で、「生命に対する権利」をもつためには、「自己の生命を維持することに対する欲求」がなければならないはずだ、そしてそのためには「自己の生命を維持すること」やつきつめれば「持続する自己」の概念をもっていなければならないはずだ、というふうに議論がなされます。この議論は多くの倫理学者によって検討された結果、あんまりうまくいってないと考えられてます。
もっと一般的なのはメアリ・アン・ウォレン先生の議論です。これは一般にわれわれが特別扱いにしている「人」はどんな特徴をもっているだろう、として、感覚や欲求、自発性、推論能力、コミュニケーション能力などを列挙して、このうちどれが人であるための重要な条件であるかはわからないが、どれももっていないのであれば我々が考える「人」とはいえないだろう、ぐらいの議論をしています。こっちの方が「パーソン論」としては一般的なやりかたですね。
まあどんなやりかたをしてどんな基準を提案するにしても、もしわれわれが一定の存在者を人として特別扱いしようとするならば、なんらかの基準は必要になります。ウォレン先生みたいなやりかただと、別に自己意識や知性を特別な基準にしなくてもいい。なんでもいいけどとりあえず基準をとってしまえば、それにしたがわねばならない。われわれが日常的にすでにおこなっている特別扱いをする基準はなんであるのかをはっきりさせるのがポイントです。
こうして見ると、それが「切り捨ての思想だ」と非難される必要はなにもないように思えますね。われわれのたいていは人間以外の動物を動物として切り捨てて食べたりしているし、植物や昆虫、細菌や無生物はさらに軽く扱っているわけで、その「切り捨て」の根拠はなんであるのかを考えてみる必要があります。「もしわれわれがある一群の存在者を特別扱いにしようとするのであれば」、なんにしてもそのグループがどういう存在者であるのか、そしてその存在者を特別あつかいをする理由はなにか、っていうのに答える必要があるように思えます。仮にパーソン論が「切り捨ての思想」であるとしても、それが自分の仲間を優先する思想だとか自分勝手な思想だとか言う理由はないように思えます。
森岡先生やその他多くの先生は、「パーソン論を考える人は自分をパーソンだと思っていて、自分たちに有利なように基準を提案している」と主張するわけですが、特にそう考える必要はないように思います。それなら白人哲学者は「白人」、男性哲学者は「男性」とか勝手に他に基準を出すこともできるわけですからね。なぜ「自己意識」や「知性」程度になるのか、それを考えてみることが必要です。それは結局のところ、自己意識や知性をもっていることがその当人の幸福にとって重要だと考えられるから、ということになります。もちろんこれも論証が必要。
まあとにかく「パーソン論は切り捨ての思想だ」みたいなことを言いたい人は、それでは私たちは今現在どういう切り捨てかたをしていて、その根拠はなんであるのかを考えてみる必要があると思います。パーソン論にあるていどコミットしている人は少なくともそれは考えているはずです。
でもこれじゃおそらく上のような誤解というか疑問をもつ人に対して根本的な答にはなってないですね。そういう解釈のいちばん深い疑問に答えてない。もう少し考えます。今回は失敗。すみませんすみません。

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