小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』

小谷野敦先生は私が敬愛する人の一人。おもしろいことを色々書いていらっしゃる。共感するところも多い。一回は御著書についてなんか書いてみてかった。死刑の問題については最近興味があるので読んでみよう。

それは対偶ではないですよ。

・・・これを、当為命題の形で言うなら「何の罪もない人を殺してはいけない」になるだろう。しかし、それと同値である対偶命題は、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」になる。(p.9)

対偶関係ってのは、「P⊃Q」に対して「¬Q⊃¬P」。当為がはいっているやつは面倒なときがあるのかもしれないが、面倒なのでとりあえず単純に「Xには何も罪がない」をP、「Xを殺してはいけない」をQとすると、対偶の¬Qは「Xを殺してはいけないわけではない」、¬Pは「Xには何の罪がないわけではない」。だから、対偶は「Xを殺してはいけないわけではないのならば、Xには何の罪もないわけではない。」もうちょっと日常語に近くすると、「Xを殺してよいならばXにはなんか罪がある」ぐらいか。(正確じゃないけど)

「罪のある人は、殺してもいい場合がある」はPとQで書きなおすと、・・・ええと・・・頭悪いからわからん。これ否定がはいってるからなおさら面倒なんだな。

もっと正確にするために「Xには罪がある」をR、「Xを殺してよい」をSとすると、もとの「何の罪もない人を殺してはいけない」は¬R⊃¬S。対偶は¬¬S⊃¬¬R。「Xを殺してよいわけではないわけではない」ならば「Xには罪があるわけではないわけではない。二重否定はふつう肯定にしてよいので、S⊃R。「Xを殺してよい」ならば「Xには罪がある。」。

ふむ、やっぱり小谷野先生のは対偶命題じゃない。「何の罪もない人は殺してはいけない」と主張する人が、「罪のある人も殺してはいけない」と主張してもなにも矛盾はないし。

小谷野先生は鋭い視点が売りなんだけど、論理的な推論が苦手のようで時々
気になるんだよな。これは本論いきなり2ページ目だったからとてつもなく
目についてしまう。三浦先生とは知り合いのようだから『論理トレーニング』ぐらいは読んだのかな。

まあ小谷野先生の名誉のために言っておけば、この文章のつづき

・・人々は、「何の罪もない人々を殺傷し」とテロリストや殺人者を非難する時、暗に、というよりはっきりと、「罪のある者は、場合によっては殺してもいい」ということを認めているのだ。

ってのはほぼ正しいだろう。(しかしこれは論理的な含意ではない)ここらへんの論理関係はたしかに素人には直観に反するので理解しにくいのだ。でも「対偶」とかって言葉を使うひとはちゃんと勉強しとかなきゃならん。

 

死刑制度の変遷

p.9-24あたりの歴史的叙述はおもしろいなあ。いろいろ知らなかったことが
書かれている。小谷野先生はこういうのがすばらしい。

ただし、

・・・死刑を廃止したヨーロッパ諸国は、キリスト教国である。キリスト教ならば、「ロマ人への手紙」にある「復讐するは我にあり」、つまり、人が人に復讐するべきではなく、紙の手に委ねるべきだという思想があり、死後、人々は紙の国へ行き、最後の侵犯によって悪人は裁かれる、という「信仰」がある。(p.20)

はどうか。ヨーロッパでも死刑はどうかと思われはじめたのはせいぜい18世紀だろう。ベッカーリアもベンサムも無神論的傾向が強かったはずで、キリスト教と死刑廃止が理論的にどの程度関係があるのはかちゃんと立証してもらいたいところ。

ちなみに当該個所は「ローマ人への手紙」12章19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」あたり。このパウロが引用している言葉がどこから来てるかは未調査。

あとまあ、団藤先生が死刑廃止運動のトップにまつりあげられたのはたしかに廃止派にとってあんまりよくなかったよな。ここらへんの指摘は小谷野先生鋭い。

改心しない悪人

「「嘘つきや卑怯者、乱暴者は、たいてい、悔い改めないまま一生を終わる。最近の社会生物学によれば、こうした性質はほぼ先天的なものだという。」(p.28)かなり大胆な主張だが、小谷野先生にしてめずらしく出典がついていない。私はそういう趣旨のは読んだことないなあ。

復讐、および社会からの排除が、刑罰の意義の中心をなすと私は考える。復讐とは、人類にとって普遍的な心情であり行為なのである。(p.29)

この本の中心的な主張なのだろうが、これがまさに死刑や刑罰に関する論争の中心的論争点だということを小谷野先生はどの程度自覚しているだろうか。

教科書的に言って、復讐心が「人類の普遍的な心情」であることは、死刑肯定派否定派にかかわらず、ほとんどの論者が認めると思う。また、「社会からの排除」は強すぎるが、「犯罪の抑止」が刑罰の主要な目的であることもほとんどの論者が認める。ふつう、「抑止」は、犯人の再発を防ぐ「特殊予防」と、一般の人々の同様の犯罪を防ぐ「一般予防」の二つに分けられ、「特殊予防」は教育、匡正、威嚇、隔離など、一般予防はいわゆる見せしめってことになる。ここらへんまではどういう人でも力点の差はあってもほとんどの人が認めると思う。

しかし、「復讐」が(国家による)刑罰の意義(「目的」?)がどうかは議論が分かれる。国家には市民の安全を保証する責務があるのだから犯罪を抑止する必要はあるわけだが、「復讐」を国家が市民にかわって行なう理由があるのかどうか。もちろんあるという主張をする人々は多いし、そのひとびとの多くは国家は被害者から復讐する権利を奪っているのだから、その肩代わりをしなければならないと主張するわけだ。でもその議論は簡単にはいかんので、十分な論証が欲しいところ。

小谷野先生は上の文章に続いて、「人はそれを野蛮だと言うのだろうか。」と書くのだが、野蛮かどうかではなく国家の機能がどうかという話をしてほしかったところ。

「遺族」は被害者の代理たりうるか

団藤も、多くの論者は、死刑廃止への反対論は、被害者遺族の感情を基礎としている、と言う。けれど、では被害者当人の報復感情はどうなるのか。誰も、死んでしまった者にそれを尋ねることはできない。しかし、彼に殺された当人の気持ちを尋ねれば、もしかすると天国にいてすべてを許す気になっているかもしれないが、遺族より遥かに強烈な復讐心を抱いているかもしれない。(pp.30-31)

小谷野先生は基本的に経験的に立証できることを重視して、こういう実証も反証もできないようなことは言わない人だという印象があったのだが。
筆がすべった?

まあどうでもよいことだが、私自身が近親縁者を殺されたら自分で殺しに行くですけどね。でもそれが国家がやるべきことなのかどうかはわからん。そしてそれは被害者本人の感情とはなんの関係もないかもしれんなあ。

この文脈で出てくるのが、小谷野先生のかなりオリジナルな主張だ。

「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。(p.33)

これをどう解釈するかはかなり難しい。ひとつの解釈は、復讐行為を行なう人々の心理的事実として、彼らは「自分の感情の満足のためではなく、被害者のためにやっているのだ」と感じている、というもの。これはおそらく事実として正しい。上で私は「被害者本人の感情とはなんの関係もないかも」と書いたのは、客観的に見ればかなり異常で、ふつうは「彼の(彼女の)恨みをはらす」という形になるだろう。

しかし小谷野先生はこれを「行なわれるべき」だと書く。この「べき」はどこから来ているのか。なぜ被害者(の感情)を代理すしなければならないのか。また、死者の感情ってのをどう考えるべきだと小谷野先生は考えているのか。そういうものが存在するのかどうか。そして復讐が成功したとしても、それによって
(あると主張されている)死者の感情になんらかの変化が生じるのかどうか。復讐が成功したかどうかは(おそらく)死者は知りえないだろうし。もちろん死者が天国からこの世界を見ていれば別だが、そういう形而上学的な主張にコミットしないと小谷野先生の主張は出てこないように見えるが、それでもOKなのかどうか。

ここから小谷野先生はさらにオリジナルな主張に進む。正直おもしろい。

私が「仇討ち制度」復活に賛同しかねるのは、実現の困難以上に、この理由による。呉は、仇討ちの権利を個人から国家が奪ったというが、逆に言うならば、仇を討ってくれるような家族がいない者(殺された者)にも、国家が代わって復讐する権利を与えたとも言えるのである。(p.33)

なんかよくわからんがすばらしい。そういう孤立した人間に思いを馳せることができるのが小谷野先生のすばらしいところ、私はそういうところが好きなんだなと確認。

残りの部分

残りの部分は国内のだめな廃止論者の論評とかフィクションの論評とかそういうの。それなりにおもしろいけど特に感じるところなし。

全体として、小谷野先生が「復讐」に注目しているのはよいのだが、それと国家の関係がよくわからんので死刑についての議論としてはあんまりおもしろくなかった。でもまあこんなものかな。団藤先生流の方針じゃない廃止論を誰かが紹介してくれればいいんだけどなあ。

復讐感情については、「死者の感情」とか解釈に苦しむものを導入しなくても、J.S.ミルの議論(ex. 『功利主義論』の第4章とか)にある「共感」とか参考にすれば、もうちょっとまともなことが言えそうな気がするんだが。「われわれは動物と共通に危害を加えられたらそれに報復する感情をもっていて、さらに人間は動物より拡大された共感の能力によって、共同体の仲間に加えられた危害についても同じような報復の感情を抱く」とかそういう感じ。まあ小谷野先生はそこらへんはあんまり興味ないかもしれない。

あと、まああれだ。小谷野先生が悪人はある程度先天的に決まってるとか更生させるのは難しいとかってほのめかしているのはどうなんかな。別にいいんだけど、私だってヤノマモ族のような環境に生まれてたら人の一人や二人は殺したろうし、場合によっては強姦とかもするだろうし。まあ反社会的な人々がいるってのはもちろん認めるけど。わからん。

 


小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』」への4件のフィードバック

  1. tn

    ついでに、毎年数千件発生している殺人事件の中で、死刑になるのはごくごく例外的(数件)ですし、数人殺しても、死刑は一回しかできない。「目には目」的「応報」は、実際にはフィクションでしかありえないのです。

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  2. tn

    >「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。

    親殺しor子殺しの「被害者」って一体誰でしょうね。

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  3. tn

    アムネスティが日本の死刑についてレポートを出したようです。http://web.amnesty.org/library/Index/ENGASA220062006

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  4. tn

    早稲田大法学部の水島朝穂教授が、死刑制度についてご自分のHPにエッセイ(3回連続)を書いています。

    http://www.asaho.com/jpn/index.html
    の最新のと、前のは「バックナンバー」で読めます。ちなみに「ふたつの第9条」とはもちろん一つは憲法で、もう一つは刑罰の種類を定めた刑法です。

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