伊藤公雄先生の『男性学入門』

 

ISBN:4878932589。1996年。2005年10月には第10刷。売れてる。

p. 164からマーガレット・ミードのニューギニアでの研究があげられていて、ニューギニアのような狭い地域でも集団文化によって男女の性役割がずいぶん違うよ、ということの論証に使われているのだが、巻末の参考文献を見てもミードの名前はあがってない。p.165でニューギニアの三つの部族の文化型の表があるのだが、これは井上和子ほか『生き方としての女性論』嵯峨野書院1989(未読)のなかの村田孝次先生のもののようだ(論文のタイトル不明)。

伊藤先生は、

ミードの調査研究は、ぼくたちが「あたりまえ」のように考えてきた、「男というもの」のあり方や「女というもの」のあり方が、文化によって変化しるうということを、しっかりした裏づけをもってうまく証明してくれた」 p. 167

というのだが、ほんとにちゃんとミードの論文読んだのかな。その論文の名前はなんなのだろう。

まあp.361で「さらに詳細な欧文の文献については、拙著『〈男らしさ〉のゆくえ』(新曜社)を参照してください」と書いてあるから、そっちには載ってるのかな。しかしこれ今手に入らないみたいなんだよな。

まあミードの名前を見ると「トンデモ研究では?」とか思う習慣がついてしまってるのはちょっと恥ずかしい。電波とか粘着とか言われてもしょうがないね。

上で書いたことはまちがい。p.195の『読書案内』にちゃんと出ていた。ミードの『男性と女性』東京創元社、1961だ。これは持ってる・・・が見つからん。とにかく伊藤先生ごめんなさい。

・・・『男性と女性』の下巻の方だけとりあえず見つけた。が、この下巻の「付録」では特にジェンダーについては触れられていない。おそらく上巻にあるのだろう。探そう。

というわけで見つけて、ちょっと読んでみる。いまどきミードを読むなんてのは「知の考古学」的な意味しかないような気がするのだが、やむなし。

「アラペシュ族」「モンドグモル族」「チャンプリ族」という比較的近隣に居住していた三つの社会集団の中で、彼女の目には、これらの三つの社会集団の男女関係や男女の役割が、きわめて変わったものに映ったのだ。つまり図表4-2に見れるように、「アラペシュ族」は、ミードにとって、男女ともに「女性的」な社会集団であり、これに対して、「ムンドグモル族」は男女ともに「男性的」であり、「チャンプリ族」にいたっては、男女の役割や〈男らしさ〉〈女らしさ〉の表現スタイルが、まったく男女逆転して見えたのである。 (伊藤 p.166)

と伊藤先生は書いておられる。表4-2というのはさっき書いたように『生き方としての女性論』の表「より」。さて、これの出典はどこか。第二部「肉体のありかた」第6章「性と気質」にありそうだが・・・なかった。んじゃ全部読まなきゃならんのか。

ちなみに、p.165では部族名と居住地域が「アラベッシュ」「ムドグモール」「チャムプリ」になってるけど、『男性と女性』の翻訳ではそれぞれ「アラペシ」「ムンドグモ」「チャムブリ」になってる。どうも伊藤先生は翻訳を参照にしたのではなさそうだ。原書読んだんだ、偉いなあ。

『男性と女性』では、伊藤先生が示唆しているようなニューギニアの「三つ」ではなく、もっと広く南太平洋の七つの部族がとりあげられている。サモア、マヌス、アラペシ、ムンドグモ、チャムプリ、イアトムル、バリ。ミード自身が調査したらしい(それで余計に眉唾だと思ってしまうのがつらいところ)。地図とかついてないのが時代を感じさせる。

気になるのは、チャムブリ族が表では「女性は攻撃的・支配的・保護者的で活発・快活。男性は女性に対し憶病で内気で劣等感を持ち、陰険で疑い深い」とされているところ。出典はどこだ。

だめだ。斜め読みでは見つけられん。伊藤先生の研究は、ミードのインチキ研究(ミードがインチキだってのはもう広く認められていると思うが、今回はそれはまた別の話)を読まずに、名前だけを使ってさらにインチキを重ねたものかもしれないという疑いが出てきてしまった。伊藤先生は「男性学」の権威だし、『男性学入門』は10版を重ねた名著なのだから、インチキではないと思うのだが。そもそも出典をはっきりさせてくれないと調べようがない。まじめに研究してみようと思っても調べようがないのではしょうがない。

こういうのを見ると、ミード『男性と女性』は今ほとんど入手できないから、適当なことを書いているんじゃないかとか悪い憶測をしてしまう。そういうことを思わさせるのがとてつもなく腹たつ。

インチキが横行している学問分野では、先行研究を信頼することができないので先に進めない。どうにかしてくれ。学問は誰かが間違うことによって進歩する。というか、間違いがないと進歩しない。だから間違うことを恐れる必要はまったくない。必要なのは出典を明らかにして、できるかぎりはっきりと発言する学問的誠意だけだ。

しばらく読んだけど、とりあえずチャムブリの話がみつからないのでもうやめにする。時間の無駄。いったい文化人類学のような実証的で新しい学問分野で60年も前の研究を参照にするっていうのはどういうことかとか、伊藤先生にはそういうことを考えてほしい。(見つけた人は教えてください)

こういうのは、小谷野敦先生の言う「鬼首投書」とかそういうやつなんだろうか。

あら

あら、チャンプリの話 http://web.archive.org/web/20161102053544/http://homepage1.nifty.com/1010/hanron.htm とかでとりあげられてるわ。なんかよくわからんが有名だったのね。知らなかった。恥ずかしい。でもこういう右翼反動といっしょにされるのもいやだなあ。どうしたものかなあ。ちょっと前にジョン・マネーの研究の批判とかそういうのがブログ界をさわがしたりしたらしいけど、ある程度しょうがないねえ。単なる「バックラッシュ」「叩き」ととらえるのはやめて、フェミニズムなり女性学なり男性学なりが学問として成熟していく過程と見て一々相手にしていけばいいんじゃないだろうか。たしかに手間がかかるし、実践的な問題が気になっている人々にはそういうのは時間の無駄に見えるかもしれないけど、長い目で見ればちゃんとしておいた方がよい。学問は一歩一歩かたつもりのように進むしかない。誰もがニュートンやアインシュタインになれるわけではないし、彼らのまわりにはほんとうにたくさんの学者たちがいて、バックアップしてたんだから。

あ、昨日おととい性暴力について書いたのに書きそこねたけど、私はバクシーシ山下の『女犯』はリアルなレイプで完全に犯罪を構成してる思ってるので。あれを褒めそやしたらしい宮台や速水はだめだねえ。浅野千恵先生はただしい。バッキーは見たことないから知らないけどおそらく完全な傷害だろう(過失致傷ではないと思う。)

あとフェミニズム全体にはよいところが多いし、学ぶところはたくさんあると思ってるけど、ダメなのも少なくない。特にフェミニズムの周辺的なところにインチキが多いという印象がある。インチキを排除できないアカデミックな集団はダメだ。

はてな

伊藤先生もはてなキーワードになってなくてかわいそうだから、ブレースでくくっておこう。伊藤公雄っと。研究がんばってください。・・・ブレースじゃなくて(二重)ブラケットだった。はずかしいなあ。

ミードその後

その後ミードの上巻を読んでみたが、問題のチャムブリ族が出てくるのはほんとうに少なくてp.126周辺ぐらいなんじゃないだろうか。男はおシャレとダンスが好きで、女が働いてる(魚つりとか)とかそういう話。これで「女と男の性役割が逆転」なんてのはどう見ても書きすぎ。というか伊藤先生ほんとうにこの本読みましたか?ちゃんと注をつけてくれないから半日近く無駄になりました。

それにしてもこの『男性学入門』、セックスの話に一言も触れていないのがすさまじい。2002年の『女性学・男性学―ジェンダー論入門 (有斐閣アルマ)』でもセックスの話はしてないねえ。うーん、まあ「男性学」がセックスや性欲の話しなきゃならんということはないが。まだまだ開拓途上の分野だな。がんばってください。

む、この本でもミードの研究が同じように表にされているぞ! そして今度は「M. ミードの研究による」と書いてあるだけで、どの本かさえ書いてない。

つまり、アラペシュ族では男性も女性も「女性的」に優しい気質をもっており、ムンドグモル族の場合は、逆に、男も女も攻撃的であり、さらにチャンブル族では、男は憶病で衣装に関心が深く絵や彫刻などを好むのに対して、女たちは、頑強で管理的役割を果たし、漁をして獲物を稼ぐなど「男性的」な役割を果たしているというのだ。
このミードの調査は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」が、絶対的なものではなく、文化や社会によって変化すること、つまり男性役割や女性役割が、文化や社会によって作られたものであることを明らかにした点で画期的な研究だった。 (p.9)

 

文献リストもなし。なんじゃこら。ふざけるな。ちなみに部族名はそれぞれ「アラペシュ」「ムンドグモル」「チャンブリ」になってる。あれ、本文ではチャンブルになってる。なんで変えたんだろう? 誤植なんだかなんなんだか、2年で7刷も出してるのに。

チャムブリ族の大人の男たちは物おじしやすく、お互いに警戒心が強く、芸術や芝居に興味を持ち、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっている。感情のゆきちがいはいたるおところで起きるが、それは、イアトムルの男たちのような、自分の一ばん痛いところに挑戦されたのに対してはげしく怒って反応するのと違い、自分が弱くて孤立していると感じているものの不機嫌さなのである。男たちは美しい飾りを身につけ、買いものに出かけるし、彫刻し、絵を描き、踊りをする。・・・ (ミード、『男性と女性』,p.132)

これくらいで、男性と女性の役割が他の文化とおおはばに違うというのは見つからない。彫刻や絵に興味をもつのはたいていの文化で男性だろうし、衣装や化粧も多くの分野で男性優位だし。伊藤先生の表では「1歳以後は育児の担い手は男性」と買いてあるが、ミードの本では該当個所を見つけられない。(たしかに乳幼児の育児を男性が主としてやるならかなり他の文化と違うよな)全体にミードの本は読みにくいし、現在の文化人類学の学問水準には遠くおよばないよな。

デレク・フリーマン本の翻訳が出たあとの2002年にこんな研究持ちだすってのはどういうことなんだろう。うーん、時間の無駄。


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