加藤秀一の性暴力論

昨日加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』を読んでかなりショックを受けたので、ちとメモを残しておく。

ちょっとよく読んでみる。気になった終章の「性/暴力をめぐって」の前に、

ポルノを論じているところ(第3章)でも性暴力の話をしていた。

加藤先生の「暴力」論

p.176で、先生はこう言う。

暴力という観念には単なる物理力以上の、不当な力という価値的な含みがある。・・・人間の肉体に侵襲を加える行為でも、それが行為参加者によって一定のルールに従う合理的行為(医療行為とか愛のムチとかいった)として承認されちるときには暴力ではない」

OK。「暴力」は不当な力だ。ただし物理的な力に限定する必要はないと思う。

しかし次のページ(p.177)は問題がある。

教師が生徒を殴った。・・・これは暴力か否か。行為とその文脈という枠組みだけで考えている限り、この問いに解答を与えることはできない。ここで問われているのは、「殴る」という行為の社会的な意味を決定すべき文脈それ自体の意味づけという、一段高次の論理階型に属する問題だからである。したがって、行為の文脈に対してさらにメタ・レヴェルにある「権力関係」という第三の水準を導入する必要がある。教師の生徒に対する優位が絶対的に保証され正当化されているときには、殴られた当の生徒がいかに不満を抱いても、教師の行為は暴力という社会的意味を付与されることはない。

こういうのを読むと、社会学者ってのはなあ、と思ってしまう。社会学者の多くにとって、「暴力」かそうでないかってのは「社会的意味」でしかない。「社会的意味」ってのをはっきりさせてくれればいいのだが、たいていの社会学者ははっきりさせてくれない。おそらく上の文章の意味は、「*人々*はそれを暴力とはみなさない」っことなんだろうが、この「人々」が誰かわかんないから不満なんだよな。「行為とその文脈という枠組み」で考えて答が出ないのは、加藤先生が「暴力」かどうかを「人々がそれをどう見るか」という記述的な視点からそれを見ようとしているからだ。哲学者から見れば、あるものが「暴力」であるかどうかは、(加藤先生も「不当な」ということでちゃんと理解しているとおり)事実判断ではなく価値判断なのだから、いくら事実に訴えても一義的な答が出ないことがあるかもしれないのは当然のことだ。いくら「権力関係」なるものを視野に入れても、事実から価値判断は直接には出てこない。(もちろん道徳的実在論をとるひとは別かもしれないが、少なくとも哲学者はこんなおおざっぱな議論はしない。)

人々があるものをある仕方で意味づける、って事実と、その意味づけが正当かどうかということは別のはずだ。ここに混乱があるように見える。

ある性的行為・・・が性暴力であるか否かを決めるものは、男女間の権力関係でしかありえない。だからこそ、性的行為の意味を誰の視点からとらえるのかという政治的問題が決定的に重要なのだ。(p.177)

「政治的問題」なのか?「政治的」ということでどういうことを言っているのか不明。

・・・フェミニズムの性暴力論の核心は、女性の視点を肯定するところにある。
性暴力とは被害者=女性が望まない総ての性的行為の強制を指す。

ううむ。「性的行為の強制を指す」だけではだめなのか。「女性が望まない」がどうしても必要なのだろうか。まあいいけど。

p.178のペニスの挿入がどうのこうの、というのは正しい。が、

被害者が相手の行為によって不当に傷つけられたと感じるならば、それは紛れもなく性暴力なのである。(p. 178)

はおそらくまちがっている。ある人が「不当に傷つけられた」と感じれば、その人がそれを自分にとって性暴力と認める十分な理由になるかもしれない。しかし、それがただちに「性暴力である」と他の人々も認めなければならないわけではない。正当か不当かの区別は、本人の感覚とは独立に示されなければならないんじゃないの? 誰かが「不当に傷つけられた」と感じ、不快に思うならばそれはぜんぶ性暴力、というのでは、あまりにもインフレだ。たとえばある種のフェミニズムの考え方すら、一部の*女性*にとっても不快で人を傷つけるもののようだが、だからといって大学の必修の授業でフェミニズムをとりあげることが性暴力にあたるわけではない。

なんといっても気になるのは、加藤先生は自分自身が事実判断ではなく、価値判断、規範的判断をしていることをどの程度意識しているのかってことだよな。「当人がいやがれば性暴力なのだ」という判断は、「(性)暴力」が価値判断であるかぎり価値判断で、「当人がいやがる」は事実判断だ*1。加藤先生自身が正しく指摘しているように、「暴力」は「不当」な力であり、「不当」であるかは価値判断なのだから、「傷つけられたと感じる」ことから「それは性暴力だ」と言うことは(直接には)論理的関係ではない。ここには論証が必要だ。

ここまでの議論を承認するならば、いわゆる「差別」と暴力との等根源性も明らかになるだろう。(p. 178)

性暴力をめぐる闘争とは、同時に性差別をめぐる闘争でもある。それどころか男の女に対する性暴力は、性差別という全般的状況の(突出してはいるが)一部分であるに過ぎない。(p. 179)

ぜんぜん明らかではない。加藤先生は「差別」という言葉をどういう意味で使っているんだろうか。加藤先生はわざわざ「*いわゆる*「差別」」とまで表記するのだから、ひとびとが「差別」をどういう意味で使っているかある程度把握しているのではないかと思うが、わたしにはさっぱりわからない。わたしにとっての「いわゆる」差別は、「当の問題について重要ではない特徴をつかってあるグループの人々を選びだし不利益な扱いをすること」のような感じなのだが。単にあるグループの人々をある仕方でとりあつかうのこと自体はこの意味では「差別」ではない。(もちろんもっといろいろな意味はあるのだろうが、加藤先生がどういう意味で使っているのかを知りたい)

差別とは究極的には権力関係であり、徹頭徹尾「社会的」な現象である・・・
人は自分の行為の意味を独りで決めることはできない。したがって厳密には、人は独りでは差別をすることはできないし、反対に独りでは差別をしないこともできない。」(p. 179)

とおっしゃるわけだが、(私の頭が悪いから)よく理解できない。社会的な差別が社会的であるのは当然だと思うのだが。

「差別」は定義していただけてないが、「性差別」の定義はある。

ところで性差別とは何か。詳細に論じる紙数はないが、さしあたり、女性を個人として・人間として認めず、男性に対して〈従属的〉な女性役割に還元することであると定義しておこう。(p.179)

なるほど。定義としては「~認めず」は必要ないような気がするけど。それにこの定義では多くの性差別(たとえば就職における女性差別)が抜けおちると思うが、まあ定義は自由だ。

加藤先生の「性」暴力論

加藤先生は、彦坂諦先生の論文(『男性神話』径書房1991。まだ読んでない)に影響を受けて、性暴力が他の暴力と違うのは被害者の側の「屈辱」にあると見ているようだ。

彦坂諦は、屈辱という言葉を用い、次のように問うている。

なぜ強姦されたことをひとは屈辱と感じるのだろうか。
強姦された女が、私たちのこの社会のこのいまの状況のもとで、そのことを屈辱と感じるのは……私たちのこの社会から、歴史的・文化的にじゅうぶんないわれをもって、それは屈辱であるという見方を押しつかれているからだ。

ここで屈辱という言葉であらわされているものが、「性暴力」から「暴力」を引いた残余である。(p. 326)

おそらく彦坂先生も加藤先生もまちがっている。「性暴力」から「暴力」を引いたら、残るものは侮辱ではなくて性欲だ。性暴力が女性に屈辱を与えることは多いだろうが、屈辱は必要条件ではない。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)
<<

昨日も書いたが、いろいろショッキングな文章だと思う。

「屈辱感」とはどのような感覚か?

まず、「屈辱」とかってのは性犯罪だけなく、一般に犯罪の被害者、もっと広く不当な行為を行なわれた人間にとっては共通の感覚だ。加藤先生はカツアゲされたり道端でおびやかされたりしたことがないのだろうか?私自身はカツアゲされそうになったことはある。もしその犯人に金をとられたら、それは私にとって屈辱的であったろう。暴力的な犯罪の被害者になるということは、まさに自分の弱さを意識させられるということだ。暴力的でない犯罪でも、自分の攻撃されやすさvulnerabilityを意識することになる(犯罪被害の現象学というのはおもしろそうだ)。はっきりとした犯罪でなくても、誰かから騙されたり、操作されたりしたときに我々はひどい屈辱を味わう。たまらん。

「辱める」ってことは

いっぽう、加藤先生が性暴力のポイントと認める「辱める」のはもっと複雑な概念かもしれない。女性を辱めるdishonorするということの裏には、「貞操」や「純潔」が女性の誇りhonorであるというモーツアルト時代の響きが感じられる。わたしには正直なところよくわからん。

ここで私がショックを受けたフレーズが出てくる。

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

私がショックを受けたのは、強調した(strongでかこった)ところ、「でも自分も少しは感じたんじゃないの?」だ。この文脈で出てくるのはほんとうにショッキング。

なにがショッキングかといって、女性が強姦その他によって「快楽を味わう」ことがこの文脈で出てくるとは予想してなかったらからだ。しかし、これは加藤先生の言う「辱める」ことの最も重要なポイントなのだ。

たとえばわれわれは、人を殴って辱めることはできない。金を奪っても辱めることはできない。それらは外的な事件であり、本人の「誇りhonor」とは無縁のことだ。運が悪かっただけ。この意味では、われわれはどんな不正な目にあっても傷つくことはない。

哲学とか好きな人のために書いておけば、ソクラテスは不正なことをされても自分が不正なことをしなければ魂が悪くなることはないと言ったし、ウィトゲンシュタインは「確実性について」で同様のことを主張している。

しかし、ある考え方によれば、不本意でも、性的な快楽を味わってしまうことは、そのひとをその行為に対して共犯関係におくことになるらしい。これは馬鹿げた考え方で、まさにレイピストの発想だ。われわれはいくらおいしいものでも無理やり口に入れられたくない。(しばらく前に山形浩生先生について書いたときのフランクファートの一階の欲求と二階の欲求の区別、あるいは欲求のアイデンティフィケーションの話がここらへんで効いてくる。)

もちろん、加藤先生は、そういう「一般社会の考え」を自分なりに構成して書いただけで、そういう発想に彼自身はコミットしていないと言うだろう。しかし、彼の発想では、社会がどう思うかがすべてを決定してしまうように見える(私の誤解だと思うが)。

田村公江先生の『性の倫理学』(丸善株式会社、2004)という本では、非常に大胆な発言がある。

筆者は高校生のときに通学電車の中で痴漢にあったことがある。満員電車の中で立ったまま眠っていたきに、おっぱいを触られていたのだ。うとうとしながら、なんだか気持ちよくなっていた。」「快感を感じた=本人にとっていやなことではなかった」、だから痴漢は悪いことではなかった、と言えるのだろうか。答はノーである。性的な快感を呼び起こす身体接触を受け入れることに関して、筆者は同意を求められていなかったからである。快感を感じたからといって、同意があったと事後的に言うことはできない。

これは痴漢体験が被害者に身体的な快楽をもたらすことがあるという非常に勇気のある発言で(アカデミックな文脈では空前絶後で、これが唯一)、その正直さにまったく敬服する。しかし、田村先生が指摘しているように、そういう快楽と性暴力の不正さはまったく関係がないのだ。

うーん、やっぱりうまく表現できない。加藤先生が、「少しは感じたんじゃないの?」という見方が「彼女の存在そのものの否定に等しい」と言うときに、いったい加藤先生自身が何を考えているかが問題なのだと思う。たしかに「感じたんじゃないの?」という考え方はその女性を単なる性的なオブジェクトに貶めるものかもしれない。しかしそれはその発想がおかしいんであって、その性的暴行そのものではない。性的暴行そのものの不正さは、「社会の見方」とは独立のはずだ。そうでなければ、社会がOKと言えば性的暴行もOKということになってしまう。

その女性が「汚れ」にされるとすれば、それはそういう見方が汚れにするのであって、性暴力そのものがそうするのではない。この性暴力そのものと、性暴力にあった人に対する社会の見方が、加藤先生のなかではさっぱり区別がついていないように読めるのだ。

私がショックを感じたのは、加藤先生がそういう「汚れ」意識を内面化してしまっているところにあるんだと思う。もちろん、ただの例として構成したものなんだろうけど。

辱めることと男性的性欲

さらにつめてみると、たしかに加藤先生の言う女性を「辱める」ことと、強制的に快楽を味わせることの間には概念的な関係があるように見える。男性的なセクシュアリティにとって、快楽を強制的に味わせることは、たしかに相手の女性を辱めることなのかもしれない。そしてある種の人々にとって、快楽を強制することが、女性に対する性暴力のポイントかもしれないと思う。女性を単なるオブジェクトとするだけでは、十分女性を辱めたことにはならない。上で書いたように、どんな不正な目にあっても、誇りを失なわないことは(理論的には)可能だ。誇りを失なわせ、屈服させるには、相手を権力関係を同意させなければならない。その手段のひとつが快楽だ。松浦理英子が「嘲笑せよ」と主張したのは正しい。たんなる物理的な暴力では人を屈服させることはできない。快楽なり欲求なり、被害者がそれを認めることが必要なのだ。そういうわけで、加藤先生は、男性的な性欲のなかにある「辱める」ことと「快楽」との間の関係を正しく見ているのだが、十分それを自覚しているかどうかはわからない。

これがおそらく加藤先生の不用意な文章を読んで私が感じたショックの本質だ。おそらく女性のほとんどは、友達が痴漢されたり強姦されたりしたときに、「感じた」かどうかは問題に無関係だと思うだろう。というか、「感じた」かどうかを発想さえしないだろう(「今日電車で痴漢にあって腹たつ!」「で、感じた?」とかって会話はありえない)。しかし加藤先生のような女性の視点にかなり近い人でさえ「感じた」かどうかが問題になるかもしれないというところが私にとってショックだったんだろうと思う。男性のセクシュアリティにはまだまだ謎が多く、加藤先生のように最も明晰で自覚的なひとでさえバイアスから逃がれることは難しい。

まあもうずいぶん前の本だから加藤先生の考え方は変わっているかもしれなし、もうこういう不用意な表現はしないだろう。ここらへんの問題について最近の見解を読んでみたいものだ。

うーん、だめだ。頭悪い。もうちょっと言うべきことがあるような気がする。また明日。

*1:「いやがる」「不快に感じる」「傷つけられたと感じる」のは心理的事実。ここは混同しやすいので注意が必要。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。