『不安の概念』(13) 不安は可能性の可能性として自由の現実性であーる

 

まあもう飽きてきました。きりがないしねえ。でももうちょっとだけね。

 

「私は不安が恐怖やそれに似た諸概念とはまったく異なったものであることに注意を促したいと思う。それらの概念は何かある特定のものに結びついているが、不安の方は可能性にとっての可能性として、自由の現実性である。動物に不安が見られないのもそのためで、これは動物がその自然性において、精神としては規定されていないからである。」

ここはものすごく有名な一節ですね。はっきりした対象をもつ恐怖と、対象がなんだかわからない不安とは違います。これはOK。問題は、「可能性にとっての可能性として自由の現実性である」で、これまともに解釈しているのはあんまり見たことない気がする。『不安の概念』に関する論文集を見直せばなんかあるかもしれんけど、ねえ。原文は”… medens Angest er Frihedens Virkelighed som Mulighed for Muligheden” / “whereas anxiety is freedom’s actuality as the possibility of possibility”。デンマーク語の前置詞forは、当然ものすごく意味が広くて(英語のforにもbeforeにもofにもtowardにも対応する)、これだけじゃなんだかわからん、ってのが普通だと思います。わかるのが異常。私はほぼあきらめ。他みるしかない。

しかしここのFriheden/ 定冠詞つきfreedomの意味は気になる。ていうのは、キェルケゴールが「自由」ってのをどういう意味で使っているかっていう疑問が、実はこの一連のエントリを書き始めたきっかけなのよね。まあ早い話がこの前の会合の発表でキェルケゴールの「自由」ってのが問題になったんだけど、発表者の言う「なんでもできる自由」はキェルケゴールの(『不安の概念』での)「自由」の意味とはちがうんちゃうか、と。

自由っていうと、バーリン先生の二つの「自由」概念の話が思い浮かびますわね。それは(1)消極的自由、つまり強制されてない、なにかを選択できるっていう自由と、(2)積極的自由、つまり自分が本来なすべきことを望みそれをおこなう自由、の二つね。アナクロニズムなんだけど、こういう捉え方をした場合、キェルケゴールが自由というときにかんがえているのはどっちかっていう問いは実は重要なんちゃうかなと思うわけです。そして、『あれか/これか』から『死に至る病』に至るまで、キェルケゴールの用語法では自由は積極的自由の意味、各種の悪しき欲望の影響から離れて正しいことを行う自由なんちゃうかと思っているわけです。まあこれを言うためには相当の準備が必要なんだけど、いまのところ私はそう思ってる。

んでそういう味方からすると、この「不安は、可能性の可能性として自由の現実性だ」っていう謎文は、「本来自由である人間、つまり、正しいことを行うことを欲するべきである人間が、無垢のぼんやりした意識でいるというその無垢な現実の状態では、「〜すべからず」という禁止によってぼんやり自覚される、そもそも正しいのも正しくないもの選択すること(可能性)ができてしまうかもしれない(可能性)ってのが不安の理由なのだ」ぐらいに読むんちゃうかなと思ってるわけです。しかしこれは読み過ぎかもしれない、っていうか読み過ぎだろう。でもこういうふうになんらかの解釈の決定をして読んでいかないと、なにもわからないか、あるいはキェルケゴールのオウム返ししかすることができなくなると思うんですわ。つらい。

最後の動物の話はわけわからんね。犬や猫だって不安そうにしているときはあるわけだから、動物を見たことがないか、あるいはキェルケゴールが考えている不安がそうした観察可能なものとはぜんぜん違うかどっちか、あるいは両方。両方ではないか。

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。