『不安の概念』(12) なにができるかわからず不安です

今日もちょっと写経してみる。夏の午前中はいいですなあ。第1章第5節ね。

不安は夢見つつある精神の規定であり、そのようなものとしては心理学に属する。

また「規定」と「精神」が出てきた。まあ「精神」ってのはとりあえず自己反省する意識とかそういうのであり、「規定」ってのはその特徴である、ぐらいで許して。

目覚めている時、私自身と私でないものとのあいだには区別があるが、眠っているときにはこの区別は中断され、夢見ているとき区別は暗示された無となる。

起きてるときと寝てる時の話はいいですよね。問題は、「夢見ている」とき、あんまり意識がはっきりしてないときね。田淵訳で「暗示された無」って約されているのは antydet Intet、intimidated nothing。ほのめされている無。まあこの「無」がもちろんわからんのですが、その主観にとっては、その存在そのものを含めてなんだかわからないもの、って感じに読んでよいのではないか。たとえば「エッチなマンガは読んではいけません」ってなことを言われた時、「エッチな」も「マンガ」も知らなければその命令が何であるのは当人はわからない。とりあえず「エッチなマンガ」という読んではいかんものがある、ぐらいしかわからん。それはおそろしいものであるけど当人には無。

 

精神の現実性は、たえずみずからの可能性をおびきよせる姿として現れる。しかし精神が可能性をとらえようとするやいなやそれはのがれ去る。

こういう「現実性」もよくわからんですよねえ。もうほとんどお手上げ。「精神」Aanden/the spiriには定冠詞がついてるんだけど(デンマーク語では名詞のケツにつく)、これが「その精神=その夢見ている精神」なのか、「精神ってものは」なのかもよくわからん。こういう抽象的な文章をじーっと見てると、なんかわかってくるような気分になることもあるんですが(「おう、精神の現実性はみずからの可能性を誘惑するのだな、なるほど」)、実はわからない。まあ提案としては、「われわれが自己反省すると、自分がこれからなにをすることができるかとかってのを考えちゃうもので、それがまさにわれわれの意識がその潜在的能力を発揮しているとき、現実性を獲得している時なのよね」ぐらいに読む。

「でも、あんまり意識がはっきりしてない状態なので、実際になにができるのかって考えようとすると、「夢見る精神」の状態ではなにができるかよくわからない、特に「エッチなマンガを読む」とかってのの「エッチな」がわからない場合には具体的にそれがなにをすることなのかわからない」ぐらいでどうか。まあ正直なところ、これははエッチなマンガより、たとえば「エッチなマンガ読んでオナニーしてはいかんよ」の方がわかりやすいんちゃうかね。「え?オナニーってなに?それ僕できるの?」みたいな感じ。たいへんすね。まあオナニーじゃなくて、「姦淫するなかれ」でも「女子大生にセクハラするなかれ」でもいいけど、そういうこと言われると、よくわからないままにそれについて考えることになる。こうなると、そのつぎの、

それは不安をかもすにすぎない無である。ただ姿を見せているだけなら、これ以上のことはできない。

はわかるんではないか。

 


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