『不安の概念』(11) 無が不安を生む

わからんのでまず和訳の写経だけしてみる。

この状態(無垢)には平和と安息がある。しかし同時にそこには何か別のものがある。といっても別に不和や争いではない。事実そこには争いの種になるようなものは何もない。ではいったいそれは何だろう?無である。ところで無はどんな働きをするのだろうか?無は不安を生む。無垢が同時に不安であるということ、これが無垢のもつ奥深い秘密である。夢見つつ精神は、自身の現実性を投影するが、しかしこの現実性は無であり、さらに無はみずからの外にたえず無垢を見るのである。

わかりますか?わかりませんね。

まずこの田淵訳は最後のところがよくなくて、英訳だと innocence always sees this nothing outside itselfで、「しかし無垢は自分の外にこの無を見るのである」じゃないとだめ。って書こうとしてデンマーク語確認したら、men dette Intet seer Uskyldigheden bestandig udenfor sigだわ。動詞がseerで、dette Intet (this nothing)とUskyldigheden (innocence)のどっちが主語なのか問題。これ主語と目的語が倒置している可能性は十分にあって、キェルケゴールはそういうのよくやる。どっちも単数なので、動詞の形からでは見分けられない。意味解釈からすれば、「無が見る」とか「無の外部」とかってのが考えにくいから、Thomte先生の英訳の方がやっぱりいいんじゃないかな。じゃないと意味わからん。でもそう読んだからわかるようになるわけでもないけど。-100が-30ぐらいになる感じよね。苦しい。

んでこっから解釈なんですが、この無垢ってのを性的な無垢、性的な無知って考えて、性の目覚めの話だと考えると少しは読めるようになるでしょ、っていうのが私の提案。ていうか、そうじゃないと読めないままだし。

子供は性的に無知だ。したがってわれわれのような汚れた大人のようにエッチなことで頭をいっぱいにすることはないってので平和だ。いいですね。でも、なにか予感がある。でもそれがなにかはわからない。これが「無」。それがなんだかわからないから無なのね。たとえば仮に「ある絵を見るとちんちんがむずむずする感覚がある」みたいなのがあったとして、それがなんだかはわからない。むずむずの感覚さえはっきりとは意識してないかもしれない。自意識があんまりないからとりあえずマンガ読む。でもそういう興奮なりなんなりが、なにか大事なことだという予感はある、そういう状態を想像してみてはどうか。

そのあとも面倒。(夢見つつ)「精神は自身の現実性を投影する」も面倒なんですが、精神(自己反省をもつ意識)は、ふつう自分が理解するところの自分自身を考えたり想像したりするわけだけど、まだ自己意識がはっきりしてないので「夢見つつ」にすぎなくて、自分がなにをしているのか、なにをもとめているのかとかもわからず、想像したり考えたりする自分の姿や活動も「無」。だから無垢な状態の子供は、性的ななにかが自分の外にあることは感じるものの、それははっきりしない無にすぎない。でもなんか不安と欲望を感じるよ、ってな感じでどうか。

udenfor sig selvは「いつも自分の外に」。まだ性的にまったく無知だから、その性欲ってのはなんかよくわからないし、自分のなかにあるわけではない。外に広がっているわけのわからないもの、無。

まあ正直なところ、なにか世界には隠し事がある、なぜパンツやエッチな絵がこんな魅力があるのか、ていう不安はみんな感じたことがあるんじゃないですかね。これだとわかるっしょ。

不安Angestは英語だとanxietyっていう感じで、不安だけどanxious forみたいなのがあることからもわかるようにむずむずして落ち着かない感じを指すんだと思うんよね。この「落ち着かなさ」がこの本のポイントで、恐怖に似た意味での「不安」ではないんだと思う。これもハイデガ先生とかの影響で誤解されているところよねえ。「不安」という日本語はまさにその不安定さを表していていいんだけどさ。「不安神経症」とか不安ではないってことよ。

 

 


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